メッセージ - 202202のエントリ

いつでも祈るべきであり、失望してはならない(ルカ18:1-8)

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昨日のエゼキエル書38章のメッセージについて、質問を受けた。
 
もう聖書に書いてある終末のシナリオは、スタートしてしまったのだろうか。
もしそうだとしたら、聖書で既に確定してしまっている災いや艱難については、もう祈ってもしょうがないのだろうか、と。
 
まず、終末のシナリオが始まってしまっているなら、もう祈っても仕方がないのだろうか、という質問に対しては、「仕方がなくはない」である。
というのは、預言されていた災いが、間近に迫っているのを見た人達が、悔い改め、また、聖徒たちが取りなし祈った事によって、主は、災いやさばきを降さなかった、あるいは、遅らせて下さった記述が、聖書には幾つかあるからだ。
創世記18-19章しかり、1列王記21:29しかり、ヨナ書しかり。
 
そういうわけで、もう終末のシナリオがスタートしてしまったのかどうか、という質問に対しては、私達聖徒達が、あきらめずに取りなし祈り続けるかどうか、また、人々が悔い改めるかどうか、に、かかっている、というのが、答えである。
 
主は、日夜叫び求める選民の祈りに、聞いて下さるお方である。
イエス様も、言っておられる。
 
ルカ18:1 また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。
18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。
18:3 ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。
18:4 彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、
18:5 このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。
18:6 そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。
18:7 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。
18:8 あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。
 
ここでイエス様は、失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられているが、
私達が特に気をつけるべきは、イエス様が最後に言われた事だ。
 
「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」
 
つまり、地上に信仰がなくなって、取り成す祈り手が無くなり、悔い改める人もいなくなった時、
その時に、大艱難の時代が来る、という事なのかもしれない。
 
イエス様が別の箇所で警告されたのは、
その日は「誰にも分からない」「盗人のように来る」「だから目を覚ましていなさい」
という事だ。
 
そういうわけで、今日、私達が受けるべきメッセージは、
私達はいつも、目を覚まして、時代を見張り、祈り続ける必要がある、という事だ。
 
終わりの時代において気をつけるべき事として、イエス様が真っ先に言われた事は、人や情報に惑わされないように、という事である。
 
マタイ24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」
24:4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
 
終末の時代、は色々なうわさや情報が飛び交い、それによって人の心は荒波のように揺れ動く。
人は不真実であり、諸々の情報も、おいそれと信じる事のできないものであるが、
しかし唯一、信じるに値するもの、決して変わらないものがある。
それは、神の御言葉だ。
 
その御言葉は、言っている。
忍耐して、祈り続けなさい、と。
 
今、ウクライナにおける戦争や、騒乱を主導した者は、時代に働く、霊的な、闇を握った世の主権者、天にいる諸々の悪意を持つ霊的存在達である事を、既にエペソ6章から学んだ。
私達は、この霊的勢力と、格闘するべきである。
 
この者達と戦うために、私達が取るべき霊的武具は、
「真理」「正義」「平安の福音の準備」「信仰」「救い」、
そして「神のことばという御霊の剣」である。
 
この戦いは、「ゆずった・ゆずらない」「容認した・容認しない」という、
「意思と言葉の場所取り戦争」である。
 
それは、この聖書のマニュアルどおり戦うなら、必ず勝てる戦いであり、勝利の鍵は、
いかに「しつこく」真理に立ち、祈りと御言葉で攻撃し続けたか、であった。
 
今、私達は、戦火の下で苦しんでいる人達に、物理的支援はできないとしても、
祈りと御言葉の宣言によって、闇の勢力の、霊的な権威に、攻撃をし続ける事ができる。
それは、有効な攻撃である。
 
エペソ6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
 
目を覚ましつつ、いつも祈り、
時代に働く暗闇の勢力を打ち砕き、平和を世にもたらして行く私達でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

マゴグとゴグのシナリオと私達の戦い方(エゼキエル38章)

