メッセージ - 201811のエントリ

主の御声(詩篇29篇)
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この詩篇の表題は「ダビデの歌」(ミズモール レ ダヴィド)、ミズモールは音楽あるいは詩(psalm)である。
この詩篇では「主のみ声」というキーワードが七回、登場すし、、ダビデは、主の御声を通して成される神の創造と支配の偉大さを褒め称えている。

詩篇29:1 神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。
29:2 み名の栄光を主に帰せよ、聖なる装いをもって主を拝め。

まず彼は「神の子らよ、主に帰せよ」という呼びかけと命令で始めている。
神の子。それは御使いのような天的な存在を指す事もあろうが、イエス・キリストを信じて救われた人はみな、神の子である。
神の子には、栄光と力が与えられるが、それらは、本人自身の好き勝手に用いるために与えられるのではなく、栄光と力を、主に帰するため、である。
御使い達も、神の子キリストに、栄光と力を捧げた。

ルカ2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
2:12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。

神の御子キリストは、確かに偉大な力を持っており、天地万物はこの御方のために創られ、この御方にあって成り立っている。
それなのに、その偉大なキリストが、なんと人間の赤ちゃんとなられ、しかもなんと、不衛生な飼い葉おけの中に寝かされているのだ。
そこまで低く、低くへりくだられた、全被造物の主なる主。
主はここまで低くへりくだられたからこそ、どんな貧しく卑しい人でも、この救い主イエス様に届くお方となってくださったのだ。
だから御使いは、ほめたたえざるを得なかったのだ。

主イエス様は、低くへりくだられて地上に降りてこられたが、それに対しダビデは、主の偉大さをほめたたえている。

詩篇29:3 主のみ声は水の上にあり、栄光の神は雷をとどろかせ、主は大水の上におられる。
29:4 主のみ声は力があり、主のみ声は威厳がある。

創世記1章2節において、混沌と闇の大海原の上に、主の霊が舞いかけているが、そこで主は
「光よ、あれ」
と仰せられ、そうして光が出来、混沌だった天地を、6日かけて秩序を整えて行かれた。

詩篇29:5 主のみ声は香柏を折り砕き、主はレバノンの香柏を折り砕かれる。
29:6 主はレバノンを子牛のように踊らせ、シリオンを若い野牛のように踊らされる。

シリオンはシドン人による「ヘルモン」の呼び名である。
レバノンの香木も、ヘルモンも、威風堂々とした有様であるが、主は、神を除外した者達の威風堂々を砕かれ、それらを子牛のように、野牛のように踊らされる。
威風堂々とした人間も、自然も、主を前にしてはなんの力も無いのだ。

29:7 主のみ声は炎をひらめかす。
29:8 主のみ声は荒野を震わせ、主はカデシの荒野を震わされる。
29:9 主のみ声はかしの木を巻きあげ、また林を裸にする。その宮で、すべてのものは呼ばわって言う、「栄光」と。

主が御声を発せられると、稲妻が走り、炎をひらめかる。
また、地震によって大地を震わせ、つむじ風を起こし、全被造物は、この御方の栄光をほめたたえざるを得ない。

29:10 主は洪水の上に座し、主はみくらに座して、とこしえに王であらせられる。

洪水と言えばノアの時代の洪水であるが、天地創造から洪水までのおよそ1000年の間、人間は罪に罪を重ねて来たが、憐れみ深い主はずっと忍耐しておられた。
しかしついにノアの家族8人以外は皆、悪に染まり、すでにノアの家族にもその悪が侵食して来ようとしていたため、神はついに大洪水を起こし、そうして主は、愛と憐れみ、忍耐の主であるのみならず、義なる主、審判される主であると、威光を示されたのだ。
しかし主は、やはり憐れみの主である。

29:11 主はその民に力を与え、平安をもってその民を祝福されるであろう。

ノアを通して人類を滅ぼし尽くさず、主と共に歩む民を、平安をもって祝福されるのだ。

主の御声は、このように力があり、偉大なわざを為す。
その御業は、自然界の諸々の現象を通して、誰の目にも明らかなものであるが、主が語りかけてくるその御声の「内容」や「意味」を理解する人は、少ない。

エリヤは、神に仕える者が、自分以外には誰もいなくなってしまったと感じ、神と問答したが(1列王記19:9-18)、神が通り過ぎられた時、山を裂き、岩を砕くという、圧倒的な現象が起きたが、その中には、主はおられなかった。
風の後に地震があったが、地震の中にもおられず、地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。
そして、火の後に静かな細い声が聞えた。
エリヤはそれを聞いて、顔を外套に包んだ。

神は確かに、圧倒的な自然現象を起こされるが、その現象だけを見ても、神の意図は分からない。
神の意図を教える御声は、とても静かで、聞こうとする者にしかその意図は理解できないものである。
だから私達は、神のかすかな声を聞く耳が与えられるように、理解する心が与えられるよう、意図して耳を傾け、祈り求めるべきだ。

神の御声は、神を求める心ある人のみが、理解する。
迫害者であったサウロ、後の使徒パウロが、そうだった。

使徒9:3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
9:4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
9:5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。

サウロは、主イエス様の圧倒的な光に照らされた時、「主よ、あなたは、どなたですか」と問うた。
パウロは「主よ」と呼び求めているからには、この、圧倒的な光の主人が「主」であると瞬時に悟ったからだ。

しかし、同じ場面に立ち会い、同じ言葉を聞いておきならが、それを悟らない人達もいる。

使徒9:7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声(フォーネー)だけは聞えたが、だれも見えなかった。

同行者達は、その場に立ち会って、しかも声(フォーネー)も聞こえたのに、彼らは、サウロのような衝撃的な主との出会いをしていないし、この出来事の直後も、ショックを受けているサウロを、普通に介添えしている。
どういう事だろう。

