メッセージ - 202205のエントリ
主日礼拝
王たる者のたしなみと、王を育てる母のたしなみ(箴言31:1-9)
第一礼拝 Youtube動画
English Service:The way of flesh and the way of the Spirit(Rom8:9-14) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
本日は母の日である。母は、子にとってはトーラー、神の法であり(箴言1:8)、子は、父よりも母の影響を受けて育つ。女性はいのちを産み、養い、育てたい、と願う。神様がその機能と性質を備えられたからだ。
1テモテ2:15に、女性は慎みと共に子を産む事によって「救われる(ソーゾー)」とあるが、ソーゾーには「完成する」「癒やされる」「全うされる」の意味もあるので、女性は、子を産んで、育て上げる事によって、完成されるのだ。それは、実際にお腹を痛めて子を産む事に限らず、霊的な子を産んで、一人立ちさせる事によっても、そうである。女性がエデン以来、産みの苦しみが増加されたのは、御言葉によってではなく、自分の善悪判断によって、子を産んだり、育てるからだ。いかにしたら、正しく子を育てられるだろうか。
今回の箇所はマサの王・レムエルの母の言葉であるが、母のひとかたならぬ愛とうめきが込められている。
『わが子よ、何を言おうか。わが胎の子よ、何を言おうか。わたしが願をかけて得た子よ、何をいおうか。』(2節) 最初の語りだしは、マー(What? How? What!)という、感嘆の語を、3回も繰り返している。彼女が誓願をかけて得たこの子、苦しみつつ生んだこの子に、一体、何を伝えたらいいだろうか・・・。子に幸せになってほしい、間違った道に歩んでほしくない、とは、どの母も思うが、多くの母は、無知ゆえに、自分の善悪判断に従って育てて、失敗してしまう。本来、神の言葉に従って育てなくてはならないのに。
母はうめく。一体我が子を、どうしたらいいだろう、と。そこで彼女が最初にいましめた言葉が、3節である。
『与えるな(置くな)、あなたの力(、富、権力)を、女達に。あなたの道を、王たちを摩耗・消滅させる者へ』(3節直訳) ここの「女」は複数形なので、神を知らない「異邦の女達」の事だろう。女とは、男性が夢中になる対象であり、そして男性の力で守り、愛し、育むべき相手である。「若い時の妻と喜び楽しめ、いつも彼女の愛に夢中になれ」と言われたが (5:18)、神の言葉よりも優先したり、支配権を逆転させたりしてはならない。神の言葉より妻の言葉を優先させてしまった結果、アダムとエバはエデンから追い出されたのだ。
男性に限らず、女性も、夢中になりそうな異性や、溺愛しそうな相手(たとえば子供)には、気をつけるべきである。本来、自分が保護者として養い守るべき相手、すなわち、弱く無知で正しく守り導いてやらなくてはならない相手に、力や富や権力をあずけ切ってしまうと、神の国の秩序が脅かされてしまうからだ。
エデンでは当初、神と、男と、女と、健全な三角関係があった。人は神を主とし、その上で、夫婦の正しい秩序を保っていた。その限りでは、エデンは楽園であったし、その時、共に裸であったけれども、全く気にならなかった。しかし、神抜きで、身勝手な善悪判断すると、家庭は壊れ、労苦するようになってしまった。
レムエルの母は言う。王達を消し去る者に、ゆだねるな、と。ソロモンは、女達に主導権を握らせてしまった故に、偶像崇拝をするようになり、主の戒めを聞かなくなって、全イスラエルに災いをもたらしてしまった。
私達も、キリストにあっては、御言葉で支配する王である。私達はその支配権を、手放してはならない。
4-7節は、さらに、夢中にさせる物全般への警告が記されている。『レムエルよ、酒を飲むのは、王のする事ではない、王のする事ではない、濃い酒(シェカール)を求めるのは君たる者のする事ではない。』(4節)
シェカールとは、うきうきさせるもの、夢中にさせ、中毒性をもたらすものであるが、特に、神の国と関係の無い、そして自分の意思で止める事が難しい「シェカール」の類を求めるのは、王たる者のする事ではない。
それはアルコールはもちろんのこと、インターネットから流れてくる架空のコンテンツやメディア情報など、現実を離れさせ、ぼんやりさせるもの全般である。それらは、本来、取り組むべき仕事のための時間や、お金、エネルギーを浪費させ、仕事を「かったるい」と思わせたりする。王たるものは、そうしたものにうつつを抜かして、勅令(ハカク:刻まれた言葉:テフィリン)を、口から宣言する事を、忘れてはならない(5節)。
8節は「あなたは全て口の利けない人、すなわち滅びが定められている者たちのために、口を開け」と訳せる。つまり、御言葉を口で言えない霊的な「おし」は、滅びへと向かっているのだ。実に多くの人が、そうである。キリストにあって王とされた私達は、そのような人のために、テフィリンした御言葉という「勅令」を口から発し、行くべき道が分からず滅びへ向かっている人を救って行くべきだ。この時代、王とされた者として、テフィリンした御言葉の勅令を口から出し、霊的な子にしろ、肉的な子にしろ、御言葉によって正しく育て上げて、立派な王へと育て上げていく私達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
敵がいる状況で最も有効な再建方法(ネヘミヤ4章)
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主の聖なる山をこの地にもたらす者となるために(イザヤ11:6-9)
