メッセージ - 202005のエントリ

主日礼拝

期待し望む者に与えられる聖霊(ヨハネ 14:11-21)

第一礼拝 Youtube動画

賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要 

 本日はペンテコステ(聖霊降誕日)。主が弟子達に約束しておられた通り、聖霊が与えられ、その日を境に、彼らはイエスを大胆に証する強力な働き人へと変えられた。今の日本ほど、聖霊によるしるしや奇跡が必要な時代はない。世の人々は、教会が世に媚びて発信する知識や哲学めいた事、エンターテインメントなどでは、釣られない。そうしたものは幾らでも世にあって、そちらのほうが魅力的だからだ。しかしもし、有り得ないような奇跡や癒し、しるしが起きるなら、彼らは、そのわざによって信じるようになる。(ヨハネ14:11)
 奇跡やしるしが起きる理由は、それによって人々が驚き怪しみ(5:20)、神が栄光を受け、また神の子が栄光を受けるためであり(11:4)、神を知らなかった人が知るようになり、信じようとしない人が信じて救われるためである。私達は、この聖霊の働きが実際に起こる!と、どれほど具体的に信じ、期待しているだろう。
 聖霊充満にあずかれる人とは、主から言われた事を思い巡らし、そうなる、と期待し続ける人である。
復活の主が昇天される時、500人以上の人々が集まっていたが、五旬節の日に聖霊充満を体験したのは、たった120人だった。残りの380人は、期待し続けられず、去ってしまったのだ。具体的に期待し、望み続ける事こそ、聖霊を受ける条件である。では、私達がその「期待」の度合いを高めるには、どうしたらいいか。
 
 当時、弟子達は共に集い、共に賛美(テヒラー)し、祈り(テフィラー)に専念していた。当時ユダヤ人の賛美は、詩篇にメロディをつけて歌うというもので、当時の祈りは、聖書の言葉をそのまま暗唱する事だった。
 それを反復するのが、我々がしている「テフィリン」である。主の言葉をじっくり思い巡らし、宣言し続けていくと、矢のように飛んで来る言葉や、感動する言葉、心について離れない言葉が現れる。それをさらに思い巡らし続けて行くと、どんどん清められ、内側に聖なる領域がどんどん広まり、また、罪や肉欲の領域がどんどん縮小されて行く。そうしてどんどん、主のわざを為すのに適した器となって行く。そして、ついに主のタイミングが来た時、聖霊が爆発的に働き、もの事、人、状況に対して、圧倒的な主の御業が遂行される。
 だから私達も、弟子達がしたように、主の言葉を喜びつつ期待するのだ。聖霊が来るなら、主がしていたわざが自分達にもできる、今までイエス様に関心が無かったあの人が、俄然聞くようになる、今まで山のように動かなかった状況が動き、癒されなかった病が癒され、出ていかなかった悪いくせが出ていく、と。
 
