メッセージ - 202202のエントリ
主日礼拝
悪魔サタンの実情と、対抗する方法(ルカ10:17-20)
第一礼拝 Youtube動画
English Service: Go to the ant, you sluggard (Proverbs 6:1-11) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
私達が主の祝福を豊かに享受し、自由に生きるには、真理を知る必要がある。イエス様がどれ程素晴らしいお方で、彼にあって私達キリスト者がどれ程、素晴らしい地位を得ているか、知る必要がある、と同時に、私達は敵であるサタンの実情を知り、攻撃してくる方法と、それに対抗する術を、知らなくてはならない。
本当に多くのクリスチャンが、この者に惑わされ、あと少しでゴールという所を、邪魔されて、振り出しに戻されてしまった、という事が多いからだ。今回、どう悪魔サタンに対抗して勝利すべきか、コツを掴みたい。
よく 映画やドラマでは、神と悪魔との力関係が、あたかも対等か、あるいは悪魔のほうが上であるかのように描かれていたり、また、超自然的な悪が、自由気ままに、人間を残酷な形へと陥れる、といった描写があったりするが、全くウソである。悪魔サタンは、私達の主イエス・キリストと、キリストにある私達に比べれば、お話にならない程、格下である。サタンや悪魔、堕天使、悪霊、その他、全てキリストに敵対する敵たちは、やがて、みんなまとめて硫黄の燃え盛る炎の池に投げ込まれる事が、黙示録に書いてある。もし私達が、悪魔サタンや悪霊に会ったなら、信仰を交ぜた御言葉を宣言するべきだ。『彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣も偽預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。』(黙示録20:10) この真理に、悪魔サタンは震えおののくのだ。 さらに、1ヨハネ5:18に書いてある。
『全て神から生れた者は罪を犯さない事を、私達は知っている。神から生れた方が彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるような事はない。』 悪い者が手を触れられないよう、「霊的バリヤ」で守られている人とは、「神の種」が宿っている人である(同3:9)。御言葉という神の種(マタイ13章)を宿している人は、イエス様がその人を、悪魔サタンや悪霊から守っておられ、また、罪を犯さないよう、守っておられるのだ。
以上のように、権威的上下関係では圧倒的に、私達キリスト者が「上」、悪魔サタンは、遥かに「下」、なのに、どうしてキリスト者は時々、悪魔サタンのほうが力を持っているかのように錯覚したり、また、キリスト者が率先して平和を壊したり、汚れた言動を吐き散らしたりと、「キリスト者」ならぬ「サタン者」のように用いられてしまう事があるのか。その訳は、「偽りの父」である悪魔の偽りに惑わされ、踊らされてしまった場合である。
悪魔は、「誘惑者」である。経験が無いだろうか? ある、重要なタイミングで、普段は到底考えつかないような汚れた思いや情欲に突如襲われ、邪魔され、重要な場面で失敗してしまった事が。あるいは人間関係や物事を破壊させるような思いに捕われ、そういう言動を実際にしてしまって、せっかくゴール間近だったのに、振り出しに戻ってしまうような事が。それらは、私達由来ではない。そのような衝動を起こさせた者こそ、偽りの父であり、人殺しのサタンである。ゴキブリは、私達を部屋の外に放り投げる腕力や権威は無い。はずなのに、どういうわけか、ある人は、部屋にゴキブリが出ると、部屋から閉め出され、ゴキブリが部屋でくつろぐ、といった事態が起きる。それは、その人のゴキブリに対する行き過ぎた恐怖という「偽りの思い込み」があるからだ。悪魔サタンも、ゴキブリと同じで、キリストにある私達を恐れ、触れる事はできない。
けれども彼らは、人の思いの中に、サタン由来の汚らわしい「思い」や「偽り」を吹き込む事ができる。
それに踊らされてしまう時、キリスト者も、サタンの道具として、まんまと用いられてしまうのだ。騙されてはならない。霊的な戦いの場は「思い」の中にある。対抗手段が2コリント10:4-6に記されている。すなわち、全てキリストに逆らう「思い」や「所存」をキリストにあって逮捕し、服従させ、その服従が完全になる時、その者共を処罰する準備が出来るのだ。この、「キリストへの服従」こそ、要塞をも破るほどに力のある武器なのだ。
