メッセージ - 202111のエントリ

主と出会える人の性質:アドベント(主を待ち望む)の人(ルカ2:21-28)

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エゼキエル書講解説教

祝福の相続地を得る人の性質(エゼキエル47:13-23)

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エゼキエル書43章13節以降には、イスラエル12部族の新しい相続地が示されている。
 
エゼキエル47:13 主なる神は、こう言われる、「あなたがたがイスラエルの十二の部族に、嗣業として土地を分け与えるには、その境を次のように定めなければならない。ヨセフには二つの分を与えよ。
 
まず、相続地について、真っ先に宣言された事は、ヨセフには、二倍の領分が与えられた事だった。
二倍の相続地を得たヨセフは、柔和で、正直で、不正や悪を行う者に対して腹を立てず、主を信じ、日々、誠実を養った。
まさにイエス様が言われた、地を相続する人の性質である。(マタイ5:5)
 
ヨセフは、そのような性質だったから、父ヤコブに愛され、そして、神から愛された。
それで父ヤコブは、臨終の時、ヨセフに素晴らしい祝福を与えている。
 
創世記49:22 ヨセフは実を結ぶ若木、/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。
創世記49:26 あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、/永久の丘の賜物にまさる。これらの祝福はヨセフのかしらに帰し、/その兄弟たちの君たる者の頭の頂に帰する。
 
ヨセフは、父の祝福のとおり、垣根(境界)を超えた領土を得、他の兄弟にまさる祝福を得た。
 
ヨセフの偉大な点は、エジプトの宰相(総理大臣)になった事、ではない。
総理大臣という地位は、最終目標ではなく、手段に過ぎない。
 
最終目標とは、神の国を建て上げる事。
すなわち、70名ほどだったイスラエル一家が、一つの国家へと成長するために、彼らに肥沃な地・ゴシェンの地を備え、そこで、安心して大いに産んで増えて行くための「システムづくり」を、彼にさせるため、神様はヨセフを総理大臣にしたのだ。
エジプトの総理大臣という役職は、たまたま、与えられたに過ぎない。
ちり一つ拾うような奉仕さえ、イエスキリストのために為すなら、神の国の建てあげの尊い奉仕である事には変わりない。
 
ヨセフのように、尊い事に用いられる器もあれば、卑しい事に用いられてしまう器も、厳然として存在する。
自らをきよい器として整えるなら、尊い事に用いられ、汚れに任せたままなら、卑しい事に用いられてしまうのだ。
 
だから私達も、ヨセフの模範にならうべきである。
この地において、莫大な経済や地位を得る事が第一ではない。
神の国とその義が為される事を、まず第一に求め、日々、柔和と誠実を養うべきだ。
 
 
エゼキエル47:14 あなたがたはそれを等分に割り当てなければならない。それはわたしがかつてあなたがたの先祖に与えると誓ったものである。この地は相続地としてあなたがたのものである。
 
神はアブラハムに、この地を永遠に得させる、と、約束しておられた。
その実現を、主は、今回の幻で見せておられる。
続く節では、具体的に領地の境界が示されている。
 
 
エゼキエル47:15 その地の境界線は次のとおりである。北側は、大海からヘテロンの道を経て、ツェダデの入口に至り、
エゼキエル47:16 ハマテ、ベロタ、およびダマスコの領土とハマテの領土の間にあるシブライム、さらにハウランの領土に面したハツェル・ハティコンに至る。
エゼキエル47:17 海から始まる境界線はダマスコの境界のハツァル・エナンに至り、北は北のほうへ、ハマテの境界にまで至る。これが北側である。
エゼキエル47:18 東側は、ハウランとダマスコの間と、ギルアデとイスラエルの地の間のヨルダン川が、東の海を経てタマルに至るまでの境界線である。これが東側である。
エゼキエル47:19 南側は、タマルから南に向かってメリバテ・カデシュの水と川に至り、大海に至るまでである。これが南側である。
エゼキエル47:20 西側は、大海が境界となり、レボ・ハマテにまで至る。これが西側である。
エゼキエル47:21 あなたがたは、この地をイスラエルの部族ごとに割り当てなければならない。
 
 
これはおよそ、ダビデ・ソロモンの時代の領土に相当する。
 
相続地は、無条件に与えられるものではない。
その領域内で為すべきは、きよさに立って、神の国の法則に従って歩む事である。
もし、きよさに立たず、汚れた行いを続けているなら、かつて土地がイスラエルを吐き出したように、吐き出されてしまう。
 
 
この、新しく示された相続地では、意外な人々も相続が許可されている。
 
エゼキエル47:22 あなたがたと、あなたがたの間で子を生んだ、あなたがたの間の在留異国人とは、この地を自分たちの相続地として、くじで割り当てなければならない。あなたがたは彼らをイスラエル人のうちに生まれた者と同じように扱わなければならない。彼らはイスラエルの部族の中にあって、あなたがたといっしょに、くじで相続地の割り当てを受けなければならない。
エゼキエル47:23 在留異国人には、その在留している部族の中で、その相続地を与えなければならない。――神である主の御告げ。――
 
