メッセージ - 201809のエントリ

主日礼拝
私達に出来なかった清めを躊躇なくして下さる聖霊(ローマ8:1-13)

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週報/メッセージ(説教)概要

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 暫くネヘミヤから聖霊の性質を学んでいた。ネヘミヤの名は「神の慰め」という意味で、そのまま聖霊のご性質である。彼が来る前のエルサレムは霊的にも物理的にも荒れ放題だった。霊的指導者のはずの大祭司エルヤシブが、トビヤという汚れた者と結託し、礼拝を疎かにし、神殿にトビヤの私物を置き、民も罪と結託するようになって、神殿で働くべきはずのレビ人は、泣く泣く自分の畑へ逃げ帰った。そこにネヘミヤは来て、トビヤの私物を、聖なる場から放逐して清め、主への捧げ物を回復し、怠慢な指導者達を詰問した。
ネヘミヤによってでなければ汚れた者の占拠状態が改善されなかったのと同様、御霊によってでなければ、私達という神殿のきよめは出来ず、罪の性質も、根付いてしまった汚れたクセも追い出せない。『なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。』(2節) 

肉の頑張りによって肉に刺さった罪に勝とうとしても、無駄なのだ。肉にある者は、律法の要求うを決して全うできないからだ。しかし御霊に従って歩む人は、律法の要求が全うされる、と書いてある。(3-4節)
律法は、人を造り変える事も、永遠のいのちの救いへ導く事も、できない。事実、律法を持っていたイスラエルの歴史は、堕落と災いと、悔い改めと祝福と、また堕落、というサイクルの繰り返しだった。しかし私達は、キリストを信じる信仰によって新しく生まれ、罪と死の法則から解放された。ただしその「生まれ変わり」が実体となって、見える形で表れるのは、聖霊による新生と更新との洗いによって、なのだ。(テトス3:4-6)
ネヘミヤの時代、エルヤシブという肉と罪と結託する者に、人々は泣く泣く従うしかなかったが、ネヘミヤは見事、汚れを一発で除き去り、神殿も民の生活も刷新したのと同様、聖霊は、私達が泣く泣く従うしか無かった罪と死の法則に対抗し、私達にはできない「清め」をして下さる。私達は肉の力では太刀打ちできないが、ネヘミヤ、すなわち、慰め主・聖霊なら、対抗して勝利して下さるのだ!
悪しきものを追い出すのは、聖霊である(マタイ12:28)。聖霊はその人の中で働いて良いわざを為し、悪魔に押さえつけられている人々を癒す(使徒10:38)。いくら肉で力を込めても、奇声で叫んでも、術者のように手を動かしてみても、悪霊は出ていかないし、私達の中の汚れたクセも出ていかない。しかしネヘミヤは躊躇なく悪を出て行かせたのと同じように、聖霊が私達を支配するのであれば、私達の中で場所取りしていた罪や、止められなかった汚れたクセは難なく追い出して下さり、解放のわざを為して下さる。

どうしたら聖霊が与えられるのかは、度々メッセージして来たように「求め、探し、叩く事」(ルカ11:9-13)であるが、本日学ぶべき重要な性質は「従う心」である。『肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊の事を思うからである。』(5節) 教会はキリストの花嫁であり(エペソ5:22-24)、花婿キリストに従う立場にある。
もし自分は花嫁だと主張し、立派に花嫁の格好をしていても、夫に従わず、ただ下さい下さいと言っているだけなら、夫は何かをするだろうか。何時間祈祷しても聖霊が与えられないとするなら、服従する気が元々あったかどうか疑った方がいい。私達は、主人であるキリストの御言葉に従った上で、聖霊を求めるべきだ。
聖霊との関係は「人格的な交わり」、すなわち由意志のある者同士の交わりであり、聖霊の言われる事に聞き従う心を持って歩む人には、主は喜んで聖霊の賜物を増し加えて与えて下さる。聖霊充満とは、聖霊に自分自身を支配させていただく状態なのだ。サウルは一時的に充満だったが、服従する気がさらさら無かったため、聖霊は続けて留まらず、かえって、逆らうことを好む霊、すなわち、悪霊充満になってしまった。
たとえ私達が、肉に負けてしまう事があるとしても、御霊が私達の内に宿っているなら、それによって死ぬべき体をも生かして下さる。御霊は、肉の行いを殺すからである(11-13節)。神殿の中の、汚れたトビヤの私物は、エルヤシブという悪と結託した祭司の支配下にあった人達には、捨てきれなかったが、ネヘミヤはポイポイ捨てた。それと同様に、私達も聖霊に従うなら、私達が罪と結託して手放せなかった汚れたものをも、聖霊はポイポイ捨ててくださる。肉にはできなかった事が、聖霊には出来るからだ!
この素晴らしい聖霊が与えられたいだろうか。そうであるなら、「従順する心構え」を持ちつつ、聖霊が与えられるように「求め、探し、たたく」事を続けるのであるなら、聖霊は必ず与えられる。
聖霊が与えられるなら、今までどうしようも出来なかった罪の問題は、聖霊が解決して下さり、罪の悲しみからますます開放され、御霊の自由にどんどん入り込んで行く事が出来る。そのようにますます御霊にあって歩み、いのちにあって祝福されて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

ダビデはその時代、神の御胸に従って仕え、先祖達の列に加えられた(詩篇18:20-29)
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18:20 主はわたしの義にしたがってわたしに報い、わたしの手の清きにしたがって/わたしに報いかえされました。
18:21 わたしは主の道を守り、悪意をもって、わが神を離れたことがなかったのです、
18:22 そのすべてのおきてはわたしの前にあって、わたしはその定めを捨てたことがなかったのです。
18:23 わたしは主の前に欠けたところがなく、自分を守って罪を犯しませんでした。
18:24 このゆえに主はわたしの義にしたがい、その目の前にわたしの手の清きにしたがって/わたしに報いられました。

ある人は思うかもしれない。
よくもダビデは、「わたしは主の前に欠けた所なく、自らを守って罪を犯さなかった。」などと言えたものだ、と。
ダビデは、この詩篇を書いた時期は、まだサウル王から救われたばかりで、ウリヤとその妻に対しての罪を犯した時ではなかっただろうにしても、事の大小に関わらず、それなりに罪を犯して来たはずだ。

