メッセージ - 202602のエントリ

「見る」と絶望。でも主の言葉を「聞く」なら希望!(士師記7:9-15) 早天祈祷会 2026年2月27日(Fri)Youtube動画

【概要】

士師7:9-15を通して、目に見える絶望ではなく、主の御言葉を「聞く」ことで与えられる希望と勇気について語られたメッセージ。主は先に行き、既に勝利を備えておられる方であり、恐れる者を御言葉で励まされる。

【聖書箇所】

士師7:9-15

士師6:36-40

王下6:15-17

使徒16:9-10

マタイ14:13-21(五千人給食の背景箇所として)

【慰めの言葉】

  • 主は私たちより先に行き、戦い、勝利を備えておられる。恐れる心をご存じの上で、御言葉で励ましをくださる。

【励ましの言葉】

  • 目に見える現状が絶望でも、主の語られる言葉を「聞く」なら、希望と勇気が湧く。少しの捧げ物をも主は大いに用いられる。

【戒めの言葉】

  • 見えるところだけに頼るなら、絶望に囚われる。敵のざわめきや装備の音に心を奪われてはならない。

【勧めの言葉】

  • 恐れるなら、主が示すとおり「聞きに行きなさい」。まず礼拝し、御言葉に従って進みなさい。小さきものを主に捧げなさい。

【悔い改めの促しの言葉】

  • 御言葉よりも見える状況や人の声を優先してきた不信を悔い改め、主の語りかけに聞き従う心へ立ち返ろう。

【AIによる文字起こし】

はじめに、士師7:9を会衆と共に宣言した。「その夜、主はギデオンに仰せられた。『立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。』」(士師7:9)この宣言の後、主が私たちより先に行き、すでに戦って勝利を収めておられる方であることを感謝して祈った。主は先に行かれる方、ヘブライ語で「アニ・パニーム・ハラク」、先立って歩まれる主である。主は「もうすでにそこをあなたの手に渡した」と語られ、現代の私たちにも「行って進みなさい」と招いておられる。

続けて祈りが捧げられ、主が御言葉を直接語り、取り次ぐ者の唇と、聞く者の耳を清め、御言葉そのものを命として受け取れるように願い求めた。主は昨日も今日も、そして永遠に変わらないお方であり、ギデオンの時代も今も同じく、御民と共に歩み、先立って勝利を備えられる。

メッセージは、ギデオンの物語の続きに入る。いよいよ敵陣に向かい、戦いの直前の場面。主はその夜、ギデオンに具体的な励ましを与えられた。ギデオンの心にまだ不安があることを主はご存じで、前の場面(士師6:36-40)では、ギデオン自身がしるしを二度求めた。羊の毛の上だけが湿って、地面が乾くしるし、次の日は逆のしるし。だが、それでも不安は残っていた。今回はギデオンが求めたのではなく、主ご自身が先回りして、ギデオンの心にふさわしい励ましを備えられた。

主はこう言われた。「しかし、もし下っていくことを恐れるなら、あなたに仕える若い者プラと一緒に陣営に下って行き、彼らが何と言っているかを聞け。その後であなたは勇気を出して陣営に攻め下らなければならない。」(士師7:10-11a)ここで主が命じられたのは「見よ」ではなく「聞け」であった。敵情視察なら普通は「見る」ことに重心が置かれるが、主は「耳で聞きなさい」と言われる。目で見えるのは絶望だ。味方は300、敵は十万を超える。しかし耳で御言葉を聞くなら、希望が湧き上がる。ギデオンは若い者プラと共に、陣営の中の見張りの一隊のはしの方まで下っていった(士師7:11b)。

現状描写はこうである。「ミディアン人やアマレク人や東の人々が皆、いなごのように大勢、谷に伏していた。そのらくだは海辺の砂のように多くて、数えきれなかった。」(士師7:12)敵は無数、らくだでさえ数えきれない。目で見れば絶望しかない。だが、主は「聞け」と仰せられた。主は敵の唇を通してさえ、ご自身の計画を語らせる。

そこで、13-14節が読まれた。「ギデオンがそこに行ってみると、一人の者が仲間に夢の話をしていた。一人が言うには、『私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンの塊が一つ、ミディアン人の陣営に転がってきて、天幕の中にまで入り、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。』すると、その仲間は答えて言った。『それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣に他ならない。神が彼の手にミディアンと陣営全部を渡されたのだ。』」(士師7:13-14)

主は敵の口を用いて真理を語られた。御言葉を耳で聞けば、希望と勇気が湧く。続けて15節が宣言された。「ギデオンはこの夢の話とその解釈を聞いたとき、主を礼拝した。そして、イスラエルの陣営に戻って行って言った。『立て。主はミディアン人の陣営をあなたがたの手に渡された。』」(士師7:15)ギデオンの第一の応答は戦いではなく礼拝だった。確信が与えられたとき、彼はまず主を礼拝した。だからこそ主はギデオンを用いられた。臆病であること自体が退けられる理由ではない。主の言葉を何度でも尋ね、聞いたら従う人、そして真っ先に主を礼拝する人を、主は用いられる。

夢に出てきた「大麦のパン」は興味深い。人間的に考えるなら、岩や火の玉の方が「敵陣を打つ」にふさわしいように思えるが、主は大麦のパンを用いて敵を倒す象徴を示された。大麦のパンと聞くと、主イエスが五千人を養われた出来事を思い出す(マタイ14:13-21等)。少年が捧げたわずかな五つのパンと二匹の魚を、主は祝福して裂き、多くの人を満たされた。主に用いられるなら、わずかなパンも豊かに用いられる。私たちにとっては命の糧であるパンが、敵にとっては滅びの剣となる。敵の解釈はこうだった。「それは…ギデオンの剣…神が彼の手にミディアンと陣営全部を渡されたのだ。」(士師7:14)主の御言葉は、御民には命であり満足であり、敵には打ち滅ぼす剣となる。

ここからの適用として、私たちが持つ「小さきパン」を主に差し出すなら、主はそれを大いに用いて、この地の闇や福音に逆らう力を打ち砕いてくださる。海辺の砂のよう、いなごの群れのように見える敵の多さに圧倒されても、主が先だって伴われるなら、わずかな捧げ物が巨大な力として働く。見えるところは絶望でも、聞くところ、すなわち主の語りかけに従うなら希望で満ちる。

ギデオンが夢と解釈を聞いたとき、まず礼拝し、次に民に確信を持って宣言した。「立て。主は…渡された。」(士師7:15)これは根拠のない前向きさではなく、主から来た確信に基づく宣言である。主は私たちに、敵のざわめきや装備の音ではなく、主ご自身の言葉に耳を傾けるよう招かれる。

ここで、エリシャの出来事が想起された。王下6:15-17。「エリシャの召使いが朝早く起きて出てみると、なんと、軍勢が馬と戦車をもってその町を取り囲んでいた。若者はエリシャに言った。『ああ、我が主よ。どうしたらよいのでしょう。』エリシャは言った。『恐れてはならない。私たちの味方は、あの者たちの味方よりも多いのだ。』そしてエリシャは祈って言った。『主よ。どうか彼の目を開いて見えるようにしてください。』主が若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。」(王下6:15-17)敵は町を包囲するだけだったが、神の軍勢は山に満ちていた。ギデオンの時も、敵のらくだは数えきれなかったが、主の軍勢はそれ以上であった。主は昔も今も同じ。御言葉に聞き従う者に、主は御使いを遣わし、守り、勝利を与えてくださる。

さらに、新約ではパウロがアジアで行き詰まった後、夜の幻でマケドニア人の招きを見て(使徒16:9-10)方向転換した。主は時に、相手の口を通しても御心を知らせ、励ましを与えられる。ギデオンが敵の会話を聞かされたように、主は恐れる者に「聞こえる」しるしを与え、勇気を起こさせる。

結論として、「見えるところは絶望、聞くところは希望」。主の御言葉は、私たちには命の糧であり、敵には剣である。大麦のパンが転がって敵陣をなぎ倒したように、私たちのわずかな捧げ物も、主にあって大いなる勝利の道具となる。主は「もし恐れるなら、下って行って、彼らが何と言っているかを聞け」(士師7:10-11)と言われた。恐れの中でこそ、主の語りかけに従い「聞きに行く」一歩を踏み出そう。主は「アニ・パニーム・ハラク」、先立って行かれる主。アブラハムの前に、ヨセフの前に先回りして備えられた主は、今も私たちの先に行き、勝利を整え、招いておられる。その招きに応じ、礼拝し、御言葉に聞き従い、次世代の魂をも勝ち取っていこう。

最後に祈りが捧げられた。インマヌエルなる主に感謝し、見えるところによらず、御言葉に聞いて従い、希望と勇気をもって闇に満ちた世に進み、足の裏で踏む場所をことごとく主にあって獲得していく者とならせてください、と。主イエス・キリストの御名によってアーメン。

【結論】

  • 見えるところは絶望。しかし主の御言葉を聞けば希望。

  • 主は先に行かれ、勝利を備えておられる。恐れるなら、主の示すとおり「聞きに行き」、まず礼拝し、御言葉に従って進もう。

  • わずかな「大麦のパン」を主に捧げよ。御言葉は私たちには命、敵には剣。主がそれを用いて勝利をもたらされる。アーメン。

 

人は「一人でも多く」を求めるが、主は人数の多さを振るい捨て、純粋な信仰者を求める(士師記7:1-8) 水曜昼礼拝

Youtube動画

【概要】

敵軍13万5千に対し、自軍は3万。 人は「一人でも多く」と思うが、主は「まだ多すぎる」と言われる。 主は恐れる者と、目の前の欲しいものに没頭する者とを切り離し、ただ、主の戦いに覚悟ができた三百人だけを残され、この三百人を通して13万5千を打ち倒す働きを起こされる。

【聖書箇所】

士師7:1-8

黙示21:8

【AIによる文字起こし】

今日は、士師記の7章から、ギデオンの物語の続きを見ていきましょう。神様は、私たちが自分を小さく弱いものだと感じていても、人の目には不可能に見えるような勝利を実現してくださいます。今日は、ギデオンが神様からの召しを受けて、実際にイスラエルを勝利へと導いていく、その第一歩についてお話しします。

まず、ギデオンはイスラエルの軍勢を集めました。1節を見ると、「そこでエルバアル、すなわちギデオンと、彼と一緒にいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた」とあります。敵であるミディアン人の陣営は、そこから北へおよそ5キロメートルほどの距離に迫っていました。

相手のミディアン軍の数は、なんと13万5千人です。それに対して、集まったイスラエル軍は3万2千人ほどでした。これだけでも、敵の数はイスラエルの約4倍から5倍です。圧倒的に不利な状況です。

普通、人間的な感覚で言えば、「もっと人数が欲しい」「猫の手も借りたい」と思うのが人情でしょう。祈りの中でも、「もっと人をください」「もっと資金をください」と求めることが多いかもしれません。しかし、神様の評価はまったく逆でした。神様は「まだ人数が多すぎる」と言われるのです。

2節を読んでみましょう。

「そのとき、主はギデオンに仰せられた。『あなたと一緒にいる民は多すぎるから、私はミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが自分の手で自分を救ったと言って、私に向かって誇るといけないから。』」(士師7:2)

神様は、もしこの人数のままで勝利させたら、イスラエルの民が神様のおかげであることを忘れ、「自分たちの実力で勝ったんだ」と誇ってしまうことを見抜いておられました。だからこそ、まだ勝利を渡すわけにはいかないと言われるのです。そこで、神様による「第一の選別」が始まります。

3節にその基準が書かれています。

「今、民に聞こえるように告げ、『恐れおののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい』と言え。すると民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。」(士師7:3)

第一の選別、それは「恐れおののく者」、つまり臆病な者は帰りなさい、というものでした。この命令によって、なんと2万2千人もの人が帰ってしまいました。

ここからわかることは、神の国の戦いにおいて、臆病な者はふさわしくないということです。会社や組織でもそうですが、ただ人数が多ければいいというわけではありません。その中に「もうダメだ」「私たちは負ける」と叫ぶ臆病な者が一人でもいれば、その恐れは周囲に伝染し、少数精鋭たちの足をも引っ張ってしまうからです。

かつて出エジプトの時にも同じことがありました。約束の地を偵察に行った12人のうち、10人が「あそこの住民は強い。私たちはイナゴのようだ」と恐れを口にしました。すると、民全体がその言葉に影響され、夜通し泣き明かしたのです。神様がエジプトで十の災いを下し、紅海を割り、圧倒的な力で救い出してくださったにもかかわらず、彼らは神様を忘れ、自分たちをイナゴのように低く見積もりました。その結果、彼らは荒野を40年間さまよい、滅びることになってしまいました。

