メッセージ - 202009のエントリ

主日礼拝

御霊に従い、解放された人生を生きよ(ガラテヤ5:16-18)

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週報/メッセージ(説教)概要

 テフィリン(御言葉暗唱)の創世記箇所が終わり、先週はその復習期間だった。御言葉は良いものであり、礼拝も賛美も祈りも、神様と共に歩む生活も、喜ばしく良いものである。しかし時に、テフィリンする事や、そうした聖なる物事が、何か重い、喜んでできない、あるいは神様がいるという実感が持てない、といったジレンマに陥るかもしれない。どうしたらいつも、御言葉が喜びとなれるか。どうしたら日々、必要の満たしや病の癒やしなど、「祝福の実体」を得る日々となり、神様と喜びの交わりの日々となるか。その秘訣を得たい。
 
 鍵は、御霊(聖霊)である。もし「あれはいい、これはダメ」というような善悪判断システムが稼働しているなら、神は見いだせず、御言葉を理解できず、命も喜びも見いだせない。パウロは常々言っていた。御霊によって歩みなさいと。もし御霊によって歩まないなら…。御言葉はその人の血肉とならず、自分生来の知性の限度内でしか御言葉を理解できず、さらに、御言葉そのものさえ、自分の善悪で判断してしまい、聖なる御言葉と一体化できない自分に落胆するのみならず、自分を縛り、他人を縛りながら生きえざるを得ない。
御霊抜きには、満たされる事も解放される事も、無いのだ。律法学者やパリサイ人が、まさにそうだった。
 ユダヤ人は確かにテフィリンしていて、世的には祝福されているかもしれない。しかし、御霊の根源であられるイエス様を信じない彼らは、結局、自前の善悪判断システムの範囲内でのみ御言葉を理解し、御霊ならぬ、肉によって律法を適用し続けているため、心底の解放も、喜びもない。肉によって律法を成就しようとする事は、無理なのだ。律法の行ないによる人々は、すべて、呪いのもとにあるからだ。(ガラテヤ3:10)
 パリサイ人で律法の教師だったニコデモは、その解決を求めてイエス様の元に来た時、『イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。』(ヨハネ3:5)。水と霊によって新しく生まれる!それが、答えである。水は死を意味するが、今までの善悪判断に生きてきた生き方、すなわち「魂」に対しては、水へ浸し込んで死に明け渡し、御霊によって生きる生き方へ生まれ変わるのだ。人、モノ、コトについて、的確に、神の判断出来るのは、御霊しかない。
 神は霊であり、神が望んでおられるのは、私たちが霊とまことによって礼拝し、霊において祈り、霊において御言葉(すなわち神)と交わりをしながら、生きる事だ。御霊によって歩む時、肉に生きていた人は、今まで味わった事の無い、完全なる解放を味わい、今までに無かった大きな喜びが沸き起こる。
 結局、全て人生をややこしくし、罪に苦しみ、汗を流して労苦している根源は、あの、エデンにおいてアダムとエバが食べてしまった、善悪を知る知識の実にある。この、善悪判断・・・。「わたしは正しい」「あの人は間違っている」「自分が欲するままにしたい」「わたしが立てた計算に従いなさい」などなど、自分が神のようになって善悪判断する道こそ、「必ず死ぬ」道であり、この「善悪判断システム」が思いっきり稼働している人生は、肉欲に暴走し、あちこちぶつかりながら、あれこれ間違えながら、全身傷だらけの人生を生きる以外に無い。全て、「キリスト抜き」に生きて、自分流の善悪判断で生きている人は、その呪いの下にある。
 彼らは、真実なる御言葉を知らず、それを聞かされても、知識で善悪判断し、それを理解せず、従えない。
 しかし、「御霊判断システム」の中で生きると、御言葉すなわちイエス様がその人の中で稼働し、その人の霊を起こし、霊が蘇生し、たましいが霊に従い、御言葉に従順できるようになって真に解放されるのだ!
 
