メッセージ - 202108のエントリ
エゼキエル書 講解説教
悪い羊飼いの性質とその末路(エゼキエル34:1-16)
Youtube動画
イエス様は言われた。わたしの羊を飼いなさい、と。
主は私達に、多かれ少なかれ、羊を託してくださった。
そうであるからには、私達も、「羊飼い力」を身につけるべきである。
ダビデは、社会でつまはじきにされた人や、お金の管理ができなくて破産してしまったような人、心に苦味をもっている人達、合計600人を、見事、勇士に育て上げた。
しかも、サウルから逃げながら、日々、必要な食料を調達しながら。
私達も、ダビデのような「羊飼い力」を求め、身につけるべきであるが、今回のエゼキエル34章には、良い羊飼いの逆、悪い羊飼いを糾弾している。
主が糾弾されるのは、「羊飼い力」を持っていない人の事ではない。
勇士のような勇気が無い事を責めておられるのでもなく、経済力や指導力の無さを、責めておられるのでもない。
そういったものが無かったとしても、主は、主の御言葉に聞き従う誠実な人には、いくらでも、そうした力を与えて下さる。
主が糾弾されるのは、主の御言葉に聞き従わない不誠実な者である。
エゼキエル34:1 主の言葉がわたしに臨んだ、
34:2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。
そう、羊飼いは本来、羊を養わなければならないものだが、彼らはどうだったか。
エゼキエル34:3 ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。
34:4 あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。
詩篇1篇には、幸いな人の性質である、”3つの「ず」”が記されている。
すなわち、悪者のはかりごとに歩ま「ず」、罪人の道に立た「ず」、あざける者の座に着か「ず」。
そのような人は、幸せを得るが、しかしここでは、悪い牧者の性質の”5つの「ず」”が示されている。
すなわち、
弱った羊を強め「ず」、
病気のものをいやさ「ず」、
傷ついたものを包ま「ず」、
迷い出たものを連れ戻さ「ず」、
失われたものを捜さ「ず」。
かえって、力ずくと暴力で彼らを支配する。
このような性質を、持っていないだろうか?
これが、悪い羊飼いの性質で、主はそれに敵対される。
当時のイスラエルの指導者は、まさに悪い牧者で、彼らは民から搾取して、自ら、私腹を肥やした。
その結果、羊たちは、すなわち、イスラエルの民は、5-6節の状態に陥ってしまった。
エゼキエル34:5 彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。
34:6 わが羊は散らされている。彼らはもろもろの山と、もろもろの高き丘にさまよい、わが羊は地の全面に散らされているが、これを捜す者もなく、尋ねる者もない。
真の羊飼いが不在だ、と、主は言われた。
当時のイスラエルは、まさに、その状態だった。
それで、イスラエルという群れは、散らされて、世界各地へと捕囚にされて行ってしまった。
私達の主・イエス様は、まことの牧者である。
ヨハネ10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
10:13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
10:15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
良い牧者は、羊のために、いのちを捨てる。
ダビデも、羊のためにいのちを捨てる意気込みだった。
ライオンが羊を咥えて行った時も、熊が羊を咥えて行った時も、ひるまずに追いかけて取り戻した。
それだから、彼がまだ、羊飼いの少年だった時、主から「エッサイの子の中に、イスラエルの王を見つけた」として、見いだされたのだ。
牧者たるものは、まことの羊飼いであられる主から、羊を養い育てるように、と、その権利を託された者である。
それなのに、羊を養わず、かえって羊を喰いものにしているなら、やがて主は、さばきを語られる。
エゼキエル34:7 それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。
34:8 主なる神は言われる、わたしは生きている。わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、その牧者はいない。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。
