メッセージ - 202104のエントリ
主日礼拝
限りない栄光の将来を勝ち取るために(ハバクク2:1-4)
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週報/メッセージ(説教)概要
新学期が始まってから、私達は、イエス様にあって成功するための宣言文を宣言している。今回、その内容をいくつか詳細に見て、成功の確信を得ていきたい。(「祝福の御言葉」はこちら)
? 宣言文は、詩篇37篇から始まる。 悪を行う者に対して腹を立てたり、不正を行う者を妬む事は、時間の無駄な使い方だと知るべきだ。なぜなら、その者に腹を立てたり、妬んだりしている間は、その者に「支配」されている事なのだから。きよい神の民である私達が、そんな者に時間泥棒されるべきではない。
むしろ、そのような者は、「草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れる」という御言葉を宣言し、宣言した御言葉に任せ、私達のほうはますます、有益で、生産的な事に、身と心と体を投じるべきだ。
? ヨセフはまさに、そのような者達に心を留めず、むしろ、主にあって見せられた夢だけに目を留め、主が計画された栄光の将来を仰ぎ見ながら、日々、誠実を養った。 彼は、世の人から見れば、正直過ぎるほど正直だったために、奴隷として売られ、牢にも入れられ、多くの時間を無駄に過ごしたかのように見えたが、若干30歳にして、総理大臣にまで登りつめた彼の時間を、一体、誰が「無駄」と言えるだろう?
主が見せて下さった夢を握りしめ、その通りに生きる道は、世の人から見れば無駄のように見えるかもしれないが、実はそれは、主が用意しておられる「ぶっちぎりのトップ」へと至る、一番最短のルートなのだ。
神様が彼に与えられた、独創的で特別なタラント、すなわち、主の夢を解き明かす賜物を、彼がフル活用できるようになったのは、彼は、主が見せてくださった夢をずっと握りしめた故だった。彼はその夢の実現に備え、自分を汚す事なく、不正を離れ、日々誠実を養った。彼が送る日々の中で、主が示して下さった夢が、人からひどく評価される事が目に見えていたとしても、彼はそれをそのまま正直に告白した。それで神様は、定められた時、用意しておられたチャンスにめぐり合わせ、彼をエジプトの総理大臣としたのだ。
彼は、7年間の豊作の時期、穀物が穫れ過ぎて、普通なら収穫制限するような状況でも、神様が示した夢を手放さず、貯蔵庫を造ってなお貯め、計り切れなくなっても貯め続け故に、後に来た凶作の7年の時期、穀物の価格は暴騰し、あっという間に世界一富む国となった。それで彼は、パロの父とさえ呼ばれるようになった(創世記45:8)。 今、私達は、御言葉を貯めている。それは、世の中ではつまらないもののように見えても、しかし現実、御言葉を貯めた故の祝福を得ており、やがてそれが暴騰する時が必ず来るのだ。
ヨセフは最終的に、父ヤコブや、11人の兄弟すべての面倒を見るようになり、イスラエルという家族を、一つの国家へと育て上げる土台を構築した。私達も、主が示された通りのものを、今、貯めて行くべきである。
いかに今、人数や規模が少なくても、栄光の次世代たちが、御言葉教育を受け、生んで、増えて、地を支配して行くための素晴らしいシステムの枠組みや、すばらしい施設を構築する皆さんでありますように!