だから私達キリスト者は、御言葉の真理にしっかりと立ち、真理の御言葉を信仰を交ぜて宣言するべきだ。 「真理はあなた方を自由にする」と書かれてある通り、私達は、真理を知れば知るほど、自由になって行く。
私達がテフィリンし、思いと知性の中を「御言葉の真理」で充満させて行くなら、悪魔サタンから、恐れおののかれる者となる。のみならず、祝福の法則を身に着けて、何をしても栄える者となるのだ。
積極的に、主から与えられた権威を行使し、悪魔サタン、悪霊、病など、あらゆるサタン由来のものを、主イエスキリストの名によって縛り、踏みつけ、追い出し、すべて人を縛っている恐れや絶望感、病、貧困、その他、全てサタンに属するものを打ち砕き、光の領域を奪い返し、真理の自由の中でのびのび生き、主の復讐の日、主の恵みの年を発動させる皆さまでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
詩篇講解説教
礼拝する民への勧めと警告(詩篇95篇)
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詩篇95篇から100篇までは、主の栄光を褒め称える賛美が続き、これらの箇所では、「主の御前」「主の大庭」における心構え、すなわち、礼拝という場において私達はいかなる心や態度で臨むべきかが、示されている。
詩篇95:1 さあ、われらは主にむかって歌い、われらの救の岩にむかって喜ばしい声をあげよう。
詩篇95:2 われらは感謝をもって、み前に行き、主にむかい、さんびの歌をもって、喜ばしい声をあげよう。
詩篇95:3 主は大いなる神、すべての神にまさって大いなる王だからである。
1-2節で反復されている言葉は、「喜ばしい声をあげよう(ルーア)」である。
そのヘブライ語ルーアの元の意味は「(耳を)裂く」、そこから、叫ぶ、大きな声を上げる、大きな音を出す、という意味となっている。
また、1節前半の「歌う(ラーナン)」も、同じ意味で、叫ぶ、大きな声を上げる、大きな音を出す事である。
喜びの声を上げることが、反復して命じられている。
礼拝では、御言葉に聞き入るという「インプット」と、賛美や祈りという「アウトプット」をするが、アウトプットの場面においては、主に向かって声を上げ、また色々な楽器を奏でて、主を賛美し、また声に出して祈る事が、本来のあり方だ。
どなたに向かって、声に出し賛美をするか。
それは、「われらの救の岩にむかって(レ・ツゥル・イシュエヌー)」、と書いてある。
イシュエヌーは「わたしの救い」、すなわち、わたしのイエシュアに、わたしのイエス様に!である。
わたしの主イエス様こそ、救いの岩なるお方、われらの大いなる神、すべての神々にまさって、大いなる王であられる。
この主に向かって、声に出して賛美せよ、と、1-3節で語られているのだ。
詩篇95:4 地の深い所は主のみ手にあり、山々の頂もまた主のものである。
詩篇95:5 海は主のもの、主はこれを造られた。またそのみ手はかわいた地を造られた。
詩篇95:6 さあ、われらは拝み、ひれ伏し、われらの造り主、主のみ前にひざまずこう。
下は地の深みから、上は山々の頂きまで、すなわち、下から上まで「全部」が、主のものであり、主の御手がつくられた。
国々の間では、よく、国境の境界線の問題が取り沙汰されているが、主が言われている事は、地は上から下まで、山々の頂も、海も、島々も、全て主のものである、という事である。
だから私達は、貪欲さをむき出しにして、土地や財を獲得しようとしてはならないし、不当に搾取されてもならない。
ルカ12:13 群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。
12:14 彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。
12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
だから私達の分は、6節にある通りである。
地をつくられ、海を造られ、そして私達を造られた主を拝み、ひれ伏し、御前にひざまずくのである。
7節以降には、神の民として分を超えてはならない事が警告されている。
