メッセージ - 202201のエントリ

詩篇講解説教

安息日を大切にする人への祝福(詩篇92篇)

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表題には、安息日のための歌、と、書いてある。
 
主は、安息日を特別扱いしなさい、と、十戒で定められた。
なぜなら安息日は、主の創造のみわざが完成し、主がその日に休んで安息した日であるからである。
 
ユダヤ人は、安息日を中心に1週間を過ごしている。
なぜなら、主が命じられた事は、六日間は働いて仕事にいそしみ、第七日目は、主の安息をおぼえて、どんな仕事もしてはならない、と、十戒において命じられたからだ。
主は、六日間働いて、全てのものを造り、七日目に、休まれたからだ。
 
安息日にするべき事が、1-2節において、3つの動詞で、示されている。
 
92:1 いと高き者よ、主に感謝し、み名をほめたたえるのは、よいことです。
92:2 あしたに、あなたのいつくしみをあらわし、夜な夜な、あなたのまことをあらわすために、
92:3 十弦の楽器と立琴を用い、琴のたえなる調べを用いるのは、よいことです。
 
3つの動詞とは、
 
1,感謝する(ヤーダー)
元々は「手を使う」事で、投げる、弓を放つ、といった意味となった。
主に向かって投げるべきは、感謝であり、賛美であり、私達自身の冠である。
 
2,歌う(ザーマル)
ザーマルの意味は、「歌う」の他、賛美する、楽器を奏でる事の意味である。
表題の「歌(ミズモール)」は、ザーマルの名詞形である。
3節では、色々な楽器を用いて主に賛美を捧げる事は、良いことだ、と書いてある。
だから礼拝では、極力、色々な楽器を用いて賛美を捧げた方が良い。
 
3,あらわす(ナーガド)
意味は、告げる、知らせる、教える、言い表す、を意味する。
すなわち、口でもって、表明するのだ。
何を表明するのか。それは、主の恵み、主の真実を、である。(2節)
 
それらは、良いこと(トーブ)である。
トーブとは、パーフェクト、ビューティフル、グッドである。
主を覚え、主を安息するべき日に、主に感謝し、賛美を捧げ、また信仰を口で表明する事こそ、パーフェクト、ビューティフル、グッドなのだ。
 
92:4 主よ、あなたはみわざをもって/わたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います。
 
この詩篇の作者は、主のみわざを喜んでいる。
全て、神の民は、主がなさった創造のすばらしいわざと、その完成を喜ぶものであるが、同時に、主の聖徒一人一人は、おのおのの人生に主が降りて来て下さった事、主が不完全で欠けた私達を、癒し、不当な虐げを強いてきた敵を裁き、満ちたらせ、やがては完全なものとさせて下さる事を、喜ぶものである。
 
 
92:5 主よ、あなたのみわざは/いかに大いなることでしょう。あなたのもろもろの思いは、いとも深く、
92:6 鈍い者は知ることができず、愚かな者はこれを悟ることができません。
 
「鈍い者(バアル)」は、元々は「食べ物」を意味するが、そこから、家畜のような愚かさ・残忍さなど、聖なる性質の一切無い、肉欲の現れである。
「愚かな者(ケシール)」は、太ったもの、鈍い者の意味である。
 
すなわち、世の楽しみや諸々の心配事によって、心の脂肪がついて、霊的感性が鈍感になってしまった人、また、家畜のように食べ物や残忍さしか求めない、肉欲だけで生きているような人は、主が大いなるみわざを行った事に対して、何の感動も、感謝もない。
彼らは、主に対する期待も、邪悪な者に対するさばきも、一切関心が無い。
 
私達の中から、そのような「鈍さ(バアル)」や「愚かさ(ケシール)」は、イエス様の名前によって踏みつけ、取り除くべきだ。
 
92:7 たとい、悪しき者は草のようにもえいで、不義を行う者はことごとく栄えても、彼らはとこしえに滅びに定められているのです。
92:8 しかし、主よ、あなたはとこしえに/高き所にいらせられます。
92:9 主よ、あなたの敵、あなたの敵は滅び、不義を行う者はことごとく散らされるでしょう。
 
7節を見ると、悪人がもうじき滅びる前兆とは、悪人が「繁栄している事」である事が分かる。
エステル記や詩篇73篇も、そのパターンであった。
だから悪人がはびこっているのを見た時、私達は、その先が短い事を知り、エステルのように見を慎んで祈り、詩篇73篇のアサフのように、主の聖所に入って祈るのである。
 
そうするなら、次の事が起きる。
 
92:10 しかし、あなたはわたしの角を/野牛の角のように高くあげ、新しい油をわたしに注がれました。
92:11 わたしの目はわが敵の没落を見、わたしの耳はわたしを攻める悪者どもの/破滅を聞きました。
92:12 正しい者はなつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。
 
主は、礼拝すべき日には礼拝を遵守し、主の御業に思いを馳せて信頼する者を、このように守り、高く引き上げて下さる。
さらに、
 
92:13 彼らは主の家に植えられ、われらの神の大庭に栄えます。
 
主の家に植えられる、とは、主の目が常に注がれた特別な地に移し変えられ、特別保護の中で栄えるのである。
 
92:14 彼らは年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、
92:15 主の正しいことを示すでしょう。主はわが岩です。主には少しの不義もありません。
 
