メッセージ - 202601のエントリ

凝り固まって中々消せない心の黒板の落書きに対処する術(2コリント10:4-6)

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昨日、私達の心に、心の「黒板」がある事を、学びましたね。
今日は、その続きです。
 
この、私達の心の黒板には、ガードがありません。鍵は、ありません。
気づかないうちに、傍らの人が、チョークを持って入って来て、
好きなことを書いていける――そんな黒板です。
 
親や友だちが好き勝手にかけますし、
先生や上司や、兄弟姉妹も、ぐさぐさ刺さるような事を、書いていきます。
たとえば、こんな感じです。
 
「それ、向いてないんじゃない?」 「えー、また失敗したの?」
「なんで普通にできないの?」 「ああ、ほんと面倒な人だね。」
「みんなに迷惑かけるって、わかってるの?」
「あなたは、愛されるタイプじゃないよね。」
「どうせ続かないよ。」  「期待しないほうがいいよ。」
 
こういう、一言です。
しかも、心の黒板の落書きって、チョークの粉が、凝り固まって残るんですよ。
黒板消しで消しても、薄く残るんです。
しかも、残った粉の上に、また次が書かれる。
それで、黒板はいつの間にか、他人の文字でぎっしりになる。
 
そして、厄介なのはここからです。
書かれた言葉が、いつしか“自分の声”になってしまうこと。
 
誰も言っていないのに、朝起きた瞬間から聞こえてくるんです。
耳元で、ささやいてくるんです。
「えー、また失敗したの?」
「なんで普通にできないの?」 「ああ、ほんと面倒な人だね。」
「今日もだめだよ」 「また迷惑かけるよ」
 
あたかも、黒板の文字が口を持って話しかけてくるみたいに。
 
それで、LINEをしても、既読にならないだけで、胸がざわつく。
“あれ?嫌われた?”って、勝手に結論が出る。
 
職場で名前を呼ばれただけで、わなわな、わなわな、なってくるんです。
 
川合先生が、まだ怒っていないのに、
ああっ、怒られる!! が先に来て、身が硬直するんです。
 
そばの人が、タメ息をついただけで、反射的に、わたし、嫌われてるのかな?って思うんです。
 
何でもないのに、突然、過去の失敗がフラッシュバックするんです。
もう過ぎたはずなのに、心の中が、“現在進行形”で痛いんです。
 
これが、黒板が落書きで埋まりすぎている状態です。
こうなってくると、
「本当の自分」がどこにいるのかわからなくなってしまうんです。
 
神さまが造られた創造本来の姿よりも、
誰かに貼られた落書きのほうが、濃くなってしまっているんです。
 
みなさん―― その落書き、
あなたじゃないです!!
それはあなたの本質ではないし、あなたの性格でもないし、あなたの運命でもない。
 
それは、心の黒板に書き込まれた言葉が、積もって、固まって、
“要塞”になってしまったものです。
 
要塞って何か。
中に敵が潜んで、タイミングを見て攻撃してくる場所です。
普段は静か。でも「きっかけ」があると急に動き出す。
 
たとえば――
ちょっと注意された。それだけなのに、
「ああ! やっぱり否定された」
「やっぱり私は価値がない」 「やっぱり嫌われる」
たとえば――
家族に一言言われた。
ほんの小さな言い方が刺さった。
すると、昔の傷が全部連れて来られる。
 
それで、涙が出るほどちぢこまったり、腹が立って怒りが止まらなかったりします。
それでいて、自己嫌悪が来るんです。
 
違うんです!
それは、あなたではない。
あなたの中に“住み着いた要塞”、言葉の城なんです。
 
今日のテーマは、ここです。
要塞は、壊せる。
みなさん、言いましょう!
要塞は、壊せる。
黒板は、書き換えられる。
 
そしてそれは、気合いや根性ではありません。
聖書は言います。
 
 10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
 10:5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
 10:6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。
 
こで「思弁」とでてきました。これは、「ロギスモス)」と呼びます。
「相手が悪い、だから私は正しい」
とか、一見すると論理的で、筋が通っている。計算が合っている。
だからこそ厄介なんです。
 
そして次に、その理屈が大きくなると、心の中に「高い塔」が建ち始める。
“私はこういう人間だ” “私はこうする所存です”
 