臆病であることは、神の国においては罪深いことなのです。黙示録にもこうあります。

「しかし、おくびょうな者、信仰のない者…(中略)…は、火と硫黄の燃える池に入れられる。」(黙示21:8)

天国を相続できない者リストの筆頭に「臆病な者」が挙げられています。ですから、私たちは「自分にはできない」「ふさわしくない」という思いを根絶し、イエス様のお名前によって追い出さなければなりません。

さて、第一の選別で2万2千人が帰り、残ったのは1万人です。敵は13万5千人ですから、ますます不利な状況になりました。しかし、神様は「民はまだ多すぎる」と言われます。ここでもはっきりと、戦いの勝敗は人間の頭数や装備ではないことが示されています。そして、神様はさらに数を絞るために、「第二の選別」を行われます。それは「水の飲み方」によるテストでした。

5節を見てみましょう。

「そこでギデオンは民を連れて水のところに下って行った。すると主はギデオンに仰せられた。『犬がなめるように舌で水をなめる者は残らず別にしておき、またひざをついて飲む者も残らずそうせよ。』」(士師7:5)

二通りの飲み方がありました。「手で水をすくって犬のように舌でなめる者」と、「膝をついて直接口をつけて飲む者」です。どちらが選ばれたでしょうか。

正解は、6節と7節にあります。

「そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、膝をついて水を飲んだ。そこで主はギデオンに仰せられた。『手で水をなめた三百人で、私はあなたがたを救い、ミディアン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。』」(士師7:6-7)

選ばれたのは、手で水をすくって飲んだ300人だけでした。

敵はすぐ近く、5キロ先に迫っています。いつ襲撃があるかわからない緊迫した状況です。それなのに、自分の「水を飲みたい」という欲望を優先させ、武器を地面に置き、膝をついて無防備に水をガブ飲みするような者たちは帰されました。

一方で、選ばれた300人は違いました。彼らは片手に武器を持ち、もう片方の手で水をすくい、周囲への警戒を怠りませんでした。これから戦いがあることを自覚し、胃袋を水で満腹にして動きが鈍くならないよう、なめる程度で済ませたのです。

神様の働きは、物見遊山や観光旅行ではありません。「喉が渇いたから」と自分の欲求に没頭するのではなく、常に霊的な武器を握り、主の御用のために自分を整えている人。そのような人が、主の勇士として選ばれるのです。

戦いは人数ではありません。信仰と従順です。そして、心のセットアップがどこに向いているかが重要です。自分の欲望なのか、それとも神様のミッションなのか。

3万2千人でも「多すぎる」と言われ、1万人でも「多すぎる」と言われました。神様が求めておられるのは、人間の力に頼らず、徹底して主に従う300人の勇士です。臆病を捨て、自分の欲を捨て、ただ主の御言葉に従順する者を通して、神様は大きな勝利を与えてくださいます。

【結論】

 

神様の戦いにおいて重要なのは、人間の数や能力ではなく、信仰と従順、そして霊的な警戒心です。神様は、自分たちの手柄だと誇ることがないように、また恐れや自分の欲望に支配されることがないようにと、あえて少数の者を選ばれました。私たちも、臆病な心や自分の楽しみを優先させる心を捨て、主の御言葉に聞き従う「信仰の勇士」として歩んでいきましょう。

 

大切なのは自分の評価ではなく「神様がどう評価しているか」(士師記6:33-40) 早天祈祷会 2026年2月25日(Wed)

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【概要】

ギデオンは、神様からの使命に不安を感じ、羊の毛を使ってしるしを求めました。神様はその求めに優しく応えてくださいました。私たちも不安な時は一人で考え込まず、イエス様に話し、神様と二人三脚で歩むことが大切です。

【聖書箇所】

士師6:33-40、創世24:13-27

【AIによる文字起こし】

2026年2月25日

皆さん、おはようございます。今日、神様からいただく恵みの言葉は、旧約聖書の「士師記」6章33節から40節です。

物語は、ミディアン人やアマレク人といった敵の軍勢が連合して攻めてきて、イスラエルの谷に陣を敷いたところから始まります。この時、神様の霊(聖霊)がギデオンという人を包み込みました。ギデオンが角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人たちが集まってきて彼に従いました。

まず、私たち自身のことから考えてみましょう。ギデオンという人は、最初から強かったわけではありません。実はとても弱い人でした。敵であるアマレク人たちを恐れて、見つからないように酒ぶね(ブドウを絞る場所)の中に隠れて、こっそり麦を打っていたような人です。そんな彼に、神様は現れて「大勇士よ(勇ましい人よ)」と声をかけられました。

ここから分かる大切なことは、私たちが「自分で自分をどう評価するか」は、神様の前では全く関係ないということです。「私は弱い」「経験がない」「若い」「過去にこんな悪いことをした罪人だ」……そんな自分への評価は、神様があなたを呼び出す時には一切関係なくなります。

大切なのは、「神様があなたをどう評価しているか」、これだけです。聖書には、神様は皆さんのことを「私の目には高価で尊い」と言っておられます。「私はあなたを愛している」と書いてあります。だったら、私たちは自分で自分の価値を下げる必要なんてありません。神様が「高価で尊い」と言ってくださるなら、「はい、そうですか。私は神様の目には尊い存在なんですね」と、素直に受け入れればいいんです。神様の言葉に対して「アーメン(その通りです)」と同意すること、これが神様の前で最も正しい態度です。

さて、ギデオンの話に戻りましょう。神様の霊に導かれて角笛を吹くと、およそ3万3千人もの人々が集まりました。今まで家の中で一番小さい者として生きてきた彼が、いきなり3万人のリーダーになったのです。見たこともない景色、経験したことのない道を進むことになります。

これは、パラグライダーをする時の感覚に似ているかもしれません。私も経験があるのですが、パラシュートのようなものを背負って山の斜面を走り出すと、風を受けて体が浮き上がります。今まで地面を踏みしめていた足の下から地面がなくなり、高い空中に放り出されるんです。下を見ると怖くなります。でも、風に乗って上昇していくと、だんだん「ああ、気持ちいいな」と思えるようになるんです。

神様の計画に従って歩み出す時も同じです。今まで自分の経験や予測でしっかり踏みしめていた地面がなくなり、足の下に未知の世界が広がるような感覚になります。不安や恐怖を感じるかもしれません。でも、そんな時こそ大切な合言葉があります。それは「思案せずにイエスに話せ」です。

不安になってもいいんです。ただ、自分一人であれこれ考え込んで(思案して)、悩んでしまってはいけません。イエス様に話すのです。ギデオンもそうしました。彼は正直に神様に言いました。「もし、あなたが言われた通り、私の手でイスラエルを救ってくださるなら、私にしるしを見せてください」と。

ギデオンは羊の毛を使ってしるしを求めました。「一頭分の羊の毛を地面に置きます。もし、羊の毛だけが露で濡れていて、周りの地面が乾いていたら、神様が私を使ってくださると信じます」とお願いしました。

翌朝、見てみると本当にその通りになっていました。羊の毛を絞ると、鉢がいっぱいになるほどの水が出たのです。周りの地面は乾いているのに、です。

しかし、ギデオンはまだ不安でした。そこでもう一度、正直に神様に言います。「神様、怒らないでください。もう一度だけ試させてください。今度は逆に、羊の毛だけが乾いていて、周りの地面だけが露で濡れているようにしてください」。

神様はその夜、その通りにしてくださいました。

ギデオンは神様を疑ったのではありません。彼は「しるしを見せてくれれば、神様がなさろうとしていることが私によく分かります」と言いたかったのです。神様は、ギデオンが不安であることを知っておられました。だから、彼が納得して安心できるまで、何度もリクエストに応えてくださったのです。

私たちも人生の分かれ道で、「本当にこの道でいいのだろうか?」「神様の御心にかなっているだろうか?」と不安になることがあります。そんな時、一人で計算したり悩んだりせずに、イエス様に話しかけてください。「神様、もしこれが正しい道なら、分かるようにしるしをください」と求めてもいいのです。神様と交わりを持つこと、神様に聞くこと、それが一番大切です。

聖書の別の箇所、創世記24章にも、似たような話があります。アブラハムのしもべが、主人アブラハムの息子イサクのお嫁さんを探す旅に出た時のことです。彼は不安の中で祈りました。「神様、どうか主人のために恵みを与えてください。私が泉のほとりで水を汲みに来た娘に『水を飲ませてくれ』と頼んだ時、『どうぞ。あなたのラクダたちにも飲ませてあげましょう』と言ってくれる人がいたら、その人こそ神様が選んだお嫁さんだと分かるようにしてください」と。

ラクダというのは、ものすごい量の水を飲みます。一頭でお風呂の水ぐらいたくさん飲むのです。それを何頭分も汲んであげるなんて、大変な重労働です。でも、リベカという女性が現れて、まさにその通りにしてくれました。しもべはすぐに神様を礼拝し、感謝しました。

彼もまた、行き当たりばったりで決めるのではなく、ピンポイントで神様に求め、神様に話しかけたからこそ、平安を得ることができたのです。

今日、皆さんに覚えていてほしいのはこれです。

神様が示されたレールの上を走っていても、不安になることはあります。でも、その時「思案せずにイエスに話す」なら、人間の考えをはるかに超えた平安が与えられます。自分の心の内を神様に知っていただくのです。

一番良くないのは、神様に相談せずに、自分の考えだけで「自分はダメだ」「無理だ」と判断してしまうことです。昔、エジプトから脱出したイスラエルの民は、約束の地を目の前にして、そこにいる敵が強いのを見て怖気づき、「エジプトに帰ろう」と言い出しました。彼らは神様に相談せず、不平不満を言い、結局約束の地に入れませんでした。

神様が「行きなさい」と言われたら、行く。もし不安なら、神様に話す。時にはしるしを求める。そうすれば、神様は皆さんが安心するまで付き合ってくださり、道を示してくださいます。

イエス様との二人三脚で、一歩一歩進んでいきましょう。

【結論】

自分一人で思い悩む(思案する)のではなく、どんな不安も正直にイエス様に話しましょう。ギデオンのように神様にしるしを求めても良いのです。神様は親切に答え、私たちに平安を与え、共に歩んでくださいます。神様との対話を大切にし、示された道を信頼して進んでいきましょう。

 

ギデオンのからし種の信仰によって回復して行くイスラエルの信仰(士師6:25-32) 早天祈祷会 2026年2月24日(Tue)

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【概要】

臆病で弱かったギデオンが、恐れながらも神様の命令に従って偶像を打ち壊し、信仰の勇士へと変えられていくお話です。たとえわずかな信仰であっても、行動に移すなら神様が大きく用いてくださることを学びます。

【聖書箇所】

士師記 6:25-32

ルカ 17:6

マルコ 11:23

【AIによる文字起こし】

おはようございます。今日は、士師記の6章25節から32節を通して、神様の恵みを受け取っていきましょう。

前回、ギデオンという人物についてお話ししましたね。彼は最初、自分自身のことを「もっとも小さい者だ」「弱い者だ」と言って、自信がまったくありませんでした。でもね、神様はあえて、そういう「小さい者」を選んで用いるのが大好きなんです。なぜだかわかりますか? それは、何かすごいことが起きた時に、「これは人間の力でやったんじゃなくて、神様がやったんだ!」と誰もが認めるためなんです。ギデオンのストーリーを見ていると、本当に「これは人間業じゃない、神業だ」と思わざるを得ないことばかりです。

当時のイスラエルの人たちは、神様を信じたかと思えばすぐに離れて、自分勝手なことをして、不幸な目にあって、困った時だけ神様に助けを求める…ということを繰り返していました。今の私たちの時代も、信仰がすたれてしまって久しいですよね。でも、そんな時代だからこそ、みなさんがたとえ弱くても、神様の言う通りに行動するなら、神様はみなさんを「勇士」として用いて、信仰を復興させてくださるんです。

さて、神様がギデオンに最初に命じたミッションはこれでした。

『この夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取り壊し、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。その砦の頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で、全焼のいけにえを捧げよ。」』(士師記 6:25-26)

神様はまず、「あなたの家にある偶像(バアルやアシェラ)を壊しなさい」と言われました。当時、どの家にも当たり前のように偶像があったんです。神様は、「まず、あなたの中から神様以外の頼りものを切り倒して燃やしなさい。そして、本当の神様に礼拝を捧げなさい」と命じられたわけです。私たちも同じです。心の中に、神様以上に頼りにしているもの(お金とか、人とか)があるなら、まずはそれを切り倒して、神様への礼拝の燃料にしてしまうことからスタートしないといけません。

