メッセージ - 202109のエントリ

早天祈祷会

のみを当てない石の祭壇で捧げる礼拝(出エジプト記20:22-26)

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参照箇所:
 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

ヨセフのように地に住み誠実を養う(創世記40章)

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この時代、主から大いに用いて頂く器となるためにどうすればいいか?
地に住み、誠実を養ったヨセフから学びたい。

 

エゼキエル書講解説教

天国を思わせる神殿(エゼキエル41章)

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※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
 
41章は、いよいよ、神殿の本堂の中へと入っていく。
 
この度の箇所のように、神殿の詳細を読んでいく時、聖霊の助け無しに読むなら、自分とは何ら関わりのない、無機質な設計図を読んでいるかのような「つまらなさ」を覚えるだろう。
しかし、聖霊という”ツアーガイド”つきであるなら、その情景がありありと浮かび、あたかもそこが、自分がこれから入居する素晴らしい邸宅を内覧しているかのような、うきうきとした喜びに浸しこまれていく。
 
この箇所に限らず、私達は聖書を読む時、聖霊のガイドに従って読めるように、求めるべきである。
 
 
41:1 彼がわたしを拝殿に連れて行って、脇柱を測ると、こなたの幅も六キュビト、かなたの幅も六キュビトあった。
41:2 その戸の幅は十キュビト、戸のわきの壁は、こなたも五キュビト、かなたも五キュビトあった。彼はまた拝殿の長さを測ると四十キュビト、その幅は二十キュビトあった。
 
神殿の戸の幅は、奥へ入っていくにつれ、どんどん狭くなって行く。
(玄関の幅は14キュビト、聖所は10キュビト、至聖所は6キュビト)
 
この神殿の構造自体が、礼拝者の心を整えて行く構成となっている。
神殿の階段も、外から内へ入るにつれ、どんどん段数が多くなって行ったよう。
階段を登るごとに、礼拝者の心を「上」へと向けさせられ、また、狭い戸をくぐって行くごとに、礼拝者の心は、どんどん低くへりくだらせていく。
 
 
41:3 彼がまた内にはいって、戸の脇柱を測ると、それは二キュビトあり、戸の幅は六キュビト、戸のわきの壁は七キュビトあった
 
至聖所の戸は、6キュビトと、今までの門の中では、一番狭い。
そう、聖なる領域へ入る門は、狭いのだ。
 
イエス様は、心して、せまい門から入りなさい、と言われた。(マタイ7:13)
滅びに至る門は広く、ラクであり、その道を行く人は多いが、その向こうは、聖なる場所ではないし、聖なるお方も、おられない。
その道は、滅びに通じる道だからだ。
 
しかし、イエス様は言われた。
『わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。』(ヨハネ10:9)
 
イエス様という、あまり人々が見いださない「狭い門」から入った向こうには、天国があり、神様との永遠の交わりがあり、永遠の喜びがある。
それ故私達は、イエス様にあって、永遠の祭司となるのである。
 
 
41:4 彼はまた拝殿の奥の室の長さを測ると二十キュビト、幅も二十キュビトあった。そして彼はわたしに、これは至聖所であると言った。
 
至聖所のサイズは、ソロモン神殿と同じである。
ソロモン神殿には、六百タラントに当たる良質の金がかぶせてあったが(2歴代誌3:8)、この神殿は、金や銀などの貴金属や宝石などの飾りについては、一切、触れられていない。
 
 
続いて聖所の外側の、脇間の説明に入る。
 
41:5 彼が宮の壁を測ると、その厚さは六キュビトあり、宮の周囲の脇間の広さは、四方おのおの四キュビトあり、
41:6 脇間は、室の上に室があって三階になり、各階に三十の室がある。宮の周囲の壁には、脇間をささえる突起があった。これは脇間が、宮の壁そのものによってささえられないためである。
 
神殿の外を覆う壁の厚さは、3メートル強で、かなり厚い。
モーセの幕屋の骨組みは、アカシヤ材の板が、基本的な構成物となっていて、板一枚につき2個の銀の台座で支えられていたが、それとは比べ物にならないほど、頑強だ。
 
脇間は、神殿をぐるっと回る回廊状にめぐらされ、1フロアごとに30あり、それが3フロアあるので、合計、脇間は90もある事になる。
そこは、色々なものを保管したり、あるいは、奉仕者が色々な用途に用いる事ができるだろう。
 
天国には、イエス様が用意された部屋が、たくさんある。
イエス様は、言われた。
 
『わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。』(ヨハネ14:2-3)
 
 
バビロン捕囚から帰還した民は、ゼルバベルを中心に、神殿を再建したが、総督であるネヘミヤが不在の時、代行していた者は、神殿の聖なる部屋を、トビヤという、神の民をあざける異邦人のために都合つけ、あてがっていた事が発覚した。(ネヘミヤ記13章)
神の民をけなす者の私物を、聖なる神殿の一室に置く・・・それは、相当根深く隠れたつながりでも無い限り、ありえない事である。
 
『わたしは非常に怒り、トビヤの家の器物をことごとくそのへやから投げだし、命じて、すべてのへやを清めさせ、そして神の宮の器物および素祭、乳香などを再びそこに携え入れた。』(ネヘミヤ13:8-9)
 
ネヘミヤは憤って、きよめを遂行したが、私達という神の神殿は、どうだろうか?
罪との隠れた、根深いつながりは、無いだろうか?
私達の心の部屋、頭の部屋には、トビヤの私物を、放置していないだろうか?
 
