メッセージ - 202203のエントリ

働き人に必須のたしなみと、必ず頂ける報酬(2テモテ2:1-15)

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御霊の7つの現れ(ローマ8:1-2)

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七つの悪霊の性質と対処(エペソ6:10-18)

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主日礼拝

知恵と啓示の霊を、思慮分別の霊を、求めよ(ダニエル2:1-30)

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週報/メッセージ(説教)概要

 バビロンのネブカデネザル王は、かつてなかったような無茶な難題を、バビロンの知者へ突きつけた。
自分が見た夢を言い当て、その解き明かしをするようにと要求し、それができないなら、その人の手足を切り離して、その家を滅ぼし、ごみの山とする、と、言って来たのだ(1-6節)。人が見た夢の内容など、言い当てられられる訳が無いので、バビロンの知者達は、まず、夢の内容をお話しください、と返す(7節)。しかし王は、頑として言う。あなた方は時間を稼ごうとしている、もし出来ないなら、判決は同じだ、と。一方はあれを要求し、他方はこれを要求して、互いに話が噛み合わないまま、互いの感情だけが険悪になって行く…。
 そもそも王は、なぜこんな非常識な難題を押し付けて来たのか。それは、王は、夢を見て心が騒いだからであり(1,3節)、速やかにその解釈を知りたかったのだが、肝心の、自分の見た夢の内容を、覚えておらず、ただ、内容のインパクトが強かった、という事だけを覚えていて、眠れないまでになってしまっていたからだ。
 
 いつも王の近くに侍っていたバビロンの知者達は、普段から、呪文や神伺いなどを駆使して、何もかも解決できるかのように振る舞っていたので、王としては、彼らには夢の内容と解き明かしが言い当てられるだろう、と、思っていた。ところがバビロンの知者たちは、この期に及んで、そんな事ができる人は一人もいないし、そんな難問をつきつけてきた王は誰もいない、と返して、結局、今まで彼らが行ってきた事は「人間わざ」だったと自ら暴露した。それで王は大いに怒り狂い、バビロンの知者を全て滅ぼせ、と命じた(12節)。
 強硬に要求をゴリ押しして来る人は、自分の思い通りに動いてくれない相手を、短絡的に「無能」呼ばわりし、イライラする。もしその人が強権を持った上司であるなら、大いにやっかいだが、そのような相手に一番してはならない事は、自分の正論をそのままぶつけ、短絡的な解決方法を押し通す事である。そうしてしまうなら、大切なものを失ってしまう。大切な人間関係、積み上げた信頼、そして最悪、大切ないのちを。
 そういう場合に必要なものは「知恵と思慮」である。ダニエルは、自分を殺しに来た侍従長に「知恵と思慮」をもって応待したので、殺しに来た彼らの心をやわらげ、事の詳細を引き出す事に成功した(14節)。
 私達も知恵と思慮を身につけるなら、子育てや夫婦関係、友人や上司との関係において、失敗する事は無くなる。だから私達は、ワンダフルカウンセラーであられる主イエス様に求めるべきである。あなたが見るように見させて下さい、あなたが聞くように聞かせて下さい、あなたの知恵と啓示の霊を与え、思慮分別の霊を、わたしにも与えて下さい、と。 ダニエル達は、祈り求めた結果、与えられた(17-19節)。主は、知恵を求める人には、誰にでも、惜しげなく、咎めることなく、お与えになるお方である(ヤコブ1:5)。主は、人の心に隠れた事を解き明かし、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられるお方だ(20-23節)。
 