しかしそれは、人間主体の視点である。よく読むと、ダビデは言っている。
『「主は」わたしの義にしたがい、「その(主の)目の前に」わたしの手の清きにしたがって、わたしに報いられました』、と。(24節)
ダビデは、「主の目における義」「主の目にうつる清さ」にしたがって、報いて下さった、と言っているのだ。
大事なのは、人の目にどう写るかではなく、「主」の目にどう写り、どう主から評価されるかである。

永遠の書物である聖書が、ダビデに対して下した評価が、使徒13:36である。

『事実、ダビデは、「?その時代」の人々に「?神のみ旨にしたがって仕えた」が、やがて眠りにつき、「?先祖たちの中に加えられた。」』(使徒13:36)

この箇所を、コーエン大学総長のカン・シンゴン博士は「ダビデの碑文」と言っている。

まず「?その時代(his own generation)」、すなわち、ダビデの生きた世代には、現代の私達には分からない、その時代独自の文化があった。
その時代を背景に、ダビデだけが見聞きした経験があり、ダビデ以外には誰も代われない葛藤があり、そしてダビデ本人以外には誰も主に対して説明できない事情があり、主との関係があった。

人には、時代由来の事情がある。
藁の靴を履いていた時代には、時代特有の困難や罪があったであろうし、それは現代には無い。
同様に、インターネット時代の現代に特有の困難や罪があるが、それは昔には無い。

主は、全人類の分の、人生のはじまりから終わりまでの全ての痕跡も、時代の事情もご存知であるが、決して変わらない主の評価基準がある。
それは、いかなる時代や事情の下に置かれたのであれ、「?神の御胸に従って仕え」ようとして生きる事である。

どんな時代、どんな誘惑、どんな困難にあったとしても、その人が神の目的、計画、御胸、意図に従って生きる事こそ、主の目に高貴な事であり、それによって評価して下さるのだ。
この価値観に従って生きる人が、「?信仰者の先祖へと加えられる」のである。

ダビデは確かに、ウリヤの妻を寝取り、夫ウリヤを策略にかけて殺すという、赦し難い事をした。(2サムエル記11章)
しかし聖書は、「?彼自身の時代(his own generation)」という言葉をもって、ダビデが犯した全ての罪を覆い、「?神の御胸に従って仕え」ようともがきつつ生きたと評価し、そして「?信仰者の先祖へと加えられた」と結論づけた。
アブラハムも、サラも、旧約を見ると、色々と不信仰な事をして来たが、新約においては一切触れられておらず、ただ信仰によって行った偉大な事のみを取り上げ、諸々の過ちは覆われた。

主は私達をも、一人一人の諸々の罪を、「その時代に」という言葉の中へ、そっと埋めてくださり、主の御胸に従って仕えようとしてもがく一人一人を評価し、そして先祖の列に加えて下さるのだ。
あの時代、あの文化、一人の人生が歩んできた、あの人生・・・時代特有のぬかるんだ道、時代特有の間違いを犯してきた人生だっとしても、それでも主は「神のみ旨にしたがって仕えた」事こそ永遠に残して下さるのだ。

18:25 あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、
18:26 清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。

主に対してねじ曲がった考え方をしている者を、主はどうされるか。
イエス様は「ミナのたとえ話」の中で話しておられる。

『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。わたしはそれをふくさに包んで、しまっておきました。あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです。』(ルカ19:20-21)

このしもべは、1ミナという大金を主人から預かっておきながら、自分が働かなかった事を棚に上げ、主人を「あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人」と、真実ではない邪推をし、その邪推を根拠に、主人を「きびしい方」と逆に責め、働かなかった事の言い訳をした。
それに対する主人の評価は次のものだった。

『悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。わたしがきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと、知っているのか。では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに。』(ルカ19:22-23)

このしもべは、こんな主人に対してはわずかな「利息」さえ儲けさせるまい、という心だったため、主人は、彼が「さばいた通りに、さばき返した」のだ
主は、ねじ曲がった者に対しては、ねじ曲げる方である。
それ故、ダビデは言う。

18:27 あなたは苦しんでいる民を救われますが、高ぶる目をひくくされるのです。

これは、ダビデが人生を通して知った、主のご性質である。
主は、主の前にへりくだって自分の罪を言い表し、それを悔い、御前できよく歩もうとする心をこそ、ご覧になられる。

『神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。』(詩篇51:16-17)

18:28 あなたはわたしのともしびをともし、わが神、主はわたしのやみを照されます。
18:29 まことに、わたしはあなたによって敵軍を打ち破り、わが神によって城壁をとび越えることができます。

結局、主に良しも悪しきも全部打ち明け、そのまま等身大で主に飛び込んで行く事こそ、主に愛され、主から助けをいただける性質なのだ。
色々な罪あやまちを犯して来た彼であった。
にも関わらず、彼が主に愛され、守られて来た秘訣は、そこにある。

主は、人の弱さを全部ご存知であり、全人類の弱さを思いやって執り成す大祭司である。

ヘブル4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
 4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
 4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
 
それだからダビデは言うことが出来たのだ。
「このゆえに主はわたしの義にしたがい、その目の前にわたしの手の清きにしたがって/わたしに報いられました。」(24節)

私達もイエス・キリストゆえに大胆に御前に進み出て、おりにかなった助けをいただくものでありたい。

主が天を押し曲げて助けに来て下さる人の性質とは(詩篇18:9-19)
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主はこの宇宙さえも主が創られた偉大なお方であり、宇宙も、この御方をお入れする事が出来ない。
この主と交わりを持てる事は、とてつもない幸いである。
前回の所で、ダビデは、苦しみの中からこの主に助けを叫び求めた所、主は答えて下さる。

18:9 主は「天(シャマイム、複数形)」をたれて下られ、暗やみがその足の下にありました。

宇宙を創られた偉大な主は、諸天を押し曲げて降りてこられた。
天には、三つの種類がある。すなわち、上を見上げると見える天(宇宙)と、暗闇の勢力や悪霊どもが棲む「空中」(エペソ2:2)と、そして、パウロが見てきた「第三の天」(2コリント12:2)すなわち天国である。