それが「障害物(エパイロー)」――高慢という名の“高台”です。
高台に立つと、見晴らしがいい。自分が強くなった気がします。
 
さらに、その高台の中で「思い、これを(ナイマ)といいます」――
この思いというのは、はかりごと、とか、所存とか、心の企みが育っていく場所です。
 
これは、自分の中で、会議室をつくって、心の中の“自分王国”が政策を決めていくんです。
「こう反応すべきだ」 「こうやって人を判断すべきだ」
「こうやって自分を守るべきだ」
 
そうして、気づいたら、心の中に“要塞”が完成しているんです。
そして、その要塞の中から、敵が時々顔を出すんです。
些細な一言で爆発するんです。
 
 
だからパウロは言うんです。
私たちの武器は、肉のものではない。
神のためには、要塞さえ破壊する力がある、と。
 
ここで大事なのは、聖書が「あなたは努力で心を整えなさい」と言っているのではないことです。
“神から来る武器”があるんです!
つまり、戦い方が違うんです。
 
そして、その戦い方が、衝撃的な表現で描かれています。
 
「それを、逮捕して、キリストへと連行せよ!」
思いを、逮捕する。
感情を、逮捕する。
理屈を、逮捕する。
 
みなさん、神に逆らってたついものは、逮捕です。
自分の思いかどうか、怪しいものは“手錠をかける”んです。
 
「はい、あなたは今、ここで主権者ではありません。」
「あなたは真理ではありません。」
「あなたは私の人生の王座に座れません。」
そして連行して、キリストの前に引き出すんです。
 
ここまで来ると、私たちは気づき始めます。
「あれ…これ、私の本音だと思ってたけど、違う。」
「これ、私の性格だと思ってたけど、違う。」
「これ、真実だと思ってたけど、“要塞の声”だった。」
 
ダビデがよくやったのは、これです。
彼は自分に言い聞かせました。
「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と。
面白いですよね。
ダビデは、心が自然に主をほめたたえるのを待っていない。
たましいが暗いとき、たましいがふてくされているとき、たましいが傷だらけのとき、
彼は“たましいを相手にして”語りかけた。
つまり、私たちも同じです。
心が勝手に言うことを、そのまま採用しなくていい。
たましいが勝手に走ろうとする方向に、ハンドルを渡さなくていい。
「その思い、いま逮捕。」
「そして、キリストに服従。」
これが、御言葉の戦い方です。
 
 
ですから、今日、もし心の中が騒がしいなら。
理屈が止まらないなら。
高台から降りられないなら。
こう祈ってください。
 
「主よ、この思いを逮捕します。
私の計算を、あなたの前へ連れて行きます。
私の高慢を、あなたの光にさらします。
私の所存を、キリストに服従させます。
私は王座を明け渡します。あなたが王です。」
 
この!
服従が“完全になる”とき――
つまり、心の中で主が王座に座ることを私たちが選び続けるとき、
要塞は音を立てて崩れ去ります。
敵は居場所を失います。
 
ですから、みなさんの人生は、みなさんの理屈が守るのではなく、
キリストの御言葉が生かすのです。
この「いのちのことば」を、今日いっしょに握りしめましょう。

心の黒板の落書き(マタイ 4:1-4)

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今日、扱うテーマは、「ことば」です。
みなさんは、今まで生きてきた中で、色々な「ことば」が、自分自身の心や思いに刻み込まれていると思います。
 
たとえば、親や先生が言った言葉が、ずっと記されている事でしょうし、
子供の時にみたテレビ番組や、漫画とかの内容も、書き込まれているでしょう。
あるいは、昨日見たYoutubeとか、インターネットの情報が、心のことばに新たに書き込まれているかもしれません。
 
このようにですね、私たちの心や思いには黒板があるんです。
そしてこの黒板には、誰もが落書きをすることができるんです。
 
そこには、自分以外の誰か他人が落書きすることがありますし、
また、私達自身も、自分の黒板に、自分で書き込みをする事ができます。
そして、悪霊やサタンも、私達の心の黒板に、書き込みをすることがあります。
 
みなさんの中に、今、もしかすると、
何かのことばがずっと心に刺さりっぱなしで、その心の傷からずっと血を流しっぱなしの状態の方も、いるかもしれません。
 
特にですね、悪魔やサタンは、
「お前はダメだ」とか「失敗者だ」とか、
ぐさっと刺すようなことばを書き込んで来るんですが、
やっかいな事にですね、そういった言葉を投げて来たのは、悪霊やサタンだと思わないんですね。
 
