メッセージ - 202108のエントリ

早天礼拝

美しく、愛らしく、そして恐ろしく見える女性とは(雅歌6章)

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エゼキエル書講解説教

マゴクとゴグによるイスラエル包囲(エゼキエル37:15-28)

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36-37章では、全世界に散らばったイスラエルの民が、帰還し復興する事が語られ、そして、
まことのダビデであるイエス・キリストが、羊飼いとして牧する事が示された。
続く40章以降では、新しい神殿の幻が示される。
 
しかし、それにはさまる形で、神の民はなお、敵対する強大な勢力に囲まれ攻撃される事が、預言されている。
しかし最終的には、主ご自身が、それらの敵を圧倒的に一掃し、主の民を救って下さり、結局、主の栄光と力が大いに示される。
 
38:1 主の言葉がわたしに臨んだ、
38:2 「人の子よ、メセクとトバルの大君であるマゴグの地のゴグに、あなたの顔を向け、これに対して預言して、
38:3 言え。主なる神はこう言われる、メセクとトバルの大君であるゴグよ、見よ、わたしはあなたの敵となる。
 
ここにマゴクとゴグが登場した。
それは、ヨハネの黙示録20章にも登場する。
 
20:7 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。
20:8 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。
 
ゴグとマゴク、これらの国々は、一体どこだろう。
それは、イスラエルから見て「北の果てにある国々」と、エゼキエル38:15に書いてある。
だから、それはイスラエルの周辺諸国ではなく、もっと遠くの、北の国という事で、特にロシアと見られている。
 
なお、日本語訳で「メセクとトバルの大君」の「大君」は、ヘブライ語ではロシュという語で、「頭」とか「リーダー」という意味であるが、それはNKJVやASV、文語訳では、固有名詞「ロシュ(ロシ)」と訳されている。
文語訳:「ロシ、メセクおよびトバルの君たるマゴグの地の王ゴグ」
 
ロシュはロシアを、メシェクはモスクワを示している、とするなら、地理的にも、地名的にも、一致している。
それがイスラエルに、多くの連合国を連れて、大軍で攻め寄せてくるのだ。
 
38:4 わたしはあなたを引き回し、あなたのあごに鉤をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる。それはみな武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ。
38:5 ペルシヤとクシュとプテも彼らとともにおり、みな盾とかぶとを着けている。
38:6 ゴメルと、そのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマと、そのすべての軍隊、それに多くの国々の民があなたとともにいる。
38:7 備えをせよ。あなたも、あなたのところに集められた全集団も備えをせよ。あなたは彼らを監督せよ。
 
ペルシヤは今のイラン、クシュはエチオピヤ、プテはリビヤである。
ゴメルはカッパドキア、ベテ・トガルマはアルメニアと考えられている。
 
38:8 多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる
 
まさに現在のイスラエルが、それに近いだろう。
イスラエルは久しく廃墟だったが、剣の災害から立ち直り、国々から連れ出され、
1948年、イスラエルが独立宣言した。
その直後、周囲の諸国が攻めて来て、第一次中東戦争や六日戦争など、危機的状況に陥ったが、いずれも、イスラエルが勝利した。
 
私達・異邦人から見れば、イスラエルはまだまだ「安心して住んでいる」とは見えないかもしれないが、本人達としたら、20世紀に比べて、遥かに安心して住んでいるし、これから後、さらに同盟を結ぶなどして平安になって行く事も大いにありうる。
 
しかしやがて、北の国々が連合し、大軍をもってイスラエルを囲む事になる。
 
38:9 あなたは、あらしのように攻め上り、あなたと、あなたの全部隊、それに、あなたにつく多くの国々の民は、地をおおう雲のようになる。
 
黙示録16章には、終わりの時代の戦争において、ユーフラテス川が枯れて、王たちは軍隊を率いて、その渇いた所を通り、ハルマゲドンと呼ばれる所に終結する事が書かれてある。
 
ハルマゲドンの意味は「メギドの山」であり、軍隊が召集される広い平地(黙示録20:9)は、カルメル山の裾野に広がっているメギドの平野であると思われる。
そこは、エジプトから東方トルコへと通じ、ヨーロッパからエジプトへと行く道の要所で、歴史的に戦争が多かった地である。
 
38:10 神である主はこう仰せられる。その日には、あなたの心にさまざまな思いが浮かぶ。あなたは悪巧みを設け、
38:11 こう言おう。『私は城壁のない町々の国に攻め上り、安心して住んでいる平和な国に侵入しよう。彼らはみな、城壁もかんぬきも門もない所に住んでいる。』
38:12 あなたは物を分捕り、獲物をかすめ奪い、今は人の住むようになった廃墟や、国々から集められ、その国の中心に住み、家畜と財産を持っている民に向かって、あなたの腕力をふるおうとする。
 
北からの軍隊が、イスラエルを攻めようとする動機は、イスラエルはその時、とても肥沃で潤った地となり、経済的にも潤った国として彼らの目に映り、しかも、無防備で、攻めこみやすい地、として映るからだ。
 
38:13 シェバやデダンやタルシシュの商人たち、およびそのすべての若い獅子たちは、あなたに聞こう。『あなたは物を分捕るために来たのか。獲物をかすめ奪うために集団を集め、銀や金を運び去り、家畜や財産を取り、大いに略奪をしようとするのか。』と。
 
周辺の国々は、北の国々がイスラエルを攻め込んで来る事を驚き、咎める。
確かに、2021年現在の情勢では、ロシアがイスラエルを攻め込む理由など全く考えられないし、それはあまりに突飛な事と思える。
しかし今後、どういう情勢になるのか、私達には分からないにしても、やがて、その事は起きる。
なぜならサタンが、ゴグとマゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集するようにさせる、と書いてあるからである。(黙示録20:8)
 
38:14 それゆえ、人の子よ、預言してゴグに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民イスラエルが安心して住んでいるとき、実に、その日、あなたは奮い立つのだ。
38:15 あなたは、北の果てのあなたの国から、多くの国々の民を率いて来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団、大軍勢だ。
38:16 あなたは、わたしの民イスラエルを攻めに上り、終わりの日に、あなたは地をおおう雲のようになる。ゴグよ。わたしはあなたに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがあなたを使って諸国の民の目の前にわたしの聖なることを示し、彼らがわたしを知るためだ。
 
私達が注目すべきは、主は、主の民が取り囲まれ、滅ぼされるのを、みすみす見過ごすような事はしない、という事だ。
 
なぜ神は、神の民の敵を、つけあがらせ、神の民を取り囲む事を、許されるのか。
それは、「諸国の民の目の前に、主の聖なることを示し、彼らが主を知るため」である、と書いてある。
 
ちょうど出エジプトの時、エジプトの横暴を、敢えて許可し、そのエジプトから神の民を救い出す事によって、主が、当時の世界において、圧倒的な栄光を受け取られたように。
 
38:17 神である主はこう仰せられる。あなたは、わたしが昔、わたしのしもべ、イスラエルの預言者たちを通して語った当の者ではないか。この預言者たちは、わたしがあなたに彼らを攻めさせると、長年にわたり預言していたのだ。
 
この事が起きる、と、エゼキエル書や黙示録に、確かに預言された事を、現代の私達は見る事ができる。。
今や、世界中の人が手にとって読める、世界のベストセラー・聖書である。
世界中の人々が、あらかじめ、この事が起きる、と、かなり具体的に読んだ。
啓示録にも書いてある。
 
20:7 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。
20:8 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。
20:9 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
 
そうであるからには、これらの預言が、自分に当てはまりそうな国々や人々は、気をつけて、自分が滅びないように、イスラエルに攻め込まないように気をつけてもいいはずである。
(なお、ロシアのプーチン大統領は今でも、エゼキエル38章を開いていて、これは自分達のことについて書かれてある事を肝に銘じている、と、コーエン韓国の授業で聞いた。)
 
それにもかかわらず、悪辣な者達は、神の民にちょっかいを出したがるのである。
それは、彼らが、書かれてある事を信じないからであり、また、サタンが、彼らの神に対する恐れを、麻痺させるからである。
 