なんと、異邦人にも、領土が割り当てられるのだ。
それはモーセ五書では考えられない事で、新約的といえる。
 
しかし、この主が聖別された領域内で為すべきは、きよさに立って、神の国の法則に従って歩む事である。
 
エゼキエル書40章以降で、示されていた事は、人間のものさしで計る事ではなく、神が示された聖なるものさしではかる事、そして、聖なる立ち位置を堅固に守り(40章)、聖と俗とをしっかり区別し(42章)、主の聖にならって、聖なる者となり(43章)、礼拝を中心としたきよい生活を送る事(45-46章)だった。
そうするなら、生活の中央に位置する神殿から、いのちの水が川となって流れ出した。(47:1-12)
 
だから、相続地が与えられ住む事のできる異邦人とは、きよい信仰を持っている異邦人だけである。
 
実際、エゼキエルがこの幻が示された後の、エズラ・ネヘミヤの時代、その土地に住んでいた外国人達は、排斥された。
なぜなら、ネヘミヤ記を読めば分かるが、そこの外国人たちは、信仰を持った「きよい異邦人」でなくて、イスラエルの神を拝む、と口では言いつつも、実際に行った事といえば、神殿再建を邪魔し、不正や汚職をイスラエルの指導層に持ち込んで、イスラエルを悩ました事だった。
 
その、異邦人と混じり合って産まれた子どもたちは、ユダヤの言葉がわからなかった。(ネヘミヤ13:24)
ユダヤの言葉が分からない、という事は、律法が読めない、という事であり、早速その代から霊的な汚れが入り込んで、かつての、バビロン捕囚へと突き進んでしまった先祖の、二の舞になってしまう。
それを大いに憂いたエズラやネヘミヤは、痛みの改革を断行し、彼らを追い出した。
 
私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の民に加えられた。
それに安住する事なく、神が聖であられるように、私達も、聖を保つべきである。

主日礼拝

積極的に主を求める家系に来られたイエス様(ルツ記4:18-22)

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週報/メッセージ(説教)概要

 
 いよいよアドベント(待降節)が始まった。待降節は、救い主イエス・キリストのご到来のために心を備え、待ち望むシーズンである。キリストのご降誕が一番最初に預言されたのは、いつか。アダムとエバが蛇すなわちサタンにそそのかされ、死と罪が入ってしまったのが創世記3章6節、そこから10節も数えぬ「創世記3章15節」において、主は、蛇を砕く「女の子孫」の到来を約束された。人はエデンから追放され、罪と死に悩むようになり、こうして全被造物は「女の子孫」、救い主の来る事を待ち望む「待降節」に入ったのだ。
その長い長い「アドベント」の後、およそ二千年前、イエス・キリストがこの世に、赤ちゃんとして来られた。
 キリスト者は、イエス様を信じて救われたが、一度信じれば終わり、というものではない。私達の家庭や職場、生活に、「救い」を必要とする状況がどうしても起きる。その都度、「救い」が来る事を求めるべきである。
 私達は、求めているだろうか。この、先が見えず、正義が行われていない闇のような現状に、「主よ、来て下さい」と、求めているだろうか?主は、その求める声がある所に、来て下さる。このアドベントの第一週、ルツ記の系図から、イエス・キリストがおとずれた王族の家系の性質を学び、その恵みを得ていきたい。
 
 ルツ記は、死と悲しみの出来事で始まった。当時のイスラエルは、主の言葉に従う時代ではなく、自分の目に良いと見える事に従って歩み、荒んだ事件があちこちに起きた、暗黒の時代だった。異邦の女・ルツは、本来なら神の民に加えられるはずもなかったが、信仰を告白し、神の民の中へと入って来た。主は彼女を覚えておられ、また、信仰の家を紡いで来たボアズの家系も覚えておられた。主はルツを、ボアズの畑へ導き、そこでボアズと出会わせ、結婚させ、子供を産ませて、こうしてメシヤが来られる家系を育まれた。
 ルツ記の最後には、ちょっとした系図が挿入されている。その最後は、あの偉大な王ダビデで終わるが、この系図は、不思議な点がある。本来ならペレツの父で族長のユダから始まるのが妥当なのに、なぜかペレツから始まっている。私達はルツ記から、またこの系図から、込められたメッセージを汲み取るべきである。
 『ペレツの系図(トーレダー:家系、家族、歴史)は次の通りである。』(ルツ記4:18) ペレツの名前の意味は「割って入る・裂け目・侵入する」事。つまり、ルツ記の系図の意味は「割って入る者の歴史」、あるいは、「裂け目から侵入して来た一族」である。これがルツ記の内容であり、またキリストの裂かれた御身体によって救われ、その裂け目から、天国へと侵入して来た、私達クリスチャンの本質である。ペレツは元々、双子の「弟」として産まれる所だった。しかし兄が産まれる所に、割り込んで、先に産まれ出た。それで彼が長子の権利を得た。ルツ記の家系も、神の民も、何としても神の国に入りたい、と、願って割り込む者たちである。
 