34:9 それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。
34:10 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。
そこで主は、真の牧者を彼らに備える約束をされる。
真の牧者は、主ご自身である。
ここで、牧者の役割が強調されている。それは、傷ついて、弱り果てている羊を、捜し求めて,養う事だ。
エゼキエル34:11 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。
主はまことに、現代の私達にとっての真の牧者である。
私達キリスト者は、元々、罪に迷い出ている所を、主に見いだされ、探し出され、羊のおりへと抱えられ戻された者だ。
エゼキエル34:12 牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。
34:13 わたしは彼らをもろもろの民の中から導き出し、もろもろの国から集めて、彼らの国に携え入れ、イスラエルの山の上、泉のほとり、また国のうちの人の住むすべての所でこれを養う。
34:14 わたしは良き牧場で彼らを養う。その牧場はイスラエルの高い山にあり、その所で彼らは良い羊のおりに伏し、イスラエルの山々の上で肥えた牧場で草を食う。
34:15 わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。
主はやがて、全世界に散らされているイスラエルを、世界の隅々から集め、ふたたび一つの地へと連れ戻される。
エゼキエル34:16 わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。
ここに4節とは真逆の事が書かれてあり、これが、真の良き羊飼いの性質である。
当時のイスラエルは、リーダーたる者が、主に任された羊たちを誠実に養わず、その主権が奪われ、散らされてしまった。
私達に羊が任されたとするなら、主に「羊飼い力」を求め、誠実に養うべきである。
ヨハネ21:15 イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
講解説教 ミカ書
呪いを祝福へと転換させる執り成しの祈り(ミカ7章)
Youtube動画
ミカ書最終章は、ミカの嘆きで始まる。
その嘆きの理由は、神の民と呼ばれるイスラエルから、正しい人が途絶えてしまったからだ。
7:1 わざわいなるかな、わたしは夏のくだものを集める時のように、ぶどうの収穫の残りを集める時のようになった。食らうべきぶどうはなく、わが心の好む初なりのいちじくもない。
7:2 神を敬う人は地に絶え、人のうちに正しい者はない。みな血を流そうと待ち伏せし、おのおの網をもってその兄弟を捕える。
主の御前において、食べられるくだもののような、甘い実りを実らせる人は、いなくなってしまった。
いかに神の民といえども、主の御言葉から離れ、主とともに歩む事を止めると、とたんに、このような悪らつな者となってしまう。
どこまで悪い者になってしまったのか。
3節以降に書かれてある。
7:3 両手は悪い事をしようと努めてやまない。つかさと裁判官はまいないを求め、大いなる人はその心の悪い欲望を言いあらわし、こうして彼らはその悪を仕組む。
7:4 彼らの最もよい者もいばらのごとく、最も正しい者もいばらのいけがきのようだ。彼らの見張びとの日、すなわち彼らの刑罰の日が来る。いまや彼らの混乱が近い。
ここを見ると、中国共産党の特徴そのままである。
今まさに、彼らは刑罰を受け、混乱している。
しかし致命的なのは、神の民と言われているイスラエルが、そのような、神なしとしている共産主義国家のようになってしまった事だ。
共産主義国家の特徴は、5節以降にある通り、誰も信用できなくなってしまう事だ。
7:5 あなたがたは隣り人を信じてはならない。友人をたのんではならない。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。
7:6 むすこは父をいやしめ、娘はその母にそむき、嫁はそのしゅうとめにそむく。人の敵はその家の者である。
互いが互いを「ダメ出し」していると、どんどん先細りしてしまう。
ガラテヤ5:14 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
5:15 気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
そこでミカは、「しかし」と言う。