ギデオンは臆病でした。でも神様はそんなこと百も承知です。だから、少しずつ成長できるようにプログラムを組んでくれたんです。その第一歩が「家の掃除(偶像破壊)」でした。ギデオンはどうしたでしょうか。

『そこでギデオンは自分のしもべの中から十人を引き連れて、主が言われたとおりにした。彼は父の家の者や町の人々を恐れたので、昼間それをせず、夜、それを行った。』(士師記 6:27)

ここ、すごく重要です。ギデオンは家族や町の人を「恐れました」。でも、「恐れたからやらなかった」のではありません。「恐れたので、夜やった」んです。これで十分なんです! 怖くても、人の目を気にしながらでも、とにかく「神様の言葉通りに実行した」という事実が大切なんです。

みなさんの中に、「自分には信仰が5%しかないな」とか「不安だな」という気持ちがあるかもしれません。でも、心のパーセンテージは関係ありません。たとえ信仰が0.1%でも、実行するかどうかが全てです。ほんの小さな「からし種」のような信仰があれば、山をも動かすとイエス様も言っています。

『主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こぎになって海の中に植われ』と言えば、言いつけ通りになるのです。」』(ルカ 17:6)

からし種って、ボールペンの先でチョンと書いた点ぐらい小さいんですよ。そんな小さな信仰でも、行動に移すなら、それは大きな波紋となって周りを変えていきます。「どうせ無駄だよ」と思って何もしなければ何も起きませんが、与えられたタラント(力や才能)を使えば、必ず神様が成功させてくれます。

さて、翌朝、町は大騒ぎになりました。

『町の人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、バアルの祭壇は取り壊され、そのそばにあったアシェラ像は切り倒され、新しく築かれた祭壇の上には第二の雄牛が捧げられていた。そこで彼らは互いに言った。「だれがこういうことをしたのだろう。」それから彼らは調べて尋ね回り、「ヨアシュの子ギデオンがこれをしたのだ」と言った。ついで町の人々はヨアシュに言った。「あなたの息子を引っ張り出して殺しなさい…」』(士師記 6:28-30)

町の人たちは、本当の神様を捨てて偶像を拝んでいたので、偶像を壊したギデオンを「殺せ!」と怒り狂いました。ギデオンが怖がって夜に行動したのも無理はないですよね。でも、この行動が、まずギデオンのお父さん、ヨアシュを変えたんです。

お父さんは、自分の偶像を壊された本人ですから、一番怒ってもおかしくないはずです。でも、彼は息子をかばって、町の人たちにこう言いました。

『するとヨアシュは、自分に向かって立っているすべての者に言った。「あなたがたはバアルのために争っているのか。それとも彼を救おうとするのか。バアルのために争う者は朝までに殺されてしまう。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取り壊されたのだから、自分で争えばよいのだ。」』(士師記 6:31)

かっこいい言葉ですよね。「バアルが本当に神様なら、自分で自分を守れるはずだろう? なんで人間が守ってやる必要があるんだ?」と気づいたんです。ギデオンという一番弱虫な息子に切り倒されて、薪にされて燃やされてしまった偶像。そんなものに何の力があるんだ、本当の神様のほうが強いじゃないか、とお父さんは悟ったんです。

ある牧師先生の話ですが、キリスト教以外の宗教を熱心に信じている人の前で、その宗教の間違いを指摘したことがあったそうです。すると「お前の子供は流産するぞ」とかひどい呪いの言葉を言われたそうです。でも結果はどうだったかというと、生まれた赤ちゃんは超健康で、赤ちゃんコンテストで優勝するくらい元気だったんです。それを見て周りの人は「キリスト教の神様のほうが強いんだ」と分かったそうです。

偶像には力がありません。悪魔や悪い霊も、最終的には燃えるゴミのように滅ぼされる運命です。でも私たちは違います。永遠の天国が待っています。だから勝利の秘訣は、この信仰に立つことです。

最後に、ギデオンはこの出来事で新しいあだ名をつけられました。

『こうしてその日、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。「自分の祭壇が取り壊されたのだから、バアルは自分で争えばよい」という意味である。』(士師記 6:32)

「エルバアル」。これは「バアルは自分で戦え」という意味です。この名前で呼ばれるたびに、「バアルなんて大したことない、無力だ」という噂が広まっていったんです。

私たちもこの時代の「エルバアル」になりましょう。世の中のどんな力よりも、神様こそが力ある方だと証明していくんです。最初は怖くてもいいんです。疑いがあってもいいんです。でも、「からし種」ほどの信仰を振り絞って、イエス様の言葉通りに行動してみましょう。

イエス様はこう言われました。

『まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。』(マルコ 11:23)

目の前にどんな障害の山があっても、イエス様の言葉を信じて一歩踏み出すなら、その山は動きます。今日、みなさんがそれぞれの場所で、小さな信仰の種を蒔いて行動する勇士となることを願っています。

【結論】

ギデオンは臆病でしたが、夜、こっそりとでも神様の命令を実行したことで、自分自身の殻を破り、父親を変え、町中に神様の力を示すことになりました。私たちも、恐れがあったとしても、ほんの小さな「からし種」のような信仰を持って行動するなら、神様が働いてくださり、目の前の問題を解決し、周りの人々をも変えていくことができるのです。この時代にあって、神様の言葉を信頼して実行する「エルバアル」として歩んでいきましょう。

 

最も小さく弱い私達を「大勇士」としてくださる主(士師記6:11-16) 早天祈祷会 2026年2月23日(Mon)

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【概要】

暴走族がバイクで乗りつけて学校の備品を破壊し回るように、イスラエルにラクダで乗り付けて荒らし回るミデヤン人たち。 トイレに隠れて震えながら弁当を食べているかのように、酒槽に隠れて麦打ちをしていたギデオンに、突如、御使いが現れて、彼を召し出す。 「大勇士よ、主があなたと共にいる!あなたの力で、イスラエルをミデヤン人の手から救え!」 主は現代の私達をも、サタンの手からこの国を救う働きへと召し出される!

【聖書箇所】

士師6:11-16

【AIによる文字起こし Gemini】

愛する皆さん、おはようございます。今朝、私たちが恵みをいただく御言葉は、旧約聖書の士師記6:11-16です。まずは皆さんと一緒に、11節と12節を力強く宣言しましょう。

「さて、主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミディアン人から逃れて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の使いが彼に現れて言った。『勇士よ。主があなたと一緒におられる。』」(士師6:11-12)

愛するイエス様、あなたがインマヌエル、すなわち「我らと共におられる神」として、私たちと一緒にいてくださることを感謝します。私たちがどれほど弱くても、あなたが共にいてくださることが私たちのすべてであり、力の源です。どうぞ今、私たち一人一人に現れて、「勇士よ」と語りかけてください。

さて、聖書が語る「勇士」とは、必ずしも見た目が筋肉隆々で強そうな人のことではありません。神様は、あえて弱いものを選んで呼び出されることがよくあります。

たとえば預言者イザヤは、幻の中で自分の罪深さを突きつけられ、「私は唇の汚れた者です」と絶望しましたが、主が祭壇の炭火で彼をきよめ、遣わされました。

エレミヤも「私は若くて語る言葉を知りません」と自信なさげでしたが、主は「わたしがあなたと共にいる」と励ましました。

モーセも「私は何者でしょう。口下手です」と言い訳しましたが、主は「わたしがあなたと共にいる。あなたの手にある杖を使え」と命じられました。

今日の箇所に登場するギデオンも、まさに「弱さの真っただ中」にいました。

当時、イスラエルはミディアン人に支配され、苦しめられていました。ミディアン人はラクダの大群と天幕を引き連れてやってきて、まるで暴走族が学校に乗り込んで窓ガラスを割ったり暴れたりするかのように、イスラエルの作物を荒らし、嫌がらせをしていました。イスラエルの人々は恐れ、洞窟や岩場に隠れて暮らしていました。

そんな中、ギデオンは何をしていたでしょうか。彼は「酒ぶねの中で小麦を打って」いました。通常、小麦の脱穀というのは、風通しの良い場所で籾殻を風に飛ばして行うものです。しかし、彼は敵に見つかるのを恐れて、風も通らないような穴蔵、つまりブドウを踏み潰すための「酒ぶね」の中に隠れて、こっそりと作業をしていたのです。例えるなら、いじめっ子から逃げて、トイレの個室に隠れてお弁当を食べているような、そんなみじめな状況です。

ところが、そんなギデオンのところに主の使いが現れて、こう言ったのです。「勇士よ。主があなたと一緒におられる。」

ヘブライ語で「勇士」は「ギボール・ハイル」、つまり「力ある戦士」という意味です。隠れてビクビクしている人に向かって、神様は「大勇士よ!」と呼びかけられたのです。神様は本当にユニークな方です。自分のことを「弱虫だ」「力がない」と思っている人に好き好んで声をかけ、その人を時代の主人公へと引き上げられるのです。かつてダビデも、ゴリアテを倒したのはまだ紅顔の美少年だった頃でした。

しかし、ギデオンは素直に喜べません。彼はこう聞き返しました。

「ああ、主よ。もし主が私たちと一緒におられるなら、なぜ、これらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。……今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されました。」(士師6:13)

私たちもよく思います。「神様が共にいるなら、なぜこんな悪いことが起きるのか」と。

しかし、これには理由がある場合があります。もし私たちが間違った方向に進んでいるなら、神様は愛する子を正すために、あえて試練を通されることがあります。あるいは、私たちが「これが良いことだ」と思い込んでいても、神様の計画とは方向が違っている場合、神様は「神がかり的な嫌がらせ」のように見える方法で、私たちの進路を塞がれることがあります。

新約聖書の使徒パウロの例を見てみましょう。彼はアジアで伝道しようとしましたが、なぜか聖霊に禁じられ、ことごとく邪魔されました。伝道は良いことのはずなのに、なぜ?と彼は思ったでしょう。しかしある夜、彼は夢でマケドニア(ヨーロッパ)の人が助けを求めているのを見ました。神様の御心はアジアではなく、ヨーロッパ宣教にあったのです。方向転換してそこへ行くと、リディアという女性が救われ、ヨーロッパに福音が広がっていきました。

もし今、皆さんが八方塞がりだと感じるなら、自分の思い込みを捨てて「主よ、あなたの御心はどちらですか」と求めてみてください。

さて、ギデオンの不満や疑問に対して、主はどう答えられたでしょうか。

「すると、主は彼に向かって仰せられた。『あなたのその力で行き、イスラエルをミディアン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。』」(士師6:14)

驚くべきことに、主はギデオンの「なぜですか」という愚痴には一切答えず、ただ真理と使命だけを告げられました。

「あなたは大勇士だ。私があなたを遣わすのだから、行きなさい」と。

私たちが不信仰な言葉やつぶやきを並べても、主はその不信仰な土俵には乗ってきません。ただ「真理」だけを語られます。ヨブ記のヨブに対しても、ベテスダの池で38年間病気だった人に対しても、主は彼らの言い訳や嘆きには付き合わず、ただ神の力と「起きて歩け」という命令だけを与えられました。

主はギデオンに「あなたのその力で行き」と言われました。これは、神様が魔法のように勝手にやってくれるのではなく、ギデオン自身が自分の足で立ち、自分の筋肉を使って行動を起こす必要があるということです。

私たちも同じです。「つくばみらい」の地で伝道するなら、まず自分の足でその場所へ行き、自分の手でチラシを撒くのです。そうやって私たちが一歩を踏み出したときに、神の国が動き出します。

ギデオンはさらに言い訳をします。

「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」(士師6:15)

自分は一番弱い、一番下っ端だ、と自己評価を下します。しかし、主は再びこう宣言されます。

「主はギデオンに仰せられた。『わたしはあなたと一緒にいる。だから、あなたはひとりを打ち殺すようにミディアン人を打ち殺そう。』」(士師6:16)

ここでも主は、ギデオンの自己評価を完全に無視して、「わたしが一緒にいる」という事実だけを強調されました。これがすべてです。

「インマヌエル(神が共におられる)」、これこそが、私たちがどんなに弱くても、勇士として勝利できる唯一の根拠なのです。

【結論】

今日のメッセージの結論はこれです。「主が共におられる」。これが最も大切なことです。

自分で自分をどう評価するか、それは問題ではありません。「自分はダメだ」「弱い」と思っていても関係ありません。「わたしはある」と言われる創造主なる神様が、皆さんをどう評価されているかが真実なのです。

皆さんがイエス・キリストを信じているなら、皆さんは神の子であり、王のような祭司であり、世のどんな権力者よりも尊い存在とされています。

自分の感情や状況で自分を測るのではなく、神様が言われる「勇士よ、わたしはあなたと共にいる」という真実の言葉に立ってください。そして、主から与えられた使命のために、自分の足で一歩を踏み出していきましょう。主が共におられるなら、あなたは勝利することができます。

