メッセージ - 202109のエントリ
悪霊が好んで住みたがる「物件」とならないために(ルカ11:24-26)
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ルカ11:24 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、
11:25 帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。
11:26 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」。
悪霊は人から出ていった。しかし「自分の家」に帰ろう、と言った。
悪霊にとって「家(オイコス:住処、住む場所)」とされてしまう人がいる。
どういう人が、悪霊にとって好まれる”物件”なのか?
以下に、悪霊が好む2つの分詞がある。
ルカ11:25 帰って見ると、その家は「そうじ(1,サラオー)」がしてある上、「2,飾りつけ(コスメオー)」がしてあった。
1,サラオー:ほうき等で掃いて、きれいにする事の意味。
家の中に、きたないものが、あちこち散乱していると、普通の人は不快と思う。
コンビニ弁当のプラスチックや、着てから洗濯せずに放置した服が溜まった部屋、使わなくなった家具が散乱しているような様を。
もしも、そういう状態がむしろ心地よい、という人は、悪霊に憑かれている事を、疑ったほうが良い。
なぜなら、聖霊はきよい霊であり、神は秩序の神であるのに対し、悪魔サタンは散らす者、無秩序にする者であるからだ。
悪霊には、むしろ、きたないもののほうが、好きである。
それでは、悪霊が好む「そうじ」された状態とは、どういう状態か。
何が「サラオー(掃かれて)」、きれいになってしまっているのか。
悪霊が嫌いなものとは、イエス様の御名であり、御言葉であり、聖徒たちの集いである。
つまり、悪霊から好まれる人というのは、
イエス様の御名がサラオーされて、イエス様の御名が、きれいさっぱり、無い人であり、
御言葉がサラオーされて、御言葉が、きれいさっぱり、無い人であり、
聖徒の交わりがサラオーされて、聖徒の交わりが、きれいさっぱり、無い人である。
そういう人は、悪霊にとって、住み心地よい物件、という事である。
私達はむしろ、イエス様の御名と、御言葉と、聖徒の交わりで満たし、聖霊が住みやすい物件となるべきである。
2,コスメオー:コスメの元で、飾る、整える、化粧する、といった意味。
化粧した女性は、魅力的に映るが、悪霊にとって魅力的にコスメされた人とは、どういう人か。
それは、悪霊が追い出された後、思いも心も、空白のままにして、ぼーっとしている人である。
すると、以前の、けんかしたり、酒を飲んだり、仕事せずに引きこもってゲームや動画三昧したり、不品行三昧に耽っていた、ある種の「ラク」だった頃が、むらむらと思い返されてくる。
それが、悪霊にとってコスメされた状態。
そこに悪霊が戻ってくると、悪霊にとって居心地良い物件として映り、さらに、たちの悪いのを7つ呼び寄せて来て、みんな住んでしまうので、ある日ある瞬間、突然に、以前よりもはるかに悪い状態になってしまう。
だから、悪いくせが追い出されたなら、そこを、御言葉で満たし、健全なことばで満たし、健全な働きと、健全な交わりで、満たすべきなのだ。
ヘブル10:22 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。
10:23 また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、
10:24 愛と善行とを励むように互に努め、
10:25 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。
10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。
澄んだ見方から来る明るい人生と、悪辣な見方から来る暗い人生(ルカ11:33-36)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2021-9-28 6:44
澄んだ見方から来る明るい人生と、悪辣な見方から来る暗い人生(ルカ11:33-36)
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11:33 だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
11:34 あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
11:35 だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
11:36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。
33節の、目が「澄んで」おれば、とは、目がシンプル、単純明快という意味。
つまり、ものの見方がシンプル、単純明快であるなら、その人のからだ(原文:ソーマ:霊、肉、たましい、を含めた「からだ」の全体)は、明るい。
明るい人生の源は、シンプルな見方である。
ヤコブの子ヨセフは、正直で、誠実で、そして、彼の。
ヨセフは、真理という光を、覆い隠さなかった。
彼が見た夢は、皆に隠さず、そのままを正直に伝えた。
また、兄達がした悪事には、一切加担せず、むしろ、その悪事を、そのまま正直に父に告げた。
兄たちはどうか。
自分が悪いことしたのに、悔い改めず、それを告げたヨセフを憎んだ。
イエス様は言われた。
「目が悪いと、からだも暗くなります。」
ここの「悪い」はギリシア語でポネーロス、近視とか白内障といった「悪さ」ではなく、「邪悪」「悪辣」、といった「悪さ」である。
つまり、物事を見る見方が邪悪、悪辣であるなら、その人のからだ(原文:ソーマ:霊、肉、たましい、を含めた「からだ」の全体)は、暗い。
人生の全部が暗くなるコツは、人、物、事について、邪悪な、悪辣な見方で、見る事である。
もし、人のした悪を思い続けるなら、次々と、その悪に関連する事が起きてくる。
そういう人は、どんどん人生が暗くなっていく。
しかしヨセフは、物事をシンプルに見、シンプルに言って、シンプルに行動した。
その結果、悪辣な目で見る人からひどい目にあっても、それを気にかけなかった。
彼の言葉には、「兄のせいで」「あの女のせいで」といった言葉は、一つも見いだせず、ただ「神は」という言葉だけが目立った。