年老いてもなお実を結び、生気に満ちている、とは、誰もが望む所である。
実際、アブラハムも、モーセも、カレブも、年老いてなおそのようだった。
 
私達も、安息日を覚えてこれを聖とし、主を大切に覚え、礼拝から離れないなら、そのような尊厳に満ちた生涯を送る事ができるのだ。

 

 

主日礼拝

神の時間を起動する鍵 – 主の喜ばれる断食(エステル記4章)

第一礼拝 Youtube動画

English Service: Fasting that the Lord requires(Est4:16) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 今年は主の恵みの年、主の復讐の日、というビジョンが与えられ、それらを起動させるための鍵を、エステル記から学んでいる。王妃エステルは、ハマンの陰謀によって定められたユダヤ人虐殺の法令からユダヤ人を救うために、王に直訴しに行くようモルデカイに言われたが、躊躇した。なぜなら、王に呼び出されないまま御前に進み出るなら、死刑に処せられる、と定められていたからだ。それで彼女は、三日間断食をしてから王の前に出るから、皆も断食して、祈って下さい、と、モルデカイに要請した。この、いのちを賭けた断食が、神の民に、「主の恵みの年・主の復讐の日」をもたらす鍵となった。最も低かった地位は高められ、ハマンの家も、富も、地位も、そのまま神の民が受け継いだ。この「主に喜ばれる断食」とは一体何か。
 
 目に見える時間と見えない時間がある。現実の「見える時間」は世の強者が支配しているが、神が計画しておられる「見えない時間」は、いつでも、神の民が栄え、健康で満ち足りるように願われている時間である。
 神は、その「神の時間」を、現実の時間へ実体化させるために、いのちを張って主の御心を成し遂げようと、その「鍵を回す」人を探しておられる。その鍵を回せる人とは、自分の思いや願いを一切捨てて、ただ主の御心を100%求める、「主の喜ぶ断食」をした人である。イザヤ58章に、その断食が定義されている。
 イザヤ58章を見ると、主が喜ばれる断食とは、ただ食べ物を断つような事ではない事が分かる。断食のヘブライ語ツォームは、「覆う(ツゥーム)」が元であり、すなわち、悪い言葉や、つまらないおしゃべりをしないよう口を「覆う」事、また、人にうしろ指を指してあげつらう事や、悪い習慣との結束、悪い人付き合いなどを断ち切り、虐げられ縛られている人々を自由の身とし、必要を覚えている人には、自分の持ち物で助け、肉親の世話をする事。つまり、悪い行動・言葉を出さないように自分を覆い、困っている人に対しては、憐れみの行いで覆う事。それこそ、主の喜ばれる断食である。それをするなら、主の光が曙のように差しいで、傷は速やかに癒やされ、報いられていなかった物事への報いが発動し、日の目を見るようになって行く。
 エステル達は、その断食をした事によって、「神の時間」が起動する取っ掛かりをつくった。
 
 エステルが断食によって身も心も整え、王の前に出た時、彼女は、死刑を免れたばかりでなく、王の好意を得、「王国の半分でもやる」とさえ言われた。しかし、断食で願い事が叶った、と言って、すぐ調子に乗ってはいけない。それより、もっと重要な成果がある。彼女は、気品と美しさに満ちたおもむきで、「もしも王様がよろしければ、わたしの設ける宴会に”ハマンと一緒に”お越し下さい」と言った。ハマンは、彼女にとって、絶対に宴会に呼びたくない人であった、にもかかわらず、彼女は、王の楽しみとなる事を第一とし、ぜひハマンもご一緒に、と誘ったのだ。実際この時、王はエステルと30日もご無沙汰で、むしろ王は、ハマンと親しくしており、王の思考は俗的な考え方に充満していた。まだ聖なる訴えをする時機ではなかったのだ。
 主に喜ばれる断食の成果は、単に、願い求めていた事が叶えられる事だけではない。主の御心を躊躇なく行う、聖なる美しい性質を身にまとえる事である。どんなに憎たらしい、腹立たしい人を前にしても、嫌な顔をあらわにしたり、王を懸念させるような言葉を一切漏らさず、聖なる美しさと品性が、微動だにしない。
それこそ、真の美しさであり、正しい断食の成果である。顔にすぐに出る人は、このような断食をすべきだ。
 
 もう一つ、何より重要な成果は、エステルが「わたしがもうける宴会」へと、王とハマンの両方を招き、彼女が断食によって聖別した、聖なる時間・聖なる空間へと、彼らを招き入れた事である。そこに誘い込んだ事によって、霊的に、白いものは白、黒いものは黒へと、はっきり浮き彫りにされて行く。こうして王の前に、エステルの清く美しい人格と、それとは対照に、ハマンの悪い人格が、王の前に浮きぼりにされて行くのだ。
 汚れた相手には、怒りや罵詈雑言といった、汚れた方法で立ち向かってはならない。闇に染まってはならない。むしろ、自分の中から、そうした汚れた態度や言葉が出てくる事を「覆う(ツゥーム)」という、主に喜ばれる断食をする事によって、聖別された自分を整え、そうして聖なる時間の「領域展開」を仕掛けるのだ。
 『そうすれば、あなたの光が暁のように現れ出て、あなたは、すみやかに癒やされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。』(イザヤ58:8)
 主の喜ばれる断食を普段から身につけ、闇と悪によって凝り固まって頑として開かなかった鍵を回し、日常に、この歴史に、主の光をもたらす皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

