メッセージ - 202008のエントリ

主日礼拝

アブラハムの「思い切りの良さ」を身に着けよう(創世記12:1-15:1)

第一礼拝 Youtube動画

賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 アブラハムは、全ての信仰者の父である。彼の素晴らしさは、何と言っても、主の言葉を即、実行に移す「思い切りのよさ」である。普通の人が聞けば、「えっ」と思えるほど、大胆に行動してしまう。最愛の子イサクを全焼のいけにえとして捧げなさい、と言われた時などは、その翌朝、早速その場所に出かけた程だ。
今回、彼の御言葉に対する思い切りの良さと、それによって受けた祝福の法則から、恵みをいただきたい。
 
 彼は75歳の時、主から「父の家を離れよ」と言われた時、彼はつべこべ言わず、すぐ離れ(12:4)、次の節では、もう約束の地カナンに入ってしまった。実に思い切りが良いが、彼はそこから、主から許容された範囲外へと行ってしまった(9節)。そこではききんに遭い、その不足を満たすために、さらに主が示した地から遠くエジプトへと降ってしまった。そこに神を恐れる文化は無く、みんな弱肉強食の価値観で生きていた。
彼は恐れ、媚びて、悪知恵を働かせ、彼の美しい妻サラを、妹だと言う事によって良い待遇を受けられるだろうと思案し、実行した。結果、サラはパロに召し入れられ、その代わり彼は多くの家畜や資産、男女の奴隷を得た。神は彼を責めるのではなく、パロを責め、サラは返って来た。パロは彼を恐れたので、エジプトの財はそのまま持たせ、彼は、神が指定された地に戻る事が出来た。これは、神の一方的な恵みである。
 私達・神の民が栄える方法は、結局、主が行けと言われた所に行き、主が留まれと言われた場所に留まる事である。そうするなら主が雨を降らせ、百倍を実らせ、敵を恐れさせ、自動的に栄えさせてくださるのだ。
 
 13章でも、彼の思い切りの良さが発揮される。アブラムと甥のロトは互いに持ち物が増え、それぞれの羊飼いの間で争いが起きるようになった。しかし彼は気前よく、目下のロトに、先に、行きたい所を選ばせる。
 クリスチャンは何かと、和解・共存しようとしがちだが、「ソドムを良い所」と判断して行ってしまうような者と、同じ財産を共有してはならない。たとえ肉親でも、霊性が違う人、種類が違う人には、気前よく与えてでもして、離れるべきなのだ。事実、ロトと別れたとたん、主からの祝福の言葉が怒涛のように来た。この地の東西南北を永久に与える、子孫を地のちりのようにならせる、その地を縦横に歩き回りなさい、と(13:14-17)。
 
 14章では、現イラク周辺の4人の王が、現イスラエル周辺の5人の王達に戦いを挑んで勝った記事が記されているが、その時、ソドムに住んでいたロトが捕らえられてしまった。アブラムは、思い切りが良い事に、それを聞いた時、彼の家で生まれた僕たち318人を引き連れて行き、次の節では打ち破っており、さらに次の節では、もう取り返している(14:14-16)。普通、こんな破竹の勢いの強力な王達に、わずかな手勢で戦いを仕掛けるなど、無謀の極みだが、彼は、主の約束を、握りしめていたのである。主は必ず自分に子孫を下さる、自分を祝福する者を主は祝福し、呪う者を呪ってくださる、という聖なる計算をしたのだ。
 実際、主は彼を祝福し、勝利させた。彼は9人の王の上に君臨できたはずであるが、そんな事は一切興味を示さず、靴紐一本ももらわない、と言った。なんという気前の良さだろう。主が勝利を与えて下さったとはいえ、そんな財産を、彼は得てはならなかったのだ。その王達は今まで、人から分捕り、人を泣かせて所有したものである。そんなものは靴紐一本でももらったら、悪いものがつきまとってしまう。私達は確かに世において王であっても、イエス様のように、大切に、いつくしみ深く、楽しく、統治し支配するべきである。
 アブラムはむしろ、サレム(平和)の王、メルキゼデク(義の王)から、パンとぶどう酒を受け、祝福を受けた。
このメルキゼデクこそ、イエス様であり(ヘブル5-7章)、アブラムは、メルキゼデクに十分の一を捧げた。
 
 その後、主は言われた。「わたしがあなたの盾、そしてあなたへの飛び抜けて素晴らしい報酬である」と(15:1原意)。 主の祝福とは、莫大な富や栄誉などをもらうという次元ではない。主ご自身こそ私たちの莫大な報いであり、それは、世のいかなる栄光や富にはるかに勝る報酬である。主ご自身こそ、私達キリストを信じる信仰者の群れ(エクレシア:教会)が受ける「相続」なのだ。(エペソ1:20-23、1コリント3:22-23)
 アブラムの祝福の源は、主の言葉を即実行に移す「思い切りの良さ」と、主の言葉を握りしめた故の平安から来る「気前の良さ」であった。また、彼の失敗は、主の言葉の範囲を超え、世を見て、恐れ、媚びた事だった。世の富や栄光より、主イエス様ご自身を慕い求め、御言葉を即、実行に移す「思い切りのよさ」を身につけ、地上において栄えていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
アブラハムの「思い切りの良さ」を身に着けよう(創世記12:1-15:1)
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週報/メッセージ(説教)概要
 メッセージ概要
 
 アブラハムは、全ての信仰者の父である。彼の素晴らしさは、何と言っても、主の言葉を即、実行に移す「思い切りのよさ」である。普通の人が聞けば、「えっ」と思えるほど、大胆に行動してしまう。最愛の子イサクを全焼のいけにえとして捧げなさい、と言われた時などは、その翌朝、早速その場所に出かけた程だ。
今回、彼の御言葉に対する思い切りの良さと、それによって受けた祝福の法則から、恵みをいただきたい。
 