 ダニエルは、王の前に連れて来られた時、社会的身分は「ユダからの捕虜」であった(25節)。そうでありながら彼は、ネブカデネザル以上に、世界に神のわざをもたらす影響者となった。実際ダニエルは、3つの覇権国、合計4人の王の代を、生きて、栄えた(1:21)。人の世の地位と、神が授ける地位は、違うのだ。
 ダニエルは王に言った。あなたが求める秘密は、世のどんな知者も示す事はできないが、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、終わりの日に起こる事を王に示されたのです、と(27-29節)。ダニエルは王に、あなたは寝床で、この後何が起こるのかを思い巡らされました、と言い当てたが、なぜ、それができたのか。
 世のカウンセラーは、他人が寝床で思い巡らした内容など分からないが、ワンダフルカウンセラーである主は、全ての秘密も、問題の本質も、そして、それら全部の解決方法も、ご存知である。
 王は、夢の内容を思い出せなかったが、全ての人も同様に、自分の問題の原因を、思い出せない。
どうしてこんなに心が騒ぐのか、どうして皆、とんちんかんなアドバイスしかくれないのか、なんで皆、自分を奇人扱いするのか。人は、どうして自分自身の性質がこのように形成してしまったかを、思い出せない。
 このように、本人すら分からない心の思いと問題の本質は、知恵と啓示の霊と、思慮分別の霊によって味付けられた人こそ、真に、解決への糸口へと導く事ができる。だから私達・クリスチャンは、四六時中、ワンダフルカウンセラーであられるイエス様に祈り、求め、聞くべきである。イエス様と、いつもひっきりなしに交わって、共に歩んで行くなら、ダニエルのように、知恵と啓示の霊が与えられ、思慮分別の霊が与えられ、時代を支配し、神の国をもたらす者、栄える者とされて行くのだ。ワンダフルカウンセラーであるイエス様にいつも求め、御霊を得ていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

 

 

 

 

 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

祈るときは(マタイ6:5-8)

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無いはずなのに満足する心と、有るはずなのに満足しない心(ヨハネ4:31-34)

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詩篇講解説教

私達の中の邪悪な性質を追い出して下さるイエス様(詩篇101篇)

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この詩篇は、ダビデによるもので、彼が「このように生きたい」「このように歩みたい」と表明し決心した詩である。
そして同時に、この詩篇は、ダビデの子孫として来られる王の王、イエス・キリストのご性質を、的確にあらわしている詩篇である。
 
詩篇101:1 わたしはいつくしみと公義について歌います。主よ、わたしはあなたにむかって歌います。
 
1節の、前半の「歌い」はシール、「声」で歌う意味で、後半の「歌い」はザーマル、指で弦楽器を弾く事や、歌う事を意味する。
 
何を、歌うのか。
それは、主の恵み(ヘセド)と、さばき(ミシュパト)を、である。
 
ミシュパトは、司法的に宣告された判決、さばきを意味するが、人は誰一人、主の裁きの前に立つ事はできない。
そこで、主の恵み(ヘセド:恵み、慈悲、憐れみ、いつくしみ深さ)が必要なのだ。
 
 
父なる神様は、義であられ、罪ある者を罰さざるを得ない。
しかし恵み(ヘセド)深い神様は、そのヘセドのゆえに、御子イエス様を、私達に送ってくださった。
彼の贖いのゆえに、私達はイエス様にあって、父なる神様の前に進み出る事ができるようになった。
それで私達・キリスト者は、主のさばきを「喜び」「慰め」として受け止める事ができる。
それを、私達もダビデのように、歌うのである。
 
しかし、サタンとそれに同意する者は、主のさばきを恐れる悲しむ以外に無い。
だから、誰もが、キリストにあって救われる必要があるのだ。
 
 
詩篇101:2 わたしは全き道に心をとめます。あなたはいつ、わたしに来られるでしょうか。わたしは直き心をもって、わが家(ベイト)のうちを歩みます。
 
ダビデのように、「全き道」に、心を留める人は、主が来られる日を、今か、今かと、心待ちにする。
しかし、後ろ暗い事をしている人は、主に、来てほしくない、と思う。
 
ダビデ個人としては、彼は、全き道に心を留め、正しい心で、自分の家の中を歩もう、と、決心し、宣言した。
しかし残念ながら、ダビデは、全き道を歩まなかった。
彼は、彼の家の中で罪を犯し、また、彼の家に生まれた後の子孫も、罪の道を歩み始めてしまった。
 