38:18 ゴグがイスラエルの地を攻めるその日、――神である主の御告げ。――わたしは怒りを燃え上がらせる。
38:19 わたしは、ねたみと激しい怒りの火を吹きつけて言う。その日には必ずイスラエルの地に大きな地震が起こる。
38:20 海の魚も、空の鳥も、野の獣も、地面をはうすべてのものも、地上のすべての人間も、わたしの前で震え上がり、山々はくつがえり、がけは落ち、すべての城壁は地に倒れる。
 
終わりの時代に大地震が起こって、神に敵対する者達を脅かす事は、黙示録でも複数箇所に記されている。(8:5, 11:13,19, 16:18)
 
38:21 わたしは剣を呼び寄せて、わたしのすべての山々でゴグを攻めさせる。――神である主の御告げ。――彼らは剣で同士打ちをするようになる。
38:22 わたしは疫病と流血で彼に罰を下し、彼と、彼の部隊と、彼の率いる多くの国々の民の上に、豪雨や雹や火や硫黄を降り注がせる。
 
敵同士を剣で同士討ちさせる事は、主の、敵を滅ぼす常套手段であり、疫病や豪雨、雹や火や硫黄は、主のさばきの手段である。
結論として、これら全ての事を通して、主が栄光をお受けになるのである。
 
38:23 わたしがわたしの大いなることを示し、わたしの聖なることを示して、多くの国々の見ている前で、わたしを知らせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」
 
イスラエルも、また私達も、神様から祝福されると、何かと「自分の力でやった」と高慢になりやすい。
そのような時、神様は、どうにもこうにもできない絶望的な状況へと陥れ、もはや助けを求めるのは神様しかいない、という、ぎりぎりの状況へと持ち込み、そこに、主が、人には思いもよらない、主がして下さったとしか言いようが無いような、奇跡的な助けの手を差し伸べ、そうして、否が応でも、主があがめられる、という事を、なさるのである。
 
本当に、私達は、はじめから高慢になったりせずに、いつも主に栄光を捧げ、絶えず感謝を捧げる者であるべきである。

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

ラザロ:神の助けが目の前にある時に(ルカ16:19-31)

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ラザロはヘブル語はエルアザル、「神は助け」という意味。

それに対し、金持ちは、一人の金持ち。数多いる金持ちの中の、ひとりの金持ち。

永遠の書には、名前さえ残されていない。

そこに、神の国の価値観がある。

 

ラザロが「寝ていて」のギリシヤ語は「バロー」、すなわち「投げ捨てられていて」

そして彼は、腹が満たされる事を、切望し続けていた(現在形能動態)。

つまり、ずっと、ラザロは、腹ぺこのまま、投げやられていた。

 

しかし、金持ちは、食べ物を一切与えなかった。

金持ちにとって、ラザロ、すなわち「神の助け」、が、ずっと空腹のまま、投げやったままの状態でいた。

 

ラザロが、この金持ちの面前に現れた時、もう、余命の無い彼が、唯一、パラダイスへ行く事の出来る最後のチャンスだった。

しかし彼は、ラザロを軽んじ、律法と預言者を軽んじ、自分の欲望を選択し続け、そうして、時間が来てしまった。

 

今、皆さんの目の前に、助けるべきラザロはいるだろうか?

 

ヨハネ12:35 そこでイエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。

12:36 光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。

エゼキエル書講解説教

主が聖別して下さった故に(エゼキエル37:15-28)

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4-5章において、主は、エゼキエルによる「実演」を通しての預言を与えられた。
粘土板に包囲されたエルサレムの町を彫って、自分とこの粘土板との間に鉄の平なべを立てたり、左わきを下にして横たわったり。
その時は、バビロン捕囚前で、それらの実演は、イスラエルの民に警告を与えるための、実演の預言だった。
 
そしてバビロン捕囚後、久しぶりの、実演による預言をするよう、主は、エゼキエルに指示された。
その内容は、希望に満ちたものだった。
 
37:15 主の言葉がわたしに臨んだ、
37:16 「人の子よ、あなたは一本の木を取り、その上に『ユダおよびその友であるイスラエルの子孫のために』と書き、また一本の木を取って、その上に『ヨセフおよびその友であるイスラエルの全家のために』と書け。これはエフライムの木である。
37:17 あなたはこれらを合わせて、一つの木となせ。これらはあなたの手で一つになる。
 
ユダは、南ユダ王国を代表する部族、エフライムは、北イスラエル王国を代表する部族である。
それを象徴する2つの木を、彼の手の中で、ひとつにしなさい、と言われた。
 
なお、ここの「木」は、ヘブライ語で「エツ」、意味は、木、棒、杖で、新改訳では「杖」と訳されている。
日本語で「杖」と訳されるヘブライ語は、他にも「シェベット(19節)」、「マテー(創世記38:18)」があるが、いずれも、一族や部族、権威のしるし、という意味も持っている。
 
創世記38章では、ユダの息子嫁タマルは、彼の子シェラが夫として与えられないのを見ると、彼女は遊女の格好をして、ユダの前に現れた事が記されているが、彼女を遊女だと思ったユダは、彼女と寝る報酬の証拠のひとつとして、「ユダの杖」を預けた。
タマルは、この時に身ごもり、ユダの部族は、この時タマルから生まれた子達を通して広がって行き、ついには、支配の杖を持つダビデ王が出て、さらには、鉄の杖をもって全世界を治めるイエス・キリストが出るまでに至った。
 
37:20 あなたが文字を書いた木が、彼らの目の前で、あなたの手にあるとき、
37:21 あなたは彼らに言え。主なる神は、こう言われる、見よ、わたしはイスラエルの人々を、その行った国々から取り出し、四方から彼らを集めて、その地にみちびき、
37:22 その地で彼らを一つの民となしてイスラエルの山々におらせ、ひとりの王が彼ら全体の王となり、彼らは重ねて二つの国民とならず、再び二つの国に分れない。
 
それが起こるとしたら、人間わざにはできない、神業と言わざるを得ない。
なぜなら北王国は、BC722年にアッシリヤによって滅ぼされ、全世界に散らされたが、アッシリアの政策は、戦争で捕虜とした国民を自分の文化に同化・吸収させていたため、今や、北イスラエル王国10部族はどこに行ってしまったのか分からなくなってしまっており、「失われた10部族」と言われている。
 
それでも、主は「する」と言っておられる。
主が「する」といっておられる、からには、その預言はやがて実現し、全世界は、神こそ主である事を知るようになるだろう。
 
それ以上に、散り散りになったイスラエル民族を集める、というのは、単に、血肉のイスラエルを集める以上の意味がある事を、続く節から知ることができる。
すなわち「新契約」によって、全世界から神の民がひとりの牧者、イエス・キリストの元に集められる約束である。
 
37:23 彼らはまた、その偶像と、その憎むべきことどもと、もろもろのとがとをもって、身を汚すことはない。わたしは彼らを、その犯したすべての背信から救い出して、これを清める。そして彼らはわが民となり、わたしは彼らの神となる。
 
この事は、新契約によって与えられる新しい心がなせるわざである。
『わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。』(エゼキエル36:26)
さらに、まことの牧者が彼らを治める約束が与えられる。
 
37:24 わがしもべダビデは彼らの王となる。彼らすべての者のために、ひとりの牧者が立つ。彼らはわがおきてに歩み、わが定めを守って行う。
37:25 彼らはわがしもべヤコブに、わたしが与えた地に住む。これはあなたがたの先祖の住んだ所である。そこに彼らと、その子らと、その子孫とが永遠に住み、わがしもべダビデが、永遠に彼らの君となる。
 
34章の「しもべダビデ」が、再び言及された。
良き「しもべ(エベド)」とは、主人の意向をそのまま行う人で、主の意向をそのまま行う「しもべ」こそ、神の国における良きリーダーである事を学んだ。
イエス・キリストこそ、父なる神から仰せられた事を、そのまま行い、十字架の死に至るまで、従順を貫かれた。
それで、父なる神は、すべてに勝る名を彼にお与えになったのである。
 