だから彼という光を、奴隷仕事や牢屋という穴蔵や枡の下に止め置く事を、主が許さなかった。
11:33 だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
多くの人は、真理が示されても、覆い隠す。
しかし彼は、隠さなかった。それで、祝福された。
それで、ますます愛されるべき善い人からは愛され、
悪を行う者達からは、ますます憎まれるようになった。
そういう人は、どんどん光を放ち、燭台へと置かれていく。
たとえ、自分が、正直に真理を言った事によって、何かを言われても、何かされても、
後悔しない。
悪い事をされても、人のした悪を、悪く思わない。
そして、自分が置かれた場所で、誠実を養う。
自分がいる場所で、与えられた仕事の、最善を尽くす。
そうするなら、それまで尽くして来た物事の報いが、積もりに積もって行き、
さらにレベルアップした報いが与えられる。
11:36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。
神はまさに、ヨセフを、全く明るくした。
彼の人生は、17才から30才までは苦難続きだったかもしれないが、30才から110才までの長い間、明るく照らす者だった。
彼は、エジプトにおいては、総理大臣として、乱れた世を変える救済者、指導者とならせ、
霊的には、神の家族を大いに増やす事に、用いられた。
その当時は、70名ほどであったアブラハムの子孫を、生んで、増えて、地に満たしていくためのシステムを、ゴシェンの地につくり、アブラハムの家族を、イスラエル国家へと成長させるリーダーとした。
まさに詩篇1篇の通りである。
1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。
エゼキエル書講解説教
わたしが聖であるように、あなたも聖であれ(エゼキエル43章)
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※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
エゼキエル43:1 その後、彼はわたしを門に導いた。門は東に面していた。
43:2 その時、見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から来たが、その来る響きは、大水の響きのようで、地はその栄光で輝いた。
43:3 わたしが見た幻の様は、彼がこの町を滅ぼしに来た時に、わたしが見た幻と同様で、これはまたわたしがケバル川のほとりで見た幻のようであった。それでわたしは顔を伏せた。
43:4 主の栄光が、東の方に面した門の道から宮にはいった時、
43:5 霊がわたしを引き上げて、内庭に導き入れると、見よ、主の栄光が宮に満ちた。
エゼキエルに再び、主の栄光の幻が示された。
エゼキエルが、最初にその幻を見た時の有様は、1章に記されている。
彼はその時、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら来たのを見た。
その火の中央には、青銅の輝きのようなものがあり、4つの生き物と、そのそばに車輪があるのを見た。
その火からは、いなずまが出ていて、一つの輪が、他の輪の中にあるようで、輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。
最初の幻の時、このような圧倒的な臨在の幻の中から語られた内容は、イスラエルの罪を指摘するものであり、そして、警告であった。
エゼキエルは、その他にも、多くの警告が主から与えられ、それを伝え続けたが、結局、イスラエルはそれらを無視し、罪を離れず、好き放題の事をし続けた。
そのため、ついに、主の栄光が神殿から離れ、その後、エルサレム神殿は、悲惨なまでに、徹底的に破壊されてしまった。
それは、彼らの汚れが徹底的に拭い去られ、きよめられるためであった。
主の栄光が無い神殿は全く無意味であるのと同様に、私達という神の宮も、主の霊が宿っていないとするなら、全く無意味である。
だから私達は、聖霊を求めて祈るべきである。
しかし、彼らの汚れが、徹底して打ち砕かれ、清められた後、新しい神殿の幻が示され、そこに、主の栄光が戻って来た。
エゼキエル43:6 その人がわたしのかたわらに立った時、わたしはひとりの人が、宮の中からわたしに語るのを聞いた。
それまでは、手に、はかりざおを持った「ある人」が、この神殿の”ツアーガイド”をしていたが、それ以降、彼ではなく、主ご自身がツアーガイドとなって下さる。
エゼキエル43:7 彼はわたしに言った、「人の子よ、これはわたしの位のある所、わたしの足の裏の踏む所、わたしが永久にイスラエルの人々の中に住む所である。またイスラエルの家は、民もその王たちも、再び姦淫と、王たちの死体とをもって、わが聖なる名を汚さない。
主に聞き従わないで、偶像礼拝や不正を持ち込んだ汚れた王たちの死体が、エルサレムに葬られたことによって、そこは汚されてしまった。
ここに記されている通り、神殿は、栄光の主の玉座がある所であり、そこは、主の足の踏む所であり、そして、主が永遠に住むべき所、である。
私達という神の宮も、そうである、という自覚を持つべきであり、淫行や、死んだ行いによって汚されないように、気をつけるべきである。
かつての神殿は、淫行や高き所の王たちの死体で汚され、その汚れをきよめず、むしろ、淫行と汚れに留まり続けたため、主の栄光が離れ、神殿は破壊し尽くされてしまったからだ。
汚れた者達の汚れた行いによって汚されてしまったそれらは、一度、徹底的に破壊されてから、清められる必要があった。
エゼキエル43:8 彼らはその敷居を、わが敷居のかたわらに設け、その門柱を、わが門柱のかたわらに設けたので、わたしと彼らとの間には、わずかに壁があるのみである。そして彼らは、その犯した憎むべき事をもって、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって、これを滅ぼした。
ここに記されている具体的な内容、すなわち、イスラエルの民や長たちが、いかにして神の御住まいを汚したかの詳細が、8章で示されている。
8章で示された幻の中で、彼らは、北の祭壇の門の入口に、ねたみの偶像を置き、そこで女たちは、タンムズのために、泣きながら座っていた。
また、庭の入口の壁の中に入って行くと、そこには、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が回りの壁一面に彫られていて、イスラエルの七十人の長老が、その暗い所で礼拝していた。