主は、主に助けを求める人の叫びを聞くと、この諸天を押し曲げて、降りてこられる。それも、主の敵である暗闇を、足の下に踏みにじって。
闇に囚われ、死に飲み込まれそうな時、助けを呼び求める私達のために主は降りてこられ、闇を踏みにじって下さるのだ。

ダビデはそれまで、色々な敵が現れた。
その敵は、ゴリヤテのように強大あった事もあれば、サウル王のような国家の最高権威だった時もある。
あるいは、アブシャロムのように愛するわが子だった時もあるし、地を満たすほどの大軍団だった事もある。
しかし天地を支配しておられる万軍の主は、それら全てからダビデを助け出された。
それはダビデの専売特許ではなく、全て、主を呼び求める者に対し、その助けを遂行されるのである。
こんなに素晴らしい主が、こんなにちっぽけで取るに足りない自分に関わって下さるとは、なんと恐れ多く、そしてなんと素晴らしい事だろう。

18:10 主はケルブに乗って飛び、風の翼をもってかけり、
18:11 やみをおおいとして、自分のまわりに置き、水を含んだ暗い濃き雲をその幕屋とされました。

ケルブの複数形はケルビムで、この生き物はいつも主のすぐそばに侍り、聖と俗とを区切る者として、あるいは、聖なる領域を、炎をもって守る者としての役割があり(創世記3:24)、また、主を運ぶ役割がある。
『生きものの頭の上に水晶のように輝く大空の形があって、彼らの頭の上に広がっている。大空の下にはまっすぐに伸ばした翼があり、たがいに相連なり、生きものはおのおの二つの翼をもって、からだをおおっている。・・・彼らの頭の上の大空の上に、サファイヤのような位の形があった。またその位の形の上に、人の姿のような形があった。・・・そしてその腰とみえる所の上の方に、火の形のような光る青銅の色のものが、これを囲んでいるのを見た。わたしはその腰とみえる所の下の方に、火のようなものを見た。そして彼のまわりに輝きがあった。そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。主の栄光の形のさまは、このようであった。』(Eze1:22-28)

このケルビムの凄まじい性質がエゼキエル書にある。
1:22 生きものの頭の上に水晶のように輝く大空の形があって、彼らの頭の上に広がっている。、
1:23 大空の下にはまっすぐに伸ばした翼があり、たがいに相連なり、生きものはおのおの二つの翼をもって、からだをおおっている。
1:24 その行く時、わたしは大水の声、全能者の声のような翼の声を聞いた。その声の響きは大軍の声のようで、そのとどまる時は翼をたれる。
1:25 また彼らの頭の上の大空から声があった。彼らが立ちとどまる時は翼をおろした。
1:26 彼らの頭の上の大空の上に、サファイヤのような位の形があった。またその位の形の上に、人の姿のような形があった。
1:27 そしてその腰とみえる所の上の方に、火の形のような光る青銅の色のものが、これを囲んでいるのを見た。わたしはその腰とみえる所の下の方に、火のようなものを見た。そして彼のまわりに輝きがあった。
1:28 そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。主の栄光の形のさまは、このようであった。わたしはこれを見て、わたしの顔をふせたとき、語る者の声を聞いた。
2:1 彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。

ケルビムの有様は、ただでさえ恐ろしいのに、それを乗り物とし、エゼキエルが見ることも出来ない程、遠大な上方から語られる主のあり様は、なんと恐ろしい事だろう。
そしてこの主が、天を押し曲げて、呼び求める主の聖徒達のために降りてこられるとは、なんと驚くべき事、なんと凄まじい恵みだろうか。

18:12 そのみ前の輝きから濃き雲を破って、ひょうと燃える炭とが降ってきました。
18:13 主はまた天に雷をとどろかせ、いと高き者がみ声を出されると、ひょうと燃える炭とが降ってきました。
18:14 主は矢を放って彼らを散らし、いなずまをひらめかして彼らを打ち敗られました。

主は、主の敵に、ひょうと燃える炭を降らせ、いなずまを落とし、数えきれないような海の砂のような数の敵に対しても、いなずまでかき乱された。
主は火も水も操作し、大地を動かし、天を押し曲げ、物理法則をも押し曲げ、助けてて下さった。
このように主は、ダビデのみならず、私達を含めた、全ての主を畏れ敬う人達、主に助けを呼び求める人達を、自然界のあらゆる事象を動かし、助け出して下さるのだ。

18:15 主よ、そのとき、あなたのとがめと、あなたの鼻のいぶきとによって、海の底はあらわれ、地の基があらわになったのです。

主が風を送られると、海は右左に壁となって立ち、神の民にはその間を渡らせ、神の民を追い迫ってきたエジプト軍には、水の壁をその前に砕かせ、彼らを水中へと沈めさせた。(出エジプト記14章)
主のいぶき、これは人にいのちを与え(創世記2:7)、死の大水を過ぎ去らせ、全地を覆った洪水の水をも乾かす。(創世記8:1)
悪者は、まさに主の息吹が吹き飛ばすもみがら、しかし、実がある人を、主はその御蔵に納めて下さる。

18:16 主は高い所からみ手を伸べて、わたしを捕え、大水からわたしを引きあげ、
18:17 わたしの強い敵と、わたしを憎む者とから/わたしを助け出されました。彼らはわたしにまさって強かったからです。
18:18 彼らはわたしの災の日にわたしを襲いました。しかし主はわたしのささえとなられました。

主はなぜ、ダビデを特別扱いし、彼を「ひいき」にされたのだろうか。
一体主は、どのような人を喜び、ダビデのように「ひいき」にされるのだろうか。

詩篇147:8 主は雲をもって天をおおい、地のために雨を備え、もろもろの山に草をはえさせ、
147:9 食物を獣に与え、また鳴く小がらすに与えられる。
147:10 主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。
147:11 主はおのれを恐れる者と/そのいつくしみを望む者とをよみせられる。

主が喜びとされるのは、主を恐れる者と、そのいつくしみを望む者である事が書いてある。ダビデはまさにその性質だった。
主は、呼び求める者に、喜んで答えて下さる。
小がらすが、食物を下さい、と主に向かって鳴くなら、主は与えて下さる。
そうであるなら、ましてや主を呼び求める民に、どうして主は答えてくださらない事があるだろうか。