 神の息、神の霊が入っていない人は、所詮ちりである。人の組成は、酸素、水素、炭素、窒素、カルシウムで98%を占め、まさに「ちり」に過ぎない。成分単体では数千円の価値しか無いのに、なぜ人は尊いか。
それは、神に似たものとして創造され、御口から息吹かれた神の息が入ったゆえである(創世記2:7)。もし、人に神の息が無く、神の言葉に反するなら、人はただの「歩くちり、蛇のエサ」に過ぎない。(創世記3:14)
 御霊をいただいている新約聖徒である事は、何と幸いであろうか!バプテスマのヨハネは、女が産んだ中で最も偉大であるが、御国においては、最も小さいものである、と、主は言われた。旧約の律法も、預言者も、バプテスマのヨハネまでである。私たちが、彼が示した救い主イエス様を信じて、御霊をいただいているなら、私たちはバプテスマのヨハネより偉大であり、パリサイ人や律法学者の義に勝っているのだ。
 結局、全て問題の根源は、善悪判断である。神から離れた善悪判断がどれほど大変な事か。神は「それは食べるな!取って食べる時、死ぬ、死ぬ!」と、厳重に言われた点からも分かる。心してそこから離れ、御霊によって歩む事を、日々、選択する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します! 

 

主日礼拝

神の「非常に良かった」を回復する私たちキリスト者(創世記1:31)

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週報/メッセージ(説教)概要

 先週は、「霊的世界史」に残るような記念すべき週だった。2千年前の教会発足以来、初めて、色々の国のキリスト者が、一丸となって、色々の言語で、創世記の天地創造の御言葉暗唱を、完走したからだ。
 これまで、ユダヤ人は会堂においてトーラーを暗唱してきたものの、キリスト者が組織的に御言葉暗唱をした事は、ただの一度も無かった。しかし神の子となったキリスト者が、天地創造以来初めて組織的に暗唱を開始し、先週、天地創造の箇所をテフィリンし終えた。天においてどれほど喜びが沸き起こっただろう。
そのような瞬間に、リアルタイムで参加し、日本語の言語でその一端を担えた事は、なんと栄誉な事だろう。
本日、私達はこの幸いを噛み締めつつ、主の「非常に良かった」の法則に、共にあずかりたい。
 
 「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」(創世記1:31) 神様は人を、ご自身のかたちに創造し、天の下にある全てのもの、植物、全ての生き物を支配するように、と、創造された。そしてついに時至って、最後に人が創造され、その被造物の中に人が組み入れられた時、神は見て、見よ!非常に良い!素晴らしい!と感嘆し、大喜びされた。
 しかし現代、この世界を見るに、「非常に良い」とは見えない。自然界は人に脅威をもたらし、今年は特にコロナという疫病や、大雨、ばったの被害に悩まされている国々がある。これはひとえに、彼らが神の言葉をあなどり、意図してそれを破っているからだ。地は、人が神の言葉を破った故に呪われ、人を労苦させるために、わざわざ、茨やあざみを生えさせ、人は一生、額に汗し、労苦しながら糧を得なくてはならない。
 