 彼は75歳の時、主から「父の家を離れよ」と言われた時、彼はつべこべ言わず、すぐ離れ(12:4)、次の節では、もう約束の地カナンに入ってしまった。実に思い切りが良いが、彼はそこから、主から許容された範囲外へと行ってしまった(9節)。そこではききんに遭い、その不足を満たすために、さらに主が示した地から遠くエジプトへと降ってしまった。そこに神を恐れる文化は無く、みんな弱肉強食の価値観で生きていた。
彼は恐れ、媚びて、悪知恵を働かせ、彼の美しい妻サラを、妹だと言う事によって良い待遇を受けられるだろうと思案し、実行した。結果、サラはパロに召し入れられ、その代わり彼は多くの家畜や資産、男女の奴隷を得た。神は彼を責めるのではなく、パロを責め、サラは返って来た。パロは彼を恐れたので、エジプトの財はそのまま持たせ、彼は、神が指定された地に戻る事が出来た。これは、神の一方的な恵みである。
 私達・神の民が栄える方法は、結局、主が行けと言われた所に行き、主が留まれと言われた場所に留まる事である。そうするなら主が雨を降らせ、百倍を実らせ、敵を恐れさせ、自動的に栄えさせてくださるのだ。
 
 13章でも、彼の思い切りの良さが発揮される。アブラムと甥のロトは互いに持ち物が増え、それぞれの羊飼いの間で争いが起きるようになった。しかし彼は気前よく、目下のロトに、先に、行きたい所を選ばせる。
 クリスチャンは何かと、和解・共存しようとしがちだが、「ソドムを良い所」と判断して行ってしまうような者と、同じ財産を共有してはならない。たとえ肉親でも、霊性が違う人、種類が違う人には、気前よく与えてでもして、離れるべきなのだ。事実、ロトと別れたとたん、主からの祝福の言葉が怒涛のように来た。この地の東西南北を永久に与える、子孫を地のちりのようにならせる、その地を縦横に歩き回りなさい、と(13:14-17)。
 
 14章では、現イラク周辺の4人の王が、現イスラエル周辺の5人の王達に戦いを挑んで勝った記事が記されているが、その時、ソドムに住んでいたロトが捕らえられてしまった。アブラムは、思い切りが良い事に、それを聞いた時、彼の家で生まれた僕たち318人を引き連れて行き、次の節では打ち破っており、さらに次の節では、もう取り返している(14:14-16)。普通、こんな破竹の勢いの強力な王達に、わずかな手勢で戦いを仕掛けるなど、無謀の極みだが、彼は、主の約束を、握りしめていたのである。主は必ず自分に子孫を下さる、自分を祝福する者を主は祝福し、呪う者を呪ってくださる、という聖なる計算をしたのだ。
 実際、主は彼を祝福し、勝利させた。彼は9人の王の上に君臨できたはずであるが、そんな事は一切興味を示さず、靴紐一本ももらわない、と言った。なんという気前の良さだろう。主が勝利を与えて下さったとはいえ、そんな財産を、彼は得てはならなかったのだ。その王達は今まで、人から分捕り、人を泣かせて所有したものである。そんなものは靴紐一本でももらったら、悪いものがつきまとってしまう。私達は確かに世において王であっても、イエス様のように、大切に、いつくしみ深く、楽しく、統治し支配するべきである。
 アブラムはむしろ、サレム(平和)の王、メルキゼデク(義の王)から、パンとぶどう酒を受け、祝福を受けた。
このメルキゼデクこそ、イエス様であり(ヘブル5-7章)、アブラムは、メルキゼデクに十分の一を捧げた。
 
 その後、主は言われた。「わたしがあなたの盾、そしてあなたへの飛び抜けて素晴らしい報酬である」と(15:1原意)。 主の祝福とは、莫大な富や栄誉などをもらうという次元ではない。主ご自身こそ私たちの莫大な報いであり、それは、世のいかなる栄光や富にはるかに勝る報酬である。主ご自身こそ、私達キリストを信じる信仰者の群れ(エクレシア:教会)が受ける「相続」なのだ。(エペソ1:20-23、1コリント3:22-23)
 アブラムの祝福の源は、主の言葉を即実行に移す「思い切りの良さ」と、主の言葉を握りしめた故の平安から来る「気前の良さ」であった。また、彼の失敗は、主の言葉の範囲を超え、世を見て、恐れ、媚びた事だった。世の富や栄光より、主イエス様ご自身を慕い求め、御言葉を即、実行に移す「思い切りのよさ」を身につけ、地上において栄えていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 エゼキエル書 講解説教 水曜昼礼拝

心に幾つも偶像を抱えながら主に伺おうとする者(エゼキエル14:1-11)

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詩篇 講解説教

聖所に入る時、私達は真理をさとり、あらゆるしがらみから解放される(詩篇73篇)

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詩篇第三巻に入った。
詩篇の構造は、モーセ五書(トーラー)と同じく、五巻から成り立っていて、詩篇第三巻は、聖所と礼拝がテーマで、それはトーラー第三巻の、レビ記に相当する。
詩篇は生活密着型トーラー、リビングトーラーである、と、コーエン大学総長のポールガン博士は言ったが、聖所と礼拝を重んじるなら、あるいは、軽んじるなら、そ人はどうなるか、この73篇で早速示されている。
 
詩篇73篇表題『第三巻 アサフの歌』
 
アサフは、ダビデが編成した聖歌隊において、シンバルを鳴り響かせる楽長である。
ダビデが契約の箱をエルサレムに運び入れた日、この聖歌隊が編成され、彼は楽長としてダビデに任命された。(1歴代誌16章)
 
73:1 神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
 
全くそのとおりである。
神は神の民に、心のきよい人達に対し良くしてくださり、恵み深い。
イエス様も、心の清い人は幸いである、彼らは神を見る、と言われた(マタイ5:8)。
 