さらには、主の宮の本堂の入口の玄関と祭壇との間にいた人々は、主の宮の本堂に対して背を向け、顔を東のほうに向けて、東のほうの太陽を拝んでいた。
それで主は言われた。
エゼキエル8:18 それゆえ、わたしも憤って事を行う。わたしの目は彼らを惜しみ見ず、またあわれまない。たとい彼らがわたしの耳に大声で呼ばわっても、わたしは彼らの言うことを聞かない」。
神殿が徹底的に破壊された理由は、これだけではなく、さらに多くの、汚れた事を彼らが行ったゆえだった。
エゼキエル43:9 今彼らに命じて姦淫と、その王たちの死体を、わたしから遠く取り除かせよ。そうしたら、わたしは永久に彼らの中に住む。
淫行と、死体を、取り除かなければならない、と言われたように、私達の中からも、死んだ行いと、主の御前における淫行を、取り除かなくてはならない。
取り除くなら、「わたしは永遠に彼らの中に住もう」と、9節で言われている。
エゼキエル43:10 人の子よ、宮と、その外形と、設計とをイスラエルの家に示せ。彼らはその悪を恥じるであろう。
43:11 彼らがその犯したすべての事を恥じたら、彼らに、この宮の建て方、設備、出口、入口、すべての形式、すべてのおきて、すべての規定を示せ。これを彼らの目の前に書き、彼らにそのすべての規定と、おきてとを守り行わせよ。
主が神殿を計らせ、その正確な寸法を示された理由が、ここに示された。
すなわち、彼らが、自分たちの不義を恥じ入るようになるためである、と。
実際、神殿の構造は、あらゆる点において、主の聖さが示されており、また、汚れた者は入れない事、そのガードがとても固い事が、示されていた。
私達も、きよく聖である主の宮を示されて、それに引き換え、自分自身の汚れた様も示され、恥じ入るとしたなら、それは、主の御心である。
それは、主の宮と神の臨在から、ますます離れさせるためではなく、むしろ、そこに近づくため、自分自身の不義を捨てさせるため、である。
43:12 「宮(ベイト)」の「規定(トーラー)」はこれである。山の頂の四方の地域はみな最も聖である。見よ、これは宮の「規定(トーラー)」である。
12節という節は、何気に、とても重要な事が書いてある。
『「宮(ベイト)」の「規定(トーラー)」はこれである』という宣言でサンドイッチされた、その中身は、「山の頂の四方の地域はみな最も聖である」。
「最も神聖」とは、「コデシュ(聖)」という語の反復強調である。
「宮」と訳された語ベイトは、元々の意味は「家」、あるいは「住む所」であり、すなわち、主の家、主のすみかである。
私達も、主が住まわれる宮であり、また、私達が住んでいる家やマンションについても、その場所やその周囲も、「聖」であるべき事が、強調されている。
13節以降には、祭壇のデザインと寸法が記されている。
祭壇は、神に受け入れられるべき犠牲を捧げる所であり、そこは、人の罪が清められ、神に受け入れられる者とされる所である。
また18節以降には、祭壇が建てられた際に、祭壇が「機能」するために、最初に為すべき7日間に渡るきよめの規定が、示されている。
そして、きよめのために必要なものは、傷のない動物の、犠牲の血である。
今、新約の時代における祭壇は、イエス様がかかられた十字架である。
罪や傷のないイエス様が、十字架の上で犠牲の血を流された事によって、私達は罪が清められ、神に受け入れられる者とされた。
43:27 彼らがこれらの日を満たしたとき、八日目から後は、祭司たちは、あなたがたの燔祭と、酬恩祭とを祭壇の上に供える。そうすれば、わたしは、あなたがたを受けいれると、主なる神は言われる」。
祭壇の贖いが済んだ後には、全焼のいけにえと、和解のいけにえが捧げるべきである事が示されている。
私達も、イエス様の十字架上での贖いを受けた後には、神との和解が成立し、その故に感謝をささげ、そして、私達自身を、神に受け入れられる、きよい、生きた供え物として捧げるべきである。
1ペテロ1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
以上、神殿の構成が示されたのは、それまでの罪や汚れを犯してきた私達が恥じ入り、イエス様の贖いと和解を受け入れ、私達自身が、聖となり、聖なる民として、聖なる道を歩み続けるためである事がわかる。
怠け者になる原因と特徴、そして脱却方法(箴言26:13-16)
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なまけ者の特徴は、色々ある。
何事もめんどくさいと思う、体を動かすのが嫌い、引きこもる、先延ばしにする、楽をすることが一番、寝ることが好き、時間にルーズ、人に合わせるのが嫌い、などなど。
今回は、怠け者になる原因と特徴、そして脱却方法を見ていきたい。
箴言26:13 なまけ者は、「道にししがいる、ちまたにししがいる」という。
26:14 戸がちょうつがいによって回るように、なまけ者はその寝床で寝返りをする。
怠け者は、何かいいわけを見つけて、自分のなまけ場所という「巣」をつくって、そこでごろごろする。
なぜなら、その、自分だけのテリトリーに引きこもっているなら、その時間・その場所で、主導権を握れるからだ。
ところが、一歩外へ出れば、有能な人が、主導権を握っているので、自分の思う通りに行かない。
しかも、するべき事をしない・動かない自分の「なまけざま」が、責められるので、ますます自分の巣に、自分の「思い巡らし」に、引きこもることになる。
しかし、そうやってなまけた事で費やした時間のむくいは、やがて、必ず来る。
6:9 なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。
6:10 しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。
6:11 だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。
なまけた事の報いは、貧しさと、乏しさである。
そして、霊的になまけた事の刈り取りは、永遠の火である。
悔い改めるべき時に悔い改めず、罪の飲み食いを止めない。
明日、しよう。
明日、やめよう。
すると、その「明日」は1週間後となり、1ヶ月後となり、1年後となり、10年後、30年後となり、延々と続けて、結局タイムリミットが来たしまったなら、その刈り取りをしなければならない。
怠け者の、最たる特徴は、時間をわきまえない事である。
するべき時に、するべき事を、気が向かないからといって、しない。