 罪とは、神の御言葉を違反し、神が建てた創造の秩序を破壊する事である。人が御言葉に逆らったり混ぜものをする時、 神が創られたあらゆる「非常に良し」が、割られてしまい、効力を失ってしまう。人が創造秩序を割ってしまったため、自然界は「非常に良かった」から離れ、呪われてしまい、疫病や洪水などの「茨やあざみ」を産出するようになった。それで被造物は今、うめきつつ、神の子の現れを待ち望んでいる。
 呪われてしまった被造物を回復するには、どうしたらいいか? 御言葉に「逆らった」故に、秩序が割られてしまったからには、御言葉に「従順する」事によって、創造当初の「非常に良い」が、帰ってくるのである。
 『主の「おきて(トーラー)」は完全であって、魂を「生きかえらせ(シューブ)」』(詩篇19:7a) シューブとは「帰る」という意味で、トーラーは、神の言葉そのものである。完全な神の言葉、「良し」の根源そのものである御言葉は、罪によって割られてしまった、あらゆる人、もの、事から、神の「良し」を帰らせるパワーがある。
私達の中に御言葉をどんどん浸透させて行くと、創造当初の「非常に良し」がどんどん帰って来るのである。
 御言葉を暗唱して行く内に、まず魂が回復される。御言葉を1節1節繰り返して宣言し暗唱して行くごとに、罪と肉に埋もれてしまった魂は、神の息を吹き返し、耳が、脳が、心が、霊が、どんどん蘇生して行く。
 主の「おきて(トーラー)」は完全であると書いてあった。完全なる主の御言葉が、世界を創造し、そして御言葉であられるキリストによって、全宇宙も、全被造物も、全生物も、存続している。だから、テフィリンする事によって、御言葉であられるキリストが、私達の内に刻み込められ、魂の生き返り(シューブ)が行われ、罪によってぼろぼろになってしまった人生に、神の「非常に良かった」が息吹かれ、再構築されて行くのだ。
事実、テフィリンによって体の癒やしが起き、必要が満たされ、家族の救いが起きた報告がなされている。
 
 一人の罪人が悔い改めて、神に帰る時、天において大きな喜びが沸き起こり(ルカ15:7,10)、神が人を創造した当初の、「見よ!非常に良い!」という感嘆が、湧き起きる。先週、世界において同時に、多くのキリスト者が天地創造箇所を暗唱し、宣言する、という快挙を成し遂げた。天において、どれほど大きな喜びが沸き起こっただろう。天においてばかりでない。被造物の間にも、どれほど喜びが沸き起こっているだろう。
 私たちは、御言葉によって神に似せて造られ、「非常によかった」「素晴らしい」と、神様から大喜びされてしまっている一人一人である。そして、御言葉によって、地を支配する者である。
 私たちは、主が創造してくださった「非常に良い」を、的確に探り当てる「センサー」をフル活動させ、毎日の生き方の中で大いに感動し、感情表現を宣言しつつ、神と交わりをして行くべきである。
 御言葉の中で生き、さらに御言葉を人々に伝え、神の「非常に良かった」を多くの人々に、そして、全被造物へと、もたらして行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

神の似姿として神と交わり、神といのちを共に生きる(創世記1:26-28)

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週報/メッセージ(説教)概要

 7月から始まった世界同時テフィリンは、2ヶ月で創世記1章を終えた。ほんの1章を暗唱しただけで、神様はこんなにも被造物を尊く創られたのかという感動と、多くの悟りを得た。テフィリンをすると神様の御思い、意思、感情を感知する感受性が格段に豊かになる。今まで御言葉を1聞いて1理解していたのが、10も20も理解できるようになる。今回も、主は私達をどんなに尊いものとして造られたかを、確認したい。
 
 遠い昔、世界の基がまだ置かれる前から、神様は私たちをキリストの内に選んでおられ、御前で聖く、傷のない者にしようと定めておられた。ただ御心のままに、私たちをご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられ、天にある全ての霊的祝福をもって祝福しておられた(エペソ1:3-12)。そしてついに時が満ち、三にして一であられる神が、思いと意見を一つにして御心を実行に移された。『さあ、人をつくろう。われわれのかたちに、われわれに似せて』(創世記1:26) こうして人は造られ、男と女とに創造された。
 神は人を、ご自身のかたちとし、またご自身に似せて創造され、地の全ての生き物を支配するようにと造られた(26節)。さらに、人を祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(28節) 私達は、他のどんな被造物とも違い、神ご自身の似姿としての権威、力、尊厳を帯びた、尊い尊いご性質と、そして、神ご自身の美しい品性が、与えられた。
 そして特別な使命として、地を従え、全ての生き物を支配する任務が与えられられ、さらには、私たちを、神ご自身との愛の交わりの内に、価値観を共にし、喜びの体験を共に分かち合うものとしてくださった。
 あたかも夫婦が共に生活し、共に同じものを見、共に感動し、いのちの喜びを共に分かち合うかのように、イエス様は、私たちが創られる前から、共にいのちの喜びを分かち合う相手として、定めておられたのだ。
 