「ネヘミヤ」の名の意味は「主の慰め」、すなわち、慰め主・聖霊と同じ名である。
もし私達が、世と妥協し、この私達という宮に、あえて、汚れた情報や思考を取り入れ、蓄えるなら、聖霊は憤られる。
そして、宮をきよめるために、強制力を発動される。
 
私達も、自分自身という宮を見張る事を怠り、トビヤの私物のような汚らわしいものを、自分の中に蓄え、のさばらせているなら、ネヘミヤの時代にあったように、少々、手厳しい扱いを受けるだろう。
ものすごく恥ずかしい思いをするか、何か大きな損失を被るか、、、。
ともかく、大々的な「きよめ」という”霊的ガサ入れ”が入る。
 
 
41:7 脇間は、宮の周囲の各階にある突起につれて、階を重ねて上にいくにしたがって広くなり、宮の外部の階段が上に通じ、一階から三階へは、二階をとおって上るのである。
 
この脇間は、階を上がって行くにつれて、全体的に広くなっていった。
私達という神殿の内部屋、すなわち、私達の思いや心は、礼拝へと登るにつれ、すなわち、天に近づくにつれ、イエス様へと近づいて行くにつれ、どんどん広まって行く。
それまで、「狭い」と思っていた自分自身の心が、内側が、イエス様にあってどんどん解放され、どんどん広く、開放されて行くからだ。
 
 
41:8 わたしはまた宮の周囲に高い所のあるのを見た。脇間の基を測ると、六キュビトの一さおあった。
41:9 脇間の外の壁の厚さは五キュビト、あき地になっている高い所は五キュビトあった。宮の高い所と、
41:10 庭の室の間には、宮の周囲に、広さ二十キュビトの所があった。
 
神殿の脇間は、このように、高い基の上に据えられ、その周囲は広々としていて、開放感がある。
もし、私達がよく見張り、汚れたものを自分に入れず、聖なる様相を保ち続けるなら、私達という神殿の「心」という脇間も、どっかりとした土台の上に据えられ、広々と、開放感がある者となって行くのだ。
 
 
41:12 西の方の宮の庭に面した建物は、幅七十キュビト、その建物の周囲の壁の厚さは五キュビト、長さは九十キュビトであった。
 
この、西側の、すなわち、神殿の後ろ側の、結構大き目の建物は、モーセの幕屋や、ソロモン神殿には、無い建造物である。
 
 
41:13 彼が宮を測ると、その長さは百キュビトあり、その庭と建物と、その壁は長さ百キュビト、
41:14 また宮の東に面した所と庭との幅は百キュビトであった。
41:15 彼が西の方の庭に面した建物と、その壁の長さを測ると、かなた、こなたともに百キュビトであった。宮の拝殿と、内部の室と、外の廊とには、羽目板があった。
41:16 これらの三つのものの周囲には、すべて引込み枠の窓があり、宮の敷居に面して、宮の周囲は、床から窓まで、羽目板であって、窓には、おおいがあった。
 
この神殿の描写は、ソロモン神殿の描写に比べれば、飾りっ気が無く、非常にシンプルである。
 
 
41:17 戸の上の空所、内室、外室ともに、羽目板であった。内室および拝殿の周囲のすべての壁には、同じように彫刻してあった。
41:18 すなわちケルビムと、しゅろとが彫刻してあった。ケルブとケルブとの間に、しゅろがあり、おのおののケルブには、二つの顔があり、
41:19 こなたには、しゅろに向かって、人の顔があり、かなたには、しゅろに向かって、若じしの顔があり、宮の周囲は、すべてこのように彫刻してあった。
41:20 床から戸の上まで、ケルビムと、しゅろとが、壁に彫刻してあった。
 
天国には、2種類の木が登場する。
一つは、いのちの木であり、もう一つは、しゅろ(なつめやし)の木である。(黙示録7:9)
 
聖所の内側の彫刻には、若獅子と、人とが、しゅろの木のほうを向いている。
神殿内の飾りと言えば、ただ、それだけだ。
シンプルといえども、まことに、黙示録を連想させる彫刻である。
 
『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族の獅子、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。』(黙示録5:5)
 
『その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と/小羊からきたる」。
』(黙示録7:9-10)
 
 
41:21 拝殿の柱は四角であった。聖所の前には、木の祭壇に似たものがあった。
41:22 その高さは三キュビト、長さは二キュビト、幅は二キュビトで、すみと、台と、壁とは、ともに木である。彼はわたしに言った、「これは主の前にある机である」
 
この、聖所の中の、いや、聖所と至聖所に見られる、唯一の器物は、主の前にある「机(シュルカーン:食事などを置くテーブル)」だけである。
その材質は木だけであり、寸法は、高さ150cm強、長さ・幅は、共に60cm強である。
 
モーセの幕屋や、ソロモンの神殿の聖所には、3つのアイテムがあった。
すなわち、供えのパンの机と、香の祭壇と、燭台(メノラー)が。
それに対し、この聖所に置かれたものは、いや、至聖所も含めて、この聖なる神殿の中に唯一、言及された器物は、これだけなのだ
まことに、私達の目には、謎の多い神殿だ。
 