実際に覚えているのは、そのことばを放った、あの人この人の顔です。
 
あるいは、特に、これは夜に多い事ですけれども、
みなさんが夜、フトンの中に入った時、
むかし言われた、あのことばが、強烈に頭の中に巡ってきて、
ああ、あの時のあいつ、憎たらしいな、とか、
あの時わたしはどうして、ああいう風にしてしまったのだろう、とか、
どうしてわたしはこうなのだろう、とか。
 
あるいは、将来の事とか、経済の事とか、社会情勢の事とか、
いろいろな事が、頭の中を堂々巡りして、
そうやって自分で自分の黒板に、たくさん落書きしてしまう、
という事がありますが、
実はそれ、悪魔サタンが、そういったネタを飛ばして来るんです。
 
でも私達は、その由来が、悪魔サタンだとは思っていないんですね。
飛ばしてきたのは、あの人この人とか、自分自身だと思ってしまいますが、
でも、すべて人を闇にさせる言葉は、悪魔サタンが飛ばしてくるものです。
 
 
まず知っておくべき事は、真実・本来の自分は、神様の前でどんな姿であったのか、ということです。
 
まことの真理の「ことば」である聖書は、私達について、どのように記しているでしょうか?
 
私達は本来、神様によって、神の似姿に創造された存在です。
けれども、悪魔が、最初の人であるアダムとエバの心の黒板に、まことの真理のことばである神のことばとは、真逆の内容を落書きしてしまって、
それで彼らは、神様のおことばどおりにはしないで、悪魔のことばどおりに、実行してしまったのです。
 
昨日のメッセージで学びましたね。
いちばん大切な事は、神様のおことばどおりに実行する事だ、と。
 
サタンのやり方は、いかに神様のことばから離れさせよう、という方向に、働きかけることです。
私達は、そうした悪魔の策略を知って、それに対抗して勝利する術を身につける必要があります。
 
幸いなことに、イエス様は、悪魔サタンのことばに対抗する術を、私達に実演してくださいました。
 
 4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
>イエス様のミニストリーの最初は、悪魔のことばを打ち砕く事!
モーセもそうだった。パロの前で、放った蛇をつかむ事が、エジプトという牢獄から脱出するための最初のしるしだった。
 
 4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
>サタンは「石」を「パン」に変えてみなさい、と言って来た。
石をパンに変える?
そんなのは、当然、神の法則に叶っていない。
イエス様ならともかく、そもそも私達人間には、そんな事できないから、誘惑になりようがない。
 
けれども、この、石をパンにかえる、という誘惑は、
ヘブライ語でみると、霊的な意味が見えてくるのです。
どういう事か。
 
ヘブライ語で「石」はエベンと言う。
これを分解すると、「アブאב+ベンבן」になる。
すなわち、父(アブ)と子(ベン)の関係として読み取ることができる。
この、私達と神様との関係、父と、子の関係を、
パンに変えてみなさい、と・・・
 
 4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
イエス様は、神であられるのに、「人は」とおっしゃった。
神としての圧倒的力を用いず、あくまで「人」の立場を貫いて神の言葉によって勝利するコツを、私達・「人」に開示してくださった。
 
人は、肉欲を満たすパンだけで生きるのではない。
真に人を生かすのは、「神の言葉というまことの食物」である。
 
 私達が、パンにおいて飢えた時、あるいは金銭において不足が生じた時など、主が許可していない手段や、サタンが好むようなやり方で、得ようとしてはならない。
ただイエス様というまことのパンを選び、まことの食物である御言葉に聞き、不安な心に対し御言葉を信じて口ずさみ、誘惑してくるサタンを、御言葉で叩き返すことです。
 
今日、みなさんに覚えておいていただきたい事は、
心の黒板消しは、神さまのお言葉だ、という事です。
 
世の中は、色々と、不安にさせるような、ことばを投げかけてきます。
その中には、私達の尊厳を傷つけてくるようなことばもありますが、
それに対しては、イエス様がしたように、
聖書には、なになにと書かれてある!
と宣言して、偽りのことばを、真理のことばで、上塗りする事です。

 

今にも死にそうな貧しいやもめが偉大な預言者を3年も養った話(1列王記 17:13-14)

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1列王記 17:13-14
 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
イスラエルの神、【主】が、こう仰せられるからです。『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
 