 続く名前と意味を列挙して行くと、ヘツロンは「柵で囲まれた庭」、ラムは「積極的に昇りつめる」、アミナダブは「自発的に喜んでする人々・民族」。ナフションは「綴る・熱心に観察する」。ルツの義父で遊女ラハブの夫であるサルモンは「衣・包む・(子音変化でシャローム:平和)」。そして、ルツが嫁いだボアズは「彼に内充する力」である。 親が子につける名前には、親の願望や人間性が現れる。また子供は、その名前によって人格に大きな影響を及ぼしていくため、これらの名前から、この一族の性質がある程度、推測できる。
彼らは、自ら積極的に主に求め、また力と権威を内包し、それを防護し、大切に育む性質があるのだろう。
 この中の幾人かは名前しか分からず、どんな人生を経験し、また、どんなドラマの中で生きたのかは分からない。しかし、親達は、それぞれの時代を信仰によって子を産み、その生まれた子に「このようになってほしい」と、信仰によって名をつけ、信仰によって子育てし、信仰によって結婚し、信仰によって子を産み、そうして、子から孫へ信仰を継承して来た。実はその事こそ最も偉大な事で、私達も、そうするべきだ。
 私達も彼らのように、自分から積極的に主に求め、信仰によって結婚し信仰によって子育てして行くなら、イエス・キリストの系図へと入って行くのであり、そのような人にイエス・キリストが訪れて下さるのだ。
 
 さらに続く名前、オベデは「仕える・しもべ」、エッサイは「富・資産」、ダビデは「愛された者」の意味であり、まさに私達・神の民が持つはずの性質である。この、ルツの系図の名前に記された性質を、積極的に持っている人こそ、偉大な王が誕生する家系であり、イエス・キリストが訪れて下さる家系である。ルツのように、またその系図の人々のように、神の国を求め、探し、叩き、何としてでもそれを獲得しよう、という意欲を持ち、また、防護壁を張って力や富、権威を守り、そうしてキリストの訪れを待ち望む皆様でありますように!

主のご到来の備えは出来ているだろうか?(ルカ1:26-38)

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エゼキエル書講解説教

神殿から流れ出すいのちの水の川(エゼキエル47:1-12)

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47章以降は、イスラエルの新しい相続地が定めれている。
その相続地は、神殿が中心であり、神殿から主のいのちと祝福が流れ出して相続地に住む民を潤し、さらには、全世界を潤すものとなって行く事が今回の箇所で示されている。
 
 
47:1 そして彼はわたしを宮の戸口に帰らせた。見よ、水の宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。
47:2 彼は北の門の道から、わたしを連れ出し、外をまわって、東に向かう外の門に行かせた。見よ、水は南の方から流れ出ていた。
 
水が、神殿の敷居の下から流れ出した。
その水の源は、聖所である。(12節)
それは新約において、イエス様にあって成就し、新天新地において完成する。
 
Rev 22:1  御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、 
Rev 22:2  都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
 
もし今、すぐにでもそのいのちの水を享受したいというなら、今すぐにでも、イエス様の名前を呼んで、イエス様に求めるべきである。
なぜなら、まことの神殿は、今生きておられるイエス様だからだ。
 
 
ヨハネ2:19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。
2:21 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。
 
「イエス様のからだ」というまことの神殿は、この時点では、まだ壊されていなかったが、十字架において破壊された。
しかし、三日の後、イエス様は復活し、そのいのちの水の川が流れ出て、まず弟子たちを潤し、そしてユダヤ、サマリヤの全土、および地の果てにまで、その川が流れ出て行った。
 
現代の私達も、イエス様を信じた時、湧き出たはずである。
かわきを潤す、いのちの水が。
イエス様は、言われる。
 
ヨハネ7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
7:39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
 
イエス様が、まだ栄光を受けておられなかった時、すなわち、十字架と復活を経る前は、イエス様を証しイエス様を栄光化する聖霊は、まだなかった。
それはただ、イエス様の中にだけ閉じ込められていた。
 
しかし、イエス様が一粒の麦として地に落ち、死なれ、復活され、天の御父の元に昇られた事によって、助け主・聖霊が与えられるようになった。
その聖霊が、全ての事を教え、またイエス様が話しておいた事を、全て思い起させて下さるのである。(ヨハネ14:26)
 
だから、聖霊を受けると、受けないとでは、大いなる違いが出てくる。
もし聖霊を受けないまま、とするなら、この、いのちを潤す生ける水は出てこないのだ。
だから、聖霊を留めて置いてはならず、聖霊は流れるままに、流しだして行くべきなのだ。
 
 
47:3 その人は東に進み、手に測りなわをもって一千キュビトを測り、わたしを渡らせた。すると水はくるぶしに達した。
47:4 彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水はひざに達した。彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がまた一千キュビトを測ると、渡り得ないほどの川になり、水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。
 
その水は、遠くへ測って行けば行く程、どんどん大きくなって行った。
最初は、足で立つ事が出来て潤される、くらいだったのが、どんどん大きく、広く、深くなって行って、ついには、足では立てない、その流れを泳ぐしかない程までになっていった。
 
この川は、渇いた地を潤して行くに従って、水量は減るのではなく、逆に、もっと増えていく。
これは、イエス様から流れ出てくるいのちの水の特徴を表している。
聖霊に満たされて行くなら、行くほど、そうなっていくものである。
 
最初は、その水に潤された、という感覚的なものから、その流れを足で感じるようになり、さらにどんどん強くなって、ついには、自分で制御できるものではない、流れの中を泳ぎながら、聖霊の流れるままに、任せるまでになって行く。
 
サマリヤの女は「その水をわたしにください」とイエス様に言って、イエス様はその水をくださった。
すなわち、メシヤであられるイエス様ご自身を彼女に示して下さった。
すると彼女は、居ても立っても居られず、もはや、水を溜める水がめなどは置いて、サマリヤの人々へと、その水を流し出して行った。
そして彼女は、その地方の人々をごっそり救い、潤し、いのちの実りが豊かに実った。
 
私達も、イエス様にあって聖霊をいただくなら、流しだして多くの人を潤す者となるのである!
 