7:7 しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。わが神はわたしの願いを聞かれる。
そう、私達も告白すべきである。
それでも私は、主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる、と。
以下に続く節は、ミカの代表祈祷である。
代表祈祷とは、人々を代表し、人々を「わたし」に置き換えて祈る祈りである。
そして、このミカの祈りが、すなわち、イスラエルの民を自分自身に置き換えた、罪の告白の祈りが転機となる。
7:8 わが敵よ、わたしについて喜ぶな。たといわたしが倒れるとも起きあがる。たといわたしが暗やみの中にすわるとも、主はわが光となられる。
7:9 主はわが訴えを取りあげ、わたしのためにさばきを行われるまで、わたしは主の怒りを負わなければならない。主に対して罪を犯したからである。主はわたしを光に導き出してくださる。わたしは主の正義を見るであろう。
ミカは9節において、「わたしは主の怒りを負わなければならない。主に対して罪を犯したからである。」と、正直に告白した。
イエス様の十字架の場面で、イエス様と共につけられている強盗のひとりが、その告白をした。
そして、主に「わたしを思い出して下さい」と祈った。
たったそれだけで、彼がそれまでしてきた数々の悪行が、あたかも拭い去られたかのように、見做された。
『イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。』(ルカ23:43)
自分の罪を認める事、そして、「主に思い出して下さい」と祈る事こそ、地獄から天国への転機となる。
あたかも、それまでの悪行の数々は、無かったかのように神から見做されるのである。
7:10 その時「あなたの神、主はどこにいるか」と/わたしに言ったわが敵は、これを見て恥をこうむり、わが目は彼を見てあざ笑う。彼は街路の泥のように踏みつけられる。
転機は、まず、この地上の生活から始まる。
それまで虐げてきた側は恥をこうむり、街路の泥のように踏みつけられる側となる。
7:11 あなたの城壁を築く日が来る。その日には国境が遠く広がる。
<新共同訳:あなたの城壁を再建する日/それは、国境の広げられる日だ。>
7:12 その日にはアッスリヤからエジプトまで、エジプトからユフラテ川まで、海から海まで、山から山まで、人々はあなたに来る。
7:13 しかしかの地はその住民のゆえに、そのおこないの実によって荒れはてる。
そこに書いてある通り、主に立ち返るその時から、その人の地境がどんどん広がっていく。
それまで、「AかBかC」しか、生きる場所が無かった人、しかも、AもBもCも虐げるものとなって、行き場が無くなり自殺を考えるようになってしまった人さえ、その地境を広げ、主は、AもBもCも癒やすのみならず、EもFもGの場所も与え、さらにはHもIもJも場所を与え、そのように地境を広げて下さるのだ。
そしてミカは、主に、そのような羊飼いとなって下さい、と祈る。
7:14 どうか、あなたのつえをもってあなたの民、すなわち園の中の林にひとりおる/あなたの嗣業の羊を牧し、いにしえの日のようにバシャンとギレアデで、彼らを養ってください。
バシャンもギレアデも、ヨルダン川の東側で、2021年現在、そこはイスラエルの領土として回復されていない。
ミカは、2600年も前から、その回復を祈っていたのだ。
その祈りに対し、15節が、神様の側の回答である。
7:15 あなたがエジプトの国を出た時のように、わたしはもろもろの不思議な事を彼らに示す。
そう、主がして下さるのは出エジプト、奴隷状態からの解放であり、そのために主は、もろもろの不思議な事を示してくださる。
その結果、虐げていた異邦の民は、恥を見るようになる。
7:16 国々の民は見て、そのすべての力を恥じ、その手を口にあて、その耳は聞えぬ耳となる。
7:17 彼らはへびのように、地に這うもののようにちりをなめ、震えながらその城から出、おののきつつ、われわれの神、主に近づいてきて、あなたのために恐れる。
7:18 だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のために/とがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず、
7:19 再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。あなたはわれわれのもろもろの罪を/海の深みに投げ入れ、
7:20 昔からわれわれの先祖たちに誓われたように、真実をヤコブに示し、いつくしみをアブラハムに示される。
ミカ書の最後は、ミカの感謝と賛美で終わる。