エステルが美しく聖なる趣を揺るがさなかった秘訣(エステル4:11-17)

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詩篇講解説教

病や攻撃、災いから守られる保証(詩篇91篇)

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詩篇91篇には、あらゆる病疫や災い、攻撃からの、とても強力な守りと保証が宣言されている。
 
91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
 
主からの強力な保護をいただける人とは、いと高き方の隠れ場に住む人、全能者の陰に宿る人、主に対して「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と信じ宣言する人である。
 
ダビデは巨人ゴリヤテと対峙した時、宣言した。
『「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。サウルはダビデに言った、「行きなさい。どうぞ主があなたと共におられるように」。』(1サムエル記17:37)
 
主は、どんな強い戦う相手からも、また、行く先のどんな災いからも、救い出す事がおできになる。
イエス様は、「あなたが信じた通りになれ」と言われた。
私達・主を信じる者は、真実であられる主が言われた事を、そうなると信じて宣言するなら、その通りになる。
 
2次世界大戦中、イギリスのウイットルゼイ大佐もまた、この詩篇91篇を、部下全員に暗唱(テフィリン)させ、毎日祈らせたところ、なんと5年間、銃弾や爆弾が飛び交う戦場で、部下の一人も死ななかった。
まさに主の御言葉は、信じて宣言した者の勝ちである。
 
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
 
主は、あらゆる罠から、恐ろしい疫病から、完璧に守る事がおできになる、という根拠が、ここに記されてある。
 
災いは、誰にも彼にも降される、というわけではない。
主から守られる人というのは、たとえ、パンデミックの中心地にいたとしても、無事に守られる事が、聖書の中にもいくつか例がある。
 
サタンがダビデをそそのかして自国の兵士の数を数えさせた時、イスラエル全土では、7万人もの人々が疫病で倒れた。
その時、災いの中心地では、御使いが、エブス人・オルナンの打ち場に立って、抜き身の剣をエルサレムの上に差し伸べていた(1歴代誌21章)。
 
人々が激しい疫病で、次々と倒れていく中、その、災いの中心地であるオルナンの打ち場にいた、オルナン自身は、何の害も受けず、その傍らで、自分の仕事をしていた。
そこに、自分の主君であるダビデ王が来た時、彼はすぐに出て来て、ひれ伏した。
 
オルナンは、たとえ病禍のさなかでも、仕事に忠実で、また、主が立てられた権威に忠実であっただけでなく、彼はいつでも、主に全てを捧げる心備えを持っていた(22節)。
主は、そのような人をこそ、災いの最中でも守って下さる。
 
私達は、災いの時世、祭司として執り成し祈るべきである。
取りなし祈る事は主のみ心であり、そして主は、執り成し祈る祭司には、守りの保証をも与えて下さる。
 
モーセの時代、人々が主に逆らった故に、疫病が起こり、人々がばたばた倒れて行く中、大祭司アロンは、祭壇から火を取って、走っていき、死んだ人達と、生きている人達の間で祈りの香を焚いた時、疫病は止んだ(民数記16:41-50)。
この時、アロンは、生きている人と死んだ人の間に立ったにもかかわらず、病は一切、彼を害する事はなかった。
 
私達も、祭司として、取りなし祈る役割を、行く先々で負うべきである。
 
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
 
コロナが蔓延しはじめた2020年初頭、コーエン仲間で、中国宣教をしていたある働き人の報告によると、武漢は、2019年、教会迫害が最もひどく、48の地下教会を強制的に閉鎖させられた。
そこは、中国宗教規制政策の、模範地指定までされており、その年末には、ほぼ、全てのキリスト教宣教師が追放されていた。
しかし、全てのキリスト教宣教師が追放された直後、武漢肺炎が爆発的に広がり、宗教規制を実行する部門で最高位だった、キリスト教弾圧を指揮した、その当人が、真っ先に亡くなったという。
 
8節にある。
あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである、と。
 
この度、マイクロソフトを創始したビル・ゲイツ氏は、コロナウイルスよりも格段にたちの悪いウイルスのパンデミック到来を警告し、各国政府に次なる世界規模の感染拡大に備えるため、数十億ドルを拠出するよう呼びかけている事を、フィナンシャルタイムズが報じた。
https://jp.sputniknews.com/20220120/9986239.html 2022/01/20のニュース)
 
彼が、どういう経緯で、そう断言しているのかは分からない。
しかし、もし、人為的にウイルスパンデミックを作り出して、いたずらに人を殺している者がいるとするなら、人に耳を植えつけられたお方、目を造られたお方、国々を戒めるお方、人に知識を教えるそのお方が、お責めになる事を宣言しておく。
 
箴言26:27  穴を掘る者は自らその中に陥る、石をまろばしあげる者の上に、その石はまろびかえる。
 
イザヤ28:15 あなたがたは言った、「われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ。みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない。われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくしたからである」。
28:16 それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに/一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』。
28:17 わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」。
28:18 その時あなたがたが死とたてた契約は取り消され、陰府と結んだ協定は行われない。みなぎりあふれる災の過ぎるとき、あなたがたはこれによって打ち倒される。
28:19 それが過ぎるごとに、あなたがたを捕える。それは朝な朝な過ぎ、昼も夜も過ぎるからだ。このおとずれを聞きわきまえることは、全くの恐れである。
 