この「フォーネー」というギリシア語には、声の意味の他に、ノイズという意味もある。
つまり、この場面では、サウロはこのフォーネーを聞いて、それが、主からのものであると瞬時に理解し、そしてその内容は、サウロという自分の名前を繰り返して呼び、しかも「わたしを迫害するのか」と、はっきり理解したので、彼はいまだかつて無かったショックを受けたのだ。
それなのに、このフォーネーを聞いても、何も感じない者達もいる。
主の御言葉とは、そういうものなのだ。

主を求め、主に聞こうとしている人にとっては、御言葉は、人生を揺るがし変えてしまう程のショックをもたらすが、かたや、同じ御言葉に触れても、なんのショックも変化も無い人も、いるものなのだ。

私達は生活の場面で、諸々の現象の中で、主の語られる静かな御声を聞き分け、その内容を理解し、主のみわざを為していく者達であるべきだ。
 

なんでも主に持って行って、主から可愛がられたダビデ(詩篇28篇)
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詩篇28篇 ダビデの歌
28:1 主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。わが岩よ、わたしにむかって/耳しいとならないでください。もしあなたが黙っておられるならば、おそらく、わたしは墓に下る者と等しくなるでしょう。

詩篇28篇も27篇同様、ダビデが敵によって苦しめられ、主に向かって祈る祈りである。
ダビデはどんな事でも、「主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。」と、主になんでも持って行くのが、彼のトレードマークである。
親としては、どんな事でもいつでも親に持ってくる子供が、持って行かない子供よりも、かわいいのではなかろうか。
ダビデは、何事につけても、主に向かって持って行った。だから主の目には、彼は、かなりかわいかったのではないだろうか。
それで主は彼を高めて下さった。

28:2 わたしがあなたにむかって助けを求め、あなたの至聖所にむかって手をあげるとき、わたしの願いの声を聞いてください。

ダビデは悩みの時、主の至聖所に向かって手を上げた。その手は、祈りの手である。

28:3 悪しき者および悪を行う者らと共に/わたしを引き行かないでください。彼らはその隣り人とむつまじく語るけれども、その心には害悪をいだく者です。

ダビデは悪を行う者を、主に訴えている。
その彼らの性質は、彼らは表面的には仲良さそうに来るが、心には害悪を抱いている、というものだ、と。

28:4 どうぞ、そのわざにしたがい、その悪しき行いにしたがって彼らに報い、その手のわざにしたがって彼らに報い、その受くべき罰を彼らに与えてください。
28:5 彼らは主のもろもろのみわざと、み手のわざとを顧みないゆえに、主は彼らを倒して、再び建てられることはない。

この詩篇28篇には、3種類の「手」が登場する。
すなわち、自分の手と、敵の手と、そして主の御手である。
敵の手は、悪しきわざを行うが、その手が迫ってくる時こそ、私達が主に向かってきよい手を挙げて祈る時である。
パウロは以下のように勧めている。

1テモテ2:8 男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。

またモーセも60万のつぶやきやすい群衆を40年間荒野で導いた時、彼自身が怒り心頭になりそうな時は幾度もあったが、その時モーセ自身はいつでも主にひれ伏して執り成し、祈った。
彼やダビデのように、問題も怒りも全てを主に持っていく人こそ、主の御業が働く人である。

この世界は、主の良きわざによって、6日に渡って創造されたが、主は、ご自身の創造のわざを見て、6度「よし」と言われた。
人の手のわざは、悪を行う事に傾きやすく、悪い事ばかりである。
だから私達は、主の「良き」わざを成す主の御手へと、持っていくべきである。

28:6 主はほむべきかな。主はわたしの願いの声を聞かれた。
28:7 主はわが力、わが盾。わたしの心は主に寄り頼む。わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、歌をもって主をほめたたえる。

この詩篇の後半は、早速祈りが答えられ主を喜び褒め称えている箇所へと、早速移っている。
主を呼び求める人に、主が速やかに答えて下さる事例は、聖書には事欠かない。

ハンナも主に求めた時、主が答えてくださり、ダビデ同様の感謝の歌を主に捧げている。
ハンナはペニンナから嫌味といじめを受けたが、そのつのる憂いを彼女は誰にもぶつけず、全部、主へと持って行った。
主は、彼女の祈りに聞かれ、彼女もダビデのように、主をほめ歌った。

1サムエル記2:1 ハンナは祈って言った、/「わたしの心は主によって喜び、/わたしの力は主によって強められた、/わたしの口は敵をあざ笑う、/あなたの救によってわたしは楽しむからである。
2:2 主のように聖なるものはない、/あなたのほかには、だれもない、/われわれの神のような岩はない。
2:3 あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、/たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、/もろもろのおこないは主によって量られる。
2:4 勇士の弓は折れ、/弱き者は力を帯びる。
2:5 飽き足りた者は食のために雇われ、/飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、/多くの子をもつ女は孤独となる。
2:6 主は殺し、また生かし、/陰府にくだし、また上げられる。
2:7 主は貧しくし、また富ませ、/低くし、また高くされる。
2:8 貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、/乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、/王侯と共にすわらせ、/栄誉の位を継がせられる。地の柱は主のものであって、/その柱の上に、世界をすえられたからである。
2:9 主はその聖徒たちの足を守られる、/しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。人は力をもって勝つことができないからである。
2:10 主と争うものは粉々に砕かれるであろう、/主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、/地のはてまでもさばき、/王に力を与え、/油そそがれた者の力を強くされるであろう」。

マリヤも、同様の祈りを祈った。

1:46 するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ、
1:47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
1:48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
1:49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、
1:50 そのあわれみは、代々限りなく/主をかしこみ恐れる者に及びます。
1:51 主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、
1:53 飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
1:54 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、
1:55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを/とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。