 
41:23 拝殿と聖所とには、二つの戸があり、
41:24 その戸には、二つのとびらがあった。すなわち二つの開き戸である。
41:25 拝殿の戸には、おのおのにケルビムと、しゅろとが、彫刻してあって、それは壁に彫刻したものと同じである。また外の廊に面して、木の天蓋があり、
41:26 廊の壁には、こなたかなたに引込み窓と、しゅろとがあった。
 
聖所と至聖所の間の戸は、折りたたみ式の戸で、そこにも同様に、ケルビムと、しゅろの彫刻が為してある。
 
 
以上、この神殿を探索するに、謎と思える事が、いくつかあった。
 
モーセの幕屋や、ソロモンの神殿の、聖所内の香壇は、金が被せられていたのに、エゼキエルが見たこの神殿には、金や銀など高級品の記述は、一切見られない。
また、寸法と材料は書いてあっても、用途が書かれていないものも幾つかあった。
 
分かっている事は、この神殿は、ガードが非常に固いという事と、豪華絢爛なものは記されていないにしても、ゆったりとしていて、何か、天国を思わせる雰囲気がある。
 
主は言われる。
わたしはすぐに来る。あなたの冠を誰にも奪われないよう、あなたの持っているものをしっかり持っていなさい、勝利を得る者を、神の聖所の柱としよう、と。(同11-12節)
 
主イエスの血によって、御前に近付く者は、至聖所の本体に入るのである(ヘブル9:24-25,10:19-22)。

エゼキエル書講解説教

与えられた堅固な神殿の幻(エゼキエル40:5-49)

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※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
 
40章以降は、回復された神殿の完成形が、その用途や寸法まで示されており、まずは外側から内側へと進んで行く方向で、その神殿の説明が進んでいく。
 
5-16節は、神殿の外側を巡る壁と、東向きの門の説明である。
 
40:5 見よ、宮の外の周囲に、かきがあり、その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。彼が、そのかきの厚さを測ると、一さおあり、高さも一さおあった。
 
ここで使われているキュビトは、通常のキュビトに、一手幅加えられたもの、そのキュビトは、52cmほどである。
つまり神殿の外側は、およそ3.1mの高さと幅の壁によって、区切られている事になる。
 
神殿の原型は、荒野でモーセに示された幕屋であったが、モーセの幕屋と比べれば、随分、ゴージャスになっている。
モーセの幕屋は、内側と外側を区切る幕の高さは5キュビト、およそ2,25mなので(出エジプト記27:18)、少し背の高い人がジャンプすれば幕屋の内側が見えてしまう。
また、亜麻の撚糸の布製で、押し入ろうとするなら、押入れてしまいそうな材料でできている。
 
しかし、この神殿の外壁は3m以上の、高さと、幅で仕切られている。
ちょっとした城壁に匹敵するような高さと厚さだ。
またこの神殿には、東、北、南の指定された入口からしか入れず、門も、しっかりしたセキュリティの構造となっている。(後述)
 
40:6 彼が東向きの門に行き、その階段を上って、門の敷居を測ると、その厚さは一さおあり、
40:7 その詰め所は長さ一さお、幅一さお、詰め所と、詰め所との間は五キュビトあり、内の門の廊のかたわらの門の敷居は一さおあった。
40:8 門の廊を測ると八キュビトあり、
40:9 その脇柱は二キュビト、門の廊は内側にあった。
40:10 東向きの門の詰め所は、こなたに三つ、かなたに三つあり、三つとも同じ寸法である。脇柱もまた、こなたかなたともに同じ寸法である。
 
神殿の正面は、東であり、神殿の外庭へと入って行くための玄関の両側には、それぞれ、3つの控え室、合計6つの部屋がある。
これは門衛の詰所であり、神殿に入る人は、そこでしっかりとチェックされる事になる。
 
 
40:11 門の入口の広さを測ると十キュビトあり、門の長さは十三キュビトあった。
40:12 詰め所の前の境は一キュビト、かなたの境も一キュビトで、詰め所は、こなたかなたともに六キュビトあった。
40:13 彼がまたこの詰め所の裏から、かの詰め所の裏まで、門を測ると、入口から入口まで二十五キュビトあった。
40:14 彼がまた廊を測ると二十キュビトあり、門の廊の周囲は、すべて庭である。
40:15 入口の門の前から内の門の廊の前まで五十キュビトあり、
40:16 詰め所と、門の内側の周囲の脇柱とに窓があり、廊の内側の周囲にも、同様に窓があり、脇柱には、しゅろがあった。
 
門という”建物”は、横25キュビト(13m弱)、奥行き50キュビト(25m強)、門柱は60キュビト(30m強。口語訳には記述なし)。
その門という建物の内側には、門衛の詰所が左右3つづつあるので、結構壮麗な門である事がわかる。
 
 
続いて17-19節に、外庭についての説明がある。
 
40:17 彼がまたわたしを外庭に携え入れると、見よ、庭の周囲に設けた室と、敷石とがあり、敷石の上に三十の室があった。
40:18 敷石は門のわきにあり、門と同じ長さで、これは下の敷石である。
40:19 彼が下の門の内の前から、内庭の外の前までの距離を測ると、百キュビトあった。
 
つまり、神殿の外庭をぐるっと囲む形で、合計30の部屋があるのだ。
また、外側の門から、内庭の外の端までの距離は、100キュビト(50m強)である。
という事は、この神殿の外庭の門から内庭までの間に、モーセの幕屋が、すっぽりそのまま入るような広さである。
(モーセの幕屋の外庭の寸法は、古いキュビトで長さ100キュビト(45m弱)、幅は50キュビト(22m強)。出エジプト記27:18)
 