 
47:6 彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。
47:7 わたしが帰ってくると、見よ、川の岸のこなたかなたに、はなはだ多くの木があった。
 
創世記2:10-14では、エデンの園を源とする水が世界へと広く流れ出して行った記述があるが、その事の回復を示している。
 
47:8 彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。
47:9 おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。
47:10 すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。
 
アラバはヨルダン渓谷であり、エン・ゲディは、死海の西岸の、南北のちょうど中間に位置し、ダビデはかつて、サウルの手を逃れてエン・ゲディの要害に留まった。
つまり、ここの「海」とは、死海の事である。
 
その死海へ、この生ける水が流れ込むなら、その水は良くなり、生き物が群がるようになって非常に多くの魚がいるようになる、というのだ。
そして、その川の両岸は、漁師達が住むようになり、網を引く場所となる。
まさに、死海のようだったサマリヤの女さえも、いのちが湧き出し、いのちが群がるようになった。
私達も、イエス様にあって、そうなるのである!
 
 
47:11 ただし、その沢と沼とは清められないで、塩地のままで残る。
 
「沢(ビツサァー:沼地、湿地帯)」と「沼(ゲベー:貯水池、プール)」のように、水の流れが無い所、あるいは、人為的に水を貯めて留まらせているの水所は、良くならず、塩のまま残ってしまう。
私達も、どんなに良質の御言葉が流れて来ても、また、どんなにイエス様の魅力を教えられても、ただ受けるばかり・頂くばかりで流し出さない、とするなら、塩のまま残って、死海のように、いのちがいなくなってしまうのだ。
 
だから、いのちの潤いがともなった御言葉が、流れこんで来たのなら、あるいは、聖霊の促しが流れて来たのなら、それをそのまま留め置いてはならない。
それらは、賞味期限の早い生鮮食品のように、「旬」があるのだ。
それを流しだすべき相手へ、すなわち、それを受けるべき人へと、あるいは、為すべき仕事へと、すぐに流し出して行くべきなのだ。
もし、旬を過ぎてしまうなら、腐ってしまう。
天から与えられた食物であるマナは、拾っても食べないまま器に保管して置いたら、どうなっただろうか。
翌日になると腐って、虫が湧いてしまった。
その事を、思い起こすべきである。
 
 
47:12 川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。
 
毎月、新しく実がなる。
一体どれだけいのちに溢れみなぎっているのだろうか。
黙示録22章には、その完成形があるが、この地上においても、イエス様を信じた私達は、それを霊的に体験する。
 
私達の内に、キリストという、生ける水のいのちの泉を据えるなら、なにも、頑張らずとも、御霊の実を絶える事なく自然と実らせ続けるものである。
そしてそれは、自分を潤すのみならず、周囲をも潤し、癒やすものなのだ。
 
これらを得るコツは、エゼキエル40章以降に、既に示されている。
すなわち、主から示された神殿(イエス様)を、正しいものさしで計り、きよさに立って、主の教えを自分自身に当てはめて行く事。
人の建てた神殿を測っても、あるいは間違ったものさしで測っても、それはただ渇くだけである。
しかし、まことの神殿・イエス様を、正しい物差しである「御言葉」に従って、正確に測って行くなら、いのちを潤す水がどんどん湧き出し、溢れ、流れて行くようになるのだ。
 
そのようにして豊かにいのちの水を湧き出させ、ますます流し出し、多くのいのちと実りを獲得して行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

王なるお方に最上のものを捧げる心備えをいつもせよ(創世記40章)

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主日礼拝

世の収穫物が来てひれ伏したヨセフの収穫を得よ(創世記37:5-11)

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English Service:Hold on to the dream(Gen37:5-8) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 本日は収穫感謝祭、主が私達に与えて下さったあらゆる良き実りを感謝する日である。今回はヨセフの箇所からだが、実は彼の夢の解き明かしは収穫に関連したものが多い。本日、それらの夢から恵みを得たい。
 