ところが、聖歌隊の指揮者で、教会の賛美リーダーのようなポジションであるアサフが、真逆な事を、言い出してしまう。
 
73:2 しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。
 
賛美リーダーや、教会の重要なポジションの人が、つまづくばかりの人生、足がすべるばかりになってしまう、とすれば、その理由が、3節につづられている。
 
73:3 これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。
 
聖所から目を離し、礼拝から遠ざかって、世の悪しき者の栄えるのをじっと見つめ、悪どい者が高くなっているのを、ねたむ、とするなら、どんなにアサフのような素晴らしい賛美リーダーであっても、また教会指導者であっても、つまづくばかりの人生、すべるばかりの人生になってしまうのだ。
 
すなわち、1節に記されている真実から離れ、2-3節をしてしまうと、4-16節に記されている、苦々しい、みじめな思いを味わい続けてしまう事になる。
 
以降、4-12節に、世で栄えている悪者の有様が列挙されている。
 
73:4 彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、
73:5 ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない。
73:6 それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている。
73:7 彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている。
73:8 彼らはあざけり、悪意をもって語り、高ぶって、しえたげを語る。
73:9 彼らはその口を天にさからって置き、その舌は地をあるきまわる。
 
高慢な者、神に逆らう者の特徴は、以下である。
 
73:10(新共同訳) (民がここに戻っても/水を見つけることはできないであろう。)
73:11(新共同訳) そして彼らは言う。「神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか。」
73:12(新共同訳) 見よ、これが神に逆らう者。とこしえに安穏で、財をなしていく。
(口語訳の10節は、あまりに原文から離れた訳し方をしている、と感じたので、新共同訳を引用。)
 
「神よりも自分を高く」。これがサタンの本性であり、サタンの、人をそのように仕向けようとする本質である。
そして、悪を為す人が栄えるのを大々的に見せて、神に喜ばれる生き方を損であるかのように思わせるのである。
その価値観で世を見てしまったアサフは、13-16節にて、その虚しさを吐露している。
 
73:13 まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。
73:14 わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた。
73:15 もしわたしが「このような事を語ろう」と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。
73:16 しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。
 
彼は13節で、心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗う事をむなしいかのように言ったが、1節こそ真実である。
「神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。」。
 
しかし、世の悪が栄えている事に目を向け、世は不条理だ、と自分の中で結論づけてしまうと、その人は、朝ごとに懲らしめを受け、心の苦痛から抜け出せない。
この、終わりのない堂々巡りから脱出するコツが、17節である。
詩篇73篇の転機は、17節である。
 
73:17 わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。
 
アサフが、聖所に入った時。
その時、その者達の最後を彼は悟り得て、解決へと導かれる。
 
思い出してほしい。
詩篇73篇からはじまる第三巻は、聖所と礼拝がテーマであり、レビ記に相当する箇所であった事を。
レビ記は、私達には関係が遠い書のように感じるかもしれないが、詩篇はまさに、現代を生きる私達の思い、心、現状と実に密接する、生活密着型トーラーなのだ。
 
レビ1:1 主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた、
 
主から呼ばれ、主の聖所に導かれ、主の聖所から語られる言葉に聞く。
この原点に立ち返る時、「きよい者は神を見る」と書かれてあるとおり、神の視点で、物事の真理を悟る事ができる。
その時、目の覆いが取り除かれる。
それまで、悪人の悪行によって覆い隠され、くらまされてしまっていた真理が、見えて来る。
そして、真理を知る時、私達は自由になる。
 
18節以降、悪どい者が行き着く先を、彼は真理の目で見て、悟った内容を、列挙する。
 
73:18 まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。
73:19 なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。
73:20 あなたが目をさまして/彼らの影をかろしめられるとき、彼らは夢みた人の目をさました時のようである。
 
これは、弱い者の願望ではなく、真実である、という事は、歴史が証明している。
悪と嘘に長けた卑怯な者が、ずっと成功し続け強くなり続けて永らえた歴史は、無い。もしそうだったら、とっくに今、全世界は強大な悪に支配されているはずだ。
そうなっていないのは、義なる神が、そうならないように歴史を支配しておられる故だ。
 
結局、神なしで好き放題出来る、などという思いは、一時の夢である。
目を覚ました時、またたくまの滅びが一気に襲う。
彼は告白する。
 
73:21 わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
73:22 わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。
73:23 けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。
73:24 あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。
 
目を神からそむけ、けもののような人間を妬むなら、心が痛み、苦しみ、けもののようにもだえ吠えるしかない。
私達は、そのようないらぬ痛みに苦しみ悶え、けもののようになっていないだろうか。しかし、主は、ずっと手を取って導いて下さった。
主はさとしつつ導かれる。弱い私達を。
後に、栄光にあずからせて下さるために!
なんと恵み深い神であろうか。
 
そして彼は、結論づける。
 
73:25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。
73:26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。
73:27 見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。
73:28 しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。
 
彼は聖所に戻ってきた。
すると彼は、真理を知り、全ての世のしがらみや不条理から解放され、心底、主をほめたたえるに至った。
 
私達は、イエス様を信じ、いつもイエス様を見続けているなら、私達こそが神殿、聖所である。
いつも主を見続けて、自分自身を、いつも聖所として保ち、あらゆる世の不条理から自由な皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

