メッセージ - 20260107のエントリ

久しぶりにエポデ(祈り、御言葉)を活用して大勝利したダビデ(1サムエル記30章)

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 30:7 ダビデが、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに、「エポデを持って来なさい。」と言ったので、エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。
 30:8 ダビデは主に伺って言った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」するとお答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」
 
 
今夜は、ダビデのおはなしです。
ダビデは、ユダヤ人の間では今も一番尊敬されている偉大な王ですが、
そんな彼でも、心が弱くなって、神様の方法ではなく、世の中の方法に頼ろうとした時がありました。
今回の箇所は、彼が、自分の主君であるサウル王を恐れて、神の国であるイスラエルを離れて、ペリシテに逃れて行った時でした。
 
彼は、ペリシテの王アキシュに取り入るために、ウソと暴虐の日々を過ごしていました。
アビメレクには、ユダヤのどこどこを襲って分捕りました。。。
しかし実際は、ユダヤではない別のところを襲って分捕りをして、そして襲われた町の人がアキシュに告げ口されないようにするために、その町の人は皆殺しにしてしまいました。
ダビデはペリシテにいる間、そのようにしていました。
 
神の国から離れた世界は、このように、ウソをついたり、力づくで黙らせたり、という事でのし上がっていく、弱肉強食の世界です。
そして、いつ、自分もそれにやられてしまうか、わからない世界です。
 
――私たちにも、こういう瞬間があります。
怖くて、神様に祈って頼りよりも、先に、“計算”で動いてしまいます。
信仰よりも先に、現実的に手段が見える、“安全策”を握ってしまうのです。
 
その場はしのげるかもしれません。
けれど、いつも平安がなく、そしてそこでやりくりして行けば行くほど、心が汚れ、手も汚れ、罪を重ねて行ってしまうものです。
そして、ある日突然、「刈り取り」が来てしまうのです。
 
ダビデとその部下たちが、三日ぶりにチクラグへ帰った時、彼らが見たのは、
自分たちの町が火に包まれていて、黒く焼けた家いえでした。
そこにいったはずの妻も、息子も娘も、一人もいません。
今まで積み上げてきたものが、まるごと消えていて、灰になっている。
 
…想像してください。
家に帰ってきたら、安息できるはずの家が、灰になっているのです。
そこには、抱きしめたい妻が、子供がいない。
名前を呼んで回っても、一切、返事がないのです。
 
その瞬間、ダビデたちは、声をあげて泣きました。
泣きすぎて、泣く力さえなくなるまで。
“涙が枯れる”って、本当にあるんです。
悲しみが深すぎると、人は泣けなくなる。
 
そして泣きつかれた彼らに、次に襲ってきたのは、怒りでした。
「これは、誰のせいだ」 「誰が責任を取るんだ」
部下たちの目が、ダビデを刺します。
「ダビデのせいだ」 「ダビデがこう導いたんだ」 「石で撃とう」
 
本当に、リーダーには、この手の孤独は、つきものです。
部下たちを生かすために、考えて、選択して、守り養ってきた。
どんなに危険な中でも、先頭を切って進んで行った。
けれども、一度でも崩れたら、“全部あなたのせいだ!” という事にされる。
 
家族や職場を守る立場の人は、この葛藤を知っているはずです。
ダビデは、非常に悩みました。
妻子を失った彼自身の痛みの上に、仲間に殺されかける恐れまで重なりました。
 
でも、ここで物語の方向が変わるんです。
たった一行で。
 
「しかしダビデは、その神、主によって自分を力づけた。」
“しかし”。
この「しかし」が、V字回復の起点です。
ダビデは、ようやく思い出します。
いままで、自分の計算で逃げてきた。神様への信頼を一切働かせずに、世の方法で生きた。
その結果、ここまで来てしまった。
でも――戻れる。
主に向かえば、その瞬間から、話は変わる。
 
ダビデは、久しぶりに、この言葉を口にします。
「エポデを持って来なさい。」
これは、彼が“王座”を降りた合図です。
 
「もう自分の勘で決めない」 「もう自分の計算で押し切らない」 「ただ、主に伺おう」
エポデとは何でしょうか。それは、神様の御心をうかがうための、祭司の道具です。
私達も、いつも、エポデを持っています。
私たちにとってのエポデは、御言葉であり、祈りです。
 
ダビデは震える声で聞きます。
「追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」
主の答えは、あまりにも明確です。
「追いなさい。必ず追いつく。確かに救い出す。」
 
……ここに、神の恵みがあります。
しばらく主を忘れて、身勝手に動いて、自業自得の窮地に陥った人の祈りに、
主はなお答えてくださる。
「もう遅い」とは言われない。
「おまえの責任だ」と突き放さない。
“今ここから”始めよう、と言ってくださるのが、主です。
 