詩篇95:7 主はわれらの神であり、われらはその牧の民、そのみ手の羊である。どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように。
私達は、主の羊である、と、宣言された。
羊の「分」は、何か。
それは、羊飼いについて行く事、その御声に聞いて、その通りにする事であり、私達は「主の羊」としての分を、超えてはならない。
詩篇95:8 あなたがたは、メリバにいた時のように、また荒野のマッサにいた日のように、心をかたくなにしてはならない。
マサは「試み」(出エジプト記17:1-7)、メリバは「争い」(民数記20:1-13)を意味する。
マサの出来事は、出エジプトしたばかりの時に、メリバの出来事は、荒野での40年の最後に起きた出来事だ。
いずれも、人にとって必要な水が無いという事で試された事件である。
マサの時、人々は「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みた
メリバの時には、主が導いておられる道すがらなのに、ここは穀物や果物が育つような所ではなく水もない、自分たちは死んでいれば良かった、と言って主と争った。
そのように心を「かたくな」にしてはならない、と、命じられている。
詩篇95:9 あの時、あなたがたの先祖たちは/わたしのわざを見たにもかかわらず、わたしを試み、わたしをためした。
詩篇95:10 わたしは四十年の間、その代をきらって言った、「彼らは心の誤っている民であって、わたしの道を知らない」と。
詩篇95:11 それゆえ、わたしは憤って、彼らはわが安息に入ることができないと誓った。
この箇所は、ヘブル人への手紙で引用され、しかも、反復強調されている。
ヘブル3:7 だから、聖霊が言っているように、/「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、
3:8 荒野における試錬の日に、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。
3:9 あなたがたの先祖たちは、/そこでわたしを試みためし、
3:10 しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、/いきどおって言った、/彼らの心は、いつも迷っており、/彼らは、わたしの道を認めなかった。
3:11 そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息に/はいらせることはしない、と誓った」。
彼らは、御声を聞いた事がない、のではない。
御声を聞いていて、その上で心をかたくなにして、そむいたのである。
安息へと入らないためのコツ、主が「共におられなくなる」ためのコツは、心かたくなにする事、うなじをこわくする事である(出エジプト記33:5)。
かたくなさ。
それは、主の道を見えなくさせ、迷わせる性質であり(ヘブル3:10)、決して主の安息に入る事の出来ない性質(同11、18節)、御怒りを引き起こし、しかばねを荒野に晒す性質である。(同17節)
そうならないためのコツは、聖徒の交わりの中にいて、ともに励まし合う事である、と、続く節で語られている。
ヘブル3:12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
3:13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
3:15 それについて、こう言われている、/「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
「きょう」という言葉が繰り返し強調された。
今、私達は、主から何か御言葉が与えられているだろうか。
主の御旨にかなった、あの事をしなさい、と、言われているだろうか。
捧げ物を滞らせていないだろうか。
あの兄弟、あの姉妹を、憎む事を、止めなさい、和解しなさい、と言われているだろうか。
赦しなさい、と言われているだろうか。
怒りや憤り、陰口、ねたみを捨てなさい、と言われているだろうか。
体を害するあの習慣、兄弟姉妹を悲しませているあの性質から、離れなさい、と言われているだろうか。
もし語られているなら、顔を背けず、それに服従すべきである。
いつ?