愛する主よ、感謝します。私たちが自分の弱さを見て逃げ隠れしているような時でも、あなたは「勇士よ」と声をかけてくださいます。私たちが自分の物差しではなく、あなたの真実の言葉を信じて歩み出すことができますように。インマヌエルなる主イエス様のお名前によって祝福し、お祈りします。アーメン。

主日礼拝

ききんの時代に養われ、神のご用に用いられる人(1列王記 17:8-16)

第一礼拝 Youtube動画

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週報/メッセージ(説教)概要

本日の御言葉 ヨシュア記2:1-7


 今日はイエス様の系図に名前が記されている、一人の女性についてお話しします。その名はラハブです。

イエス様が生まれるはるか昔、死海の近くの、岩と砂に囲まれた城塞都市・エリコという町で、彼女は、城壁の中に建て込まれたマンションのような住まいに住んでおりました。 そこに住めた、というだけで、他の人よりは安全な生活が保証されたかもしれませんが、彼女はそこで生活をするために、自分自身を身売りするかのようにしなくてはなりませんでした。自分の時間を差し出し、若さを差し出し生活するしかありません。

 現代の私たちも、全く変わりません。安定した所で生活するために、自分自身を売り、時間を売り、能力を売り、若さを売って働いています。それは家族を養うためであったり、周りに置いていかれないためであったり、ともかく自分と、自分の家族を養って生きるために、せざるを得ないのです。


 彼女は、小さい頃から聞かされていた神々に、どんなに祈っても、どんなに拝んでも、生活が良い方向に変わるわけではありませんでした。人生が良い健全な方向へと改善するわけでもありません。 何も変わらない時間だけがむなしく過ぎていって、若さと将来だけが削ぎ落とされていくだけでした。

そんな中、彼女はある「噂」を耳にします。 「力ある神」と、その神に導かれている不思議な民族について。 その神は、かつての大国・エジプトを打ち破り、海を真っ二つに分けてその民を救い出し、不思議な方法で荒野で40年も養われた。その素晴らしい教えによって、彼らは守られて、きよく充実した生活ができる。

しかも彼らは最近、近隣の強い王たちを次々と倒しながら、今まさに自分たちの町に向かって来ている…。

 ラハブは思いました。この神は、今まで聞いたどの神よりも 本物かもしれない。この神様のもとで生きる民は、なんてしあわせだろうか。この民に加わりたい…。そんな小さなあこがれを持っていましたが、この町の誰にも、自分のあこがれを言うことはできません。また、その民とはコンタクトの取りようもありません。

 けれども「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(2歴代誌16:9) 神様は、全ての人の内を、知っておられるのです。


 ある日の事です。二人の男性が、彼女の所にやって来ました。 彼らは、今まで知っている男たちとは何か違いました。食事を勧めても、偶像に捧げた肉は食べません。この地方で流行りの悪い遊びにも、加わろうとしません。彼らは落ち着きがあって、秩序があります。 彼女は直感します。「この人たちだ!」
 その時、扉を激しく叩く音がしました。エリコの王の兵士たちです。

 「その男たちを出せ。彼らはこの地を探るために来たのだ!」 
 彼女はこの瞬間、究極の選択が迫られました。

 エリコの側について彼らを差し出し、幾らかの報酬を得て、もう暫く同じような日々を生きるか?

 それとも、見たこともない将来と希望のために、まことの神の民に入れる可能性に賭けるか…。
 ラハブは、、、まことの神につく!と決断しました

彼女は命の危険を承知で、彼らを屋上に連れて行って、干した草の中に彼らを隠しました。この決断と行動によって、彼女と家族のいのちは長らえ、しかも、栄光の家系に入るチケットを手にしたのでした!


 今日、私達が学ぶべき事は、全能なる神様が生きておられる、という事と、その神様は「あなた」を見ておられ、心の底で「救われたい」と願う人のところに、使いを派遣される、という事です。 そして、まこと神につく!と決断する人を、神様は、イエス・キリストへと連なる栄光の家系へと入れて下さるのです。

 かつてエリコの城壁の町の中、ひそかにまことの神様にあこがれ、その民族にあこがれていたラハブに、神様が目を留めて、使いを送られたのと同じように、今、この時代も、コンクリートの壁の中で、自分の時間や能力、若さを身売りをしながら、むなしさの中で過ごしている人々に、目を配っておられます。

 そして神様はその人の元へと、使者を遣わし、救いの道を教えてくださるのです。

 この退廃的な世界の終わりが近づいている、というのは、誰もがぼんやりと認知しています。そして、その滅びから救われたい、と願っている人は、多いです。 救い主であるイエス様の名前を呼び求める人は皆、救われるのです。そして、救われた私達も、救いの鍵を握って、救いを求めるラハブのもとへと遣わされ、救いを届ける役割が与えられるのです! 御国の使者となって、救われるべき魂の元へと遣わされ、この時代の多くの人々を救っていくものでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!

 

サムエルの召命 - 主よ、お語り下さい。しもべは聞きます

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【概要】

主の言葉が稀となった、霊的に衰退した時代。 少年サムエルは、汚職の祭司が聞けなかった主の声を聞いた。 「お話しください。しもべは聞いております。」 母ハンナの涙の祈りによって生まれた子が、やがて神の声を聞く預言者に! この時代も主は働き人を探しておられる。 あなたの耳は、主に捧げられているだろうか?

【聖書箇所】

  • 1サムエル3:1-10

  • イザヤ50:4

【励ましの言葉】

  • 神様は祈りを聞かれる主であり、私たちが聞くことを望んでおられる

  • 霊的に衰退した時代においても、神様は主のために働く働き人を探し求めておられる

  • 母の祈りによって神に聞かれた子が、やがて神の声を聞く預言者となる

  • 小さな働きであっても、神様は誠実に仕える者の姿をご覧になっている

  • 皆さんの祈りは聞かれています

  • 皆さんの涙も聞かれています

  • 皆さんの心からの願いを主は聞いておられます

  • 小さな従順がある人は、やがて大きな従順をいただくようになる

  • 朝ごとに主は私たちを呼び覚まし、弟子のように聞くようにしてくださる

【勧めの言葉】

  • 耳という最上の捧げ物を主に向かって捧げるべき

  • 御霊が諸教会に告げることを聞きなさい(黙示録で7回繰り返される)

  • 日々自分自身を清め、悔い改めて歩むべき

  • 神様に捧げられた子供のために切に祈り求めるべき

  • 主の働き人として、主のお声がかかったらすぐに立ち上がって応答すべき

  • 神様の御前で「主よ、お話しください。しもべは聞いております」という態度を持つべき

  • 耳を主に捧げ、主の宮と一体化させるべき

  • 熱心に神様に声を聞かせる祈りをささげるべき

  • 主からお言葉をいただいたのであるならば、それを一言も漏らさずに告げるべき

  • 聞く嗜みを日ごと主の御前に捧げましょう

  • 聞いた言葉に対して自由意志をもって選びなさい

【AIによる文字起こし】

今朝、恵みをいただく御言葉は第一サムエル記3章1節から10節です。初めに皆さんと一緒に10節を最初に宣言したいと思います。

「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じようにサムエル、サムエルと呼ばれた。サムエルは『お話しください。しもべは聞いております』と申し上げた。」(1サムエル3:10)

皆さんは礼拝に参加しておりますけども、神様の御前において、皆さんの体の器官、いろんな器官がありますね。目とか耳とか口とか、手足、いろんな器官があるんですけども、それを主に捧げること、そのうちで、皆さんのどの器官を最も主に捧げるべきか、皆さんご存知でしょうか。そうですね、皆さんの耳です。耳が、皆さんにとって一番重要な、神様の御前において一番重要な器官です。耳はね、ただついているものではないんですね。聞くためにあるものですね。

「耳のあるものは、御霊が諸教会に告げられることを聞きなさい」と、黙示録では7回も繰り返し繰り返し語られております。耳のあるものは、耳がついてない人、今ここにいますか。みんなね、ついてますね、耳がちゃんと。じゃあ皆さん聞くべきなんです。耳があるものは御霊が諸教会に告げる言葉を聞きなさい。

今日はサムエル記からですが、このサムエルという名前の意味は、「サム」、これはシェマー、「聞く」という意味ですね。そして「エル」、これは「神」という意味です。ですから、「神は聞かれた」、あるいは「神は聞く」、この意味を持っております。この「神様は聞かれた」という意味があり、また「神の名」という意味もサムエルにはあるんですけども、このサムエル、彼はどういう形で主に召し出されたものか。

ここ最近、主からの召命シリーズを見ておりますね。モーセについて、また一人一人の、この神様から召し出された時にどのような成り立ちであったのか。預言者イザヤが召命された時は、唇が炭火で清められました。また、昨日はエレミヤでしたね。エレミヤに対しても「私はあなたを城壁とする。鉄の柱とする。あなたを王たちの上に、民の上に立てる」、そのような形で召命しました。エレミヤは「自分は弱いものです。若いです」と恐れましたけども、神様は「恐れてはならない」と言われましたね。

そして今朝はサムエルの召命の場面なんですけども、いずれの時代も神様の御言葉が廃れ、また悪がはびこる、そういう時代でした。モーセの時代もそうでした。イザヤの時代もエレミヤの時代もそうでした。サムエルの時代もそうなんですね。

3章1節、どういう時代だったか書いてあるんですけども、1節を皆さんと一緒に宣言します。

「少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。その頃、主の言葉はまれにしかなく、幻も示されなかった。」(1サムエル3:1)

そういう時代です。主の言葉がまれ。幻も示されない。こういう時代に、サムエルは召命を受けました。イザヤの時代もそうでしたし、エレミヤの時代もそうでした。モーセの時代、本当に神様の御業が必要な時代でした。

今、この日本ではどうでしょうか。本当に本当に今、主の言葉が稀で、主の幻も稀で、そして本当に悪がはびこって、神様が退けられている、神様の言葉が退けられているかのような、そういう時代、まさに主は召命者を求めておられます。主はこの日本の地をあまねく見渡して、本当に主のために働く働き人はいないか、そういうふうに見ておられます。今まさにこのサムエルの時代、モーセの時代、またエレミヤ、イザヤの時代です。主の召命、これが必要な時代です。霊的に衰退した時代において、神様は探し求めるんです。主のための働き人を。

このサムエル、「神は祈りを聞かれた」。まず神様の御前に向かって、サムエルの母が、切なる祈りで神様に祈りを聞いて、聞かせていきました。言葉にもならない、声にならない、人間の声には聞こえない祈りで、母は、「本当に主よ、どうか私にお子を与えてください。あなたに捧げられたお子をどうか授けてください。お子が生まれたら、あなたにお捧げします」という、その母の祈りを神様が聞いてくださいましたね。神は聞かれた。だからサムエルなんです。

そして母が祈りによって神様に聞かせた。そのようにして与えられた子は、やがて神の声を聞く預言者になっていくんです。母の祈りによって神に祈りを聞かれた子が、やがて聞く者に、神の声を聞く者になっていくんです。そして、霊的に衰退した時代において、神に聞く者を神様は起こされるんです。

だからね、母のみならず、皆さん一人一人が本当に祈り求めるべきなんです。「神様、聞いてください。神様、神様に捧げられた捧げ物なる子供を私は求めます。栄光の次代、神様に聞く次代を私に与えてください」。今、私たちは切にティアのために祈っております。神様、聞かれるんです。また皆さんは本当に望みを持って祈りましょう。また皆さんのお子、子供が本当に神様に聞くという、そういう祈りを母は捧げていくべきなんですね。

このサムエルの時代、本当に廃れた、霊的に廃れた時代でした。主の言葉は稀にしかなく、幻も示されなかった。もうすでに、エリ、その時の当時の大祭司はエリと言うんですけどもね、2節では、「その日、エリは自分のところで寝ていた。彼の目はかすんできて見えなくなっていた。神の灯はまだ消えていず、サムエルは神の箱の安置されている主の宮で寝ていた」(1サムエル3:2-3)と書いてあります。

サムエルは主の御前において寝ていたんですね。神様の御前において、彼はエポデを身につけて、そして神様に仕えておりました。神殿において、まあ、きっとね、雑用的なことしか任されていなかったことでしょうね。

その彼を養っている大祭司エリは、神様のお言葉をもう聞くことが稀にしかなくなってしまいました。なぜならエリはあまり良くない祭司でした。エリの2人の息子は、この神様に捧げ物を持ってくる人々のその捧げ物を途中でくすねるんですね。人々が神様の御前に、あの牛や羊を持ってきて生贄として捧げる時、その捧げられている最中、神様へと捧げられている最中に、こんな大きなフォークを持ってきて、その大きなフォークでその焼肉をブスって刺して、祭司が持っていくんですね。

