メッセージ - 202201のエントリ
主日礼拝
主の恵みの年、主の復讐の日(イザヤ61章)
第一礼拝 Youtube動画
English Service: The acceptable year of the Lord(Luk4:18-21) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
今年初めに、ルカ4:16-21とイザヤ61章の御言葉が与えられ、「主の恵みの年、主の復讐の日」を実現させる年というビジョンが与えられた。「恵み(デクトス)」とは「快く受け入れられる」「気に入る」「歓迎される」という意味で、すなわち、主から最高に歓迎される年である。 そして「復讐」とは、ルカ4:18にある通り、貧しさや奴隷状態、傷、盲目状態、虐げられてきた日々に対する復讐である。 エジプトを脱出した民は400年も奴隷として搾取されて来たが、彼らは主にあって、きっちり分捕り返した上で脱出した。同じように私達も、悪魔サタンに分捕られて来た分は、キッチリとイエス様にあって搾り取った上で(最低でも倍返し:イザヤ61:7)、以前の状態から脱出し、この年を、「主の恵みの年」として塗り替え行くのだ。
そうなるためには、ルカ4:21の、「今日は、この御言葉が、あなたの耳の中で成就した日です」という宣言は、自分に成就したもの、として、受け入れる必要があった。貧しく、奴隷で、傷を受け、盲目で、虐げられた日々は、もうイエス様が十字架の上で「完了」させて下さった、という真理を信じ、受け入れ、その前提で歩んで行くなら、主の恵みの年・復讐の日が始動し、実体化されていくのだ。 こうして「恵みの年」が始まると、私達はどのような働き人となるのか。それはイザヤ61:3以降に記されている。
すなわち、シオン(神の民)の悲しむ者達に、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせる働き(3a)、すなわち、神の民に慰めをもたらす働きである。
『彼らは義の樫の木と唱えられ、主がその栄光を表すために植えられた者と唱えられる。』(3b) 樫の木と訳された語「アイル」は「力」「強さ」「長」をあらわす。つまりその人は、強く垣根を超えていく枝となるのだ。
その人は、昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する(4節)。
この国はかつて、福音が伝来した時は大いに広がり、信者が爆発的に増えて行ったが、当時の権力に迫害され、散らされてしまった。そのような、昔の廃墟を立て直し、復興させる働きを、今、起こすのだ。
『外国人は立ってあなた方の群れを飼い、異邦人はあなた方の畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。しかし、あなた方は主の祭司(コーエン)と唱えられ、我々の神の役者と呼ばれ、諸々の国の富を食べ、彼らの宝を得て喜ぶ。』(5-6節)。コーエンというヘブライ語は、祭司長、あるいは人々の長を意味する。私達が「コーエン」となって、神と人との間に立って取りなし、御言葉を教え、人々はそんな私達を補助するのだ。
そして主の復讐の日が始まる故に、『先に受けた恥にかえて二倍の賜物を受け、辱めにかえてその嗣業を得て楽しむ。それ故、あなた方はその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。』(7節)。
これは、とても素晴らしい祝福だが、このような祝福が与えられたからと言って、欲を出したり、高慢になったりしないように、今からよく気をつけるべきである。イスラエルの王達の多くは、若い内は純粋に主に従った故に、祝福され、富と力を得るのだが、それによって高慢になり、罪を犯して、祝福が去ってしまった、というパターンばかりだった。私達はその例にならわないよう、祝福された将来の自分がそうならないよう、今からよくよくシュミレーションするべきである。次のように注意されているからだ。『主なるわたしは公平を愛し、強奪と邪悪を憎み、真実をもって彼らに報いを与え、彼らと、とこしえの契約を結ぶからである。』(8節)
このようにするなら、子々孫々が、主にあって栄光の次世代に、栄光のリーダーへとなって行く。『彼らの子孫は、諸々の国の中で知られ、彼らの子らは、諸々の民の中に知られる。全てこれを見る者は、これが主の祝福された民である事を認める。』(9節) 私達には、このビジョンが与えられている。御言葉教育をする幼稚園や学校を建て、テフィリン教育を施し、そうして若者たちを、ユダヤ人以上の天才に育て上げ、次世代のリーダーとし、国々が主の栄光を見て、イエス・キリストの福音の傘下を歩むようにして行く・・・。それが今、コーエン大学で養われた働き人達を中心に、世界中で起きている、テフィリンのムーブメントである。
主は、人のいないのを、うめいておられる。とりなす人や、主のうめきを察知して主の働きをする人がいないのを。私達は、神と人との間に立つ「コーエン」となって、人々のために取りなし、また、この時代に神の国を建て上げていく働き人となって、主の恵みの年を実現していくのだ。そのようなビジョンをもって、主のために意欲的に働く人に、主は、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださる(10節)。今年、全ての国に、主の義と、賛美を芽生えさせる働きをはじめ、主の恵みの年々、主の復讐の日々を開始して行く皆さまでありますように!