これらはいずれも、自分の力によらず、自分で仕返しせず、ただ主の救いにより頼んだ人々による、感謝の祈りである。
主は彼らのような、主の御声に100%従順する人を通して、世に良き介入をする機会を得て、彼らを通して大きな事をして下さった。
まことに世は、主に従順な人を通してこそ、世に介入されるのである。
しかし、御声に聞き従わない人、驕り高ぶる者、悪を行う者は、廃れていく。

28:8 主はその民の力、その油そそがれた者の救のとりでである。
28:9 どうぞ、あなたの民を救い、あなたの嗣業を恵み、彼らの牧者となって、とこしえに彼らをいだき導いてください。

ダビデは確かにイスラエルを導く羊飼いであったが、それ以上に、主こそ、まことの羊飼いである。
パスターも牧師も「羊飼い」という意味であるが、真の羊飼いは、イエス様である。
だからパスターも牧師も、人々を、まことの羊飼いへと導く「羊飼いのしもべ」である。

私達も、ダビデのように祈るべきである。
どうぞ、あなたの民を救い、あなたの嗣業を恵み、彼らの牧者となって、とこしえに彼らを抱いて導いてください、と。
まことの大牧者よ、来て支配して下さい、と。

主との交わりの甘く麗しい感覚を慕い求めて(詩篇27篇)
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詩篇27篇 ダビデの歌
27:1 主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。
27:2 わたしのあだ、わたしの敵である悪を行う者どもが、襲ってきて、わたしをそしり、わたしを攻めるとき、彼らはつまずき倒れるであろう。
27:3 たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある。

27篇は、ダビデが敵を前にした時、ダビデの主に対する思いと姿勢がよく現れた詩篇である。
彼は「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしの命のとりでだ」と、信仰をもって宣言した。
主を救いとする時、恐れは取り除かれ、そして主の御言葉を信仰を混ぜて宣言する時、その救いは実体として現れていく。
それで彼の人生、戦いにおいて、敗北は無かったのだ。

主を助け、主を拠り所とする人は、確かに守られ、匿われる。(詩篇91篇)
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので

信仰をもって主の約束の御言葉を宣言し、主に助けを求めて行く時、主はその信仰を実体化させて下さるが、この主の守りに囲われる時、甘く麗しい感覚が沸き起こる。

27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
27:5 それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。

女性が愛する男性の腕にくるまれる時、甘い安心感を覚えるように、ダビデも主に対して、そうだった。
だから彼は主の宮を慕い求め、生涯、そこに住む事を求めた。
この、主と主の宮をうるわしいと感じる感覚は、クリスチャンがイエス様に対して覚えるべき感覚である。
麗しい主を慕い求め、探し、門を叩き続ける人こそ、主を見出し、奥の間で主と麗しい愛の交わりにあずかれる人である。

雅歌3:1 わたしは夜、床の上で、わが魂の愛する者をたずねた。わたしは彼をたずねたが、見つからなかった。わたしは彼を呼んだが、答がなかった。
3:2 「わたしは今起きて、町をまわり歩き、街路や広場で、わが魂の愛する者をたずねよう」と、彼をたずねたが、見つからなかった。
3:3 町をまわり歩く夜回りたちに出会ったので、「あなたがたは、わが魂の愛する者を見ましたか」と尋ねた。
3:4 わたしが彼らと別れて行くとすぐ、わが魂の愛する者に出会った。わたしは彼を引き留めて行かせず、ついにわが母の家につれて行き、わたしを産んだ者のへやにはいった。

この、主との麗しい交わりに入った人は、たとえ敵が目の前にいたとしても、真理の上では主の守りの御手で囲まれているゆえに、大胆に、自信満々になる事ができる。

27:6 今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられる。それゆえ、わたしは主の幕屋で/喜びの声をあげて、いけにえをささげ、歌って、主をほめたたえるであろう。

ダビデは主の守りを信じ、宣言し、それが実体化になった。
だからダビデは、あらゆる戦いで勝利を得続けたのである。

27:7 主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。
27:8 あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。

「わが顔をたずね求めよ」、これは父なる神の、私達に対して願っておられる事であるが、ダビデはその心を熟知していた故に、それを先取りして宣言した。
もし子供がお父さんに向かって、『僕はお父さんの心を知っているよ。だからお父さんに代わって言います。「わたしの顔をたずね求めよ」』と言ったとしたら、その子供はとてもかわいいのではなかろうか。
主の目に、ダビデは、どれほどかわいく映っただろう。それ故主はダビデを特別に扱って下さった。
私達も、主からの特別待遇をいただきたいなら、心して御心を先取りし、御言葉を宣言するべきである。

27:9 み顔をわたしに隠さないでください。怒ってあなたのしもべを退けないでください。あなたはわたしの助けです。わが救の神よ、わたしを追い出し、わたしを捨てないでください。

主は、決して捨てない、と言っておられるのだけれど、この、主に捨てられてしまうのではないか、という気持はたまに沸き起こってくる。
罪を犯した時、自分が相応しくないと感じる時など。
その時、悪魔、サタンがその人を絶望させ主から引き離すためにその感覚を用いるが、私達はそれを信仰をもって制さなくてはならない。

しかし少なくとも、主に捨てられて欲しくないという思いがあるのは、健全な思いであり、主を敬わない人には、沸き起こらない感覚である。
第一サムエル記において、大祭司エリは、息子たちが御前で大きな罪を犯し続けた故に、主から捨てられる、と、幼子サムエルを通して警告を受けた時、「主の御旨がなりますように」などと、信心深そうな事を言ったが、もしダビデだったどうだっただろうか。
一刻でも早く主の御まえに走って行って、赦しを乞い、悔い改めたのではなかろうか。
つまりエリの中には、主を敬う心、主を愛し親しむ心は、無かったのだ。

