メッセージ - 202103のエントリ

主日礼拝

十字架の福音という愛のプロポーズ(雅歌8:5-7)

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週報/メッセージ(説教)概要

 今週はイエス様の受難週、英語ではpassion weekという。なぜパッション(情熱)なのか。それはイエス様が、限りない情熱をもって、私達を愛した故、私達の身代わりに十字架の上で死んで下さった事によって、その愛を、実践して見せて下さったからだ。極みに至る愛を表現された十字架の主を、本日、おぼえたい。
 
 イエス様はなぜそこまで、私達を愛されたか。それは、「結婚」という、愛の究極を、結実させるためである。
結婚と、十字架は、密接な関係がある。ユダヤ人は過越祭の度に、雅歌書を朗読するが、過越祭は、十字架でほふられたキリストを意味しており、また、雅歌書のテーマは、まさに、男女の愛、そして結婚である。
 結婚とは、男性が女性に対し、また、女性が男性に対し、これからわたしは、自分の生涯(いのち)を、あなたに、そして、あなたと共に築いて行く新たな家庭のために、捧げます、そうして神様の「生めよ、増えよ」という使命を、あなたと一緒に、生涯を通して全うして行きます、という、聖なる契約である。イエス様は、私達と、その「結婚」関係を築くために、まず、イエス様の側から、ご自身のいのちを、私達へと捧げられた。
 
 私達が、その契約関係へと入るために、まず必要なものが、信仰である。すなわち、イエス・キリストこそ私の救い主であり、また、私の人生の主人である、と、信じて、告白するのだ。信仰とは「to unite(連合する)」、「to band(結ぶ)」を意味するが、それはまさに婚姻関係と同じである。私達の信仰先祖・アブラハムは、神様の言葉を信じた故に、それが彼の義とされた、と書いてある。しかし、信じた事で完成、ではない。
 結婚という契約に入った際、日々要求される事は「捧げる事」である。結婚生活とは、自分を相手に捧げ、また、結婚した事によって生じた新しい「家庭」のために捧げる事によって、成り立つ。こうして自分は相手のものとなり、相手は自分のものとなり、そうして新しいいのち、新しい家庭を築き上げて行くのだ。もし夫婦のどちらか、あるいは両方が、その「捧げる」事をしないなら、その家庭はやがて分解してしまうだろう。
 以上、まことの花婿であるイエス様を「信じる」事と、「捧げる」事が、そして、イエス様と共に構築して行く新しい家庭、すなわち「神の国」のために、自らを捧げる事が、イエス様との契約において、必要である。
 私達自身を、きよい、生きた供えものとして、神様に捧げるなら、私達は神様の所有とされ、神様が私達の所有となるのだ。事実、アブラハムの信仰が「完成」したのは、彼のひとり子・イサクを「捧げた」時だった。
アブラハムは、その行いによって、彼の信仰は完成し(ヤコブ2:22)、それによって、彼の子々孫々は、永久に「神のもの、神の所有」となった。それ故、アブラハムの子孫は、この地上において特別な存在なのだ。
 私達も同じように、イエス様を信じ、自分の生涯(いのち)をイエス様へと捧げ、自分自身の所有権を、イエス様へと渡すなら、私達はイエス様と婚約関係となり、雅歌書にある通り、『わたしはわが愛する人のもの、わが愛する者はわたしのものです。』(雅歌6:3)という関係、私達はイエス様の所有となり、夫であられるイエス様に永遠に保護され、愛されつつ、永遠の家・天国において、永遠に共に王として治めるのである。
 
 結婚において、肝心な事は、意志による決断だ。神様は、全て創られた生き物のうち、ただ人間にだけ、神様に従う自由・従わない自由を、与えられた。それは、人は唯一、キリストの花嫁となれる存在であり、キリストを愛し、その契約関係に入る、と、意思表明する事こそ、結婚においての前提だからである。
 私達もアブラハムのように、自分のしきたりと縄張りを捨て、主へと捧げるなら、この、永遠の契約関係へと入れられる。しかし、その自由意志を用いて、イエス様を「信じない」と選択する者、神様が提示した契約を捨て、ただ、自分の好む事をし続ける者は、”永遠の独身者”として、自分の罪の中で死に、永遠に絶たれてしまう。それ故、私達を愛してくださった主は、イエス様との結婚関係へと入りなさい、と、招かれる。
 
 十字架の出来事、それは、イエス様が自身を私達へと捧げられ、こよなき愛を示された出来事であり、福音とは、イエス様のその捧げた愛を「受け取りなさい」という、愛のプロポーズである。私達が先に神を愛したのではなく、神がまず私達を愛し、ひとり子を私達へ与えて下さった故に、私達に愛が分かったのである。
 このパッションウィーク、十字架上で自らを捧げる程に情熱を示してくださったその愛を思い、信仰をもってそれを受け入れ、イエス様との婚姻関係を、高らかに宣言し、天と地において一切の権威が与えられたイエス様と、永遠の家を築き上げていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

あなたを救うために、彼は十字架で死なれた(ルカ23:33-34)

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週報/メッセージ(説教)概要

 来週から、イエス・キリストの受難週に入る。神の御子であられるお方が、何故に、十字架の上で苦しまれ、死なれ、そして、よみがえられたのか。イエス様は、どのようなお方であるのか、この時期、思いを馳せたい。
 