また、北向きの門については、20-23節に、南向きの門について24-27節に、それぞれ記されているが、それらの門は、寸法も、成り立ちも、東の門と同じである。
 
 
外庭から内庭へと入るには、南、東、北にある「内庭の門」を通らなければならない。(28-37節)
その寸法も成り立ちも、外庭の門と同じであるが、階段の段数が違う。
外庭の門の段数は7段であるが、内庭の門の階段は、8段で、より高い所に内庭があるのだ。(31節)
 
内庭の東の門についての説明は、32-36節にあり、内庭の北の門についての説明は、35-37節にあるが、いずれも寸法は同じで、それぞれの階段の段数は、8段である。
 
 
38-43節では、北側の内門のところに、いけにえを捧げる際に用いる祭具についての説明が続く。
 
40:44 彼はまたわたしを、外から内庭に連れてはいった。見よ、内庭に二つの室があり、一つは北の門のかたわらにあって南に向かい、一つは南の門のかたわらにあって、北に向かっていた。
 
日本語の聖書には無いが、ヘブライ語の聖書では、これら2つの部屋は「歌うたい(ヘブライ語:シィール)」のための部屋、とある。
(KJVでは、chambers of the singers)
 
40:45 彼はわたしに言った、この南向きの室は、宮を守る祭司のためのもの、
40:46 また北向きの室は、祭壇を守る祭司のためのものである。その人たちは、レビの子孫のうちのザドクの子孫であって、主に近く仕える者たちである。
 
ツァドクの子孫こそ、正当な祭司の家系である。
 
ツァドクは、エルアザルの子ピネハスの子孫で(エズラ7:1-5)、ピネハスは、とても主に熱心であった。
イスラエルが、異邦の女と淫らな事をしていた時、それを排除した事によって、主の賞賛を受け、彼の子孫は永遠に祭司職となる、という約束を、主からいただいていた。(民数記25:10-13)
 
ツァドクから生まれた子孫の中には、偉大な指導者・エズラがいる。(エズラ7:1-5)
彼は、バビロン捕囚から帰還した時、信仰伝授教育であるテフィリン教育を指導し、そのおかげで、ユダヤ人の信仰は、世界中に2500年も離散していたにもかかわらず、現代に至るまで、変わらず信仰が伝授され続けて来た。
 
このように、ツァドクの子孫は、主の聖所の任務を忠実に果たした、という賞賛をいただいた故(エゼキエル44:15)、彼らは祭壇のつとめが与えられ、主の近くで主に仕える栄誉にあずかったのだ。
 
 
40:48 彼がわたしを宮の廊に連れて行って、廊の脇柱を測ると、こなたも五キュビト、かなたも五キュビトであり、門の幅は十四キュビトである。門の壁は、こなたも三キュビト、かなたも三キュビトである。
40:49 廊の長さは二十キュビト、幅は十二キュビトであり、十の階段によって上るのである。脇柱に沿って、こなたに一つ、かなたに一つの柱があった。
 
いよいよ神殿の玄関口の寸法である。
口語訳と新共同訳では、そこの階段は10段、とあるが、それは七十人訳を元にしているもので、ヘブライ語聖書には「10段」という表記は無い。
 
いずれにしても、外庭の門に入るためには7段登り、内庭の門に入るのに、さらに8段登り、そして神殿へと入るには、さらに階段を登らなくてはならない。
神殿の階段が10段だとしたら、外界よりも、25段高い事になる。
 
 
今回の神殿は、城壁のような壁と、いくつもの門衛の詰所によってガードされていた。
ソロモン神殿を建築する箇所では、豪華絢爛さが強調されていたが(2歴代誌1-5章)、信仰のガードが甘かった。
それ故、彼らは、世の汚れた情報や、汚れた宗教の侵入を許して、それを手放さなかったため、ついに主は、神殿にバビロンの侵入を許可し、豪華絢爛なもろもろは、徹底的に破壊されてしまった。
 
この有様から、私達が受けるべき養いは、私達という神殿は、きよい、聖なるものとして、しっかり外界と境界線を引いてガードし、私達自身を、神に受け入れられる、生きた供え物として、捧げるべき事である。
金銀宝石といった豪華絢爛さを求めるよりも、むしろ、ガードする事をこそ、求めるべきなのだ。
私達の、目という門をガードし、耳という門をガードし、世の汚れた情報や言葉を、心の中への侵入を許さず、口という門からは、良い食べものを口に入れ、きよい、いのちの水のような御言葉を語りだす口とするのだ。
 
エゼキエルは、なぜ、こんなにも正確に、神殿の諸々の寸法や用途を、書き残す事が出来たか。
それは、彼が、神様から示されたまぼろしを、よく心に留め、それを頭に心に刻みつけるために、何度も口ずさんで、テフィリン(御言葉暗唱)していたからである。
私達も、主の御言葉を、そして、主から示されたまぼろしを、昼も夜も口ずさみ、それをよく心に留め、頭に刻みつけるべきである。
そのようにしてこそ、私達は神の神殿として、人々にいのちの水を流しだし、救いを流しだして行く事が出来るのだ。

エゼキエル書講解説教

聖なるものを正しく計るものさしを得よ(エゼキエル40:1-5)