 最初にヨセフが見た夢は、ヨセフが収穫した束がまっすぐに立ち(ナーツァブ:確立する、安定する)、兄達の収穫物が周りに来てそれにひれ伏す(シャーハー:敬意を払う、身を投げ出す)、という内容であった。
皆さんは、自分の収穫物に、周りの収穫物が集まって来てひれ伏されたいだろうか?宣言するべきである。
彼の夢の内容は、実は私達が日頃宣言しているイザヤ45:14と共通している。詳しく訳すと次のようになる。
 『それで主は言われる。エジプトの労苦の実と、エチオピアの商品(収入)、身丈の高いセバ人達が、あなたの所に渡って来て、あなたのものとなる。彼らは、鎖(足かせ)に縛られつつあなたの後ろを歩み、進んであなたにひれ伏し(シャーハー:敬意を払う、身を投げ出す)、嘆願(パーラル:祈る)して言う。「確かに(アフ:本当に、ただ**だけ)神はあなたの内におられ、その神以外に神は無く、他の神々は無である」』
 ヨセフの夢の中で、兄達の収穫物がヨセフの収穫物にひれ伏したが、実に、その夢以上の事が実現した。
後に、ヨセフの手元にはエジプトの労苦の実が全部集まり、エチオピアの商品だけでなく、全世界の商品や儲けも、全て、ヨセフの収穫物と物々交換され、またセバ人だけでなく全世界の人々も、ヨセフの兄達も、ヨセフの後ろを歩み、彼にひれ伏し、「奴隷になります」と言って嘆願した。『パロはヨセフに言った、「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。』(41:39-40) だから私達も、ヨセフの模範にならうべきである。
 彼は、奴隷に売られても、恨み言をこぼさず、誠実を養い、いつも「神」を主語として人々と話し、主から見せられた夢は正直に宣言して人に伝えた。たとえ、人から邪険に思われるような内容であったとしても。
 
 ヨセフが牢屋にいた時に解き明かした夢も、収穫に関するものだった(40章)。献酌官は、夢の中では王に捧げる杯を持っており、ぶどうが実ったらすぐ収穫して王に捧げた。彼は、収穫の良いものを王に捧げる志を常に持っていたから、しあわせを得たのだ。しかし調理官は、王のために調理された食べ物のかごを頭の上に乗せ、鳥についばまれても放置していた。すると実際、彼自身が木に吊るされ、鳥についばまれるままとなってしまった。私達も、収穫を得たなら、王なるキリストに、いつでも真っ先に捧げる志を持っているべきである。そうするなら、王の御そば近くで仕える幸いを得られるが、もし、最高の礼拝を捧げようという頭の思いや考えを、悪霊やサタンに貪らせたままなら、やがて私達自身が、ついばまれる者となってしまう。
 
 その後のパロが見た夢には、これから世界的な7年の大収穫の年が来て、その後、非常に厳しい大飢饉の7年間が来る、という意味があった。ヨセフは、神様のなさろうとする謎と数字の秘密を解き、うまく対応して生き延びるだけでなく、世界一の大国にのしあがる術まで、しっかりアドバイスしたので、パロは言った。
 神がそれをあなたに知らされたのであるなら、あなたのように神の霊が宿った知恵ある者は、他にいない。
あなたが私の家を治めてくれ、と。 ヨセフのように、いつも神を証し、誠実を養い、主から示された事を正直に伝えるなら、あらゆる秘密を解き明かし、これから起こる事が示されるだけではない。来るべき艱難を、どううまく乗り超えられるか、その方法が示され、誰もが痩せ衰えて行く艱難の時代、逆に、他を出し抜いて断とつトップになれる知恵さえ与えられる。そして、世の王達の方から「支配して下さい」と言って来るのだ。
 
 彼は、大いなる収穫の時期、誰もが掃いて捨てていた収穫物をひとつも漏らさず、ひたすら溜め込んだ。
その後に大飢饉となって、食物の価格が大暴騰した時、その収穫物をもって、全世界の富をかき集めた。
それを用いて、神の民イスラエルが大いに産んで増えていくための肥沃な地、ゴシェンの地を用意した。
 今、天声・エクレシアは、現代のヨセフとなって、御言葉が息吹かれた栄光の次世代教育をするためのシステムづくりを目指している。私達は、主が見せて下さった「夢」を、日々宣言しているだろうか。ヨセフにならって日々、誠実を養っているだろうか。今、その宣言という「蒔いた種」を収穫すべき時が近づいている。
収穫感謝祭の今日、私達に与えられた夢の宣言という「蒔いた種」が、どれほど実ったかを思い返そう。
 それぞれの仕事や事業、ミニストリーが豊かに祝福され、その収穫の束に対して、世の収穫がこぞってひれ伏しに来る幸いを得ていく、これからの皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!

詩篇講解説教

主に聞かれる祈り(詩篇86篇)

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ダビデの祈
86:1 主よ、あなたの耳を傾けて、わたしにお答えください。わたしは苦しみかつ乏しいからです。
 
詩篇86篇は、詩篇の第3巻のうち、唯一、「ダビデ」による詩篇である。
この詩篇は、日本語の「主」という表現が11回で、その内、アドナイ(主)が7回、神聖4文字のYHWH(新改訳での太文字の主)が4回。
また、「神」という表現は6回。(8節の神々は除く)
 
その回数を見るだけでも、彼がいかに、神なる主を呼び求めているかが分かる。
 
彼の呼び求め方は、主よ、主よ、と、「数撃ちゃ当たる」の祈りではない。
イエス様は言われた。
 
『わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。』(マタイ7:21)
 
ダビデは、父の御心を行ったゆえに、彼の祈りは、聞かれたのだ。
御心とは御言葉である。
その御言葉に、従順に従う人こそ、主はその祈りを聞かれる。
 
ダビデはこの祈りの中で、自分自身のことを、「あなたのしもべ」と呼んでいる。
彼は、神様との主従関係において、まことに正しい位置関係に自分を置いたゆえに、主は彼の祈りを聞かれたのだ。
 
