メッセージ - 202301のエントリ
主日礼拝
熱いスピリットを起こす秘訣(マタイ5:3-6)
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週報/メッセージ(説教)概要
この度、韓国各所に起こされているIMのセンターを視察するため、韓国をほぼ一周して来た。行った先々で、共通して言われた事は、このIMのシステムおかげで、次世代だけでなく大人もどんどん変えられ、その変えられた彼らの様に驚いた人々が次々と加わり、さらに増え、さらに変えられている。今は今までで一番幸せな働きをしている。日本のために喜んで助けに行くのでぜひ、うちのセンターに頼んで下さい、と。
実際、それぞれのセンターの子どもたちは共通して、素晴らしく秩序があり、礼拝においても賛美においても、ワーシップダンスにしても、伝道にしても、一切の迷いなく、はつらつと行うので、閉塞的だった子供も大人も、ともにイエス様を祝う喜びの渦へと巻き込んで行った。子供たちの学びの場や生活の場も見させて頂いたが、びっくりしたのは、彼らの時間管理と、空間管理の、規律正しさである。とにかく無駄が無い。
そして彼らは、御言葉を暗唱してからでないと、夕食にあずかれない。若い時からそのような習慣が身についているからには、今回、第一期生がアメリカの一流の大学に次々と合格したのも、うなずける。
私達はリバイバルをこの地にもたらすために、強いモチベーション(動機づけ、やる気)が必要である。
ネヘミヤは、エルサレムが廃墟である事に対する深いうめきがモチベーションとなって彼を動かし、わずか52日で城壁を完成させた。ダビデも、神の陣営が40日もなぶられていた事に対する強い憤りに突き動かされて、巨人をたった一つの石で打ち倒した。パウロは福音を伝える事について、返さなければならない負債(ローマ1:14)、どうしてもしなければならない事、もししなかったら災いだ(1コリント9:16)、とまで言った。
この地にリバイバルをもたらしたい、次世代を起こしたい、といった「モチベーション」が無いとするならそれが私達にとって一番の深刻な問題である。それはつまり、熱いスピリットが無い事を意味しているからだ。
どうしたら、それを奮い立たせる事ができるだろう。それは自分で奮い立たせられるものではないし、叱られたり、急かされたりして沸き起こるものでもない。これを湧き起こす鍵は、イエス様の山上の垂訓にある。
『心の貧しい人達は、さいわいである、天国は彼らのものである。』(マタイ5:3) 「心の貧しい人」とは、原文的には、「霊で自分の貧困を意識する者たち」「自らの霊性で、自分が神の前に無一物、乞食同然であることを知る人々」である。また、「天国」と訳された語は、原文的には「天が支配する領域」である。
つまり幸いな人とは、自分は霊において自分は何もない、無一文な者だ、自分は乞食のようで、もし恵みを受けられないのなら、生きられない!と自覚する人々の事である。そのように自覚している人こそ天からの援助を受けられ、天の支配が、自分自身へと導入される特権が与えられる、という事を意味しているのだ。
自分は富んでいる、教えらなくてはならない事など無い、諭されなくてはならない事も一切無い、と思っている人こそ、じつは霊的に麻痺状態で、みじめで、何も持っていないのだ。自分は霊において貧しい者である、次世代が面している危機をうめく心が無い、リバイバルを求める心において自分は貧しい、自分は愛において、親切において、人を顧みる心において心無しで貧しい、自分にはビジョンが無い、主の働きのために必要なものがない…そういった「貧しさ」を涙を流して悲しむ所から「偉大な働き人」への道が始まる。
『悲しんでいる人達は、さいわいである、彼らは慰められるであろう。』(4節) ここの「慰められる」とは「パラカレオー」の受動態で、励まされる、元気づけられる、熱心に説かれる、勧告される、訓戒される、等の意味もある。だから、自分は霊において貧しい!と悲しむ人こそ、それが与えられ、慰められ、励まされ、あるいは慰め主である聖霊(パラクレートス)から、熱心に説かれ、あるいは勧告され、また訓戒される。
そして、「柔和である事」(5節)こそ、重要である。もし私達が、リバイバル化された日本を、相続したいのなら、柔和さを身につけるべきだ。柔和でない人には、「神の国」化された日本を、相続させてもらえない。
そして「義」に飢え渇く心も、重要である。自分の中を見、また世の中を見るに、義が無い状況について主に「飢えています!」「渇いています!」と訴える人にこそ、充分に満足する程、与えられるのだ。
次世代を起こす働きも、この国にリバイバルをもたらす働きも、強いモチベーションが無いなら不可能だ。
それを自身にもたらすには、まず自分が霊において貧しい者である事を自覚し、悲しみ、主の前で涙し、うめき、求めるのである。そうするならパウロのような、ダビデのような、ネヘミヤのような熱いスピリットが与えられ、この時代に立ちはだかる巨人を倒し、霊的な城壁を回復させ、福音のためならいのちをも惜しまない栄光の建て上げ屋になって行く。熱いスピリットをもってこの時代を建て直して行く私達でありますように!