で、人々が「ちょっと待ってよ。焼き尽くされる前に持っていくのはやめてください。焼き尽くした後であなたがお取りください」と言うんですけど、しかし、そのエリの息子たちは、「いや、祭司は焼いた肉は受け取らない、生のままで持っていくのだ」って言って、そのフォークで持って行ってしまうんですね。もうこれじゃあ礼拝者たちの心が傷つきます。人々がもう「神の恵みもあるものか」と、自暴自棄になってしまいますし、またこのエリの2人の息子、この主の宮において仕える女性たちに、悪いことをして、そういうことをして、その噂が立ち上って、お父さんの耳にも聞こえて。で、お父さんは、エリは、それを戒めるんですけど、しかし、息子は聞きませんでした。

で、お父さんは息子が聞かなかったら、もう祭司職を罷免させるなり、なんなりすればいいんですけど、しかし、そのまま放置していたんですね。で、それでそういうわけで、この神様の御声が稀にしかなく、また主の幻もその時はもう示されなくなってしまった。

本当に皆さん、主の働き人が、この主の御前において、悪いことをずっと続けているとするならば、主の言葉が聞けなくなってしまうんです。幻が示されなくなってしまいます。今、私たちは本当に自分自身を日々清め、悔い改めて、そして日々歩んでいくべきなんですけども、でないと私たちのこの耳が、この霊的な耳が廃れていってしまうからですね。本当に私たちはよく気をつけるべきです。

その時、サムエル、この「主は聞かれる」という名前のサムエルが、彼は神の宮において仕えていたんですけども、彼の働きは、もう本当に小さな小さな働きだったことでしょうね。まだ彼は幼子です。子供です。で、彼はエリに仕えていたって書いてあるんですけどもね。まあ、どのように仕えていたのか。けれども、神様はその少年の仕える様をご覧になっておられたんですね。

で、それでサムエルがこの神の箱の安置されている主の宮で寝ていたその時ですね。その時、「主はサムエルを呼ばれた。彼は『はい、ここにおります』と言ってエリのところに走って行き、『はい、ここにおります。私をお呼びになったので』と言った。エリは『私は呼ばない。帰っておやすみ』と言った。それでサムエルは戻って寝た」(1サムエル3:4-5)。

サムエルが初めて主の声を聞いたんですね。しかもね、サムエルはこのエリのところに走っていきました。サムエルとしては、何か声が聞こえたとしたら、そこにいる人間といえばエリしかいないから、当然エリが呼んだ声だと思ったんですね。で、それでエリのところに走っていきってありますね。走っていた。もう一刻でも早くこの大祭司様のお言葉、こんな夜中寝ていたところでも、それでも起こされた、サムエルは「ちょっと眠いから休ませてよ」じゃなくて、もうすっと立って「はい、ここにおります」と言って走って行って、そしてね、行ったんですね。

本当にこの主人たるお方の御前におけるこのような誠実さ、この少年サムエルは持っていたんです。皆さんも本当にこの主の働き人であるならば、この主人たるもののお声がかかったら、もうすっと夜中だろうと立ち上がって走っていって、この聞く、その態度、これのこの小さな従順を主は喜ばれるんですね。小さな従順がある人は、大きな従順を、やがてそれをいただくようになっていきます。

この1回目のサムエルのこの呼ばれた時はこのまま終わったんですけど、しかし6節、主はもう一度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのところに行き、「はい、ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。エリは「私は呼ばない。我が子よ。帰ってお休み」と言った。まあ、1度目だったらまだ何か、寝ぼけたとか、そういったことで、ええ、まあ説明がついたことでしょうけど、2回ありましたね。2回目で、まあちょっと不思議だなって思ったことでしょう。お互いね、サムエルの方もエリの方も。でもまあまだね、日常生活の範囲内で、こういうことは起こり得ることだと片付けられたかもしれません。

まあ、7節ですね。「サムエルはまだ主を知らず、主の言葉もまだ彼に示されていなかった。」ですからサムエル、ここに仕えるようになってから、もうずっとエリの御前にいるんですけど、しかし、祭司は主の言葉を聞くということ、これをまだ見たことはなかったのかもしれないですね。もう非常にエリに主の言葉が示されることは稀でしたので、サムエルはまだ主を知りませんでした。だから、エリが自分を呼んだというふうに勘違いしたんですね。

それで8節、「主が3度目にサムエルを呼ばれた時、サムエルは起きてエリのところに行き、はい、ここにおります。私をお呼びになったのでと言った。それでエリは主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。」エリは、この3度目にして、ようやく、主が呼んでおられるのだということをようやく気づきました。1回目ではなく、2回目ではなく、3回目ですね。本当に不思議です。なんで主はこんな回りくどいことをされるのか。

主はモーセを召命される時、主はもう真っ先に自分自身を自己紹介しましたね。モーセに対して「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」そういうふうに自己紹介してモーセを召命したんですけど、しかしサムエルの時は、ただ「サムエル」と呼んだだけですね。自己紹介しませんでした。「私はエリではなく主である」と初めに言えば、簡単に事足りたことでしょうけどもね、不思議ですね。なんでこういうふうに回りくどく、しかもなんか忍耐強いですね。主は1回目、サムエル呼んだけど、サムエル主だと気づかずにエリを起こしに行った。2回目もそうだった。3回目もそうだった。

まあ、私たちは結果から推測するしかないんですけども、なんでだかこの時、エリが関わりましたね。エリに対して、少年サムエル主が語ったということがこの時、明確にエリ、わかったんですね。そしてサムエル自身も3回もこのね、エリに対してのその従順、主のお言葉を預かる祭司に対する従順を3回も示しました。もう2回目、おかしいなと思ったんですよ。3回目、ちょっとまた聞こえたけど、でもちょっともし今回も違うと言われたら、いい加減怒られてしまうかなという、そういった恐れを、それをとりあえずね、さておきして、とにかく彼が走っていって。エリのところに行って。

「はい、ここにおります。私をお呼びになったので」と。本当に健気な、従順な。そういう少年サムエルです。主が喜ばれる様です。本当に主は、そのように従順で、そして本当に恐れることなく、この主のお言葉を預かる人のところに行って聞くという、その姿勢を主は喜ばれるんですね。

エリはようやく気づきました。あ、これは主がサムエルを呼んでおられるんだ。なんで私にではなく、こんな少年に、そういったことがあったかもしれませんけれどもね、エリはこの時、正しい指示をするんですね。9節。「それでエリはサムエルに言った。行っておやすみ。今度呼ばれたら主よ、お話しください。しもべは聞いておりますと申し上げなさい。」こうして、サムエルは行って、再び、この自分のところで寝ました。

「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」これが本当に私たちが主の御前において、取るべき正しい態度です。そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。アーメン。この聞くということ、これはとても大事なことだと今日のメッセージで語られます。

召命、主から呼び出されること、これは、まず聞くということ、また主に聞かせるということ、ここから始まるんです。サムエル記、ダビデのことが記されている書物です。イスラエルの王が起こされた書物です。その真っ先にサムエルがまずいるんです。主の声を聞く預言者です。そしてこのサムエルの前に彼の母ハンナの祈りがあります。サムエルは偉大な預言者です。王様を2人も油注ぎました。ダビデにも油を注いだ偉大な預言者です。この偉大な預言者がどうやって生まれたのか。それは一人の母の祈りによって生まれたんですね。母が熱心に祈って神に聞かせた祈り。

「サムエル」、「神は聞く」。神に聞かせる。この母の本当に熱心な祈りによってサムエルが生まれ、そして、神に聞かせた祈りを聞かせた母。その母の祈りに神様が答えて、神様に聞く預言者サムエルを彼女に与えてくださったんです。皆さんも神様に聞かせるべきなんです。祈りを持って神様に聞かせる祈り、母の祈り、父の祈り、あるいはね、皆さん、子供が実際には生まれていないかもしれない。それでも神様に聞かせる。その祈りによって神様は答えてくださった。ハンナは、いつこの神様に聞かせたか。お子がいない時です。皆さんも今まだお子がいないかもしれません。

霊的なお子がまだいないかもしれません。だったら今は神様に聞かせるべき時です。皆さんの声を、皆さんの祈りを。神様は皆さんの声を聞かれるんですね。そしてやがて神様が聞いてくださり、そして今度は神様に聞く預言者を皆さんに与えてくださいます。私たちも今、ティーチ・ザ・トゥルース・インターナショナル・アカデミーを通して、この小学校一年生の子どもたち、放課後学校を通して神様のお言葉を口ずさむ子どもを養うということを今これからしようとしております。その子どもたち、やがて神様のお声を聞くようになっていくでしょう。今はまだ私たちには与えられておりません。今はですから、皆さんは熱心に神様にお声を聞かせるべき時です。皆さんの祈りの声、皆さんの賛美の声を神様に聞かせる。サムエル、聞かせるべき時、そして皆さんも神様の声を聞くべきです。サムエルのように神様の声を聞いて、そして本当にこの今この時代、主の弟子を神様求めておられます。弟子となっていくべきなんです。

イザヤ50:4にこう書いてあります。「神である主は私に弟子の舌を与え、疲れた者を言葉で励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」アーメン。主は朝ごとに呼び覚まし、そして私たちのこの耳を開かせて、耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。

弟子というものは聞くべきものです。しもべは聞くべきものです。このしもべというものは、耳と非常に深く関わっておりますね。律法の中で、もし、家のしもべがずっと主人の家に仕えたいというのであるならば、そのしもべの耳を、その家の柱に、針で通しなさい。そうすれば、そのしもべはその家の主人の家で生涯仕えることができると書いてあります。皆さんは主のしもべです。皆さんの耳は本当にこの主の宮に、貫き通して主の宮と皆さんの耳を一体化させるべきなんです。するならば皆様は生涯主に仕えることができるようになります。耳としもべ。これは非常に関わりがあることです。皆さんは耳を主に捧げましょう。

このサムエルに対して主が語られました。「サムエル、サムエル。」そしたらサムエルは「主よ、お語りください。しもべは聞いております」と言いました。この時、サムエルに語られた主の言葉ですね、エリの家に対する裁きの厳しい預言でした。到底、この大祭司様に、この主から与えられた言葉を語るのは恐れ多い、多すぎるような、そういうことを、少年サムエルに神様お語りになりました。

そしてサムエルはこの主からの、恐れ多い言葉、もうエリに言ったらどうなるかわからないような、そういう言葉でしたけれども、しかしエリは、18節で見ますと、「サムエルはエリに対して一言も隠さず、すべてを告げた」ことが書いてあるんですね。一つも漏らさず。主からのお言葉を聞いたサムエルは、それをそのままエリに伝えました。

これは預言者としてとてつもなく素晴らしい性質です。皆さんも主からお言葉をいただいたのであるならば、それを一言も漏らさずに告げるべきです。聞いたならば、それをそのまま人々に告げること。これが本当に素晴らしい預言者の嗜みです。サムエルは神に聞かれたものでした。

今日、皆さんもそうですね。皆さんの祈りは聞かれています。皆さんの涙も聞かれております。皆さんの本当に周囲に向かっての、本当に心からの願い、主は聞いておられます。

ハンナの祈りを主は聞かれたように、皆さんも本当にこのハンナのように、もう傍から見れば酔っ払いなんじゃないかって思えるような、それほどの熱心な祈りをするべきです。そしたら主は皆さんにサムエルを与えてくださいます。

時代を変える預言者、主から聞いて、この耳を捧げる、そのような素晴らしい次世代、これを与えてくださるまで、皆さんは祈り続けましょう。

今、皆さんが聞く番です。皆さんもサムエルのように主に語ってください。「しもべは聞いております」。この嗜みを日ごと主の御前に捧げて、皆さんの耳を主に捧げ、聞く嗜みを主に捧げて、主に喜ばれる次世代を、この時代、生み出していく皆さんでありますように。

聞いたからには、これからその御言葉通りに行うこと。また聞いた通りに人に伝えること。これをしっかりと私たちもサムエルのごとくしていくことができますように。

また、今お子が与えられていない今は、ハンナのごとく主に聞かせる祈り、熱心に捧げることができますように。時代が悪い時代だからです。こんな悪い時代に、主は預言者を呼び起こしました。モーセの時代も、イザヤの時代も、エレミヤの時も、またサムエルの時も、本当に主の言葉が廃れている。そのような悪い時代、人々が主に聞かない、自分の欲望のままに生きる。そういう時代にサムエルを遣わされたごとく、主よ、どうかここにいる一人一人を遣わしてください。