 異邦人が集団で聖霊充満するきっかけを作った、百人隊長のコルネリオは、元々、ユダヤ人の信仰を見て、自分もそうなりたいと「期待」し、ユダヤ人のように祈り(御言葉を黙想し)、断食し、施しをしていた。
 彼がペテロを招いた時、家族や多くの友人達も、そこに招き寄せていた(使徒10章)。カイザリヤという娯楽や誘惑が多い町で、ローマの百人隊長が、被支配国の一般人から宗教的な指導をいただく集会…。
人数を集めるのはとても難しそうだが、彼はどうして多くのローマ人を集められたのか。それは、彼はいつも「期待」していた故だ。それで、彼の祈りや施しにはいつも祝福がついて回り、彼がいつも良い方向へ変わっているのを、家族や友人達が見て、彼が信じる神は本当にいるかもしれない、と思われていたのだろう。
 果たして私達は、御言葉に期待して良い方向に変わった姿を、家族や友人から評価されているだろうか。
もし自分が変わらないまま、福音を伝えたり、教えても、聞きはしないだろうし、集会に来てもらえないだろう。
だからまず、御言葉に期待し自分が変わる必要がある。祈りや賛美を「ルーチンワーク」にしてはならない。
祈りと賛美に真心を込め、主のうめきを共に感じ、切に祈るのだ。イエス様、この事は一体どうしたらいいですか?このままではわたしは潰れてしまいます。このままではあの人は滅んでしまいます。このままでは国に将来はありません。ああ主よ!と。偉大な王・ダビデがいつもそのようだった事は、詩篇を読めば分かる。
ルーチンワーク的な礼拝を、主は嫌う。ルーチンワーク化されたパリサイ人の礼拝より、胸を叩いて涙を流した取税人の礼拝のほうを、主は選ばれた。主はうめき、痛み、喜びの余韻を持っている人を求める。
 だから、いつも「神の国の余韻」を持っているべきだ。この余韻を習慣的に持っているなら、町を歩いていて、全く知らない人をぱっと見ても、なんであの人はあんな事するんだろう、主よ!といううめきが出てくる。
 普段からのうめきが無いなら、たとえ御言葉を宣言しても、あるいはその人を前に祈っても、上っ面の祈りしか出てこない。いつも人に対し、時代に国に対し、イエス様、なんとかしてください、とうめきを持つべきだ。
 今、私達は期待しつつ、聖霊を求めるべきである。助け主が来るなら、主のわざを行う事ができる。物事が変わっていく。それをありありと望み、実際に得て、多くの人をイエス様へと導く皆さんでありますように!
 

金曜徹夜祈祷会

家族や友人を福音へと導ける理由・導けない理由(使徒10:1-11:18)

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性行為が「恥ずかしい」理由(レビ記15:16-24)

 以下の神様の指示も、現代の価値観で見るなら、不愉快に思えるかもしれない。

『人がもし精を漏らすことがあれば、その全身を水にすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。すべて精のついた衣服および皮で作った物は水で洗わなければならない。これは夕まで汚れるであろう。男がもし女と寝て精を漏らすことがあれば、彼らは共に水に身をすすがなければならない。彼らは夕まで汚れるであろう。また女に流出があって、その身の流出がもし血であるならば、その女は七日のあいだ不浄である。すべてその女に触れる者は夕まで汚れるであろう。』(レビ記15:16-19)
 
 
男性が子種を流し出した場合、女性が生理で経血を流した場合、男と女が性行為を行った場合、いずれも「汚れ」の状態となるため、水で洗わなくてはならず、夕方まで汚れるとされる。
 
経血が排出された女性は七日間汚れ、彼女が座った物も、それらに触れた人も、汚れるとされる・・・。差別や人権の観点から見るなら、ひどい話に聞こえるかもしれないが、私達キリスト者が御言葉と向き合う時、自分の快・不愉快の判断基準を、持ち込むべきではない。
 
「清い・汚れている」を定められるのは主であり、主が定められた以上は、その背後にどんな真理が隠されているのか、御言葉を根拠に解き明かしていくべきである。
 
 
神の基準では、男性・女性に限らず、性器からの漏出や、性行為は、「汚れ」というカテゴリに入る。
 
いのちを生み出す上で必要な生体活動や、すばらしいはずのその行為が、どうして「汚れ」になってしまったのだろう。
 
その原因は、創世記に記されている。
 
 
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』(創世記1:26-28)
 
いのちを生み出すための活動は、元々、「生めよ、ふえよ」という祝福の命令に叶った、神の似姿を増殖させる、聖なる、素晴らしき良きものだった。
 
 
『それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。』(創世記2:24-25)
 
ここに、何のやらしさも、やましさも、感じられない。
 
二人は一つ肉となる。罪なき人の「肉」は、汚れたものでも、恥ずかしいものでも、全然なかった。
 
一体、いつから、性にまつわる事を、恥ずかしいと思うようになったのか?
 