18:19 主はわたしを広い所につれ出し、わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました。

主はダビデを、広い所へ、連れ出して下さった。
広い所、それは、全て主と共に歩む人に与えて下さる土地である。

創世記26:22 イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、彼らはこれを争わなかったので、その名をレホボテと名づけて言った、「いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」。
26:23 彼はそこからベエルシバに上った。
26:24 その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。
26:25 それで彼はその所に祭壇を築いて、主の名を呼び、そこに天幕を張った。またイサクのしもべたちはそこに一つの井戸を掘った。

主はイサクにも広い所を与えられ、安心して産んで増えて地に満ちていける場所を備えて下さった。

主は、呼び求める者を、喜んで下さる。
私達も、イエス・キリストを信じる信仰によって、栄光の神の子とされたのだから、おりにかなった助けを得るために、はばかる事なく大胆に進み出て、必要な全ての助けを頂く事ができるのだ。

最も偉大な王さえも卑怯な殺人鬼へ速やかに転落させてしまう「闇の選択」を続ける事(2サムエル記11:6-15)
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2サムエル記11:6 そこでダビデはヨアブに、「ヘテびとウリヤをわたしの所につかわせ」と言ってやったので、ヨアブはウリヤをダビデの所につかわした。
11:7 ウリヤがダビデの所にきたので、ダビデは、ヨアブはどうしているか、民はどうしているか、戦いはうまくいっているかとたずねた。
11:8 そしてダビデはウリヤに言った、「あなたの家に行って、足を洗いなさい」。ウリヤは王の家を出ていったが、王の贈り物が彼の後に従った。
11:9 しかしウリヤは王の家の入口で主君の家来たちと共に寝て、自分の家に帰らなかった。

ルカ12:2 おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
12:3 だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。

2サムエル記11:10 人々がダビデに、「ウリヤは自分の家に帰りませんでした」と告げたので、ダビデはウリヤに言った、「旅から帰ってきたのではないか。どうして家に帰らなかったのか」。
11:11 ウリヤはダビデに言った、「神の箱も、イスラエルも、ユダも、小屋の中に住み、わたしの主人ヨアブと、わが主君の家来たちが野のおもてに陣を取っているのに、わたしはどうして家に帰って食い飲みし、妻と寝ることができましょう。あなたは生きておられます。あなたの魂は生きています。わたしはこの事をいたしません」。

ヨハネ3:20 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
3:21 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。

2サムエル記11:12 ダビデはウリヤに言った、「きょうも、ここにとどまりなさい。わたしはあす、あなたを去らせましょう」。そこでウリヤはその日と次の日エルサレムにとどまった。
11:13 ダビデは彼を招いて自分の前で食い飲みさせ、彼を酔わせた。夕暮になって彼は出ていって、その床に、主君の家来たちと共に寝た。そして自分の家には下って行かなかった。

ヘブル4:9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。
4:10 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。
4:11 したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。
4:12 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
4:13 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。

2サムエル記11:14 朝になってダビデはヨアブにあてた手紙を書き、ウリヤの手に託してそれを送った。
11:15 彼はその手紙に、「あなたがたはウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼の後から退いて、彼を討死させよ」と書いた。

箴言28:13 その罪を隠す者は栄えることがない、言い表わしてこれを離れる者は、あわれみをうける。
28:14 常に主を恐れる人はさいわいである、心をかたくなにする者は災に陥る。
28:15 貧しい民を治める悪いつかさは、ほえるしし、または飢えたくまのようだ。
28:16 悟りのないつかさは残忍な圧制者である、不正の利を憎む者は長命を得る。
28:17 人を殺してその血を身に負う者は死ぬまで、のがれびとである、だれもこれを助けてはならない。
28:18 正しく歩む者は救を得、曲った道に歩む者は穴に陥る。
 

神の御心は、私達がきよくなる事(1テサロニケ4:1-8)
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1テサロニケ4:1 最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。
4:2 わたしたちがどういう教を主イエスによって与えたか、あなたがたはよく知っている。

レビ記19:2 「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。

4:3 神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、
4:4 各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、

エペソ1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

4:5 神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、
4:6 また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。前にもあなたがたにきびしく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて、報いをなさるからである。

1ヨハネ2:1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。

4:7 神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。
4:8 こういうわけであるから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜わる神を拒むのである。

コロサイ1:28 わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。
1:29 わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。

主を「わが主」とするダビデと私達(詩篇18:1-8)
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詩篇18篇表題: 聖歌隊の指揮者によってうたわせた主のしもべダビデの歌、すなわち主がもろもろのあだの手とサウルの手から救い出された日にダビデはこの歌の言葉を主にむかって述べて言った
18:1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。

この詩篇18篇は、第二サムエル記22章とほぼ内容が同じである。
この第二サムエル記22章の前後には、ダビデの人生の総まとめ的な記述が記されており、すぐ後の23章には、ダビデの最後の言葉も記されている。
ダビデ記と言っても良いサムエル記が終わろうとしているこの箇所の、ダビデの人生の総まとめ的な場面で、数多あるダビデ作の詩篇の中から、唯一抜擢されたこの詩篇18篇は、まさに、ダビデの人生全体を表す象徴的な詩と言って良いだろう。

ダビデは、サウルの他、内から外から迫り来る敵と相対する都度、彼は主に助けを求め、主はその都度、助けて下さった。
彼の人生の諸々の場面場面で助けて下さった主が、どのようなお方であるか、ダビデは次のように多用に表現している。

18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。

ダビデがサウルの手から救われたのは、彼が三十歳の時だった。しかしそれ以降、彼の王としての四十年間も、「もろもろの敵」が彼の前に立ちはだかった。
ペリシテ人などの外敵はもちろん、自国民から沸き起こる政敵、親しい友や肉親からの突然の敵対もあったし、そして悪魔からの誘惑もあった。
それら、内から外から迫り来る敵と相対する都度、彼は主に助けを求めた。そして主は、その都度、助けて下さった。

ダビデの人生の中で、様々な敵が立ちはだかる都度、彼は主を土台石とし、城とし、あるいは盾とし、そのように、主により頼む事と主から助けをいただく事とを繰り返して行った。
そして彼は、これら一つ一つの主のご性質に、「わが・・・」「わたしの・・・」と、彼自身の主とのプライベートな関係を宣言している。