主の言葉への従順の度合いが、高ければ高いほど、すなわち、「主のしもべ」の度合いが、高ければ高いほど、主から多くを任せられ、より多くを支配するのである。
 
そして26節以降に、永遠の契約、新契約が預言されている。
 
37:26 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らの永遠の契約となる。わたしは彼らを祝福し、彼らをふやし、わが聖所を永遠に彼らの中に置く。
37:27 わがすみかは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわが民となる。
 
主は、契約によって彼らを祝福し、増やし、そしてなんと、彼らの中に聖所を置く、というのだ。
新約においてはまさに、私達こそ神の神殿であり、私達の内に、キリストが住み、聖霊が住んでおられる。
主が「聖別」して下さるからである。
 
37:28 そしてわが聖所が永遠に、彼らのうちにあるようになるとき、諸国民は主なるわたしが、イスラエルを聖別する者であることを悟る」。
 
「聖別」のヘブライ語は「カダシュ」であるが、聖別には、二つの意味がある。
 
一つは「委任する」という意味である。
主は、その民に、これこれの事をする者として任命してくださる。
主からの任命があるなら、知恵と力とわざが泉のように湧き上がり、疲れない。
油注ぎもないのに、また任命もないのに、その仕事に勝手なあこがれをもって、しようとすると、何も思い浮かばず、また力も沸かない、ただ苦痛な日々を送るしかない。
逆に、任命が与えられたのにそれをしないとするのも、同じくただ苦痛な日々を送るしかない。
 
「聖別」の 二つ目の意味は、「聖とする」である。
聖別とは、簡単に言えば「分離」であり、けがれた者からきよい者へ、悪どい者から良い者へ、俗なる者から聖なる者へ、主から遠かった者が、主に近い方向性で、どんどん分離して行くのだ。
 
主の御名のうちの一つに、「聖別する主(Jehovah Mekaddishkem ジェホバ・メカディシケム)」がある。
それは、出エジプト記31:13において示されている。
 
出エジプト記31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。
31:14 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。
 
聖別された民にとって必須の条件は、安息日を守ること、すなわち、創世記1−2章にある通り、主が全てを完成し、安息に入った事を、私達もおぼえる事である。
もし、主の安息を覚えず、敢えてその日に世の仕事をして、主の完成してくださった事が、あたかも不完全であるかのようにみなすなら、その者は、神の民から絶たれる事が書かれてある。
 
主は、主を羊飼いとする人には、油を注いで、聖別し、また任職して下さる。
それも、敵の面前で。
『あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。』(詩篇23:5)
 
主を敬わない敵と、主を敬う主の民を、主がご覧になる時、主は、主を敬う側に御顔を向け、敵の面前で彼らに食宴を設け、そして油を注いで下さるのだ。

エゼキエル書講解説教

ひからびた骨がグレイト・アーミーへ(エゼキエル37:1-14)

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エゼキエル37:1 主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。

 
エゼキエルは、久しぶりに幻をいただいた。
最後に幻が与えられたのは、11章だった。
11章の幻の最後で、主の栄光は、エルサレムの真中から上り、東の門から出て山の上にとどまり、こうして主の栄光は、町の外へ去ってしまった。
その後、ネブカデネザル王が攻めて来て、城壁は破壊され、栄光の神殿も破壊され、イスラエル全家は全地に散り散りに散ってしまった。
まさにそのような、とても暗い状況の中である。
 
37:2 彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。
 
ひからび尽くしてしまった、骨、骨、骨。
これらの骨は、11節にある通り、殺されたイスラエルの民をあらわす。
まさに当時のイスラエルの状況が、それである。
ダビデ王が建てた堅牢なエルサレム城壁も、そして、彼らの霊的よりどころであった、金銀でふんだんに飾られた豪華絢爛な神殿も、ネブカデネザルによって破壊しつくされ、生き残ったイスラエルの民も、散り散りバラバラにされてしまった。
 
その、破壊されてしまった原因は、神の民たる聖徒が、主の契約に違反して、主から離れ、上から下まで堕落し、預言者たちからの警告を受け続けて来たにもかかわらず、それを改めなかったためだ。
 
それで、主の栄光はエルサレムから離れ、その後、ネブカデネザルの軍団が攻めて来て、打ちのめされてしまった。
それが、この、ひどく干からびた骨々の状況である。
 
主は問われる。
 
37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。
 
そうである。
枯れてしまった骨々のような人が、生き返るかどうか。
その答えについて、私達には、Yesの分も、Noの分も、ない。
ただ、主にかかっている。
干からびた骨となってしまったような人生が、よみがえって、人の成り立ちを取り戻し、また、主の大勇士、大軍団となるかどうかは。
 
エゼキエルは主から「人の子(ベン・アダム)」という特別な呼ばれ方で呼ばれている。
私達も、人の子である。
主は、エゼキエルのみならず、私達という「人の子」にも、命じられるのだ。
 
37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
37:6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
 
「息」のヘブライ語はルーアハ、「息」のほかに、「霊」「風」を表す。
私達も、主のおおせられた言葉、すなわち、聖書の御言葉を、信じて、そのまま語りだすなら、大きな変化が起きる。
干からびた骨のような相手、状況、あるいは、干からびた骨のような、自分自身にも。
 
37:7 わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。
37:8 わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。
 
4節で命じられていた事は、骨に向かって預言し、主のことばを聞かせる事だった。
確かに骨はつながり、人の成り立ちにまでは戻った。
しかし、その中に「息(霊)」は無かった、と書いてある。
 
主の言葉を宣言するなら、確かに、干からびた骨のような人、モノ、コト、状況を、人並みの状態へと戻される。
そのようにされたキリスト者は、大勢いる。
 
しかし、御言葉を聞いて、人並みになったとしても、神の息、すなわち、聖霊がまだ無い状態であるなら、神の御前においては、マネキンのように、動けない、死んだも同然の状態なのだ。
 
マネキンが、力強い軍団へとなるためには、神の息、聖霊が必要である!
私達も、この口をもって、聖霊を求めるべきだ。
イエス様は言われた。
 
ルカ11:9 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
・・・
11:13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。
 
人の子である私達も、聖霊が四方から吹いて来るように、語るべきである。
 
37:9 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。
37:10 そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。
 
10節の「集団(ハイル)」は、KJVでは「great army」と訳されている。
ハイルは、軍団、勇士、厳粛な者、富んだ者、という意味であり、そしてこのハイルは、有力者ボアズに、厳粛な女ルツに、勇士ギデオンに、ダビデに与えられた称号である。
弱く臆病な者は強くされ、貧しく何も無かった者は、富んだ者とされ、異邦生まれの者が、栄光の王族の家系へと組み入れられた。
それが、ハイルである。
マネキンのような人間であったとしても、主の霊が吹き付けるなら、ハイルへと、すなわち、全世界を福音へと導くグレイト・アーミーとなり、有力者となり、勇士とされるのだ。
 
37:11 そこで彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と。
 
この骨は、イスラエルの全家の事である、と書いてある。
 
37:12 それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。
37:13 わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。
37:14 わたしがわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟ると、主は言われる」。
 
主はまさに、イスラエルに、その通りにしてくださった。
バビロン捕囚によって国が失われ、2500年ほども全世界に散り散りバラバラにされてしまったイスラエルを、再び、かの地へと戻して下さった。
 
私達も、同じである。
私達キリスト者は、イスラエルへと接ぎ木された者達だからだ。(ローマ11章)
主は、私達をも、このような”エグい”までによみがえらせ、墓から引き上げ、神の息を与えて、ハイルとしてくださり、そしてやがて、天のまことのエルサレムへと導かれるお方だ。
 
もし、御言葉と礼拝をおろそかにし、主がしてはならないと言われていた悪い事をし続け、警告を受け続けても、改めないなら、彼らのように、散り散りバラバラの、ひからびた骨になってしまう。
彼らに起こったことは、私達に対する警告なのだ。
 
