詩篇 講解説教
ダビデの連戦連勝の陰にあった、彼の葛藤の祈り(詩篇60篇)
詩篇60篇表題『聖歌隊の指揮者によって、「あかしのゆり」というしらべにあわせて教のためにうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデが、アラムナハライムおよびアラムゾバと戦ったとき、ヨアブがその帰りに、塩の谷でエドムびと一万二千人を殺したときによんだもの』
この表題の出来事は、第2サムエル記8章、1歴代誌18章で示されている。
それらの記事を見ると、「ダビデは**と戦った、勝った」と、結果だけが淡々と記されていて、途中どんな葛藤やドラマがあったのかは記されていないので、その箇所だけを見るなら、あたかもダビデは、何の苦労も無く連戦連勝したかのように見えるかもしれない。
しかし、詩篇60篇の内容を見ると、決してそうではなかったのだという事が伺える。
詩篇60:1 神よ、あなたはわれらを捨て、われらを打ち破られました。あなたは憤られました。再びわれらをかえしてください。
60:2 あなたは国を震わせ、これを裂かれました。その破れをいやしてください。国が揺れ動くのです。
60:3 あなたはその民に耐えがたい事をさせ、人をよろめかす酒をわれらに飲ませられました。
ダビデはその時、北のアラム・ナハライム(アラム軍)や、アラム・ツォバ(ダマスコの北東の国)と戦っているさ中で、しかもその時、南からはエドムが蜂起して戦いを仕掛けて来た。
強敵が次から次へとイスラエルに襲いかかって来る。
その時、ダビデは、あたかも神が憤ってダビデを捨てたかのように感じたのだ。
ダビデがここまで弱気な事を書いたからには、この時のイスラエルは、普通の人が見るなら、誰が見ても絶望、と見られる程の、危機的状況だったのだろう。
しかしダビデは、信仰を奮い立たせて、宣言する。
詩篇60:4 あなたは弓の前からのがれた者を再び集めようと/あなたを恐れる者のために/一つの旗を立てられました。〔セラ
ここは、訳し方が分かれる節である。
原文は以下である。
ナタター(あなたは与えた) リレエイカ(恐れる、打つ) ネス(旗) レヒトノーセス(ひらめく、逃れる) ミペネイ(顔に、〜前に、のために) コシェット(ヘブライ語:真理、アラム語:弓) セラ
口語訳や新改訳は、コシェットをアラム語の「弓」と訳したが、KJVや新共同訳は、ヘブライ語の「真理」と訳している。
主は、主をおそれ敬う人達、すなわち主を避け所として、主の御旗の元に集う人の前には、真理(あるいは弓)をもって、偉大な御力をあらわしてくださるのだ。
旗には、自分の所属のしるしが記されている。
私達も、自分の所属は、天地を創られた主である、という事を表明するために、主の御旗を掲げるべきである。
どのようにしたら、主の御旗を掲げる事が出来るのだろう。
出エジプト記に、主の旗をかかげて勝利をもたらした記事がある。
『モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9-10)
手を上げて主に祈る事が、すなわち、主の旗を掲げる事である!
『モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。』(11節)
モーセが背後で祝福の手を上げて祈る、その手が「主の旗」となり、それが戦いを左右した。
教会と、世の組織との違いは、祈るか、祈らないか、であり、祈る教会と祈らない教会とでは、大きな違いが出てくる。
世の人は、肉弾戦で戦おうとするが、私達・教会は、主の御名によって祈る事によって、天の扉を開けたり閉めたりする権威をもって、戦うのである。
出エジプト記17:12 しかしモーセの手が重くなったので、アロンとホルが石を取って、モーセの足もとに置くと、彼はその上に座した。そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった。
このように、霊的指導者の祈りの手が下りないように支える働きは、実戦部隊より重要である。
教会も、牧会者が祈りと御言葉の奉仕に専念できるよう、事務作業において、経済において、支える働き人が必要である。
もし牧会者ひとりが、祈りと御言葉の奉仕をし、その上で事務作業をしたり、日銭を稼いだりしていたら、疲れ果てて、祈りの手が萎えてしまう。
出エジプト記17:13 ヨシュアは、つるぎにかけてアマレクとその民を打ち敗った。
祈りに専念したら、ヨシュアが戦って勝利してくれた。
ヨシュア、ヘブライ語でイエシュア、その意味は「主は救い」。すなわちヨシュアは、イエス様の名と同じである。
私達も、祈りの手を上げて主の旗をかかげるなら、まことのヨシュアであられるイエス様が戦って、勝利をもたらしてくださるのだ。
出エジプト記17:15 モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。
17:16 そしてモーセは言った、/「主の旗にむかって手を上げる、/主は世々アマレクと戦われる」。
「主は世々、戦われる」と書いてある。世々に、という事は、今も、である。
現代の私達も、手を上げて祈る時、主の旗が掲げられ、そうして主は、今も、主の民に敵対する者と戦われるのだ。
詩篇60篇は、4節で、セラ(モードチェンジ)が宣言されている。
恐れおののいていたダビデは、主の御旗を掲げた信仰宣言によって、その雰囲気をチェンジする。
詩篇60:5 あなたの愛される者が助けを得るために、右の手をもって勝利を与え、われらに答えてください。
ダビデは、主の右の手をもって勝利を与えてください、と願った。
主の旗は、世々に渡って勝利を与えて下さる主の手である。
そしてダビデは、主の聖所に入り、主の言葉を聞いた。
詩篇60:6 神はその聖所で言われた、「わたしは大いなる喜びをもってシケムを分かち、スコテの谷を分かち与えよう。
60:7 ギレアデはわたしのもの、マナセもわたしのものである。エフライムはわたしのかぶと、ユダはわたしのつえである。
シェケムとエフライムはヨルダンの西側、スコテとギルアデはヨルダンの東側の地で、それらの地は元々、創世記15章において、主が「与える」と約束された相続地である。
私達も、祈りの内に主の聖所に行って、主の約束の御言葉を盾にとって祈るなら、それは実現する。
詩篇60:8 モアブはわたしの足だらい、エドムにはわたしのくつを投げる。ペリシテについては、かちどきをあげる」と。
モアブ、エドム、ペリシテは、神の民に敵対して来た者達であるが、主は、それを足の下に踏みつける、と言われる。
私達も、御言葉を宣言するのだ。
「平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。」(ローマ16:20)
詩篇60:9 だれがわたしを堅固な町に至らせるでしょうか。だれがわたしをエドムに導くでしょうか。
60:10 神よ、あなたはわれらを捨てられたではありませんか。神よ、あなたはわれらの軍勢と共に出て行かれません。
60:11 われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいのです。
ダビデは、北から南からイスラエルを引き裂こうとして来た強敵を前に一度は恐れおののいたが、しかし信仰告白によって奮い立つ。
詩篇60:12 われらは神によって勇ましく働きます。われらのあだを踏みにじる者は神だからです。
ダビデは「神によって」と宣言した。
そう、人の力や助けは虚しいが、神にあって私達は強い。
ダビデはこの宣言をもって、戦った結果、あっさりと勝利した。
サムエル記や歴代誌の記述だけを見ると、あたかもダビデは何の葛藤もなく、あっさりと勝ったかのような印象を受けるが、そうではない。
ダビデにも戦いの毎に恐れがあり、そして主への祈りと信頼があり、そして勝利する度に、主への感謝と賛美があったのだ。
この詩篇の表題にある「あかしのゆり」の原語は、シュシャン・エイドゥース。
シュシャンはゆり、エイドゥースは「あかし」で、新共同訳では「定め」「教え」と訳されている。
つまりこの詩は、教えのために作られたものであると考えられる。
この詩は、現代の私達にも、教える。
戦いを前に、あるいはコロナウイルスが蔓延る現状に、恐れがあるだろうか。葛藤があるだろうか。
しかし主は、今も、祈りの手を上げて御旗を掲げる人には、イエシュアであられるイエス様が戦ってくださり、勝利をもたらしてくれるのだ。