しかし、だからといって私達は、「ダビデは”直き心をもって、わが家のうちを歩みます”などと言う資格はない」と、断罪することはできない。
 
ダビデはたしかに、罪を犯した。
犯したけれども、彼は、主の前に進み出て、赦しを願い、主に喜ばれる道を歩もうと、もがいた。
 
私達も、もがくべきである。
たとえ罪を犯したとしても。
主に喜ばれる道を歩もうと決心し、宣言し、もがきつつも努力し続けるべきなのだ。このいのちがある限りは。
 
 
ダビデは「全き道に心をとめる」と言ったが、どうしたら、全き道を歩めるか。
 
それは、主の前に歩む事によって、である。
 
創世記17:1  アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
 
ここで主が宣言された通り、全能の神の「前(パニーム:面前)」を歩むなら、人は、全き者になれるのだ。
 
人はたとえ、罪の行いを全くせず、品行方正に歩んだ、としても、神と共に歩まないとするなら、彼は、全き者ではない。
人は、単体では、全き者にはなれない。
ただ、全能の神と共に歩む事によってこそ、全き者になれるのだ。
 
アブラハムは、86歳から99歳までの間、神様抜きで、13年歩んだ。
しかし、神様の憐れみが注がれて、神様のほうから彼にあらわれて、わたしと共に歩んで全き者となれ、と言って下さった。
 
ダビデもまた、自分の家の中で、罪を犯したが、彼はそれでも、罪を犯したままの自分を、そのまま主の御前へと持って行った。
罪を犯したからといって、神との歩みを止めなかった。
むしろ、犯したからこそ、その罪ある自分を何とかしてほしい、と主の御前に持って行き、あくまで神との歩みを止めなかった。
だから、彼は主に愛され、主の憐れみを受けたのだ。
 
ダビデは2節で言っている。
わたしは「直き(トム:完璧さ、純粋さ、シンプルさ)」心をもって、わが家のうちを歩みます、と。
 
つまり、主の前の純粋さ、シンプルな心をもって、主の前に歩む人を、こそ、主は憐れんでくださるのだ。
 
そういうわけでダビデは、「主よ来て下さい」、と、何のわだかまりなしに言えたのである。
 
 
詩篇101:3 わたしは目の前に卑しい事(ベリヤアル)を置きません。わたしはそむく者の行いを憎みます。それはわたしに付きまといません。
 
彼は、彼自身の前から「ベリヤアル」を、すなわち、邪悪な者を自分の中に置かない、
むしろ自分は、背く者の行いを憎み、それをまとわりつかせない、と、決心し、表明した。
 
罪を犯したダビデが、よくもそんな事が言えるものだ、と、私達は言うことはできない。
私達にも、いつ罪を犯してもおかしくはない「罪のとげ」が刺さっているからだ。
 
私達も、日々、ダビデのように、罪をかなぐり捨てる事の表明をし、競争を耐え忍んで走っていくべきなのだ。
キリストとベリアルは、共生できないからだ。(2コリント6:15)
 
詩篇101:3 わたしは目の前に卑しい事(ベリヤアル)を置きません。わたしはそむく者の行いを憎みます。それはわたしに付きまといません。
 
もし、キリストが私達のうちに住んでいない、キリストに住んで欲しい、と、願うなら、
ダビデのように、私達の内のベリヤアルを置かない、と宣言し、それを憎み、それが出ていくまで「イエスの御名によって出ていけ」と宣言し続けるべきである。
 
ヘブル12:1 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
 
 
詩篇101:4 ひがんだ心はわたしを離れるでしょう。わたしは悪い事を知りません。
詩篇101:5 ひそかに、その隣り人をそしる者を/わたしは滅ぼします。高ぶる目と高慢な心の人を耐え忍ぶ事はできません。
 