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週報/メッセージ(説教)概要

週報添付資料

 
 ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。入って来るニュースを見聞きする度、心が痛むが、これらの事を主導した者は、時代に働く、霊的な、闇を握った世の主権者、天にいる諸々の悪意を持つ霊的存在達である。これらこそ私達が格闘するべき相手であり、これらに対抗するために、私達が取るべき霊的武具は、「真理」「正義」「平安の福音の準備」「信仰」「救い」、そして「神のことばという御霊の剣」であり(エペソ6章)、その戦いは「ゆずった・ゆずらない」「容認した・容認しない」という、「意思と言葉の場所取り戦争」であり、勝利の鍵は、いかに「しつこく」真理に立ち、祈りと御言葉で攻撃し続けたか、である事を先週学んだ。
 私達は物理的支援はできなくても、祈りと御言葉の宣言によって、闇の霊的な勢力に攻撃をし続けるべきである。なお、今回のロシアの動きは、エゼキエル書や黙示録で予め預言されていた内容に一致する所が多く、今後、私達は大いに注視して祈る必要があると思われたため、今回エゼキエル書を見ていきたい。
 
 エゼキエル書38章には「メセクとトバルの大君(大首長)」「マゴグの地のゴグ」に対する預言が記されている。このマゴグとゴグは、黙示録によると、千年の獄から解放されたサタンが彼らを惑わし、海辺の砂のような数の大軍を召集し、神の都へ進軍するという事が書かれてある(20:7-8)。このマゴグとゴグとは何だろう。
それはイスラエルの「北の果てにある国々」(エゼキエル38:15)である。日本語訳で2節は、「メシェクとトバルの大君」と訳されているが、「大君」のヘブライ語ロシュ(頭、リーダーという意味)は、NKJVや文語訳では固有名詞「ロシュ」と訳されている。ロシュはロシアを、メシェクはモスクワを示しているとするなら、地理的にも、地名的にも、一致している。(別紙を見ると、モスクワは、イスラエルのほぼ真北にある事が分かる。)
 これが、多くの国と連合して、イスラエルへと攻めて来るのだが、その連合する国は、ペルシヤ(イラン)、クシュ(エチオピヤ)、プテ(リビヤ)、ゴメル(カッパドキア)、ベテ・トガルマ(アルメニア)である。(4-7節)
別紙を見ると、それらは、イスラエルを包囲する形で、立地している事が分かる。
 
 8-13節には、それらの国々がイスラエルに対して企む謀略が預言されているが、その企みはまさに、今回ロシアが辿った仕方と一致している。すなわち、防備の弱い国に対して色々な悪巧みを設け、あらしのように突然攻め上って、分捕り、腕力を奮ってかすめ奪う、という手法であり、13節を見ると、色々な国がその事に驚き、咎める事が書かれてある。今現在、ロシアにとってイスラエルはまだまだ狙いの外に見えるが、地図を見ると、ロシアはまさに南下を目指しており、そのシナリオが進みつつあるように見える。
 主は、主の民が取り囲まれ、滅ぼされるのをみすみす見過ごすような事は、なさらない(14-16節)。しかし神はなぜ、神の民の敵を「つけあがらせて」、神の民を取り囲む事を許されるのか。それは、「諸国の民の目の前に、主の聖なることを示し、彼らが主を知るため」、と書いてある(16節)。ちょうど出エジプトの時、エジプトの横暴を、敢えて許し、そのエジプトから神の民を救い出す事によって、主が圧倒的な栄光を受けられたのと同じである。 黙示録にも書いてfある。ゴグとマゴグは、聖徒たちの陣営と愛された都を包囲したが、天から火が降ってきて、包囲した者達は一瞬で焼き尽くされた、と。(黙示録20:7-10)  主がゴグとマゴグに報いる日、大地震が起こり(エゼキエル38:19-20)、主は彼らに同士討ち(21節)や、疫病と流血、また、彼と彼の部隊、また彼の率いる多くの国々の民の上に、豪雨や雹や火や硫黄を降り注がせる事が書いてあり(22節)、そしてこれら全ての事を通して、主が栄光をお受けになる、と書かれてある。(23節)
 
 このように、エゼキエル書や、黙示録で、あらかじめ預言されている内容を見たからには、それらに該当しそうな者達は、その「滅びのシナリオ」に乗らないよう、横暴な事をしないよう気をつけて良いはずだが、悪辣な者達は、神の民にちょっかいを出したがるものである。それは彼らが、書かれてある事を信じないからであり、またサタンが、彼らの神に対する恐れを、麻痺させるからである。彼らは普段から、殺意や暴力、強奪といった、サタンが好む欲求を思い巡らし、それを手放さず、きよく聖であられる神に立ち返る事を、好まないために、サタンのそそのかしに、いともあっさり同意してしまうのだ。今、私達が受けるべきメッセージは、私達はいつも、時代を見張り、目を覚まして祈る必要がある、という事だ。全ては神のコントロール下にあり、最後には、主の勝利が成る事を宣言しつつ、目を覚ましていつも祈り、時代に働く暗闇の勢力を打ち砕き、平和を世にもたらして行く私達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