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前章までの所では、神に敵対する勢力への最終的なさばきが示され、それによって、神の民に平和が訪れる事が示された。
ここでさらに、新しい幻が与えられる。
それは、新しい神殿の幻である。
 
エゼキエル書は、この40章以降、神殿の詳細な様子や寸法が次々と示されて行く。
さらに神殿に関する規定が示され、祭儀規定が示されて行く。
それらが示されて行った後には、神殿からいのちの水の川が流れ出し、いのちがみなぎっていく幻へと入って行く。
 
そして最後に、神の民の相続地が示されてから、エゼキエル書は終わる。
エゼキエル書の最後の言葉は、以下である。
 
エゼキエル48:35 町の周囲は一万八千キュビトあり、この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」。
 
「主そこにいます(ジェホバ・シャマー)」。
これこそ、エゼキエル書の結論であり、そしてそれは、神殿の完成において、実現する。
 
神殿とは、神と人とが出会い、交わる場所である。
ソロモン神殿がバビロンによって破壊されてしまった理由は、人の側が契約を破り、それを何度も、長年、戒められて来たのに、改めなかった事による。
 
だから、神殿が回復されるのは、ただ、誠実なる主のゆえ、主の一方的な憐れみによるもので、主の契約こそが、まことに真実であったという事が、明らかにされるためである。
 
そして、神殿が回復される事は、神と人との関係が、神と人との交わりが、回復される事を意味する。
何と幸いな事であろうか!
しかも、新約を生きる私達キリスト者は、神の神殿となっており、いつでもイエス様との交わりができるのだ。
この恵みは、どれほど、計り知れない事だろう。
 
エゼキエル40:1 われわれが捕え移されてから二十五年、都が打ち破られて後十四年、その年の初めの月の十日、その日に主の手がわたしに臨み、わたしをかの所に携えて行った。
 
エゼキエルやダニエル達が、捕囚の民としてバビロンに連れて来られたのは、紀元前597年、そして、エルサレムが陥落したのが、紀元前586年であるので、彼がこの幻を見たのは、それから14年後、紀元前573-572年の事である。
 
なお、その幻が与えられた日は、「その年の初めの月の十日」と書いてある。
年の初めの10日といえば、過越の祭りにおいて、ほふられるべき羊を、家ごと・家族ごとに用意する日である。(出エジプト12章)
主はその、ほふられるべき犠牲の羊を用意する日、エゼキエルに幻を見せて下さったのだ。(後述)
 
40:2 すなわち神は幻のうちに、わたしをイスラエルの地に携えて行って、非常に高い山の上におろされた。その山の上に、わたしと相対して、一つの町のような建物があった。
 
その神殿は、イスラエルの地の、非常に高い山、と示されている。
神殿はエルサレムのシオンの丘に建てられるものであるが、その場所は、確かに高台ではあるものの、「非常に高い山」とは言えない。
これは、どういう事だろうか。
イザヤ書に書かれてある。
 
イザヤ2:2 終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、
2:3 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。
2:4 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。
 
つまり、主の家の山が非常に高くなるのは、「終わりの日」なのだ。
もし、これらの預言の直接的な実現は、前章の終わりまでに述べられていた順番通りである、とするなら、まずユダヤ人の改心と回復が行われ、彼らに聖霊の注ぎがあり、ゴグとマゴグの滅亡の後に、行われるのだろう。
 
40:3 神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。
 
ここに、姿は青銅の姿のような人(イシュ:男)が現れた。
このように、通常の人ではない人が、はかりざおを持って現れて、これから起こるべき事が告げられたのは、ゼカリヤも、使徒ヨハネも経験している。(ゼカリヤ2:1、黙示録1:15)
 
エゼキエル40:4 その人はわたしに言った、「人の子よ、目で見、耳で聞き、わたしがあなたに示す、すべての事を心にとめよ。あなたをここに携えて来たのは、これをあなたに示すためである。あなたの見ることを、ことごとくイスラエルの家に告げよ」。
40:5 見よ、宮の外の周囲に、かきがあり、その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。彼が、そのかきの厚さを測ると、一さおあり、高さも一さおあった。
 
エゼキエル書は、これ以降、神殿の詳細な様子と寸法が、次々と示されて行く。
出エジプト記においても、神殿の前身である幕屋と、そこに属する諸々の祭具の詳細な様子と寸法が、示されていた。
 
建築物や諸々の道具というものは、正確な寸法が示されないなら、実際に建てる事はできない。
もし建築家が、どんぶり勘定な寸法の設計図が手渡されたなら、叩き返すだろう。
それは、無理もない事である。
 
ところで私達は、「イエス様という神殿の本体」を、どんぶり勘定で測ったりしていないだろうか?
「私達という神殿」の人生設計をする時、私達は、正確な”ものさし”を用いて、正しく寸法を測っているだろうか?
どんぶり勘定など、していないだろうか?
 
