メッセージ - 201903のエントリ
神を尋ね求める者を救われる主(詩篇53篇)
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詩篇53篇表題「聖歌隊の指揮者によってマハラテのしらべにあ わせてうたわせたダビデのマスキールの歌」
53:1 愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。
愚かなもの(ナバール)は、不純なこと、悪辣な事をあえてする人で、そんな彼らの根底に流れている人生観が「神はいない」である。
神を敬う人であるなら、たとえ一人でいる時でも、悪と見られる事に躊躇を覚える。
どこでも見ておられ、全てを知っておられるお方を敬っているからだが、愚かな者たちは何の呵責もなく悪を為し、利得をむさぼり、破滅の海原へと躊躇なく飛び込んでいくが、それは勇気や強さではなく、愚かさと無知の故だ。
「腐りはて」と記されている語「シャカァス」は自己破滅の状態で、まさに洪水前の世界の状態である。
創世記6:11 時に世は神の前に乱れて(シャカァス)、暴虐が地に満ちた。
6:12 神が地を見られると、それは乱れていた(シャカァス)。すべての人が地の上でその道を乱した(シャカァス)からである。
6:13 そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう(シャカァス)。
上記合計3節で4回も「シャカァス」が登場する。
すなわち人が破滅の行いをし、神の目に破滅状態で、そして世は、破滅した人によって破滅されてしまった状態であった。
これが「神はいない」の価値観を持った人間が増殖してしまった世界の、成れの果てである。
53:2 神は天から人の子を見おろして、賢い者、神を尋ね求める者があるかないかを見られた。
神は、天から、じっくりと、見ておられる。賢い者、神を尋ね求める者がいないかを。
ここで「賢いもの」と訳された語「サハール」のヒフィル(使役)態は、じっくり見る、注意を払って観察する、洞察力を持っている等の意味である。
神が私達にもとめておられることは、自らすすんでじっくりと神を尋ね求め、神を観察する事である。
ノアの時代の以前、ノアとその家族以外の全ての人々が腐れはて、憎むべき不義をおこなった。
53:3 彼らは皆そむき、みなひとしく堕落した。善を行う者はない、ひとりもない。
神は当時、目を皿のようにして地をご覧になられ、ノアを見出し、そして彼らを救って新しい世代を起こされた。
53:4 悪を行う者は悟りがないのか。彼らは物(レヘム:パン)食うようにわが民を食らい、また神を呼ぶことをしない。
彼らは神の民を喰らい尽くす事において、パンを食べるがごとく、躊躇もなく、良心のとがめもない。
しかしあいにく、彼らが食う「神の民」は、パンとは違い、祈る民、神に言いつける民である。
神の民が神にむかって叫ぶ時、神が働かれる。
そこで神が彼らのために動き出し、彼らを救い、悪人にはさばきをもたらされる。
53:5 彼らは恐るべきことのない時に大いに恐れた。神はよこしまな者の骨を散らされるからである。神が彼らを捨てられるので、彼らは恥をこうむるであろう。
この出来事の典型例が、ヒゼキヤ王の時代に起きた事だろう。
かの時代、アッシリアが台頭し、セナケリブ王がイスラエルへと攻めてきて、神の民と、そしてイスラエルの神である主をなじった。
2歴代誌32:10 「アッシリヤの王セナケリブはこう言っておられる。おまえたちは何に拠り頼んで、エルサレムの包囲の中でじっとしているのか。
32:11 ヒゼキヤは、『私たちの神、主は、アッシリヤの王の手から私たちを救い出される。』と言って、おまえたちをそそのかし、飢えと渇きで、おまえたちを死なせようとしているではないか。
・・・
32:15 今、おまえたちは、ヒゼキヤにごまかされるな。このようにそそのかされてはならない。彼を信じてはならない。どのような国、どのような王国のどのような神も、その民を私の手から、私の先祖たちの手から救い出すことはできない。まして、おまえたちの神は、おまえたちを私の手から救い出すことはできない。」
このように豪語した者はどうなったか。
2歴代誌32:20 そこで、ヒゼキヤ王とアモツの子預言者イザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めた。