時代を祈りで支配し栄える者となれ(ダニエル1章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 今年は、歴史的な一年である事は間違いない。中国武漢でのコロナに始まり、世界がコロナで弱っている最中、中国共産党は世界各国へ様々な侵略を始めたが、その直後、中国は洪水や台風、ばった、雷、雹などの災いが次々降りかかり、普段は絶対、聖書や神について言及しない日本のメディアさえ、出エジプトの記事を引用したり、神の罰と書くようになった。神は、表現しておられる。「わたしはある」と。生きておられる神が、「神はいない」と暴挙を働く者をどのようにあしらい、また、神を信じ、畏れ敬い、神の御旨を行おうとする人に、神はどのように報われるのか。本日、時代に働かれる神のわざを読み解く目を養いたい。
 
 今、世界が今一番求めているものは、コロナに効くワクチンだろう。通常、開発から実用化までに何年もかかるが、アメリカはトランプ大統領によるワープ・スピード作戦が功を奏し、今、早くも治験の最終段階へと入って、3万人を対象に検証しており、これがパスされたなら、即時、大量生産に入る体制に入っている。
 もし米国が真っ先にワクチンを世に出せば、トランプ政権のアメリカは大いに栄誉を受けるだろう。一方、コロナを拡散させただけでなく各地へ侵略をしている中国共産党は、世界中から叩かれ排除されるだろう。
 聖書で一貫して語られている事は、神を信じ、神の御心どおり生きる人には、栄誉が与えられるが、神を無いものとして暴虐を働く者は、呪われ、あざけりと衰退が待っている事である。私たちは、祈るべきである。
 
 トランプ大統領は、以前は世の罪と欲望に貪欲な人ではあったが、神を敬うようになり、彼の背後では、保守派のクリスチャン達が、祈りにおいて、実質において、強力にバックアップしている。
 彼に似た聖書の人物といえば、バビロンの王・ネブカデネザル王かもしれない。ネブカデネザルは当時、世界を制覇し、エルサレム神殿の宝物を奪い、多くのユダヤ人をバビロンへと連行したが、それは当時、ユダヤ人が、主に忌み嫌われる事をし続けた故に、主がそれらを彼に渡されたからだ。(ダニエル1:2 )
神が、汚れた者達に満ちたエルサレム神殿から、バビロンの宝物庫という最も安全な場所に移したのだ。
 ネブカデネザル王は、その後、好き勝手な振る舞いをする。自分の夢が解き明かせない知識人達を虐殺しようとしたり、偶像を建てて無理やり拝ませたりしたが、イスラエルの神・主を敬うダニエルと、その3人の友人達を通して働かれる神を恐れるようになり、神である主を拝むように、と、全世界にお触れを出した。
 当時、ユダヤ人は一切、神を伝えず、神の栄光を広めるより、むしろ、貶める事ばかりしていたが、ネブカデネザル王は、そんなユダヤ人がしなかった事、神の栄光を全世界に知らせる事に、大いに用いられた。
 そしてネブカデネザル王を裏で支配したのが、ダニエルと3人の友人である。『この四人の者には、神は知識を与え、全ての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまた全ての幻と夢とを理解した。』(17節)
 
 ダニエルは結局、バビロン、メド・ペルシャの3つの帝国で、重要な地位を務め上げ、栄えた。(20-21節)
 それは、彼自身、自らを清く保った故、神が用いたからである。どれ程清く保ったか。それは、彼を訴えようとする者達が、彼についてあら捜ししても、訴えるべき口実や怠慢は、一切、見出だせなかった程である。
 神は、きよい器をこそ用いられる。人でさえ、汚物がついた皿やコップは用いない。たとえ、黄金で造られていようとも、汚物がついているなら、主は黄金の器よりも、清い土の器のほうをこそ用いる。
 結局、時代を動かし、当時の大勢の人々に神の栄光をあらわしたのは、ダニエルであった。
 現代も、同じである。トランプ大統領が今なおその働きで成功しているのは、その背後で多くのクリスチャンの祈りがあり、それが彼を支えているからだ。天声でも、彼が大統領になる前から、祈りを積んでいた。
 
 私たちも、祈るべきである。世界情勢のために、またアメリカで開発しているワクチンが速やかに完成し、神を敬う民に軍配が上がり、コロナであえいでいる全世界が慰められるように。また、共産主義が世界から根絶され、イスラムの暴挙も根こそぎ取り除かれるように。これら全てを通して、神があがめられるように。
 ネブカデネザルを裏で動かしたのは、忠実な神のしもべ達、きよい器たちであったように、主は、主の御言葉をいつも思い巡らすテフィリン世代を、時代の支配者の上に立てられる。私たちもダニエルのようになり、この時代の忠実な主のしもべとして、霊において、祈りにおいて、裏で世界を統治していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

詩篇 講解説教

キリストにある王族の祭司たちへの、祝福を求める祈り(詩篇72篇)

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・詩篇72篇は、全5巻ある詩篇の、第2巻の最後の詩篇である。
・それで18-19節は第2巻をしめくくるにふさわしい祝祷で終わり、そして最後の20節は「エッサイの子ダビデの祈は終った。」という言葉で締めくくられる。
 
詩篇72篇表題『ソロモンの歌』
・この表題は、ヘブライ語では「リ・シロモーホ」、「ソロモンのために」「ソロモンについて」「ソロモンによる」のいずれとも訳す事が出来る。なおKJVでは、「for Solomon 」である。
・この詩篇は、ソロモンの父・ダビデが、息子ソロモンがこのような王であってほしい、という祈りを込めた詩であると考えられる。それと同時に、私達キリスト者が、このような王族の祭司、聖なる国民、神の所有とされた者として歩むように、という、私達自身が祈る模範的な祈りともなる。
 
72:1 神よ、あなたの公平を王に与え、あなたの義を王の子に与えてください。
 
・「あなたの」とは当然、神であられる主のことであり、私達が祈るべきは、まず主の公平と主の義が私達に与えられ、それをもって、この世を支配できるように、という事である。私達が王になるとしたら、自分判断の公平や義によって支配するのではなく、神の義、主の公平によって、である。
 