しかし、たとえそうなってしまったとしても、主には、おできになる。
ひからびた骨となってしまった者を、グレイト・アーミーにする事を。
 
だから私達も、神の息、聖霊を求めるべきである。
イエス様の弟子達は、聖霊降臨の前は、大した事のできない、烏合の集団だった。
人の形はしていても動けないマネキンのようだった。
しかし、聖霊降臨以降、彼らは死をも恐れない、力強い神の軍団となり、全世界に出て行き、ローマ帝国を席巻し、ヨーロッパ、アジア、地の果てにまで、福音を広めて行った。
 
イスラエルは、人から出た名前ではなく、かかとを掴む者・ヤコブに、主から新しく与えられた、新しい名であった。
しかし彼は、主にしつこく掴む信仰の故に、主から「イスラエル」という名を頂いて、祝福してもらった。
 
主にしつこく求め、掴み、イスラエルとして建て上げられ、栄光のグレートアーミーとなる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

エゼキエル書 講解説教

主の聖なる御名の回復によって始まる、祝福の回復(エゼキエル書36:16-38)

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イスラエルの回復が預言されているが、今回の箇所では特に、荒れ果てた土地の回復と、物質の回復と、人の回復と、そして、彼らの心と霊の回復が、預言されている。
 
ここで忘れてはならないのは、主人公は、人ではなく、主こそがイニシアチブを取られる主人公である、という事である。
 
それ故、人の回復の前に、まず回復しなければならないのは、主の御名であり、その事が、この節で、再三強調されている。
 
36:16 主の言葉がわたしに臨んだ、
36:17 「人の子よ、昔、イスラエルの家が、自分の国に住んだとき、彼らはおのれのおこないとわざとをもって、これを汚した。そのおこないは、わたしの前には、汚れにある女の汚れのようであった。
36:18 彼らが国に血を流し、またその偶像をもって、国を汚したため、わたしはわが怒りを彼らの上に注ぎ、
 
主はまずイスラエルの汚れた行いとわざを思い起こさせた。
なぜなら、罪を犯した人が回復されるためには、まず、自分がした事を、思い起こし、それを悲しみ、もう二度とそれをしない、という思いが起こされ、悔い改める事が、必要だからだ。
 
彼らは、 行ないとわざとによって、その地を汚した。
その行ないは、主の御前では、さわりのある女のように汚れている、と言われた。
さわりのある女は、彼女に触れる人も、彼女が触れたものや、座ったりしたものに触れるものも、汚れてしまう事が、律法において示されている。
 
彼らは、どんな行いとわざによって、その土地を汚したか。
それは、流した血と、偶像によってである。(18節)
 
その故に、主は、憤りを彼らに注いで、彼らは諸国の民の間へと散らされ、国々に追い散らされた。
主は、彼らの行ないとわざとに応じて、さばかれたのだ。(19節)
 
追い散らされた彼らは、行った先の国々でも、主の聖なる名を汚した。(20節)
そこで、主は、彼らによって汚されてしまった、主の聖なる御名を回復するために、事を起こされる。
 
主が事を起こされる理由は、イスラエルの人々のためでは無い。
彼らには、そのような分は、一切、無い(22節)。
ただ一方的に、主の御名の聖である事を、異邦人に、全世界に、知らしめるのである。
 
36:21 しかしわたしはイスラエルの家が、その行くところの諸国民の中で汚したわが聖なる名を惜しんだ。
36:22 それゆえ、あなたはイスラエルの家に言え。主なる神はこう言われる、イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。
36:23 わたしは諸国民の中で汚されたもの、すなわち、あなたがたが彼らの中で汚した、わが大いなる名の聖なることを示す。わたしがあなたがたによって、彼らの目の前に、わたしの聖なることを示す時、諸国民はわたしが主であることを悟ると、主なる神は言われる。
 
この、21-23節には、主の御名の「聖(コデシュ)」である事が、何度も繰り返されている。
コデシュとは、神聖である事、別物である事、切り離されたものである事を意味する。
主の御名は、世のあらゆる名前や言葉とは、切り離して、神聖なものとして、特別視しなくてはならない。
 
主の御名が、初めて示されたのは、出エジプト記3:14である。
『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者(イェヒエ・アシェル・イェヒエ)」。』
 
「イェヒエ」は、存在をあらわすbe動詞「ハヤー」の、一人称単数未完了形である。
ヘブライ語で、未完了形は、動作が未だ終わっておらずにずっと続いている事をあらわす。
 
すなわち、神の「在る」は、過去・今・未来に至る、永遠の「ある」だ。
それが、主の名前であり、アイデンティティである。
 
私達にとっての主の御名は、イエス様の名である。
イエス様は言われた。父とわたしは、一つです、と。
そして、わたしの名によって求めることは何でも、それをする、それは、御父が子によって栄光をお受けになるため、と、繰り返して言われた。(ヨハネ14:13-14)
 
これほどに尊い主の御名は、汚されてはならない。
特別視しなくてはならない。
 
しかし、神の民によって汚されてしまった。
それを主は、聖なる御名の回復のために、ご自身が事を起こされる。
 
そのために主がなされる事が、続く箇所において示されている。
 
まずは、神の民を、諸国の民の間から連れ出し、全ての国々から集め、彼らを、彼らが住むべき地へと、連れて戻す事。(24節)
そして彼らに、きよい水を振りかけ、清める事である。(25節)
 
イエス様は、十字架の上で、血と水を流して下さった。
私達は、それによって清められ、全く新しく創り変えられた。
新しく創り変えられた結果、何が与えられるか?
 
それは、新しい心、新しい霊である。
『わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。』(26節)
 
イエス様の種まきのたとえ話に、岩地に蒔かれた種の話が出てくるが、岩地は、根っこがそれ以上伸びず、蒔かれた御言葉は、根を出してもすぐに枯れてしまう。
そのように、イスラエルは、御言葉が与えられても、すぐに罪を犯し、懲らしめられ、戒められても、すぐにまた罪を犯す歴史を、繰り返して来た。
 
主は、その、石の心を取り除き、いつまでも主に仕えられる「新しい心」「新しい霊」を与える、と、約束して下さった。
それが与えられるなら、主の言葉どおりに歩み、行動できるようになる。
 
36:27 わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
 
さらには主は、その土地へ戻し、その地に住まわせ、物質的祝福をも、賜って下さる。
 
36:29 わたしはあなたがたをそのすべての汚れから救い、穀物を呼びよせてこれを増し、ききんをあなたがたに臨ませない。
36:30 またわたしは木の実と、田畑の作物とを多くする。あなたがたは重ねて諸国民の間に、ききんのはずかしめを受けることがない。
 
物質の回復において必要な条件は、心と霊の回復であり、心と霊の回復に必要な条件が、「主の御名こそ聖である」ことの回復である。
そして、主の御名が聖である事を、思い知るために、必要なものが、自分の罪を恥じ入る心である。
以下に記されている。
 
36:31 その時あなたがたは自身の悪しきおこないと、良からぬわざとを覚えて、その罪と、その憎むべきこととのために、みずから恨む。
36:32 わたしがなすことはあなたがたのためではないと、主なる神は言われる。あなたがたはこれを知れ。イスラエルの家よ、あなたがたは自分のおこないを恥じて悔やむべきである。
 
私達も、回復したいのであれば、自分の悪い行ないと、良くなかったわざとを思い出し、自分の不義と、忌みきらうべきわざを心底恥じ、悔やむ感性が必要である。
罪や汚れを「恥じ入る」心があるなら、自分をきよくしようという努力が湧いて、生活が回復されて行くが、恥じ入る心が無いなら、それが沸き起こって来ず、生活を回復しようともしない。
日本人の高い道徳性は、この「恥」の感性が高いからであろう。
 
それが回復する時、主は、荒れ果てた地を回復される事を約束される。
 
36:33 主なる神はこう言われる、わたしは、あなたがたのすべての罪を清める日に、町々に人を住ませ、その荒れ跡を建て直す。
36:34 荒れた地は、行き来の人々の目に荒れ地と見えたのに引きかえて耕される。
36:35 そこで人々は言う、『この荒れた地は、エデンの園のようになった。荒れ、滅び、くずれた町々は、堅固になり、人の住む所となった』と。
36:36 あなたがたの周囲に残った諸国民は主なるわたしがくずれた所を建て直し、荒れた所にものを植えたということを悟るようになる。主なるわたしがこれを言い、これをなすのである。
 