今日は、ある、一人のやもめのお話をしたいと思います。
彼女は、シドンのツァレファテという町に住んでおりました。
彼女は、やもめです。夫を失い、守り手を失い、収入を失いました。
そしてその時は、とても大変な時代でした。
神様を恐れる敬う人があまりにもいなくなったので、天から雨が降らなくなってしまったのです。
空はひたすら青くて、雨は降りません。
土は乾いて、手に入るものはどんどん減って行きます。
 
人々は噂します。
「もう何ヶ月も雨が降らないよ。パンの値段もどんどん上がっていく。
これからどうやって家族を養おう。」
人々はそれぞれ、自分がおがむ偶像の神々に頼みますが、なんの効果もありませんでした。
 
そんな中で、彼女は、イスラエルの神、主に祈っておりました。
「神様、どうか助けてください。
もう、台所には、一回分の食べ物しか残っておりません。
神様、どうか助けてください。
せめてこの子だけでも、生かしてください。」
 
母親の心は、不思議です。自分が食べないことには耐えられても、子どもが食べられないことは刺さるのです。胸が痛むのです。
 
彼女は、祈ってから、最後の食事を料理するために、たきぎを拾いに行きました。
彼女は、町の門のところでたきぎを拾っています。
もう、料理をするためにたきぎを拾うのは、これで最後だろうか。
そんな風に思いながら、拾って今したところ、
そこに、ひとりの男が近づいてきました。
その男性は、毛の衣をまとっていて、革の帯を締めておりました。
その男性の名は、エリヤです。
彼は、神さまから預かった言葉を、そのまま伝える預言者でした。
 
彼女は、その男性の成り立ちや雰囲気から、直感的に、この人は神の人だ、と感じました。
実際彼女は、彼とは初対面だったのに、彼が神様のことをよく知っている人であるかのように接します。
 
その男性は、彼女に言いました。
「ほんの少しの水を持って来てください。」
 
水。。。
このような時代、水は命です。
そんな貴重な水は、できれば子供のためにも取っておきたい。
けれども彼女は、彼のために取りに行こうとしました。
ここに、彼女の、高貴な品性が垣間見られました。
 
自分が苦しくても、神の人は、大切にする。
たとえ持っている全財産が、ほんのわずかであっても、それを神の人のために用いる。
このような品性を持つ信仰の人を、神様は天から見ておられ、しっかりと、覚えておられるのです。
 
でも彼は、彼女に、さらに追い打ちのような言葉を言うんですね。
彼は言いました。
 
「一口のパンも持って来てください。」
 
彼女はそれを聞いて、胸が、ぎゅっと縮む思いがしたことでしょう。
彼女は、正直に答えます。
 
「あなたの神、【主】は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。
ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。
ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、
帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
 
彼女は、「あなたの神、【主】は生きておられます。」という言葉で、語りはじめました。
ここに、彼女が信仰者であったことが窺われます。
さらに、この言葉からは、この男性が、神の人であるとうすうす感づいていたこともわかります。
 
彼女は、正直に、全てを彼に打ち明けました。
そこで、彼は言います。
 
 
「恐れてはいけません。」
 
恐れてはいけません。。。
 
この言葉は、軽い気休めで出た言葉ではありません。
神様の、根拠がある言葉です。
 
神様は、この
「恐れてはいけません」
という言葉を、全ての、“恐れて当然”な状況にいる信仰者に対して語られます。
 
 
さらに、彼はこう続けて語ります。
 
「行って、あなたが言ったようにしなさい。
しかし、まず、私のために小さなパン菓子を作り、持って来なさい。
それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。」
 
これは、とても理不尽に、そして冷酷に聞こえたかもしれません。
しかし、彼がそのように言ったのには、理由がありました。
 
それは何も、彼が、彼女たちから強制的に最後の食料を取り上げるためではありません。
そうではありません。
神ご自身が、彼女のことをよくご存知であり、
預言者エリヤのほうも、この町に来たのは、他の誰でもなく「彼女に」会うために来たのだからです。
そして神様は、彼女を通して、神の預言者を
長い間、養うようにするために、エリヤを、この街の彼女のところに遣わしたのです。
 
一体どうしたら、今にも死にそうなほど貧しいやもめが、神の預言者を長く養う事ができるのでしょうか?
 
 ここ、大事なところです。
 
一体どうしたら、今にも死にそうなほど貧しいやもめが、神の預言者を長く養う事ができるのでしょうか?
 