それは、「きょう」、すなわち、「今すぐ」である。
ヘブル4:1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
結局、安息に入る条件とは、聞いた御言葉を、信仰によって結びつけ、それに従順する事である。
御言葉を聞いたなら信じ、信じたなら、きょう、自分の意図を捨てて、御言葉のほうに服従する事。
安息に入るためには、それをするに尽きる。
詩篇講解説教
主に正しいさばきを求めるべき神の民(詩篇94篇)
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94:1 あだを報いられる神、主よ、あだを報いられる神よ、光を放ってください。
この詩篇は、「あだを報いられる神」という、主への呼びかけの反復によって始まる。
悪がまかり通っていて、その者たちがして来た悪に対しては何の報いも受けないまま、のさばっている現実に対して、主に「復讐の神」として現れて下さる事を求めている。
復讐、というと、抵抗を感じるクリスチャンは多いかもしれない。
しかし、クリスチャンは、無抵抗主義であるべきではない。
ただし、復讐は、私達が遂行するものではなく、主がしてくださるものである。
私達がすべきは、義をもってさばいてくださる主に、願い求める事だ。
ローマ12:19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
イエス様が言われた「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」という言葉は、無抵抗であれ、という意味ではない。
イエス様はその言葉の前に、「悪い者に手向かってはいけません」と、言われている。
すなわち、右の頬を打たれた時、左の頬を差し出す事よって、相手は「悪い者」であると認定し、そして、自分は悪い者をさばく事を自分ではせず、主のさばきにすべて委ねるものである、と、態度で表明するのだ。
だからもし、兄弟姉妹と言われている身内の中で、暴力を平気で行うような性質が芽生えているなら、左の頬を差し出している場合ではない。
神のさばきがその兄弟姉妹に及ばないよう、きっちりと戒めるべきなのだ。
94:2 地をさばかれる者よ、立って/高ぶる者にその受くべき罰をお与えください。
94:3 主よ、悪しき者はいつまで、悪しき者はいつまで勝ち誇るでしょうか。
悪者どもはレシャーイーム、1:1の「悪者」と同語である。
そこを見ると、悪を行う者たちは、風が吹き飛ばすもみがらのように散らされ、それに引き換え、主のおしえを喜びとし、昼も夜も御言葉をくちずさむ人は、水路のそばに植えられた木のように栄えて、廃れる事は無く、何をしても栄える、という法則が書かれてある。
4節以降に、この悪者どもは、何をして来たのか、どういう性質であるのかが、具体的に列挙されている。
94:4 彼らは高慢な言葉を吐き散らし、すべて不義を行う者はみずから高ぶります。
つまり彼らは、悪い事をするのに、一切の躊躇が無い、どころか、悪びれもせず、その悪をしている事をむしろ自慢するのである。
94:5 主よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたの嗣業を苦しめます。
彼ら神の民を打ち砕き、主の嗣業(ナハラー:相続)の内に生きる人を、狙い撃ちにして来る。
94:6 彼らはやもめと旅びとのいのちをうばい、みなしごを殺します。
94:7 彼らは言います、「主は見ない、ヤコブの神は悟らない」と。
彼らは、ヤコブの神、と言っている。
つまり、まことの神について、キリスト教について、ある程度知っていながらにして、まことの神をあざけり、その民に対して暴挙をしている、確信犯である。
そのような者の、反キリスト敵な言動は、放置してはならない。
放置するなら、その者の悪事に同意している事になってしまう。
私達は、それに対して、「神の御言葉はこうである」、と宣言するべきであり、本人を前にそれを言う勇気や立場が無いとするなら、この詩篇の作者のように、主に義のさばきを訴え、主の報復が成る事を祈り求めるべきである。
94:8 民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
「鈍き(バーアル)」は、元は、火が燃え上がる、食い尽くす事の意味で、「愚か者(ケセイル)」は、元は「太った」「脂肪づいた」という意味である事から、「鈍い」「おろか者」、という意味となる。
つまり彼らは、火が燃え上がるような貪り食い尽くすような者で、なおかつ、心に分厚い脂肪がついたかのような、良心が鈍い者である。
彼らの貪りの行いによって、悲鳴を上げている人々を、彼らが見ても、聞いても、そんな事を何とも思わない者たちだ。
そのような者に対しては、「気づけ」「悟れ」と言う。
そう、気づかせるべきである。
何を気づかせ、悟らせるべきか。
それは、すべて正しいさばきをされる、全能の神について、である。
94:9 耳を植えた者は聞くことをしないだろうか、目を造った者は見ることをしないだろうか。
94:10 もろもろの国民を懲らす者は/罰することをしないだろうか、人を教える者は知識をもたないだろうか。
94:11 主は人の思いの、むなしいことを知られる。
ここで彼は、宣言している。
神は人をつくられ、そのはかりごとを、心の隠れた隅々まで知っておられる、という事を。