神の求めるものを固く守ろうとする者に、神が「与える(ナタン)」もの(ダニエル1章)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2022-1-12 15:52
神の求めるものを固く守ろうとする者に、神が「与える(ナタン)」もの(ダニエル1章)
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敵に追い立てられて導かれたベエル・シェバ(創世記26章)
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せっかく語られた主の恵みの年が実現しない人たち(ルカ4:16-30)
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主日礼拝
神様が最もお喜びになる年とするために(ルカ4:16-21)
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週報/メッセージ(説教)概要
主の恵み(デクトス)の年を告げる…。今回の御言葉は、2022年開始と同時に行われた新年礼拝で示された御言葉である。「恵み」と訳されたデクトスの意味は、聖書によく登場する「恵み(カリス:優しさ、思いやり)」とは違った意味で、「快く受け入れられる」「気に入る」「歓迎される」、といった意味がある。つまりデクトスの年とは、「神様が最もお喜びになる年」、「最も適切な年」という意味だ。神様が最もお喜びになる年を、告げ知らせる事…。それが、イエス様の役割であり、油注がれた主の働き人の役割でもある。なぜなら、今回の引用元の聖句であるイザヤ61:3には、「彼らは」義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれる、と書いてある。「彼ら」、と、複数形で書かれてあるからには、その役割をするのは、イエス様お一人の専売特許ではなく、聖霊の油が注がれた私達も、デクトスの年、恵みの年を告げる働き人となって行く、という事だ。
デクトスの年、つまり神様が最もお喜びになる年とは、どういう年か。その内訳が18節に書いてある。
「1,貧しい人々に福音を伝える」、「2,捕われ人には赦免を告げ知らせる」、「3,心の傷める者を癒やす(多くの訳で省かれているが原典に存在)。」、「4,盲人に目の開かれる事を告げる」、「5,虐げられている人々を自由にする」。これらを、私達が為す時、主の最も喜ばれる年、受け入れられる年になる。
主は、願っておられる。私達が、たましいに幸いを得ているように、全ての点でも幸いを得、また健康であるように、と。だからまず私達自身が、1,福音によって富んだ者となり、2,捕われ状態が赦免され、3,心の傷が癒やされ、4,霊的盲目状態から解放され、5,虐げられている状態から自由になる必要がある。
そうなるためには、イエス様が十字架上で宣言された言葉、「完了した」を適用するのだ(ヨハネ19:30)。
私達は、イエス様が十字架で「完了した」を宣言された時、一緒に「死んだ」のであり、真理の上では、罪の借金も、呪われるべき負債も、全て「支払い済み」「完了済み」となった。そう「仕分け」するべきである。
『このように、あなた方自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者である事を、「認む(ロギゾマイ:仕分けする)」べきである。』(ローマ6:11) 私達はその真理を宣言するのだ。
1,貧しさは完了し、イエス様にあって、富んだ自分が始まった! 2,捕われ状態は完了し、赦免を受けた!
3,心の傷は完了し、癒やされ、健やかになった! 4,見えなかった状態は完了し、見えるようになった!
5,虐げられ状態は、完了し、自由になった! これらを、十字架上で主イエスが完了したと「仕分け」し、その前提で生きて行くなら、それらは有効化され、実体化され、恵みの年が、効力を得て、始動するのである。
引用元のイザヤ61:2には、「主の恵みの年」に加えて、「神の復讐の日を告げ」る事が書いてある。復讐とは、何への復讐か。それは、1,貧しくさせられた事に対する復讐であり、2,捕われ状態だった日々に対して 3,心に傷を負わされた事に対して 4,盲目にさせられていた事に対して 5,虐げられてきた年月に対しての復讐で、つまり全て、悪魔サタンに対する報復である。 エジプトで430年も奴隷とされていたイスラエルの民が、きっちり430年分の報復として金銀宝石を要求して、それらを携えてエジプトから出たように、私達もきっちり、イエスの御名によってサタンから搾り取った上で、奴隷状態から脱出して行くのだ。
イエス様は言われた。「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(ルカ4:21) 英語KJVでは、This day is this scripture fulfilled in your ears. すなわち、「今日は、この御言葉が、あなたの耳の中で成就した日です」となる。主のことばは「in your ears:耳の内側」で成就する。つまり、耳で聞いただけではだめで、耳のさらに内側、心の中に入り、御言葉を信仰によって自分自身と混ぜ合わせた時、成就する。
ところが、この良き知らせである福音を聞いても、実体化しない人は、確かにいる。事実、イエス様からこの「恵みの年」の宣言を聞いたナザレの人々は、それを信じなかったばかりか、イエス様を崖から突き落とそうとした。なぜだろう。それは、彼らが聞いた御言葉を、信仰によって結び付けなかったからだ。『彼等は聞きし言葉に信仰を交ぜざりしかば、その聞ける言葉も彼等を益せざりき。』(永井訳 ヘブル4:2)
聞いた御言葉を、信じて服従するなら、安息に入る。しかし、出エジプトした民の大部分のように、聞いても信じず、頑なに御声を退けるなら、安息に入れずに、滅んでしまう。 安息日の休みは、信仰をもって御言葉を交ぜる聖徒のために残されており、神の安息にあずかった人は、神が御業を終えて休まれたように、自分のやりくりや頑張りを終えて、休みに入る(ヘブル4:10)。信じて、神の安息に入り、主の恵みの年を成就させ、栄光の働き人となっていく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!