この詩篇からは、彼の、神様に対する信頼と服従の気持が、強く示されている。
 
 
86:2 わたしのいのちをお守りください。わたしは神を敬う者だからです。あなたに信頼するあなたのしもべをお救いください。あなたはわたしの神です。
 
2節の「神を恐れる者(新改訳)」「神を敬う者(口語)」「holy(KJV)」と訳された原語は、「חָסִיד ハスィード」。
意味は、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人であり、このハスィードは、5、13、15節の「ヘセド(חֵסֵד恵み)と関連がある。
 
神様の恵みは、神を恐れる人、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人と、深く関連があるのだ。
 
 
86:3 主よ、わたしをあわれんでください。わたしはひねもすあなたに呼ばわります。
 
昼も夜も、いつも主を呼ばわる人に、主は近い。
町を歩く時、人を見た時、状況を見聞きした時、いつも「主よ」と呼ばわり、主に祈り求める人と。
 
 
86:4 あなたのしもべの魂を喜ばせてください。主よ、わが魂はあなたを仰ぎ望みます。
 
主の御心は、彼の愛される聖徒が、しかめっ面をしながら清貧を我慢する事ではなく、聖徒が「喜ぶ事」である。
主は、人を創られた時、真っ先にエデン(喜び)の園に置かれた。
パウロもまた、何度も「喜びなさい」と書いている。
 
主にあって満ち足りて喜ぶ事は、大いに結構である。
しかし、たとえ貧しい中にあったとしても、主にあって喜びがある事は、信仰者の特権である。
 
 
86:5 主よ、あなたは恵みふかく、寛容であって、あなたに呼ばわるすべての者に/いつくしみを豊かに施されます。
 
1-4節までは「主よ。**してください」と、願い求める祈りが続いたが、6節からは、「願い」の色合いから、「神はどういうお方であるか」というような、「信仰告白」と「宣言」の色合いに変わる。
 
主は、祈りに答えてくださるお方(7節)。
神々のうちで並ぶ者はなく、みわざに比ぶべきものは無いお方(8節)。
主が造られたすべての国々は、御前に来て伏し拝み、御名があがめられる(9節)。
主は大いなる方、奇しいわざを行なわれる方。ただ主だけ神(10節)。
 
そのように、ダビデは告白した。
私達も、主はいかなるお方であるのかを告白するなら、祈りに、確信させる力を帯びるようになってくる。
 
ただ「ください、ください、」の祈りは、味わいが無い祈りである。
この詩篇86篇のように、主はどういうお方であるのか、自分はどういう信仰を、主に持っているのか、という告白や、また、感謝や、御言葉の宣言や、賛美があるなら、味わい豊かな祈りとなる。
 
 
86:11<願い> 【主】よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。
 
「私の心を一つにしてください」とは、自分の中から二心が取り除かれるように、という祈りであろう。
「二心の者」については、ヤコブ書に書かれてある。
 
 
ヤコブ4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
 
ヤコブ1:5 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
1:8 そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
 
このような、不安定に揺れ動く「二心」の者ではなく、ただ主を確信した「一つ心」になれるように、私達も、ダビデのように祈るのだ。
 
 
86:12<表明> わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。
86:13<告白> それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。
 
12-13節には、ダビデの表明と告白がある。
自分は、心を尽くして主に感謝し、とこしえに御名をあがめます、と。
なぜなら主は、彼のたましいをよみの深みから救い出してくださったから。
 
14節は、逆らい立つ横暴な者について主に訴えている。
そのような者に対して、ののしったり、仕返しをしたりするなら、ただの喧嘩である。
しかし、その人を主に訴えるなら、それは祈りに変わり、その案件は主に移って、主がその者を取り扱ってくださる。
 
 
そして16-17節は、再び「願い」で閉じられる。
 
86:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれみ(ハナン)、あなたのしもべにみ力を与え、あなたのはしための子をお救いください。
 
神様の恵み(ハナン)は、「神を恐れる人、親切な、敬虔な、聖なる人、慈悲深い人」、すなわち、ハスィードの人と、深く関連があった。
私達も、その資格ある者となる事を、目指すべきだ。
 
 
86:17 わたしに、あなたの「恵み(トーブ)」の「しるし(オート)」を/あらわしてください。そうすれば、わたしを憎む者どもは/わたしを見て恥じるでしょう。主よ、あなたはわたしを助け、わたしを慰められたからです。
 
「トーブ」には、パーフェクト、ビューティフル、グッドの意味がある。
「オート」は、よく「しるし」と訳されるが、信号、記号、マーク、標識などの意味である。
 
つまり、主からのパーフェクト、ビューティフル、グッドのマーク付け、お墨付きを、わたしに付与してください、そうすれば、敵は恥じ入ります、と祈っている。
 
ダビデは、いつでも、どんな時でも、主を呼び求め、主と自分自身の「主従関係」をはっきりさせ、主はいかなるお方であるのかを正しく告白し、これから主に対してどのように生きるのかを表明した。
私達も、そのように信仰において努力し、実行して行くなら、ダビデのように守られ、用いられ、主によって人々の上に高く上げら、時代に御国をもたらすために用いられるのだ。

エゼキエル書講解説教

聖なる礼拝を捧げる者であれ(エゼキエル46章)

