メッセージ - 202101のエントリ
主日礼拝
神様から報酬をいただくには?その報酬とは?(創世記15:1-6)
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週報/メッセージ(説教)概要
アブラハムは、主に示された地に留まった事によって大いに富まされたため、彼には、9人の王達に勝利して得た分捕り品など、くつひも程度にも見えなかった程、主にあって満ち足り富んでいた事を、前回見た。
私達もアブラハムに習い、出るべき所(罪の性質)を出て、主が示された留まるべき所に留まり、主を礼拝するなら、主にあって富まされた者となる。さらにその後、主はアブラハムに現れて言った。『アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報い(報酬)は、甚だ大きい。』(創世記15:1)
主は、甚だ大きい報酬を与えて下さる、と言われたが、私達はそれを、どうやって受け取れるのだろうか。
アブラハムは、信じて戦いに出た結果、勝利と祝福の言葉をいただいた。つまり主から報酬を受けるには、神様が提示された御言葉を「信じ」、信じた通りに「行う」事によってであり、その支払いは、神様の言葉が「実体化」される事によってである。彼に一番最初に与えられた御言葉は、「Aをしなさい、するなら、Bを与える」、というもので、Aとは、本土、親戚、父の家を離れる事、そうするなら、大いなる国民とし(B1)、祝福し(B2)、名を大いなるものとし(B3)、名は祝福となり(B4)、あなたを祝福する者をわたしは祝福し(B5)、あなたを呪う者をわたしは呪う(B6)、全ての民族は、あなたによって祝福される(B7)というものだ。(12:1-3)
この約束を聞いたアブラハムは、期待し、信じ、実行した結果、実際にBの祝福が、全部実体化した。
アブラハムは、なぜ信仰の父となったか。なぜ、イエス・キリストの系図はアブラハムから始まるのか。彼は、神様から提示された言葉を信じ、信仰の行いをした結果、その報酬として、御言葉の実体化や、必要の満たしを得、祝福を得た「最初の人」であり、続く系図の人々も、今の信仰者も、皆、そのような人々だからだ。
しかし私達は、御言葉の約束を頂いても、心にモヤモヤがあったり、信じ切れなかったりする事がある。
その時は、遠慮なく、主に申し上げるべきである。アブラハムも当初、そうだった。アブラハムにはまだ、肝心の子が与えられていなかった(2節)。主は、莫大な富や勝利はいくらでも与える事ができる、と、前回の戦争で実体験したが、その莫大な祝福と信仰とを受け継がせるための、肝心の、子が与えられていない。
主が生きて働いておられる事は、十分経験済みなのに、一番肝心の「子」だけが、与えられていないのだ。
私達も、そういう時がある。御言葉の約束は与えられていて、実際に祝福され、主が生きて働かれている事は十分経験済みなのに、肝心の、求めている「それ」だけ与えられていない、という事が。
主はその時、アブラハムを外に連れ出して、言った。『「天を仰いで、星を数える事ができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。アブラムは主を「信じた(アーマン)」。主はこれを彼の義と認められた。』(5-6節) アーメンとは信じ、同意し、それと一体化する事である。
神様から報酬を受け取るためには、与えられた御言葉を「信じ」、その通りに「行う」事によって、だった。
彼は以前、あなたの子孫を地のちりのように多く増し加える、という約束を聞いただけで、ウキウキし、生まれ故郷を飛び出したのに、約束が中々実現しないと、主の約束へのときめきとドキドキが無くなっていた。
主は、そんな彼でも、信じてアーメンできるように、天を仰いで星を数えなさい、と言われた。それは彼が信じて、義と認定するためだった。私達も、信じ切れなかったり、モヤモヤする時、主に遠慮なく申し上げるなら、主は、こんな私達でも、信じられるように、天を仰がせ、私達の見るべき「星」を見させて下さる。
この、罪と不正に満ちた暗闇の中、キラキラと輝きながら、御言葉によって支配し、治める、信仰のテフィリン世代を。もし、私達にも見させて下さい、と願うなら、信じられるように、その星空を見させて下さるのだ。
ときめきをもって御言葉を受け取り、期待し、楽しみつつ行うなら、主は、喜んで報酬を与えて下さるが、もし、聞いて、ぼんやり「有り難い」とは思っても、何も手足を動かさないままでいるなら、報酬は何も無い。
聞いた御言葉を信じ、期待し、楽しみつつ実行してこそ、御言葉の実体化という喜びの報酬を得るのだ!