72:2 彼は義をもってあなたの民をさばき、公平をもってあなたの貧しい者をさばくように。
72:3 もろもろの山と丘とは義によって/民に平和を与えるように。
72:4 彼は民の貧しい者の訴えを弁護し、乏しい者に救を与え、しえたげる者を打ち砕くように。
 
・この詩篇の祈りを、自分のための祈りにするとするなら、「彼」と書かれてあるところに、自分の名前を代入し、あるいは、自分の子やとりなしたい相手のために祈るとするなら、その人の名を代入して祈るのだ。
 
72:5 彼は日と月とのあらんかぎり、世々生きながらえるように。
72:6 彼は刈り取った牧草の上に降る雨のごとく、地を潤す夕立のごとく臨むように。
72:7 彼の世に義は栄え、平和は月のなくなるまで豊かであるように。
 
・太陽、月、星は、しるしのため、季節のため、日のため、年のために創られた(創世記1:14)。それがなくなるまで、とは、この世界の秩序がもはや必要なくなるまで、すなわち、神が創造される新天新地に至るまでである。
・その時至るまで、神が立てた王、すなわち、私達・神の民による、恵みの雨のような憐れみに満ちた支配が、ずっと及びますように、という祈りである。
 
72:8 彼は海から海まで治め、川から地のはてまで治めるように。
72:9 彼のあだは彼の前にかがみ、彼の敵はちりをなめるように。
72:10 タルシシおよび島々の王たちはみつぎを納め、シバとセバの王たちは贈り物を携えて来るように。
 
・タルシュシュはスペインの南西タルテスースで、港と船で有名。島々とは地中海の島々。シバはアラビヤの南東の富んだ国、セバはエチオピヤの首都と考えられる。
・彼ら・神の民の王による支配が、東西南北全地まで及ぶように、という祈りである。
 
72:11 もろもろの王は彼の前にひれ伏し、もろもろの国民は彼に仕えるように。
 
・「もろもろの王は彼の前にひれ伏し、もろもろの国民は彼に仕える」ためには、12-14節の条件が必要である。
 
72:12 彼は乏しい者をその呼ばわる時に救い、貧しい者と、助けなき者とを救う。
72:13 彼は弱い者と乏しい者とをあわれみ、乏しい者のいのちを救い、
72:14 彼らのいのちを、しえたげと暴力とからあがなう。彼らの血は彼の目に尊い。
 
・以上のように、貧しい者、乏しい助けなき者を助ける人は、以下の祝福を得る条件が整う。
 
72:15 彼は生きながらえ、シバの黄金が彼にささげられ、彼のために絶えず祈がささげられ、ひねもす彼のために祝福が求められるように。
72:16 国のうちには穀物が豊かにみのり、その実はレバノンのように山々の頂に波打ち、人々は野の草のごとく町々に栄えるように。
72:17 彼の名はとこしえに続き、その名声は日のあらん限り、絶えることのないように。人々は彼によって祝福を得、もろもろの国民は彼をさいわいなる者と/となえるように。
 
・これはイザヤ58章の、主が喜ばれる断食と同じである。そのようにする人には、必ず主がかえりみてくださる。
 
・ソロモンの前半人生は、ダビデが祈った通り、憐れみの支配をし、まことに広大な土地を支配し、セバの女王をはじめ、国々が贈り物を携え来て、黄金をふんだんに集め、地の産物もふんだんに祝福されたが、安逸を貪って傲慢になり、後半人生は主から離れた故に祝福が離れ、人々から重税を取り立て、貧しい人々を苦しめる者となり、晩年は、伝道者の書に記されている通り、全てが虚しい人生となってしまった。
・私達はキリストにある王族の祭司として、神の言葉どおりを生き、貧しい人を顧み、この詩篇に記されている祝福を生涯、勝ち取り続ける人生でありたい。

主日礼拝

神の「良し(トーブ)」とは(創世記1:25)

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週報/メッセージ(説教)概要

 先月より、世界のテフィリンチームと共に同じ創世記1章をテフィリンしているが、同じ御言葉を何百回と反芻していると、この31節の、ほんの数分で読めてしまう箇所から、深い知識や奥義を、大きな喜びや深い慰めを、生きるための秘訣などの宝を、次から次へと掘り起こしている。本日も創世記から恵みを得たい。
 
 『神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良し(トーブ)とされた。』(創世記1:25) 神は、動物や木や草を、鳥や魚を、種類にしたがって創造された。「種類にしたがって」の言葉が、この節で3回、1章全体で10回も繰り返されている。
神がそれらを「良し」としている所から、神の価値観が知れる。神は、多様性を「良し」とされているのだ。
 神は、一人ひとりを、固有の存在として創造された。AはAとして、BはBとして。決して、AもBもCもひっくるめてZになれ、とは言わない。それは「種類にしたがって」に反する。それなのに、いかに人は、自分と他人を比べて、自分はだめだと評価したり、神が造られていない別のキャラクターを演じて、疲弊してしまったりしているだろうか。動物や鳥、魚は、しない。あの鳥みたいに美しくなりたいとか、あの獣みたいにうまくできるようになりたい、それに比べて自分はだめだ、などと思って、絶望したり、自殺したりは・・・。
 神は、種類にしたがって、様々な個性をもった海の魚、空の鳥、野の獣、家畜、地をはう全てのものに対し、「生めよ、増えよ」と、祝福を宣言された。色々な種類が、それぞれ与えられた個性の本領を発揮し、その全体が、神の栄光をほめたたえる。それが、神の「良し」である。実際、ユダヤ人は、競争教育はしない。
むしろ、それぞれ神から与えられた得意分野を探し、見つけ、それを育成し、関係性を大切にしながら育って行く。彼らの教育法は、御言葉中心であり、小学からずっとクラス替えはせず、互いに同じ御言葉を学び、あるいは同じ学科を学び、それを議論し、口論し、そうして互いが、それぞれの分野でエキスパートに、リーダーとなって行こうという、リーダーシップを養う教育法である。これをハブルタ(友達)教育という。
 