 『されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人達も、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。』(ルカ23:33) 私達は、イエス・キリストは、神の御子であられる事を知っているが、なぜ、神であられるお方が、人間の手によって、十字架刑という死刑に処せられたのだろうか。
 多くの人は、神について、次のように認識している。神は高尚で、力強いお方だから、私達は神に、色々なものを貢いで、願い事を叶えてもらおう、と。それで祈ったり、捧げものを捧げたり等して、「貢ぎ」をする。
 もしも貢ぎ方が悪かったなら、罰として災いが起こったり、報われなかったりする。人から拝まれている神は、このように、ご機嫌を伺わなければならない神だと認識があるが、そればかりではない。人の運命も、この世の力ある人も、皆、何を考えていて、どう動くのか分からない。人は常に、自分にはどうしようもない存在に振り回されつつ生きている。だから、神なぞ居ても居なくても同じだ、と言って生きる人もいる。それで多くの人は、どう転ぶか分からない将来のためベストを尽くし、もがきながら生きるしか無い、と思っている。
 
 聖書には書いてある。天と地と、宇宙万物を創り、私達・人間を創られた、ひとりの神が天におられ、その神は、実に、ひとり子をお与えになった程、私達・人間を愛された。神であられるイエス・キリストは、人に貢ぐために、高き天の御座から降りて来られた。何を貢ぐため?十字架上で、神のいのちを私達に貢ぐため。
 神の御子・イエス様がこの世に来られたのは、世の王のように、権力をふるって支配するためではない。
神の御子・イエス様は、人としてこの世に降りて来られた故に、私達の無知も、罪も、弱さも、全部ご存知で、それら全部をひっくるめて、私達の事を、父なる神様に執り成し、祈って下さる。 『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」』(34節)
 イエス様は人々のために、それも、わけも分からず、神であられるお方を十字架につけて、嘲っている私達・全ての人のために、「彼らは何をしているのか分からないのです」と、父なる神様に執り成して下さった。
 
 私達は、本当に、真理について無知である。人は本来、神様と共に、永遠に、神様の愛の中で生きるように、と、創造されたのに、サタンにそそのかされて、罪と死が入り、神様も真理も、わからなくなってしまった。
 人は、罪と死が厳然として目の前にある不安に、おののきつつも、訳もわからない不条理な人生を生きている。罪なく、死も無いはずの、神の御子キリストは、その全ての呪いを打ち破るために、全人類の罪と死を、一身に背負って、十字架に釘づけられ、そうして、全ての罪と死を十字架上で処罰して下さったのだ。
 しかしそれで終わりではない。イエス様は、三日目に、死を打ち破って、よみがえって下さった。イエス様は、人類最後の敵である死に勝利し、罪も、死も、サタンも、一切を十字架で処罰し、勝利して下さった。
 このイエス様を、「わたしの救い主」として信じつつ生きる人は、全て、罪に、死に、サタンに勝利するのだ。
このイエス様に呼び求める時、天と地と時間を支配しておられる神様は、私達の将来も、なすべき事も、最善へと導いて下さる(ローマ8:28)。もはや、未来も、人生も、わけのわからない偶然の連続ではなくなる。
 私達を創造し、私達を愛し、私達に、将来と希望の計画を立てておられる主は、私達の最善を、一番良く知っておられる故、もし私達が、イエス様を主とし、一切の思い煩いも、未来も、主導権を全部、お委ねするなら、彼は世の全てを動かして、私達のベストの未来へと導いて下さり、将来への不安は一切なくなる。
 
 父なる神様は、限りなく愛であられ、実に、ひとり子をお与えになるほどに、世を、あなたを、愛された。
御子キリストは、全人類の身代わりとなって、十字架上で処罰を受けられた。罪なきお方なのに、罪とされ、聖なる、不死の「神のいのち」を、私達・全人類の罪の借金の支払のために差し出し、交換して下さった。
 私達がそれを信じ、祈り心を込めつつ「わたしを救って下さい」と、救い主・イエス様の御名を呼ぶなら、生きておられるイエス様は、この祈りを聞かれ、不思議な導きをもって、答えてくださる。なぜなら、イエス様の御名(ヘブライ語では「イエシュア」)の意味は、「彼は救い」であるから。この、救い主の御名を呼び、あらゆる面において、救いに入る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝

神様の縄張りとしきたりから離れないように気をつけよ(創世記16章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 アブラハムの祝福の法則を学んでいる。古い罪のなわばりとしきたりを出て、主が示された所に留まって礼拝生活を続けるなら、7つの祝福を得られる、という法則が、創世記12:1-3に示されている。彼はその法則通りにした結果、9人の王の頂点になり、もはや、富や力においては満ち足りすぎる程、満ち足りていた。
 しかしまだ、肝心の子供が与えられていなかった。彼はその事についての思い煩いを、全て主に打ち明けた所、主は彼と契約を結び、彼の子孫は、必ず空の星々のようになる、と、確かな約束をされた。(15章)
 