私達は、正確な寸法を計るために、真正の「ものさし」を使わなければならない。
その真正のものさしとは、何か。
 
ここで、「さお」と訳されたヘブライ語は「カーネ」、「カノン」の元の言葉で、全ての基準、また規範を表わす言葉である。
まことのカノン、すなわち、全ての完全なる基準は、神の御言葉以外の、何者でもない。
 
ところで、エゼキエル40章においては、当時用いられていたキュビトに、一手幅が追加されたキュビトが用いられている。
 
当時のイスラエルで用いられていたキュビトは、ひじから指先までの長さ(およそ44.5?)であったが、ここでは、一手幅が追加されたキュビト(およそ51.9?)が、神殿やそれに付随する聖なるものを計る基準として、用いられているのだ。
エゼキエルに示された幻の神殿は、この、従来のキュビトに一手幅を足したものさしを用いて、計られていく。
 
では、一手幅が加えられる事には、何の意味があるのだろうか。
 
この幻は、いつ与えられたか。
それは、ほふられるべき犠牲の羊を、準備するべき日に、だった。
ほふられるべき犠牲の羊は、十字架でほふられるイエス様をあらわしている。
だから、ここに足された一手幅は、まさにイエス様の御手をあらわしているのではなかろうか。
 
神殿の本体はイエス様であり、そして、現代の私達キリスト者は、イエス様を宿らせた、神の神殿である。
 
私達が、イエス様を測る時、そして、私達クリスチャン自身を測る時、旧約のトーラーという、従来の古いものさしだけで測っても、正確なはかりは出来ない。
私達・人間は、旧約のトーラーだけで計ると、どうしても目方が足りない、不完全な者であり、イエス様の十字架抜きの旧約聖書は、ユダヤ人が今そのジレンマに陥っている通り、救いは無い。
 
十字架のキリストの手が加えられたものさしで計らなくては、「聖なるもの」を、正しく計測出来ないのだ。
 
ユダヤ人は、トーラーという、古いものさしは持っているものの、「十字架の手」は持っていない。
また、キリスト者は、「十字架の手」は持っているものの、多くは、トーラーという「ものさし」を軽んじている。
 
ユダヤ人は結局、手幅の足りないものさしで計り続けているため、救いを得られないし、また、クリスチャンも、もし旧約聖書を軽んじているとするなら、彼らは「手幅」だけで測っているようなものである。
 
だから私たちは、旧約聖書と、十字架の手の、両方を兼ね備えた「ものさし」で、計るべきである。
終わりの時代において、主人公となる人とは、「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」と書かれてある。(黙示録12:17、14:12)
 
だから、旧契約と、新契約の御言葉を、そのまま暗唱し、テフィリンする事が大事なのである。
それによって、正しいものさしを、私達の心に、脳に、刻みつける事が出来、その人は、「歩く正しいものさし」になれるのだ。
その人は、行く所どこでも栄え、何をしても成功する。(詩篇1篇、ヨシュア記1:8)
 
エゼキエルは、この、正しいものさしを持っているお方が、次々と神殿を計測して、その計測結果が与えられれば、与えられる程に、主からの示しや預言が次々と与えられて行く。
このはかりで測るなら、測るほど、いのちを生き返らせる水が、さらに深く、深くなって行き、そのいのちの川を、測って行けば行く程、潤いが増し、木が生え、いのちが増え、魚も群がって行き、漁師までも住む場所となって行く。
 
ハバクク2:14 海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。
 
主の栄光を、全地に満たして行くのは、誰だろう。
それは、旧新約の御言葉をテフィリンした事によって、正しいはかりを手にする、私達テフィラーである。
 
エゼキエルのミッションは、以下だった。
 
エゼキエル40:4 その人はわたしに言った、「人の子よ、目で見、耳で聞き、わたしがあなたに示す、すべての事を心にとめよ。あなたをここに携えて来たのは、これをあなたに示すためである。あなたの見ることを、ことごとくイスラエルの家に告げよ」。
 
イエス様も、言われる。
イエス様にあって見たこと、聞いたことを、あかししなさい、と。
全世界に出て行って、福音を伝えなさい、と。
 
イエス様は既に、いっさいの権威が、与えられ、そして彼は、世の終わりまで、いつも私たちと共におられる。
 
海が水で覆われているように、 主の栄光をさらにこの地へと満たして行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

 金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

自分のしたくない事をどうしてもしてしまうジレンマからの解放(ローマ7:14-8:4)

Youtube動画

参照箇所:ヨハネ14:16-21
 

エゼキエル書講解説教

ゴグに対するさばきとイスラエルの回復(エゼキエル39章)

Youtube動画

 
38章につづき、神の民の敵であるゴグに対するさばきが述べられている。
ゴグは、終末の時、神の民イスラエルに敵対し連合する国々の長である。
 
今の世界の情勢を見ても、聖書の言葉に反し、キリスト者に敵対する、一連の者達がいる。
彼らは、平和を標榜しつつも、武器をもって人々を圧迫したり、暴力を振るったり、殺したり、と、好き放題に暴虐を行っている。
 
なぜ彼らは、いとも簡単に、嘘をつくのか。
なぜ彼らは、いとも簡単に、人を殺すのか。
イエス様がその理由を言っている。
 
『あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。』(ヨハネ8:44)
 
彼らは普段から、頭の中で、ふつふつとした欲求、すなわち、殺したい、暴れたい、盗みたい、支配したい、そういった暴力的な欲求があって、あるきっかけを通して、それができるようになると、彼らの頭の中にあったものを、たちまち彼らの手で現実化させるのだ。
終わりの時に、ゴグとマゴクがそのような事をするのは、サタンがそそのかしたからではあるが(黙示録20:8)、結局、サタンに用いられる”取っ掛かり”となるものを我が物として握りしめていたのは、彼らである。
すなわち、殺意や暴力、強奪といった、サタンが好む欲求を彼らは普段から思い巡らし、それを手放さず、きよく聖であられる神に立ち返る事を、好まなかったため、サタンのそそのかしに、いともあっさり同意してしまうのだ。
 