5節は、「そしる」という意味のラーシャンが、反復強調されている。
この、隣人をそしる性質、高ぶる目、高慢な性質は、サタンの性質である。
 
日本語訳では、ダビデはそのような「者」を滅ぼします、といっているように書かれてあるが、それでは、ダビデは恐怖政治をするつもりなのかというと、そういう事ではない。
原文には元々、「滅ぼし」の対象となる目的の語は無いので、ここはむしろ、わたしは「隣人へのそしり」を滅ぼします、という事だろう。
 
私達も、自分自身の中から、また、自分のグループの中から、サタンの性質を、滅ぼすべきである。
 
ダビデには、それは結局できなかったが、ダビデの子孫・イエス様は、真に、私達の中から、そのような性質を断ち切り、滅ぼしてくださる事が、おできになる方だ。
そしてゆくゆく、イエス様は、悪魔サタンそのものを、断ち滅ぼして下さる。
 
黙示録22:15 犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。
黙示録22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
 
 
詩篇101:6 わたしは国のうちの「忠信な(アーマン)」者に好意を寄せ、わたしと共に住まわせます。全き道を歩む者はわたしに仕えるでしょう。
 
ここもまさに、イエス様のご性質が、そのまま歌われている。
アーマンは、アーメンの元となった語であるが、イエス様の元には、彼にアーメンする人達が来る。
そして彼に対して「アーマン(忠信)」な人達が、イエス様とともに住み、とこしえにイエス様に仕える事が、黙示録に書かれてある。
 
 
詩篇101:7 欺くことをする者は/わが家のうちに住むことができません。偽りを言う者はわが目の前に立つことができません。
 
イエス様も言っている。
 
啓示録22:15 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
 
 
詩篇101:8 わたしは朝ごとに国の悪しき者を/ことごとく滅ぼし(ツァーマト)、不義を行う者をことごとく主の都から断ち除きます。
 
ダビデ個人としては、そのようにあろうと宣言した。
それを実行できるお方は、まことのダビデの子孫、イエス様お一人である。
私達はイエス様にあって、ダビデのように、日毎、主とともに歩み、全き者の道を歩んでいく者達である。
 
キリストとベリヤルは、共生できない。
だからもし、私達の中に、邪悪な性質がはびこる都度、それに「しょうがないや」と言って妥協したりしてはならない。
都度、ベリヤアルを追い出し、主の前に歩む努力をすべきだ。ダビデがしたように。
そのような日々こそ、主の面前を歩む道、まったき道だから。

全知識人に死刑宣告を発してしまう暴君のカウンセリング方法(ダニエル2:1-30)

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主日礼拝

時代を制する者となる秘訣(ダニエル1章)

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English Service:The Secret of Becoming a Conqueror of this generation(Daniel 1) Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 ダニエルとその友人達は、激動の時代を経験した。彼らの国・イスラエルの信仰が堕落し、バビロンという異教の国が力を得て、彼らはそこへ囚われて行ってしまったが、彼らはそれでも、見事、御言葉の基準を貫き、彼らを通して、世界は真の神を知り、彼らは時代をリードする人物となった。まさに今、全世界は、彼らのような人材を待ち望んでいる。彼らのような次世代を生み出す極意を、ダニエル1章から得ていきたい。
 