そうこうしているうちに、どうにもこうにも、しなくてはならなくなる時が来て、追い立てられながら、嫌々ながら、せざるをえない。
26:15 なまけ者は手を皿に入れても、それを口に持ってゆくことをいとう。
26:16 なまけ者は自分の目に、良く答えることのできる七人の者よりも、自らを知恵ありとする。
怠け者は、霊的なアドバイスというごちそうを持って言っても、それを受け入れようとしない。
むしろ、自分を知恵ある者と思い込んで、余計な見解を混ぜ込んでしまう。
怠けぐせを治すには、どうしたらよいか。
その示唆が、箴言31章10節以降に、あの有名な「しっかりした妻」の箇所に、ふんだんにある。
彼女は、まさに、怠け者の反対である。
1,まずは、行動する事。
怠け者は、まず、動きたがらないが、彼女は、行動のかたまりだ。
だから、まずは何の生産性をもたらさない寝床や「巣」を、さっさと畳んで、行動するのだ。
箴言31:15 彼女はまだ夜のあけぬうちに起きて、その家の者の食べ物を備え、その女たちに日用の分を与える。
2012年、ハンチングドットコムという所が、68000人の男女を対象に、起床後にどんな事をしているのか、また、人生への満足度や、収入との関連性を調べた所、自分でベッドメイキングをする人の、約71%の人が、「自分は幸せ」と答え、それをしない人の内、62%が、「自分は不幸だ」と答えたという。
一日が始まったら、寝床という、ぬくぬくと居心地が良い、そして何の生産性をもたらさない所を、さっさと畳んで、イエス様が用意された素晴らしい一日へと踏み出して行くのだ。
2,「よくなりたい」という意識を持つ
イエス様が、よく言われた言葉が「よくなりたいか」だった。
38年も病に伏せっていた病人は、その言葉に対し、「助けてくれる人がいません」と答えたが、イエス様は容赦なく、
「起きて、床を取り上げて、あるきなさい」
と言われた。
すると、その人は、38年も伏せっていた床を取り上げて、歩き出した。
38年も、できなかった事が、イエス様の言葉に従っただけで、できたのだ。
「よくなりたい」と思わない人は、どんなに、黄金のような怠けぐせを脱却するアドバイスをしたとしても、「めんどうくさい」、という一言で、台無しにしてしまう。
まずは、つべこべ言わず、思考停止して、イエス様に言われた通り、床を取り上げて歩くべきなのだ。
3,大切な人、守るべき養うひとを見つける。
31:27 彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。
母親になって、赤ちゃんができれば、否が応でも、赤ちゃんを養うために、動かざるを得ない。
同じように、大切な人、養うべき人、がいるなら、自分の事はともかくとして、その人のために動く。
そういう人は、「動きたくない」「かったるいな」などといった、怠けの思考は停止して、動かざるをえない。
つべこべ考えて心を病む、というような暇が無い。
大切な、養うべき人を持つ。
それは、「よくなりたい」という意識を持つ以上に、なまけを排除する要素である。
使徒20:33 わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。
20:34 あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。
20:35 わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。
主の働き人に与えられた保証と権威(マルコ16:15-18)
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今回の箇所は、福音を伝える人は、世の5つの害悪・害毒から守られ、むしろそれらを制圧し、世にいのちをもたらす事が示されている。
マルコ16:15 そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
16:16 信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。
「全世界」と訳された語はコスモス、すなわち全宇宙。
すべての「造られたもの」はクティシス、すなわち、すべての被造物。
つまり、福音(ヨゥアンゲリオン:勝利の良き知らせ)は、人間に対してだけでなく、動植物や大地、地殻、太陽など、全被造物に対して、宣言するべきなのだ。
福音を受け入れ、信じてバプテスマ(浸し込み)を受ける人は、救われる。
信じない人は、刑罰が定められている。
それは、イエス様を信じない者は、罪の赦しを受けないままの状態であり、あらゆる罪をもたらす害毒・害悪を、あい変わらずに撒き散らし続けるからだ。
マルコ16:17 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、
16:18 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。
5つのしるしはすべて、世の害悪から守られる、という「受動的」なものだけではない。
それら、害悪を攻撃し排除するという「積極的」しるしである。
福音を伝える人は、イエス・キリストの御名によって、
1,悪霊を追い出し:霊的害悪を排除する。
2,新しい言葉(数々の異言(外国語))を語り:世の、死と呪いに汚れたことばに自分自身は汚染されず、むしろ、上からの、全くあたらしい、いのちを養うことば、癒やしのことば、無秩序に対し秩序をもたらすイエス様のことばを語りだす。
3,へびをも「つかむ(アイロー:取りあげる、外す、運び出す、除去する):サタンやそれに類する者共を、そこから取り上げ、除去する権威が与えられる。
4,毒を飲んでも害を受けない:霊的な毒からも、また人の言葉から来る思考的な毒からも、また、被造物から来る毒も、打ち払い捨て、無効化し、むしろ毒の反対、いのちに有益なものをもたらす。
5,病人に手をおけば、いやされる:病にかかることから守られるのみならず、むしろ癒やす、と、主が約束された。
これら全てをまさに体現したのが、使徒パウロである。
使徒28:1 わたしたちが、こうして救われてからわかったが、これはマルタと呼ばれる島であった。
28:2 土地の人々は、わたしたちに並々ならぬ親切をあらわしてくれた。すなわち、降りしきる雨や寒さをしのぐために、火をたいてわたしたち一同をねぎらってくれたのである。
28:3 そのとき、パウロはひとかかえの柴をたばねて火にくべたところ、熱気のためにまむしが出てきて、彼の手にかみついた。