主を避けどころとし、その翼の陰に宿る人を、主は、あらゆる道において、守られる。
 
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
91:11 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で/あなたを守らせられるからである。
91:12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
91:13 あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。
 
その人は、主に守られるだけでなく、獅子やコブラを、踏みつける者となる。
 
ローマ人への手紙16章20節
平和の神は、すみやかに、あなたがたの足(の下)でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
 
パウロは、宣教ゆえに捕らえられ、カイザルの裁判へと護送されて行った先で、まむしに噛まれた。
しかし彼は、何の害も受けず、むしろ、まむしを火に払い落とし、よけいに福音が行く先々で広まった。(使徒28章)
 
私達は、コロナパンデミックの中でも、働きに出ていかなくてはならない。
だから、行く先々で、全能の主の翼の陰にやどり、ダビデのように信じて宣言すべきである。
 
信仰の先人たちを、獅子や、熊から、まむしから、激しい疫病のパンデミックから、守ってくださった主が、このわたしと、わたしの家族を、またわたしのチームを、守られる!と。
 
14節からは、人称が2人称へ変わり、主が私達に直接語りかける形となる。
 
91:14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
91:15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
91:16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。
 
14節の「愛して離れない(ハーシャク)」とは、「(喜んで、愛して)しがみつく」という意味である。
幼子が母親をしがみつくように、また、女性が愛してやまない男性に喜んでしがみついて行くかのように。
そのように、主を喜んで、愛して、しがみつきに来る人を、主は、助け出し、高く上げ、呼ぶ時に応え、苦しみの時にともにいて、救い、ほまれを与え、ながいいのちで満ちたらせ、救いを見せて下さる、と書いてある!
 
この、病疫がはびこる時代、オルナンのように、与えられた仕事と権威に忠実になり、主から守られる皆さんでありますように!
また、アロンのように、死と生のはざまで苦しんでいる人達のために、とりなし祈り、主から護られつつ、祭司として、神と人との間に和解の務めを果たしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

詩篇講解説教

諸行無常、色即是空を乗り超えて永遠に輝く神の民(詩篇90篇)

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詩篇90篇表題『神の人モーセの祈』
 
詩篇90篇より、詩篇の第四巻が始まる。
この詩篇第四巻(90‐106篇)は、おもに彷徨いと苦難について記されており、それはまさに、民数記の内容である。
その冒頭の詩篇が、荒野でのさまよいと苦難を最も経験した、モーセがしるした詩である。
 
90:1 主よ、あなたは世々われらのすみかで/いらせられる。
90:2 山がまだ生れず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。
 
モーセは真っ先に、主が、私達の「すみか(マーオーン)」でいらせられる、と宣言した。
マーオーンというヘブライ語の意味は、宿る所、住む所、逃げ込む所。
 
この詩篇90篇は、諸行無常的な、色即是空的な内容がフォーカスされがちではある。
しかし、モーセの最初の宣言、すなわち、永遠から永遠に生きておられる主が、わたしの住まいである、という信仰の宣言によって、虚しい色合いは、一気に、永遠の希望の色合いに変化する。
その変化を味わえるかどうか。
それは、一人ひとりが信じる、信仰の対象にかかっている。
 
 
90:3 あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。
90:4 あなたの目の前には千年も/過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。
 
帰る先が、単に「ちり」であるとするなら、確かに、全てのものが虚しい、諸行無常の響きに聞こえる。
しかし聖書を読むなら、主が言われた「帰れ」の先は、「ちり」よりも遥かに栄光ある「先」である事が分かる。
 
90:5 あなたは人を大水のように流れ去らせられます。彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえでる青草のようです。
90:6 あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。
 
ここの「ひと夜の夢(シェナー:眠る)」とは、死を意味しており、人が、朝には咲いても、夕べにはしおれる花のように、たとえられている。
そこで終わるなら、色即是空の世界観であるが、しかし、「眠り(シェナー)」と表現されているからには、「目覚め」の希望もあるという事だ。
 
確かに人は、罪を犯したゆえに、その報いとして、ちりに帰る存在となってしまった。
しかし、人は、ちりに帰って終わりではない。
肉体がちりに帰ると共に、その霊は、永遠なる神の元に帰るのだ。
 
その永遠の先を、楽園、すなわちパラダイスで生きる人がいる。
それは、神と和解し、神の救いを得た人である。
新約時代の今、その人達とは、「彼は救い」という名の救い主・イエス様を信じた人達であり、その人達こそ、永遠の楽園(パラダイス)で、神とともに生きる人達だ。
 
イエス様は、人の罪の身代わりとして十字架にかかり、ひとたび「眠った」。
しかし、三日目に「目覚め」、復活し、死を打ち破って、こうして、死の呪いの下にある全ての人々の救い主となられた。
 
彼を信じる人は、神と和解が成立し、もはや、単に「ちり」に帰る存在ではなくなり、神の子という特権を得て、栄光の栄光に満ちた天国で、まことの花婿イエス・キリストと共に、永遠に喜び楽しむ者となるのである。
それが、福音である。
 