なお、ミカとは「誰が主に似た者であるのか」、という意味であり、18節にそれがあらわれている。
ミカが特に強調しているのは、主は、赦しと憐れみの主である、という事である。
主は不義を赦し、咎をなかった事にされるお方、いつまでも怒っておらず、むしろ憐れみ、いつくしまれるお方。
私達の不義を、主は、足で踏みつけ、諸々の罪を、海の深みへと投げ入れるお方である。
このような主であられる故に、どんな罪びとにも、主にあって希望がある。
呪いが祝福へと変わるための転機は、あの十字架上の強盗のように、主の御前で自分の罪を認める事、告白し、主とのかかわりを求める事だった。
ミカのように、家族や友人のために、そして、救いたいと思っているあの人のために執りなし、そして、国家のために執り成し祈って、この地に、主の慰めをもたらす皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
講解説教 ミカ書
偽りのものさしで計り続けると、呪いが離れない(ミカ6章)
Youtube動画
主は再び、イスラエルに訴える。
6:1 あなたがたは/主の言われることを聞き、立ちあがって、もろもろの山の前に訴えをのべ、もろもろの丘にあなたの声を聞かせよ。
6:2 もろもろの山よ、地の変ることなき基よ、主の言い争いを聞け。主はその民と言い争い、イスラエルと論争されるからである。
主は山々や丘々を証人に立てて、主に逆らい続けたイスラエルを訴え、討論されるが、ここでは特に「聞け」、と繰り返されている。
5:15では、「聞き従わなかった」国々への厳しいさばきが宣言された。
主が私達に一番求めておられる事は、「聞き従う」事である。
もし私達の頭の中が、自分のしたい事でいっぱいであるなら、相手が話している間、自分のしたい、あれやこれやを考えて、聞くことができない。
私達は、主の御前において、それら、自分の考えや自分のことばを捨て、ただ、主が仰せられることばに、耳を傾けるべきである。
6:3 「わが民よ、わたしはあなたに何をなしたか、何によってあなたを疲れさせたか、わたしに答えよ。
主はなお、「わが民」と呼びかけられた。
主は、神の民がいかに裏切ったとしても、何度でも立ち返るように呼びかけられる。
「わが民」と呼ばれる彼らは、なにゆえに主を軽んじ、罪を犯し、他の神々へと向かうのか。
一体彼らは、彼らの神である主の、何が気に入らないので、主を捨てたのか。
主はそれを訴求し、主がイスラエルに為されてきた恵みのわざの数々を思い起こさせる。
6:4 わたしはエジプトの国からあなたを導きのぼり、奴隷の家からあなたをあがない出し、モーセ、アロンおよびミリアムをつかわして、あなたに先だたせた。
主が真っ先に彼らに思い起こさせたのは、主は、彼らを奴隷の家から救い出された、という事だった。
十戒が与えられた際でも、主は、それを一番最初に宣言された。
出エジプト記20:2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
それ程、主のあがないのわざは、重要であり、それは、私達にも、同じである。
私達も、奴隷状態だった。
世の、サタンの、罪の。
私達の主イエス様は、私達を、それらの奴隷状態から救い出し、買い戻して下さった。
あの十字架の上で。
主は、主から離れる全ての民に、訴求される。
一体、わたしの何が気に食わないので、わたしから離れていくのか、と。
思い起こしなさい、主はあなたを、サタンの奴隷状態から、罪という監獄から、救い出され、買い戻されたではないか、と。
6:5 わが民よ、モアブの王バラクがたくらんだ事、ベオルの子バラムが彼に答えた事、シッテムからギルガルに至るまでに/起った事どもを思い起せ。そうすれば、あなたは主の正義のみわざを/知るであろう」。
モアブの王バラクは、イスラエルを呪おうと、べオルの子バラムを金で雇った。
しかし主は、逆に、ベオルの子バラムを通して、イスラエルの民を祝福させた。
また、ここで言われているシティムはヨルダン川の東側、ギルガルは西側である。
その「シティムからギルガル」の出来事は、ヨシュア記3−4章に記されている。
すなわち、水を湛えたヨルダン川が、祭司のかつぐ契約の箱を前にそそり立ち、そのかわいた地をイスラエルの民が渡った出来事を思い起こさせている。
「それは主の正しいみわざを知るためであった。」とある通りである。
主は、罪の奴隷状態にある人を解放し、死の淵から買い戻され、祝福の地、約束の地へと導かれた。
主は、訴える者の呪いを、祝福へと変え、約束の地へと渡るために、川を枯らされた。
主はことごとく、正しいみわざを行われた。
にもかかわらず、民は主を裏切り、軽んじ、離れて行った事を、はっきりされた。