28:4 土地の人々は、この生きものがパウロの手からぶら下がっているのを見て、互に言った、「この人は、きっと人殺しに違いない。海からはのがれたが、ディケーの神様が彼を生かしてはおかないのだ」。
28:5 ところがパウロは、まむしを火の中に振り落して、なんの害も被らなかった。
28:6 彼らは、彼が間もなくはれ上がるか、あるいは、たちまち倒れて死ぬだろうと、様子をうかがっていた。しかし、長い間うかがっていても、彼の身になんの変ったことも起らないのを見て、彼らは考えを変えて、「この人は神様だ」と言い出した。
28:7 さて、その場所の近くに、島の首長、ポプリオという人の所有地があった。彼は、そこにわたしたちを招待して、三日のあいだ親切にもてなしてくれた。
28:8 たまたま、ポプリオの父が赤痢をわずらい、高熱で床についていた。そこでパウロは、その人のところにはいって行って祈り、手を彼の上においていやしてやった。
28:9 このことがあってから、ほかに病気をしている島の人たちが、ぞくぞくとやってきて、みないやされた。
28:10 彼らはわたしたちを非常に尊敬し、出帆の時には、必要な品々を持ってきてくれた。
マルタ島では、パウロがこの時植え付けた福音が、2000年経った今でも廃れず、ずっと生き続けている。
いま、私達は、新しいことば、この世とは異なったことば、すなわち神のことばを、全被造物に対して語る必要がある。
「ことば」と、病は、深い関連があるからだ。
ヘブライ語で、コロナやペストなどの感染力の強い病疫を「デベル」と言うが、それは、ことばを意味する「ダバル」と、子音が同じであり、デベル(疫病)は、ダバル(言葉)が元なのだ。
ことばには、感染力があり、拡散力があるが、デベルのみならず、悪意あるダバルからも守られるのだ。
詩篇91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病(デベル)から助け出されるからである。
詩篇91:6 また暗やみに歩きまわる疫病(デベル)をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
今、コロナ禍の中では特に詩篇91篇の守りを宣言する必要があるが、この守りは、世にはびこるあらゆる害毒を持ったことば、情報からも、守られる。
この「使徒29章」の時代、使徒パウロのように、コロナ禍にあえぐ全被造物に対し、また、人、モノ、コトに対し、イエス・キリストの勝利のよき知らせを伝え、宣言し、あらゆる呪いを、あらゆる毒を、あらゆる病を、また、あらゆる悪しき霊や悪しき言葉を、攻撃し、踏みにじり、無効化し、勝利して、イエス・キリストのいのちを、至るところにもたらして行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
悪霊を惹き寄せるコスメと、イエス様を惹き寄せるコスメ(ルカ11:14-36)
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11:14 さて、イエスが悪霊を追い出しておられた。それは、物を言えなくする霊であった。悪霊が出て行くと、口のきけない人が物を言うようになったので、群衆は不思議に思った。
11:15 その中のある人々が、「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言い、
11:16 またほかの人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。
イエス様は、様々な悪霊を追い出した。
悪霊を追い出す事や、癒やしは、良いわざであり、否定しようがない。
それなのに、それを悪くいう人がいた。それが、祭司長や、パリサイ人たち。
11:17 しかしイエスは、彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ国が内部で分裂すれば自滅してしまい、また家が分れ争えば倒れてしまう。
11:18 そこでサタンも内部で分裂すれば、その国はどうして立ち行けよう。あなたがたはわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出していると言うが、
サタンの国が、もし仲間割れしていたら、とうの昔に、その支配体制は滅んでいたはず。
けれども今、厳然と、悪の勢力は統率がとれて機能している。
どういうわけで、秩序がなさそうな悪霊どもに、統率がとれているのか。
それは、サタンが、厳然とした権威体制を強いているから。
サタンの国でさえ分裂せず統率が取れているのに、私達が、分裂して統率が取れないとするなら、それは恥ずかしい事だ。
ガラテヤ
5:13 兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。
5:14 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
5:15 気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。
だから、もし兄弟姉妹の間で、家族間で、夫婦間で、仕事場で、ビジネスにおいて、分裂しているなら、そこは、立ち行かない。
なぜなら、たとえば、10の力があるとするなら、かみあう事で3のエネルギーを使い、食い合う事で3のエネルギーを使い、残りの4で、世の戦いをして行かなくてはならないからだ。
それでは、負けてしまう。
敵意、争い、そねみ、分裂、分派、党派心、ねたみ等は、肉の実である。
それでいては、せっかく10ある力が、4になり、やがて、先細りして無くなってしまう。
むしろ、互いに愛し合い、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制があるなら、10の力が100にも1000にもなる。
だから、イエス様にあって和解するべきなのだ。
11:19 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。
当時、悪霊を追い出す祈祷師が、ユダヤ人の中にいた。
祭司長スケワの息子達がそれである。(使徒19:13-16)
だから、悪霊をベルゼブルによって追い出している、と言った、彼ら自身が、彼らをさばいているのだ。
11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。
そう、神の国は「あなたがたに」来ている。
2021年現在も、あのイエス様の時代と同じように。
神の国にあずかれない人がいるが、そのコツとは何か?