 
90:7 われらはあなたの怒りによって消えうせ、あなたの憤りによって滅び去るのです。
90:8 あなたはわれらの不義をみ前におき、われらの隠れた罪をみ顔の光のなかにおかれました。
90:9 われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。
 
確かに、モーセの時代、イスラエルの民は、神の「怒り」「憤り」を引き起こした。
そしてモーセは、そのような彼らが、荒れ野で次々と死んでいくのを見た。
 
主の御怒りの前で、人の年が尽きるのは、ひと息のようである、と、モーセは表現した。
 
しかしその一方で、荒野で死ぬことなく、約束の地に到達した人々もいた。
ヨシュアとカレブである。
主の御怒りを引き起こして死ぬ人と、生きながらえて御国を相続する人の違いは、一体何だろう。
 
神の怒りを引き起こして、荒野で滅んだ人々は、神様の言葉を信じず、従わなかった人々である。
ひるがえって、約束の地に到達した人々は、神様の言葉を信じて、従った人々であった。
 
神様の言葉に従わない人は、9節にある通り、主の激しい怒りの中に沈み行き、自分の年を、ひと息のように終わらせてしまう人生である。
しかし、主の御言葉を握りしめ、聞き従った人々は、約束の地に入り、すばらしい相続地を得た。
カレブなどは、85歳であったにもかかわらず、日常の出入りや、戦争にも耐えるほどに、健康体で、誰もが恐れる強者が住んでいたヘブロンを奪還し、その土地に、彼の子々孫々を住まわせた。
主に信頼する者は、鷲のように若々しく力が与えられ、翼をかって登って行くのである。
 
 
90:10 われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。
 
この人生を、単に、労苦とわざわいに満ちた、80年ほどでちりに帰ってしまう人生にしてしまうか。
それとも、カレブのように充実した栄光の人生にするか。
それは、主を正しく知り、正しく「主の時」をわきまえるかどうかにかかっている。
 
90:11 だれがあなたの怒りの力を知るでしょうか。だれがあなたをおそれる恐れにしたがって/あなたの憤りを知るでしょうか。
90:12 われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。
 
モーセは、自分の日を正しく数える事を教えて下さい、知恵の心を得させて下さい、と祈り求めた。
私達は、主の御怒りの恐ろしさを、聖書から正しく知るべきであるが、それ以上に、主が下さる莫大な祝福、莫大なしあわせをこそ、求め、知るべきである。
主の莫大な祝福を得る鍵は、主の御声に聞き従い、その言葉を守り行る事。
この、実にシンプルな事であった。
 
モーセは12節で、自分の日を正しく数える事ができるように、と、求めたが、私達も、自分の人生の日々を、いかに主にあって正しく生きるかを、求めるべきである。
 
人は何かと、自分の人生がこれからもずっと、変わらず続いていくもの、と思いこんでいるが、人生を80年として、自分の年齢を引き算し、日数を計算するなら、自分の日数は、意外と少ない事がわかる。
しかも、80歳まで生きられる、などと、誰も分からないどころか、そのわずかな日々は、10節にある通り、ほねおりと悩みに満ちている予感しかない人が多い。
 
だから私達は、「きょう」と呼ばれる日に、主の御声に聞き従い、主の嫌われる事を止めるべきなのだ。
 
 
90:13 主よ、み心を変えてください。いつまでお怒りになるのですか。あなたのしもべをあわれんでください。
90:14 あしたに、あなたのいつくしみをもって/われらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてください。
90:15 あなたがわれらを苦しめられた多くの日と、われらが災にあった多くの年とに比べて、われらを楽しませてください。
 
13節以降、モーセは主に祈っている。
いつまでお怒りになられるのですか、あわれんで下さい、人生の日々を恵みで満ち足らせ、喜び歌い、楽しむようにしてください、と。
 
今までの人生、悩んで来たかもしれない。
災いに遭ってきたかもしれない。
それは、正しく主に祈り求めなかった日々だけで、もう十分である。
モーセのように、祈り求めるべきである。
 
90:16 あなたのみわざを、あなたのしもべらに、あなたの栄光を、その子らにあらわしてください。
90:17 われらの神、主の恵みを、われらの上にくだし、われらの手のわざを、われらの上に/栄えさせてください。われらの手のわざを栄えさせてください。
 
モーセは最後に、われらの手のわざを栄えさせてください、と、繰り返し祈っている。
手応えのない日々を何十年も送り、手のわざが何も残らないままちりに帰って、やがて存在していた事すらも忘れ去られてしまう、そのような人生が、耐えられないのだろう。
 
しかし、私達の存在を確かなものとし、永遠のものとして下さるお方は、主である。
そして、永遠なる主のために捧げた事だけが、永遠の記念として残るのである。(マタイ26:13)
 
モーセは、いのちが取られる直前に、イスラエル12部族を祝福した後、いよいよ最後に言った言葉が、以下である。
 
申命記33:26 「エシュルンよ、神に並ぶ者はほかにない。あなたを助けるために天に乗り、/威光をもって空を通られる。
33:27 とこしえにいます神はあなたのすみかであり、/下には永遠の腕がある。敵をあなたの前から追い払って、/『滅ぼせ』と言われた。
33:28 イスラエルは安らかに住み、/ヤコブの泉は穀物とぶどう酒の地に、/ひとりいるであろう。また天は露をくだすであろう。
33:29 イスラエルよ、あなたはしあわせである。だれがあなたのように、/主に救われた民があるであろうか。主はあなたを助ける盾、/あなたの威光のつるぎ、/あなたの敵はあなたにへつらい服し、/あなたは彼らの高き所を踏み進むであろう」。
 