6:6 「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもって/そのみ前に行くべきか。
6:7 主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。
人は、いわゆる神と呼ばれるものに気に入られるために、いけにえや犠牲を捧げれば良い、と思っている。
実際、異教の神々の祭壇に、人間が捧げられた事も多々あった。
しかし、まことの神、主が求めておられるのは、そのような犠牲ではない。
主が求めておられる事を、主は、8節で明かされた。
6:8 人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。
主が求めておられるのは、以下の3つである。すなわち、
1,公義(ミシュパット)を行ない、
2,いつくしみ(ヘセド)を愛し、
3,へりくだって、あなたの神とともに歩む(ハーラフ)こと
公義(ミシュパット)とは、司法的に宣告された判決や正式な命令で、特に、神様の命令、御言葉をあらわす。
いつくしみ(ヘセド)とは、よく「恵み」と訳される語で、優しさや愛、人の神様に対する敬虔さであり、イスラエルの富裕層がしていた悪事、すなわち、人から搾取したり不当に取り立てる事とは、真逆である。
そして、神と共に「歩む(ハーラフ)」事。それは、全き者の、義人の条件である。
『アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に「歩み(ハーラフ)」、全き者であれ。』(創世記17:1)
だから全き者とは、罪を犯さない完全無欠な者ではなく、全きお方・神と共に歩む者なのだ。
6:9 主の声が町にむかって呼ばわる――全き知恵はあなたの(主の)名を恐れることである――「部族および町の会衆よ、聞け。
主は叫んで言われる。
主の御名を恐れることが、すぐれた知性だ、と。
十戒でも、主の御名を、みだりに唱えてはならない、と示されている通り、主の御名に対しての、恐れ敬いを持つべきなのだ。
6:10 わたしは悪人の家にある不義の財宝、のろうべき不正な枡を忘れ得ようか。
6:11 不正なはかりを用い、偽りのおもしを入れた袋を用いる人を/わたしは罪なしとするだろうか。
偽りのはかり、ごまかしをする枡が、家の中にあるままであるなら、主は「罪なし」とする事は、できない、と言われる。
どんなに、何時間、悔い改めの祈りをしても。
人生を渡り歩く上で、「のろわれた枡目不足の枡」を、物事の基準としたままでは、呪いは、離れることはない。
人の「正しいと思うこと」は、気分いかんで幾らでも変わる。しかし、主の言葉は、たとえ天地が滅んでも、変わる事はない。
だから、正しいものさしである御言葉によって物事をはかり、御言葉に従って歩まない内は、呪いがつきまとう事になる。
6:12 あなたのうちの富める人は暴虐で満ち、あなたの住民は偽りを言い、その舌は口で欺くことをなす。
6:13 それゆえ、わたしはあなたを撃ち、あなたをその罪のために滅ぼすことを始めた。
彼らは何によって富んだか。
主は指摘される。それは暴虐によってであり、住民は、うそ偽りによって歩んでいる、と。
好んで偽る者は、天の都には入れない。外に追い出されてしまう
『犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。』(黙示録22:15)
好んで偽る者は、天において呪われるばかりでなく、地上においても、呪われてしまう。
どのような呪いが来るのかが、14節以降に記されている。
6:14 あなたは食べても、飽くことがなく、あなたの腹はいつもひもじい。あなたは移しても、救うことができない。あなたが救う者を、わたしはつるぎにわたす。
6:15 あなたは種をまいても、刈ることがなく、オリブの実を踏んでも、その身に油を塗ることがなく、ぶどうを踏んでも、その酒を飲むことがない。
不正によって財を為した者は、どんなに豪勢な暮らしをしても、満ち足りる事は無い。
やがては、その、不当に得た富で成り立たせている豪勢な暮らしが、そのものが、本人自身を蝕む「しみ」となる。
ヤコブ5:1 富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。
5:2 あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、
5:3 金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。