主を期待し望む人に、主は報いて下さる(エステル7章)

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エゼキエル書講解説教

神の民が受ける栄光の相続地とは(エゼキエル48:1-22)

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エゼキエル書48章1-7節では、47章後半において定められていた、イスラエル各部族が受けるべき相続地の、具体的な割り当て方が示されている。
 
主にある相続は、無条件に与えられるものではない。
かつて、イスラエル12部族に、くじによって割り当てられた相続地と、実際に彼らが住む事ができた相続地は、違っていた。
 
むしろ大多数の部族は、くじで割り当てられた「書面上の地」に比べると、実際に彼らが得て住んだ地は、はるかに狭かった。
なぜ、そうなってしまったのか。
その理由は、真理の上では「あなたが主から得たものは、これですよ」と示されていたのに、それを得に行かなかったからだ。
彼らは、「そこに住んでいる民は強い民だ」と言い訳して、戦うことを恐れたり、なまけたり、そこの罪深い原住民と妥協したりしたのである。
それで、元々住んでいた邪悪な人々が力を得て、イスラエルの民を追い出しにかかったのだ。
 
私達は主から、聖書に記されている内容を「書面上の地」として既に受けており、私達はそれを信じて、行って、そこに記されている莫大な祝福を勝ち得ていけば良いだけである。
 
それをしないで、現実を見て、恐れ、何もしなかったり、罪と妥協したりしているなら、結局それを得られないまま、狭い領域の中で細々と生きるしか無いのだ。
 
 
私達が主から与えられた相続地内で為すべきは、きよさに立って、神の国の法則に従って歩む事である。
もし、きよさに立たず、汚れた行いをし続けているなら、かつてイスラエルの土地が、人を吐き出したように、その者は吐き出されてしまう。
 
 
続く8‐22節では、45:1-8で記されている奉納地についての規定が繰り返されており、特に、主のために聖別するべき土地が制定されている。
「聖別」とは、神様のために、神の国のために、特別に確保する事であり、それは、私達・神の民にとって必須の事である。
 
エゼキエル48:9 すなわちあなたがたの主にささげる献納地は長さ二万五千キュビト、幅二万キュビトとである。
エゼキエル48:10 これが祭司への聖なる献納地である。すなわち祭司の分は、北は二万五千キュビト、西は幅一万キュビト、東は幅一万キュビト、南は長さ二万五千キュビトである。主の聖所はその中にある。
 
神の民の相続地の中心は、聖所である。
すなわち、神の民の中心は、主の栄光の臨在である。
私達の生活の中心も、礼拝を中心に据えるべきであり、主の臨在の中で、日々の生活を歩んで行くのだ。
 
 
エゼキエル48:11 これはイスラエルの人々が迷い出た時、レビびとが迷ったように迷ったことはなく、わが務を守り通したザドクの子孫のうちから、聖別された祭司に属する。
エゼキエル48:12 このようにレビびとの境に沿って、いと聖なる地、すなわち聖なる献納地が、特別な分として彼らに帰属する。
 
ここでは特に、大祭司ツァドクの子孫への相続地が、特別に割り当てられている。
その地は、レビ族の地域に接し、奉納地のうちでも最も聖なる地である。
 
彼らがこのような特別扱いを受けた理由は、彼らは、イスラエル人が迷い出た時、いっしょに迷い出ず、また、迷い出た他のレビ人達とは違って、聖なる任務を貫き通したからだ。
 
この法則は、現在も同じである。
 
世の人々が、いかに堕落した生活を送っているとしても、あるいは、現代のレビ人である神の国の働き人たちの多くが堕落したとしても、私達は、固く信仰を保ち、今日も、神の国の仕事を忠実に成して行くのみである。
そうするなら、天において受ける永遠の相続は、他よりも偉大なものとなる。
 
イエス様を信じて得られる報酬は「救い」であり、それは誰も彼も分け隔ての無い、同じ報酬である。
しかし、その信仰を用いて行った「行い」の報いは、その行いに応じ、ある人には10、ある人には5、といった「差」が生じる。
しかも、せっかく与えられた聖なる仕事を、何もしないまま、与えられている膨大な年数を使い切っても、なお主人に文句を言っているとするなら、持たされたものは取り上げられ、外に追い出され、泣いて歯ぎしりする事になってしまうのだ。(ルカ19:11-27)
 