 しかし16章で、再び失敗をしてしまう。その失敗の源は、外からのものではなく、内部からのものであった。
神様の御旨は、アブラムとサライという、素晴らしい信仰の夫婦が、一体となって、子々孫々へと信仰の継承をさせて行くものだったのに、「子供がいない」という目先の問題を解決するために、彼らは神の方法でなく、世の方法を採用してしまう。『彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。』(1節)
 ハガル。彼女はエジプト出身、すなわち、力で、富で、若さや美で、支配権を「奪う」世界出身の者である。
 サラはハガルをアブラハムに与え、彼女に代理で子を産ませる、という、当時の習わしを提案し、アブラハムは妻の声に聞き従って、その通りにした。その結果、後々の子孫に、苦い根を残す事になってしまう。
 私達がこれから気をつけるべきは、エジプトの思考を持った人を、要職につけてはならない事である。
サラの提案通りにしてみると、ハガルは、すぐに身ごもった。するとハガルは、エジプト根性が芽生え、女主人に見下た態度を取るようになった。アブラハムは、人生初めての子が、ハガルの胎に宿った事に浮かれ、それを放任した。サラは、何年経っても身ごもらなかったのに、ハガルは一瞬で身ごもったので、ますます惨めになった。結局、神様の平安がどこにも無い家庭となってしまい、当初もくろんだ未来とは、かけ離れた現実となってしまった。神様の示された縄張りとしきたりから、踏み外すと、「ねたみ、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い」といった、肉の実(ガラテヤ5:19-21)を、見事に結んでしまうのである。
 サラは、ハガルが自分を見下げるようになったのを、「あなたのせいだ」と言った。そう、アブラハムは、神に聞かず、妻の声に聞き従い、また、女奴隷が「分」を超えて、女主人サラを軽んじるのを、戒めなかった。
 もし私達が、何かの「主人」であるなら、配下たる者が分を越え、また、神様の言葉を超えるような事を薦めてきた場合、御言葉を根拠に、正しく治めなくてはならない。それをしないと、家に呪いを招いてしまう。
 アブラハムはサラに、ハガルをあなたの好きなようにしなさい、と言った(6節)。それでサラはハガルに辛く当たったので、ハガルは逃げ出した。周囲の人々は、やはりアブラハムこそ家長で、サラこそ女主人であると思い知った。養っている人が、分を超えた態度を取って来たら、しっかり戒め、示しをつけるべきなのだ。
 
  そもそも今回の騒動は、ハガル一人のせいではない。サラは、次世代をもうけるという一大事に、神の方法を捨て、世の方法を取り入れてしまい、アブラハムも、正しく治めなかった。しかし主は憐れみ深い。
身重の身で、やるせない気持ちで逃げていたハガルに、主の使いが現れ、アブラハムの家で再び平和にやっていくチャンスを与えられた。天が宣言する。あなたはしもべで、主人の元で、身を低くすべきだ、と。
ハガルはその時、自分の立場を「サライの女奴隷」と、正しく表明した。それで主は彼女に、子孫の祝福の約束を与えられた。私達も、与えられている立場、正しい主従関係の下に、正しく身を置くなら、祝福されるが、主は、自分の領域を守らず、おるべき所を捨てる者を、永遠に暗闇の下に閉じ込められる(ユダ6節)。
 主は、彼女に生まれる子に「イシュマエル(「神は聞かれる」の意味)」という名をつけるよう命じた。それでハガルは、告白した。あなた(主)は、生きておられ、見ておられ、聞いて下さるお方だ、と。(13-14節)
 こうして荒野で学んだ彼女は、主の言葉通り、本来あるべき立場・本来あるべき身分に、戻った。
彼女はきっと、その体験を、アブラムとサライに報告しただろう。そして彼女が、「主は聞いておられ、見ておられ、生きておられるお方だ」と、証を聞いた時、夫婦共々、自分達の身勝手さに、恥じ入っただろう。
 結局のところ、今回の騒動は、それぞれ神様の縄張りとしきたりから外れた、身勝手な判断や行動をした結果だったが、それら全てを超えて、主は、生きておられ、見ておられ、聞いておられるお方、なのだ。
 世の方法には最初から頼らず、主のしきたりとなわばりから離れず、また、世の思考に染まった者には支配権を与えず、ただ、主から任された自分の領域を、正しく支配し、一切の災いを招くことなく、主の平安から外れない、信仰の家を構築して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

詩篇 講解説教

現代の私達に示された、主に対する不従順を続けるなら、滅んでしまうという警告(詩篇78:40-72)

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前節に続き、イスラエルが神に逆らって来た歴史の数々が、さらに記録されている。
 
詩篇78:40 幾たび彼らは野で神にそむき、荒野で神を悲しませたことであろうか。
78:41 彼らはかさねがさね神を試み、イスラエルの聖者を「怒らせた(ターヴァー)」。
78:42 彼らは神の力をも、神が彼らをあだからあがなわれた日をも/思い出さなかった。
 
「怒らせた」と訳されたヘブライ語ターヴァーの元の語の意味は、「削る」「粉々にする」、そこから、「痛む」「悲しむ」「制限する」の意味となる。
全能なる神。強さの極みであられる神を、なんと、痛ませたり、制限したり、心砕かせたりするのだ。この人間という生き物は!
 