 神の「良し(トーブ)」とは何だろう。私達は、トーブを、パーフェクト、ビューティフル、グッドとして習ったが、一体、誰にとってのパーフェクト、ビューティフル、グッドなのだろうか。創世記から分かる事は、トーブとは、神が「あれ」と言われた通りのまま、また、神が名を付け、神が使命を付与した、そのまま、が、トーブである。
すなわち、神が私達を創造して下さったそのままを、神が付与された意図をそのままを生きる事である。
 トーブは、誰か人間基準の「良し」では、決して、ない。怠け者にとっては、怠ける事が良しであるし、共産党にとっては、神が無い事、人民は意見や知識を持たず「見ざる、言わざる、聞かざる」なのが良しである。
 神のよしではなく、人間の良しに従って行くと、必ず、死に通じる。他と比べて優れているとか、劣っているとか、良いとか悪いとか、そういった神から離れた善悪判断こそ、死をもたらす概念である。神は言われた。善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ、と。
 私達は、他人の目から見る”良かれ”から解放され、神のトーブへと入って行くべきである。また、自分の目の”良かれ”からも解放され、サタンからの、御言葉に反する方向へと仕向けるささやきに、勝利するべきである。サタンがエバをそそのかした時、『女が見ると、その木はまことに食べるのに「良く(トーブ)」、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった』(創世記3:6)ので、彼女は食べてしまった。
「神が創られた通り」「神の意図どおり」。それが真のトーブであり、エデンをキープする道、祝福の道である。
 
 私達は神のトーブを知り、その道を歩むべきである。私達は、分からないかもしれない。はたして今、自分の道が、神のトーブに沿っているだろうか。どうしたら、神のトーブを知り、そうある事ができるだろうか・・・。
それは、とてもシンプルである。「御言葉どおり」がトーブである、という事は、御言葉を暗唱し、昼も夜も口ずさみ、御言葉の通り歩む事。すなわち、テフィリンする事である。御言葉を暗唱すれば、神の基準を知り、神のトーブは何で、今、自分がどのような地点を歩んでいるのかが分かるようになる。そして日々の選択において、どちらが神の目に良いのかが分かるようになる。そればかりではない。神のトーブに反するものが、自動的に嫌いになり、神のトーブに則したものが、自動的に好きになるようになって行く。
 今、私達も教会も、神のトーブを見いだし、伝えていかなくてはならない。神様の御心であるトーブな生き方を正しく教え、多くの人々を養い、栄光の次世代を産み出していく皆さんでありますように!
 

主日礼拝

まことの光をどんどん灯して行くテフィリン世代(創世記1:14)

第一礼拝 Youtube動画

賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 
 今、私達は、世界のテフィリンチームと共に同じ創世記1章をテフィリンしている。同じ御言葉を何度も口ずさんでいると、今まで気づかなかった天地創造の真理に光が照らされ、自分には関係ないと思っていた内容が、実は今の自分にとても密接に関わっていたのだと気づいたりする。本日も恵みを分かち合いたい。
 
 『神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。』(創世記1:14) 神は創造の第四日、昼と夜とを具体的に仕分けるために、また、時や時期を定義的に仕分けるため、大空に光る物、すなわち、太陽や月、星々を、すなわち、光を放つ「発光体」を置かれた。これら発光体がつくられた理由は、4つある。
 その第一は「しるし(オート:象徴、証拠、記念)」のため、第二は「季節(モーエド:約束された時、場所での、約束された出会いや集会、すなわち「祭り」)」のため、第三は「日(ヨーム:日の出から日没まで、暑くなる期間、一定の期間)」のため、第四は「年(シャーネー:歳、公転周期、周回する期間)」のためである。
 それでは、これら発光体が示す「しるし」は、誰が受け取るものだろうか。また、約束された時に、神と約束の出会いをする「祭り」は、誰が行うものだろうか。それは、人間である。つまり神は、当時まだ創られていない人間を念頭に置いて、これらを創られたのだ。人や地球よりも、遥かに巨大な太陽や星々は、なんと、人が神との約束された出会いを、すなわち祭りをできるように、また、時期を示すために、造られたのだ。
 大人は赤ちゃんのために、赤ちゃんがすっぽり入るベビーベッドを用意するが、神のスケールは天文学的に大きく、私達が生存し、また神と出会い、神を知り、神を喜べるために、壮大な宇宙を創られたのだ!
 聖書で示された最も基本的な「祭り」には、七日ごとに訪れる安息日が、新月ごとに来る新月祭がある。
また、初穂の祭りや、七週の祭り、仮庵祭などは、収穫と密接に関係しており、実りを備えて下さった神に感謝し、喜びの交わりを神と共にするようにと、主はその日時を知らせるために、天の発光体を創造された。
 人は、太陽や月、星の運行を見て時期をはかり、また、季節季節によって実る果物や穀物の種類に従って、種まきや刈り入れをし、季節ごとに実った食物を喜び、神に感謝し、神と交わるように、定められている。
  これらの発光体は、光そのものではなく、光を放つものである。光そのものは、第一日目に創造された。
イエス様こそ、天地に存在する全てのものを、真理で照らす「真理の光」そのもので(ヨハネ1:9)、全ての人のいのちを育む「いのちの光」である。イエス様は、私達の本来のあり方を照らし、イエス様に照らされた人は、どんどん輝きを増し、本来的に神が備えて下さった役割へ回帰し、意義ある人生へと導かれていく。
 今、私達は、神の言葉を暗唱するテフィリンをしているが、御言葉を1節また1節と暗唱できるようになっていく内に、御言葉なるキリストが、つまり真の光であられるキリストが、どんどん私達の中に「在れ」「在れ」と、その存在が増して行き、神を知る知識も、世についての理解も、ますます増し加わって、天地創造の神のパワーと知恵が蓄えられて行く。そうして闇が光へ、不毛の地が、色々な果樹を実らせる所へ、いのちの無かった所にいのちが満ちていく。
 