主日礼拝
主に向くなら(イザヤ43:18-20)
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週報/メッセージ(説教)概要
1月のカレンダー聖句は、『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。』である。今年は「メタモルフォー」、すなわち反転、逆転、変貌、反撃、ひっくり返しの年として、新年が始まったのだが、今月の聖句も同様に、「荒野に道」「荒れ地に川」という反転・逆転が示されていた。全ての事は二人または三人の証言によって確定する、と書いてあるからには、主は今年、全く新しい、良き方向へ導いて下さるだろう。
主のメタモルフォーに与れるかどうかの鍵は「主に向く事」であると、第2コリント3:16-18から学んだ。
そこは原文的には、「人が主に振り向く時はいつも、その覆いは取り除かれている」、つまり、主に向き続けている状態なら、いつでも、栄光を遮断する覆いは取り除かれた状態で、逆に、主に向いていない状態なら、いつでも覆いに覆われてしまった状態、という事である。もし主の栄光が見えない、という事なら、主ではないもの(自分、現実、心配事など)に、目が向き続けている、という事だ。しかし主に向くなら…、覆われていた覆いは取り除かれ、主の栄光があらわになり、その栄光の輝きを通して、物事が起きるようになる。
だから私達は、主のなさろうとする御旨に乗っかって行くべきである。主の御旨をさておきして、自分が思った通りにして欲しい、願い事を叶えて欲しい、と主に突きつけ、拝み倒す「異邦人の祈り」は、実は、主の栄光を邪魔する「覆い」で、自分自身を覆ってしまう事なのだ。もし私達が、物事に自分の手練手管を混ぜ込むなら、それは、その物事に「罪」を交ぜる事になる。 モーセは若い時、たった一人のユダヤ人を自分の方法で助けようとした結果、殺人者となり、ヒーローになるどころか、追われ逃げ隠れる犯罪人となった。
彼は結局、たった一人のユダヤ人さえ助けられず、大いに非難を浴びてしまった。 主が願われる道ではなく、自分の「はかりごと」によって物事を通して行こうとするなら、それ相応して「額に汗」しなければならず、生えてくる茨やあざみへの対応に追われ、ついには「ちり」にかえらなくてはならない(創世記3:17-19)。
しかしもし、「主に向き続けている状態」であるなら、御霊が与えられる。そして御霊と真理がある所には、自由がある。閉塞感や束縛感にあふれている人こそ、真理なる主に目を向けて、御霊を求めるべきだ。
その人は、覆いが取り除けられた顔で、鏡に映し出されるかのように、主の栄光を見続ける。そうしてその人は、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられ続けて行く(メタモルフォーの現在形受動態)。
だから主は言われる。先の事どもを思い出すな、昔の事どもを考えるな、と。そういった、以前のものや、現状のもの、将来のもの、自分のもの、他人のものにではなく、「主に向くなら」、主は新しい事をされ、反転をなさる。道の無い荒野に、道をもうけ、渇き切った荒野に川を設ける。野の獣も、ジャッカルも、だちょうも、主をあがめる、と書いてある。いかにジャッカルのような荒々しく、人を喰いものにするような者も、主をあがめるようになる。だちょうは、自分が産んだ卵を砂の中に埋めて、砂に温めさせる。自分ではどこに産んだのかすら忘れ、自分の足で卵を踏み潰しても何とも思わない。 また、猛獣が目の前に現れると、砂の中に自分の頭を埋める。そうするとダチョウ的には、猛獣が見えなくなるので、猛獣から逃げおおせた、と思い込んでいるのだが、単に猛獣の前に無防備に大きな図体を晒し続けて、じっとしているだけなのだ。
そのように知恵がなく愚かであっても、また、愛情のかけらが無い者でも、主に向くなら反転させて下さる。
ダチョウのような愛情が無い、愚かで、浅はかな自分に、嫌気がさしているだろうか。ジャッカルのような自分に嫌気がさしているだろうか。道が見えないだろうか。渇いているだろうか…。私達が主に向くなら、主がそれを反転させ、逆転させ、メタモルフォーの造り変えをして下さり、道を設け、川を流して潤して下さる。
主はいつも、何もできない人、絶望している人を逆転・反転させて用いられる。イエス様の弟子達は、大した地位があったわけでもないし、知恵があったわけでもなかったが、神は知恵ある者をはずかしめるために、あえてこの世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれた。それは、神の御前でだれをも誇らせないため、ただ主だけを誇るようになるためである(1コリント1:27-30)。
主は私達を、イエス様の働きへと招いておられる。イエス様が建て上げて行かれる、神の国の栄光の働きに加わるように、と。その働きの向こうには、ただ栄光しかない。イエス様に不可能な事は無く、倒せない敵は存在しない。主に向いて、今までのあらゆる古い覆いを取り除いていただき、人生が良い方向へと反転して行く経験をするこの年でありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主日礼拝
メタモルフォーの年(2コリント3:16-18)
ニューイヤーズ・イブ礼拝 〜 カウントダウン 〜 新年礼拝 Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
22年暮れから示され続けている一連の言葉群がある。反転、逆転、変貌、反撃、覆し、ひっくり返し・・・。
古い上着を脱ぎ捨て、全く新しいものを着る。防戦から攻勢に転じる。世の医者が12年治せなかった病が完治する。38年も寂しく病の床にあった人が一瞬で癒やされ、床を担いで歩き出す。生まれつき足が萎えていた40歳の人が一瞬で癒やされ、跳んだりはねたりしながら、憧れていた神殿に入って礼拝する。これらは、私達の主イエス様が実際に為された事で、私達に対して為される事である。主こそ、逆転の主である。
死をいのちに、呪いを祝福に、弱い者を強いものに、貧しい者を富む者に「逆転」させられる。これらを一言で表すギリシア語が「メタモルフォー」である。メタモルフォーを多く体験するこの新年でありますように!