しかしこの、主が「わが岩」「わが救い」である事は、何も、ダビデだけの専売特許ではない。
「わたしのもの」という宣言を私達もするなら、主のそれらのご性質は私達のものとなり、そして主は、「わたしの主」「わたしの神」となって下さる。

トマスは、自分の頑なさや不信仰の深みにあった時、イエス様は天を押し曲げて降りて来てくださり、彼に直接関わって下さった。
信じないトマスに現れ、あの痛々しい十字架の釘跡が空いた御手を差し伸べ、「あなたの指をここに差し入れなさい」と言って下さった。
それで彼は「わたしの主、わたしの神」とイエス様に答えた。(ヨハネ20:28)
一体主は、幾千、幾万、幾億の、救いを求める人々に、個人的に現れてくださり、彼らを救ってくださり、なんと多くの人々が、イエス様を「わたしの主、わたしの神」と呼んだだろうか。
やがて後に、彼らは、ダビデやトマスの他、あらゆる「わたしの主」と告白した者達と共に、天において現れ、共に主を礼拝する日が来る。

黙示録7:9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、
7:10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と/小羊からきたる」。
7:11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、
7:12 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。

それ故、ダビデは主を、ほめまつるべき主と呼んで、ほめたたえている。

18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。

数多の苦しみと死の危険を通って来て、その都度主を呼び求め救われたダビデは、主を賛美したい心が募るあまり、聖歌隊を編成し、幾つもの詩篇を作って、主に賛美をいくつも捧げさせたのだ。

18:4 死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。
18:5 陰府の綱は、わたしを囲み、死の「わな(モケシュ)」は、わたしに立ちむかいました。

「わな」と訳された語モケシュは、動物を捕らえるための餌、あるいは疑似餌である。
ダビデの敵には、ペリシテ人のように彼を物理攻撃しようとしたものもあれば、彼を甘い誘惑へと誘った、霊的な敵であるサタンもいる。
死が、陰府が、またそこへと誘う罠が、縄のようにダビデにぐるぐる巻きに巻き付いて捕えた時、ダビデはその都度何をしたか。

18:6 わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。

ダビデは、その全ての悩みの内、から、主を呼び求めた。呼び求めると、主はその聖なる宮から、彼の叫び聞いて下さった。
主は、どんな状況の中からでも、主に叫び求める主の民の声を聞いて下さる。
ヨナはなんと、魚の腹の中から、大海原の底から主に助けを呼び求めた所、主は聞いて下さった。

『わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか。』』(ヨナ2:2-4)

ヨナの場合、彼の苦しみは、彼の不従順に由来して来たが、そんな自分の身から出た錆の苦しみの中からでも、主の宮を思い焦がれ祈った祈りを、主は聞いてくださり、魚に命じて、彼を陸に吐き出させ、再びミニストリーの場に戻して下さった。
人がいかに地の奥底に下り、魚の腹にいても、あるいは、自身の不従順ゆえの苦しみの中にあっても、主は、その人呻きのような祈りを漏らさず聞いて下さるのだ。

18:7 そのとき地は揺れ動き、山々の基は震い動きました。主がお怒りになったからです。
18:8 煙はその鼻から立ちのぼり、火はその口から出て焼きつくし、炭はそれによって燃えあがりました。

ダビデが主を呼び求めた時、主は偉大な力を発揮された。
大地は震え動き、主の大いなる顕現をもって、現れてくださった。

主はダビデの祈りに聞いてくださった。
しかし、ダビデの敵が主を呼び求めても、主は聞かれなかった。(41節)
なぜなら主は、普段から主に真実な者に対して真実にあしらい、普段から主を軽んじている者は、軽んじられるお方だからだ。
サウル王は普段から主を軽んじた故に、預言者を軽んじ、祭司を虐殺し、主に油注がれたダビデを殺そうと追い回した。
それ故、いまわのきわに主を呼び求めても何も答えられず、夜が空けぬ内に霊媒や口寄せのところに行ってしまった。

普段から主を敬い、主を呼び求めつつ歩むなら、主は答えて下さるのである。
ダビデは生涯、主を呼び求めつつ歩んだ。私達も彼に習い、生涯、主を「わたしの主」と呼びつつ歩み、主から必要な助けを都度頂き、地上の人生を終える時には、信仰者の列へと加えられる者でありたい。

きよめのわざを行うネヘミヤと聖霊(ネヘミヤ記13:15-31)
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賛美集会音声
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週報/メッセージ(説教)概要

 ネヘミヤ(名の意味:「慰め主」)による城壁再建の記事より、私達の人生を再建させて下さる聖霊の働きを学んでいる。彼の働きによりエルサレムの住民は悔い改め、御言葉を守り行う決心をしたが、彼が不在の間、その決心は早くも破られてしまっていた。捧げ物がなおざりになり、レビ人が世の仕事へ逃げ帰り、空いた神殿の部屋には異邦の者の私物が置かれていた。それをネヘミヤは憤り、きよめ、回復させた。
ネヘミヤはさらに、エルサレムに蔓延していた霊的怠慢を正し、きよめのわざを為して行く。

その頃、安息日に仕事をしている者や、果物や魚など色々な商品をエルサレムに運び込んで売っている者がいた。『そこで私は、ユダの主だった人たちを「詰問(リーブ:論じ合う、争う)」して言った。「あなたがたはなぜ、このような悪事を働いて安息日を汚しているのか。』(17節) 聖霊もまた、主に礼拝を捧げるべき時が軽んじられ、世的な物事の売り買いがさかんにされている事を、黙ってはおられない。
イスラエルはかつて安息日を破り続けた結果、バビロン捕囚の事件が起き、主を軽んじる邪悪な不品行の者達が殺され、捕らえ移された事によって、その地は安息を受けた。(2歴代誌36:11-21) 主の安息を敬わず、聖としない人は、神が取り除き、強制的に安息を取り戻される歴史があったのに、金儲けの事しか考えずに安息日を軽んじた者達。安息日は誰も働かないから、自分が売れば自分の独占市場だ、と考える者達が出てきたのだが、それは、神を侮る事としてネヘミヤは速やかに、断固として、対応をした。
彼は安息日の始まる直前、城門を閉め、安息日が終るまで開いてはならないと命じ、商品が一切持ち込まれないようにした。売る者達は城壁の外で窺っていたので、ネヘミヤは彼らに言う。「なぜあなた方は、城壁の前で夜を過ごすのか。再びそうするなら、私はあなたがたに手を下す。」(21節) それ以降、誰も安息日には来なくなった。礼拝を泥棒するハゲタカは、一度追い出してもまだウロウロするものなので、来なくなるまで徹底して追い払わなくてはならない。聖霊は、神への道を邪魔し礼拝を泥棒する者には、断固として立ち向かう。聖霊に満たされたパウロは、福音を邪魔し礼拝への道を邪魔する者を呪うと、その者はたちまち見えなくなって、それを見た人々はすっかり驚き、信じた。(使徒13:9-12)