それは、他でもありません。
神様の、おことばを信じて、そのとおりに、する事です。
 
神様のおことばを信じて、その通りにする、という性質は、何よりも素晴らしい性質です。
それがある人は、たとえどんなに貧しくても、どんなに弱い立場のやもめでも、
神様に用いられて、神様のために素晴らしいお手伝いをする事ができるのです。
 
エリヤは、さらに言葉をつづけます。
「イスラエルの神、【主】が、こう仰せられるからです。
『【主】が地の上に雨を降らせる日までは、
そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
 
 
彼女はこの言葉を、イスラエルの神、主が、他でもない、自分に向かって仰せられたお言葉、として受け止めました。
信じました。
 
そうすると彼女は、一抹の希望を持つことができました。
いつも祈っているイスラエルの神様が、こんな私に目を留めてくださった、と言う嬉しさと、
そして、この瓶の粉は尽きず、油もなくならない、と言う言葉に対する希望が、ほんのわずかではありますが、芽生えたのです。
 
それで、彼女は、その2、3本の薪を家に持ち帰って、いつものように、粉に残っていた最後の油を、料理台の上に出しました。
そして、油のツボを傾け、もう本当にわずかな糸のように滴る、少しの油を、最後の1滴まで、その粉の上に注ぎつくしました。
 
お腹を空かせ息子が、その様を見ています。
あぁ、最後の粉と油が、今料理されている、と息子にもわかります。
母は、そんな息子の視線に気づいて、彼を見ます。
息子は、求める目で母親を見つめます。
母親は、そんな彼に向かって、言いました。
 
「あの方が先よ。」
 
その母の表情は、神様を信頼しきって笑顔だったでしょうか?
それとも?
9割は心配で、希望は1割しかない。というような表情だったでしょうか?
 
どちらにしてもですね、彼女がどのような心持ちであったのかは、実は重要ではありません。
重要な事は、彼女が、神様のお言葉に従った、という事実です!
 
神様のお言葉に従ったという事実!
それが、その後の明暗を、くっきりと分けるのです。
 
こうして、1つの小さなパン菓子が、焼き上がりました。
彼女はそれを、預言者のところに持っていきます。
預言者は、それを神様に感謝していただきました。
 
そして預言者は、彼女とその息子に言います。
「ほら、台所に行って、みてみなさい。
神様がお言葉通りにしてくださったかどうかを。」
 
二人は台所に行って、見てみると、本当に、神様が言った通り、空っぽのはずの、かめの粉は尽きておらず、壺の油は、なくなっておりませんでした。
これで彼女たちは自分たちの分も焼いて、食べることができました。
こうして1日分、彼らの命は、つないだのです。
 
この奇跡は、1日限りの奇跡ではありませんでした。
彼女の従順によって、その翌日も、そのまた翌日も、瓶の粉は尽きず、油はなくなりませんでした。
こうして、預言者エリヤと、この一家は、神様が雨を降らせるその日まで、長らく、命をつなぐことができたのです。
 
今日、皆さんに伝えたい重要なことは、1つです。
先ほども言いました通り、
神様のお言葉に従う性質が、何よりも重要だと言うことです。
その性質を持ってる人が、困難な時代を神様に助けられて生き延びます。
そればかりでなく、神様の重要な働きをその時代に、するようになるのです。
 
神様の働きをするのは、大きな力や、持ち物がなくても、いいんです。
ただ神様のお言葉に従う信仰をいつも持っていて、困ったときには神様に助けを求めるなら、神様は、その人に助ける人や物、事を遣わしてくださいます。
さらには、皆さん自身が、偉大な神の預言者を養うと言う、永遠に残る素晴らしい働きをするかもしれません。
 
主は、生きておられます。
そして、みなさんを見ています。
みなさんが養っている子供を見ておられ、必要を見ておられ、
毎日の、小さな従順を見ておられます。
そして、皆さんのその従順こそが、この時代を神様の働きを通して、大きく動かすことになるのです。
 
困難な時代の中でも、神様のお言葉に従う従順によって守られ、必要が満たされ、養われ、そして神の偉大な預言者を養うほどの働きをする皆さんでありますように
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

見たこともないような全く新しいことをしておられる主(イザヤ43:19)

第一礼拝 Youtube動画

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週報/メッセージ(説教)概要

 