5:4 見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。
彼らは、財産をどんなにうまく隠蔽しても暴かれる。
また、どんなに逃げたとしても、主がその者を「剣に渡す」と、言われている。
その者は、たとえ畑をつくって、耕して、植えて、収穫したとしても、それらは全部奪われてしまい、苦労の実は、全て他人のものとなる。
伝道者の書2:26 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
6:16 あなたはオムリの定めを守り、アハブの家のすべてのわざをおこない、彼らの計りごとに従って歩んだ。これはわたしがあなたを荒し、その住民を笑い物とするためである。あなたがたは民のはずかしめを負わねばならぬ」。
オムリ王と、その子アハブ王は、イスラエルにとって霊的に最悪の時代をもたらした。
彼らは不正な手段によって財を成して、象牙の家まで建てて、豪勢な暮らしをしたが、彼らの終わりは悲惨なものであった。
以上のように、6章は、手厳しい訴がなされて来たが、預言者ミカ自身、自分の民を好き好んで訴えているわけではない。
彼自身も、痛いのである。
次章でミカは、主の真実といつくしみの完成を願う祈りをする。
詩篇 講解説教
離れた者よ、帰れ(詩篇80篇)
Youtube動画
詩篇80篇表題『聖歌隊の指揮者によってゆりの花のしらべにあわせてうたわせたアサフのあかしの歌』
この詩篇の状況は、以下の状況が考えられる。
・バビロン捕囚の時
・北イスラエル王国がアッシリヤによって捕囚とされ、南ユダ王国が兄弟王国の回復と再統一を祈って歌われた
なぜなら、3、7、19節に、「私たちをもとに返し」という言葉が繰り返されているからだ。
そしてこの祈りは、神様から離れた人が、神様との交わりの回復を求める祈りでもあり、私達の祈りでもある。
なお、表題の「あかし」は、新共同訳では「定め」と訳されており、すなわち「教えのために作られた」ものである。
80:1 イスラエルの牧者よ、羊の群れのようにヨセフを導かれる者よ、耳を傾けてください。ケルビムの上に座せられる者よ、光を放ってください。
80:2 エフライム、ベニヤミン、マナセの前に/あなたの力を振り起し、来て、われらをお救いください。
エフライム、ベニヤミン、マナセは、ラケルの子孫で、北王国を代表する。
彼らは、契約の箱の西側に宿営していた。(民数記2:17-22)
かつては荒野において、主の契約と主の御言葉の近くで養われていた彼らだった。
そこへと戻してください、という祈りが、この詩篇である。
80:3 神よ、われらをもとに返し、み顔の光を照してください。そうすればわれらは救をえるでしょう。
この内容が、7、19節にも繰り返されているが、それは、民数記6:25の祝祷に通じる。
『願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれる(ハーナン)ように。』
ここの「恵み(ハーナン)」は、憐れむ、情けをかけるという意味であるが、具体的な行動を伴った、同情である。
これは、新約ギリシヤ語の「スプランギニゾマイ(はらわたがちぎれる思い)」に相当し、イエス様が、人の有様、飼い主のいない羊のように弱り果て倒れているあり様を見た時に感じた、深い憐れみ、同情である。
それでイエス様は、憐れみの働きを、その公生涯において実行された。
主が、御顔をあなたに照らし、恵まれますように。
その祝福の祈りは、主の慈愛に満ちた表情を、光のようにあなたに照らして下さるように、という祈りなのだ。
80:4 万軍の神、主よ、いつまで、その民の祈にむかって/お怒りになるのですか。
祈りは、ヘブライ語でテフィラーで、本来、ユダヤ人の祈りは、御言葉にそのまま自分の感情や願いを乗せる祈りだった。
しかし、それがいつしか、御言葉から離れた自分勝手な祈りになってしまった。
主の御言葉から離れ、主の御心から離れて、じぶんの良かれで生きた時代が、士師記の時代である。
それはそれは、荒んだ時代だった。
だから、主の御言葉から離れてはならないのだ。
80:5 あなたは涙のパンを彼らに食わせ、多くの涙を彼らに飲ませられました。
80:6 あなたはわれらを隣り人のあざけりとし、われらの敵はたがいにあざわらいました。
80:7 万軍の神よ、われらをもとに返し、われらの救われるため、み顔の光を照してください。
彼らは、御言葉から離れた故に、敵にあざけられ、良いようにされてしまった。
それで、続く8−13節で、過去の、神様の特別な扱いを思い返し、また、彼らの今の苦境を訴えている。
ここで特徴的な事は、自分たちを「ぶどうの木」と呼んでいる事だ。