そのような彼らの、思いの中に秘められた悪が「あらわ」にされるために、主は彼らを、イスラエルの山々に連れてこさせる。
 
エゼキエル39:1 人の子よ、ゴグに向かって預言して言え。主なる神はこう言われる、メセクとトバルの大君であるゴグよ、見よ、わたしはあなたの敵となる。
39:2 わたしはあなたを引きもどし、あなたを押しやり、北の果から上らせ、イスラエルの山々に導き、
 
ゴグがイスラエルを攻撃するのは、ゴグをさばかれる主の御手による。
主がモーセの時代、イスラエルを奴隷として、虐待し、頑として手放さなかったエジプトを、かえって、主の栄光のために用いられたのと同じように。
 
彼らは、様々の武器をもって、好き放題の暴虐を行おうとするが、主ご自身が彼らの武器を叩き落とし、彼らを倒される。
 
39:3 あなたの左の手から弓を打ち落し、右の手から矢を落させる。
39:4 あなたとあなたのすべての軍隊およびあなたと共にいる民たちは、イスラエルの山々に倒れる。わたしはあなたを、諸種の猛禽と野獣とに与えて食わせる。
39:5 あなたは野の面に倒れる。わたしがこれを言ったからであると、主なる神は言われる。
 
ゴグの軍隊は全滅し、大量の死体が放置される。
主は、攻めてきた軍隊だけでなく,ゴグの連合軍の国、そのものもさばかれる事が、以下、記されている。
 
39:6 わたしはゴグと、海沿いの国々に安らかに住む者に対して火を送り、彼らにわたしが主であることを悟らせる。
39:7 わたしはわが聖なる名を、わが民イスラエルのうちに知らせ、重ねてわが聖なる名を汚させない。諸国民はわたしが主、イスラエルの聖者であることを悟る。
39:8 主なる神は言われる、見よ、これは来る、必ず成就する。これはわたしが言った日である。
 
主は、イスラエル現地に攻めてきた軍隊のみならず、本国にも、さばきの手をのばす。
ここで主は、「わたしが主であることを悟らせる」と、2回も語られた。
すなわちこれらの事は、主の聖なる御名が、イスラエルと諸国の民に、大いに証しされるために行われるのである。
 
39:9 イスラエルの町々に住む者は出て来て、武器すなわち大盾、小盾、弓、矢、手やり、およびやりなどを燃やし、焼き、七年の間これを火に燃やす。
39:10 彼らは野から木を取らず、森から木を切らず、武器で火を燃やし、自分をかすめた者をかすめ、自分の物を奪った者を奪うと、主なる神は言われる。
 
さらに記されているのは、イスラエルの民が、七年間もかけて敵の残した武器を、たきぎ代わりに火で燃やす事だ。
それは、敵の武器がいかに多かったかを物語っており、そしてこれからは、こうした武器は、もはや必要がなくなる事を示している。
また、自分をかすめた者をかすめ、自分の物を奪った者を奪う、と書いてある通り、神の民は、あらゆる奪われたものを取り戻す。
 
さらに11-16節には、攻め寄せて来たゴグの連合軍の死体を片付ける、イスラエルの人々について、記されている。
 
39:11 その日、わたしはイスラエルのうちに、墓地をゴグに与える。これは旅びとの谷にあって海の東にある。これは旅びとを妨げる。そこにゴグとその民衆を埋めるからである。これをハモン・ゴグの谷と名づける。
 
海とは死海の事であり、ハモン・ゴグとは、「ゴグの群衆」の意味である。
 
39:12 イスラエルの家はこれを埋めて、地を清めるために七か月を費す。
 
敵の死体を埋めるのに、7ヶ月もかかる。
それは、敵の数が、どんなに多かったかを示している。
 
39:13 国のすべての民はこれを埋め、これによって名を高める。これはわが栄えを現す日であると、主なる神は言われる。
39:14 彼らは人々を選んで、絶えず国の中を行きめぐらせ、地のおもてに残っている者を埋めて、これを清めさせる。七か月の終りに彼らは尋ねる。
39:15 国を行きめぐる者が行きめぐって、人の骨を見る時、死人を埋める者が、これをハモン・ゴグの谷に埋めるまで、そのかたわらに、標を建てて置く。
39:16 (ハモナの町もそこにある。)こうして彼らはその国を清める。
 
ハモナは、大群衆を意味する。大群衆のような死体の数々を埋めるのだ。
彼らは、国の中から死体を見つける担当を立てて、注意深く死体を探し、そして見つけたなら、それをハモン・ゴグの谷に持っていって、埋める。
それは、「きよめ」のためである。
死体は汚れをもたらせるからだ。
 
39:17 主なる神はこう言われる、人の子よ、諸種の鳥と野の獣とに言え、みな集まってこい。わたしがおまえたちのために供えた犠牲、すなわちイスラエルの山々の上にある、大いなる犠牲に、四方から集まり、その肉を食い、その血を飲め。
39:18 おまえたちは勇士の肉を食い、地の君たちの血を飲め。雄羊、小羊、雄やぎ、雄牛などすべてバシャンの肥えた獣を食え。
39:19 わたしがおまえたちのために供えた犠牲は、飽きるまでその脂肪を食べ、酔うまで血を飲め。
39:20 おまえたちはわが食卓について馬と、騎手と、勇士と、もろもろの戦士とを飽きるほど食べると、主なる神は言われる。
 