神を痛ませたり、制限したり、心砕かせたりする方法が、40-42節に記されている。
すなわち、神にそむく事によって、試みる事によって、また、神への恩を思い出さない事によって。
私達は絶対に、そのような事を、敢えてしてはならない。
なぜなら神は、神を試みる者を、罰せずにはおかないからだ。
 
43節から51節にかけては、出エジプト記に記載されている事が、すなわち、主がエジプトに対して降された、10の災いが記されている。
 
主はなぜ、エジプトに10の災いをもって打ったのか。
それは、彼らが神の民を虐げる事を、400年も続けたからである。
 
エジプトはかつて、ヤコブの子ヨセフの采配によって、超大国にまでなった、にも関わらず、その恩を仇で返し、400年もの間、神の民イスラエルを虐待し続け、奴隷としてタダ働きさせて搾取し続けた末、男子が生まれたら殺せ、という制度まで立てたのだ。
それでモーセを通して、10度もの警告が与えられた、にも関わらず、頑なになって、イスラエルの民を解放しなかったからだ。
そこで彼らに、最後の災いが起こされた。
 
詩篇78:51 神はエジプトですべてのういごを撃ち、ハムの天幕で彼らの力の初めの子を撃たれた。
 
これによって、ようやくパロは、イスラエルの民を解放した。
イスラエルの民は、400年分の積もりに積もった未払い報酬を、一気に得て、エジプトから出ていった。
 
52-55節には、出エジプトした後から、ヨシュア記に至るまでの、主のして下さった恵みのわざが、記されている。
主は、荒野でその民を養われ、さらに、彼らがカナンに入った時、勝利につぐ勝利をさせて下さった。
 
しかしその後、イスラエルの民は、早速、その恩を、仇で返すようになった。
56-59節は、おもに、士師記の時代の事が記されている。
 
この箇所の、動詞だけを見ると、いと高き神を「試み」、これに「そむいて」、そのもろもろのあかしを「守らず」、「そむき去って」、先祖たちのように真実を「失い」、狂った弓のように「ねじれた」とある。
これらの事によって、彼らは神を大いに怒らせ、また、偶像崇拝によって、神のねたみを引き起した。
 
詩篇78:59 神は聞いて大いに怒り、イスラエルを全くしりぞけられた。
 
この士師記の時代は、まさに、神様への裏切りと、その罰の災いと、悔い改めと、救いのサイクルであった。
そして彼らは、喉元過ぎれば熱さを忘れ、再び神様を裏切る、という事を、延々と繰り返して行った。
 
私達の人生は、そんなサイクルを、何度繰り返すだろうか。
もう、主を裏切らず、その過ちを繰り返さない、という決心は、固いだろうか。
 
詩篇78:60 神は人々のなかに設けた幕屋なる/シロのすまいを捨て、
78:61 その力をとりことならせ、その栄光をあだの手にわたされた。
78:62 神はその民をつるぎにわたし、その嗣業にむかって大いなる怒りをもらされた。
78:63 火は彼らの若者たちを焼きつくし、彼らのおとめたちは婚姻の歌を失い、
78:64 彼らの祭司たちはつるぎによって倒れ、彼らのやもめたちは嘆き悲しむことさえしなかった。
 
ここでは、士師の時代の最後における、大祭司エリと、その息子たちが、礼拝を退廃させた事に対し、主が為された災いが、書かれてある。
 
当時、契約の箱はシロに置かれていて、そこで礼拝が捧げられていたが、エリの息子たちは、人々の、神様への捧げものを、肉欲にまみれた手を伸ばして横取りし、しかも、御前で仕える女性たちを汚した。
 
彼らは、それを戒められても、聞く耳を持たなかった。
それ故、神様は彼らを剣に渡し、その妻はやもめとなって、「イスラエルから栄光は去った」と言った。(1サムエル記4章)
 
それ以降、シロという礼拝場所からは、主の栄光は離れて行き、そこは廃れて行った。
この、シロに対して主が為された事は、警告である。
 
エレミヤ7:12 わたしが初めにわたしの名を置いた場所シロへ行き、わが民イスラエルの悪のために、わたしがその場所に対して行ったことを見よ。
7:13 主は言われる、今あなたがたはこれらのすべてのことを行っている。またわたしはあなたがたに、しきりに語ったけれども、あなたがたは聞かず、あなたがたを呼んだけれども答えなかった。
7:14 それゆえわたしはシロに対して行ったように、わたしの名をもって、となえられるこの家にも行う。すなわちあなたがたが頼みとする所、わたしがあなたがたと、あなたがたの先祖に与えたこの所に行う。
7:15 そしてわたしは、あなたがたのすべての兄弟、すなわちエフライムのすべての子孫を捨てたように、わたしの前からあなたがたをも捨てる。
 
神は、ことごとく悔い改めなかった北イスラエル王国を、ついには捨て去り、南ユダ王国を選ばれた事が、それ以降に記されている。
 
詩篇78:67 神はヨセフの天幕をしりぞけ、エフライムの部族を選ばず、
78:68 ユダの部族を選び、神の愛するシオンの山を選ばれた。
 
ヨセフ、エフライム部族は、北イスラエル王国の代表的な部族である。
神は、神を痛め続けて来た北イスラエル王国の、その罪の積み立て分が、主のもうけられた臨界点に達した時、彼らをアッシリヤへと渡し、捨て去った。
その代わりに、南ユダ王国を立てられた。
また、主の臨在が留まる所であったシロは捨て去られ、代わりに、エルサレムに神殿を建てられた。
 