私達は、人の前に信心深そうに装う事よりも、ダビデのように、なりふり構わず主を愛し、主に慕い求め、罪を犯した時でも、主に食いついて行って、赦しを求めるべきである。

27:10 たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。

世の親は、その娘や息子を、捨てるかもしれない。
しかし、たとい親が私達を見捨てたとしても、主は決して見捨てないし、忘れない。
なぜなら主は、十字架上で、手のひらに私達を刻みつけられたからである。

「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、
わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。
あなたの城壁は常にわたしの前にある。」(イザヤ49:14-16)

27:11 主よ、あなたの道をわたしに教え、わたしのあだのゆえに、わたしを平らかな道に導いてください。
27:12 わたしのあだの望むがままに、わたしを引き渡さないでください。偽りのあかしをする者がわたしに逆らって起り、暴言を吐くからです。

平時の時さえも、ただ主の麗しさを仰ぎ見ようと求め続けている者こそ、有事の時にも真に主により頼む者である。

27:13 わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。
27:14 主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。

私達もダビデのように、いつでも主に求め、主を待ち望み、おりにかなった助けを得る者でありたい。

アンテオケ教会が栄えて行った秘訣(使徒11:19-30)
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11:19 さて、ステパノのことで起った迫害のために散らされた人々は、ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には、だれにも御言を語っていなかった。

それまでの経緯において、主の御胸は、異邦人にも福音を伝える事だと示されたのだが、相変わらずユダヤ人以外に御言葉を語っていなかった。
しかし、異邦人にも語った人達もいた。

11:20 ところが、その中に数人のクプロ人とクレネ人がいて、アンテオケに行ってからギリシヤ人にも呼びかけ、主イエスを宣べ伝えていた。
11:21 そして、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった。

ギリシヤ人に、すなわち、異邦人にも福音を伝え始めた時、主の御手が彼らと共にあった、とある。
主の御胸の通りに行って行き、立てられた教会が、アンテオケ教会である。
そこには、今までの考えに囚われず、主の御胸を為していこうという人々が集まって、活気があった。。

11:22 このうわさがエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンテオケにつかわした。
11:23 彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。
11:24 彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。

このアンテオケ教会について、13章には次のように書いてある。
13:1 さて、アンテオケにある教会には、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、およびサウロなどの預言者や教師がいた。
13:2 一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。
13:3 そこで一同は、断食と祈とをして、手をふたりの上においた後、出発させた。

色々な国語、民族、色々な肌の色の人が、そこにいて、そして彼らは共に礼拝を捧げ、断食と祈りに専念していた。
そのような彼らは、これからますます発展して行く。
使徒行伝の前半は、ユダヤ人12弟子が主体であったが、後半はパウロを中心とする異邦人宣教者に主役の座をゆずり、エルサレムのユダヤ人教会はどんどん廃れていく。事実、エルサレム教会はAD70年に崩壊してしまい、エクレシア達の活躍のステージはヨーロッパへ移行して行く。

11:25 そこでバルナバはサウロを捜しにタルソへ出かけて行き、
11:26 彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。

クリスチャンという言葉、元々は「キリストきちがい」と、揶揄するような言葉で呼ばれていたが、しかし彼らはキリストきちがいであると呼ばれる事をむしろ喜び、自称クリスチャンと呼ぶようになって行った。
アンテオケの教会が、最初にクリスチャンと呼ばれる栄誉に預かったのは、彼らが今までの既定の考えに固執せず、主が「これが道だ」と言われる道に速やかに入る人々で満ちていたからであり、そして彼らは、礼拝と祈りに専念し、また、ユダヤ人とギリシヤ人の違いを超え、また、言語や肌の色が違いを超えて、共々、キリストにある交わりに専念していたからだ。
そのような交わりを、主は大いに祝福される。

11:27 そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケにくだってきた。
11:28 その中のひとりであるアガボという者が立って、世界中に大ききんが起るだろうと、御霊によって預言したところ、果してそれがクラウデオ帝の時に起った。
11:29 そこで弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに援助を送ることに決めた。
11:30 そして、それをバルナバとサウロとの手に託して、長老たちに送りとどけた。

アンテオケの教会は、世界中にききんが襲った時代でも、エルサレムの教会を物資援助する程に、物質面でも富んでいた。
しかしエルサレム教会は、既定の考えに囚われ、自分達の交わりから出ることをせずにいたため、どんどん廃れてしまった。

私達もアンテオケ教会のように、自分の既定の考えにとらわれず、主の御胸に忠実に歩み、国や言語、文化の違いを超えてキリストにあって一致し、大胆に福音を語る者達でありたい。

主の前に心わだかまり無く大胆に出られる人のたしなみ(詩篇26篇)
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ダビデの歌
26:1 主よ、わたしをさばいてください。わたしは誠実に歩み、迷うことなく主に信頼しています。

詩篇26篇は、ダビデの人生の中で、いつの時期に書かれたのかという手がかりは無いが、その内容から、彼が悪しき者を前に攻められる所があった時に、主に祈ったものと思われる。

26:2 主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。
26:3 あなたのいつくしみはわたしの目の前にあり、わたしはあなたのまことによって歩みました。

ここを読むと、ダビデはよくもそこまで自信たっぷりに主に告白できるものだ、と思うかもしれない。
むしろ、その逆の告白をしたい人が、多いのではなかろうか。
主よ、わたしをさばいかないでください。わたしは誠実に歩んでおらず、迷い、主に信頼していません、主よ、わたしをためさないで下さい、わたしを試みないで下さい、わたしの心と思いに今触れないでください、と。

ダビデはなぜここまで大胆に、主に告白できたのか。
それは彼が主の前に、一切、やましい所が無かったからだ。
ダビデは、主の前に「やましさ」無く歩む事の達人だったが、どうすれば、主の前にやましさが無くなるのか。
詩篇32篇を見たい。