そのためには、主には、全てがおできになると信じ、今までの人生で培ってきた思い込みや固定概念というバリヤを破る必要がある。その向こうには、限りない自由、開放、無限の可能性が、天のように開けた世界がある。『しかし主に向く時には、その覆いは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。私達は皆、顔覆いなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に「変えられていく(メタモルフォー)」。これは霊なる主の働きによるのである。』(2コリント3:16-18)
メタモルフォーとは、変貌山において、主の姿や形が全く変わった、あの「変貌」である。その時、主の顔は太陽のように輝き、御衣は、世のさらし屋では到底できないほど白く輝いた(マルコ9:3)。主の霊に浸しこまれるなら、日々メタモルフォーして行く。世のさらし屋で消せない汚れはきれいに消えて白く輝き、世の医者では治せない病も癒やされ、臆病だった心は勇士の心にされる。だから主の霊を求めるべきである!
新幹線と衝突すると体がばらばらになってしまうように、主の霊が圧倒的に臨むなら、自分の意固地な感情、悲しさ、卑屈さ、恐れ、不安、絶望といった、主のものでない感覚は、ちりぢりばらばらにされる。そして、主の「わたしの子よ!」という愛に溢れた意図に圧倒され、細胞の隅々にまで浸透し、神の子にされたという確信によってどんな状況でも揺るぎない平安、喜びが来、そしてどんな事でも主にあって熱心になれる。
神様の方法は、いつもそうだ。神様が神の国を立てあげる時、力が無い小さい者を、力ある者に反転させ、何もできない人、絶望している人を、主の力で充満した者に逆転させて用いて下さり、私達を通して、イエス様のビジョン行わせて下さる。イエス様は、私達が考え出すビジョンに力添えするお方ではない。私達をイエス様のビジョンの中へと入れ、揺るぎない神の子に引き上げて行って下さる。イエス様に招かれ、イエス様に建て上げられて行くからには、立ちはだかるものがゴリヤテであろうと、どんな病や貧困、また不可能に思える事であろうと、全き平安の内に導かれていく。イエス様が平安の息を吹きかけられたからだ。
しかし、せっかく油注ぎを受けても、取り上げられてしまう人もいる。サウルがそうだった。サウルから神の霊が離れると、彼は凡人になってしまい、自分の王座を固持するあまり、あれこれもがいて悪を重ね、恐れ悩んだ挙げ句、死んでしまった。もし神の霊が無いなら、凡人となって、悩みに悩んで命を終えるしか無い。
神の霊とは接点なしに人生を終える人とは、自分の思いを世に嵌めたまま、思いを刷新しない人である。
『この世の鋳型にはめ込まれてはいけません。かえって、あなたがたは、何が神の御心か、すなわち、何が良いことで神に喜ばれ完全かを識別するために、自分の「思い(ヌース)」の刷新によって、「変えられ続けていきなさい(メタモルフォーの現在受動態命令形)」。』(ローマ12:2 ギリシャ語新約聖書インタリニア)
私達は、スマホなどを経由して入ってくる、世の側が提供してくる情報、世のスタイル、世が仕掛けてくる「鋳型」に、嵌め込まされてはならない。同化させられてはならない。新しいぶどう酒は、古い皮袋に入れる事はできない。もしそんな事をしたら両方だめになってしまう。私達は、考え方や心構え、意見、決心を刷新し、「新しい皮袋」になるべきである。そうするなら聖霊の新しいぶどう酒に充満され、日々メタモルフォーが推進して行く。たとえ何かが立ちはだかっても、その辺に転がっている石ころ一つで、ダウンさせられる。
全く経験した事の無い領域に入って行く事に、不安を覚えるだろうか。ダビデは、未だかつて経験した事の無いような巨人が立ちはだかっても、主の陣が40日もなぶられた事に、聖なる憤りに充満され、恐れは一切なかった。主の霊に臨まれるなら、恐れも粉微塵になって、主の栄光を表す働きを、何でも出来る!
今までのあらゆる古い覆いを取り除き、あらゆる方面で反転を経験して行く、この新年でありますように!