1月の御言葉 イザヤ43:19

 

 「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」(イザヤ43:19)

 

 今年最初のニューイヤーズ・イブ礼拝で、新年が明けた時のメッセージで示された御言葉は、アブラムに対する主の言葉、「恐れるな、(アブラム)よ。わたしは(あなた)の盾であり、(あなた)への、はなはだ大いなる報酬である。」(創世記15:1 逐語訳)でした。 主を自分の盾とし、主を自分の相続とし、報酬とする人が受ける報いは、非常に大きい! その報いの第一弾は、「主は全く新しくしてくださる」、です。

 

今月の御言葉、イザヤ43:19をより詳細に訳すと、以下のようになります。

「見よ。わたしは(今まさに)行っている。(これまでになかった全く)新しいことを。

今、芽生えているではないか。あなたはそれを知ろうとして行かないのか?

わたしは置く。荒れ地に道筋を、また乾いた地に川々を。」

 すなわち、神ご自身が、今まさに行動を起こして新しいことが芽生えておられ(進行形)、しかも神は、
「あなたはそれを知ろうとしていないのか?」と、問いかけておられます。すなわち私達に、受け身で観察をするのではなく、信仰による洞察と応答を自分から積極的にしなさい、と、促すニュアンスになっています。 

主は、主がなさろうとしている新しい事を積極的に知って行こうという姿勢を私達に求めておられるのです。

 

 最近、1189テフィリンでは、伝道者の書を暗唱していますが、ソロモンはそこで真逆な事を言っています。

すべてのことは物憂く、日の下に新しいものは一つもない。これは新しい、と言われるものがあっても、それははるか先の時代に既にあったもので、それはもう記憶には無く、これから起こることも後の時代の人々の記憶には残らない。。。全てはむなしい、と。 私達はソロモンの言葉に同意するでしょうか?それとも??

 忘れてはならない事は、これは、神様から段々離れて行ったソロモンが晩年に書いたもので、つまり、神から離れた人間が叡智を極めた結果、最終的に行き着く思想が、この伝道者の書である、という事です。

 神様を「抜き」にして、世の知恵、世の富、世の楽しみを味わい尽くす者の行き着く先が、伝道者の書の思考ですが、それに対し、「主こそわたしの報酬」としている人に、主が準備しておられる報いは絶大です。

主に望みを置く人の行き着く先は、黙示録21-22章に記された永遠のいのちの喜びと、新しい希望です。

 

 主は、言っておられます。これまでになかった全く新しいことを、今、まさに構築中だ、と。今、それが芽生えているではないか、と。外の桜は、今は枯れ枝のように見えますが、見た目はそうでも、その中では芽生えの準備を着々と進めています。 それと同じで、たとえ今、主がなさろうとしておられる事が見えず、枯れているかのように見えても、主は着々と、見た事の無いようなものを準備しておられ、それはある時、華やかに開花します。主は「あなたはそれを知ろうとして行かないのか?」と、私達の積極性を求めておられます。

 

 主は言われます。「わたしは置く。荒れ地に道筋を乾いた地に川々を。」と。 荒れ地は道なき所ですが、主は、そこに「道(デレク:道筋、方法、通り道)を設けてくださいます。どんなにめちゃくちゃで、道筋も方法も見いだせないところでも、私達の報酬であられる主は、そこに道筋を、方法を、通り道を置かれます

 また、乾いて生命なき所に、豊かさや命の象徴である川々(複数形)を置いてくださいます

続く20節では「野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる」と書いてあります。たとえジャッカルのように荒々しく、弱いものを集団で食い物にするような者でも、あるいはだちょうのように、知恵も愛情も無い者であっても、主を知り、主をあがめるようになる、と書いてあります。 これこそ、主に望みを置く者の受ける報いであり、それは今までに一切なかった、全く新しいつくりかえが、主によって為されるからです。

 しかし、世のものや、過ぎてしまった過去など、神ではないもの、すなわち、すたれるべきものに見入って、目を留め続けているなら、新しいものが来ても気づかないものです。ソロモンのように、神を除外した自分だけを見つめ続けていると、堂々巡りから脱出できません。 しかし、主を自分の「報い」とした人は、主が用意してくださる新しい命、新しい歩みの中を進むことができます。主を自分自身の「報い」として定め、今まで見たことも聞いたこともないような、全く新しい報酬を得ていく今年の皆さまでありますように!

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