32:1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
32:2 主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。

人は誰しも罪を犯す。ダビデとて、そうだ。一体どうしたら、その罪が主の前に覆われ消されるのか。

32:3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。
32:4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ
32:5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ

ダビデは、自分の罪を言い表さなかった時は、苦しみ、うめき、骨は衰えた。昼も夜も、主の御手が重くのしかかったからだ。
しかし、主の御前に罪を告白し、悔い改めたなら、主は彼の罪を赦してくださった。

人は、特に災い続きでなかったり、あるいは特段に責められる所が無い限りでは、意識に登っていない罪を、わざわざほじくり返して探す必要は無い。
もし心責められる所がある時には、主の言葉を前に自分を降ろし、罪を告白して悔い改めるべきである。
自分のしたい事と、御言葉とが競合するなら、自分を降ろし、御言葉のほうを優先させる人は、主に対して誠実な人であり、そのように、主に対して誠実な人は、いつも心にわだかまり無く、神との関係を健全に保ちつづける事ができる。

26篇を記した時のダビデは、まさにそのようなやましさが無い状態だったから、ここまで大胆になれたのである。

26:4 わたしは偽る人々と共にすわらず、偽善者と交わらず、
26:5 悪を行う者のつどいを憎み、悪しき者と共にすわることをしません。

キリストにあって歩む人は、ますます罪の交わりが耐えられなくなって行くものである。
以前は罪の飲み食いを楽しみ、人を陥れる噂話や下品な冗談に大いに盛り上がっていたとしても、キリストを信じた時以来、そうした物事の中にいる事に、やましさを感じるようになってくるものであるが、そうではなく、相変わらずキリストを受け入れる以前の状態、罪の飲み食いを平然と行っているとするなら、その信仰には問題がある。

1コリント15:33 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。
15:34 目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。

私達もまた、自らをきよく保つために、そのような悪い交わりに迎合するべきでなく、むしろ一線を置き、そして彼らを十字架の「こちら側」へと引き込むために福音を伝えべきだ。
6節以降は、ダビデの積極的な表明がある。

26:6 主よ、わたしは手を洗って、罪のないことを示し、あなたの祭壇をめぐって、
26:7 感謝の歌を声高くうたい、あなたのくすしきみわざをことごとくのべ伝えます。
26:8 主よ、わたしはあなたの住まわれる家と、あなたの栄光のとどまる所とを愛します。

祭壇は自分の罪のだめに犠牲が捧げられ、その香りが御まえに立ち上っていく所だが、彼はまことに主を慕い求め、祭壇の周りをゆっり歩きつつ感謝を主に捧げたいと思っていた。
彼は主の中に麗しさ、慰めを見出し、主の宮にいる一日が千日にもまさる思いであった。
このような主との親しさも、ダビデが御前に大胆に進み出られる理由のひとつであった。主もまた、主に親しい聖徒がご自身の所に慕い求めて来る事を望んでおられる。

26:9 どうか、わたしを罪びとと共に、わたしのいのちを、血を流す人々と共に、取り去らないでください。
26:10 彼らの手には悪い企てがあり、彼らの右の手は、まいないで満ちています。

ダビデは、罪人が受ける災いをその者達と一緒に受ける事が無いように、と願った。
確かに強盗団のアジトに一緒にいたら、その者達が受けるべき災いを一緒に受けてしまう。

彼らは、悪いことを悪い事と知りながら、敢えてそれを行っているのである。

ヘブル10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。

私達は、罪を犯す人達の交わりから出たなら、もはや、その者達の報いを受けないように、そして、主にある聖徒の交わりの中で、共に主からの報いを得られるよう、求めるべきである。

26:11 しかしわたしは誠実に歩みます。わたしをあがない、わたしをあわれんでください。
26:12 わたしの足は平らかな所に立っています。わたしは会衆のなかで主をたたえましょう。

ダビデは告白した。誠実に歩みます、と。
結局、主に対して誠実な人こそ、主に対して心責められる所無く、やましさがなく、健全に神との関係を保ちつづける事ができるのだ。

主日礼拝 

たましいを刈り入れる時が来た(ヨハネ 4:31-38)

English Service

 
 今日は収穫感謝祭である。主は、私達が食べるようにと、大地の良き実りを与えて下さった。本日はそれを主に感謝する日である。土地が実らせる実りは、私達にとって喜びであるが、主が喜ばれる”実り”がある。
また、大地の実りを刈り入れる収穫があるように、天におけるまことの刈り入れと収穫がある。主が喜ばれる実りとは、私達人間が結ばせるものであり、そして天における収穫とは、人のたましいの収穫である。
 
 主の喜ばれる実り、主の食べる食物とは何か。
 
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34) 
 
 主が喜ばれる実りは、私達が御心を行い、そのわざを成す事である。主はさらに続けて、刈り入れの事を仰せられる。
 
『あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。』(35-36節)
 
 この時、イエス様は前もって、サマリヤの井戸で一人の女性と会い、彼女にイエス様の言葉という”種”を蒔いておいた。種付けられた彼女は、居ても立ってもいられなくなり、町へ出て行って人々にイエス様の事を伝え始めていた。彼女の口から出た御言葉の種は、その地方へと広まって行き、御言葉が種付けられた人々もまた居ても立っても居られなくなり、彼女の導きで、団体でイエス様の所に押し寄せて来る事になる。
 この事を指して、イエス様は、畑は色づき、刈り入れを待っている、と言われた。
古くから不信仰の町と言われていたサマリヤ、しかしメシヤを待ち望み、先祖ヤコブ由来の伝統を守っていたこの町に、イエス様が来られ、御言葉という種が蒔かれた事により、大いなる刈り入れが近づいている、と。
 