 
エゼキエル48:13 レビびとの分は祭司の所有地の境に沿って、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビト、すなわち、そのすべての長さ二万五千キュビト、幅二万キュビトである。
エゼキエル48:14 彼らはこれを売ってはならない、また交換してはならない、またその大事な分を手ばなしてはならない。これは主に属する聖なる物だからである。
 
レビびと、すなわち、主の働き人が受けた相続は、どの部分も、売ったり取り替えたりしてはならない、と定められた。
私達も、主にあって得た聖なる仕事、聖なる相続を、決して手放したり、世の何物かと取り替えたりしてはならない事を、示している。
 
 
エゼキエル48:15 その残りの地すなわち幅五千キュビト、長さ二万五千キュビトは町のため、すみかのため、また郊外のための一般人の地所とせよ。町はその中に置け。
エゼキエル48:16 一般人の地所の広さは次のとおりである。すなわち北の方四千五百キュビト、南の方四千五百キュビト、東の方四千五百キュビト、西の方四千五百キュビトである。
エゼキエル48:17 町は郊外を含む。郊外は北二百五十キュビト、南二百五十キュビト、東二百五十キュビト、西二百五十キュビトである。
 
このように、国土の分割の仕方や、都市や神殿や、それらの付属物の配置は、完全に規則的である。
啓示録において示された天の都も、そうである。
神の国は、秩序正しく、美しく、尊いのだ。
 
 
エゼキエル48:18 聖なる献納地に沿っている残りの地の長さは東へ一万キュビト、西へ一万キュビトである。これは聖なる献納地に沿っており、その産物は町の働き人の食物となる。
エゼキエル48:19 町の働き人は、イスラエルのすべての部族から出て、これを耕作するのである。
エゼキエル48:20 あなたがたがささげる献納地の全体は二万五千キュビト四方である。これは町の所有地と共に聖なる献納地である。
 
聖なる奉納地の残りの地所で収穫したものが、働き人の食物となる事が示されている。
主は、働く牛にくつこをしてはならない、と言われた。
働き人には、食べる分があるのだ。
 
もし働き人が、ひもじい思いをしているとするなら、主に、その保証を堂々と求めるべきであって、やせがまんするべきではない。
 
 
エゼキエル48:21 聖なる献納地と町の所有地との、こなたかなたの残りの地は、君たる者に属する。これは聖なる献納地の二万五千キュビトに面して東の境に至り、西はその二万五千キュビトに面して西の境に至り、部族の分に沿うもので、君たる者に属する。聖なる献納地と、宮の聖所とは、その中にある。
エゼキエル48:22 町の所有地は、君たる者に属する部分の中にあり、そして君たる者の分は、ユダの領地と、ベニヤミンの領地との間にある。
 
エゼキエル書後半において示されている「君たる者(ナーシー)」は、上に立つ者であって、王ではなかった。
彼らは、民に代表して礼拝を捧げる役割がある事が、46章で示されたが、その君主に対しても、特別な割り当てが与えられている。
 
主のために特別な役割を果たす者には、特別な割り当てがあるのだ。
 
神の民は、聖なる民であり、私達自身を聖なる者として保ち続けるべきなのだ。(1ペテロ1:15-16)

追い出すべき悪霊のターゲッティング方法(エペソ6:10-18)

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篇講解説教

主にあって喜び楽しむ神の民(詩篇97篇)

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詩篇97篇は、70人訳聖書の表題には「ダビデのために。彼の地が安定した時に」とある。
バビロン捕囚から帰還した時代背景も考えられるが、この詩篇は、神の国が到来した時にも当てはまり、また、主の再臨の時にも当てはまる内容である。
 
 
詩篇97:1 主は王となられた。地は楽しみ、海に沿った多くの国々は喜べ。
 
「王となられた」は、マーラフという動詞「王となる・王として統治する」の、完了形である。
 
地や島々に対し、楽しみ、喜べ、と命令できる根拠は、義によって統治される主が、王となられ、その統治が及ぶようになったからだ。
 
この詩篇で反復されているキーワードは、この「楽しみ」(1,8節)、「喜べ」(1,8,12節)である。
「楽しむ」(ギール)は元々、くるくる回る事の意味で、「喜ぶ」(サーマフ)は、顔がパーッと輝く様をあらわしている。
雅歌書のおとめも、このギールとサーマフの「二本立て」で喜んだ。
 