モーセは、イスラエルに「エシュルンよ」、と呼びかけている。
エシュルンは「まっすぐにする」「正しく考える」という意味である。
 
神の民の本来は、まっすぐな神の言葉どおりに歩むものであり、神をすみかとするものであり、その力強い神の御腕の下で敵から守られ、安らかに住み、地の豊かな産物を喜び楽しむ、誰にも比べうるものの無い、しあわせな民族のはずである。
私達は、神の民として、まっすぐな神の言葉に歩み、祝福としあわせの人生を全うし、この肉体はちりに帰ったとしても、霊は永遠の天国で、永遠のしあわせを神とともに生きる者たちである。
 
結局、まことの神を知らず、求めず、神ぬきで生きる人間、すなわち、80年ほどでちりに帰る人間が、やっと到達できる叡智が「諸行無常」「色即是空」「全ては虚しい」、のたぐい以外には無い。
しかし、永遠なる主とともにあゆむ人は、その向こう側に行く事ができる。
すなわち、永遠の喜びに溢れたいのちを、まことの花婿・イエス・キリストと共に、永遠に楽しむのである。
 
モーセは、この詩を残し、約束の地に足を踏み入れる事なく、ちりに還ったが、それで終わりではなかった。
新約を見ると、モーセがちゃっかりと、イエス様と共に約束の地の「こちら側」にいて、神様の栄光の内に、永遠のいのちを生きていた事が分かる。(マタイ17:3)
イエス様にある信仰者には、永遠の栄光と喜びがある事を、決して忘れてはならないのだ。

詩篇講解説教

主のタイミングで主の御旨を実行せよ(詩篇89:19-52)

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この詩篇89篇は、永遠であり普遍なる神が、ダビデと契約を結ばれた事、そして、その契約を結ばれた主は、はじめから終わりまで真実であられた事を歌っている。
 
主は永遠に真実なお方であるのに対し、人の側は、誠実な時もあれば、不実な時もある。
人が誠実な時には、主は誠実への報いとして大きな祝福を与えられるが、不実な時には、懲らしめとして苦難を与えられる。
 
この詩篇の後半は、将来のダビデの子孫たちが不従順ゆえに災いに遭っている姿を見せられたエタンによる、とりなしの叫びである。
 
そのような叫びが出来るのは、主は義であると同時に、憐れみ深く、恵み深い方である事を、彼が知っていたからだ。
 
18節までは、王の王であられる神の栄光を賛美していたが、19節以降では、特に、ダビデ契約の性質を詳しく示している。
 
 
89:19 昔あなたは幻をもってあなたの聖徒に告げて/言われました、「わたしは勇士に栄冠を授け、民の中から選ばれた者を高くあげた。
 
神はダビデを選んで、その王国を固く建て、その子孫に、永遠の支配をゆだねられた。
その子孫とは、イエス・キリストである。
 
さらに20節以降に、主がダビデに与えてくださった真実と恵みの数々が、記されている。
 
 
89:20 わたしはわがしもべダビデを得て、これにわが聖なる油をそそいだ。
89:21 わが手は常に彼と共にあり、わが腕はまた彼を強くする。
89:22 敵は彼をだますことなく、悪しき者は彼を卑しめることはない。
89:23 わたしは彼の前にもろもろのあだを打ち滅ぼし、彼を憎む者どもを打ち倒す。
89:24 わがまことと、わがいつくしみは彼と共にあり、わが名によって彼の角は高くあげられる。
89:25 わたしは彼の手を海の上におき、彼の右の手を川の上におく。
89:26 彼はわたしにむかい『あなたはわが父、わが神、わが救の岩』と呼ぶであろう。
 
実際、ダビデは、神に助けられ、サウル王やペリシテ人から守られ、そしてサウルに代わる王とされた。
そうして向かうところ敵なしの状態となって、イスラエルに敵対していた国々を平定した。
 
それは、26節にある通り、ダビデは神を父とし、「わが神」「わが救いの岩」としたゆえであった。
続く節で、神は応答される。
 
89:27 わたしはまた彼をわがういごとし、地の王たちのうちの最も高い者とする。
89:28 わたしはとこしえに、わがいつくしみを彼のために保ち、わが契約は彼のために堅く立つ。
89:29 わたしは彼の家系をとこしえに堅く定め、その位を天の日数のようにながらえさせる。
 
神はダビデを「ういご」として扱われた。
実際、ダビデの子孫、イエス・キリストは、全て神に召された者たちの長子である、と、ローマ8:29に書かれてある。
 
ローマ8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
 
そう、召し出された私達・教会は、全ての事が働かされて、益とされる者たちである。
たとえ世の中が、どのような情勢となったとしても。
 
なぜなら神は、召し出された人々を、御子キリストと同じ姿へと、あらかじめ定められていたからである。
 
 
詩篇89篇30節以降には、もし、ダビデの子孫たちが、神様の真実に対し、「不真実」で返したら、どうなってしまうのか、あらかじめ警告されていた内容が示されている。
 
89:30 もしその子孫がわがおきてを捨て、わがさばきに従って歩まないならば、
89:31 もし彼らがわが定めを犯し、わが戒めを守らないならば、
89:32 わたしはつえをもって彼らのとがを罰し、むちをもって彼らの不義を罰する。
89:33 しかし、わたしはわがいつくしみを/彼から取り去ることなく、わがまことにそむくことはない。
89:34 わたしはわが契約を破ることなく、わがくちびるから出た言葉を変えることはない。
89:35 わたしはひとたびわが聖によって誓った。わたしはダビデに偽りを言わない。
89:36 彼の家系はとこしえに続き、彼の位は太陽のように常にわたしの前にある。
89:37 また月のようにとこしえに堅く定められ、大空の続くかぎり堅く立つ」。〔セラ
 