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かつて、礼拝を軽んじたイスラエルによって、めちゃめちゃにされてしまった礼拝制度の回復すべき事が、40章以降に命じられていた。
この章では、特に、君主(ナーシー:上に立つ者。王ではない。)が、民に代表して捧げる礼拝について、示されている。
 
 
エゼキエル46:1 主なる神は、こう言われる、内庭にある東向きの門は、働きをする六日の間は閉じ、安息日にはこれを開き、またついたちにはこれを開け。
エゼキエル46:2 君たる者は、外から門の廊をとおってはいり、門の柱のかたわらに立て。そのとき祭司たちは、燔祭と酬恩祭とをささげ、彼は門の敷居で、礼拝して出て行くのである。しかし門は夕暮まで閉じてはならない。
エゼキエル46:3 国の民は安息日と、ついたちとに、その門の入口で主の前に礼拝をせよ。
 
神殿は、外庭の門と内庭の門があるが、外庭の東向きの門は、ただ、君主だけが出入り出来、一般の人は出入りしてはならないため、通常は閉じておく。(エゼキエル44:1-3)
君主は、民に代表してささげ物を祭司へと渡して、祭司は、それを神に捧げる事が役割であるが、そのささげ物の内訳が、以下に示される。
 
 
エゼキエル46:4 君たる者が、安息日に主にささげる燔祭は、六頭の無傷の小羊と、一頭の無傷の雄羊とである。
エゼキエル46:5 また素祭は雄羊のために麦粉一エパ、小羊のための素祭は、その人のささげうる程度とし、麦粉一エパに油一ヒンを加えよ。
 
ここでは、7日ごとに来る安息日にささげるべき全焼のいけにえと、穀物のささげものが示された。
なお1エパは約22リットル、1ヒンは約3.7リットルである。
 
礼拝には、必ず、犠牲が必要である。
 
創世記4章にカインとアベルの礼拝が記されているが、カインが捧げたものは、ヘブライ語「ペリー」の単数形、すなわち「一つのフルーツ」、対してアベルは、(複数形の)羊の群れの、初子たちの中から、最上ものを選びに選んで捧げた。
 
カインは、農業で暮らしていたので、彼自身は日毎、フルーツをふんだんに食べていたのに、主にたいしては、たった一つのフルーツしか捧げなかった。
何万円もある財布の中から、ワンコインを賽銭箱に投げたような感覚だろう。
 
神が、カインの捧げものに、見向きもしなかった理由は、彼の、主の御前にささげる礼拝には、主を敬う心も、犠牲も、なかったからだ。
 
神がそれを見向きもせず、アベルのささげ物にリスペクト(NKJV)を払ったのを見たカインは、怒った。
その怒りはつまり、カインの心の中では、「カインのほうが、神よりも偉大」だったという事を表している。
だから、彼のささげ物は受け入れられなかったのだ。
 
今ここエゼキエル書では、主を敬う礼拝の回復が指示されている。
私達は、神をリスペクトする心をもって、犠牲を捧げるべきであり、そうするなら、神からリスペクトされる。
 
 
エゼキエル46:6 ついたちには無傷の雄牛の子一頭、六頭の小羊および一頭の雄羊をささげよ。これらはすべて無傷のものでなければならない。
エゼキエル46:7 素祭は雄牛のために麦粉一エパ、雄羊のために麦粉一エパ、小羊のためには、その人のささげうる程度のものを供えよ。また麦粉一エパに油一ヒンを加えよ。
 
月ごとに来る新月の祭りに捧げるべき全焼のいけにえと、穀物のささげものが示されている。
それは安息日に捧げるささげ物に、若い雄牛が追加されている。
 
 
また、8-10節には、礼拝する者たちが、神殿の中で進むべき順路が示されている。
 
エゼキエル46:8 君たる者がはいる時は門の廊の道からはいり、またその道から出よ。
エゼキエル46:9 国の民が、祝い日に主の前に出る時、礼拝のため、北の門の道からはいる者は、南の門の道から出て行き、南の門の道からはいる者は、北の門の道から出て行け。そのはいった門の道からは、帰ってはならない。まっすぐに進んで、出て行かなければならない。
エゼキエル46:10 彼らがはいる時、君たる者は、彼らと共にはいり、彼らが出る時、彼も出なければならない。
 
君主は東向きの門から出入りするが、一般の人は、北の門か、南の門から出入りできる。
その際、出る時は、入る時と同じ門を通ってはならない。
 
礼拝へと向かう足、宮から出ていく足には、規律の正しさ、混乱のなさが要求されるのだ。
 
続いて、君主が民を代表してささげるべきささげ物が規定される。
 
エゼキエル46:11 祭日と祝い日には、素祭として、若い雄牛のために麦粉一エパ、雄羊のために麦粉一エパ、小羊のためには、その人のささげうる程度のものを供え、麦粉一エパには油一ヒンを加えよ。
 
祭日と祝日は、過越祭や仮庵祭などである。
 
 
エゼキエル46:12 また君たる者が、心からの供え物として、燔祭または酬恩祭を主にささげる時は、彼のために東に面した門を開け。彼は安息日に行うように、その燔祭と酬恩祭を供え、そして退出する。その退出の後、門は閉ざされる。
 