 
それで、彼らは進みました。
でも、みんなとても疲れています。
遠い旅路から帰ってきてみたら、家が焼かれていて妻子がいなくて、一日中泣きつかれた後でした。
そんな、疲れ果てた中、ただ、神様のおことばだけを握りしめての出発でした。
 
途中、川がありました、600人で出かけた中、200人が疲れ果てて渡れません。
それでも、残る400人は進みました。
行き先が見えなくても、“神様のお言葉”が背中を押すからです。
そして、主の助けは意外な形で現れます。
主が遣わした助け手は、なんと、野に倒れている、行き倒れのエジプト人でした。
 
彼らとしては一刻の猶予もないはずでしたが、でも彼らは彼を助けました。
ここが、ダビデが、偉大だ王である所以です。
貴重なパンを与え、水を飲ませました。
 
実は、その小さな憐れみによって、道が開いたのです。
捨てられた奴隷だった彼が、略奪隊への“案内人”になったのです。
 
主は、日常の中に「盗人のように」現れ、
小さな出来事を、大きな転換点へと、変えられます。
そうして彼らは、自分たちの家を襲った、略奪隊のもとに到着しました。
 
彼らが到着したとき、略奪帯はちょうど武装を解いて、飲み食いして、踊っている有り様でした。
そこでダビデたちは、彼らに戦いを仕掛けます。
タイミングとしては、うってつけのタイミングでした。
私達の主は、時間を支配し、空間を支配しておられる主です!
 
ダビデは夕暮れから翌日の夕方まで撃ち続け、
奪われたものをすべて取り戻します。
彼らの妻も、子どもも、財産も――何一つ失わないで、全部、分捕り返したのです!
 
ここで私たちが受け取るべきメッセージは、これです。
 
私達も、神様ぬきで消耗してきた、「ペリシテの地」があったかもしれません。
大切なものを分捕っていった、アマレクが、みなさんにもいたかもしれません。
 
もし、みなさんが、神様への信頼ぬきで、自分の計算だけで動き、魂が擦り減ってきたなら。
ダビデのように、祈りのエポデを持ってきてください。
ダビデがエポデを持ってきなさい、と凛々しく言いました。
私達も、信仰において凛々しさを取り戻しましょう。
 
主は、今も答えてくださいます。
「追いなさい。必ず追いつく。確かに救い出す。」
サタンに奪われたものを、
キリストにある者が奪われっぱなしでいいはずがない。
 
ダビデのように、主にあって奮い立ち、
主の言葉に従って進み、回復を得ていく皆さんでありますように。

イエス様に捧げられたわずかなお弁当が五千人以上と働き人を養う(マルコ 6:30-43)

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Mar 6:41  するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。 
Mar 6:42  人々はみな、食べて満腹した。 
Mar 6:43  そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。 
Mar 6:44  パンを食べたのは、男が五千人であった。 
 
有名な、5つのパンと2匹の魚で、五千人を養った箇所。
その場面は、実は、何もミニストリーをしようと思ってそれをやったのではありません。
イエス様が、働き詰めのお弟子さんたちを、休ませようとして、辺鄙なところに行ったところでした。
 
だからイエスは言われました。
「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」
 
この一言には、深い優しさがあります。
主は、働き人の疲れを見ておられます。
 
それで弟子たちは、舟を出して、「やっと休める」と思ったでしょう。
 
けれども、いざ、むこう岸が近づいてくると、、、
人が走ってくるのが見えます。
方々の町々から、徒歩で駆けつけてくる。
かれらは、舟の行き先を見抜いて、先回りして、もうそこにいたのでした。
 
弟子たちは思ったことでしょう。
「…またか。」 「もう勘弁してよ」
 
牧師や伝道師は、いつ急患が来るのは避けられないお医者さんと同じように、ケアしなくてはならない人々が突然あらわれるものです。
でもですね、そんな時は、バカンスを取り上げられたのではありません。
 
イエスさまは、舟から上がられると、群衆をご覧になると。
「羊飼いのいない羊のようである」と深くあわれまれた、と書いてあります。
 
霊的に困窮している人を満腹させてあげる事は、バカンスとか観光にはるかに勝る満足が与えられるものです。
これこそが、イエス様にとって、そして主の働き人にとって、人々には知られない「食物」です。
 
 6:35 そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。
 6:36 みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」
 