雅歌1:4 あなたのあとについて、行かせてください。わたしたちは急いでまいりましょう。王はわたしをそのへやに連れて行かれた。わたしたちは、あなたによって喜び(ギール)楽しみ(サーマフ)、ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。おとめたちは真心をもってあなたを愛します。
 
「あなたによって喜び(ギール)楽しみ(サーマフ)。。。」
これはちょうど、子犬が、大好きな主人を前に喜んで、ぴょんぴょん飛び跳ねたり、くるくる回りながら、しきりに鳴くような感じである。
花嫁が王の元に嫁ぎ、王が彼女を彼の部屋へとエスコートした時、彼女はそのような喜びを喜んだ。
私達キリスト者も、花婿であられるイエス様が来られて、彼にエスコートされて御国へと入る時、そのような喜びが沸き起こるが、今、もし私達が、イエス・キリストを自分の王としているなら、その喜びはまさに今、味わう事ができるのだ。
 
 
主が王になられる事は、まさに、「神の国」の到来である。
神の国(ギ:バシレイア)とは、神の「支配領域」の事だからだ。
 
 
ルカ17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 
つまり、私達が神の統治に服しているなら、私達の人生が「神の国」の人生であり、また、クリスチャン事業家が、職場を神の統治下に置いているなら、その職場が神の国である。
そして、神の国が私達のただ中にあるなら、私達も主にある「楽しみ(サーマフ)喜ぶ(ギール)」分がある。
 
 
詩篇97:2 雲と暗やみとはそのまわりにあり、義と正とはそのみくらの基である。
詩篇97:3 火はそのみ前に行き、そのまわりのあだを焼きつくす。
 
3節の「あだ(ツァル)」は、元々は「狭い所」の意味で、そこから、敵、苦悩の意味となった。
主の「御顔の前の火(直訳)」火は、主の「義と正」の反対を攻勢して来るサタンにとっては、恐ろい火であるが、主とともに歩んでいる私達・主の民にとっては、慰めの火である。
その火が、私達の人生を狭くしている諸々の苦悩や、それをもたらすサタンを、焼き尽くして下さるからだ。
だから私達は、主と共に歩むべきである。
 
4節以降で、主の力と栄光が強調されている。
 
詩篇97:4 主のいなずまは世界を照し、地は見ておののく。
詩篇97:5 もろもろの山は主のみ前に、全地の主のみ前に、ろうのように溶けた。
詩篇97:6 もろもろの天はその義をあらわし、よろずの民はその栄光を見た。
詩篇97:7 すべて刻んだ像を拝む者、むなしい偶像をもってみずから誇る者は/はずかしめをうける。もろもろの神は主のみ前にひれ伏す。
 
「刻んだ像」のヘブライ語「ペセル」は、木や石を刻んだもの、すなわち、人間の技術が生み出したものである。
また、「むなしい偶像(エリィール)は、」は、「偶像」「意味の無いもの」、特に、占い師が作った実体的な意味の無い空しいものを意味する。
 
人間の技術が生み出した、実体の無いものを、誇りとしている者は、やがて「はずかしめをうける」ことになる。。。
この、「はずかしめをうける」と訳された語「ブシュ」は、「青ざめる」「恥ずかしい思いをする」「がっかりする」「うろたえる」「干からびる」などの意味がある。
つまり、人間の技術が作り出した、実体を伴わない仮想の空虚なものや、アイドル(偶像)にうつつを抜かしながら、何十年も過ごしているとするなら、やがて、うろたえ、恥ずかしい思いをし、がっかりする事になってしまう。
 
 
詩篇97:8 主よ、あなたのさばきのゆえに、シオンは聞いて喜び(ギール)、ユダの娘たちは楽しむ(サーマフ)。
詩篇97:9 主よ、あなたは全地の上にいまして、いと高く、もろもろの神にまさって大いにあがめられます。
 
シオンと、ユダの娘たちにも、ギールとサーマフの二本立ての喜びが、沸き起こった。
彼女たちは、神の民であり、全ての神々をはるかに超えて高きお方が、さばきを実行されたからだ。
 