 人が思う刈り入れ時と、主の刈り入れ時とは違う。人は収穫までまだだろう、と思い込んでいても、私達は思い込みに従ってはならない。霊の目を開けて、見るべきである。刈り入れを待ち望んでいるたましい達に目を向けるべきだ。天の刈り入れで刈り取られるのは、人であり、人がイエス様を救い主として信じる時、たましいは収穫され、天国という倉に納められる。つまり、人それぞれが、主に捧げられるべき供え物なのだ。
 
 『そこで、『一人がまき、一人が刈る』ということわざが、ほんとうの事となる。わたしは、あなた方を遣わして、あなた方がそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。他の人々が労苦し、あなた方は、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。』(37-38節) 
 
 人々が救いを求めて飢え渇き、押し寄せて来る時こそ私達・主の弟子達の出番である。彼らにイエス様を伝えて、彼らが受け入れるなら、天の「刈り入れ」が成就する。
 
 天的な刈り取りシーズンが来ようとしている。いや、もう来ている。中国では一日に万単位の人々が救われ、それを脅威に感じた共産党が迫害にかかっている。アフリカは既に四方八方に教会が建っている。
 アマゾンも奥地に教会が既に1万箇所はあり、キム先生の弟子が、1000人の牧師を集めますので来て下さい、と言われても、1万人を1週間集めて寝起きさせる場所や経済がないから、今は行けない、という。
アメリカではユダヤ人600万人中、250万人が既にイエス様を信じている。ムスリムも、ユダヤ人も、イエス様に直接出会って救われる人が続々起こされており、先週も茨城の働きでイラン人2人が洗礼を受けた。
 
 私達は、働かなくてはならない。人々のたましいに救いへの飢え渇きが起こり、私達の元に来る時、彼らを、唯一満たして下さるイエス様のほうへと、一歩、背中を後押しして進ませるのだ。恐れてはならない。
 私達はそのためにこそ、遣わされたのだ。私達が労苦して種まいて育てたものを刈り取るのではない。主は、「わたしは、あなた方を遣わして、あなた方がそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。他の人々が労苦し、あなた方は、彼らの労苦の実にあずかっているのである」とまで言われた。私達はどうして、この救いのわざの「上げ膳据え膳」に、乗らないでおられようか。私達自身が、主の倉に納められるにふさわしい者となり、そして主の倉を、救いに飢え渇くたましい達でいっぱい満たして行くべきなのだ。
 
 今、日本だけが、不思議な現象が起きている。統計的に、殉教者が出た所は、必ず福音が栄えるはず、なのに、日本だけがその恩恵には「まだ」あずかっていない。日本は沢山の殉教者を出しているので、必ずこの国に、天的な刈り取りの時が来るはずだ。
 
 畑は色づき、刈り入れを待つばかりになっている。準備は出来ているだろうか? 刈り入れの時が来た時、その大いなる働きに、大いに用いられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

全ての問題解決を神に求める行動パターンを根付かせるための詩篇(詩篇25篇)
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詩篇25篇は、アルファベットの詩篇であり、1-22節の最初が、ヘブライ語のアルファベット(アレフ、ベート、ギメル、、、タウに至るまで)で開始される。
アルファベット順に並んでいるのは、単なる語呂遊びではない。覚えやすくなっているから覚えなさい、という事である。
いつも飢えている人には、飢えては魚を与え、飢えては魚を与え、を繰り返すより、魚釣りの方法を教える事のほうが恒久的な解決であるかのように、この詩篇を覚える事は、人生のどんな問題に対しても解決の糸口を見いだせる「釣り道具」を得たかのようである。

この詩篇には、敵が立ちはだかった時、道に迷った時、罪の問題に悩まされる時、苦しみが大きくなった時、それぞれの時々に祈るべき、祈りのし方が示されている。
ギリシア思考で歩む人は、このような問題が目の前にある毎に、誰か、他の人間に解決の糸口を見出そうとする。
しかし、この詩篇を暗唱したユダヤ人は、おのおの神に直接問題を持っていき、祈りによって、また神との交わりによって慰めを得、そして神ご自身から直接解決をいただく。
私達も、この詩篇を、暗唱とまでは行かなくても、いつも身近に置いて口ずさむ祈りとするべきである。

詩篇25篇 ダビデの歌
25:1 主よ、わが魂はあなたを仰ぎ望みます。
25:2 わが神よ、わたしはあなたに信頼します。どうか、わたしをはずかしめず、わたしの敵を勝ち誇らせないでください。
25:3 すべてあなたを待ち望む者をはずかしめず、みだりに信義にそむく者をはずかしめてください。

ダビデはまず、自分は主に対してどのようなスタンスであるのか、という宣言から始めている。
自分は「主」を仰ぎ望み、主に信頼する者だ、その主から直接、問題の解決を得る者だ、と。
そして、敵と相対する時、恥を見ることが無いようにと、まず祈っている。

25:4 主よ、あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください。
25:5 あなたのまことをもって、わたしを導き、わたしを教えてください。あなたはわが救の神です。わたしはひねもすあなたを待ち望みます。

彼はさらに、主の大路、主の道、そこにおける導きを求めている。ここに共通するキーワードは、「道」「導き」である。
私達も大なり小なり、常に歩むべき道の選択に直面しているが、迷った時、常に主に向かって祈り求めるべきである。
それによって主は、歩むべき道を教えてくださる。
たとえ、すぐには実体としての答がないように見えても、祈った時は平安を得られる。
そして、長い目で見たら、主は確かにあの時、私達の知り得なかった所で道を備えておられたのだ、と分かる。

続く祈りは、罪の問題についてである。

25:6 主よ、あなたのあわれみと、いつくしみとを/思い出してください。これはいにしえから絶えることがなかったのです。
25:7 わたしの若き時の罪と、とがとを/思い出さないでください。主よ、あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを思い出してください。