それは、善悪を知る知識の木の実を食べた「直後」である。
 
 
『女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。』(創世記3:6-7)
 
目が開かれ、神のように善悪判断をするようになった時、彼らが真っ先に知ったのは、自分たちが裸である事。
 
そして、真っ先に覆い隠したのは、腰、すなわち、生殖器だった。
 
 
男性器・女性器は、人が罪を犯す前、神の聖なる似姿を増やしていくための、御心に叶った、素晴らしき良きものだったのが、人が罪を入れ込んでしまった結果、大いなる大逆転し、罪を産んで増やしていくための、御心を損なう、汚れた、恥ずかしむべきものとなってしまったのだ。
 
聖なる神の似姿を増やしていく、最も良き事が、邪悪な罪をはびこらせる、最も忌むべき事となってしまう。
 
だから、アダムとエバは真っ先に、そこを隠したのではなかろうか。
 
 
事実、性の乱れによって、人類は、奈落を転げ落ちて行くかのように悪い方向へ向かった。
 
エバが最初に産んだカインが、早速、弟殺しの殺人者となったのを筆頭に、ノアの時代に至るまで、神の子たちは、人の娘達と不自然な性関係を持ち、そうしてネピリムが生まれ、人の悪がますます増大して行き、ついには、世界は一度、水によって滅びるに至ってしまった。
 
それ故、神は、生殖器から出るものも、性行為も、「汚れ」とされたのではなかろうか。
 
 
この、性の乱れによる悲惨さから救われる唯一の道は、イエス・キリストを信じる事によって、神の子として生まれ変わる事である。
 
アダム以来、罪がはびこり呪われてしまった被造物は、キリストに贖われた人達、すなわち神の子達のあらわれを待っているのだ。
 
 
『被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
 
実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。』(ローマ8:19-23)
 
 
人は、性的な事に羞恥心を覚える。それはアダム以降の人間には、正当な感覚である。
 
しかし、その正当な「羞恥心」という感覚を、意図的にねじ曲げているが故に、不自然で、歪んだ「性」をはびこらせているのが現代であり、ネピリムが闊歩していた時代のごとく、罪を、悲惨さを、大量に産み出している。
 
それ故、私達がレビ記に記されている事を読む時、私達は、へりくだるべきであり、私達の側に罪がある事を、覚えなくてはならない。

ホセア書 講解説教 水曜夕礼拝

買い戻された姦淫の妻(ホセア2:16-3:5)

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エゼキエル書 講解説教 水曜昼礼拝

エゼキエルに与えられた使命:見張り人として警告を発する(エゼキエル3:16-27)

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他の引用箇所:
ルカ24:49-53
1テモテ4:13-16
 

早天礼拝

御言葉が「謎」でなはなく、はっきり分かるようになるために(ヨハネ16:25-33)

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16:25 わたしはこれらのことを「比喩(パロイミア:真意を隠した表現、謎)」で話したが、もはや比喩では話さないで、「あからさまに(パレースィア:自由に、大胆に、あからさまに、公然と)」、父のことをあなたがたに話してきかせる(カナゲロー:表明する、マニフェストする)」時が来るであろう。
 
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

 

ルカ24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて

24:46 言われた・・・

24:52 彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、

24:53 絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。

 

 

ヨハネ16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

1ヨハネ4:4 子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。

4:5 彼らは世から出たものである。だから、彼らは世のことを語り、世も彼らの言うことを聞くのである。

 

詩篇 講解説教

ダビデの連戦連勝の陰にあった、彼の葛藤の祈り(詩篇60篇)

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詩篇60篇表題『聖歌隊の指揮者によって、「あかしのゆり」というしらべにあわせて教のためにうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデが、アラムナハライムおよびアラムゾバと戦ったとき、ヨアブがその帰りに、塩の谷でエドムびと一万二千人を殺したときによんだもの』
 
この表題の出来事は、第2サムエル記8章、1歴代誌18章で示されている。
それらの記事を見ると、「ダビデは**と戦った、勝った」と、結果だけが淡々と記されていて、途中どんな葛藤やドラマがあったのかは記されていないので、その箇所だけを見るなら、あたかもダビデは、何の苦労も無く連戦連勝したかのように見えるかもしれない。
しかし、詩篇60篇の内容を見ると、決してそうではなかったのだという事が伺える。
 
詩篇60:1 神よ、あなたはわれらを捨て、われらを打ち破られました。あなたは憤られました。再びわれらをかえしてください。
60:2 あなたは国を震わせ、これを裂かれました。その破れをいやしてください。国が揺れ動くのです。
60:3 あなたはその民に耐えがたい事をさせ、人をよろめかす酒をわれらに飲ませられました。
 