 神様は、私たちに託された地の全てのもの、全ての生き物を、神様の愛と品性と尊厳をもって、イエス様にあって見守り、支配するようにと願っておられるだけでなく、全被造物もまた、切実な思いでそれを願っている。私たちのような神の子が現れ、支配する事を。今、人は罪を犯し、神から離れてしまっている故に、被造物はうめき、産みの苦しみをしつつ滅びの束縛から解放される事を待ち望んでいる。(ローマ8:19-22)
 だから私たちは、イエス様がするように、造られしものの幸福のために、大切に支配し治めるべきである。
 
 現代、家庭内暴力(DV) が問題になっているが、暴力的な力による支配は、イエス様の愛の支配の真逆である。イエス様の愛(アガペー)は、相手を大切にする無私の愛であり、その統治は、愛の思いやりに満ちた統治である。もし今、私たちが、暴力的な支配や、わいろを取る等の不正や、神が配分されたものを、ごっそり我が物とするような支配が、はびこっているのを見るとしたなら、それはイエス様の名によって、足の下に踏みつけ、征服し、支配権を分捕り返さなくてはならない。神は次の命令をしておられるからだ。
 『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ(カーバシュ)。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ(ラーダー)。』(28節) カーバシュも、ラーダーも、それぞれ「踏む」「征服する」「支配する」の意味があるが、私たちは暴力で踏みにじるやり方ではなく、イエス様のように、死はいのちによって飲み込み、愛で覆い、愛で征服するのである。一体、そのような支配は、どうしたら出来るのだろう。
 それは御言葉を暗唱する事で、体得できるものである。なぜなら御言葉は、神の意図そのものだから。
御言葉なる神と直接交わり、その意図を知り、実感し、そうこうしている内に、神の聖なる感覚が、自動的に流れ込んで来る。創世記を共にテフィリンして来た方は、その感覚が流れ込んできた事を実感したはずだ。
 御言葉が刻み込まれていくと、創造の当初、主が人に備えてくださった統治する権威と力は、自然と身につく。その仕方も、仕草も。私たちは「統治する」というと、何か力んで意気込んでしまいがちだが、そうなる必要は、一切無い。テフィリンしていれば自然に、イエス様のように安息して、余裕で統治するのだ。
 
 創世記1章をテフィリンしたら、神様の意図をこんなにも実感できたのだから、さらに他の箇所もすれば、どれほど、増し加えられるだろう。テフィリンは、生活実践型、生活密着型の福音を、いとも単純に得られる手段である。人を創ったパワーのある御言葉が、人を造り変えるのだ。テフィリンによって、ますます神様の御思いを知り、正しい統治者となっていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 

主日礼拝

三位一体の神が、人を尊く創られた物語(創世記1:26)

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週報/メッセージ(説教)概要

 『神(エロヒーム)は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。』(創世記1:26a) 7月から始まった世界同時テフィリンは、天地創造の佳境に入り、いよいよ、人を創って祝福する段に入った。今回、私たち人間は、どんなに神様から尊いものとして造られたか、この節から確認したい。
 