『その頃また、私はアシュドデ人、アモン人、モアブ人の女をめとっているユダヤ人達のいるのに気がついた。彼らの子どもの半分はアシュドデの言葉を話し、あるいは、それぞれ他の国語を話して、ユダヤの言葉がわからなかった。』(23-24節) この者達に対するネヘミヤの態度は、かつて無い程に厳しい。『そこで、私は彼らを詰問してのろい、そのうちの数人を打ち、その毛を引き抜き、彼らを神にかけて誓わせ』(25節)
ネヘミヤは今まで、同邦人を呪ったり、打ったり、毛を引き抜いて侮辱したような事は無かった。異邦の女との結婚はそこまで深刻な問題である。聖霊が詰問し、のろい、打ち、はずかしめを与え、強制的に決心させるような、最も厳しい取り扱いをするのは、神から引き離し罪を犯させる異邦のものと、結婚する事である。
「イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。」(25節) 神はソロモンを誰よりも栄えさせ、誰よりも知恵を与えたのに、異邦の女達が彼に罪を犯させてしまった。ソロモンは思ったかもしれない。自分の知恵と権力をもって女達を改宗させればいい、とにかくこの美しき女達がほしい、と。
しかし知恵や権力で人を改宗できる訳ではない。ソロモンは年老いた時、女達が彼の心を転じさせ、ついに彼は異邦の女達の住居や、異邦の神々の祭壇を、税金を使って造らせるに至った。(1列王記11:1-8)
ネヘミヤがあれ程強行だったのは、ソロモンの二の舞を踏んで欲しくない、という熱心さからだったのだ。

『大祭司エリアシブの子ヨイアダのひとりの子はホロニびとサンバラテの婿であったので、わたしは彼をわたしのところから追い出した。』(28節) なんと大祭司エルヤシブの孫の一人が、城壁再建を妨げた異邦人サヌバラテと婚姻関係を結んで、妥協し共存して行こうとしていたのだ。その結果、多くの罪をエルサレムの中に招き、礼拝が疎かにされ、レビ人が逃げ、呪いを招いていたのだ。『わが神よ、彼らのことを覚えてください。彼らは祭司の職を汚し、また祭司およびレビびとの契約を汚しました。』(29節)
今やキリストにあって、私達が祭司であり、レビ人であり、聖霊は私達の異邦の思考や享楽との結合を徹底して取り扱われる。神に喜ばれないあらゆるものを除き、誘惑が来ないように自ら整え、神との清らかな歩みをして行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

何のわだかまりなく主の御前に出て何でも訴えられる人とは(詩篇17篇)
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ダビデの祈
17:1 主よ、正しい訴え(ツェデク)を聞き、わたしの叫びにみ心をとめ、偽りのないくちびるから出るわたしの祈に/耳を傾けてください。

ダビデは、彼をつけねらう者達によって悩まされている状況である。
特に、サウル王とその側近の追跡から逃げている時に記した詩篇と言われている。
そんな中にあって、彼は自分の訴えを「正しい訴え」と言い、また最後の15節でも「義(ツェデク)にあって:正しい訴えで」み顔が見れる事を、宣言している。
自分は罪人だ、御前に義と宣言するなどとんでもない、と言うクリスチャンも多い中、一体ダビデ、どこに、自分が正しい訴えをしている、と言える根拠があるのだろう。

新約を生きる私達は、知っている。イエスを信じる者は義とされ、彼を主と告白する者は救われる事を。

ローマ10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
・・・
10:13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。

イエス、その御名はヘブライ語でイエシュア、主は救い、という意味である。
「主は救いである」と主に呼び求め、そうして主に来る人をこそ、主は義として下さる。
ひるがえってダビデは、その祈りの最初の最初で、主エホバの御名を呼び求め、主を助けとしている。
だから彼は、堂々と「正しい訴え(ツェデク)」と言って、主に訴える事ができたのだ。

17:2 どうかわたしについての宣告がみ前から出て、あなたの目が公平をみられるように。

ダビデは、自分に対する主の宣告についてここまで自信を持っているが、その自信はどこから来るのだろう。
その秘訣が、3-5節にある。この3-5節の中で、自分の心、口、行い、歩みにおいて、彼は何のやましい所が無いという宣言をする。

17:3 あなたがわたしの心をためし、夜、わたしに臨み、わたしを試みられても、わたしのうちに/なんの悪い思いをも見いだされないでしょう。わたしの口も罪を犯しません。

彼は主に、心を「ためし」「臨み」「試み」をしても、何ら悪い所が見出されない、と、堂々と言う事が出来たのは、それは彼の心に、主に対してのやましさが全く無い状態だったからだ。
彼の心は、実に単純なのだ。イエス様も言われた。心のきよい者(単一な者)はさいわいだ、その人は神を見るから、と。(マタイ5:8)

17:4 人のおこないの事をいえば、あなたのくちびるの言葉によって、わたしは不法な者の道を避けました。
17:5 わたしの歩みはあなたの道に堅く立ち、わたしの足はすべることがなかったのです。

彼は自分の「おこない」に関しては、主のくちびるの言葉に拠って歩んだ、そして不法な者の道を避けた、と堂々と告白している。
主の御言葉に従って歩む者は、決して揺るがされる事が無い。
このように、心にやましい所が無いなら、大胆に御前に進み出て、御前に申し上げ、なんでも訴える事が出来るはずである。
パウロは言った。

ピリピ4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。

パウロはいつも喜べ、と言った。だから、罪責感に苛まれるのは、御心ではない。
サタンにやられて、良心が崩壊してしまっている人は、常に罪責感に悩まされ、御前に出られず、そして悪に立ち向かう事も出来ない。
私達は大胆に信仰に立って、悪魔に立ち向かい、主のわざを為すべきである。

ピリピ4:5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
4:7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

何事も思い煩わず、ただ事あるごとに、神に向かって祈り、感謝し、すべてのことを主に持っていくなら、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安に満たされ、思いと心は、キリストにあって守られる。
これは何という恵みだろうか!