ダビデはその時、北のアラム・ナハライム(アラム軍)や、アラム・ツォバ(ダマスコの北東の国)と戦っているさ中で、しかもその時、南からはエドムが蜂起して戦いを仕掛けて来た。
強敵が次から次へとイスラエルに襲いかかって来る。
その時、ダビデは、あたかも神が憤ってダビデを捨てたかのように感じたのだ。
ダビデがここまで弱気な事を書いたからには、この時のイスラエルは、普通の人が見るなら、誰が見ても絶望、と見られる程の、危機的状況だったのだろう。
しかしダビデは、信仰を奮い立たせて、宣言する。
 
詩篇60:4 あなたは弓の前からのがれた者を再び集めようと/あなたを恐れる者のために/一つの旗を立てられました。〔セラ
 
ここは、訳し方が分かれる節である。
原文は以下である。
ナタター(あなたは与えた) リレエイカ(恐れる、打つ) ネス(旗) レヒトノーセス(ひらめく、逃れる) ミペネイ(顔に、〜前に、のために) コシェット(ヘブライ語:真理、アラム語:弓) セラ
 
口語訳や新改訳は、コシェットをアラム語の「弓」と訳したが、KJVや新共同訳は、ヘブライ語の「真理」と訳している。
主は、主をおそれ敬う人達、すなわち主を避け所として、主の御旗の元に集う人の前には、真理(あるいは弓)をもって、偉大な御力をあらわしてくださるのだ。
 
旗には、自分の所属のしるしが記されている。
私達も、自分の所属は、天地を創られた主である、という事を表明するために、主の御旗を掲げるべきである。
どのようにしたら、主の御旗を掲げる事が出来るのだろう。
出エジプト記に、主の旗をかかげて勝利をもたらした記事がある。
 
『モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9-10)
 
手を上げて主に祈る事が、すなわち、主の旗を掲げる事である!
 
『モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。』(11節)
モーセが背後で祝福の手を上げて祈る、その手が「主の旗」となり、それが戦いを左右した。
教会と、世の組織との違いは、祈るか、祈らないか、であり、祈る教会と祈らない教会とでは、大きな違いが出てくる。
世の人は、肉弾戦で戦おうとするが、私達・教会は、主の御名によって祈る事によって、天の扉を開けたり閉めたりする権威をもって、戦うのである。
 
出エジプト記17:12 しかしモーセの手が重くなったので、アロンとホルが石を取って、モーセの足もとに置くと、彼はその上に座した。そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった。
 
このように、霊的指導者の祈りの手が下りないように支える働きは、実戦部隊より重要である。
教会も、牧会者が祈りと御言葉の奉仕に専念できるよう、事務作業において、経済において、支える働き人が必要である。
もし牧会者ひとりが、祈りと御言葉の奉仕をし、その上で事務作業をしたり、日銭を稼いだりしていたら、疲れ果てて、祈りの手が萎えてしまう。
 
出エジプト記17:13 ヨシュアは、つるぎにかけてアマレクとその民を打ち敗った。
 
祈りに専念したら、ヨシュアが戦って勝利してくれた。
ヨシュア、ヘブライ語でイエシュア、その意味は「主は救い」。すなわちヨシュアは、イエス様の名と同じである。
私達も、祈りの手を上げて主の旗をかかげるなら、まことのヨシュアであられるイエス様が戦って、勝利をもたらしてくださるのだ。
 
出エジプト記17:15 モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。
17:16 そしてモーセは言った、/「主の旗にむかって手を上げる、/主は世々アマレクと戦われる」。
 
「主は世々、戦われる」と書いてある。世々に、という事は、今も、である。
現代の私達も、手を上げて祈る時、主の旗が掲げられ、そうして主は、今も、主の民に敵対する者と戦われるのだ。
 