32:21 すると、主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの王の陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させた。そこで、彼は恥じて国へ帰り、彼の神の宮にはいったが、自分の身から出た子どもたちが、その所で、彼を剣にかけて倒した。
32:22 こうして、主は、アッシリヤの王セナケリブの手、および、すべての者の手から、ヒゼキヤとエルサレムの住民とを救い、四方から彼らを守り導かれた。
まさに詩篇に記されていたとおり、彼らは恐るべきことのない時に大いに恐れ、このよこしまな者たちの骨を散らされ、彼らは神をなじった故に大いに恥をこうむった。
神は確かに生きておられる。
たかだか100年ほどしか生きられない人間が、どんなに神はいないと吠えようとも、永遠に生きておられる神は、その高ぶる者たちを倒し、そして悩む民が主に呼ばわったとき、その声を聞かれ、実際に働かれたお方。
53:6 どうか、シオンからイスラエルの救が出るように。神がその民の繁栄を回復される時、ヤコブは喜び、イスラエルは楽しむであろう。
私達ダビデのように救いを求め、回復と繁栄を求め、全て主の民が喜び楽しむことを、イエス・キリストの御名によって求めることができる。
なぜなら私達にはイエス・キリストがおられ、おりにかなった助けを得るために大胆に恵みの御座へと近づく事ができるからだ。
悪の力でのし上がって行こうとする者、対、主により頼む者(詩篇52篇)
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詩篇52篇表題「聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデのマスキールの歌。これはエドムびとドエグがサウルにきて、「ダビデはアヒメレクの家にきた」と告げたときにダビデがよんだもの」
この表題の出来事は、1サムエル記21-22章にある。
ダビデがサウルから逃れて祭司アヒメレクのところに行った場面である。
命を狙われたダビデが、主を慕い求めるために礼拝の場に行ったのだが、そこに表題のドエグという者がいた。
『その日、その所に、サウルのしもべのひとりが、主の前に留め置かれていた。その名はドエグといい、エドムびとであって、サウルの牧者の長であった。』(1サムエル記21:7)
エドム人とは、エサウの子孫、すなわち、一杯の食物と引き換えに尊いものを売った者の子孫である。
彼は主を慕うために主の前にいたではない。何かの訳あって、そこに置かされていたのだが、彼は主を敬う心は全く無かった。
サウルは、主の御胸でないことを次々にして行く内に、どんどん悪霊に満たされ、どんどん人格が崩壊して行くが、ドエグはサウル王という権力者に気に入られるためには、通常の神の民には到底できないような物事も平気で行う。
『そこで王はドエグに言った、「あなたが身をひるがえして、祭司たちを殺しなさい」。エドムびとドエグは身をひるがえして祭司たちを撃ち、その日亜麻布のエポデを身につけている者八十五人を殺した。彼はまた、つるぎをもって祭司の町ノブを撃ち、つるぎをもって男、女、幼な子、乳飲み子、牛、ろば、羊を殺した。』(1サムエル記22:18-19)
剣で殺したのだから、返り血も浴びただろう。
エポデを着た祭司達の、血まみれの死体八十五体が累々と横たわる様を見ても全く動じず、むしろそこ(ギブア)からわざわざ祭司の町・ノブまで出向いて、祭司の妻や女子供、乳飲み子ばかりでなく、家畜までも、殺し尽くしたのだ。
このようなことをしたのが、ドエグである。
ダビデは、ドエグがした事を聞いて、この詩篇52篇を記した。
なお、この詩篇52篇もV字キアズム構造を為しており、表題(A)が9節(A')に、1節(B)は8節(B')に、2−4節(C)が6-7節(C')に、そしてV字構造の真ん中が、5節(D)である。
詩篇52:1 力ある者よ、何ゆえあなたは/神を敬う人に与えた災について誇る(ハラル)のか。あなたはひねもす人を滅ぼすことをたくらむ。
KJV: Why boastest thou thyself in mischief, O mighty man? the goodness(ヘセド) of God endureth continually.