実際、1948年、イスラエルが再建国し、ユダヤ人が戻ってきた。
それ以前は、沼地や荒れ地だったが、彼らが戻ってきた時、彼らはアブラハムにならって、ぎょうりゅうの木を植えた。
その結果、結果、そこはさかんに作物を産出する地となった。
土地の面積としては、四国ほどしか無いのに、たくさんの農産物を外国へ輸出するほどに産物が採れるようになったのだ。
 
さらに主は、人を戻し、人を増やす約束をも、しておられる。
 
36:37 神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。
36:38 ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように、廃墟であった町々を人の群れで満たそう。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」
 
主が戻される人々は、「羊」の群れのよう、と繰り返されている。
例祭の時の羊は、主へと捧げられるいけにえである。
そのような主に捧げられた民が、大挙をなして、戻ってきて、廃墟であった町々に住むようになるのである。
とても素晴らしい事である。
 
しかし、これらの事をなされる理由は、「あなたのためではない」と言われた。
それは異邦人に、つまりは全世界に、主の栄光をあらわすためである。
主が異邦人に栄光をあらわされる理由は、異邦人を救いへと導くためなのだ。
 
この、素晴らしい事をして下さった主の御名こそ、大いにほめたたえられるべきである。

金曜礼拝

蒔かれた御言葉が、実を結ばせない人、実を結ばせる人(ルカ8:4-15)

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8:12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち(エイター:then、すぐに、すると)、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。
 
 
たとえば10人に御言葉を語ったとする。
10人とも、耳で聞いた。確かに10人の、耳の鼓膜は振動した。
しかし、すぐに、悪魔が取り去ってしまう人、鳥が巣作りしている人がいる。
その人の、心に御言葉が落ちて根付く前に、持ち去る。
 
5節では、タネは、人に踏みつけられ(「軽んじられ」の意味もあり)てしまっている。
みことばを、踏みつけはならない。軽んじてはならない!
 
鳥がきたら、アブラハムのように、追い払うべき。目を出すように。
鉢植えをケアするように、いのちを育てる努力をすべき!
花をさかせ、みのるまで!
 
悪魔は、中傷者。
中傷者の声、息吹、霊、にさらされるなら、すぐに、風が、鳥が、持ち去ってしまう。
 
 
8:13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。
 
 
聞いて、よろこぶ、が、根がない。
しばらくは信じるが、自分に都合がわるい事が起きる、あるいは、自分の願った方面ではない、とするなら、いともかんたんに御言葉を手放す。
 
8:14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。
 
とかくしているうち=ポレウオマイ πορεύομαι:あゆむ、やっていく。英語は go on。
歩く。どこを?
富や快楽の上で歩いている!みことばで歩くではなく。
ふさがれる=スムプニゴー:しめつける、窒息する。
いばら=イエス様をつきさした。
 
 
8:15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。
 
唯一実を結ばせた。
全員、聞いていた。4タイプとも。
鼓膜が振動し、聞いたはずだが、ある人は、御言葉が心に落ちる前に、鳥が来てたべてしまった。
岩:途中、放棄しえしまう。
いばら:御言葉に歩まない。富や快楽で歩むので、ふさいだ。
 
良い地は、
みことばを聞くと、それをしっかりと、
・守り:シャマール。日本語の侍は、ヘブライ語でも同じ(シャムライ)、守る人。
・よく耐えて、ヒュポモネー:明るい(あるいは希望に満ちた雰囲気で)耐え忍ぶ
 
以上、実を結ばせるのは、正しい良い心で、聞いて、守り、耐える人!

講解説教

土地から吐き出される者と、歓迎される者(エゼキエル36:1-15)

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今回の箇所は、イスラエルの人々に対して、ではなく、イスラエルの山々や丘々、谷川や谷、荒れ果てた廃墟、見捨てられた町々に、である。
つまり、あちらこちらに動く人間に対して宣言されたのではなく、不動の土地に対して、である。
 
イスラエルの土地は、悪い人々によって荒廃してしまった。
その土地にとっては、悲むべき状況であったが、そこに、本来住むべき、神を畏れ敬う民が戻ってきて、再び、イスラエルの土地は礼拝によって回復される事が、示されている。
 
このような、イスラエルの山々に向けての預言は、6章にもあった。
6章の時点では、まだバビロン捕囚前、災が降る前だったが、そこを見れば、なぜイスラエルの山々が荒廃してしまったのかが、良くわかる。
 
エゼキエル6:1 主の言葉が、わたしに臨んで言った、
6:2 「人の子よ、あなたの顔をイスラエルの山々に向け、預言して、
6:3 言え。イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け。主なる神は山と丘と、谷と川に向かって、こう言われる、見よ、わたしはつるぎをあなたがたに送り、あなたがたの高き所を滅ぼす。
6:4 あなたがたの祭壇は荒され、あなたがたの香の祭壇はこわされる。わたしはあなたがたの偶像の前に、あなたがたの殺された者を投げ出す。
 
ここを見ると、イスラエルの山々において、偶像礼拝が行われ、主のねたみを起こしていた事がわかる。
主は度々、預言者を遣わして警告して来たが、民は、止めなかった。
警告を与えても、止めないなら、主は、強制的に、偶像礼拝が出来ないように、破壊しにかかられる。
それは、これに懲りて、二度と偶像礼拝をしないように、ただ、主だけをを礼拝するようにするために、である。
 
私達も、あまりに、主に忌み嫌われる事を止めないなら、あるいは、隠れてそれを行って誰も注意する人がいないなら、主ご自身が、それができないように、強制的に働きかけられる。
 
6:5 わたしはイスラエルの民の死体を彼らの偶像の前に置き、骨をあなたがたの祭壇のまわりに散らす。
6:6 すべてあなたがたの住む所で町々は滅ぼされ、高き所は荒される。こうしてあなたがたの祭壇はこわし荒され、あなたがたの偶像は砕かれて滅び、あなたがたの香の祭壇は倒され、あなたがたのわざは消し去られる。
6:7 また殺された者はあなたがたのうちに倒れる。これによって、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。
 
受けた災いの原因は、特に、偶像礼拝であった事が示されている。
偶像礼拝は、十戒の第二戒にある程、重要な禁止事項であるが、偶像とは、何も、神社仏閣に限ったものではない。
 
偶像礼拝とは、神ならぬものを、神以上に、神とする事だ。
つまり、お金や誰か人間、特定のイデオロギーなどを、神様以上に優先させているなら、それが、偶像礼拝状態である。
 
コロサイ3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
 
神ならぬものを、神以上に頼る時、主のねたみを引き起こす。
神様と私達の関係は、結婚関係と同じである。
それが、以下の節で分かる。
 
6:8 わたしは、あなたがたのある者を生かしておく。あなたがたが、つるぎをのがれて国々の中におり、国々に散らされる時、
6:9 あなたがたのうちののがれた者は、その捕え移された国々の中でわたしを思い出す。これはわたしが、彼らのわたしを離れた姦淫の心と、偶像を慕って姦淫を行う目をくじくからである。そして彼らはそのもろもろの憎むべきことと、その犯した悪のために、みずからをいとうようになる。
6:10 そして彼らはわたしが主であることを知る。この災を彼らに対して下すと、わたしが言ったのは決してむなしい事ではない」。
 
主から離れるのは、姦淫の心であり、偶像を慕う目は、姦淫の目である事が、ここで示されている。
結婚とは、自分自身を結婚相手に対し、唯一・排他的な”異性”として、コミットする事である。
つまり、女性であるなら、相手の男性にとって唯一・専属的な「女」となり、男性であるなら、相手の女性にとって、唯一・専属的な「男」となる事である。
それ以外の相手に対し、自分を「男」「女」とするなら、それは、ねたみを引き起こす。
 
それと同じく、神様との契約関係は、自分自身を神様に対し唯一専属的な「民」とし、そして、神様を自分にとって、唯一専属的な「神」とするものである。
だから、偶像礼拝は、許されないのだ。
 