【結論】

霊的に衰退した時代において、神様は祈りを聞く主であり、また私たちに聞くことを求めておられる。サムエルの母ハンナの祈りによって与えられた子が、やがて神の声を聞く預言者として召し出されたように、私たちも耳という最上の捧げ物を主に捧げ、「お話しください。しもべは聞いております」という姿勢で主の御前に進み出るべきである。小さな従順を積み重ねることで、やがて大きな従順をいただくようになる。主のために働く働き人を今も探し求めておられる主に応答し、聞いた御言葉を一言も漏らさず告げる預言者として立つことが求められている。母の祈りが次世代を神に聞く者として育て、時代を変える働き人を生み出すことを信じて、熱心に祈り続けるべきである。

能力ゆえに主から選ばれたのではなく生まれる前から主に選ばれていた(エレミヤ1章) 早天祈祷会 2026年2月19日(Thu)

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【概要】

エレミヤ書1章から、主に召された働き人として遣わされる者への約束と権威について学びます。主は私たちが生まれる前から召しておられ、遣わされた先で必要なすべてのもの―言葉、力、権威、守り―を備えてくださいます。

【聖書箇所】

  • エレミヤ1:5-10

  • エレミヤ1:18-19

  • マタイ28:18-20

【励ましの言葉】

  • 主は私たちが母の胎内に形作られる前から召し、知っておられる

  • 主は遣わされた先で必要なすべてを備えてくださる

  • 主ご自身が先に行かれ、勝利しておられる

  • 私たちは城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とされる

【勧めの言葉】

  • 自分の足りなさを主に申し上げ、主に委ねる

  • 御霊の風を察知し、その導きに従って進む

  • 主が「行きなさい」と言われるならば、恐れずに進み出る

  • 天においても地においても一切の権威を持つイエス様から遣わされた全権大使として歩む

【AIによる文字起こし】

今朝、恵みをいただく御言葉はエレミヤ書の1章です。

まず、皆さんと共にエレミヤ1章9節と10節を宣言したいと思います。

「その時、主は御手を伸ばして私の口に触れ、主は私に仰せられた。今、私の言葉をあなたの口に授けた。見よ、私は今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいは壊し、あるいは建て、また植えさせる。」(エレミヤ1:9-10)

アーメン。

イエス様が生きて働かれるということを皆さんは実感しているでしょうか。アーメン。生きて働かれていますね。その恵み、その実態を日々、皆さんは体験していますね。特につくばみらいの地において、これから子どもたちに言葉の手順を教えていく、その準備をする上で、一歩一歩必要な道のりを示してもらえるんですね。

私たちが将来のことを考えようとするとき、IBMにいた頃は、WBS(ワークブレイクダウンストラクチャー)というのを作って、やることリストを縦軸にして、横軸に時間を決めて、そして担当者を決めて、何日までにここのマイルストーンをこなして、ここまでは何をして、そのためには誰と誰がここをしなきゃいけなくて、期日何日までにもしできてなかったら上司に相談してとか、そういう形で仕切って作ってやっておりました。

けれども、このつくばみらいの働きにおいて、また本当にこの10年、このイエス様の働きをしていく上で、自分の人間の計画をきちきちやっていくと、途端にサウルの防具みたいに窮屈になって、息苦しくなって、御霊の動きが自由にできない、そういうことを感じました。だから、もう主に全部お委ねしていったところ、主がその都度その都度「これをしなさい」「これが今するべきことだよ」「あなた、今そのことを心配する時じゃないよ」というのが分かるようになってきたんですね。

御霊に導かれる人というのは、本当にこの聖霊の風を受けて、帆船のように、風を受けて進んでいく。それが御霊に導かれる人のコツです。聖霊は風とも訳されますね。ギリシャ語ではプニューマ、ヘブライ語ではルアハ。これは風です。私たちはこの御霊の風をよく察知して、そしてウィンドサーフィンのごとく、この御霊の風が今吹いたならば、今帆を上げる。御霊の風が吹かないならば、そこにとどまればよし。この御霊の導きに従って進んでいくというのが、この御霊に導かれる主の働き人の進むべき条件ですね。自分の計画ではなく、主の御霊の吹く風のままに進んでいくということ、これが本当に私たちの行くべき道です。

今日の箇所、エレミヤですね。主の召命シリーズと言いますか、主に呼び出された働き人のシリーズを昨日からやっております。昨日はイザヤであったり、モーセであったりしました。今朝はエレミヤです。

そして今週、特に学んでいることは、主がわずか5つのパンと2匹の魚で5000人以上を養われたということを、福音書から一つ一つ見ていきました。そこから分かることは、主が必要を満たしてくださるということですね。主が「あなた方が働きなさい」と言われたならば、働く人々の前に行ってパンを裂いて配りなさいと言われれば配る。足りないという心配をしなくてよろしい。主が言われるのであるならばする、ということでした。主は皆さんの必要を満たしてくださり、皆さんが主のために働く必要をすべて満たしてくださるお方です。

今日の箇所において、主の働き人エレミヤが召し出されました。共通していることは「私があなたと共に行く」ということですね。そして特にこのエレミヤに対して共通していること、それは主ご自身がそのエレミヤの口に御手を触れて、そして「私があなたに言葉を授けたよ」ということなんですね。

主はこのエレミヤに対して、いつエレミヤをこの国々の預言者として立てたのか。5節にはこう書いてあります。

「私はあなたを胎内に形作る前からあなたを知り、あなたが腹から出る前からあなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」(エレミヤ1:5)

アーメン。もうお母さんの体内に宿る前からなんですね。もうすでにエレミヤがこの時代、主の言葉を取り次ぐ預言者として主ご自身が任命しておられました。であるからには、皆さんの一人一人も、皆さんのお母さんの胎内に形作られる前から、もう主は皆さんのことを目に留めておられて、主の働きをするように、神の国のために任命しておられたということが分かります。

皆さん、恐れてはなりません。皆さんは、皆さんのお母さんの胎内に形作られる前からも主に覚えられていたんです。だから、皆さんは恐れる必要はないんですね。

けれども、エレミヤは6節で言うんです。

「そこで私は言った。ああ、神、主よ。ご覧の通り、私はまだ若くて、どう語っていいか分かりません。」(エレミヤ1:6)

エレミヤは、主から「私はあなたを遣わす」と言われて、その時即座に感じたこと、それは自分の足りなさでした。自分の不足です。本当に主の働きをする上で感じるのは足りなさです。弟子たちも、パンがこれしかありません、と足りなさを感じましたね。

皆さん、足りないと感じた時、その足りなさを主に持っていけばいいんですね。「主よ、今、私の手元にはこれしかありません。5つのパンと2匹の魚しかありませんが、あなたは5000人を食べさせるというのですか。どうしたらいいんですか。」そしたら主が祝福して裂いてくださって、「これを配りなさい」と。したら、裂いても裂いてもなくならないパンでもって5000人を養うことができました。

このエレミヤもまた「自分は足りません」「私はご覧の通り若くて、どう語っていいのか分かりません」と言うんですね。自分は若い、経験がない、語る力もない、人々に受け入れられないかもしれない。けれども、そういうふうに主に申し上げるということをするのであるならばいいんです。

良くないのは、自分は足りないと言って、そして主から離れてしまって、何もしない。タラントを地面に埋めてしまうようなこと、これが一番良くないことです。けれども、皆さんが少なくとも主に「私は足りません」と主に申し上げる、主とコミュニケーションする、主に報告、連絡、相談する、これが皆さんのするべきことなんですね。するならば主が、皆さんにとって必要なことを授けてくださいます。

7節を見ますと、

「すると主は私に仰せられた。まだ若い、と言うな。私があなたを遣わす、どんなところへでも行き、私があなたに命じるすべてのことを語れ。」(エレミヤ1:7)

アーメン。ですから、主は、ただ単に「あなた行け」というだけじゃないですね。過酷な上司みたいに「営業に行ってこい。行けばもう後はなんとかなるから」というような、ただ単に突き放すだけではなく、主は行った先々において必要なすべてのもの、こと、権威、力、威力、言葉を授けてくださるんです。

主ご自身が、主は皆さんの能力を見て皆さんを召したのではないんです。皆さんに何か力があるとか、トーク力があるとか、そういったことを主が見て「お、こいつはトーク力があるから遣わそう」ということじゃなくて、もう皆さんが生まれる前から召しておられますね。主は能力を見て召されるのでなく、主が一方的に召してくださった。だから私たちはただ遣わされていくのみなんですね。遣わすのは主、遣わした先でことを行うのも主。そして私たちの役割は、ただ主が遣わされたところへと足を運んでいくことだけです。アーメン。

行けと言われるのであるならば、私たちは足を使っていくこと、これが私たちの役割です。その場所、場所において語るべき言葉を備えるのは主であり、また働くべき働きをされるのも主です。私たちはただ、役割としては、主が遣わされたところへ足を用いていくということですね。

しかも、行った先における保証付きなんですね。保証があります。8節と9節にはそう書いてあります。どんな保証があるのか。じゃあちょっとみんなで一緒に8節と9節を宣言します。

「彼らの顔を恐れるな。私はあなたと共にいて、あなたを救い出すからだ。―主の御告げ― その時、主は御手を伸ばして私の口に触れ、主は私に仰せられた。今、私の言葉をあなたの口に授けた。」(エレミヤ1:8-9)

アーメン。主はなんと手を伸ばしてエレミヤの口に触れてくださいました。イザヤと一緒ですね。主は遣わした先において、皆さんに何もしないのではありません。皆さん、自力でなんとかしなさいではなく、主ご自身が、ちゃんと行った先において、皆さんがするべきことを、その対処方法を教えておられ、また何を語るべきか、もう主が口に触れてくださって、そして語るべき言葉を授けてくださったんです。そして皆さんがそれを成し遂げるに値する力を与え、権威を与え、そして守りも与えてくださるということが分かるんですね。

主はどれほどの権威を、力を帯びさせてくださるのか。10節も皆さんと一緒に宣言します。

「見よ、私は今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいは壊し、あるいは建て、また植えさせる。」(エレミヤ1:10)

アーメン。「あなたを諸国の民と王国の上に任命し」と書いてありますね。主から遣わされた者の方が王より上なんです。この世の権威、今、日本国の権力、いろいろありますけれども、主が遣わされるのであるならば、その諸々の権威よりも皆さんの方が上として、主が権威を授けてくださるんです。

しかも、「あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいは壊し」、この主に逆らう諸々の制度、諸々の威力、力、そうしたもの諸々を引き抜き、引き倒し、壊し、そしてなおかつ建て上げて、また植えさせる。この権威を与えているんですね。

皆さんが行く先々において、いろいろな困難、課題、もろもろあるかもしれません。しかし、主が皆さんを召し出してくださるのであるならば、皆さんはその上に位置するんです。このことを忘ってはならないんです。

この時、エレミヤに遣わされますけれども、しかし語る、行くのはエレミヤですが、その口に授けた言葉は主のものです。皆さん、これから子どもたちにテフィリン、神の言葉を口移しで教えていくんですけども、御言葉は主です。ことを行うのは主。私たちはただそれに乗っかっていくものです。

私たちは「主を、主を、我を導きたまえ」というふうに賛美しつつ祈っておりますね。我を導くのは主。皆さんでというよりも主です。皆さんの子育てスキルだとか、そうした子どもに対しての皆さんの愛情、まあどれほどあるでしょうかね。それではなくて、主が子どもたちを導く。皆さん、それに乗っかる。これが皆さんの役割です。だから「恐れるな」ということが書いてあるんですね。

本当に口に主が言葉を授けてくださる。モーセに対してもそうでした。モーセは、出エジプト記4章において、主がモーセを召し出す時、モーセは「私、口べたです」と言うんですけども、「誰があなたに口を授けたのか。誰が人を喋れるようにしたり、黙らせたりするのか、私ではないか。さあ、行きなさい。あなたの口と共に私があるからだ」と言われます。

イザヤに対してもそうでした。昨日のメッセージで、このイザヤの口に、本当にイザヤは自分が唇が汚れた者だ、もう罪を犯すような者だと。それに対して、この主がセラフィムを遣わして、祭壇の炭火をイザヤの口に当てて、そして「見よ、これがあなたを清めた。あなたはこれによって贖われた」と。そしてイザヤは主からの召命のチャレンジ、「誰を遣わそうか、誰が我々のために行くだろうか」という、この主の切実な働き人への求めに対して、イザヤは答えました。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」このように、主から清められて用いられていくイザヤのような働き人もおり、またエレミヤのように、もう生まれる前から働き人として召命されて、今、この時生きなさいと言われる人もおります。