今回の箇所は、そのコツで満ちている。
それは、イエス様に対しての、こころざしが悪い人たちだ。
そういう人は、神の国に入ることができない。
11:21 強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。
11:22 しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その頼みにしていた武具を奪って、その分捕品を分けるのである。
イエス様は、はるかに強い。
そのイエス様が来て、悪霊をしばって、その人を開放するなら、その人はイエス様のとりこになる。
だから私達も、暗闇にとらわれている人たちから、イエス様の名によって悪霊や病を追い出し、ぶんどるなら、そ人は、神の国の分捕りになる。
喧嘩に勝つコツは、強い友達につく事。
別に、腕立てや腹筋して鍛えなくても、強いイエス様につくなら、どんな悪霊や悪魔にも、世のあらゆる艱難にも、勝利する。
この世の中、悲しい事や苦しい事が、色々ある。しかし、それをもたらす者よりも、はるかに強いイエス様を主としているなら、主であられるイエス様がそれを打ち破り、平安がもたらされる。
11:23 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。
「味方」と訳されたギリシア語は「メタ」、すなわち、イエス様と共にいる、というのが原意。
つまり、イエス様と一緒にいない人は、イエス様に、反対する人!
イエス様と一緒にいない、で、イエス様を揶揄する者は、集めるものでなく、散らすもの。
パリサイ人のように、悪辣な者は、せっかくイエス様がもたらした恵みを、難癖つけて、散らしてしまう。
11:24 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、
11:25 帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。
11:26 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」。
悪霊の帰る「家」とは、人の事。
「その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」と書いてある。
それでこの悪霊は、もともと取り憑いていた人のところに帰ってみると、掃除をして、きちんとかたづいていた。
ここの「かたづいていた」は、コスメオー。
その語は、コスメの元で、飾るとか、整える、という意味。
化粧した女性は魅力的に映るが、悪霊にとって魅力的にコスメされた人とは、どういう人か。
それは、悪霊が追い出された後、その思いも心も、空白のまま、ぼーっとしている人である。
せっかく悪霊が追い出されたのに、その空白を、イエス様のことばで満たさず、健全な兄弟姉妹の交わりをせず、空白のままにしておくと、また、むらむらと蘇ってくる。
以前の、けんかしたり、酒飲んだり、仕事せず引きこもったりしていた、ある種「ラク」だった頃を。
それが悪霊にとってコスメされた状態。
そこに悪霊が戻ってくると、悪霊にとって居心地良い物件、として映って、さらにたちの悪いのを7つ連れて、住んでしまう。
だから、悪いくせが追い出されたなら、そこを、御言葉で満たし、健全なことばで満たし、健全は働き、健全な交わりで満たすべき。
さもないと、以前よりももっと悪くなってしまう。
11:27 イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。
それでは、イエス様の母マリヤが幸いか?
確かにマリヤは幸いだが、イエス様は、「いや」と言われる。
11:28 しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。
ここの動詞は、現在形能動態が使われている。
すなわち、神のことばを自主的に聞き続け、それを自主的に守り続けている人達!
それが、幸いな人。
この箇所のある人は、イエス様に悪霊を追い出してもらい、癒してもらい、しるしを見た。
でも、幸いな人とは、神のことばを聞きつづけて、それを守りつづけている人たちなのだ。
11:29 さて、群衆の数がふえて来ると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。
11:30 というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。
イエス様のもとに行って、しるしを求める人に対する、イエス様の評価は、「悪い時代(ジェネア:世代)」。
だから、しるしばかり求める人は、「悪い世代」なのだ。
そのような者に対しては、ヨナのしるししか与えられない、と、イエス様は言った。
ヨナは、三日間、魚の腹にいて、祈らされ続けていた。
ヨナ2:9 しかしわたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす。救は主にある」。
ここの、「救は主にある」は、ヘブライ語では「イェシュアータ・ラ・アドナイ」。
実はここに、イエス様の名、イエシュアが、込められている。
つまりヨナは、三日間、イエス様の御名を呼び続け、そして三日後、魚の腹から吐き出され、復活し、神の国のことばを広め、多くの人を救った。
だから大事なことは、イエス様と問答し続け、イエス様のことばを聞き続けて、守り続ける人である。
11:31 南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。
シバの女王は「聞くため」にやってきた、と書いてある。
11:32 ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。
ニネベの人々も、裁く。なぜなら、ヨナの説教を「聞いて」「悔い改めた」から。
だから、心して聞いて、そして悔い改める人が、終わりの時、立つ人である。
パリサイ人達は、見た。聞いた。
が、信じないどころか、イエス様を、ベルゼブル呼ばわりした。
そういう人は、終わりの時代、ニネベの人々や、南の女王から、裁かれてしまう側の人である。
11:33 だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。
ここで、「あかり」について言っている。
あかりはレクノス。ルクスの元で、ランプという意味である。
ランプが灯った、それを、覆い隠す?