キリストの花嫁である教会も、花婿キリストが来られる時、そのように喜ぶのである。
 
 
詩篇97:10 主は悪を憎む者を愛し、その聖徒のいのちを守り、これを悪しき者の手から助け出される。
 
主は「”悪”を憎む者を」愛する、と言われた。
「”悪人”を憎む者を」、ではない点がポイントである。
 
キリスト者は、悪人が火で焼かれることを望む者たちではない。
悪人と会うとするなら、その人から”悪”をとり除いて、”人”を救い出すのが、キリスト者の本来であり、それがイエス様のご性質である。
 
詩篇97:11 光は正しい人のために現れ、喜びは心の正しい者のためにあらわれる。
 
原文は、光は、正しい人のために「種蒔かれる(ザーラア)」と書いてある。
種は、良い地に落ちれば、100倍の実を結ぶが、その良い地とは、正しい良い心で御言葉を聞いて、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる人の事である。(ルカ8:15)
私達がそうなるなら、私達は光の子供として、世のいたる所に光を届ける者となっていく。
 
 
詩篇97:12 正しき人よ、主によって喜べ(サーマフ)、その聖なるみ名に感謝せよ。
 
パウロも言っている。
ピリピ4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
 
私達は、主を信じる信仰によってこそ正しくされ、この主にあって、真に喜ぶ(サーマフ)事が、すなわち、喜びによって顔がパーッと明るく輝く事ができるのだ。

主日礼拝

霊的戦いの本質 – 場所取り戦争(黙示録12:7-12)

第一礼拝 Youtube動画

English Service:The Nature of Spiritual Warfare - The War for place (Revelation 12:7-9) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 悪魔サタンの性質と戦い方について、もう少し学びたい。黙示録を見ると、霊的戦いの本質が分かる。
黙示録12:7-9から分かることは、悪魔サタンという存在は、神の勢力よりも弱く、神の御使いにすら勝てないという事、また、悪魔サタンは、詐欺師と同じく、色々な名前を持っており(巨大な竜、悪魔、サタン、古い蛇など)、そうして正体をうやむやにする…裏を返せば、正体が明かされる事を極端に嫌う事だ。さらにここで分かる重要な事は、天の戦いは、殺し合い・傷つけ合いの戦いではなく、「場所取り戦争」である事だ。
その「場所」とは物理的な空間ではなく、意思のやり取りによって、得たり、失ったりする、見えない「支配領域」であり、それが現実の世界を動かす。そして勝負方法は、意識やことばを用いた主権・力の戦いである。
 
 エペソ6:12に書いてある。私達の格闘は物理的・肉体的なものではなく、以下の戦いである。すなわち、
 1,主権(アロケー):順序的・時間的・場所的な主導権。 2,力(エクソウシア):力を自由に行使したり裁量できる特権。 3,空中(アイオーン:時代・世代・世界)に働く、闇を握った世の主権者たち(コスモクラトール)、また、4,天にいる、諸々の悪意を持った霊的存在たち(プネウマティコス)に対するものである。
 それらは、悪意をもって時代に働き、主権を取り、時間的・空間的・経済的な「場所取り」を仕掛けて来る。
それは、人が持っている自由や資産を侵犯し、奪いにかかる事を意図し、その悪意に同意する人間達を、政治家や王に仕立て、経済の実権を握らせて働き、法や仕組みを動かし、悪意を遂げようとして来る。私達の戦う相手は、これらであると書いてある。それなら私達は、政治運動をしたり、彼らが隠れてしている事を暴露する働きをしなければならないのか?エペソ書の続く箇所には、そんな事は書かれていない。むしろこの戦いは、肉弾戦ではないと書いてあり、主権・力、この暗やみの世界の支配者という「見えない相手」に戦う手段は、見えない武器によって立ち向かうべきであり、それは、訳の分からない戦いではない。
 