? 新しく始まる一日、最初にすべき事は、まず、寝床を畳む事からである。イエス様が38年も病に臥せていた人に言われた言葉は、「よくなりたいか」、「起きて床を取り上げて歩きなさい」、だった。私達も、良くなりたいなら、まず起きて、床を取り上げ、歩くのだ。古いものをどんどん捨て、新しいものを得ていくのだ。
2012年、ハンチングドットコムという所が、68000人の男女を対象に、起床後にどんな事をしているのか、また、人生への満足度や、収入との関連性を調べた所、自分でベッドメイキングをする人の、約71%の人が、「自分は幸せ」と答え、それをしない人の内、62%が、「自分は不幸だ」と答えたという。
寝床という、ぬくぬくと居心地が良い、しかし、何の生産性をもたらさない「本土、親戚、父の家」は、さっさと畳んで、イエス様が用意された素晴らしい一日へと踏み出して行く。それが成功への近道である。
? 私達はイエス様にあって、無限の可能性を秘めており、イエス様にあって、健康で幸せである権利を、生まれつき持っている。なぜなら私達は神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたから。神様は、私たちが良い行ないに歩むように、と、良い行ないをあらかじめ備えられておられる(エペソ2:10)。だから、正統に受けるべきそれらの権利を、日々、主に求め、宣言し、またそれらを否定する一切の悪魔サタンのささやきを、打ち消して行くべきである!日々、真理を宣言し、主が用意して下さった、限りない栄光の将来を勝ち取る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
詩篇 講解説教
主から聞かれる正しい執り成しの祈りとは(詩篇79篇)
詩篇79篇表題『アサフの歌』
この詩篇も、74篇と同じくアサフの作で、バビロン捕囚を思わせる災いに遭っている記述がある。
それに対するうめきと、神への訴えと、執り成しの祈りが、この詩篇に記されており、そして、どのような執り成しの祈りが、神に聞いていただける祈りであるかを、学ぶ事が出来る。
1-4節は、アサフによる神への訴えがあり、その訴えの内容は、特に、異邦人からそしりを受けている事についてである。
詩篇79:1 神よ、もろもろの異邦人はあなたの嗣業の地を侵し、あなたの聖なる宮をけがし、エルサレムを荒塚としました。
79:2 彼らはあなたのしもべのしかばねを/空の鳥に与えてえさとし、あなたの聖徒の肉を地の獣に与え、
79:3 その血をエルサレムのまわりに水のように流し、これを葬る人がありませんでした。
79:4 われらは隣り人にそしられ、まわりの人々に侮られ、あざけられる者となりました。
この祈りの中に「あなたの」というキーワードが頻繁に出てくるが、「あなた」とはすなわち「神」の事であり、「あなた」すなわち「神」を主体とする祈りこそ、有効な祈りである。
私達は祈る時、何かと「わたしの」を前面に、また全面に出しやすい。
そのような、自分主体の祈りは、中々聞かれない。
もし神様が、人間一人ひとりの願望をその通り叶えていたら、矛盾した、大変な世の中になってしまう。
この世は、ただ、主のご計画、主の御心が成就して行くものであり、私達はそれを手伝い、またそれが成るようにと祈るべきなのだ。
実際、イエス様が「このように祈りなさい」と言われた主の祈りは、御名、御国、御心を求める祈りが、最初に来る。
すなわち、「御(あなた=神)」が主体であり、その後に「我らの」必要が満たされるように祈るように、と言われている。
5-8節では、憐れみを求める祈りが続く。
詩篇79:5 主よ、いつまでなのですか。とこしえにお怒りになられるのですか。あなたのねたみは火のように燃えるのですか。
アサフは「いつまで」と吐露している。
かなり長い間、災いを被っているようだが、何故、そのような災いが起きたのか。
この節にある2つのキーワードから、伺い知る事が出来る。
それはすなわち、神の「怒り」と「ねたみ」だ。
「怒り」は、相手が自分の意図通りにしなかった時に起こるものであり、実際、イスラエルは、バビロン捕囚前、神様の意図である御言葉を軽んじ、破り、主が遣わされた預言者達から、度々注意を受けても無視し、侮った。
「ねたみ」は、愛している相手が浮気をした時などに起きる感情だ。
そう、イスラエルは、バビロン捕囚前、まことの神を脇に置いて、異教の神々に惹き寄せられ、偶像礼拝をした故、神のねたみを引き起こしたのだ。
神から特別愛された者は、神の御心にかなった事を行った事への祝福が格別である。