バビロン捕囚の前、神様はすぐには災いを下さず、預言者を通して何度も警告し、わたしに戻れ、戻れ、と言った。
しかし彼らは、霊的姦淫を止めなかった。
それでついに、時が満ちて、その災いの預言が実現してしまった。
それで彼らが、捕囚先で悔い改め、主に立ち返った時、幸いの預言が発せられる。
それが、36章である。
 
36:1 人の子よ、イスラエルの山々に預言して言え。イスラエルの山々よ、主の言葉を聞け。
36:2 主なる神はこう言われる、敵はあなたがたについて言う、『ああ、昔の高き所が、われわれのものとなった』と。
 
日本語には訳されていないが、英語の聖書では、2節の主の言葉は because(ヘブライ語ではヤアン、すなわち、「***なので」)で始まり、それを受けて、3-7節は全部、「それゆえ(ケン)」で始まっている。
つまり、2節を受けての、3-7節なのだが、それだけ、イスラエルをあざけって荒廃させた国々への「ねたみと憤り」(6節)の激しさを、主は示しておられる。
 
36:3 それゆえ、あなたは預言して言え。主なる神はこう言われる、彼らはあなたがたを荒し、四方からあなたがたを打ち滅ぼしたので、あなたがたは他の国民の所有となり、また民の悪いうわさとなった。
36:4 それゆえ、イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け。主なる神は、山と、丘と、くぼ地と、谷と、滅びた荒れ跡と、人の捨てた町々、すなわちその周囲にある諸国民の残った者にかすめられ、あざけられるようになったものに、こう言われる。
 
イスラエルは、徹底的な災いを受けて、民の語りぐさとなり、そしりとなった事が、書かれてある。
神の民が、災いのサンプルとして、語り草になる…。
そう、いかに、神の民といえども、神様以外のものを神とし、神のねたみを引き起こさせ、戒められても止めないなら、徹底的に打ちのめされ、語り草となってしまうのだ。
それは、私達にはあってはならない。
 
36:5 主なる神はこう言われる、わたしはねたみの炎をもって、他の国民とエドム全国とに対して言う、彼らは心ゆくまで喜び、心に誇ってわが地を自分の所有とし、これを奪い、かすめた者である。
36:6 それゆえ、あなたはイスラエルの地の事を預言し、山と、丘と、くぼ地と、谷とに言え。主なる神はこう言われる、見よ、あなたがたは諸国民のはずかしめを受けたので、わたしはねたみと怒りとをもって語る。
36:7 それゆえ、主なる神はこう言われる、わたしは誓って言う、あなたがたの周囲の諸国民は必ずはずかしめを受ける。
 
ここから、神様の燃えるねたみと憤りは、神の民をあざけり強奪した国々へと移行する。
神様は、確かに、神の民を打った。
しかしそれは、喜んでではなく、悲しみつつであった。
ちょうど、親が、子を懲らしめる時のように。
 
イスラエルが、神様から打たれているのを見て、調子に乗って、さらにボコボコにするなら、今度は、神のねたみと憤りは、その者達へと向けられる。
そしてイスラエルには、その土地の回復が宣言される。
 
36:8 しかしイスラエルの山々よ、あなたがたは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。この事の成るのは近い。
36:9 見よ、わたしはあなたがたに臨み、あなたがたを顧みる。あなたがたは耕され、種をまかれる。
 
土地は、再び、本来そこに住むべき神の民が、帰って来て、住むようになる。
今までは、異邦の民に、蹂躙されていた。
なぜなら、本来、神様を礼拝すべき民が、礼拝せず、偶像礼拝に耽り、行いが悪かったからだ。
そういう時、土地は、その者を吐き出して、土地は、安息を得る。
 
36:10 わたしはあなたがたの上に人をふやす。これはことごとくイスラエルの家の者となり、町々には人が住み、荒れ跡は建て直される。
36:11 わたしはあなたがたの上に人と獣とをふやす。彼らはふえて、子を生む。わたしはあなたがたの上に、昔のように人を住ませ、初めの時よりも、まさる恵みをあなたがたに施す。その時あなたがたは、わたしが主であることを悟る。
 
土地の繁栄は、豊かな実りは、主の契約に基づく。
偶像は、強制的に打ち捨てられ、もはや偶像礼拝ができなくなり、ただ、主を敬う事、礼拝する事が帰るなら、契約の祝福が来る。
レビ記26章に記されているとおりである。
 
26:1 あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。
26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。
26:3 もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、
26:4 わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。
26:5 あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。
 
ここを見て明らかなように、祝福の基本は、2節にある通り、主を敬い、主を礼拝する事だが、それ以前に、真っ先に、偶像を礼拝してはならない事が、1節で示されている。
主の御言葉に聞き従い、それを守り行うなら、主は、豊かな実りを、大地に命じて下さる。
 
36:12 わたしはわが民イスラエルの人々をあなたがたの上に歩ませる。彼らはあなたがたを所有し、あなたがたはその嗣業となり、あなたがたは重ねて彼らに子のない嘆きをさせない。
36:13 主なる神はこう言われる、彼らはあなたがたに向かって、『あなたは人を食い、あなたの民に子のない嘆きをさせる』と言う。
 
土地が、人を食らう、と言われてしまうようになったのは、なぜか。
それは偶像礼拝の故であり、契約を破った事の、のろいによる。(レビ26:16,20, 申命記28:38-40)
この状態がなくなる事が、14節以降に示されている。
 
36:14 あなたはもはや人を食わない。あなたの民に重ねて子のない嘆きをさせることはないと、主なる神は言われる。
36:15 わたしは重ねて諸国民のはずかしめをあなたに聞かせない。あなたは重ねて、もろもろの民のはずかしめを受けることはなく、あなたの民を重ねてつまずかせることはないと、主なる神は言われる」。
 
土地は、そこに住む人々が神を畏れ敬うなら、土地は喜んで作物を出すが、もし、そこに住む人々が汚れた事を行うなら、やがて土地は、その者達を吐き出して、そうして安息を得る。
被造物は、神の子のあらわれを待ち望んでいる。
もし私達が、イエス様を信じ、御言葉の通りに生きるなら、行く先々の被造物からウエルカムされる者となる。
私達は、神の子としてふさわしく歩み、そうして、あらゆる被造物から歓迎される者となるべきである。

エゼキエル書 講解説教

呪われてしまうエドムの性質を取り除け(エゼキエル35章)

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35:1 次のような主のことばが私にあった。
35:2 「人の子よ。顔をセイルの山に向け、これについて預言して、
35:3 言え。神である主はこう仰せられる。セイルの山よ。わたしはおまえに立ち向かい、おまえにわたしは手を伸ばし、おまえを荒れ果てさせ、荒廃した地とする。
35:4 わたしがおまえの町々を廃墟にし、おまえを荒れ果てさせるとき、おまえは、わたしが主であることを知ろう。
 
エゼキエル書は、33章から、39章まで、イスラエルの回復の預言が続いているが、それに先立って、回復の前に、イスラエルを虐げた者達へのさばきが予告される。
 
もっとも、イスラエルが虐げられていたのは、いわば、身から出た錆であった。
私達も、主を軽んじて歩んでいたなら、主は敵を起こし、敵を用いて苦しい目にあわせるかもしれない。
しかしそれは、主に立ち返らせるため、祝福を受ける性質へと、戻すためである。
そうして神の民が主に立ち帰る時、その回復とともに、神の民を不当に虐げた敵たちには、さばきが下される。
 
この章で示されているセイルは、エドム人の事であり、この章ではエドムに対するさばきが預言されている。
エドムは、ヤコブの兄エサウにつけられた別名であり、すなわちエドムは元々、イスラエルの兄弟の国である。
 
なぜ、神の民の兄弟・エドムがさばかれなくてはならないのか?
まずは、エドムの性質について見たい。
 
エドムの元々の名、エサウの名の意味は、「赤い」である。
ヤコブすなわちイスラエルと、エサウが、共に父の家に住んでいた頃、エサウは、獲物を追いかける事に夢中になりすぎて、死にそうになるまで、狩りを続けた。
父イサクの家は、別に食料に困っていなかったので、エサウは狩りをする必要は無く、狩りは純粋に、趣味としてやっていたのだ。しかも、寝食を忘れる程に。
自分に害を及ぼさない、殺す必要の無い動物を、わざわざ探し出し、追いかけ、狩る事が、彼にとって、三度の飯よりも好きな事だったのだ。
 
そうして、疲れ果て、死にそうになって帰って来た時、弟ヤコブは、レンズ豆の煮物を煮ていた。
『エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの(アドム)、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。』(創世記25:30-31)
 
ヤコブは、普段から長子の権利を奪おうと狙っていたので、このように迫ったのだが、エサウとしては、大した事として思っていなかった。
それで軽く口約束する。
25:32 エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。
25:33 ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。
25:34 そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。
 
以上の事をした事から、エドムの性質は、俗悪である、と言われている。
 
ヘブル12:16 また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。
12:17 あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。(NKJV: for he found no place for repentance, though he sought it diligently with tears.)
 