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主日礼拝
主の霊が留まる人にあらわれる性質(イザヤ11:2)
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English Service Walk in the Spirit(Rom8:1-8) Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
5月の聖句は、イザヤ11章2節である。『その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である』。この箇所は、エッサイの根株から生じた「新芽(ネツェル:切り株から生じた全く新しい芽)」が示されており、それはすなわち、ナザレ人イエス・キリストを指す。
その根株とは「切り株」、すなわち、一度は巨木へ成長したのに、高ぶった故に、切り倒されてしまったのだ(10:33-34)。実際、ダビデの子・ソロモン王の家は、祝福されると、高慢になり、信仰が変質して行ってしまったため、その王家は切り倒されてしまった。それで、ソロモン系列ではないダビデ王家の子孫から、イエス・キリストが出た(ルカ3:31)。主は、人の知恵や力由来の高慢が混ざった力は、用いない。むしろそれは切り倒し、人間の力の混じっていない、主の復活のいのちの力を通して、御国を建てられる。
イエス様がバプテスマを受けて水から上がられた時、聖霊が鳩のように降りてきてイエス様に留まり、「その上に主の霊がとどまる」と預言された言葉が成就した。私達も、バプテスマを受け、イエス様へ接ぎ木されているなら、同じ霊が私達にも流れ込んでくる。その霊にはどのような性質や能力があるか。2節にある。
1,知恵(ホークマー):wisdom 、知恵,知性,思慮。 2,悟り(ビーナー):understanding 、理解,識別。 3,はかりごと(エツァー):counsel 、計画、助言。 4,能力(ゲブラー):might、力。 5,主を知る「知識(ダアト)」:knowledge 、知識,理解,認知。 6,主を「恐れる(イェーラー)」:fear 、畏怖,尊敬,敬虔。
私達もキリストにつながり、これらの性質に満たされるなら、もはや過ちや間違いは犯さなくなり、世のどんな力も、知恵者も、その人には太刀打ちできない。ちょうど、神の霊で満ちたダニエルやステパノのように。
また、表面上の物事に騙されなくなる。その人は、目で見える所によって判断せず、耳で聞く話で判断せず、むしろ、公正と義をもって判断するようになり、特に寄るべのない人や貧しい人を正しく導き、また、口のむちをもって地を打ち、「くちびる(サーファー)の息(ルアッハ:霊)で悪者(ラーシャー)を殺す」(3-4節)。
このサーファーとは、「唇」の他に、「言葉」、「境界線」、「縁」という意味があり、ラーシャーは、道徳的な悪を積極的に行う性質、あるいは、そういう人を指す。すなわち、そのような唇から出る息こそ、御霊の与える御言葉の剣であり、私達の中の、あるいは人の中の邪悪な性質や、反道徳的な性質を刺し殺すのである。
聖霊の油が注がれて、御霊に導かれて歩む人は、もはや、世の肉欲を満たしながら生きるためではなく、主の御国をこの地にもたらすために生きるようになる。そのため、肉の判断ではなく、霊の判断によって判断し、また、人間的なやりたい時にではなく、主の時に促されて事を起こす。主に油注がれた王・クロスは、人の技とは到底思えないような手段とタイミングで、バビロンに勝利し、ペルシア帝国を大いに栄えさせた。
そして、そのように主の霊に導かれた人が統治する世界は、平和になる。その究極形態としての、イエス・キリストが統治する世界が、6−9節に記されている。そこでは、狼は子羊とともに宿り、子牛と、若獅子と、肥えた家畜は、共にいて、小さい子どもがこれを追って行く。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食うようになる・・・。9節に、そこがこんなにも平和である理由が記されている。
そこは「主の聖なる山」という領域であり、「主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす」状態なのだ。
獅子や熊が、牛と一緒になって草をハムハムする・・・。そう、主の知識である御言葉をテフィリンし、それが、私達の中に満ちると、どんなに獅子や熊、狼や蛇のような性質であったとしても、それらは抜き去られ、平和な食物を食べる者へと創り変えられ、主の聖なる山で、永遠に、平和の内に生きるようになる。
私達はこの日本に、そのように平和な「主の聖なる山」をもたらす者になりたい、と、思わないだろうか。そのためにはまず、私達の中の高慢が切り倒されなくてはならない。人間的な誇りや高慢の一切混じっていない、「新芽」であられるキリストへと接ぎ木され、この御方につながり続けるなら、そうしている内に流れ込んで来る聖霊の油によって、豊かな実を結び続け、流れ込んでくるいのちに、満ち溢れるようになって来る。
『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。』(ヨハネ15:5) 私達が御言葉にとどまり続けるなら、大胆に、主に何でも求める事ができるようになる。海が水で満ちているように、主の栄光でこの地を満たす、栄光の働きに、豊かに用いられる私達でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!