それと同時に、神を裏切って、妬みを引き起こされた時の災いもまた、格別なのだ。
しかしそれに懲りて、悔い改めて、立ち返るなら、神は豊かに赦して下さる。
詩篇79:6 どうか、あなたを知らない異邦人と、あなたの名を呼ばない国々の上に/あなたの怒りを注いでください。
79:7 彼らはヤコブを滅ぼし、そのすみかを荒したからです。
79:8 われらの先祖たちの不義をみこころにとめられず、あわれみをもって、すみやかにわれらを/迎えてください。われらは、はなはだしく低くされたからです。
災いは、先祖以来、何代かに渡って、続いて来た。
それは、主がモーセの時代にあらかじめ警告しておられた事だった。
『あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:5-6)
主を憎む者には、呪いが3,4代、主を愛し戒めを守る者には、なんと、恵みが千々代(原文は複数形)及ぶのだ。
ここに、主のすさまじい恵みの足し算と、そして、憐れみの引き算が表されている。
9節以降は、アサフによる執り成しの祈り、願いが捧げられているが、その祈りの主体は「あなた」、すなわち、神である。
詩篇79:9 われらの救の神よ、み名の栄光のためにわれらを助け、み名のためにわれらを救い、われらの罪をおゆるしください。
彼は神を「救いの神」と呼び、「御名」の栄光、「御名」の故の助けと、救いと、赦しを求めている。
それはまさに、主の祈りと同じである。
主の御名を主体として祈る執り成しの祈りは、アブラハムがしたし、モーセも、ダニエルもした。
『アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか・・・正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」』(創世記18:23-25)
『モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。
どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、
あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。
それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。』(出エジプト記32:11-14)
『主よ、正義はあなたのものですが、恥はわれわれに加えられて、今日のような有様です。すなわちユダの人々、エルサレムの住民および全イスラエルの者は、近き者も、遠き者もみな、あなたが追いやられたすべての国々で恥をこうむりました。これは彼らがあなたにそむいて犯した罪によるのです。
主よ、恥はわれわれのもの、われわれの王たち、君たちおよび先祖たちのものです。これはわれわれがあなたにむかって罪を犯したからです。
あわれみと、ゆるしはわれわれの神、主のものです。これはわれわれが彼にそむいたからです。
・・・
主よ、どうぞあなたが、これまで正しいみわざをなされたように、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山から、あなたの怒りと憤りとを取り去ってください。これはわれわれの罪と、われわれの先祖の不義のために、エルサレムと、あなたの民が、われわれの周囲の者の物笑いとなったからです。
それゆえ、われわれの神よ、しもべの祈と願いを聞いてください。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。
わが神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、われわれの荒れたさまを見、み名をもってとなえられる町をごらんください。われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなるあわれみによるのです。
主よ、聞いてください。主よ、ゆるしてください。主よ、み心に留めて、おこなってください。わが神よ、あなたご自身のために、これを延ばさないでください。あなたの町と、あなたの民は、み名をもってとなえられているからです」。』(ダニエル9:7-19)
以上、これら、信仰の偉人たちの執り成しは、全て、人間の側の分は一切申し出ず、ただ、主の憐れみを求めた祈りであった。
これこそ、私達が為すべき執り成しである。