そんな事する人はいない。
ましてや、昔のランプは、火を使っている。
そんな事する人、いないはず、なのに、なんでイエス様は、そんな事を言われたか。
それは、あえて隠す人が、いるからだ。
あえて、イエス様の御言葉に、覆いをかける人が。
そんな事をしたら、火がついて、苦しみの内に倒れる、とイザヤ書50章に書いてある。
イザヤ50:10 あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。
50:11 見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。
11:34 からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。
目が「健全なら」の原意は「単純明快なら」「シンプルなら」という意味。
そうであるなら、全身は明るく、人生は明るい。
しかし、目が悪いと。。。
ここの、目が悪い、とは、近眼だとか、白内障だとかの「目が悪い」ではない。
ここのギリシア語はポネーロス。
それは、邪悪とか、悪辣という意味。
だから、目が、悪辣なら、邪悪なら。。。
すなわち、人をみるたびに、あいつは悪霊のかしらだ、とか、偽善者だ、とか、きっと心では悪いことを考えているのだ、とか、そういった、悪辣な目で人、モノ・コトを見る人は、からだ全体が暗い、とイエス様は言われる。
実際、人をみるたびに、ウソつきだとか、心の中で悪く思っているのだ、とかいった目でみているなら、実際、からだが不健康になり、そういう人の人生は、全てが暗い。
14節では、悪霊を追い出しているイエス様をベルゼブルだとか、悪い目で見ている人たちがいた。
その言葉自身が、その人本人について、証明してしまっている。
11:35 だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。
11:36 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」
目が単純明快な、シンプルな人こそ、救いから遠く離れていない。
だから、ものの見方において、シンプルであるべきである。
幸いな人とは、自ら聞いて、自ら守る人だとも言われた。
私達は、聞いたならシンプルに守り行うべきだ。
イエス様によって、悪霊が追い出され、悪習慣が追い出されても、何もせず放置するような、悪霊にコスメするような者ではなく、むしろ、御言葉を心して聞いたなら、それを思い巡らす、という、イエス様に好まれるコスメで、いつも身を飾る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
エゼキエル書講解説教
聖と俗とを区別せよ(エゼキエル42章)
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※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
42章では、祭司たちのための施設について、また、聖なる領域について示されており、聖と俗とを区別するべき事が、特に強調されている。
1-9節には、内庭の北側に配置するべき祭司のための建物の構成と寸法が示されており、10-12節は、南側の建物について示されている。
南側の建物も、北の建物と、寸法や構成は一緒である。
それらの建物は、北と南が通路で分断された三階建ての建物であり、これらの施設の用途は、13-14節に示されている。
42:13 時に彼はわたしに言った、「庭に面した北の室と、南の室とは、聖なる室であって、主に近く仕える祭司たちが、最も聖なるものを食べる場所である。その場所に彼らは、最も聖なるもの、すなわち素祭、罪祭、愆祭のものを置かなければならない。その場所は聖だからである。
42:14 祭司たちが、聖所にはいった時は、そこから外庭に出てはならない。彼らは勤めを行う衣服を、その所に置かなければならない。これは聖だからである。彼らは民衆に属する場所に近づく前に、他の衣服を着けなければならない」。
この建物の用途は、主に近づく祭司たちが、最も聖なるささげ物を食べる所、すなわち、穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえの、祭司の分を食べるべき所であり、また、祭司が装束を着替えるべき所でもある。
つまり、祭司たる者は、食物においても、着物においても、聖別された者として、自分自身をキープしなければならない。
神殿にて、神仕える祭司が食べる捧げものの肉は、単なる食物ではないし、また、その場所において食べる行為は、単なる飲み食いではない。
それは、主へ捧げられた犠牲を覚える、聖なる行為である。
そのために主は、わざわざ、聖なる敷地の一角に、祭司がそれをするための建物を指定されたのだ。
私達・キリスト者は、現代の祭司である。
パウロは警告している。
教会において、われ先にと飲み食いして、自分だけ満腹で酔っていて、他の人を、空腹のままにしておくような者に対して。
1コリント11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。
パウロは続いて、主が制定された聖餐を説明する。
旧約で、祭司は、犠牲の捧げものは定められた聖なる所で食べるように、と、指示されていた。
同様に、新約聖徒は、罪の犠牲となられ、和解のいけにえとなられたイエス様のみからだであるパンを共に食べ、イエス様の流された血であるぶどうの実で作った飲みものを、共に飲むのである。
11:25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
11:26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。
ここでイエス様が繰り返し言われた、大事な事は、「わたしを覚えて、これを行いなさい」である。
聖餐をあずかるに「ふさわしくない」者とは、イエス様の尊い十字架でのみわざを覚えない者、みからだをわきまえない者である。
よく、自分は罪をたくさん犯したから、この聖餐にあずかるにふさわしくない、と、勘違いする人がいる。
もし罪をたくさん犯した、というのであるなら、なおさら、罪人の身代わりに十字架上でみからだを割いてくださったイエス様の肉にあずかるべきであり、罪を清める血にあずかるべきである。
だから、私達・新約聖徒は、教会における飲食は、キリストのからだを覚えつつ、わきまえて行うべきである。
そうでない者、すなわち、イエス様のみからだをわきまえないで飲み食いした者は、どうなったか。
1コリント11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
11:30 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。
コリント教会の中には、みからだをわきまえない飲み食いによって、弱った人や、病気になった人が、大ぜいおり、また眠った(死んだ)者も少なくない、というのは、恐るべき事である。
キリストを覚えず、教会に、単に飲み食いだけのためだけに来ていたような人は、弱くなったり、病につきまとわれたり、さらには、死んでしまったのだ。
だから、パウロは注意している。
1コリント11:33 それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。
11:34 もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。
エゼキエルはさらに、聖と俗の境界を示される。
エゼキエル42:20 彼が外壁の回りを巡って四方を測ると、その長さは五百さお、幅も五百さおで、聖なるものと俗なるものとを区別していた。
区別がある。
聖と、俗との。
主は、聖なるお方である。
だから、自分自身をきよくしようとしない者は、神を見る事はできない。
実際、黙示録で示される天国は、汚れた者は入れない、と書いてある。
また、レビ記には、みずからを清めないまま主の御前に出るなら、打たれてしまった事が、書いてある。
神殿は、主と出会う場所であり、汚れた者は、入れない。
エゼキエルに示された神殿は、特に、汚れに対しては、ガードが固かった。
私達も、主と出会いたい、という事であるなら、まず自分自身を清める必要がある。