東向きの門が開かれるのは、君主が礼拝を捧げる時だけである。
 
 
エゼキエル46:13 彼は日ごとに一歳の無傷の小羊を燔祭として、主にささげなければならない。すなわち朝ごとに、これをささげなければならない。
エゼキエル46:14 彼は朝ごとに、素祭をこれに添えてささげなければならない。すなわち麦粉一エパの六分の一に、これを潤す油一ヒンの三分の一を、素祭として主にささげなければならない。これは常燔祭のおきてである。
エゼキエル46:15 すなわち朝ごとに常燔祭として、小羊と素祭と油とをささげなければならない。
 
礼拝と犠牲は、毎朝、捧げられるべき事が示されている。
現在、私達には、私達の身代わりにほふられ、血を流してくださったまことの子羊、イエス・キリストがおられるので、私達は、動物を捧げるのではなく、日ごと、週ごと、月ごとに、私達に身代わりにほふられてくださったイエス・キリストを覚えつつ、日々、霊的な礼拝を捧げるのだ。
 
 
エゼキエル46:16 主なる神は、こう言われる、君たる者が、もしその嗣業から、その子のひとりに財産を与える時は、それはその子らの嗣業の所有となる。
エゼキエル46:17 しかし彼がその奴隷のひとりに、嗣業の一部分を与える時は、それは彼の解放の年まで、その人に属していて、その後は君たる人に帰る。彼の嗣業は、ただその子らにだけ伝わるべきである。
エゼキエル46:18 君たる者はその民の嗣業を取って、その財産を継がせないようにしてはならない。彼はただ、自分の財産のうちから、その子らにその嗣業を、与えなければならない。これはわが民のひとりでも、その財産を失わないためである」。
 
ここでは特に、君主たる者は、相続地を、相続以外の形で他人に譲渡してはならない、という規定が定められている。
君主たるものに求められる事は、正しさであり、「虐げないこと」なのだ。
 
 
エゼキエル40章以降にて示されて来た、君主たる者への指示は、政治的な命令はほとんど無かった。
ただ、一般人に代表して礼拝を捧げる、捧げ方だけが、細かく指示されており、唯一、君主に要求された政治的な命令といえば、以下だけであった。
 
エゼキエル45:9 主なる神は、こう言われる、イスラエルの君たちよ、暴虐と略奪とをやめ、公道と正義を行え。わが民を追いたてることをやめよと、主なる神は言われる。
 
君主たる者に、最も要求されるのは、政治手腕よりもむしろ、誰より主に対して正しく礼拝を捧げるたしなみなのだ。
元々、イスラエルには人間の王は、本来、いらない。
主だけが唯一、王であり、そして人の上に立つ君主の役割は、人々に代表して、主に礼拝を捧げる事だ。
 
 
エゼキエル46:19 こうして彼はわたしを連れて、門のかたわらの入口から、北向きの祭司の聖なる室に、はいらせた。見ると、西の奥の方に一つの場所があった。
エゼキエル46:20 彼はわたしに言った、「これは祭司たちが愆祭および罪祭のものを煮、素祭のものを焼く所である。これは外庭にそれらを携え出て、聖なるべきことを、民にうつさないためである」。
 
19-20節で示された、内庭にある料理場は、祭司だけが食べることが出来る罪のためのいけにえと、罪過のためのいけにえを料理する場所である。
 
 
エゼキエル46:21 彼はまたわたしを外庭に連れ出し、庭の四すみを通らせた。見よ、庭のこのすみにも庭があり、また庭のかのすみにも庭があった。
エゼキエル46:22 すなわち庭の四すみに小さい庭があり、長さ四十キュビト、幅三十キュビトで、四つとも同じ大きさである。
エゼキエル46:23 その四つの小さい庭の内部の四方には、石の壁があり、周囲の壁の下に、物を煮る所が設けてあった。
エゼキエル46:24 彼はわたしに言った、「これらは宮の仕え人たちが、民のささげる犠牲のものを煮る台所である」。
 
外庭にある料理場(21-24)は、民が食べることの出来るいけにえを料理する料理場である。
 
なお、23節の「物を煮る所」、すなわち「料理場(新改訳)」と訳された「メバシェラー」は、旧約聖書ではここに1度しか登場しない。
モーセの幕屋や、ソロモン神殿で示されなかった、この神殿のユニークな特徴の一つとして、神殿の敷地内に、調理場が示された事も、挙げられる。
 
「食べる事」もまた、礼拝の中の大切な要素である事が、強調されているのだ。
 
旧約においては「和解のいえにえ」が、神と祭司と礼拝者の3者が、共に同じいけにえを食べるものであり、新約でも、共に同じパンを割いて食べる事が、礼拝のひとつである。
私達は、食べるにしても飲むにしても、キリストを覚え、感謝していただくものである。
パウロは、教会を単なる飲み食いの場としてしまった者たちを叱責した。
 
 
エゼキエル40章以降に示されたこの神殿で、特徴的な事は、きよさにおいて、また汚れを持ち込まない事において、特に注意すべきだった。
かつてイスラエルは、神殿に汚れを持ち込んでしまった故に、バビロン捕囚の憂き目に遭って、豪華絢爛な神殿は、破壊されてしまった。
新約を生きる私達もまた、イエス・キリストにあって、聖である事が求められているのだ。
 
1ペテロ1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
 

家庭や職場というエデンの管理責任(創世記2:15-18)

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