詩篇79:10 どうして異邦人は言うのでしょう、「彼らの神はどこにいるのか」と。あなたのしもべらの流された血の報いを/われらのまのあたりになして、異邦人に知らせてください。
異邦人も「神」を覚えた。
それほど、神の民に加えられた災いが、大きかったのだ。
彼らは、神の特別扱いに驚いたのだ。
神の民が、おのれの罪ゆえに災いに遭うとしても、彼らが遭う災いを通して、神の栄光があがめられる。
私達は、そのような、「災い」という形で、神の栄光をあらわす「ネタ」には、用いられたくないものである。
詩篇79:11 捕われ人の嘆きを/あなたのみ前にいたらせ、あなたの大いなる力により、死に定められた者を守りながらえさせてください。
79:12 主よ、われらの隣り人があなたをそしったそしりを/七倍にして彼らのふところに報い返してください。
12節の「ふところ」のヘブライ語は「ヘーク」、新改訳では「胸に」」と訳されている。
ふところは、大事な物を入れる所であるが、異邦人が神の民を侮り、神を侮ったならば、絶対に忘れることの出来ないように、神のさばきを、ふところに、胸に刻みつけ、覚えさせて下さい、という祈りであろう。
詩篇79:13 そうすれば、あなたの民、あなたの牧の羊は、とこしえにあなたに感謝し、世々あなたをほめたたえるでしょう。
終わりの節は「あなたの」が3回用いられている。
「あなたをほめたたえる(テヒッラー)」、これこそ、神の民が為すべき使命である。
残念ながら、イスラエルは、主のみおしえを軽んじ、破り、他の神々に走った故に、格別の災いを受けて、その災いのすさまじさを見た異邦人が、結果的に、神をほめたたえた。
私達は、そのような形で神がほめたたえられる道具として用いられるのは、こりごりである。
むしろ、主のみおしえを守り、行い、祝福されてますます神をほめ称え、その様を見た異邦人が、共々、神をほめたたえるという、一番の理想形の「ほめたたえ(テヒッラー)」が、望ましい。
主の御言葉どおりに生きて、大いに祝福され、そうして主の栄光がたたえられる事に大いに用いられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
床を取り上げて、歩きなさい(ヨハネ5:1-9)
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週報/メッセージ(説教)概要
競争社会と呼ばれるこの世の中を生きていく時、私達クリスチャンは、礼拝したり、祈祷会に参加したりして、その分だけ遅れを取っているかのように見えるかもしれない。世は、私達が礼拝している間に働いたり、訓練したりして、先を進んでしまっているのではないか、と。しかしクリスチャンは、世の人と同じ世界に生きておりながら、別次元の仕組みで生かされており、主が各々に定められた「断トツ」で生きる事ができる。
世では、富や栄誉、成功を獲得するために、競争する。限られた少数の良いものを勝ち得るために努力し、鍛錬し、強引に奪ったり、騙して得ようとさえする。まさに今回の、ベテスダの状態である。(ヨハネ5:1-9)
ベテスダの池には時々、御使いが来て水を動かし、一番先に水に入る人には、どんな病気も癒やされた。
そのためそこは水が動くのを待つ人々の競争社会と化すのだが、そこに38年ずっと負け続けた人がいた。
イエス様は、彼を見るに見かね、安息日に彼に会いに来て、彼を癒やし、38年もの呪縛を解いて下さった。
主が彼に言われた言葉はたった2つ、「良くなりたいか?」と、「起きて床を取り上げて歩きなさい」である。
現代、世というベテスダには、通常の病人だけでなく、富における病人、地位における病人、成功における病人が、みんな、虎視眈々とトップを狙っている。しかし私達は、三つの条件を揃えるなら、世の誰も得られない、主から独占的に与えられた特別な地位を、獲得でき、ベテスダの呪縛から開放される事ができる。
第一の条件は、まず、イエス様に来ていただく事。私達は人生には限りがある。38年も待つべきでない。
ヤコブのように、格闘するかのようにイエス様を求め続け、探し続け、叩き続けて、すぐにでも来て頂くのだ。
二つ目は、「良くなりたいです」と、願う事だ。どう良くなりたいのか?ビジョンを、まぼろしを書くのだ。
私達は脳内で、「こうなればなあ」と、思い浮かんでも、そのままなら、それはやがて消えてしまい、願っていた内容すら思い出せなくなってしまう。私達は、書いて、掴んで離さず、祈り続けるべきである。