**ポイント**
弟子たちは、常識で考えました。
車も商業施設も無いあの時代、こんな辺鄙な場所に、こんなに大勢の群衆がおなかを空かせているのは、行き倒れの人が、大量にでてきそうな、危険な状態。
けれどもですね、ここで、突然、イエス様の無茶振りが来るんです。
 6:37a すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
 
真代先生、5千人を眼の前にして、川合先生からいきなり、「あなたが、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と言われたら、どうしますか?
そう、弟子たちは凍ったと思います。
 
 
6:37b そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」
 
**この場面の詳細**
Joh 6:5  イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」 
Joh 6:6  もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。 
 
**ポイント**
・イエス様は、「どこから」という質問した。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」 
・買う:アゴラゾー。市場に行く、というのが原意で、そこから、買う、贖う、という意味になった。
・イエス様は、どこから、人々のパンの問題やあらゆる問題からの贖いや救いが来るか、をご存知だったが、主は、あえて、このような状況下で、主の働き人をためし、そして、それらは天の父なる神から来るのだ、と教えられる。
 
 
Joh 6:7  ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」 
Joh 6:8  弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。 
Joh 6:9  「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
 
**ポイント**
・ピリポは、イエス様の「どこから」に対し、金銭的な「いくら」で考えた。論理的に考えて、計算をしたのである。そして、「足りない」と結論づけた。人間的な考えでは、物質的・金銭的には到底足りない、という結論に行き着く状況。
・対してアンデレは、とりあえずパンを持っている人をさぐり、イエス様のもとに連れてきた。しかし、持っていた少年のそのささやかな「おべんとう」は、こんなに大勢の人々の前では何の役にもたたない、と結論づける。
・しかし、その少年のささやかな「おべんとう」が、イエス様へと捧げられた時、イエス様の出番であり、イエス様は人知をはるかに超えた事をなさるお方である。
 
マルコ 6:39 イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。
 6:40 そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。
 
 6:41 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。
 6:42 人々はみな、食べて満腹した。
 6:43 そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。

凝り固まって中々消せない心の黒板の落書きに対処する術(2コリント10:4-6)

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昨日、私達の心に、心の「黒板」がある事を、学びましたね。
今日は、その続きです。
 
この、私達の心の黒板には、ガードがありません。鍵は、ありません。
気づかないうちに、傍らの人が、チョークを持って入って来て、
好きなことを書いていける――そんな黒板です。
 
親や友だちが好き勝手にかけますし、
先生や上司や、兄弟姉妹も、ぐさぐさ刺さるような事を、書いていきます。
たとえば、こんな感じです。
 
「それ、向いてないんじゃない?」 「えー、また失敗したの?」
「なんで普通にできないの?」 「ああ、ほんと面倒な人だね。」
「みんなに迷惑かけるって、わかってるの?」
「あなたは、愛されるタイプじゃないよね。」
「どうせ続かないよ。」  「期待しないほうがいいよ。」
 
こういう、一言です。
しかも、心の黒板の落書きって、チョークの粉が、凝り固まって残るんですよ。
黒板消しで消しても、薄く残るんです。
しかも、残った粉の上に、また次が書かれる。
それで、黒板はいつの間にか、他人の文字でぎっしりになる。
 
そして、厄介なのはここからです。
書かれた言葉が、いつしか“自分の声”になってしまうこと。
 
誰も言っていないのに、朝起きた瞬間から聞こえてくるんです。
耳元で、ささやいてくるんです。
「えー、また失敗したの?」
「なんで普通にできないの?」 「ああ、ほんと面倒な人だね。」
「今日もだめだよ」 「また迷惑かけるよ」
 
あたかも、黒板の文字が口を持って話しかけてくるみたいに。
 
それで、LINEをしても、既読にならないだけで、胸がざわつく。
“あれ?嫌われた?”って、勝手に結論が出る。
 
職場で名前を呼ばれただけで、わなわな、わなわな、なってくるんです。
 
川合先生が、まだ怒っていないのに、
ああっ、怒られる!! が先に来て、身が硬直するんです。
 
そばの人が、タメ息をついただけで、反射的に、わたし、嫌われてるのかな?って思うんです。
 
何でもないのに、突然、過去の失敗がフラッシュバックするんです。
もう過ぎたはずなのに、心の中が、“現在進行形”で痛いんです。
 
これが、黒板が落書きで埋まりすぎている状態です。
こうなってくると、
「本当の自分」がどこにいるのかわからなくなってしまうんです。
 
神さまが造られた創造本来の姿よりも、
誰かに貼られた落書きのほうが、濃くなってしまっているんです。
 
みなさん―― その落書き、
あなたじゃないです!!
それはあなたの本質ではないし、あなたの性格でもないし、あなたの運命でもない。
 
それは、心の黒板に書き込まれた言葉が、積もって、固まって、
“要塞”になってしまったものです。
 
要塞って何か。
中に敵が潜んで、タイミングを見て攻撃してくる場所です。
普段は静か。でも「きっかけ」があると急に動き出す。
 
たとえば――
ちょっと注意された。それだけなのに、
「ああ! やっぱり否定された」
「やっぱり私は価値がない」 「やっぱり嫌われる」
たとえば――
家族に一言言われた。
ほんの小さな言い方が刺さった。
すると、昔の傷が全部連れて来られる。
 