詩篇78:70 神はそのしもべダビデを選んで、羊のおりから取り、
78:71 乳を与える雌羊の番をするところからつれて来て、その民ヤコブ、その嗣業イスラエルの牧者とされた。
78:72 こうして彼は直き心をもって彼らを牧し、巧みな手をもって彼らを導いた。
 
ダビデは、主の前に「直き心」だったから、主は選ばれたのだ。
主が彼を選ばれた時は、彼はまだ、誰からも見向きもされず、羊の番をさせられていた少年だった。
神は、全ての人の心を探り、神に対してまっすぐな人を選んで、時代を変える人として、用いられるのだ。その人が、いかに無名で、誰からも見向きもされていなくても。
だから私達も、神様に対して、まっすぐな心をもって、主に仕えるべきである。
 
この詩篇が書かれた時点では、南ユダ王国は、まだ存続していた。
北イスラエル王国が、ああなってしまったのだから、あなた方・南ユダ王国の皆も、主の御言葉を軽んじる事なく、従順して歩みなさい、という戒めによって、78篇は終わった。
しかし残念ながら、その南ユダ王国も、その後、御言葉を軽んじ続けて来た故、北イスラエル王国の二の舞となって、滅んでしまった。
 
結局のところ、南ユダ王国も、神に対して逆らい続け、こうしてユダヤ人は切り去られてしまい、そこに、異邦人である私達が接ぎ木されたのだが、パウロは異邦人で救われたローマ人達に、警告している。
 
ローマ11:19 すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。
11:20 まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。
11:21 もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。
11:22 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。
 
クリスチャンの中で、たまに、こう言う人がいる。
今は新約時代なのだから、旧約は関係無い、イエス様を一度信じたなら、その人は罪が消されたのだから、もう、救いが取り消される事はない、だから何をしても、罪にはならない、と言う人が。
 
もし、そんな事が真実なら、果たしてパウロは、書いただろうか。
「高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。
「そうでないと、あなたも切り取られるであろう。」と。
 
この詩篇78篇においても、また新約ローマ人への手紙においても、現在の私達に、警告が与えられている。
私達ももし、ユダヤ人がしたように、御言葉を無視し続け、罪を犯し続け、不従順を続けるなら、捨てられてしまうのだ、という事を。
 
主の恵みの御言葉から、決して離れる事なく、祝福を受け続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

祝福がバージョンアップし具体的になって行くためには(創世記15章)

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週報/メッセージ(説教)概要

 今年に入ってアブラハムの祝福の法則を学んでいる。古い罪のなわばりとしきたりを出て、主の御言葉に示された所に留まり、礼拝生活を続けるなら、7つの祝福を得られる事が創世記12:1-3で示されている。
 彼は、留まるべき所に留まった結果、9人の王の頂点になり、メルキゼデクから祝福を受けた(14章)。
そして、ソドムの汚れた富を辞退した彼に、主は、幻の内に彼に臨んで、仰せられた。 『アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう』(創世記15:1)
 主の幻を見れる人とは、普段から主を慕い求め、切に会いたい、と願う人である(エレミヤ29:12-13)。 礼拝の時間だけでなく、普段の生活で、いつも、見たもの、感じたものの感覚を、全部主に持って行き、主を思う習慣を持つ人に、主は幻で現れて下さる。幻を見た信仰者には、世に、ライバルはいなくなるのだ。
 
 アブラハムは既に、資産や力においては満ち足りていて、世のどんな王にも勝利できる事が分かった。
ただ、この素晴らしい祝福と、素晴らしい神様への信仰を受け継がせるための、子がいない。彼がそれを言うと、主は、言われる。一緒に散歩に行こう、外に出て、天を見上げなさい、そして星を数えなさい、と。
 主は言われた。『「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。アブラムは主を信じた(アーマン)。主はこれを彼の義と認められた。』(創世記15:5-6) ここのアーマンは、アーメンの元となる動詞で、「建てあげる、サポートする、忠実にする、看護する」の意味があり、また使役態が使われているので、「アブラムは(自分自身を)主へと信じさせた」とも訳せる。 人が義とされるのは、本人自身の意思をフル稼働させ、自分自身を主へと信じ込まさせ、意図して主の言葉をサポートし、建てあげる事による。彼は、星を見なさい、と言われて、いつも見慣れた空を見上げる感覚で見たのではなく、主が言われた故、自らの心を信じさせ、奮い立たせて、見たのだ。すると、闇にキラキラ輝く数え切れない星々が、輝く自分の子々孫々に見えたのだ!
そして心はウキウキし、晴れやかになって、心底アーメンして喜び、神様はそれを、彼の義とされたのだ。
 主から受けた言葉を、感動もせず、確認もせず、ただぼんやり受けて過ぎ去らせてはならない。彼はしっかり確認した。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」(8節)
主からとてつもない、すごい事を言われたからと言って、「そうなんだ、アーメン」と言葉では言っても、実感も感動もしないまま、普段どおりのルーチンワークを続けるなら、ルーチンワーカー以上にはなれない。
自ら、主の言葉に、感動しようと心を奮い立たすべきであり、もし実感が沸かないなら、主に確認すべきだ。
アブラハムは、それが本当なのか、確かなのかを確認した。すると主は、じゃあ契約といこうか、と言われる。
主は契約のために、捧げものを用意せよ、と指示された。捧げものの種類も年齢までも、具体的に。(9節)
 