実に凄惨な光景だ。
これと同じ光景は、黙示録19:17-18にも、示されている。
黙示録とエゼキエル書の両方に示された、という事は、この事は、確かに起こる、という事である。
 
これを見て「そのような事をする神はひどい」と思う人は、そう言う事によって、自分自身を、定めてしまっている。
自分は神に敵対する者だ、と定め、自分自身は神の民を食い物にしようと企む者だ、という事を定め、そしてやがて、主ご自身によって返り討ちにあい、自分の死体は、空の鳥や、野の獣に、食われてしまう側の者、として、定めてしまっている。
 
私達・神の民は、むしろこれを見て、自分が忍耐して行っている主わざは、やがて報われるのだ、と確信するべきである。
そして、自分がクリスチャンだ、という事で、迫害している人達が、やがてこのようになってしまうのだ、という事を思い、彼らがそうならないように、ますます執り成し祈るべきだ。
 
さらに、21‐29節には,イスラエルの回復が記されている。
 
39:21 わたしはわが栄光を諸国民に示す。すべての国民はわたしが行ったさばきと、わたしが彼らの上に加えた手とを見る。
39:22 この日から後、イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを悟るようになる。
39:23 また諸国民はイスラエルの家が、その悪によって捕え移されたことを悟る。彼らがわたしにそむいたので、わたしはわが顔を彼らに隠し、彼らをその敵の手に渡した。それで彼らは皆つるぎに倒れた。
39:24 わたしは彼らの汚れと、とがとに従って、彼らを扱い、わたしの顔を彼らに隠した。
 
バビロン捕囚という事件が起きたのは、主が無力でイスラエルを助けられなかったから、ではない。
むしろ、神の民が主の契約に反し、罪をを犯し、多くの預言者を通して警告が為されても、その行いを改めなかったために、ついに起こされた神の裁きだった。
それを、神の民も、そうでない人達も、明らかにそれを知るために起こされたのだ、という事を、彼らがわかるようになるためだと書いてある。
 
39:25 それゆえ、主なる神はこう言われる、いまわたしはヤコブの幸福をもとに返し、イスラエルの全家をあわれみ、わが聖なる名のために、ねたみを起す。
 
主が捕われ人を帰らせ、イスラエルの全家を憐れむのは、主の聖なる名のための熱心による。
イスラエルが回復するのは、イスラエルが何かいいことをするからではなく、ただ、主ご自身が締結した、主の聖なる契約の故に、である。
 
39:26 彼らは、その国に安らかに住み、だれもこれを恐れさせる者がないようになった時、自分の恥と、わたしに向かってなした反逆とを忘れる。
39:27 わたしが彼らを諸国民の中から帰らせ、その敵の国から呼び集め、彼らによって、わたしの聖なることを、多くの国民の前に示す時、
39:28 彼らは、わたしが彼らの神、主であることを悟る。これはわたしが彼らを諸国民のうちに移し、またこれをその国に呼び集めたからである。わたしはそのひとりをも、国々のうちに残すことをしない。
 
主は宣言される。
主の民を全世界から集め、しかも、ひとりも国々の内に残される者はない、という「徹底的な回復」を。
その全ては、ただ100%、主のわざによる。
 
39:29 わたしは、わが霊をイスラエルの家に注ぐ時、重ねてわが顔を彼らに隠さないと、主なる神は言われる」。
 
主は、39章の最後で、「わが霊をイスラエルの家に注ぐ」と宣言された。
結局、主とその民との正常な関係の回復は,「主の御霊」の働きによるものである。
 
今、2021年現在、確かにイスラエルの一部の人々は、かの地へと戻って来た。
しかしそれは、完全な回復ではないし、また、彼らの有様を見ていると、ただ単に人が戻ってきた、というだけで、彼らはイエス様を信じていない。
また、私達がパレスチナ地方で行われている物事を見るに、とてもそれらのわざは、きよく聖なる神の霊による、とは見えない。
 
彼らが全世界から集められた事は、確かに奇跡は奇跡である。
しかしそれは、散り散りになってしまった骨々が、集まって、人の形を回復しただけに過ぎない有様である。
 
エゼキエル書37章に、枯れた骨々に満ちた谷の預言が示されていたが、そのイスラエル全家の回復は二段階である、という事が、示されていた。
最初は、散らばっていた骨々が集まり、それが人の成り立ちを回復する様が預言されていたが、第一段階では、まだ、神の息は無く、人の形をしたマネキン集団のようだった。
しかし、主の息が四方から吹いて来て、それが彼らの中に入ると、それは息を吹き返し、主の御前における大軍団、グレイト・アーミーとなった。
 
やがて、世界中に散らされたイスラエルの人々がさらに集まって、彼らに主の霊が吹き付ける時が来る。
今、そのように、主の霊が吹き付けられ、イエス様を信じたユダヤ人が多数いる。
コーエン大学総長の、ゲイリー・コーエン博士も、その一人だ。
 
結局、これらの事が起きるのは、主が全国民に対して主の栄光を現すためなのだ。
 
イザヤ45:5 わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。
45:6 これは日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを/知るようになるためである。わたしは主である、わたしのほかに神はない。
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