それで、涙が出るほどちぢこまったり、腹が立って怒りが止まらなかったりします。
それでいて、自己嫌悪が来るんです。
 
違うんです!
それは、あなたではない。
あなたの中に“住み着いた要塞”、言葉の城なんです。
 
今日のテーマは、ここです。
要塞は、壊せる。
みなさん、言いましょう!
要塞は、壊せる。
黒板は、書き換えられる。
 
そしてそれは、気合いや根性ではありません。
聖書は言います。
 
 10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
 10:5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
 10:6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。
 
こで「思弁」とでてきました。これは、「ロギスモス)」と呼びます。
「相手が悪い、だから私は正しい」
とか、一見すると論理的で、筋が通っている。計算が合っている。
だからこそ厄介なんです。
 
そして次に、その理屈が大きくなると、心の中に「高い塔」が建ち始める。
“私はこういう人間だ” “私はこうする所存です”
 
それが「障害物(エパイロー)」――高慢という名の“高台”です。
高台に立つと、見晴らしがいい。自分が強くなった気がします。
 
さらに、その高台の中で「思い、これを(ナイマ)といいます」――
この思いというのは、はかりごと、とか、所存とか、心の企みが育っていく場所です。
 
これは、自分の中で、会議室をつくって、心の中の“自分王国”が政策を決めていくんです。
「こう反応すべきだ」 「こうやって人を判断すべきだ」
「こうやって自分を守るべきだ」
 
そうして、気づいたら、心の中に“要塞”が完成しているんです。
そして、その要塞の中から、敵が時々顔を出すんです。
些細な一言で爆発するんです。
 
 
だからパウロは言うんです。
私たちの武器は、肉のものではない。
神のためには、要塞さえ破壊する力がある、と。
 
ここで大事なのは、聖書が「あなたは努力で心を整えなさい」と言っているのではないことです。
“神から来る武器”があるんです!
つまり、戦い方が違うんです。
 
そして、その戦い方が、衝撃的な表現で描かれています。
 
「それを、逮捕して、キリストへと連行せよ!」
思いを、逮捕する。
感情を、逮捕する。
理屈を、逮捕する。
 
みなさん、神に逆らってたついものは、逮捕です。
自分の思いかどうか、怪しいものは“手錠をかける”んです。
 
「はい、あなたは今、ここで主権者ではありません。」
「あなたは真理ではありません。」
「あなたは私の人生の王座に座れません。」
そして連行して、キリストの前に引き出すんです。
 
ここまで来ると、私たちは気づき始めます。
「あれ…これ、私の本音だと思ってたけど、違う。」
「これ、私の性格だと思ってたけど、違う。」
「これ、真実だと思ってたけど、“要塞の声”だった。」
 
ダビデがよくやったのは、これです。
彼は自分に言い聞かせました。
「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と。
面白いですよね。
ダビデは、心が自然に主をほめたたえるのを待っていない。
たましいが暗いとき、たましいがふてくされているとき、たましいが傷だらけのとき、
彼は“たましいを相手にして”語りかけた。
つまり、私たちも同じです。
心が勝手に言うことを、そのまま採用しなくていい。
たましいが勝手に走ろうとする方向に、ハンドルを渡さなくていい。
「その思い、いま逮捕。」
「そして、キリストに服従。」
これが、御言葉の戦い方です。
 
 
ですから、今日、もし心の中が騒がしいなら。
理屈が止まらないなら。
高台から降りられないなら。
こう祈ってください。
 
「主よ、この思いを逮捕します。
私の計算を、あなたの前へ連れて行きます。
私の高慢を、あなたの光にさらします。
私の所存を、キリストに服従させます。
私は王座を明け渡します。あなたが王です。」
 
この!
服従が“完全になる”とき――
つまり、心の中で主が王座に座ることを私たちが選び続けるとき、
要塞は音を立てて崩れ去ります。
敵は居場所を失います。
 
ですから、みなさんの人生は、みなさんの理屈が守るのではなく、
キリストの御言葉が生かすのです。
この「いのちのことば」を、今日いっしょに握りしめましょう。
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