確かに、主との契約を破って、主から離れるとするなら、懲らしめと刑罰が待っている。
しかし同時に、主は、わたしは恵みを彼からもぎ取らず、わたしの真実を偽らない、と言われた。
「わたしは決して捨てない」という、素晴らしい主の恵みが、あらかじめ表明されていたのだ。
 
確かにダビデの王家は、代々、主に逆らってきた。
にもかかわらず、主は、ダビデの家を覚えておられ、その子孫から、救い主イエス・キリストをお建てになった。
 
38節以降を見ると、エタンが見せられた刑罰の厳しさがわかる。
 
89:38 しかしあなたは、あなたの油そそがれた者を/捨ててしりぞけ、彼に対して激しく怒られました。
89:39 あなたはそのしもべとの契約を廃棄し、彼の冠を地になげうって、けがされました。
89:40 あなたはその城壁をことごとくこわし、そのとりでを荒れすたれさせられました。
89:41 そこを通り過ぎる者は皆彼をかすめ、彼はその隣り人のあざけりとなりました。
89:42 あなたは彼のあだの右の手を高くあげ、そのもろもろの敵を喜ばせられました。
89:43 まことに、あなたは彼のつるぎの刃をかえして、彼を戦いに立たせられなかったのです。
89:44 あなたは彼の手から王のつえを取り去り、その王座を地に投げすてられました。
89:45 あなたは彼の若き日をちぢめ、恥をもって彼をおおわれました。〔セラ
 
ここの「彼の若い日を短くし」とは、エホヤキン王の事を指すと思われる。
彼は18歳(2歴代誌36:9のヘブル語本文では8歳)で王となりエルサレムで3か月間王であった。
 
ソロモンの時代を生きていたエタンは、そのような暗い遠い将来を、「琴と立琴とシンバルをもって預言する者(1歴代誌25章)」として、預言の内に見せられ、この詩を書いたのだろう。
 
46-51節は、その悲惨な状況に対する主への叫びである。
 
89:46 主よ、いつまでなのですか。とこしえにお隠れになるのですか。あなたの怒りはいつまで火のように燃えるのですか。
89:47 主よ、人のいのちの、いかに短く、すべての人の子を、いかにはかなく造られたかを、みこころにとめてください。
89:48 だれか生きて死を見ず、その魂を陰府の力から/救いうるものがあるでしょうか。〔セラ
89:49 主よ、あなたがまことをもってダビデに誓われた/昔のいつくしみはどこにありますか。
89:50 主よ、あなたのしもべがうけるはずかしめを/みこころにとめてください。主よ、あなたのもろもろの敵はわたしをそしり、あなたの油そそがれた者の足跡をそしります。わたしはもろもろの民のそしりを/わたしのふところにいだいているのです。
 
 
悲惨な現状が到来してしまう原因は、ほぼ、私達の側にある。
 
私達・神の民が、主の御旨に沿った管理を、し損ねると、管理しなかった分の解決すべき問題の山々が、こちらを強制的に支配しにかかって来る。
すなわち、管理しなかった人間関係、管理していなかった勉強時間、管理していなかった、その他もろもろが。
それらがやがて、牙をむいて、こちらを強制的に支配しにかかって来るのだ。
 
それは法則ではあるが、しかし主は、「無感情な法則」のようなお方ではなく、恵み深いお方である。
それだからエタンは訴えているのである。
私達も、個人的に主に訴え祈ることができる。
 
エタンは、そのような訴えをしはしたけれども、最後は頌栄と、アーメン、アーメンでこの詩を終え、詩篇第三巻を閉じた。
 
89:52 主はとこしえにほむべきかな。アァメン、アァメン。
 
私たちの生活も、もしかすると、エタンが見たような葛藤の中にあるかもしれない。
しかし、人の目に見える時間があると同時に、人の目には見えない「神の時間」がある。
私達が見える時間は、政治家、社長、株主など、この時代の強者が支配している。
しかし神は、見えない時間を管理しておられ、神の民に、神の時を告げ知らせ、神の経営を実行させるために、御言葉を下さる。
 
私達は、その「時」を悟り、時にかなった事をする「時間マスター」になるべきである。
 
私達が、主のタイミングで主の御旨を実行するなら、主の大いなるわざをもたらす「歴史の主人公」となれる。
 
しかし、もしそれが与えられているにもかかわらず、実行しないなら、大きなチャンスをみすみす逃すだけではない。
エタンが見せられたように、後々の自分や子々孫々へと、大きな災いを残してしまう事になる。
 