いずれも主ご自身が働かれて、そして皆さんはその働きに乗っかることができるんですね。

確かに行く先々においては、平坦な楽な道ではありません。行く先々においては、戦わなくてはならないことが確かにあります。けれども、この行く先々において、権威、力、威力を帯びさせてくださるのは主です。

このエレミヤの時代は、もう本当に世の中こぞって不信仰な世代になってしまっておりました。今の日本も、主に反逆するというよりも、主を知らないまま、ずっと何百年も過ぎているのがこの国ですね。主を知らない、この世代の中に皆さんが遣わされていくにあたって、このエレミヤのように、主ご自身が派遣してくださるのであるならば、主はその派遣先で必要な力、権威、威力、知恵、そして語るべき言葉を授けてくださるんです。恐れる必要はないんですね。

さらに、今度は18節、19節を皆さんで宣言します。18節からです。

「見よ、私は今日、あなたを全国に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。だから彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。私があなたと共にいて―主の御告げ―あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ1:18-19)

アーメン。「私があなたと共にいる。」「あなたを城壁のある町とする。」エレミヤに対して、「あなたは城壁の町だよ」「エレミヤに対して、あなたは鉄の柱だよ」「エレミヤに対して、あなたは青銅の城壁だよ」というふうにした。そういうふうにしたと18節に書いてありますね。すごいですね。堅固な城壁になったんです。エレミヤが。

それと同じように、皆さんもそのようにしてくださる、この主の力が今この時代働いていることを信じるでしょうか。アーメン。そうです。不信仰な世代であればあるほど、本当に主は皆さんを、それよりもより堅固な城壁にしてくださり、鉄の柱にしてくださるんです。

「だから彼らがあなたと戦っても、彼らはあなたには勝てない」と。19節で、「主の御告げ」と言って宣言してくださいました。「主の御告げ、あなたを救い出す」。この「救い出す」、イエスはイエス様と同じ語源です。今の時代、イエス様が皆さんを救い出します。

イエス様、今この時代、皆さんに対して、「全世界に出て行って、福音を宣べ伝えなさい。見よ、私は世の終わりまでいつもあなたと共にいる。」マタイの福音書の一番最後で宣言されましたね。このイエス様、どれほどの権威を持っているか。イエス様は言われたのは、

「私は天においても地においても一切の権威が与えられています。」(マタイ28:18)

アーメン。書いてありますよ。マタイ28章18節に。イエス様は、天においても地においても一切の権威が与えられている。「この私があなたを遣わすのだ。あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また私があなた方に命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたと共にいる。」

アーメン。エレミヤの時代もそうでした。今この時代の皆さんも同じです。主がいつも伴われます。そして「行け」と言われます。行った先々で必要なことを行うだけの力、権威、威力、尊厳、勢いを与えているから。必要なお金も、必要な物事も、また必要な人ももうすでに主が与えておられます。

だから私たちは、主が「行きなさい」と言われるのであるならば、進んで進んで、三国の勇士として進んで、そこを勝ち取っていくだけでいいんです。主はもうすでに先に行って、そこを勝利しておられます。アドナイ・パニーム・ハーラクと宣言しておりました。主ご自身が先に行って、そこを占領しているゆえに、私はただ行くだけ。アーメン。

どうか皆さん、この時代において、本当にこのエレミヤのように、すべてが備えられた者として恐れず進みゆき、そしてこの敵を勝ち取り、この時代、栄光の時代を立て上げる。またこの時代、本当にこの主の働き人として多くの魂たちを勝ち取り、またよくない業は、それを本当に良い主の業と塗り替える、その働きをしていく皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。

【結論】

主は私たちを母の胎内に形作られる前から召し、知っておられました。主が遣わされるのであるならば、行く先々で必要な言葉、力、権威、知恵、守り、すべてを備えてくださいます。私たちは自分の足りなさを感じても、それを主に申し上げ、主の導きに従って進むだけです。主ご自身が先に行かれ、すでに勝利しておられます。天においても地においても一切の権威を持つイエス様から遣わされた者として、恐れることなく、主の御国を拡大していく働き人として歩みましょう。

神の働きのための整え - 脱ぐべき靴と清められるべき唇(- 出エジプト3:5) 水曜夜礼拝

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【概要】

聖なる召命の前に、モーセは靴を脱ぎ、イザヤは唇を清めらた。 私達も、神の国の働きをする前に必ず通る通過儀礼がある。 それは、私達が世を渡り歩いてきた時に付着した、心の汚れ、世的な立場、自らの力、じっとしていない唇、主義主張などなど…。 そうした「くつ」を脱ぎ捨てるなら、ようやく主の御前に有用な働き人になれる。

【聖書箇所】

  • 出エジプト3:5

  • イザヤ6章(祭壇の炭火による清め)

  • ヨハネ1章(御言葉なるキリスト)

  • エペソ1:14(贖いと罪の赦し)

  • 伝道者5:1-3

  • ヤコブ1:19(聞くに早く、語るに遅く)

【戒めの言葉】

  • 神の宮に行く時は軽々しく心焦って言葉を出してはならない

  • 聞く耳を持たずに礼拝に出席するなら、愚かな生贄を捧げることになる

  • 多すぎる言葉は愚かな者の声となる

【勧めの言葉】

  • 神の御前に進み出る時、脱ぐべき靴(汚れ、立場、力)を脱ぎなさい

  • イエス・キリストの御言葉を口に当て、唇を清めなさい

  • 聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くありなさい

【悔い改めの促しの言葉】

  • 十字架の前に自分自身の罪をすべて書き出す必要がある

  • 高ぶり、偽り、嘘を脱ぎ捨て、焼き尽くされるべきである

  • 砕かれた魂、砕かれた悔いた心を神に捧げよ

【AIによる文字起こし】

今晩、恵みをいただく御言葉は出エジプト記3章5節です。皆さんで一緒に宣言しましょう。「神は仰せられた。ここに近づいてはいけない。あなたの足の靴を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」

お昼の礼拝においては、預言者イザヤが召命を受けた場面を見ました。「主よ、私がここにおります。どうぞ私を遣わしてください」と。祭壇の炭火を持って清められたイザヤの姿です。

今晩は、モーセが神様から呼び出された場面を見てみたいと思います。私たちが本当にこの神様の働きをする上で、いかに整えられるべきか。これから子供たちにこの聖書教育に御言葉を教育する、聖書教育をしていく、それにあたり、今、私たちがまさに整えられなくてはならないからです。今日もその私たち自身の整えのために、この出エジプト記3章5節から見ていきます。

まず神様がモーセに現れて、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と、神様自身、自分がどの神であるのかをはっきりと宣言されました。モーセはそれを恐れて顔を伏せるのですが、そのモーセに対して言うのです。「ここに近づいてはいけない。あなたの足の靴を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」

この神様の御前に進み出ること、これは日常生活の延長ではないのです。しっかりと脱ぎ捨てるべきものがあるのです。なぜなら神様の御前、この礼拝という場は聖なる場所だからです。本当にこの場所、この説教台に立つ時、もう十年以上ずっとずっと、いつも恐れがあります。神様のお言葉を取り次ぐに果たしてふさわしい者であるかどうか。ですから、この礼拝の前にしっかりと祈って、神様の前に立つのにふさわしい者にして、どうか十字架の血潮をもって清めてくださいと、いつも祈っております。

このモーセに対して、モーセをこの主の働きのために招く、その真っ先に主が言われたのが「靴を脱げ」ということだったのです。私たちも神様の御前に進み出る時、あるいは神様の働きに進み出る時、脱ぎ捨てるべきものがあるのです。

イザヤの場合、この主が圧倒的な臨在をもって、まずイザヤにその圧倒的な臨在をもって臨みました。イザヤをこの主の働きに任じる、その直前に、主はまず全くもって、このイザヤ自身のその足りなさ、汚れ、それを徹底的に示されました。神様の圧倒的な聖なる様を前にイザヤは絶望しました。ああ、自分は唇の汚れた者だと。真っ先に示されたのが唇が汚れた者ということでした。

イザヤ自身、それまで預言者として活動してきたのです。神様のお言葉を人々に取り次ぐ、その聖なる務めをしてきたイザヤでしたけれども、しかし自分は罪がある。唇が汚れた者、汚れた者にもかかわらず、神様のお言葉を伝えてきたんだ。徹底的に打ちのめされる。そしてイザヤ自身も自分は唇の汚れた民の間に住んでいる者だということを、それを示されて、ああ、もう自分はダメだ、絶望だ、滅びる以外にはないんだ、とイザヤ自身打ちのめされました。

けれども、イザヤの唇に祭壇の燃え盛る炭がイザヤの口に当てられました。口に当てられて、そしてその燃える炭が与えられた。彼は言われました。「これがあなたの口に当てられたので、あなたの罪は清められ、あなたの咎が覆われた」と、そういうふうに言われました。イザヤはその時、口に火傷を負うのではありませんでした。なぜでしょうね。もう燃え盛る炭火が置かれたら火傷する以外ないのですけど、しかし、イザヤの口は平気でした。

なぜ?そもそも祭壇の中に一体何が燃やされているのか。それはこのイザヤの身代わりに、そして私たち人類、私たち罪ある人間の身代わりに犠牲になった動物が、その祭壇の中で焼かれております。今の私たちにとっての祭壇の炭で焼かれている犠牲はイエス様です。イエス様が私たちの身代わりになって、炭火で焼かれております。イザヤの身代わりとなって動物が焼かれて、そしてそのイザヤが本来焼かれるべきである、その身代わりの動物が焼かれた。

私たちの身代わりとなって、十字架の上にかかって処罰を受けてくださったお方、イエス様。このイエス様をこの唇に当てて、御言葉なるイエス様、イエス様はお言葉なるお方であるとヨハネ1章に書いてあります。その言葉を私たちのこの唇に当てて、この唇からイエス様のお言葉を出して、イエス様を口ずさんで、イエス様を賛美して、そうしてこそ私たちも清められていくのです。ですから、本当にこの神様の働きをする前に、まず唇が神様の言葉で満ちるべきなのです。

私たちのこの口、色々と汚れがあります。人間の間に住んでいると、また神様抜きで生活していると、この口からはつぶやきが出たり、批判が出たり、高ぶりの言葉が出たり、嘘偽りが時にはペロッと出てしまったり、軽率な発言によって人を傷つけ、また軽率な言葉によってこの神様の宮を汚してしまったり、礼拝の場に軽率な言葉を声高に口走ることによって、礼拝者の他の礼拝者の心を害してしまったりですね。そういう軽率な言葉、これをこそ私たちは慎むべきなのです。この口はイエス様の言葉を当てるべきなのです。

主は言われました。私たちのこの唇からは心で満ちているものが口から出てくるのです、と。本当に私たちの唇は、私たちの内側の状態を映し出す鏡です。だからこそ、イザヤの唇が祭壇の炭火で清められる必要があったのです。この真の言葉であられるイエス様を私たちもしっかりと口から口ずさみ、イエス様の御言葉をもって、折にかなった助けをもって人を養うべき口となるべきです。

この真の言葉はイエス様が私たちの口に当てられることによって私たちは贖われて罪の赦しを受けるのです。エペソ1章14節に書いてあるのは、「この御子にあって私たちは贖い、すなわち罪の赦しを得ています」と書いてあります。イエス様にあって、御子イエス様によって贖い、罪の赦しを得られる。だから私たちはこのイエス様が必要なのです。働きにおいて、またこの唇を清めるにおいて、唇が清められたい方、ぜひイエス様のお言葉、これを口から出しましょう。イエス様の言葉をいつも口に備えましょう。そして、皆さん自身がどんどん清められていくのであるならば、主は皆さんをこの主の働きに任じて、「ここに私がおります。主、私を行かせてください、私を用いてください」という、その主の御用に間に合う者になっていくのです。

さて、モーセのことですけども、モーセは靴を脱ぎなさいというふうに言われましたね。神様の前に立つ備えであり、そしてそこは聖なる場所だから、この汚れた世の塵をいっぱいつけて回った靴、これ脱ぐべきだと示されたのですけども、では私たちにとって脱ぐべき靴というものは一体何でしょうか。礼拝の御前に進み出るにおいて、主の御前に進み出るにおいて、そして主の清らかな聖なる働きに繰り出すにあたって脱ぐべき靴。

まず私たち自身の汚れを脱ぐべきです。脱ぐべき靴の、その一、私たちの汚れです。また自分の立場。その二、私たち自身が世の中で身につけたいろんなステータスだとか立場だとかネーミングだとかありますけど、そうした立場も脱ぐべきです。神様の前に世の中で身につけてきた立場は一切関係がないからです。そして3つ目。私たち自身の力を脱ぐことです。