 『日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。』(12-13節) 主は、400年という時を経るまで、四代目になるその時まで、悪辣な者達の「咎が満ちることはない」、と言われた。
現代も悪がはびこっていて、神の民がその奴隷状態であるのを見るかもしれない、主はなぜそれを放置されるのか?それは、その者達が、刑罰を受けるに値するまでの咎が、満ちていないからだ(黙示録6:11)。
 悪辣な者達が一見栄えているように見えても、それは、その者達が蓄えたものをそっくりそのまま神の民へと引き渡すためである。神の民は、自分で立てなかった町々や家々、自分で植えなかった畑を得るのだ。
 アブラハムは、その400年で子孫が増え、4代目の代では、たった一人だったのが、200万以上へと増えるのだ!それが主の計算である!だから今、私達は、沢山の事は考えなくていい、ただするべき事は、よりすぐりの信仰者の家庭を構築し、子を産んだら、御言葉暗唱のテフィリン教育をして、よりすぐりの信仰者として育てよ!そのシンプルな事が、あなたの子孫が、空の星々のようになるための秘訣なのだ!
 そうして主は、アブラハムと契約を結ばれた。彼に与えられる領域は、エジプト川からユーフラテス川まで、渡される民族は、10民族、と、具体的に示された(19-21節)。こうして彼に与えられた祝福は、どんどんバージョンアップし、より具体的になって行く。私達アブラハムの子孫が、空の星のようになるまでには、色々あるけど、最終的に得る地は、エジプトの地のようではなく、山と谷の地、天の雨で潤っている地、主が求められる地で、年の初めから終わりまで主が絶えず目を留めておられる地なのだ(申命記11:10-12)。 

詩篇 講解説教

人はなぜ神に何度も罪を犯し、神なぜ人を何度も赦し憐れむのか(詩篇78:1-39)

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詩篇78篇表題『アサフのマスキールの歌』
 
この詩篇には、出エジプトからダビデ時代までの歴史が、それも、主の恵みが注がれたのに、人々はそれに対し、いかに主を無視し失礼を働いて来たか、という歴史が、語られている。
その意図は、北イスラエル王国(エフライム)が、主を軽んじ続けた故に滅んでしまった、その歴史から、教訓を受けて学べ、というものである。
 
詩篇78:1 わが民よ、わが教を聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。
 
養いを受けるのに、真っ先に必要な事は、聞くことである事が、最初に宣言された。
 
詩篇78:2 わたしは口を開いて、たとえを語り、いにしえからの、なぞを語ろう。
78:3 これはわれらがさきに聞いて知ったこと、またわれらの先祖たちが/われらに語り伝えたことである。
 
これから示されて行く内容は、既に聖書に記されている内容であり、また、ある程度クリスチャンとして教会に通っているなら、既に聞いて来た内容である。
 
聖書には、救われる法則と、呪われる法則とが書いてあるが、それを単に知っているだけ、というのと、実際に祝福を受ける事とは、別物だ。
聞いているから、知っているから、といって、救われるわけではない。
だから、たとえ「それは何度も聞いた」と言えるような事でも、なおも聞く必要があり、そして何よりも、守り行う必要がある。
 
詩篇78:4 われらはこれを子孫に隠さず、主の光栄あるみわざと、その力と、主のなされたくすしきみわざとを/きたるべき代に告げるであろう。
78:5 主はあかしをヤコブのうちにたて、おきてをイスラエルのうちに定めて、その子孫に教うべきことを/われらの先祖たちに命じられた。
 
主は御言葉を、すなわち聖書を、ヤコブの内に、すなわち、イスラエルに与えられ、そしてその子々孫々へと受け継がれて行った。
それは、彼らが神の契約(御言葉)を守り行い、そうして世界に救いをもたらすためであった。
 
聖書を、一言であらわすなら、どんな言葉になるだろう。
私は、「主は救い」だと思う。
創世記から黙示録まで、主は、人を救う意図でもって人類に関わり、そしてついに、イエス様をこの世に送られた。
イエスのヘブライ語はイエシュア、すなわち、「主は救い」という意味である。
神は、「主は救い」であられるお方を世に遣わして、彼を通して、全人類に救いをもたらして下さった。
 
詩篇78:6 これは次の代に生れる子孫がこれを知り、みずから起って、そのまた子孫にこれを伝え、
78:7 彼らをして神に望みをおき、神のみわざを忘れず、その戒めを守らせるためである。
78:8 またその先祖たちのようにかたくなで、そむく者のやからとなり、その心が定まりなく、その魂が神に忠実でないやからと/ならないためである。
 
5-6節で「子孫」というキーワードが3度も繰り返されているように、神の御言葉と信仰を、子どもたちへ、子々孫々へと伝授する事は、私達の人生の中で、最も重要な使命の一つである。
 
現代の敬虔なユダヤ人の親は、神の命令に従って、子供に必ず神様の御言葉を教えるべき、という使命感を持っている。
彼らは、親としての責任を全うする道とは、どんな時でも、子供に御言葉を教え込む事で、もし、御言葉に従順して生きるような子供に育て上げる前に、死んでしまうとするなら、それは、親としての責任を全うせずして死ぬ事だ、と思っているという。
 
7節に、重要な3つの動詞が出てくる。
すなわち、神に「望みを置く」、神のみわざを「忘れない」、その戒めを「守る」、であり、それをする理由は、8節の「ならないため」である。
 