4:8 最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。
4:9 あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。

これら良きことに心を留めるなら、平和の神から来る平安に満ち溢れ、ダビデのように、何のわだかまりなく、御前に出て、どんな事でも祈り訴える事ができるのだ。

もしそうではなく、何か詰まったような感覚、何か主に対すしてわだかまりがあるのであるなら、聖霊に心を照らしていただくべきである。
示される罪があったら、聖霊に示された範囲で告白し、悔い改め、あるいは人に対して罪を負っていたのなら、その人に償いをするのだ。
『隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされた事は長く我々と我々の子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。』(申命記29:29)

御前において、何ら「やましさ」がない状態のダビデは、大胆に主を呼び求めている。

17:6 神よ、わたしはあなたに呼ばわります。あなたはわたしに答えられます。どうか耳を傾けて、わたしの述べることをお聞きください。
17:7 寄り頼む者をそのあだから右の手で救われる者よ、あなたのいつくしみを驚くばかりにあらわし、
17:8 ひとみのようにわたしを守り、みつばさの陰にわたしを隠し、
17:9 わたしをしえたげる悪しき者から、わたしを囲む恐ろしい敵から、のがれさせてください。

ダビデは神を呼び求めた。なぜなら、神はその右の手をもって、寄り頼む人を敵から救われるお方だから。
ダビデの敵は、そうではない。主に正統に油そそがれ王となった、何の罪も無いダビデを、いのちを付け狙って追いかけているからだ。その者に、主が軍配を上げるいわれはない。
だからダビデは大胆に宣言できたのだ。

17:10 彼らはその心を閉じて、あわれむことなく、その口をもって高ぶって語るのです。
17:11 彼らはわたしを追いつめ、わたしを囲み、わたしを地に投げ倒さんと、その目をそそぎます。

10-12節に、ダビデを訴え攻め立てる「彼ら」がいかなる者であるのかが記されている。
彼らは「肉の心で塞がれている」ため、罪について、義について、さばきについて理解できず、その鈍い心をもっと閉ざし、高慢な口で語り、不当な妬みをもってダビデを付け回し、倒そうと狙っている。

17:12 彼らはかき裂かんと、いらだつししのごとく、隠れた所にひそみ待つ子じしのようです。

ダビデの目には、彼らは「しし」のように強く見える。
なにしろサウル王に付け回されていたダビデと共にいた600人は、世間からつまはじきにされた一癖も二癖もある人たちで、それに対し、サウル王に従う3000人は、ベニヤミン族の選り抜きの兵士たちである。
それで彼は、ただ主に叫び、助けを求めている。

17:13 主よ、立ちあがって、彼らに立ちむかい、彼らを倒してください。つるぎをもって悪しき者からわたしのいのちをお救いください。
17:14 主よ、み手をもって人々からわたしをお救いください。すなわち自分の分け前をこの世で受け、あなたの宝をもってその腹を満たされる/世の人々からわたしをお救いください。彼らは多くの子に飽き足り、その富を幼な子に残すのです。

ダビデは特に「人々(マス:男、人類全般)」から救い出して下さい、と願い求めている。
その「人々」とは、現世的な力や権威、お金を拠り所とする者達、すなわち、神に拠り所を見出さない者達、神から良いものを受け子孫にも祝福されておきながら、その与えられた富や力を、不当な事に用い、罪なきダビデを攻撃する事に努力を惜しまない者達である。

私達も、そのような者達がいるなら、主に祈るべきである。主の正しい御旨がなされるように、と。
不当に弱者から搾取し欺くことを止めない権威者達が、速やかにその座から降ろされるように、と。

17:15 しかしわたしは義(ツェデク)にあって、み顔を見、目ざめる時、みかたちを見て、満ち足りるでしょう。

ダビデは最後にも「義(ツェデク)にあって」という言葉を持ち出し、祈りを閉じた。
彼は満ち足りて安息の内に休み、平安の内に起きる事が出来た。
それに対して、ダビデを追い回すサウルと、その側近たちは、主に逆らう事をしていたにもかかわらずその呪われた道を止めず、その最後は悲惨なものだった。

箴言29:24 盗びとにくみする者は自分の魂を憎む、彼はのろいを聞いても何事をも口外しない。
29:25 人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。
29:26 治める者の歓心を得ようとする人は多い、しかし人の事を定めるのは主による。

私達はダビデのように、常に御前において何のやましい所なく、何事もただ主に持っていく者でありたい。

主こそわたしの相続である、とした人の幸いの数々(詩篇16篇)
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ダビデのミクタムの歌
16:1 神よ、わたしをお守りください。わたしはあなたに寄り頼みます。

ミクタムは、意味の説明として,「苦しめられている」「攻撃を受けている」「黄金の」「宝石の」「書き記されている」「隠されている」「重要な意味を持ったもの」等あるが明確ではない(実用聖書注解)
16篇もまたダビデの詩篇であり、どうやら彼は、再び困難な状況にあるようである。

困難な状況の中でこそ黄金のような、宝石のような「賛美たち(テヒリーム=詩篇)」が誕生する事が多々あるが、この詩篇もまさに宝石のような詩篇である。

16:2 わたしは主に言う、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と。

彼は苦しみの状況で、「あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない」と宣言した。
主を「わたしの主」と主に対しまた世に対し宣言し、主を自分との個人的で親密な関係へと持ち込む事こそ、あらゆる助けの源となるのだ。
どんなにひとりぼっちでも、どんなに弱くても、どんなに何も無いように見えても、主が自分の親しい主人であり、助けであるなら、どんな人生の荒波も、困難という山の頂も、安全に乗り越える事が出来、そして、素晴らしいゆずりの地へと導かれるのだ。