そして、主は、全世界のさばき主であられる、という事を。
クリスチャンは、罵詈雑言は言うべきではないが、黙っているべきではない。
もし黙っているなら、何も動かない。
主は、いかなるお方であるのかを彼らに宣言するべきであり、そして、神に訴えるべきなのだ。
そうするなら、物事が動き出す。
どう動き出すかが、12節以降に記されている。
94:12 主よ、あなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。
94:13 あなたはその人を災の日からのがれさせ、悪しき者のために穴が掘られるまで/その人に平安を与えられます。
12節に、私達のするべき分が書かれてある。
すなわち、主のおきてによって教えられ、時には主から懲らされ、そうして、主の道を歩む事である。
そうするなら、13節にあるとおり、災いから逃れさせ、平安が与えられ、かつ、その間には悪者のために穴が掘られるのである。
94:14 主はその民を捨てず、その嗣業を見捨てられないからです。
94:15 さばきは正義に帰り、すべて心の正しい者はそれに従うでしょう。
「さばきは正義に帰り」とはどういう事か。
主は、この世を、義によって固く建てられた。
世は、形状記憶合金のように、義へと戻るように造られているのである。
だから、いかに悪者がさばきを曲げ、法律を変えようとも、結局は義へと帰るようにできているのである。
94:16 だれがわたしのために立ちあがって、悪しき者を責めるだろうか。だれがわたしのために立って、不義を行う者を責めるだろうか。
94:17 もしも主がわたしを助けられなかったならば、わが魂はとくに音なき所に住んだであろう。
もしも、と、仮定法が使われている、という事は、結局最後は、主が助けとなって下さり、たましいは救いを得、さいわいを得た、という事である。
94:18 しかし「わたしの足がすべる」と思ったとき、主よ、あなたのいつくしみは/わたしをささえられました。
94:19 わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。
彼は祈り、そして宣言した。
「足がすべる」と思った時、主のいつくしみが支えて下さった、と。
ここの「支える」は未完了形で、すなわち、今まで支えて下さった、のみならず、これからもずっと支え続けてくださる、という告白である。
また、思い煩いが満ちる時、主の慰めが、魂を「喜ばせ(シャァアー)」た、と告白しているが、シャァアーは、かわいがる、あやす事の意味があり、これも、ここでは未完了形である。
つまり、思い煩いが満ちて主に求めるなら、その都度、主はあやして下さり、かわいがってくださる、今までそうだったし、これからもずっとそうである、という告白である。
94:20 定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者は/あなたと親しむことができるでしょうか。
94:21 彼らは相結んで正しい人の魂を責め、罪のない者に死を宣告します。
「定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者」は、法律を自分に都合がいいように改定する、悪どい者である。
しかも、「彼らは相結んで正しい人の魂を責め、罪のない者に死を宣告」する。
そのような者に対し、主は、決して親しむ事はなさらない。
94:22 しかし主はわが高きやぐらとなり、わが神はわが避け所の岩となられました。
94:23 主は彼らの不義を彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされます。われらの神、主は彼らを滅ぼされます。
この詩篇は、主こそ自分にとっての守りであり、そして主は、彼らの不義は彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされる、という宣言で、終える。
この詩篇は、「あだを報いられる神」という呼びかけの反復で始まり、最後は「主は彼らを滅ぼされる」という宣言の反復で終わった。
こうして、この事はたしかに成就する、と、印が押された。
私達も、世においてまかり通っている悪を見たなら、この詩篇のとおりに、主に義のさばきを願い求め、また、主の復讐の日を宣言するべきだ。
主日礼拝
向きを変えて出発せよ(申命記1:7-8)
第一礼拝 Youtube動画
English Service: The Nature of Satan and How to Deal with Him (Luke 10:17-20) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
2月となった。今月のカレンダー聖句は、申命記1:8である。7節から見ると、『向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き…大河ユーフラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなた方の手に渡している。行け。その地を所有せよ。』 申命記は、出エジプトした民が、荒野での40年の放浪を経て、いよいよ約束の地を目前とした時、死期を目前に迎えたモーセによる、最後の説教である。その説教の最初は、40年前、出エジプトしてホレブに滞在していた時の話から始まる。彼らは出エジプトして1年間、神の民としての契約と礼拝規定が定められ、礼拝所である幕屋も建設され、12部族の編成も終わり、いよいよ、約束の地へと出発する準備が整えられていた、まさにその時のモーセの言葉が、今回の御言葉である。