今、私達は、与えられている時間を自分の好き勝手にする時間としてではなく、主の御旨を悟り、主が仕組んだ時間として正しく管理し、主の御旨を実行させるために、用いられるべきである。

主日礼拝

時を支配する者となれ(エステル記3-4章)

第一礼拝 Youtube動画

English Service: Be the ruler of the time (Esther 3-4) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 今年は主の恵みの年、主の復讐の日というビジョンが与えられた。主の恵みの年、主の復讐の日を始めた良い例は、エステル記に記されているが、それを理解するためにモーセの時代へ遡らなくてはならない。
 イスラエルの民が、エジプトから約束の地へ旅していた途中、アマレクが襲ってきた。彼らはイスラエルの中の、疲れ、弱っていた人達を狙い撃ちに来た。アマレクの性質を一言で言うなら「弱い者いじめ」である。
 主は、そのような者の記憶を、天の下から消し去らなければならない、と命じられた(申命記25:17-19)。
それができるようになった「主の時」は、サウル王の時代に訪れた。主は、彼にそれを命じたが、彼はアマレクの王アガクを惜しみ、実行しなかった。それで彼は、災いの根を後々に残してしまう(1サムエル15章)。
主の時に、主に言われた通りに実行しないなら、後の自分や後の子孫が被る災いを、大きくしてしまうのだ。
 時代が降ってエステルの時代、サウルが根絶しなかったアガグの子孫と言われているハマンは、権力を得て、イスラエル民族を皆殺しにしようと企む。彼は、ユダヤ人モルデカイが彼に敬礼しない、という理由で、非常に憤り、モルデカイを殺すだけでは飽き足らず、彼の民・ユダヤ人をも絶滅しようと執念を燃やし、必要経費として、銀1万タラント(1タラントは30〜40キログラム)を出す、とまで言った。ハマンには恐らく、経済的に祝福されているユダヤ人の財産を没収して、私服を肥やそう、という意図も、あったかもしれない。
 
 この時は、ユダヤ人にとっては滅亡のカウントダウンの時間に見えたかもしれないが、人の目に見える時間と、見えない時間がある。私達が見える時間は、政治家、社長、株主など、この世の強者が支配しているが、神は、見えない時間を管理しておられ、神の民に神の時を告げ知らせ、神の経営を実行させるために御言葉を下さる。私達は、その「時間マスター」になるべきである。主のタイミングで主の御旨を実行する時、主の大いなるわざを、その時代にもたらす、「歴史の主人公」となれるが、それを実行しないなら、大きなチャンスをみすみす逃すのみならず、後々の自分や子々孫々へ、大きな災いを残してしまう事になる。
 今、私達に与えられている時間を、世が仕組んだ時間としてではなく、主が仕組んだ時間として悟り、管理するべきだ。私達・神の民が、時間を管理し損ねると、その、管理しなかった分の解決すべき問題の山が、管理しなかった人間関係や、勉強時間が、その他もろもろが、こちらを強制的に支配しにかかって来る。
神の時間を自覚せず、自分流の時間をそのまま生きるなら、時間という鞭に追われる「奴隷状態」となってしまうのだ。私達はどうやって自分の人生やこの歴史に、神の時間をスタートさせる「主人公」となれるのか。それは、神の時を見極め、その仕事を「やります」と従順し、神から託された地位や力を用いる時にである。
 
 モルテガイは、ハマンが定めたユダヤ人虐殺の法令を聞いた時、王妃エステルに、王の前に出て直訴するように言った。しかしエステルは、自分は王から30日も召されていない、もし召されないままで行くなら、自分は殺されるかもしれない、と返事した。そこでモルテガイは言った。『あなたがもし、「このような時」に黙っているならば、他の所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、「このような時のため」でなかったと誰が知りましょう」。』(エステル4:14)  そう、エステルは、「このような時」のために、神の摂理によって、王妃という地位が与えられていたのだ。主が彼女を通して働き、神の民を救うのみならず、神の民を世界的に偉大にさせる、という、神の「見えない時」を実現させるために。  私達も、神の摂理によって地位が与えられている。
それは一見、つまらない地位に見えるかもしれないし、あるいは逆に、どうしてこんなに高い地位と成功が与えられたのか、分からないかもしれない。しかしそれは、神の時の歯車が噛み合って、御心が実行に移されるために、神が入念に準備しておられたからだ。 それにもかかわらず、与えられている地位や富に安住し、主が「その時」のために整えられておられた使命を全うするのを拒むなら、モルデカイが言った通り、本人も、本人自身の家も、滅びてしまう。神は全ての人に、時と機会を備える(伝道者の書9:11)。神の定めた「時」と「機会」に乗り、その使命を果たす人が、主の御旨を遂行する事に用いられ、勝ち取って行くのだ。
 
 エステルが、自分がたとえ死ぬとしても、王の元に行きます、と引き受けた時、ペルシャの歴史が「主の恵みの年」へと変化した。主は、エステルが命がけで御旨を遂行しようとした決心を受け取り、神の民に栄誉を与える方向へと、歴史に手を加え始める。 与えられた地位を用いて主の御旨を行う決心をし、主の恵みの年、主の復讐の日を開始して行く皆さまでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

時間マスターであれ(エステル5:1-8)

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忘れずに報いを下さる主(エステル6章)

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悪人をすべりやすい所に置き、義人を堅い所に立たせて下さる主(エステル5:9-14)

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