三つ目は、「床を取り上げて歩く」事だ。どういう床を?「あそこに入れば良くなるのに」「皆に先取りされてしまった」「でも体が言う事を聞かない」「誰も助けてくれない」といった、長年臥せてきたベテスダという床を。
私達クリスチャンは、世の人とは別次元の仕組みで、すなわち、イエス様にあって生かされている。主は、用意しておられる。あなただけに用意した特別な賜物を、あなただけが獲得できる唯一のトップの地位を。
私達は、がむしゃらに頑張って奪って獲得する者ではなく、イエス様と「すったもんだ」する民である。
ヤコブは、神様から「約束の地に戻りなさい」と言われた時、既に、危険から守られる保証は、与えられていたはずだが、彼には不安があった。まだ兄に恨まれていて、殺されるのではないか、と(創世記32章)。そこで彼は、祈りに集中するために、皆を川向こうに渡らせて、主と一対一で格闘した。彼は、主を掴んで離さなかった。「もう離しなさい」と言われたのに、「祝福して下さらなければ離しません」と食い下がった。
私達も、彼の姿勢にならうべきである!与えられた夢やビジョンに不安があるなら、もしくは、祝福の実体がはっきり見えないなら、まぼろしを書いて、食らいつくのだ。もし、ビジョンが浮かんでは消え、なんとなく過ごしているだけなら、38年はあっという間に過ぎてしまう。何年もそのままの状態を、主が見るに見かねて、癒しをして頂く、という人生を送りたいだろうか?私達は、ヤコブのように、主を掴む信仰を持つべきだ。
ヤコブは度々、他人を掴む生活に戻っていた。床を取り上げよ、と言われても、中々取りあげなかった。
しかし彼は、もものつがいを打たれて逃げる足をへし折られ、もはや逃げられなくなった。それで彼は、接着剤で強制的に固定されるかのように、祝福の場から絶対に逃げられないように、主はして下さった。 今、主は、平安の主である。私達がヤコブのように求めるなら、主は、足ではなく、恐怖をへし折ってくださる!
ヤコブは、主にしつこく掴む信仰の故に、主から「イスラエル」という新しい名を頂いて、祝福してもらった。
ヤコブの名は、「かかとを掴む」という意味であるが、イスラエルの名は、「神と粘り強く格闘(すったもんだ)する」である。彼はもはや、他人の足を掴むために、追いかけたり、出し抜いたりする必要は無くなった。
彼は神様に完全に守られ、全てにダントツとなり、エジプトの王パロをも祝福するイスラエルの父となった。
私達も、祝福が実体化されるまで、ヤコブのように絶対離さない信仰をもつべきである。ベテスダという床は畳んで、そこから離れ、書き記した夢やまぼろしを絶対手離さず、ヤコブのように主と「すったもんだ」し、夢や幻を完全に答えていただくに至る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
まぼろしをはっきり書き記せ(ハバクク2:1-4)
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ここ最近、特に主から与えられている御言葉は、ヘブル書11章の、「信仰」についての御言葉である。
信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものである。この信仰によって、私達の先人たちは称賛された。信仰なしに、神に喜ばれる事は、無い。だから私達も、神に喜ばれるために、神がおられる事と、神は求める者には、報いてくださるお方である、と、信じるべきだ(ヘブル11:1,6)。
世の巷に溢れている成功哲学や、ニューエイジ思想では、よく言われている。世の中、強く念じた事が実現して行く、と。しかし私達は、何をどのように求めていくべきか、気をつけるべきである。 『私は、見張り所に立ち、砦にしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。』(ハバクク2:1)
預言者ハバククは、まず、見張所に立った。「主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見」るためだ。
私達は、主が何を語っておられるのかを求める事なしに、自分で考え出したあれこれを求めてはならない。
なぜなら、自分で考え出した諸々には、ご多分に、主の御心から外れた願望を孕ませている危険があるからだ。だからまず、ハバククのように、「主が」何を語られ、何を望んでおられるかを吟味するべきである。
そのビジョンが、主から与えられたもの、と、はっきりわかったなら、次は、それをはっきりと書き記すのだ。