詩篇60篇は、4節で、セラ(モードチェンジ)が宣言されている。
恐れおののいていたダビデは、主の御旗を掲げた信仰宣言によって、その雰囲気をチェンジする。
 
詩篇60:5 あなたの愛される者が助けを得るために、右の手をもって勝利を与え、われらに答えてください。
 
ダビデは、主の右の手をもって勝利を与えてください、と願った。
主の旗は、世々に渡って勝利を与えて下さる主の手である。
そしてダビデは、主の聖所に入り、主の言葉を聞いた。
 
詩篇60:6 神はその聖所で言われた、「わたしは大いなる喜びをもってシケムを分かち、スコテの谷を分かち与えよう。
60:7 ギレアデはわたしのもの、マナセもわたしのものである。エフライムはわたしのかぶと、ユダはわたしのつえである。
 
シェケムとエフライムはヨルダンの西側、スコテとギルアデはヨルダンの東側の地で、それらの地は元々、創世記15章において、主が「与える」と約束された相続地である。
私達も、祈りの内に主の聖所に行って、主の約束の御言葉を盾にとって祈るなら、それは実現する。
 
詩篇60:8 モアブはわたしの足だらい、エドムにはわたしのくつを投げる。ペリシテについては、かちどきをあげる」と。
 
モアブ、エドム、ペリシテは、神の民に敵対して来た者達であるが、主は、それを足の下に踏みつける、と言われる。
私達も、御言葉を宣言するのだ。
「平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。」(ローマ16:20)
 
詩篇60:9 だれがわたしを堅固な町に至らせるでしょうか。だれがわたしをエドムに導くでしょうか。
60:10 神よ、あなたはわれらを捨てられたではありませんか。神よ、あなたはわれらの軍勢と共に出て行かれません。
60:11 われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいのです。
 
ダビデは、北から南からイスラエルを引き裂こうとして来た強敵を前に一度は恐れおののいたが、しかし信仰告白によって奮い立つ。
 
詩篇60:12 われらは神によって勇ましく働きます。われらのあだを踏みにじる者は神だからです。
 
ダビデは「神によって」と宣言した。
そう、人の力や助けは虚しいが、神にあって私達は強い。
 
ダビデはこの宣言をもって、戦った結果、あっさりと勝利した。
 
サムエル記や歴代誌の記述だけを見ると、あたかもダビデは何の葛藤もなく、あっさりと勝ったかのような印象を受けるが、そうではない。
ダビデにも戦いの毎に恐れがあり、そして主への祈りと信頼があり、そして勝利する度に、主への感謝と賛美があったのだ。
 
この詩篇の表題にある「あかしのゆり」の原語は、シュシャン・エイドゥース。
シュシャンはゆり、エイドゥースは「あかし」で、新共同訳では「定め」「教え」と訳されている。
つまりこの詩は、教えのために作られたものであると考えられる。
 
この詩は、現代の私達にも、教える。
戦いを前に、あるいはコロナウイルスが蔓延る現状に、恐れがあるだろうか。葛藤があるだろうか。
しかし主は、今も、祈りの手を上げて御旗を掲げる人には、イエシュアであられるイエス様が戦ってくださり、勝利をもたらしてくれるのだ。

主日礼拝

力を着せられるまで、都にとどまっていなさい(ルカ24:49-53)

第一礼拝 Youtube動画

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週報/メッセージ(説教)概要

 次週は聖霊降誕日である。聖霊が来ると主の力強い証人となり、罪について、義について、さばきについて、世にその過ちを認めさせるようになる。また、人や物事に対する識別力が与えられ、言葉や人間関係でつまづいたり、失敗したりしなくなっていく。五旬節をもうじき迎える今、私達はいかに備えたら良いか。
 
 『見よ、わたしの父が約束されたものを、あなた方に贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなた方は「都(ポリス:城壁がある大きな町)」に留まっていなさい。』(ルカ24:49) 主は、「力を着せられるまで留まりなさい」と言われた。だからそれまで、勝手にあれこれするべきではない。しかし聖霊が与えられる時、内から込み上がってくる聖なる衝動に突き動かされ、聖なる行いをし、聖霊が語らせてくださるままを語る。
聖霊が働く時、失敗は無いが、聖霊抜きに、自分で編み出した力で神の国を立てあげようとすると、必ず失敗する。サラは、約束の子が与えられるのを待ちきれず、ハガルを通して苦い根を残し(創世記16章)、サウルは、サムエルが来るのを待ち切れず儀式を行い、王国が立つ事を逃してしまった(1サムエル13章)。
 