私達にとっては、イエス様こそ、まことのぶどうの木であるが(ヨハネ15章)イエス様から離れるなら、切り離されて火の中をくぐる経験をしてしまう。
80:8 あなたは、ぶどうの木をエジプトから携え出し、もろもろの国民を追い出して、これを植えられました。
80:9 あなたはこれがために地を開かれたので、深く根ざして、国にはびこりました。
80:10 山々はその影でおおわれ、神の香柏はその枝でおおわれました。
80:11 これはその枝を海にまでのべ、その若枝を大川にまでのべました。
彼らが栄えた時代とは、彼らが主の言葉を忠実に守った時代だった。
ダビデの時代、ソロモンの時代の前半が、そうだった。
御言葉を守らなかった時代は、荒野の40年の時代、士師記、ソロモン以降の時代であり、守らなかった結果、敵に、いいようにされてしまう。
列王記・歴代誌は、御言葉を守り行った王の祝福された時代と、御言葉から離れた王の呪われた時代の歴史が記されている。
敵に、サタンに、いいようにされてしまう訳は、主の囲いの中で安住していれば良いものを、変な色気を出して、主の保護の外へポーンと飛び出して行くからである。
その結果が、12−13節に記されている。
80:12 あなたは何ゆえ、そのかきをくずして/道ゆくすべての人にその実を/摘み取らせられるのですか。
80:13 林のいのししはこれを荒し、野のすべての獣はこれを食べます。
石垣(ガーダル)は、包囲、壁、フェンスの意味である。
主は、その外に出て行ってしまった人を戻すため、敢えて、その人からガードを取り除かれる。
主こそまことに羊飼い、羊の門であり、主の御言葉の群れから離れるなら、いのししに、良いように、よってたかって食い物にされる。
イエス様の、囲いの内側にいるなら、安全である。だから、御言葉から離れてはならない。
80:14 万軍の神よ、再び天から見おろして、このぶどうの木をかえりみてください。
ぶどうの木は、私達・神の民を象徴する。
イザヤ5章では、甘いぶどうを植えたはずなのに、酸っぱいぶどうがなってしまった。
主にとどまらない、御言葉から離れる、とするなら、主の喜ばれる甘いぶどうの実は結ばせず、ただ、酸っぱいぶどうしか結ばせない。
それなら、切り離され、投げ捨てられ、いのししに、よってたかって食い物にされてしまう。
しかし、それは、立ち返るためには、良い体験となる。
放蕩息子のように、ヨナの魚の腹での3日間のように。
80:15 あなたの右の手の植えられた幹と、みずからのために強くされた枝とを/かえりみてください。
枝は、ヘブライ語ではベン、すなわち、息子である。
新共同訳では、そのように訳している。
自分は子である、という事を思い返すべきであり、同時に、主に思い返していただく祈りを捧げるのだ。
放蕩息子は、父なるお方の外に出て、さんざんな目にあった末、その保護の下に戻ってきた。(ルカ15章)
80:16 彼らは火をもってこれを焼き、これを切り倒しました。彼らをみ顔のとがめによって滅ぼしてください。
80:17 しかしあなたの手をその右の手の人の上におき、みずからのために強くされた人の子の上に/おいてください。
右は、力をあらわす。
かつて、主の力の御手の内に覆われて、強くされた神の民だったのに、神から離れ、御言葉から離れてしまった。
そうすると、主の御手、また主の御顔は、「とがめ」モードになってしまう。
主の御顔は、祝福ではなく、恐ろしい、災いを降り注がせるものとなってしまう。
主の御手を、御顔を、「恵み(ハーナン)」モードにするためには、御言葉に戻り、御言葉の交わりに戻る事である。
80:18 そうすれば、われらはあなたを/離れ退くことはありません。われらを生かしてください。われらはあなたのみ名を呼びます。
80:19 万軍の神、主よ、われらをもとに返し、み顔の光を照してください。そうすればわれらは救をえるでしょう。
彼らは、自分が主を裏切っている事がわからなかった。
御言葉を無視し、自分のよかれで生きていた事が、実は、主を裏切っていた、という事が。
御言葉を離れた、好き勝手な祈りを、主は、受け入れない。
主の群れから離れ、好き勝手に生きるなら、いのししに囲まれ、食い物にされてしまう事が、この詩篇に書かれてあった。
そのようになったら、すぐに主の御言葉へと戻り、主の御心は何であり、何が主に喜ばれ、何が主に忌み嫌われるのか、調べるべきである。
私達は、いつでも、主の保護下から離れず、主の御言葉どおりに歩み、祝福の法則で生きるべきなのだ。
ルツ記2:8 ボアズはルツに言った、「娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。
主の囲いの中で、御言葉の交わりの中から離れないなら、豊かに守られ、養われ、富む者となるのだ。