エサウは、後で祝福が奪われた時、滝のように涙を流したかもしれない。
しかし彼の心の中は、「悔い改め」という場所が、これっぽっちも、無かったのである。
 
悔い改めとは方向転換であり、自分のした事を悔い、止めるべき事を止め、するべき事をする事、のはずである。
その気持が無い、とするなら、いかに滝のように涙を流して「祝福を返してください」、と、何時間かけて願ったとしても、一切が無駄である。
 
父イサクは、エサウを愛していたので、本当に、エサウを祝福したかっただろう。
またエサウも、父イサクのやさしさや、子供を愛する思いにつけこんで、涙ながらに訴えた。
しかし、悔い改めの余地がこれっぽっちも無い彼に対して、イサクの口からつい出た言葉は、呪いの言葉だった。
 
つまり、主が、祝福してはならない、と意図している者は、どうしても祝福はできず、また、主が祝福する、と決めておられる人は、どうしても呪う事ができないのだ。(民数記23-24章)
 
とはいえ、エドムは当初、ヤコブよりも栄えた。
ヤコブの子孫が、エジプトで奴隷になっている間、エドムは、どんどん力を増して行った。(創世記36章)
そうして、俗悪な子々孫々を産んで行き、それが「エドム人」となった。
エドムはどう俗悪であるのか、オバデヤ書に詳しく記されている。
 
エドムは、兄弟の国が、バビロンによって攻められた時、知らぬ顔をし(オバデヤ書11節)、むしろ喜び(同12節)、イスラエルの敵と一緒に門に入って、財宝に手をつけ(13節)、逃げるイスラエル人の前に立ちはだかって、逃げられなくした。(14節)
モーセの時代も、平和の内に領土を通らせて欲しい、と言うイスラエルに対し、武力をちらつかせて、通せんぼした。(民数記20:14-21)
 
彼らが、バビロン捕囚の時にイスラエルにした事を、詩篇137篇の作者は、訴えている。
『主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と/言ったことを覚えてください。』(7節)
 
以上、エドム人の特徴は以下である。
・寝食を忘れるほどに獲物を探し、追いかけ、狩る事が、趣味。
・目先の肉欲を満たす事とひきかえに、祝福の相続権、という、大事なものを売ってしまう。
・悔い改めの余地が、心の中に「これっぽっち」も無い。
・兄弟が困っている時に助けず、むしろ、敵の側に立って一緒になっていじめる。
 
これは、サタンの性質だ。
サタン(サタナス)の意味は「敵」、また、悪魔(ディアボロス)の意味は「訴求者」「中傷者」である。
 
私達の中に、エドムの性質があるとするなら、本当に取り扱わなくてはならない。
イスラエルが、バビロンによって苦しめられたのは、確かに、イスラエルの身から出た錆だが、だからと言って、兄弟が散々な目に遭っている時、敵(サタン)の側に立って、一緒に誹謗・中傷し、攻め立てるなら、主は悪魔に敵対されるのと同様に、その者と敵対される。
もし、その責め立てられている兄弟姉妹が、悔い改めて、主に向かって叫ぶなら、主はその叫びを聞いてくださり、かえって、誹謗・中傷している者を裁かれる。
 
私達にも、もしかしたら、エドムのように、困っているの兄弟を、逆に苦しめ誹謗・中傷し、傷を上塗りするような身内がいるかもしれない。
しかし主は、主に救いを求める聖徒たちを、必ず守られる。
 
35:5 おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した。
35:6 それゆえ、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――わたしは必ずおまえを血に渡す。血はおまえを追う。おまえは血を憎んだが、血はおまえを追いかける。
35:7 わたしはセイルの山を荒れ果てさせ、廃墟とし、そこを行き来する者を断ち滅ぼす。
35:8 わたしはその山々を死体で満たし、剣で刺し殺された者たちがおまえの丘や谷や、すべての谷川に倒れる。
35:9 わたしはおまえを永遠に荒れ果てさせる。おまえの町々は回復しない。おまえたちは、わたしが主であることを知ろう。
 
実際、ここに預言された通り、今、エドム人(イドマヤ人)は、この地上から滅ぼされてしまっている。
エドム人は、バビロン捕囚の時までは栄えていたが、イエス様の時代になると、少なくなり、最終的には民族としては歴史から姿を消してしまった。
 
35:10 おまえは、『これら二つの民、二つの国は、われわれのものだ。われわれはそれを占領しよう。』と言ったが、そこに主がおられた。
 
二つの民、二つの国とは、イスラエル王国と、南ユダ王国である。
彼らがそこに侵入しようとした時、「そこに主がおられた」と書かれてある。
主は、二人でも三人でも主の民がいる集いのただ中におられ、また、神の民の家に、職場に、教会におられるのだ。
 
35:11 それゆえ、――わたしは生きている。神である主の御告げ。――おまえが彼らを憎んだのと同じほどの怒りとねたみで、わたしはおまえを必ず罰し、わたしがおまえをさばくとき、わたし自身を現わそう。
 
神の民に対してした事は、主に対してしたとして数えられている事に注目したい。
実際、サウロ(後のパウロ)が、教会を迫害した時、主は「なぜ”わたしを”迫害するのか」と言われた。
 
35:12 おまえはイスラエルの山々に向かって、『これは荒れ果てて、われわれのえじきとなる。』と言って、侮辱したが、主であるわたしがこれをみな聞いたことを、おまえは知るようになる。
35:13 おまえたちは、わたしに向かって高慢なことばを吐いたが、わたしはそれを聞いている。
 
主は、部屋の中で、ひそかに言った事も、聞いておられる。
エドムがイスラエルに対してした侮辱と高ぶりは、主ご自身に対するものとして、見なされた。
 
35:14 神である主はこう仰せられる。わたしはおまえを荒れ果てさせて、全土を喜ばせよう。
35:15 おまえは、イスラエルの家の相続地が荒れ果てたのを喜んだが、わたしはおまえに同じようにしよう。セイルの山よ。おまえは荒れ果て、エドム全体もそうなる。人々は、わたしが主であることを知ろう。
 
実際、歴史は、そのとおりになってしまった。
エドムは、父イサクから言われたとおり、弟ヤコブを前に、その身を低くしていれば、十分に存続できたはずである。
事実、彼らは、イスラエルに何も害していなかった時は、栄えた。
それなのに彼らは、わざわざイスラエルをいじめ、害して、災いを被った。
 
私達は、エサウの性質にこそ、気をつけるべきである。
 
私達には、獲物を探し、追いかけ、狩る性質が、無いだろうか。
目先の肉欲を満たすためには、神の民としての誇りを売ってしまうような性質は、無いだろうか。
それは、エサウのように呪われてしまう性質である。
 
むしろ、何かあったら、すぐに主に悔い改め、兄弟が困っているのを見たら、惜しみなく助ける幸いな性質を身につけて、いつも祝福がつきまとう皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

 

エゼキエル書 講解説教

羊の間をもさばく、まことの羊飼いであられる主(エゼキエル34:17-31)