 神様はご自身を、「われわれ」と、複数形で表現された。神をあらわす語エロヒーム אֱלֹהִיםは、エロアーאֱלוֹהַּ(崇高なるお方)」の複数形で、「崇高なる方々」とも訳せる。唯一であられるはずの神は、なぜ複数形で表現されたのか…。聖書の最初、創世記1:1の原文は「べレシート・バラー・エロヒーム(はじめに、創造した、崇高なる方々が)」であるが、ここは複数形名詞・エロヒームに対し、単数形動詞のバラー(創造する)が当てられており、これは文法ミスとも思える(例えばThey is GODと書くような)尋常でない表現である。
 ユダヤ人の至宝であり、全人類の真理である聖書が、最初から文法ミスを犯しているのだろうか?いや、人がどう見ようと感じようと、ヘブライ語聖書は、一点一画で、真理そのものを正確に表現しているのだ。
 神は、本質としては一でありながら、人格(パーソン)は、三であられる。これをすなわち三位一体という。
 その三の人格(本来は「位格」)の第一は「父」、全てを企画設計するお方であり、第二は「子」、御父が企画設計した事を、実行するお方、そして第三は「聖霊」、御子が実行された事を助け、保全・保護される。
 そして父、御子、御霊が、天地創造の場面で唯一、志を一つにして言われた事は、「さあ人を造ろう」であった。それも、「われわれの形として、われわれに似せて」。神は人を、実に、特別な存在として創られた。
 
 神は、特に心して造られた人間に、どのような役割・どのような目的を与えられたか。『彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配(ラーダー )するように。』(創世記1:26b)
 「ラーダー」の原意は、「踏み固める」、そこから「征服する」「支配する」の意味となる。つまり人は、本来、悪しき者や、御心にかなわない事がはびこる時、それを踏みにじり、征服し、全被造物が健全に安息を保つよう、正しく統治するための支配権が、委任されている。私たちはこの事を、しかと心に留めるべきである。
私達は、罪人の支配に押されているべきではないし、世の隅でひっそり清貧に生きている場合でもない。
世をキリストにあって正しく支配し、罪や汚れが起こった時は、しっかり足の下で踏み、征服すべきである。
 この正しい統治とは、キリストの権威の下に服してこそ、可能である。私たちは与えられている分を超えて、自分が神のようになろうとしてはならない。聖書の中で、三位一体の神が一丸して人間に反対されたケースは、善悪を知った人間が、いのちの木にまで手を伸ばす危険があった時、また、バベルの塔を築いて名をあげようとした時であった(創世記3:22, 11:7)。いずれも、罪ある人間が神のようになろうとした時である。
 神が三位一体として全力で人をバックアップする時とは、宣教のため全世界へ人を遣わされる時である(イザヤ6:8、マタイ28:19)。神はそれ程、救いの働きを尊ばれた。父・御子・御霊が、公に人前に現れたのは、イエス様が水のバプテスマを受けられた時で(マルコ3:16-17)、イエス様こそ、全人類の救いの中心、福音の働きの中心である、と、全力で強調された。父・御子・御霊は、様々な賜物や奉仕、働きの根源であり(1コリント12:4-6)、そしてバプテスマも、祝祷も、父・子・聖霊の御名による(マタイ28:19,2コリント13:13)。
 このように三位一体の神は、イエス様こそ生ける神の御子キリストであると強調され、また救いの働きを全力で助け、働き人を支え、救いのわざ、神の国の仕事に参加する事を、全面的にバックアップされる。
 
 遠い昔、天地万物は、父なる神が設計し、御子キリストにあって創られた。三にして一であられる神は、心と思いを意思を一つにし、「さあ、人をつくろう。われわれのかたちに、われわれに似せて」と言われ、人が創られる前から人を愛し、人を喜び、人のために次々とこの世を構築して行き、そしていよいよ最終段階に入った時、全てのものを治めるように、と、神に似たものとして、人を創られた。人が男と女として創られ、彼らが全被造物の中におさまった時、神は、はなはだ喜び、とても良い!と評価された。
サタンが人をそそのかし、罪と死の奴隷にしてしまった時、神は早速、救いのご計画を発動し、御子イエスキリストご自身が、自ら犠牲となって救いのわざを達成された。そして聖霊は、弱い私たちを助け、私たちが神の子として御国を受け継ぐまで、助けておられる。そんなにも人は、神から尊ばれた存在なのだ。この本質を理解し、その本質の中に生きる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 詩篇 講解説教