 初代教会の聖徒達は、力を着せられるまで待ったが、その間、エルサレムに留まって何をしていたか。
彼らは、非常な喜びをいただき、いつも神を褒め称え(テヒラーתהלה)て(49-53節)、また共に心を合わせて祈り(テフィラーתפלה)に専念していた(使徒1:13)。これは聖霊を待ち望む私達もするべき事である。
 私達も、聖徒の交わりという城壁の町の中に留まり、共に賛美し、祈り続けるのだ。祈り(テフィラー)は本来、主の御言葉を暗唱する事で、それを反復すると「テフィリンתפלין」となる。そうして御言葉を思い巡らし続けていると、やがて、非常な喜びが沸き起こり、それにメロディがついて賛美(テヒラー)となる。
 マリヤのように、主の言葉を繰り返し思い巡らしていると、矢のように飛んで来て刺さるような言葉が現れ、また、感動し涙する言葉、心から離れない言葉が現れ、大いにアーメンし、賛美したくなる。この人知を超えた経験をするのは、神の言葉は霊であり、生きており、その霊が、私達の霊と共鳴するからだ。
 こうして賛美、祈り、テフィリンを繰り返して行くと、その感動と喜びが、確信となり、アーメンとなり、それが貯まりに溜まってデュナミス(力)となり、それが見える世界で実体化し、力強く神をあかしするようになる。
 だから、御言葉を昼も夜も口ずさめば口ずさむほど、その言葉の高さ、広さ、深さを理解し、知恵と啓示の霊で満ち溢れる。そして、目の前にある人が来た時、または何かの事象が起きた時、それまで思い巡らして来た、エネルギーを帯びた言葉に、主がエンジンをかけて下さり、主のタイミングにより溜まっていた聖なるエネルギーがほとばしり出て、目の前の人、モノ、状況に対して、主の御業が”ばんっ”と遂行される。
 
 言葉には、3種類ある。思いの中の言葉と、態度という言葉と、口から出て人に聞かせる言葉であるが、思いの中の言葉が、一番大事である。人は、言葉を蓄えた器のようで、その器の中に蓄えて来た言葉を源とした言葉が、思いの中に、電光掲示板のごとく流れ、そうして思い巡らしている言葉が顔の筋肉を動かし、表情に現れ、または態度に現れ、それが定着して、顔立ちや言動パターンが、そして人生が出来上がる。
悪い言葉を蓄えて思い巡らしているなら、人相が悪くなり、健全な言葉を蓄えているなら、顔立ちが良くなる。せっかくエステに通っていても、もし内に蓄えている言葉が悪いなら、人相の悪さは治りようが無い。
 良くない言葉を内に溜めていると、良くない事を引き寄せ、嫌な思いをするので、内なる言葉を入れ替える必要がある。良くない言葉は、健全で積極的な「主の言葉」によって打ち消す以外には無い。
 もし主の言葉を思い巡らし、豊かに蓄え、その健全な言葉を豊かに自分に染み込ませているなら、その人の平安と健全さは、決して状況や気分によって左右されないし、一発屋的に終わるのでもない。
御言葉を思い巡らし、反復して宣言し、霊に染み込んだ御言葉には、腹の奥底からの確信があるからだ。
 
 今、コロナの危険がある現代、私達は悪者のはかりごとに歩んだり、罪人の道に立ったり、あざける者の座に着いてはならない。主の守りの保証から外れてはならない。むしろ聖徒の交わりの城壁の内にこもり、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむべきだ。そうすれば、時が来れば実がなり、その葉は枯れず、何をしても栄える保証が得られる(詩篇1篇)。この時代、留まるべき御言葉に留まり、やがて聖霊の力が着せられ、大いに主の働きをする皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 金曜徹夜祈祷会

感謝せずにむさぼり食べる者の行く末(民数記11章)

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 ホセア書 講解説教 水曜夕礼拝

姦淫をやめさせるための3つの「それゆえ」(ホセア2:1-15)

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