若い時は、激情の強さゆえに、あるいは、無知と軽率さゆえに罪を犯してしまう事がある。
そのように犯してしまった罪を、「思い出さないでください」とは、まことに都合の良い祈りのように見えるが、そのように求める事ができる根拠は、「あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって」である。

25:8 主は恵みふかく、かつ正しくいらせられる。それゆえ、主は道を罪びとに教え、
25:9 へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。
25:10 主のすべての道はその契約とあかしとを守る者には/いつくしみであり、まことである。
25:11 主よ、み名のために、わたしの罪をおゆるしください。わたしの罪は大きいのです。

子供が親に、まことに都合の良いお願いをして、親はそれを聞いてやるのは、子供が不完全で弱い事を知っているからである。
それだからこそ、子供は成長できる。
同じように、父なる神は私達の弱さをご存知であり、なにか罪や過ちを犯してしまった時は、速やかに親に戻って赦しを乞い願う事を、求めておられる。
ダビデはまことに、父なる神と、親子のような親しい関係にあるからこそ、大胆に「都合の良い」祈りで求める事が出来たのだ。
ペテロも、イスカリオテのユダも、共に湯を裏切ったが、イスカリオテのユダは自ら命を絶って、永遠に神との関係を絶ってしまった。しかしペテロは、恥を忍んでも主との関係を保ったゆえに、聖霊を受け、力強い主の働き人へとつくりかえられて行った。

続く箇所では、主を恐れ敬う人に主はどうしてくださるのかが示されている。

25:12 主を恐れる人はだれか。主はその選ぶべき道をその人に教えられる。
25:13 彼はみずからさいわいに住まい、そのすえは地を継ぐであろう。
25:14 主の親しみは主をおそれる者のためにあり、主はその契約を彼らに知らせられる。
25:15 わたしの目は常に主に向かっている。主はわたしの足を網から取り出されるからである。

主を恐れ敬う人に、主は、道を示して下さる。
主は、一人一人に、道をあらかじめ用意しておられる。

自分の願望や考えで頭の中がいっぱいな人は、目が曇らされて主の道を見ることができない。
しかしそれらを降ろして、主を主とする人、主の言葉に自らを従わせる人には、主の用意して下さった最良の道を見る事が出来、そこを歩む幸いを得る事ができ、そのような人こそが、あらゆる悪意ある罠から救われ、主の安全な道を歩む事ができるのだ。

続く箇所は、主に対する、ダビデの祈りである。

25:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれんでください。わたしはひとりわびしく苦しんでいるのです。
25:17 わたしの心の悩みをゆるめ、わたしを苦しみから引き出してください。
25:18 わたしの苦しみ悩みをかえりみ、わたしのすべての罪をおゆるしください。
25:19 わたしの敵がいかに多く、かつ激しい憎しみをもって/わたしを憎んでいるかをごらんください。
25:20 わたしの魂を守り、わたしをお助けください。わたしをはずかしめないでください。わたしはあなたに寄り頼んでいます。
25:21 どうか、誠実と潔白とが、わたしを守ってくれるように。わたしはあなたを待ち望んでいます。
25:22 神よ、イスラエルをあがない、すべての悩みから救いだしてください。

ダビデはいつも主に目を向け、心を向けている。
そのような人は、いつも主から直接、助けを引き出す事ができる。

この祈りを暗唱しているユダヤ人は、なにかある毎に、この詩篇の通り、すぐにダイレクトに主に向かい、祈り、主から直接的な助けを得ている。
私達はなにかある毎に、主を除外した思考でもって、誰かから何かの助けを、物を、お金を引き出そうとするが、それは一時的に解決を得たと思ってもすぐにまた別の問題に取り囲まれてしまう。
この詩篇の通りに、いつでも主に向かう思考パターン、行動パターンとなる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
 

主を礼拝する者のあり方(詩篇24篇)
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詩篇24篇 ダビデの歌
24:1 地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。
24:2 主はその基を大海のうえにすえ、大川のうえに定められた。

詩篇24篇には、主はいかなるお方であるのかと、主を礼拝する神の民のあり方が記されている。
まずダビデは、主は、この世のすべてのものは、主のものであると宣言した。
そうである。
ヨハネ1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
・・・
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

この、全てを創られ、全てを存続させておられるお方を受け入れる者は、神の子とされる特権が与えられる。
それだから、このお方に対し、大いに「耳」や「目」、「心」という門を開いて受け入れる人は、幸いである。

24:3 主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。

私達は、主の山に登るだけでなく、立たなければならない。
立つ事は、敬意を表する行為であり、そのためには、モーセのように、履き物を脱ぐ必要がある。
それまでの、自分の”くせ”で生きて来た生き方、やり慣れた方法でなく、御言葉が示された「主の方法」「主の手段」によって、礼拝するべきだ。

24:4 手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。
24:5 このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。

ここは、礼拝を捧げる人の姿が記されている。

主の山には、だれでもが登れるものではなく、礼拝するために選ばれた人、主が指名した人が、登る事ができる。
美容師の中で、指名される人とは、腕がいい人、接客態度がいい人であるのと同じように、私達も、主からの指名を受けるために、常日頃から主を敬う態度を示し、日ごと御言葉を口ずさみ、主の道を歩み続けるべきである。
人の側が常日頃、「最上の礼拝を捧げたい」という志を持つなら、主の側も「この人から礼拝を捧げられたい」「この人の捧げる香りをかぎたい」と、聖なる主の山へと召して下さるのだ。

24:6 これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである。〔セラ

イスラエルがヤコブだった時、彼は主と相撲を取り、もものつがいが外れる経験をした。
それ以降、ヤコブは、びっこを引いて歩くようになり、最後には、つえに寄りかかって主を礼拝した。
私達も、祈りによって主と相撲を取るべきである。
真剣に主の前に立つ時、主は、私達のそれまでの悪いクセをへし折って下さり、それまで平気でしていた悪い事をできなくしてくださる。
そして、主により掛かかって生きるようになって行き、そうして、霊的イスラエルへと創り変えられて行く。