 創世記1章は、いわば「仕分け」の章である。神が「**あれ」と、ことばを宣言する度に、茫漠として何も無かった所が、次々と仕分けられ、ものが生じ、神による名付けがなされ、意味付けがなされ、使命が与えられ、それが完成した時、「良し(トーヴ)」と宣言し、そして夕があり、朝があった。 私達も、ことばによって区切って行くのだ。茫漠として何もない状態であるなら、言葉の宣言によって、神の秩序を取り戻すのだ。
 エバが、蛇の誘惑によって惑わされてしまったように、私達は悪い人間の「闇があれ」「茫漠があれ」の言葉に汚されてはならない。むしろ私達は、良き交わりに入り、神のことばにいつも馴染んでいるべきである。
 私達がテフィリンし、御言葉が1節つづ入って行くと、茫漠とした闇に、神の言葉が、神の光が、神の秩序が、ひとつ、またひとつ、と「有る」ようになって行き、御言葉の光が、ぽっと灯って行く。そして、神が言葉で仕分けたように、私達も御言葉によって人生を、状況を仕分け、支配して行けるようになっていくのだ。
 テフィリンは、神の「在れ」を具体的に行うものである。テフィリンによって、意味の無かった者が意味ある者へ戻り、茫漠とした人生が、いのちが満ち、そうして光を放つ者、発光体となっていき、夜をつかさどり、昼をつかさどり、そして、太陽のように輝く者となっていく(マタイ13:43)。神のことばをどんどん摂り入れ、ますます輝き渡っていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 詩篇 講解説教

自分は主にあっていかなる立場であるかという宣言に基づいた祈り(詩篇71篇)

Youtube動画

 
・珍しく、この詩篇に表題は無い。なお、70人訳は「ダビデによる.ヨナダブの子らと最初に捕囚になった者たちによって歌われた詩篇」という意味の表題が付けられている。
 
71:1 主よ、わたしはあなたに寄り頼む。とこしえにわたしをはずかしめないでください。
71:2 あなたの義をもってわたしを助け、わたしを救い出してください。あなたの耳を傾けて、わたしをお救いください。
71:3 わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください。あなたはわが岩、わが城だからです。
 
・作者は、自分は、主に寄り頼む者である、と、まず宣言した。主が自分にとって、のがれの岩、わが城である、と。
・そして彼は、主に「あなたの義をもってわたしを助け」救い出して下さい、と祈り求めた。世の者が横暴さや卑劣さをもって自分の意を成し遂げようとする時、主の義が、神の民にとって救いとなる。
・神が支配し、同時に悪魔も働いているこの世において、自分は主にあって何者であるか、どの立場を取るのか表明するなら、主の義が、働いて下さる。
 
71:4 わが神よ、悪しき者の手からわたしを救い、不義、残忍な人の支配から、わたしを救い出してください。
 
・彼は4節で、特に悪しき者からの救いを願い、そして5-8節では、彼自身と、主との関係を、宣言している。
 
71:5 主なる神よ、あなたはわたしの若い時からの/わたしの望み、わたしの頼みです。
71:6 わたしは生れるときからあなたに寄り頼みました。あなたはわたしを母の胎から取り出されたかたです。わたしは常にあなたをほめたたえます。
71:7 わたしは多くの人に/怪しまれるような者となりました。しかしあなたはわたしの堅固な避け所です。
71:8 わたしの口はひねもす、あなたをたたえるさんびと、頌栄とをもって満たされています。
 
・彼は、若い時から主との交わりの中で生きて来て、彼の口にはいつも賛美があった。
・それで多くの人々は、彼の周りであまりに主が働かれるので、多くの人に驚き怪しまれるような者となった。私達も、いつも主を賛美し、主との交わりの中で生きるなら、多くの人々にとって奇跡と思われるようになる。
 
71:9 わたしが年老いた時、わたしを見離さないでください。わたしが力衰えた時、わたしを見捨てないでください。
・歳をとって衰えるような事があっても、主に求めるなら、主が働き、悪い者の手から助けて下さる。
・10-14節において、彼は、彼にあだする者、損なおうとする者が、災いに遭う事を、主に求めている。なぜなら、主の民を噛みつき、損なおうとする者にとっての祝福とは、彼らののぞみ通りになる事ではなく、むしろ、その悪のわざが失敗し、痛い目にあって、もはや悪のわざを止め、主の栄光をほめたたえるようになる事だからだ。
 
71:15 わたしの口はひねもすあなたの義と、あなたの救とを語るでしょう。わたしはその数を知らないからです。
71:16 わたしは主なる神の大能のみわざを携えゆき、ただあなたの義のみを、ほめたたえるでしょう。
 
・彼は17-20節において、神が今までどのようにして来て下さったか、その体験から、15-16節において主はいかなるお方であるのかを宣言している。
 
71:17 神よ、あなたはわたしを若い時から教えられました。わたしはなお、あなたのくすしきみわざを宣べ伝えます。
71:18 神よ、わたしが年老いて、しらがとなるとも、あなたの力をきたらんとするすべての代に/宣べ伝えるまで、わたしを見捨てないでください。
 
・まさにイザヤ書に書いてある通りである。
イザヤ46:3 「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。
46:4 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。
 