敵が聖所をほしいままに汚している有様を主に訴えよ(詩篇74篇)

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詩篇74篇表題『アサフのマスキールの歌』
 
この詩篇では、敵によって聖所が汚され、破壊され、神の民が苦しめられている事を、主に執り成し、訴えている。
バビロン捕囚の内容を彷彿させる内容であるため、いつ、誰が記した詩篇であるのか、議論はあるが、この詩篇は、礼拝生活が破壊され、神の民の敵が大手を振って歩いている状況に対する祈りとして、非常に効果的な祈りである。
私達は、この詩篇から、私達自身への直接の養いをいただき、また、今この時代を執り成し祈るのだ。
 
詩篇74:1 神よ、なぜ、われらをとこしえに捨てられるのですか。なぜ、あなたの牧の羊に怒りを燃やされるのですか。
74:2 昔あなたが手に入れられたあなたの公会、すなわち、あなたの嗣業の部族となすために/あがなわれたものを思い出してください。あなたが住まわれたシオンの山を/思い出してください。
 
「あなたの牧の羊」「昔あなたが手に入れられた」「あなたの公会」「あなたの嗣業の部族となすためにあがなわれたもの」。。。
作者は、苦しめられている民を執り成す際、「あなたの」という言葉を何度も用いて、執り成す相手が、主のものである、という事を強調している。
 
私達・人間は、あやふやな存在でしかないし、自分で自分を救う力も、権威も、分も無い。
しかし、そんな私達でも、イエス・キリストにあって、自分たちは主の民である、と宣言し、天地を創造された主を拠り所とするなら、一転して、私達はしっかりした土台がある者、救いの根拠を持っている者となる。
私達はいつでも、主と自分との関係を思い起こし、また主の前で宣言して、主に思い起こしていただき、主が具体的に、私達の生活や職場で働き、助けて下さる機会を、呼び込む事が出来る。
 
3-5節において、敵が勢いづいて、森の中で斧をふるうかのように、聖所を破壊し、さけび、聖なる所に、彼らのしるしとなるようなものを掲げて、猛威をふるっている有様が記されている。
彼らは、手おのと鎚とをもって、聖所の彫り物をことごとく打ち落し、聖所に火をかけ、御名の住まい(ミシェカーン:幕屋)を、地にまで倒し、そのようにして汚した。(6-7節)
 
74:8 彼らは心のうちに言いました、「われらはことごとくこれを滅ぼそう」と。彼らは国のうちの神の会堂をことごとく焼きました。
 
神の会堂(英:シナゴーグ)と訳された語の原語は「モエド」、すなわち、約束された時間と場所の事である。
定められた時間と場所における礼拝が、敵によって阻害され、汚されてしまっている状況である。
 
この日本においては、そのような状況が、多々あるかもしれない。
偶像礼拝する家族によって、あるいは、主日も出勤を強いる職場によって。
それを「家族が礼拝を止めるのだからしょうがない」「仕事だからしょうがない」と言って、そのまま受け入れていないだろうか。
もし礼拝が阻害されているような状況なら、アサフのように、悲しみ、主に切に訴えるべきだ。
 
74:9 われらは自分たちのしるしを見ません。預言者も今はいません。そしていつまで続くのか、われらのうちには、知る者がありません。
 
自分たちのしるし、すなわち、礼拝者として、クリスチャンとしてのしるしが、この国の中から、また、自分の家の中から取り除かれてしまっているとするなら、胸をたたいて悲しみ、悔いて、主に叫び訴えるべき状況である。
祈るべきである。
10節以降、その状況を、いつまでものさばらせておかないように、という祈りが続く。
 