『向きを変えて、出発せよ』(7節) 「向きを変える(パーナー)とは、準備する・移動するの意味で、「出発する(ナーサー)」は、「杭を抜く」事から、テントの杭を抜いて旅を始める、移動する事を意味する。
主はその時、エモリ人の山地に行け、と、言われた。そこは、戦いに長けた強力な先住民族がいたが、主は、「見よ、わたしはその地をあなた方の手に渡している」、それ故、「行け、所有せよ」と、言われた。(8節)
私達にも、約束の御言葉が、既に語られている。準備は出来ているだろうか。今まで留まっていたテントの杭を引っこ抜いて、神様が約束された祝福の領域へと、移動を始める準備は。いよいよ、約束されていた素晴らしい地へ、足を踏み入れようとしている、希望に満ちた瞬間、のはずだった…。実際は40年の放浪のスタートだった。主が語られた場所から、約束の地まで、11日しかかからないと記されている(2節)のに、一体何が、「11日」を「40年」にさせたのか。それは、彼らの恐怖や、できない・無理と思わせる奴隷根性、そして、共におられる全能の神が、あたかも、いないかのように見積もる「不信仰」こそ、そうさせたのだ。
その過ちに陥った次第が、9節以降に記されている。9節以降、モーセが民の長となるべき人を選別した次第が記されているが、そのリーダー選別の基準を、彼のしゅうと・イテロは、「有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人」を選ぶようアドバイスした(出エジプト記18:17-22)。しかしモーセが選別した人は、神を畏れる人でもなく、誠実な人でも、不正の利を憎む人でもなく、「知恵があり、人に知られている人々」だった(15節)。考えてほしい。「神を恐れない、けどデキる人」「不義を憎まない、けどデキる人」をリーダーに選んでしまったらどうなるか。結局彼らが、神の民を、信仰とは逆の方向へ「ミスリード」してしまったのだ。
私達は、教会や事業は、組織が大きくなって人が増えた時こそ、気をつけるべきである。初代教会は、人数が増えるにつれて、どのような人を上に立てたか。それは、御霊と知恵に満ちた、評判のよい人だった。
私達が神の国の仕事を成し遂げるためには、量や力や効率より、霊的純粋さこそ保つべきであり、いたずらに人が増える事よりも、むしろ、信仰を邪魔するような余計な人は来ないように祈った方が良いのだ。
イスラエルの民があの時、モーセから言われた事に対し、口をつぐんで何も言わずに、その通り行っていたなら、すんなり約束の地に入れた、はずだった。しかし彼らは、提案してしまった。まずその地を探らせて、どう攻略すべきかを熟考しよう、と(22節)。事前調査するのは、悪い事ではない。ただ、その調査結果を、自前で判断するか、主で判断するかによって、天と地の差となる。モーセは、調査させるのは良いと思った。
彼らは今まで、主の力強い御業を見てきたのだし、調査して、見て、どういう地か知ったなら、ぜひ行きましょう、と言うだろう、と、疑いもせずに思っていたのだ。しかし彼らの思考は、モーセと同じではなかった。
彼らは、主が今までして下さった事も、主がおられる事も、度外視し、自分と相手だけ比べて絶望したのだ。
主の言葉に、人の判断を混ぜてしまう事こそ、「11日」を「40年」に引き伸ばしてしまうコツであり、主が生きておられる事を度外視しして、自分の凝り固まった考え方を通す思考こそ、霊的にも、社会的にも、いつまでも「底辺」から脱却できず、荒野を放浪する人生となってしまうのだ。 それに引き換え、ヨシュアとカレブは、自分達の内におられる主と、相手とを見比べて、聖なる計算をしたので、絶対勝利する、と確信できた。
主は今月、向きを変えて出発せよ、わたしはその地をあなた方の手に渡している、行って、その地を所有せよ、という御言葉を与えて下さった。この言葉を信じて、ヨシュアやカレブのように、主を見つめ、今、目の前にある人・物・事と、主とを比較して、必ず主と共に勝利し、その地を獲得する、という確信と希望を得て、大胆に進み出て実体を勝ち得る皆さまでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
安息して住まい、食べ、そして働く環境を整えられた主(創世記1:9-13)
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詩篇講解説教
主の主権を強調し賛美する詩篇たち(詩篇93篇)
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この詩篇は、詩篇100篇に至るまで続く、神様の主権と支配を告白し賛美する一連のグループのはじまりで、特に、神の王権と支配を、ヘブライ語の繰り返しによる強調表現を駆使して賛美している。
93:1 主は王となり、威光の衣をまとわれます。主は衣をまとい、力をもって帯とされます。まことに、世界は堅く立って、動かされることはありません。
1節で、繰り返しによる強調は、「主はまとう」である。
まとう(לָבַשׁラバシュ)は元々巻きつけるという意味で、そこから、覆う、着る、という意味になる。
主は、何をまとわれるのか?