『主は私に答えて言われた。幻(ハージョン:夢、預言)を書き記せ。これを読む者が急使として走るために、板の上にはっきり書き記せ。』(2節) 私達の書いた幻を見て、走って届ける「急使」がいる。御使いがそれをするのだが(黙示録8:3)、それがハッキリしていればいる程、「急使」として届けるスピードが、早い。
『この幻はなお定められた時を待ち、「終り(ケツ:終結、究極)」をさして急いでいる。それは偽りではない。もし遅ければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。』(3節) 書き記した幻は、実現という「終結」を目指して、走っていく。その終結は、人の目から見れば遅いと見えるかもしれないが、忍耐して待つべきだ。
「忍耐」はギリシア語でフィポモネン、下に平伏する意味で、それは、農夫が、あたかも今、豊かな実りを刈り取っているかのように、喜び楽しみながら、下に平伏しつつ種を蒔いている様を言う。同様に私達も日々、信仰をもって、与えられた幻の宣言を「蒔く」のであれば、主はそれを喜び、必ず報いてくださる。
私達の先祖・アブラハムも、主から促されて、星空を見た時、自分の子孫はこうなる、と、信じ、喜んだ故に、神はそれを喜び、彼の子孫は、「地の砂粒」から、「空の星々」のような子孫へとバージョンアップした。
ビジョンを描く時には、大体邪魔が入る。サタンから、あるいは、自分自身のマイナス感情から。それらは、吹きかけてくる。「ダメだ」「無理だ」「どうせ自分には出来ない」「現状のままでいい」、など。そんなものは、踏みつけるべきである。主が用意しておられる将来と希望を、枡の下や寝台の下に閉じ込めてはならない。
また、主から与えられたビジョンを思い描く時、ケチケチしてはならない。「このぐらいでいい」と制限してはならない。本当に望んでいる事が、はっきりイメージされるその時、大いに、喜びと希望が湧いて来るはずだ。その喜びは、誰も、絶対に崩せない。だからいつも思い描き、それを握りしめ続けるべきである。
『見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。』(4節) 今、義人ではない者、心のまっすぐでない者が、世界を牛耳っている。これから量子コンピューティングやAI技術が発達し、彼らの手に支配権が渡るなら、間違いなく、99%の人々は奴隷化してしまう。ハバクク2:5以降を読むなら、神様は、そうなる事を望んでおられない事は明らかだ。私達「信仰によって生きる義人」こそ、世界を正しく御心に沿って治めなくてはならない。 だからこそ今、はっきり幻を書いて求めるべきだ。
今、主は、幻をはっきり提示する人の現れを、今か今かと待っておられる。この世を悪い者の支配に渡さないために、主は、信仰ある人に「出資」したくて、うずうずしておられるのに、それに適合する人がいない。
だから今、私達が幻を提示して、求めるべきである!主がミナのたとえを話された時、信仰をもって行動して儲けた人には、報酬として「町を支配しなさい」、と言われた(ルカ19章)。しかし、主から出資されたものを、活用しなかった者は、外の暗闇に追い出された。「悪い、なまけ者のしもべ」と言われて、持っているものまで剥ぎ取られ、外の暗闇に追い出されたのは、失敗した者ではなく、活用しなかった者だ。
だから、神の国においては、失敗は無い!信仰によって、望んで、活用するなら、必ず報いが、成功がある。失敗者とは、信仰を活用せず、何もしない者だ。 主にあって大いに信仰を活用し、大いに実際に稼ぎ、優れた町々を支配していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
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主が十字架と復活を通して私達にして下さった事(ヨハネ20:19-23)
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本日は復活祭、私達の主イエス様が復活された事を、記念し、祝う、キリスト教会で最も重要な日である。
私達にとって一番大切な事、それは、聖書が示す通り、イエス様が私達の罪のために死なれた事、葬られた事、三日目によみがえられた事、そして、その彼が、私達に現れて下さった事である。(1コリント15:3-5)
復活がある事を信じているだろうか?私達にも、復活がある!と、信じているだろうか??もし復活が無い、と言うなら、その人の信仰は空しく、今なお、自分の罪の中で死んでいる事になってしまう。(同12-19)