24:7 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:8 栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。

戦いに力ある主、とダビデは告白した。
私達は、この世を歩み続ける上で、諸々の戦いがあるが、もし私達の中の御言葉が的確であるなら、主は、戦いに力ある主として、諸々の問題に戦って下さり、解決と勝利を与えて下さる。

24:9 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:10 この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。〔セラ

私達も、主に対しての門を、すなわち耳を、目を、この口を、主に向かって大いに開いて、主を受け入れるのだ。
もし御言葉が来る時、うつむいていたなら、門は閉じた状態のままで、それは王なるお方を迎え入れる姿勢ではない。
主を迎える時は、うつむくのではなく、頭を下げるのではなく、れっきとして、迎えます!どうぞ!という姿勢を示すべきだ。
顔を伏せるのは、主を敬っていない「カインの礼拝」である。

4:5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
4:6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
4:7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

私達はアベルの礼拝を捧げるべきである。

4:4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。

彼は、主を普段から敬い、初物と最良のものを捧げた。
私達も、祈りにおいてしっかり声を出して祈るべきであり、賛美の捧げ物において、心の底からの感謝と喜びを捧げるべきなのだ。

詩篇講解説教
詩篇23篇の最後を信仰告白で飾ったダビデ(詩篇23:6)
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『わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしは
とこしえに主の宮に住むでしょう。』(詩篇23:6)

ダビデは最後の6節を、自分の主に対する信仰告白で飾った。
聖書の最後も、聖徒の信仰告白で飾られている。

信仰は、表現されなければならない。
内に閉じこめているものは、信仰とは言わない。もし信仰があるというなら、表現しなくてはならない。
ヤコブ2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。

ダビデは5節までは、自分が信じている神のご性質を表現して来たが、この6節で彼は彼自身の信仰を告白し、この神に対し、自分はこれからどうして行きたいのかを表明した。
「Surely goodness and mercy shall follow me All the days of my life・・・」
わたしの人生の全体に、と、ダビデは、告白した。
一生の間、主の「いつくしみ」と「恵み」が追いかけてくるだろう、と。
恵みといつくしみは、英語ではgoodness and mercy、ヘブライ語ではトーブ טוב と ヘセド ד ח ד סד である。

「 טוב トーブ」は「良し」という意味であり、創世記1章にて主が創造の御業を行った都度、それについて評価した言葉である。
主の創造の御業は常にトーブであり、主と共に歩むなら私達もいつもこの主のトーブを獲得できる。

このトーブには、
1,Perfect! パーフェクト!
2,Beautiful! ビューティフル!
3,Good! グッド!
の意味がある。

続く「恵み ד סד  ヘセド」は、恵み、慈悲、憐れみ、いつくしみ深い、の意味である。

主の御業は、つねにパーフェクト、ビューティフル、グッドであるが、人間がその主の言葉に対して返した、御言葉に対する反逆の結果は、ことごとくその逆、すなわち、不完全であり、醜悪であり、バッドであった。
その結果もたらされた呪い、病、死の中にうめきつつ生きなくてはならなくなってしまったが、その状態の中にある人間に、救いの手が差し伸べられて、主の再創造の良きわざが与えられること、それがすなわち「恵み(ヘセド)」である。
例えば、堕落した生活ゆえに病になってしまった時、主の癒やしが行われたなら、その癒やしが、恵みである。

恵みは、主の創造のトーブに対し、人間がしてしまった罪による破壊、その破壊ゆえに人には病や死が入ってきてしまった、この破壊、死、病に対し、主の側が、一方的に再建を、いのちを、癒やしを与えて下さった事である。
恵みとは一方的に与えられるものであり、それは一切人間のわざではなく、ただ一方的に天から与えられる良きわざである。

主の家に住まう事、それはすなわち、トーブとヘセードを、両腕にかかえて生きる人である。
共にいます主の創造のトーブのわざがいつも共にあり、もし主から離れて、罪ゆえの破壊が起きてしまったとしても、主に立ち返るなら、主のヘセドがそれを癒やしてくださる。
ダビデはいつも、そのトーブとヘセドに囲まれた人生であった。
それで彼は告白したのだ。
トーブとヘセードがずっとわたしを追いかけてくるから、生涯、わたしは主の家に住もう、と。

男女関係においても、告白が無いなら、関係は成立しない。
その点、雅歌書は愛の告白で満ちているからこそ、愛の甘さ酸っぱさの感覚で溢れている。

雅歌2:3 私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。
2:4 あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。
2:5 干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。
2:6 ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。

雅歌書の男女は、相手がいかなる方であるのか、自分は相手にどうして欲しいのかという告白で満ちているから、この関係が甘く麗しい関係である事が分かる。
私達も、主がいかなるお方であるお方であるか、どのようにして欲しいのかを常に告白するべきである。
そうすれば、主との関係がどんどん甘く麗しいものになって行く。

トーブとヘセドを送ってくださる主。
わたしを緑の牧場へと導いて下さった主、死の陰の谷も守り導いて下さった主。
敵の前で宴を設けて下さった主。

わたしを愛して下さった、わたしの愛する主の家に住む。それは何と甘くうれしい日々、エデンの園で過ごすかのような幸いな日々だろう。
私たちもダビデのように告白し、トーブとヘセドを私達の人生に結びつけたい。

イエス・キリストという門(ヨハネ10:7-16)
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ヨハネ10:7 そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。
10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
10:13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
10:15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。

黙示録4:1 その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。

黙示録3:7 ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。
3:8 わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。
3:9 見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
3:10 忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。
3:11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。
3:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。
3:13 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

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