この者は、神を敬う人に与えた災について「誇った(ハラル)」。
ヘブライ語のハラルは、有名な語「ハレルヤ」の元で「ほめたたえる」、あるいは「明確にする」「高く上げる」意味がある。
彼は、悪である事を高くあげ、狂気の王サウルにおもねる事によって、力や富を得て行った。
その者は、主を礼拝する場にいながらにして、主を求めず、むしろ暴虐を求めた。
ダビデはドエグを「力ある者」と言ったが、残虐な事や冒涜的な事を躊躇なく行う意味での「力ある者」であるが、しかし、神のgoodness(ヘセド)は、いつでも注がれ続けている。
詩篇52:2 虚偽を行う者よ、あなたの舌は鋭いかみそりのようだ。
52:3 あなたは善(トーブ)よりも悪を好み、まことを語るよりも偽りを語ることを好む。〔セラ
52:4 欺きの舌よ、あなたはすべての滅ぼす言葉を好む。
2節と4節に「舌」のキーワードが出て来る。
彼らは舌によって善人を切り刻もうとし、神のみわざの「善(トーブ)」よりも、サタンの悪というわざを好み、神に属する真理よりも、サタンに属する偽りを好んだ。
その時点で、主の御まえにおいて勝負ありである。
なぜなら神は悪魔サタンを圧倒的力で永遠の災いを降し、偽りは真理の光の前に消え去る以外にはないからだ。
そういうわけでダビデは、そのような者を呪う。
詩篇52:5 しかし神はとこしえにあなたを砕き、あなたを捕えて、その天幕から引き離し、生ける者の地から、あなたの根を絶やされる。〔セラ
私達も真理に立って、「呪うべきもの」を見た時は、真理の御言葉を盾に取って、呪うべきだ。
「呪うべきもの」とは、ドエグのように自分の強さにより頼み、卑しい利得を得るためには、正しい者を訴え、罪なき者を虐げるような、嘘・偽り・破壊活動・卑怯な事を行う悪魔サタンのわざである。
それらは、主イエスの御名によって廃れて行き、むしろ真理が、いのちのわざが、健やかさが、また弱いものが助けられる事が広がっていくよう祈り求めるのだ。
5節まではドエグのような劣悪な者に対しての宣言だったが、6節以降は、正しい者についての宣言である。
詩篇52:6 正しい者はこれを見て恐れ、彼を笑って言うであろう、
52:7 「神をおのが避け所とせず、その富の豊かなるを頼み、その宝に寄り頼む人を見よ」と。
2-4節では悪しき者が舌を用いて正しい者を陥れる者達について語られた。対して6-7節では、正しい者達はむしろそのような者達を笑う。
神を避け所とせず、富をたのみにしている者こそ、まことに滅びが近い事を知っているからだ。
そのような卑怯なものが富や権力を得ても、恐れてはならない。
詩篇49:16 人が富を得るときも、その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。
49:17 彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことは/ないからである。
49:18 たとい彼が生きながらえる間、自分を幸福と思っても、またみずから幸な時に、人々から称賛されても、
49:19 彼はついにおのれの先祖の仲間に連なる。彼らは絶えて光を見ることがない。
49:20 人は栄華のうちに長くとどまることはできない。滅びうせる獣にひとしい。
そしてダビデは宣言する。
詩篇52:8 しかし、わたしは神の家にある/緑のオリブの木のようだ。わたしは世々かぎりなく神のいつくしみを頼む。
ダビデはこの時、サウル王に追われる国家的な指名手配をされているような状況だったのに、「わたしは神の家にあるオリーブの木のように茂っていく」と宣言できた根拠は、彼は「世々かぎりなく神のいつくしみを頼」んでいる事だ。
次のように書いてある。
詩篇147:7 主に感謝して歌え、琴にあわせてわれらの神をほめうたえ。
詩篇147:8 主は雲をもって天をおおい、地のために雨を備え、もろもろの山に草をはえさせ、
詩篇147:9 食物を獣に与え、また鳴く小がらすに与えられる。
詩篇147:10 主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。
詩篇147:11 主はおのれを恐れる者とそのいつくしみ(ヘセド)を望む者とをよみせられる。
人は、馬や力を得て、強制力を得て自分の欲望を満たそうとするが、そもそも、その馬に草を与えるのは主である。
主は、自分の強制力で欲望を満たそうとする者を喜ばれない。
むしろ主が喜ばれるのは、主のいつくしみ(ヘセド)を待ち望む人である。
主は、山に草を生えさせ、動物や鳥たちに食べ物を豊かに備えてくださる方。
それに引き換え、悪人は、悪辣な王に取り入ってでも、卑怯な事をしてでも富や力を得ようとし、腕力や悪賢さを鍛え、嘘偽りの力でそれを保持して行かなくてはならない。
主により頼む人達と、悪人。勝敗はどちらにつくか、明白である。
詩篇52:9 あなたがこの事をなされたので、わたしはとこしえに、あなたに感謝し、聖徒の前であなたのみ名をふれ示そう。これはよいことだからである。
ドエグはダビデをサウル王に告げ口したが、ダビデは主を褒め称え、主に感謝をささげ、ドエグを主に告げ口した。
私達は、世の強者や権力者におもねる者ではなく、全てを豊かに与えて下さる主から豊かに与えられる者として、主に賛美と感謝をささげ、主のヘセドを求め栄えていく者達である。