しかし今や、キリストは、眠った者の初穂として、死者の中からよみがえられた。「死」という、あまりにリアルな脅威は、一人の人アダムを通して来たが、復活というあまりに偉大な喜びは、一人の人イエス・キリストを通して来た。キリストはやがて来て、あらゆる支配、権威、権力を滅ぼし、一切を父なる神にお渡しになる。
そして、最後の敵である死も、滅ぼされる!(同20-26)。これこそ、全クリスチャンにとっての希望である。
イエス様は復活した後、弟子たちの真っただ中に入って来られ、宣言されたのは「平安」だった(ヨハネ20:19)。 不安があるだろうか?確かに不安の種は、日常生活の中に、沢山ある。死の不安、将来の不安、人との関係の不安、仕事の不安など…。しかし、復活の主が真っ先に取り除かれたのが、「不安」である。
『イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもまたあなた方を遣わす」。』 不安が取り除かれ、平安を得たなら、次は、働き人として、主から「遣わされる」のだ。遣わされる上で必要なものが、聖霊と権威である。『そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなた方が赦す罪は、誰の罪でも赦され、あなた方が赦さずにおく罪は、そのまま残る。』(21-23節)
聖霊を通して受ける力・デュナミスは、ダイナマイトの語源である。すなわち私達が、復活の主を信じて平安が与えられ、聖霊をいただく時、私達は、爆弾を抱えた者となる。その時、私達は、あらゆる不安を爆破し、消極的の「消極」を爆破し、あらゆる貧乏根性を、ケチケチ精神を、奴隷根性を、そして人生破綻してしまった、その「破綻」を爆破する、ダイナマイトを持つ者となっているのだ。これは、信じた者のものである!
聖霊の「霊」は、「風」とも訳せる。ダイナマイトの爆風は、いろいろなものを破壊するが、イエス様の復活の爆風は、死をいのちへと飲み込み、不安を平安へと飲み込む、破壊とは真逆の、いのちの爆風なのだ。
イエス様の復活の爆発的な効力は、自動的に人に適用されるものではない。イエス様の復活を「信じる」必要があるのだ。あれこれ思い患ったり、不安や心配などで心の戸を閉ざしてしまっていないだろうか。
御言葉が、心の戸を叩いておられる時、戸を開いて、受け入れる(信じる)なら、主は入ってきて、平安を宣言し、聖霊の息吹で、あらゆる不安や心配を吹き飛ばして下さる。私達が信仰を持つ時、主はそれを喜び、実際に事を起こし、あらゆる不安をもたらす問題を解決して下さる。なぜなら神は、神がおられる事と、神を求める者には、報いてくださる方である、と信じる人を、喜んで下さるからだ。(ヘブル11:6)
「信仰とは、望んでいる事がらを”確信(実体、権利証書)”し、まだ見ていない事実を”確認(証拠、監査明細)”する事である。」(ヘブル11:1) 信仰とは、望んでいる事柄の「権利証書」である。もし、ある土地の所有権を示す権利証書を持っていて、それを提示し、主張するなら、その土地は確かにその人のものだ。
世の権利証書は、紙にサインしたものであるが、神の国における権利証書は、神の言葉を信じた事、すなわち、御言葉を信仰でサインしたものあり、それは、世の権利証書より、はるかに力がある。
主は、私達を、不利に攻め立てるあらゆる債務証書を取りのけ、十字架に釘づけにされた。それ故、私達は、主が十字架と復活を通して私達に下さった、このすばらしい権利証書を、世のあらゆる物事に対し、提示すべきだ。信仰の先祖アブラハムは、神の言葉を「信じた」事によって、神に喜ばれ、報いられた。
主が創って下さったあらゆる良きものや、富や、経済、権利、それらは今、不信仰な者の手に不当に渡っていて、悪用されている。私達は信仰をもって、それはわたしのもの!と、権利証書を主張するべきである。
今、そうする人があまりにいないので、信じて宣言するなら、神は喜んで報い、豊かに与えて下さる。
イエス様は言われた。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。イエス様がせっかく十字架で流された血によって、死からいのちへ名義変更されたのだから、この偉大な権利を、大胆に主張し、行使し、世からどんどん分捕り返していく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!