何に「ならないため」か。
 
それは、「かたくな」にならないため、
「そむく者のやから」にならないため、
「心定まりが無い者」にならないため、
「魂が神に忠実でないやから」にならないため、
である。
そのために、神に「望みを置く」、神のみわざを「忘れない」、その戒めを「守る」のだ。
 
9節から、イスラエルの歩んだ具体的な歴史が記されている。
 
それはすなわち、神に対する反逆と、それを覆う神の恵みの、何度も何度も繰り返された歴史であり、そして北イスラエル王国が行き着いた滅びの結末、すなわち、主の御言葉をあえて無視し、御言葉を押しのけて、おのが欲望を成し遂げるという事を、改めない事をあくまで続けたゆえに、ついには滅びへと至ってしまった、という歴史である。
 
詩篇78:9 エフライムの人々は武装し、弓を携えたが、戦いの日に引き返した。
 
9節のエフライムとは、北イスラエルの代表的部族であり、北イスラエル王国全体を、象徴的にあらわしている。
北イスラエル王国は、なぜ、戦いの日に引き返し、敗北し、滅んだのか。
その理由は、10-11節に書いてある。
 
詩篇78:10 彼らは神の契約を守らず、そのおきてにしたがって歩むことを拒み、
78:11 神がなされた事と、彼らに示されたくすしきみわざとを忘れた。
 
それにも関わらず神の恵みが注がれているさまが、12節から記されている。
 
詩篇78:12 神はエジプトの地と、ゾアンの野で/くすしきみわざを彼らの先祖たちの前に行われた。
78:13 神は海を分けて彼らを通らせ、水を立たせて山のようにされた。
78:14 昼は雲をもって彼らを導き、夜は、よもすがら火の光をもって彼らを導かれた。
78:15 神は荒野で岩を裂き、淵から飲むように豊かに彼らに飲ませ、
78:16 また岩から流れを引いて、川のように水を流れさせられた。
 
ここでは特に、出エジプトの出来事を思い起こさせている。
ゾアンとはゴシェンのことで、ナイル川三角州の北西部にあったヒクソス時代の首都である。
 
海が分かれて乾いた所があらわれ、誰も思ってみない所に、道ができる。
イスラエルの民はそれを渡り、しかしエジプト軍は、その海に飲み込まれてしまった。
イスラエルの民は、昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを照らし、導かれて行った。
岩砂漠地帯において、40年も、200万ほどの民が、一日たりとも水や食料で不足を来たらせる事なく、養われた。
こんなにも、想像し難い奇跡を体験しておきながら、彼らはは背いてしまった。(17-20節)
 
詩篇78:17 ところが彼らはなお神にむかって罪をかさね、荒野でいと高き者にそむき、
78:18 おのが欲のために食物を求めて、その心のうちに神を試みた。
 
想像し難い奇跡を体験しておきながらも、背いてしまう原因は、主に対する敬いと感謝が無い事、それと、18節にある「おのが欲望」である。
どんなに奇跡を見ても、しるしを見ても、
「ふーん、すごいね。でもわたしは肉が食べたい、肉を食べさせてくれないなら、あなたを神として認めない」
というような思考なのだ。
 
結局、17節の「罪」「そむき」とは、それの事である。
彼らは、神が主なのではなく、おのが欲望が主なのだ。
 
神の集会の中で、「おのが欲望」のままに、食べ物で罪を犯す時、本人自身の体に、病気という形で変調があらわれ、そして遂には、死に至るのは、新約においても同じである。
 
1コリント11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
11:30 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。
 
18節後半の「試み」の内訳が、19-20節にある。
 
詩篇78:19 また彼らは神に逆らって言った、「神は荒野に宴を設けることができるだろうか。
78:20 見よ、神が岩を打たれると、水はほとばしりいで、流れがあふれた。神はまたパンを与えることができるだろうか。民のために肉を備えることができるだろうか」と。
78:21 それゆえ、主は聞いて憤られた。火はヤコブにむかって燃えあがり、怒りはイスラエルにむかって立ちのぼった。
78:22 これは彼らが神を信ぜず、その救の力を信用しなかったからである。
 
19-20節で、彼らは「主は**できるだろうか?」と3度も繰り返している。
それが、逆らう事、試みる事、主を憤らせ、怒らせる事である。
これは私達がよく犯してしまいがちな罪ではないだろうか。
「主は**できるだろうか?」と、何度も心で繰り返したりして、いないだろうか。
 
マルコ9:23 イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
9:24 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。
 
「主を試みてはならない」。
この御言葉は、イエス様が荒野で悪魔の試みを受けた時、宣言した言葉のうちの一つだ。
イエス様はその時、3つの御言葉をもって、悪魔を撃退したが、いずれも、申命記の御言葉であった。
 
たまに、今は新約こそ必要で、旧約はあまり関係がない、と言う人がいるが、旧約律法を軽んじてはならない。
申命記を軽んじる人は、サタンに向かって「イエス様の名前によって出ていけ」と言う時、軽んじていた分だけ、サタンから軽んじられる。
 
詩篇78:23 しかし神は上なる大空に命じて天の戸を開き、
78:24 彼らの上にマナを降らせて食べさせ、天の穀物を彼らに与えられた。
78:25 人は天使のパンを食べた。神は彼らに食物をおくって飽き足らせられた。
 