 ダニエル1章には「神が与えた」という重要なキーワードが、3回登場する。 その一番目は2節にあるが、2節の「与えた」は、あまり有り難いものではない。主は、神の宮の宝物と、世界の政治・経済・文化・教育の支配権を、バビロンの王へ「与えた」のだ。なぜ神は、神の言葉を微塵にも重んじない異邦の王に、それを与えたのか?それは、「神の民」と呼ばれる人達が、主に忌み嫌われる事をし続け、預言者を通して警告されても無視し続けたからだ。そのような事を続けるなら、聖なる器と支配権を、神の民から奪い、異邦の王へと「与え」るのだ。主はいつも、主に忠実で熱心な神の民を探し求めておられる。どんな暗い時代であっても、いかに異教の地であっても、また、どんなに人数が少なくても、主は、彼らを通して、威光を表される。当時、そのような、主の御旨にかなった少年達が、バビロンへ連れて行かれた中に4人いた(3-7節)。
ダニエルと、彼の3人の友人たちである。彼らは親元である神の民の中から引き離され、神の国の価値観から程遠い国のただ中に強制連行されても、御言葉の基準を固く貫いた。多くのクリスチャンの子供は、親元から離れたとたん、羽目を外してしまいがちだが、そのような子供達は、世の荒波に飲まれ、挫折し、何もかも失った末に、ようやく神様と出会う、という、お決まりのパターンの「無駄足」を踏んでしまう。
 ダニエル達は、そういった「寄り道」は一切せず、神と人から重んじられ、その時代に神の栄光の支配をもたらす者となった。彼らのようになるにはどうしたら良いか。彼らは自分の身を汚すまいと決心したが(8節)、彼らが決心をしたその知識は、彼らがバビロンに移される前、親から受けた御言葉教育の故だった。
 彼らは幼少期からテフィリンし、御言葉の知識があって、その基準を守ろう、という熱心が、既に子供の時から備わっていたのだ。そのような人に、神は、知恵と能力と地位と、その時代の支配権を「与えられる」。
 
 二番目の「神が与えた」は、9節にある。「神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた。」
 彼らは、王の食卓からの飲食物を、律法に照らして「汚れたもの」と断り、野菜と水だけを求めたが、そのような失礼な事をするなら処刑させられてもおかしくはなかった。神は、そんな健気な彼らに図らって、逆に、上役に好意を得させ、十日間、彼らが申し出た通り試すようにした。その結果、十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、体も肥えていた(10節)。「顔色(マレーヘ)が良い(トーブ)」とは、外見がパーフェクト、ビューティフル、グッドになったという事で、また「肥えていた(バーリィー)」とは肥満という事ではなく、体格ががっちりした、つまり、ナイスバディになったのだ。
たった10日試しただけで、ビフォーとアフターが明確なほど、外見もボディも美しくなった、だけではない。
 
 三番目の「神が与えた」が17節にある。神は彼らに知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた!
これは、学校で学んでいる子供や、御言葉学校やコミュニティセンターを建てる私達に、まさに必要なものである!これらが与えられたいなら、私達も、世の価値観や映像など、汚れた「罪の飲み食い」を断り、ただ神様が「よし」とされたものを願い求め、採り入れるのだ。そうするなら、美しい外見やボディのみならず、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられる、ばかりではない。あらゆる面でダントツになって行く。
 彼らは3年の過程を修了し、王の前で面接を受けた時、誰も彼らに並ぶ者は無かった(19節)。王が彼らに尋ねてみると、彼らは知恵や悟りやあらゆる面で、国中のどんな知恵者より「十倍も」勝っていた(20節)。
そしてダニエルは、バビロン、メディア、ペルシアという3つの覇権国で、ずっと重要な地位にあった(21節)。
そのようになりたいだろうか?それならまず、私達自身がテフィリンして御言葉を暗唱し、ダニエル達のような価値観を身に付けよう。彼らのように、主の嫌われるものを断ち、ただ主に喜ばれるものを求めるなら、上に立てられた人々からの好意が「与え」られ、良い外見やボディも「与え」られ、さらには世に十倍まさる知恵や悟りが「与え」られる。そうして神を第一とする仕組みを建てあげ、この時代、素晴らしい御言葉教育の機関をつくり、誰もがあっと驚くような子を育て、次世代リーダーを送り出して行く私達でありますように!

 

 

 

 

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

うめきながら神の子のあらわれを待っている被造物(ローマ8:18-24)

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