74:12 神はいにしえからわたしの王であって、救を世の中に行われた。
 
彼は、神を「いにしえからわたしの王」と、宣言し、自分と、主との関係を表明した。
私達は、主との関係を、いかなるものと見ているだろう。
主は、どのようなお方で、そのお方が、今の私達と、関わりを持っておられるだろうか。
 
74:13 あなたはみ力をもって海をわかち、水の上の龍の頭を砕かれた。
74:14 あなたはレビヤタンの頭をくだき、これを野の獣に与えてえじきとされた。
74:15 あなたは泉と流れとを開き、絶えず流れるもろもろの川をからされた。
 
レビヤタンは海の巨獣であり、また、神に逆らう神話的怪獣として(ヨブ3:8)、あるいは、神に裁かれるべき神に敵するアッシリヤやバビロン(イザ27:1)を象徴している箇所もある。
 
この詩篇では、御力をもって海を分け、また、もろもろの川を枯らされた内容から、ナイル川の恩恵で栄え、神の民を苦しめたエジプトおよびパロをあらわしているものと思われる。
神は大いなる救いの手をもって、エジプトから、神の民イスラエルを救い出された。
 
神の民をエジプトから救い出された神は、昼と夜の法則を定め、光と太陽を設けられ、夏と冬の時を定め、地のもろもろの境界を定められたお方。(16-17節)
その神が「わたしの神」である、と、私達の主イエス・キリストにあって宣言し、この主に、訴えるのだ。
 
74:20 あなたの契約をかえりみてください。地の暗い所は暴力のすまいで満ちています。
 
「契約をかえりみてください」、と祈る祈りは、根拠がしっかりした祈りである。
今、私達が持っている神との契約の書とは、新契約聖書および旧契約聖書、すなわち、聖書である。
私達が、聖書の御言葉を盾にして祈る時、その祈りはもはや根無し草のような祈りではなく、どっしりとした岩のような揺るぎない根拠のある祈りとなる。
 
主は、神の民と、契約を結ばれた。
その契約の言葉の中に、書かれてある。
もし、人々が、主との契約を破り、その自分自身の罪のために遠くの地へ捕らえ移され、そこで悔い改めて主に祈る時、主は答えてかえりみてくださる、と。(1列王記8:46-53)
また、イスラエルの民が神との契約が記されている書、レビ記にも書いてある。
 
レビ記26:40 彼らは、わたしに不実なことを行ない、わたしに反抗して歩んだ自分たちの咎と先祖たちの咎を告白するが、
26:41 しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。
26:42 わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。
26:43 その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。
26:44 それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。
26:45 わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らを、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは主である。」
 
キリスト者である私達にも、過去、自分自身の罪や咎のために、捕囚されるような状況があったかもしれない。
しかしその時、主イエス様の名を呼び求めた時、主は答えてくださったはずだ。主は生きておられるから。
 
そして今、もし主と共に歩んでいると言うなら、この詩篇において、アサフが執り成したように、私達も、この時代のために執り成し祈るべきである。
 
主は、いつの時代でも、憐れみ深い。
主に、いつでも望みをかけるべきだ。
 
哀歌3:25 主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
3:26 主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。
3:27 人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。
3:28 主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。
3:29 口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。
3:30 おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。
3:31 主はとこしえにこのような人を/捨てられないからである。
3:32 彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。
3:33 彼は心から人の子を/苦しめ悩ますことをされないからである。
3:34 地のすべての捕われ人を足の下に踏みにじり、
3:35 いと高き者の前に人の公義をまげ、
3:36 人の訴えをくつがえすことは、主のよみせられないことである。
3:37 主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。
3:38 災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。
3:39 生ける人はどうしてつぶやかねばならないのか、人は自分の罪の罰せられるのを、つぶやくことができようか。
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