2コリント6:14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
6:16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
6:17 だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
6:18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。
ここの14節で言われている事は、不信者とは一切出会うな、という事ではない。
「不信者と、つり合わないくびきを共にするな」である。
私達は、世に出て、信じていない人を、信じる人とするために、宣教へ出ていくつとめがあるが、それは、自分を不信者の側へと合わせたり、不信者といっしょくたになって、共同で罪を犯したり、不正に手を染めたりしてはならない、という事である。
自分をきよくしている人が、汚れた人に触れるなら、相手の汚れがk自分に移って汚されてしまうのである。
人は、罪や汚れに弱いものである。
アルコール依存症の人を救おうとして、彼らの気持ちを理解しようと自分もアルコールを飲むなら、やがて、自分もアルコール依存症になってしまうものだ。
唯一の例外は、イエス様である。
長血(不浄の病とされている)に12年もかかっていたある女が、イエス様ならきっと、わたしを救って下さる、という信仰をもちながら、イエス様の衣のふさに触れた。
通常なら、汚れた人がきよい人に触れるなら、触った相手を汚してしまう。
しかしこの時、逆の事が起きた。
イエス様に触れた女のほうが清められ、その不浄の病が癒やされたのだ。
イエス様が、この、汚れに満ちた人の世に降りて来られたのは、ただ、一方的な恵みである。
こんなにも罪に汚れて、きよい神とは、ほど遠いような、そんな私達に向かって、イエス様は、天を押し曲げて降りてこられた。
それで私達は、イエス様に出会い、イエス様を信じ、救われたのだ。
私達は、イエス様の名前によってこそ、父なる神とお会いする事ができるのだ。
それが示された以上、私達は、いつまでも汚れに留まっていてはならない。
イエス様は、つまずきを与える者や、不法を行なう「主のしもべ」を、御国の中からから取り集めて外の暗闇に追い出すので、彼らは泣いて歯ぎしりする、と言われた。
聖と俗とを区別し、汚れを捨てて、いつも自分をきよくし、聖なる敷地の中で、聖なる祭司としていつも主と出会い続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
祝福のための呪いの宣言(申命記27:11-26)
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27:11 その日またモーセは民に命じて言った、
27:12 「あなたがたがヨルダンを渡った時、次の人たちはゲリジム山に立って民を祝福しなければならない。すなわちシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフおよびベニヤミン。
27:13 また次の人たちはエバル山に立ってのろわなければならない。すなわちルベン、ガド、アセル、ゼブルン、ダンおよびナフタリ。
27:14 そしてレビびとは大声でイスラエルのすべての人々に告げて言わなければならない。
27:15 『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。
約束の地に入った時には、12の呪いの宣言と、それに対する民の「アーメン」の宣言をしなさい、と命じられている。
申命記11:29 あなたの神、主が、あなたの行って占領する地にあなたを導き入れられる時、あなたはゲリジム山に祝福を置き、エバル山にのろいを置かなければならない。
ここで、(祝福と呪いを)「置く」のヘブライ語は「ナタン」、与える、付与する事を意味する。
つまり、トーラーを宣言し、アーメンする事は、祝福と呪いを付与する行為なのである。
だから、レビ人が「**する者は呪われる」、と、12ののろいの言葉を大声で宣言し、民が、それにアーメンを発した時、その祝福と呪いが効力を発するようになるのだ。
27:14 そしてレビびとは大声でイスラエルのすべての人々に告げて言わなければならない。
27:15 『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。
27:16 『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:17 『隣人との土地の境を移す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:18 『盲人を道に迷わす者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:19 『寄留の他国人や孤児、寡婦のさばきを曲げる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:20 『父の妻を犯す者は、父を恥ずかしめるのであるからのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:21 『すべて獣を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:22 『父の娘、または母の娘である自分の姉妹を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:23 『妻の母を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:24 『ひそかに隣人を撃ち殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:25 『まいないを取って罪なき者を殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:26 『この律法(トーラー)の言葉(ダーバル)を「守り(クム)」「行わ(アーサー)」ない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
ここの「守る」(クム)は、立つ、従う、確認する、参加する、保つ、の意味の、ヒフィル態未完了形。
ヒフィル態とは、『〜させる』という、使役動詞である。
つまり、トーラーの御言葉は、自分の意志でする、のではなく、「させられる」ものであるのだが、それを拒否する者は、呪われる、という意味である。
だから、呪われる人とは、
父母や霊的指導者によって、
御言葉に、立たせられる事を、拒否する人。
御言葉に、従うように、させられる事を、拒否する人。
御言葉を、確認するように、させられる事を、拒否する人、
御言葉に、参加させられる事を、拒否する人。
御言葉を、保つように、させられる事を拒否する人、
この箇所の宣言には、ひたすら、呪いしか無い。
御言葉を記す石灰で塗られた石が置かれるのも、呪いを置くエバル山のほうだった。
しかし、これを行うのは、祝福するため、と書いてある。(Jos_8:33)
結局、そのような事を、しない事、が、祝福なのである。
詩篇1:1にも、ある。
幸いな人とは、3つの「ず」の人だった。
詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
人の世には、否応もなく、死がある。
なぜなら、罪の代価は死である、と書いてあるからだ。
私達に苦しみがあるのは、そのためである。
解決方法は、一つしか無い。
すなわち、私達が、罪を犯した、という事を、後悔する思い、と、罪を離れたい、という決心をもって、イエス・キリストに「赦して下さい」、と言う告白である。
イエス様は、私達に追い迫ってくる死を、解決するために、きてくださった。
私達がそれを告白するなら、告白したゆえに、私達の死に値する罪を、イエス様は御身に移し、十字架の上で、処罰して下さった。
呪いの宣言は、罪を避け、祝福を受け継ぐため。
罪は、見ないふりをしたり、臭いものに蓋をしたり、また、仕方ないと言って開き直ったりしているなら、呪いは留まったままである。
私達は、犯した罪をそのままイエス様に告白し、赦していただき、もうそこに戻らない事、そのものが、祝福なのだ。