それは、みいつ(尊厳、英語ではmajesty、גֵּאוּתゲウト)であり、この表現によって強調された動詞は、主が「王として治めている」事である。
日本語は「王となり」と訳されているが、これは「王(メレク)」という名詞ではなく、「王として治める(マーラク)」という動詞である。
93:2 あなたの位はいにしえより堅く立ち、あなたはとこしえよりいらせられます。
この節では、同じ語による繰り返しはないが、「いにしえ」「とこしえ」という似た意味が繰り返されて、主の御座が「固く立つ(クンכּוּן)」事が、強調されている。
主は、とこしえからとこしえまで、御座におられ、そこから、主の統治を発される。
93:3 主よ、大水は声をあげました。大水はその声をあげました。大水はそのとどろく声をあげます。
93:4 主は高き所にいらせられて、その勢いは多くの水のとどろきにまさり、海の大波にまさって盛んです。
3節では、「大水は声をあげました。」、という言葉が、3回も繰り返されている。
「大水は声をあげました。」とは、どういう事だろう。それが3回も繰り返されたのは、どういう事か。
「大水(ナーハールנָהָר)」は、川という意味のほかに、流れ、洪水、海の意味があるが、ナーハールは特に、エジプトのナイル川や、アッシリヤのユーフラテス川を指す事が多い。
また、「声をあげている」と訳された語ナーサーנָשָׂאは、持ち上げる、掻き立てる、という意味である。
エジプトやアッシリヤといった、主を知らず、主の民を圧迫する大国の、文明の源と言える川さえも、主によって創造されたものであり、主によって掻き立てられ、主によって平定されるのだ。
主を知らず、主に逆らう大国も、結局は、主の支配の下にあるのだ。
そして4節では「まさって力強い(アディールאַדִּיר)」が繰り返されている。
アディールは、広い、大きい、という意味から、力強い、という意味となった。
主は全世界を、王として統治され、主を知らない人が多い、この日本をも、主は掻き立て、また平定される。
93:5 あなたのあかしはいとも確かです。主よ、聖なることはとこしえまでもあなたの家にふさわしいのです。
この節には、繰り返しによる強調表現はないが、メオド(とても)という言葉によって、「あかしが(エダーעֵדָה)が、確か(アーマンאָמַן)」である事が、強調されている。
アーマンは、アーメンの元となった語である。
私達は、聖書という主の「証言」によって、たましいが生き返り、賢くされ、喜びを感じ、見えていなかったものが見えるようになって来る。
それによって、主は確かに生きて働かれる、という事を知ることができる。
また、この天地万物の主の御手のわざからも、主はおられる、という「あかし」を、私達は見て取る事ができる。
主のあかしは、まことにアーマン、すなわち、確かなのだ。
詩篇19:7 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
19:8 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
19:9 主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
19:11 また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
まことに、主の御言葉は、それらは金よりも好ましく、はちみつよりも甘い。
人を生き返らせ、物事を見えるようにし、また目を輝かせる。
御言葉によって戒めを受け、またそれを守るなら、報いは大きいのだ。