16:3 地にある聖徒は、すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である。

日本ではクリスチャンを見つけるのはまれで、他の神々を選ぶ者のほうが多い。
そんな中で、主を拠り所とすし助けとするクリスチャンを見つけると、大きな喜びが沸き起こってくる。
ダビデもそうである。

16:4 おおよそ、ほかの神を選ぶ者は悲しみを増す。わたしは彼らのささげる血の灌祭を注がず、その名を口にとなえることをしない。

主を拠り所とするクリスチャンは、威厳があるのだが、もしクリスチャンと言われている人に、威厳が無いとするなら、彼は拠り所を主だけにしていないからだ。
例えば、聖書は同性愛を容認していないのに容認したり、イエス・キリストのみが道であり真理であり命であるのに、イエス以外に救いがあると言うなどの、聖書に混ぜものをした思想を持っているとするなら、その人からは威厳も守りも逃げ去ってしまうのだ。

16:5 主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。あなたはわたしの分け前を守られる。

主の働き人であるレビ族は、土地の分与がなかった。なぜなら、主がゆずりの地だからだ。

民数記18:20 主はまたアロンに仰せられた。「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。

そしてイエス・キリストを主としてる私達にとって、主イエス様こそ受ける分であり、私達のゆずりの地である。
主はアブラハムにも仰せられた。

15:1 「アブラムよ恐れてはならない、/わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、/はなはだ大きいであろう」。

KJVでは「I (am) thy shield, (and) thy exceeding great reward. 」、つまり神は、「わたしがあなたの盾、そしてあはたへの飛び抜けて素晴らしい報酬だ。」と言っておられるのだ。
だからここは、主を信じた事の報いとして莫大な富や栄誉を得られる、などとというレベルの話ではない。
「主ご自身が莫大な報い」であり、それは世のいかなる栄光や富を得るよりはるかに優れた報酬である。
主を主とし、主を私達のゆずりの地とするなら、私達もアブラハムの子孫である。

16:6 測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た。

測りなわは、「この縄の内側は、私の土地ですよ」という事を示す境界線である。
ダビデには、自分にとって好ましく思える相続地を、主が与えて下さった事を喜んでいる。
主ご自身がゆずりの地であるなら、この地上において、主が好ましい所へと導いて下さるのだ。

16:7 わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。夜はまた、わたしの心がわたしを教える。

主は私達キリスト者に聖霊を授けて下さり、その聖霊が、暗闇の中でも私達を導いて下さる。

16:8 わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。
16:9 このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。

ダビデはいつも主を前に置き、主を羊飼いとした。
羊は、羊飼いの前を行くものだろうか。それとも、羊飼いの後を行くものだろうか。
もちろん羊飼いの後を従って行くものだである。
しかし、なんと多くのキリスト者がイエス様を後に従えて「主よ私の為す事をに成功を与えて下さい」と言って本末転倒を演じているだろうか。
私達は主をこそ前に置き、主に従って行くべき者である。
そして、あらゆる考え方や道の選び方において、主を前に置き、主というフィルターを通して物事を見、判断すべきである。

この主を私達の力とし、右に置くなら、私達は決して揺るがされる事は無い。
預言者イザヤも言っている。

イザヤ41:10 恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。
41:11 見よ、あなたにむかって怒る者はみな、はじて、あわてふためき、あなたと争う者は滅びて無に帰する。
41:12 あなたは、あなたと争う者を尋ねても見いださず、あなたと戦う者は全く消えうせる。
41:13 あなたの神、主なるわたしは/あなたの右の手をとってあなたに言う、「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。
41:14 主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。

詩篇16:10 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。
16:11 あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。

ここはパウロも宣教の時に引用した。主は十字架において死なれたが、陰府に捨て置かれる事は決してなく、よみがえられた。
イエス様に望みを置いている聖徒たちも同様である。イエス・キリストにある聖徒達は、必ず復活するのだ。
この主にあって、私達は、死を前にしても、陰府を前にしても、決して揺るがされる事は無い。

詩篇103:1 わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。
103:2 わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。
103:3 主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、
103:4 あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
103:5 あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。

ダビデをも罪に導いてしまった罪の「なまけぐせ」(2サムエル記11:1-5)
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2サムエル記11:1 春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ダビデはヨアブおよび自分と共にいる家来たち、並びにイスラエルの全軍をつかわした。彼らはアンモンの人々を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。

ダビデに少しの「なまけぐせ」が現れている。
このなまけぐせは、最初の段階で取り扱っていないなら、それは後に強者のように逆らえない敵に成長してしまう。

ヘブル12:15 気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。

2サムエル記11:2 さて、ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、ひとりの女がからだを洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。

彼は、人が起きて働くべき時間にも休み、人が仕事を終える時間に起き出している。
ここにダビデのなまけぐせが、根を張り、本葉を出したような形で現れている。

箴言6:9 なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目をさまして起きるのか。
6:10 しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。
6:11 それゆえ、貧しさは盗びとのようにあなたに来り、乏しさは、つわもののようにあなたに来る。

2サムエル記11:3 ダビデは人をつかわしてその女のことを探らせたが、ある人は言った、「これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありませんか」。

エリアムは「神の民」、ウリヤは「主の光」、バテシェバは「誓いの娘」という意味である。
ヘブライ語的には、使者の報告は「これは神の民の娘で、主の光の妻、誓いの娘ではありませんか」となる。
これは明らかな主の警告である。
しかし、一度肉欲に心をつないでしまったなら、どうしても、その欲望を果たさなければおさまりがつかないのである。
だから、最初に誘惑が来た段階で、断ち切る必要がある。

ローマ8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。
8:3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。
8:4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。

私達は常に、御霊を選択するか肉を選択するかの選択がつきまとう。
御霊を選択するなら、肉は殺される。

8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

しかしダビデは、このわずか5節でずっと肉に、罪に、自分の主導権を委ねてしまった。

2サムエル記11:4 そこでダビデは使者をつかわして、その女を連れてきた。女は彼の所にきて、彼はその女と寝た。(女は身の汚れを清めていたのである。)こうして女はその家に帰った。

こうしてダビデは、律法においては死にあたる罪を犯してしまう。
私達はいつも御霊の選択を行使して行くべきなのだ。
 

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