信じて宣言した御言葉は、主が責任を取って下さる。宣言した御言葉が真実であると示すために、主はしるしや奇跡をもって答え、今、彼が言った言葉は本当だよ、と保証して下さる。信じて宣言するのは、私達の分。それを実行して下さるのは、神様の分なのだ。イサクも、ヤコブも、そのように生きたので、彼らを見ていた人々は、確かに彼らには神がおられる、と、恐れた。御言葉を聞いたなら、信じ、実践し、そして主から大いなる報酬をいただく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
悪霊何千匹がかりの問題をも解決させる言葉:「イエスよ来て下さい」(マルコ5:1-20)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2021-1-27 10:30
神の民に行き過ぎた虐げをした者が受ける報い(エゼキエル25章)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » エゼキエル書
- 執筆 :
- pastor 2021-1-27 10:30
主日礼拝
主に示された地に留まる事が、どれほどの祝福か(創世記12:1-3)
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週報/メッセージ(説教)概要
年末から新年にかけてのニューイヤーズ・イブ礼拝で、年明け早々に語られた御言葉が、本日の、アブラハムの祝福だった。アブラハムが祝福を受けた理由は、彼は神様の言葉に従って、それまで住み慣れた本土・親戚・父の家という古いなわばりやしきたりから離れ、神様が示された、神の国のなわばりとしきたりへと入り込み、そこに留まる事によってだった。実際的な祝福を得る秘訣は、これである。
新年が明けて四週目に入った今日、この祝福の秘訣を、今一度、確認したい。
アブラハムは、それまで”神様抜き”で生きて来た、本土・親戚・父の家から、神様の命令に従って「出た」。
そして、神様が示された地に行って「留まった」。祝福を受けるための法則は、シンプルに言えば「出る事」と「留まる事」である。すなわち、詩篇1:1に示されている通り、悪者のはかりごとに歩ま「ず」、罪人の道に立た「ず」、あざける者の座に着か「ず」、という「3つの”ず”」の物事から離れ、詩篇1:2にある通り、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ事に「留まる」。そうすれば、水路のそばに植わった木のように、時が来れば実を実らせ、その葉は枯れず、何をしても栄えるという祝福が、私達のものとなる。
出るべき所を出て、そこに戻らない。また、留まるべき所に留まってそこを出ない。たったこれだけだ。
人は何かと「留まりなさい」と言われても、じっとしれおられず、そこを出て、何かをしたい衝動に駆られるもので、アブラハムも、そうだった。彼は、主から留まるよう示された地を出て、エジプトに行ってひどい目に遭ったが、そこから戻って主を礼拝し、留まるべき所に留まった。その結果、どうなったか。アブラハムも、一緒にいた甥のロトも、非常に富んで、多くのものを得、その地に一緒に住む事ができないまでになった。
何をしたから?それはただ、礼拝して、留まっただけ、である!ただそれだけで、二人は一緒に居れない程、豊かになり、彼らのしもべ同士で争いが起きるまでになったため、別れる事になった。
ロトは、ソドムという、主の前に甚だ悪い者達が住んでいる所を、「主の園のよう、また、エジプトの地のよう」と評価した。主の基準によってでなく、自分の目に「よし」という基準に従って行くなら、ソドムさえ、主の園と同価に見てしまうのが、肉に従って歩む人の特徴である。このような価値観を持った者は、信仰者と共に祝福は相続できない。そのような者と別れた途端、怒涛のように祝福が入ってくる。(創世記13:14以降)
その後、メソポタミア地方の4つの王とその軍勢が、カナン地方の5つの王とその軍勢に戦いを挑んで、打ち破り、彼らはソドム・ゴモラ等の財産や食料を全部、奪って行った。ロトはその時、ソドムに住んでいたので、ロトとその財産も奪われて行った。アブラハムはそれを聞くと、彼の家で生まれたしもべ318人を引き連れて立ち向かい、なんとその4人の王達を打ち破って、ロトも、5人の王達の財産をも、全部取り戻した。
普通、勝利に勝利を重ねて勢いづいている4人王達に、318人の手勢で立ち向かうなど、無謀の極みだが、彼は主が示された「留まるべき所」に留まった結果、大いに祝福され、これら、合計9人の王と、その軍勢の頂点に君臨する力を、頂いたのである。しかし彼は、王達の上に君臨するなど、一切興味を示さなかった。彼はなぜ、莫大な資産や財産を得たのに、我がものにしないどころか、一切興味が無かったのか。
彼はソドムの王に、「あなたの持ち物は、靴紐一本さえもらわない」と言った。つまり彼は、主の御言葉で示された地に「留まった」事によって得た祝福に比べれば、ソドムや、他の王たち全部をひっくるめた持ち物や財産など、「くつひも」程度にも見えないほど、主にあって満ち足りて、富んで、満足していたのだ。
そもそも、その王達は、暴力や奸計を用いて、のし上がり、人から分捕り、人を泣かせて、所有を増やしたものである。そんな「3つの”ず”」にまみれたものは、靴紐一本でも、自分のものとしてはならない。
彼は、ただ主が示された「留まるべき所」に留まっただけで、これほどまでに祝福して下さった神様に、信頼していたからこそ、躊躇なく、人からは無謀と見える戦いを挑む事が出来たし、また、勝利した後も、ソドムの資産や財産や、9つの王国の上に君臨する権利など、躊躇なく破棄したのだ。むしろ彼は、メルキゼデク、すなわち、イエス様からいただくパンとぶどう酒をこそいただき、彼に十分の一を捧げ、礼拝した。
アブラハムのように、主の言葉に信頼して、出るべき所をきっちり出て、留まるべき所にきっちり留まり、それによって、大いなる国民とされ、その名が大いなるものとなり、祝福する者を主が祝福してくださり、呪う者を主が呪って下さる、そのような皆さんとなりますように!イエス様のお名前によって祝福します!