人々が神を信じず、また救いの力を信じなかった、にも関わらず、神は彼らに恵みをほどこし、彼らの望みどおり、パンと肉を与えられた。
ここでは、70人訳に従って「天使のパン」と訳されているが、原文ヘブライ語はアビィリーム、すなわち、強き者達、勇者達、という意味である。
 
荒野でマナを食べた民は、強き者だっただろうか?いや、弱い者達だった。
しかし、主が与えてくださる特別の恵みを受ける者は、たとえ弱くても、強い者となる。
なぜなら、彼らが弱くても、彼らを守る主が強いからである。
 
詩篇78:26 神は天に東風を吹かせ、み力をもって南風を導かれた。
78:27 神は彼らの上に肉をちりのように降らせ、翼ある鳥を海の砂のように降らせて、
78:28 その宿営のなか、そのすまいのまわりに落された。
78:29 こうして彼らは食べて、飽き足ることができた。神が彼らにその望んだものを与えられたからである。
 
肉を求める彼らのところに、うずらがおびただしく飛んできた奇跡(民数記11章)が記されている。
しかしである。
 
詩篇78:30 ところが彼らがまだその欲を離れず、食物がなお口の中にあるうちに、
詩篇78:31 神の怒りが彼らにむかって立ちのぼり、彼らのうちの最も強い(マシュマーン:太った、肥えた)者を殺し、イスラエルのうちのえり抜きの者(バフゥル:選ばれた者、若者)を打ち倒された。
 
肉をほおばった人の、誰も彼もが打たれたのではない。
肉が与えられても、一切感謝もなく、欲望にかられて、我先にと、肉を口に放り込んだ者、最もマシュマーン(太った、肥えた)な者、選ばれた者(バフゥル)を、狙い撃ちに打たれたのだ。
 
肉欲が強い者、「感謝なさ」において選り抜きの者を、主は狙い撃ちにされたため、そこは、「キブロテ・ハタワワ(欲望の墓)」と呼ばれるようになった。
これは、私達に、欲望のまま・ほしいままにふるまってはならない、肉欲を優先させて主への感謝を忘れてはならない、という警告である。
 
そのような目に遭っても、まだ、人々は懲りない。
 
詩篇78:32 すべてこれらの事があったにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し、そのくすしきみわざを信じなかった。
78:33 それゆえ神は彼らの日を息のように消えさせ、彼らの年を恐れをもって過ごさせられた。
78:34 神が彼らを殺されたとき、彼らは神をたずね、悔いて神を熱心に求めた。
78:35 こうして彼らは、神は彼らの岩、いと高き神は/彼らのあがないぬしであることを思い出した。
 
彼らはなおも罪を犯し。なおも信じず、それで災いが送られる。
そして災いに遭って、ようやく神様を求める。
 
こんなにも懲りずに、またまた罪を犯してしまうという、そのどうしようもないまでの理由は、39節にある通り、彼らが肉に過ぎず、また弱い者であるからだ。
 
それでもなお、この詩篇ではもう何度目になるか、という程の「しかし」が繰り返される。
 
詩篇78:36 しかし彼らはその口をもって神にへつらい、その舌をもって神に偽りを言った。
78:37 彼らの心は神にむかって堅実でなく、神の契約に真実でなかった。
 
マソラ学者の計算によれば、この36節は、詩篇の総節(2527節)の真中に当り、
37節は、詩篇の総行(5896行)の真中である。(実用聖書注解)
 
ちょうど詩篇全体の、位置的中心にあたる内容が、なんと、
人々は神にへつらいの口を叩き、偽り、その心は神に対して堅実ではなく、神の契約に対して真実でない、という内容なのだ。
 
なんと象徴的な事だろう。
 
まことに詩篇は、神に逆らい、偽り、堅実でなく、真実でない人間が、神に向かって救いを祈り、叫び求める歌なのだ。
 
詩篇78:38 しかし神はあわれみに富まれるので、彼らの不義をゆるして滅ぼさず、しばしばその怒りをおさえて、その憤りをことごとくふり起されなかった。
詩篇78:39 また神は、彼らがただ肉であって、過ぎ去れば再び帰りこぬ風であることを思い出された。
 
人はなぜ、神にこうも何度も何度も逆らい、何度も何度も同じミスを繰り返すのか。
なぜ神はこうも、そんな人間を、何度も何度も赦し、憐れむのか。
それは39節にある通り、人は肉に過ぎず、そして神はその事を、よくご存知であるからに他ならない。
 
神は、心のうちの真実を喜ばれる。
ダビデが詩篇51篇で告白したように、罪を犯しやすい自分を悲しみ、清められ、癒やされる事を、神に求め、また叫ぶ人を、神は赦し、憐れみ、救ってくださるのだ。
 
しかし、強情になって、罪を改めようとせず、かえって罪に開き直り、改めようとしない者は、やがて滅ぼされる、という事を、この詩篇では教えている。
 
結局、私達は、私達の向きが、天に向っているか、それとも下に向っているかによって、天国に行くか、地獄に行くかが決まるのだ。
神の御言葉に向いている人は、何度倒れても起き上がる。
しかし、自分の欲する事を求める事を改めない者は、あちこちぶつかって痛い思いをした挙げ句、地の下に降っていくのだ。
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