・そう、主は主の民を、背中に負って運んで来られたのだ。
・以降、彼はこれから、その主に対して、どのようにして行くのかという表明をして、詩篇を閉じる。
 
71:19 神よ、あなたの大能と義とは高い天にまで及ぶ。あなたは大いなる事をなされました。神よ、だれかあなたに等しい者があるでしょうか。
71:20 あなたはわたしを多くの重い悩みに/あわされましたが、再びわたしを生かし、地の深い所から引きあげられるでしょう。
71:21 あなたはわたしの誉を増し、再びわたしを慰められるでしょう。
71:22 わが神よ、わたしはまた立琴をもって/あなたと、あなたのまこととをほめたたえます。イスラエルの聖者よ、わたしは琴をもってあなたをほめ歌います。
71:23 わたしがあなたにむかってほめ歌うとき、わがくちびるは喜び呼ばわり、あなたがあがなわれたわが魂もまた/喜び呼ばわるでしょう。
71:24 わたしの舌もまたひねもす/あなたの義を語るでしょう。わたしをそこなわんとした者が/恥じあわてたからです。

主日礼拝

夕の安息ではじまる一日の法則(創世記1:9-13)

第一礼拝 Youtube動画

賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 7月より、コーエンでテフィリンを学んだ世界中の有志達による世界同時テフィリンが始まった。先週は、創世記1:14まで進んだ。今回もテフィリンによって掘り起こされた素晴らしい宝を、共に分かち合いたい。
 
 今回の箇所、創造の第三日目である創世記1:9-13には、主の「良し(トーブ)」宣言が、二つある。一つは、人が住める「かわいた所」を、水の中から分離された時。二つ目は、人や動物が食べる様々な果樹や草を創られた時。住む所と、食べるもの。これらに主が「トーブ」と宣言された所に、主の価値観が見える。
 主が次々と世のものを創造し、整えて行った理由は、「神の子・人間のため」、であった。だから主は、私達が安心して住めるかわいた所、つまり「安息の地」を整えた時、トーブを宣言されたのだ。主は次に、そのかわいた地に、人や全ての生き物達が、食べるようにと、色々な種類の、おいしくて、滋養強壮がある果物や草を生じさせ、私達や生き物達が、それを食べ、喜び、主を称える将来を見て、トーブと宣言された。
 私達は主に感謝しつつ、主が生えさせて下さった日用の糧を喜んでいただくべきであり、また豊かに実を実らせるように、管理するべきである。次のように書いてあるからである。『主なる神は人を連れて行って「エデンの園(喜びの園)」に「置き(ヌーハ:安息させる、住まわせる)」、これを「耕させ(アーバド:従順し働く、聞き従う)」、これを「守らせ(シャマール:囲いを設けて守る、境界の中で養う)」られた。』(創世記2:15) 
 この言葉の順番から、私達の生活や仕事を、いかなるスタンスで送るべきか、主の優先順位を知る事が出来る。私達はまず、主が置かれた喜びの園で、まず安息して住まう事。そして、主の御声に聞き従って、主が生えさせて下さる実りを、より豊かに結ばせるよう、管理し、家族や子供が、主の喜びと平安の中で守られるよう、囲いを設ける事である。主は「ジェホバ・シャローム」、平和の君である。出エジプト記のように、過酷な支配者の怒号の下で、世の王のために、奴隷仕事をするのは、神の民のあり方ではない。もしそのような状況に置かれているとするなら、「出エジプトをさせてください」と叫び求めるべきである。
 私達が、まず、安息する事。それこそ、主の御旨である。安息が無いなら、それは、平和の主の御言葉から離れているからであり、また平安の実が結べられていないのは、御霊に従って歩んでいないからである。
 
 『夕があり、朝があった。第三日。』(創世記1:13) 聖書的には、「夕(日没)」が、一日の初まりである。
夕、すなわち夜は、安息して休むなら、神が創造された本来のあり方へ、回復する法則が働く。被造物は昼に活動し、また成長する。代わりに、諸々を磨り減らしたり、壊したり、バランスを崩してしまったりするが、夜、休んでいる間、主が組み込まれた”知識”へと戻る方向へと、修復する方向性で働く。詩篇19:2に、『この日は言葉をかの日に伝え、この夜は知識をかの夜につげる。』と書いてある通りである。
 つまり全被造物は、それぞれが創られた目的を果たすために、神のことば(知識)が、プログラミングされ、それぞれに主が付与された、本来あるべき姿を、「知識」として、形状記憶合金のように記憶しており、夜という時間は、「知識をかの夜につげる」べき時間帯、主の本質へ戻る、安息するべき時間なのだ。
 神の法則・聖書を知らない人達は、仕事をはじめる朝が一日の初めだと思って、自分のコンディションを、神がプログラミングして下さった本来の状態へと戻さないまま、労苦の多い仕事に入り、疲れ、そして夜、その疲れを紛らわせるために、創造の本質から外れた娯楽で発散し、それで眠りについて一日を終わらせている。そうしてどんどん、神の本質から外れ、自らの体と心、魂のバランスを壊して行ってしまっている。
 
 「闇」の時期は、未解決が残っている時期、改善しなくてはならない状態である。その時、闇の上を御翼で覆っておられる神の御翼の下で安息し、じっくりと本質へ回復し、やがて主が、曙の光となって立ち昇って、闇の中に光を宣言し、きよさと汚れの混在した「混沌」に、「分離」を宣言し、秩序を導入する。
それが、「夕があり、朝があった」というサイクルで、第一日、第二日、第三日と、日を紡いで行き、それを幾度となく繰りかえして後、最後に、「はなはだ良い」という完全へと至り、神と人との、究極な安息へと至る。
 神はそれまで、闇を光で照らし、分離し、秩序をもたらす働きを、ずっと続けておられる。私達は、一日のはじめ、すなわち夕は、主の御翼の下で安息し、主が組み込まれた機能を回復し、全快して、そして光がのぼった朝、主の光に照らされながら、主の働きを為し、成長し、そうして夕があり、朝がある。そのような日々を繰り返し、完全へと至っていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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