 14節以降に、戦いの武具が書いてある。これらは明らかに、物理的武器ではない。私達が取るべき武具とは「真理」、「正義」、「平安の福音の準備」、「信仰」、「救い」、そして「神のことばという御霊の剣」である。
 私達は、福音の真理や、義、平安、信仰などによって、私達の思い、意思、感情、知識を武装し、そして、口からは、御霊に味付けられた神の御言葉を剣とし、攻撃するのだ。ゲームの武器や防具には、よく属性やステータスが割り振られているが、私達の霊的武具のそれぞれのステータスは、イエス様への信仰の度合いによって、強くなるが、御言葉暗唱(テフィリン)こそ、「霊的経験値稼ぎ」に最短・最強の方法である。
 霊的攻撃も、防御も、神のことばと御霊による祈りによるものであり、勝利の鍵は、「しつこさ」である。18節には、絶えず目をさまして御霊によって祈れ、と書いてある。それも、忍耐の限りを尽くして祈りなさい、と。
いつまで祈ればいいのか。それは、「場所を勝ち取るまで」である。そして人生を取り戻す奪還戦をするには、一体何が、それまでの人生を台無しにして来たのかを、明確にターゲッティングする事が必須である。
 イエス様は悪霊を追い出す時、明確にターゲットを特定して、追い出した(マルコ5:9,9:25)。一体何が今までの自分を惨めにさせて来たのか、何が人生をここまでにしてしまったのかを、まず辿り、悪霊が場所取りしている所を、明確にするのだ。過去に受けたあの時の傷、そこから沸き起こる負の感情、あるいは、過去に満たされなかった強烈なあこがれなどに、悪霊は巣作りして、当時、感じた痛みを、しょっちゅう、ほじくり返しては、「あの人が悪い」「戻ってやり直したい」「あの時発散できなかったから今発散するのだ」、といった、怒涛の「負の感情攻撃」を、ずっと仕掛け続けている。私達はその「要塞」をターゲッティングし、それが分かったなら、それを紙に書いて狙い撃ちにし、踏みつけ、イエス様の名によって縛り追い出すのだ。
 
 悪しき者との戦いは、物理的なものではなく、ゆずった・ゆずらない、容認した・容認しないという、意思と言葉を用いた場所取り戦争であり、勝利する鍵は、真理の御言葉によって、いかに「しつこく」攻撃し続けたかどうか、である。それは、延々と続く戦いではない。サタンはイエス様を誘惑した時、3回の御言葉攻撃で、撃退された。しかしもし私達の側が、譲ってしまうなら、その既成事実が要塞となり、つけあがってくる。
私達が御言葉にしっかり立ち続けるなら、悪魔サタンはその領域を侵犯できず、やがて、出ていく。真理の御言葉に固く立って、悪しき者を追い出し、奪われてきた人生の時間や尊厳、経済、人間関係といった「場所」を奪い返し、むしろ支配していく皆さまでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

何でも悪魔サタンのせいにしているなかれ(箴言6:1-11)

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くちびるから良い実りをもたらすことばを発せよ(詩篇34:11-22)

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詩篇講解説教

全て造られた者に、主をほめたたえさせるべき使命を持った私達(詩篇96篇)

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詩篇96:1 新しい歌を主にむかってうたえ。全地よ、主にむかってうたえ。
 
最初に反復されている言葉は「主にむかってうたえ(シールゥアドナイ)」、ヘブライ語の朗読を聞くと、1-2節にかけて「シールゥアドナイ(主に歌え)」が3回、テンポよく続いている。
詩篇95-100篇は、そのようなテンポの良い反復が続いて、賛美の歌詞としてとても適している事が分かる。
 
この詩篇の作者は、誰に向かって「主にうたえ」と言っているか。
それは、「全地(コール・ハ・エレツ:地の上にある者の全て)」を相手取って、命令形で、命じている。
 
一体、この作者は、何さまなのだろうか?
 
それは「人間さま」である。
 
 
主は元々、人間に、全地を支配し、治めるべき役割と責任を与えられた。(創世記1:28)
 
人は、全地を「主にあって」、正しく治めるべきである。
その「正しく治める」とは、全地も人も、こぞって創造主であられる主をほめたたえさせる方向性で、である。
 
残念ながら今、自然界は、人の好き勝手に、それぞれの自己中心的な欲望の赴くままに、搾取し、破壊しているため、被造物は、うめいている。
 
ローマ8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
 
私達は、任されている被造物を、主に栄光を捧げる方向性にて治め、全地が主に向かって喜び賛美できるよう、正しく管理し、治めるべきなのだ。
 
 
詩篇96:2 主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。日ごとにその救を宣べ伝えよ。
詩篇96:3 もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。
 
私達が、被造物に対して、最もなすべき事は、この2-3節で示されている通り、主を宣べ伝える事である。
 
イエス様は昇天される前、私達に命じられた。
 
マルコ16:15  「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。 
 
福音を宣べ伝えるべき相手は、人間には限らず、「すべての造られた者」である事に、注目すべきである。
私達は、被造物に対しても、主が救い主となられたという「福音」を宣言し、呪いを解いてやることもまた、使命なのだ。
 