Youtube動画

 
前回の箇所は、悪辣な羊飼いに対するさばきについて、記されていた。
悪辣な羊飼いとは、主から託された、養うべき弱い羊を養わず、心に留めず、むしろ、主から託された大切な羊たちを、食い物にするような者達だ。
 
主はそのような者をさばかれるが、彼らの悪辣なやり方に見習って、悪辣なやり方を仕出かす羊も、群れの中に出て来る。
主は、そのような悪辣な羊をもさばく事を、今回の箇所で示している。
 
エゼキエル34:17 主なる神はこう言われる、あなたがた、わが群れよ、見よ、わたしは羊と羊との間、雄羊と雄やぎとの間をさばく。
 
ここに、やぎが出てくる。羊ならぬ、やぎが。
やぎの性質は、18-19節に示されている。
 
エゼキエル34:18 あなたがたは良き牧場で草を食い、その草の残りを足で踏み、また澄んだ水を飲み、その残りを足で濁すが、これは、あまりのことではないか。
34:19 わが羊はあなたがたが、足で踏んだものを食い、あなたがたの足で濁したものを、飲まなければならないのか。
 
ここに記されているやぎは、主が導いてくださった、良き牧場で、普通に草をたべて安息するだけでは飽き足らず、自分が食べて満腹したら、残りを足で踏みつける、というような事をする。
 
憩いの水のほとりで、羊も、やぎも、飲む。
しかしやぎは、自分が飲んだら、水の残りの澄んでいる所を足でにごし、羊たちはその濁った水を飲まなくてはならない。
それは100%、悪意でしかない。
 
教会における聖徒の交わりや礼拝は、イエス様に導かれた羊たちが、良い牧場で良いものを食べているような、うるわしいものであるが、それを敢えて汚し、にごし、まぜものをするような者を、主が裁かれる。
 
今回のオリンピックのマラソン競技で、フランスの代表モラ・アンドゥニ選手は、給水所のペットボトルを全部なぎ倒し、他の選手が水を飲めないようにして、自分だけは飲んで行った事が議論になった。
自分が飲んだら、他の競争相手には飲ませないようにして、自分に有利に、相手を不利に陥れる。
そのような蹴落とし競争が、世では普通にまかり通っているが、聖なる教会の交わりの中で、そういう事をする者は、主が裁かれる。
 
エゼキエル34:20 それゆえ、主なる神はこう彼らに言われる、見よ、わたしは肥えた羊と、やせた羊との間をさばく。
34:21 あなたがたは、わきと肩とをもって押し、角をもって、すべて弱い者を突き、ついに彼らを外に追い散らした。
34:22 それゆえ、わたしはわが群れを助けて、再びかすめさせず、羊と羊との間をさばく。
 
主の牧場には、乏しい者がいないはずなのに、ここには、肥えた羊だけでなく、痩せた羊もいる。
なぜ、痩せた羊がいるのか。
それは、力ある羊が、おなかのすいた羊を押しのけて、自分だけが食べて、それを残さないからだ。
 
パウロは、そのような事をする者がいるコリント教会に、警告を与えている。(1コリント11章)
 
コリント教会の中には、主の愛さんを食べに来ている人の中で、われ先に食べて他に残さない者がいた事が、記されている。
 
当時の教会は、奴隷階級の聖徒もおれば、自由階級の聖徒もいた。
奴隷階級の人は、主人のために働いて、全部終えてからやっと教会の交わりに戻ってくるのに、自由階級のある人は、ひまをもてあまして教会に入り浸り、誰か、聖徒が食事をふるまうと、それを残らず飲み食いし、酔っ払っているのに、後からようやく入って来た聖徒たちには、何も残っていない、という有様が続いていたのを、パウロは責めている。
 
1コリント11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。
 
この箇所の直後、パウロは、有名な聖餐の制定を記している。(23-31節)
そこで命じているのは、食べるにしても、飲むにしても、主を覚えて、主を記念して、これを行いなさい、という事である。
 
教会における礼拝も、飲み食いも、主を覚え、主を記念すべきものである。
なぜなら教会は、「キリストの体」であるからだ。
 
それをわきまえないで、単に飲み食いをむさぼるために来る者は、その、飲み食いによって、自分にさばきを招く、とパウロは警告する。
そのさばきとは、弱い者になったり、病人になったり、また、眠った(死んだ)りと、実に恐ろしいものである(29-30節)。
 
事実、教会の主であらるキリストを一切覚えず、心を留めず、単に、飲み食いや話し相手求めに教会に来ている者は、弱い者になったり、病人になったりする。
 
聖餐式でよく勘違いされる事は、聖餐にあずかるのにふさわしいか、ふさわしくないかは、主のみからだをわきまえているか、いないかであって、決して、自分が罪を犯したか、犯していないか、ではないのだ。
もし、罪を犯した、という自覚があるなら、なおのこと、罪をきよめるイエス様の血潮を「おぼえて」、断然、聖餐にあずかるべきなのだ。
 
むしろ「ふさわしくない者」とは、教会がキリストのみからだである事をわきまえず、単に飲み食いのために、あるいは、単におしゃべりのために教会を利用して、礼拝の御言葉のパンを汚したり、聖徒の交わりという飲み水を足で濁したりするような者の事である。
 
もちろん、弱さや無知の故に、意図せず、そうした事をしてしまう人もいる。
そういう人は、「よくなりたい」という意図をもって教会に集い、主に助けを求めるなら、主はその人を見捨てたりせず、大いに助けの御手を差し伸べてくださる。
しかし、意図して礼拝や聖徒の交わりを汚すような悪辣な者については、たとえ、聖徒は見抜けなくても、主ご自身が見抜いておられ、その者を、そこから取り除いてくださる。
 
さらに続く節には、真の牧者が現れて、その群れを正しく統治し、群れが祝福に入る様が記されている。
 
エゼキエル34:23 わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。
34:24 主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。
 
主は、ひとりの牧者を、すなわち、「しもべダビデ」を立てられる。
ダビデは、主から認められる良い羊飼いであったが、良い羊飼いとは、人格が良いとか、統率力があるとか、思いやりがある、といった評価基準ではない。
良い羊飼いの条件は、「しもべ」であるかどうかである。
 
主の意向を外した者は、どんなに人格が良くても、統率力があっても、良い羊飼いではない。
「しもべ(エベド)」とは、主人の意向をそのまま行う人の事であり、主の意向をそのまま行う「しもべ」こそ、神の国における良いリーダーなのである。
 
イエス様は、父なる神様の意向を、そのまま行ったゆえ、父なる神様から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言われた。
 
そして、しもべダビデが、すなわち、イエス様が来て、平和の統治がなされる様が、25-31節に記されている。
 
エゼキエル34:25 わたしは彼らと平和の契約を結び、国の内から野獣を追い払う。彼らは心を安んじて荒野に住み、森の中に眠る。
34:26 わたしは彼らおよびわが山の周囲の所々を祝福し、季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。
34:27 野の木は実を結び、地は産物を出す。彼らは心を安んじてその国におり、わたしが彼らのくびきの棒を砕き、彼らを奴隷とした者の手から救い出す時、彼らはわたしが主であることを悟る。
 
ここに、とても素晴らしい祝福が約束されているが、それは無条件に与えられるものではない。
ここに記されている祝福が与えられる条件は、25節に示されている「契約」を守り行う事である。
 
現在、私達が守り行う契約とは、私達が持っている旧新契約聖書の内容である。
 
私達は主の前に誠実であるべきなのだ。そうするなら、さらなる祝福の実態があらわれ、もはや、他からかすめられる事も、はずかしめられる事もなく、主がまことの牧者となって、安らかに導かれるようになる。
 
エゼキエル34:28 彼らは重ねて、もろもろの国民にかすめられることなく、地の獣も彼らを食うことはない。彼らは心を安んじて住み、彼らを恐れさせる者はない。
34:29 わたしは彼らのために、良い栽培所を与える。彼らは重ねて、国のききんに滅びることなく重ねて諸国民のはずかしめを受けることはない。
34:30 彼らはその神、主なるわたしが彼らと共におり、彼らイスラエルの家が、わが民であることを悟ると、主なる神は言われる。
34:31 あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる」。
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