 
なお、2節の「宣べ伝えよ」はバーサル、喜びに満ちた、明るいニュースを告げる事であり、3節の「あらわし」はサーファル、集計や記録として印をつける事が元の意味で、すなわち、一つももらさず正確に伝える事を意味する。
 
だから、主の栄光を伝える際には、
1,喜びに満ちた表情で明るい救いのニュースを伝える
2,御言葉は、一つも漏らさず、正しく伝える
という、二本立てが必要であり、そのどちらも欠かしてはならない。
 
イエス様は、福音を告げるべき命令を、私達人間に託された。
 
1コリント1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
 
十字架の福音という宣教のことばは、愚かに聞こえるかもしれない。
死者の復活や、永遠のいのちなど、世の人が聞くなら、信じられない、と言うかもしれないが、しかし私達の分は、喜びつつ、そして、一つも漏らさず、正しく伝える事であって、伝えた福音を受け入れるか、受け入れないかは、私達の責任ではなく、相手の責任である。
 
 
詩篇96:4 主は大いなる神であって、いともほめたたうべきもの、もろもろの神にまさって恐るべき者である。
詩篇96:5 もろもろの民のすべての神はむなしい。しかし主はもろもろの天を造られた。
 
ここで反復されている語は「もろもろの神(エロヒーム)」であるが、それは、異邦の神々の事である。
それらの神々は、天地を創造された主と比較するなら、むなしい。
そもそも、天地を創造された主を置いて、ほかに神々はいないのだが、主は、地の人々が「神々」と呼んでいるものに比較して、抜きん出て力があり、栄光に満ちたお方である。
 
 
詩篇96:6 誉と、威厳とはそのみ前にあり、力と、うるわしさとはその聖所にある。
 
主の栄光は全地に満ちており、至る所が、主の御前である。
私達はその「御前」において、どのような態度であるべきか。
7節以降に書かれてある。
 
 
詩篇96:7 もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。
詩篇96:8 そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ。
 
7-8節では「主に帰せよ(ハヴゥ・アドナイ:主に与えよ)」が、3回反復されている。
 
私達の分は、主に与える事、捧げる事であり、捧げるものは栄光と力である。
特に、「栄光(カーボード)」を捧げよ、と、2回繰り返されている。
カーボードは元々「重い」という意味である。
すなわち、主に栄光を捧げる、とは、主を重んじる心を捧げる、という事である。
 
8節後半から9節は、礼拝という場において持つべきこころざしが記されている。
 
詩篇96:8b 供え物を携えてその大庭にきたれ。
詩篇96:9 聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。
 
つまり私達は、手ぶらで主の庭に入ってはならない。
出エジプト記34:20にも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない、と書いてある。
 
だから、主の前に出る時には、
1,手ぶらではなく捧げものをたずさえて
2,聖なる装いをして
進み出るべきなのだ。
 
だから礼拝に出る時、身を清めもせず、寝起きのままのような適当な格好で、手ぶらで出る事は、主を軽んじる事なのだ。
 
 
詩篇96:10 もろもろの国民の中に言え、「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。
詩篇96:11 天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、
 
天や地に、海に対し、喜べ、と命じている。
私達は天に向って、台風は来るな、とか、明日は雨が降るな、といった祈りをよくするかもしれないが、むしろ、「喜べ」と命じたほうが良い。
 
詩篇96:12 田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も/主のみ前に喜び歌うであろう。
 
植物に対しては、主の前で栄光の花を咲かせ、喜びつつ豊かな実りを主の前で実らせよ、と、命じるのだ。
実際、植木や生花に対して、人が、祝福の言葉をかけてやると、その木は豊かな実りを実らせ、花は長生きする。
逆に、呪いの言葉をかけ続けるなら、すぐに枯れてしまう。
 
私達は、被造物に対し、積極的に祝福のことばをかけてやるべきである。
 
 
詩篇96:13 主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。
 
13節は「来る(ボー)」と、さばく(者ファット)が繰り返されている。
主が来られる事と、主のさばきは、主を待ち望んでいる神の民には、慰めであるが、悪者にとっては、それはおそろしい日である。
 
だからこそ、福音を伝えるべきである。
そして被造物に対し、積極的に祝福のことばをかけ、全て主に創造された者たちが、主に栄光をささげるようにしてやるべきなのだ。
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