脱ぐべき、一つ目は私たちの汚れ、2つ目は私たちの立場、3つ目は私たちの力。これを脱いで、そして主の御前に進み出て、また世の中に派遣され、主の働きをしていくべきなのです。これら三つを身につけているとですね、例えば、汚れたままで子供伝道はいけないですね。口、唇が汚れたままだったら、もう意図しない言葉、軽率な言葉で人を傷つけてね。子供は特に敏感ですからね。この唇、汚れはしっかりと脱ぎ捨てるべきであり、またね、私たち、今までこの世の中で培ってきた諸々、これがかえって邪魔をしてしまうこともあります。

主の御前において本当に清らかな、ただ御言葉のみ、この祭壇の炭火、イエス様のみに焦点を当てて、私たちの思い、心は清められた立場でもって、そしてこの主の働きに進み出るべきであり、また私たち自身の勢いだとか力余りだとか、そうしたもろもろでやってしまうと、いろいろと障害が発生してしまいます。ですから、まず脱ぐべき靴。これをしっかりと脱いで、そしてこの主の働きへと進み出るべきです。

主の御前においては、私たちの力も立場も経験も通用しません。ただ、主がなさるから、主が導かれるから、私たちは進み行くことができ、また働きに従事することができるのです。

伝道者の書5章にこういうふうに書いてあります。伝道者5:1にはこう書いてあります。「神の宮へ行く時は、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者が生贄を捧げるのに勝る。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。神の前では軽々しく心焦って言葉を出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから言葉を少なくせよ。」

本当に主の宮、主を礼拝する場面においては、特にこの唇の言葉、心焦った言葉を出すなというふうに、ここに書かれてあります。この礼拝の場において、礼拝者を通して語られる神様の御言葉に耳を傾けること、これが一番の生贄ではあるのですけども、しかし、この御言葉を思い巡らすではなく、自分の口で口走ってしまって、他の礼拝者たちがちょっとってなりますね。礼拝中に誰か一人が声高に何かブツブツブツブツ言っていたら、皆さん耳障りですね。礼拝中、主の宮において心焦って唇に言葉を出すな、2節に書いてあります。だから言葉を少なくせよ。

私たちは礼拝に来る時、本当に準備するべきもの、それはよく聞く耳を準備するべきであって、自分の意見、自分の考え、自分の計画、自分の主張は、そうした靴はしっかりと脱いでからこの礼拝の場面に入るべきであり、また主の働きの前に、その整えとして、こうした自分の軽率な言葉や、また自分の思い、自分の計画、自分の立場、自分の主張、主義、そうしたもろもろを脱ぎ捨てるべきです。

でないと、この神様の言葉が語られた時に、もし主義主張を持って言葉を聞いたならば、「いや、それ違う、私それ嫌だ」ってなってしまいますね。だから、この主の御前に進み出る時においては、そうした靴、自分の主義主張という靴、これはしっかりと脱ぎ捨ててから主の御前に進み出るべきです。聞く準備なしで礼拝に出るとするならば、それは愚かな生贄を捧げるということになってしまいます。

この5章1節のところ、「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよう」。足の靴をしっかりと脱ぐべきであり、「近寄って聞くことは、愚かな者が生贄を捧げるのに勝る」と日本語の聖書が書いてあるのですけども、英語の聖書では、愚かな生贄を捧げないために近寄って聞けというふうにも訳されるのです。愚かな生贄を捧げるようなことがないために、近寄って聞くようにしなさい、自分の足に気をつけなさいですから。聞く耳持たずで礼拝に出席するとするならば、愚かな生贄を捧げることになってしまい、その愚かな生贄が神様の気分を害し、礼拝者の気分を害してしまう。だから、よく聞く耳をしっかりと準備して、また自分の本当に高ぶる意見、主義、主張、これはしっかりとそうした靴は脱ぎ捨てて、礼拝に、また主の働きに進み出るべきなのです。

主は私たちの多くの言葉で、ベラベラベラベラしゃべることを望んでおられません。主はむしろ多くの言葉をしゃべるよりも、へりくだった耳、へりくだって聞く耳を主は求めておられるのです。

さらに、この伝道者の書5:3にはこう書いてあります。「仕事が多いと夢を見る。言葉が多いと愚かな者の声となる。」ここにも、脱ぎ捨てるべき二つの靴が、この伝道者5:3にありました。その一つ目、それは自分の夢、自分発の夢です。夢が多いと、仕事が多いと夢を見るって書いてあるのですけども、あれをしよう、これを成し遂げよう、そうした神様抜きであれしよう、これしようというそうした夢。もちろん主から与えられたビジョンは尊いものではあるのですけど、しかし、夢というものが主からの夢ではなく、自分の野心だとか、自分の心からの欲望から出た、そうした諸々の夢、それを外されたまま進み出るとするならば、それは良くない礼拝になってしまいます。このまず自分由来の夢という靴。これは脱ぎ捨てるべきです。

で、もう一つ。後半では「言葉が多いと愚かな者の声となる」ってありますね。多すぎる言葉。これが二番目の脱ぐべき靴。この伝道者5:3にある示された2つ目の靴です。多すぎる言葉。語ることに熱心で、聞くことには鈍い心で、主の御言葉を宣言する時、なかなか御言葉の宣言がうまくいかないという時は、頭の中に非常に夢がごちゃいっぱい入ってしまっていて、聞く耳が全くもって詰まりに詰まってしまっている状態だと、宣言がなかなかうまくいかないです。語ること、唇で語ることに熱心で、また自分のビジョン、夢で頭の中が煮詰まっているとするならば、本当に神様の言葉がスムーズに入ってこないし、スムーズに出てこないことになってしまいます。

ヤコブ1:19は言います。「聞くには早く、語るに遅く、怒るに遅いようにしなさい」と書いてあります。聞くには早くしなさい。語るには遅くしなさい。怒るのには遅くしなさい。これが本当に私たちも必要です。あれをしよう、これをしよう。そうした夢、そうした諸々は、本当に私たちはそうした靴を脱ぎ捨て、またこの多すぎる言葉という靴も脱ぎ捨てる。そして私たちは主の御前に進み出ていくべきなのです。

ですから、清められた者に対してこそ、主は正当に御前に進めていることができ、そして主の働きを正当に招き入れることができるようになる。そのようになっていくのです。靴を脱ぎ捨て、またこの唇の汚れが清められ、そしてこそ主は招きをするのです。

モーセに対しては、この出エジプト3:10において、「さあ行け。私はあなたをパロのもとに遣わす」。モーセは靴を脱いで御前にへりくだった心で進み出た結果、パロのもとに遣わすという召命が与えられました。世に対して遣わす。イザヤは、この祭壇の炭火で口が清められた時に、「主よ、ここに私がおります。私を遣わしてください」と言いました。それは主の招きの声、いや、主のうめきの声、「誰を遣わそうか、誰が我々のために行ってくれるだろうか」という主の声を聞いたからです。清められたイザヤ、そういうふうに、ここに私がおります、私を遣わしてください、そういうふうに言うことができたのです。

ですから、皆さん、いろいろな使命、皆さんの目の前にあると思います。けれども、皆さん、使命の前に、まず清めです。使命の前に脱ぐべき靴があります。使命の前に清められるべき口があります。清めが先、使命がその後、主は清められた者を用いられるからです。

私たちは、ですから、本当にこの十字架の前に自分自身の罪をすべて書き出す必要があります。十字架という祭壇で、主は犠牲になってくださいました。その犠牲となった主をこの口に当て、イエス・キリストをこの口に食べて、イエス・キリストの御言葉である、イエス・キリストをこの口から宣言して、そしてどんどん清められていくのであるならば、皆さんも主の働きにふさわしい者として大いに用いられる者になっていくのです。

この十字架という祭壇、そこは聖なる地です。そこでは靴を脱ぐべきであり、高ぶりは脱ぎ捨てられ、また偽り、嘘、偽りは焼き尽くされ、またたくさん口からベラベラとしゃべってしまう口は、本当にこの沈黙に変えられて、また高ぶった野心、これはへりくだられて、清められて、そして主の御前において用いられるような者になることができるのです。神への生贄は砕かれた魂、砕かれた悔いた心。神様はそれを蔑まれません。本当に私たちは、主の働きに出る時においては、脱ぐべき靴を脱ぎ、また清められるべき唇を清めていただき、そして本当にこのもはや自分の野心、自分の考え、主義、主張、これは全部降ろして、そうした靴を脱いで、そしてこの十字架の血潮でもって清められ、それでこそ主の働きに勤しむことができるようになります。

今、私たちはこの唇を清めていただきましょう。また本当に今までの自分の野心だとか、自分の夢だとか、そうした諸々の靴は脱ぎ捨てましょう。そして主の御前に進み出る時、主の御声が聞こえるのです。「誰を遣わそうか。誰が我々のために行くだろうか。」皆さんはこの本当に脱ぐべき靴を脱ぎ、また清められるべき唇で清めていただき、そしてこの主の働きに従事するに値する者とされ、そして大いに主の働きをしていく皆さんとなっていきますように。

【結論】

神の働きに従事するために、私たちはまず整えられる必要があります。使命の前に清めがあり、召命の前に献身があります。

脱ぐべき三つの靴:

  1. 私たちの汚れ

  2. 私たちの立場(世的なステータス)

  3. 私たちの力(自分の野心や計画)

清められるべき唇:

  • イエス・キリストという祭壇の炭火を口に当てる

  • 御言葉なるキリストを口ずさみ、宣言する

  • 聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くする

十字架という聖なる祭壇の前で、砕かれた魂と悔いた心をもって進み出る時、主は「さあ行け」と私たちを遣わしてくださいます。清められた者こそが、主の働きにふさわしい者として大いに用いられるのです。

 

主の働きをする者が通るべき通過儀礼:くちびるの清め(イザヤ6:1-8) 水曜昼礼拝

Youtube動画

【概要】

預言者イザヤが神殿で主の聖なる臨在に触れ、自らの唇の汚れを示され、祭壇の炭火によって清められた後、主の召命に応答して「私を遣わしてください」と宣言するまでの過程を通して、主に仕える者に求められる清さと備えについて学びます。

【聖書箇所】

イザヤ6:1-8

【悔い改めの促しの言葉】

私たちの唇は汚れています。預言者イザヤでさえも、聖なる主の御前で「私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる」と絶望しました。私たちは自分の唇の汚れを認め、主の清めを求める必要があります。

【励ましの言葉】

祭壇の炭火、すなわち十字架で私たちの身代わりとなられたイエス様が、私たちの唇に触れてくださるなら、私たちの不義は取り去られ、罪も贖われます。御言葉を宣言する唇となるとき、主は私たちを清め、用いてくださいます。

【勧めの言葉】

御言葉を口ずさみましょう。声に出して宣言しましょう。黙読や思い巡らすだけでは唇は用いられません。口から御言葉を宣言してこそ、私たちは清められ、主の働き人として遣わされるのです。

【AIによる文字起こし】

今日、恵みをいただく御言葉はイザヤ書6章1節から8節です。初めに8節を皆さんで宣言しました。

「私は、誰を遣わそう、誰が我々のために行くだろうと言っておられる主の声を聞いたので言った。ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)

私たちはここにおります。主よ、私を遣わしてくださいと願い求める者ではありますが、しかし本当にこの遣わされるにふさわしい者が世の中において乏しいことを主は見ておられます。主よ、私たちも祭壇の炭火を持ってこの唇を清め、罪咎が清められ、そして主の御前において遣わされるにふさわしい者として整えてくださいますように。

主は本当にこの全世界に目をあまねく見渡しておられて、そして本当に人を救いたい、救いたい、私のために行ってくれる働き人は誰だろうかと見ておられます。

このイザヤ書6章は、預言者イザヤが改めて主からの召しをいただいた、証明をいただいた箇所なんですね。彼は6章になる前、確かに主の預言者として働きはしていました。けれども、改めて神様からこうもはっきりと明確に証明をいただいて、そして彼自身が「主よ、私を遣わしてください」とそのように主に申し上げたのは、ここが最初なんですね。

彼が神様から召し出される、そして彼自身がその証明を受ける、その時に一体何が起きたのか。また神様がこの主の働き人を遣わすにあたって、一体何が条件であるのか。私たちも本当につくばみらいの地に、また次代のために遣わされたいと願うんですが、では一体どのようなものが遣わされるに値する者であるのか、それを今日イザヤ書6章から見ていきたいと思います。

まず、この時代はどういう時代だったのか。1節の方を見ますと「ウジヤ王が死んだ年に」と書いてあります。当時は人々の心が神様から離れていた、そういう時代でした。神様が軽んじられ、また神殿が軽んじられ、主の宮、すなわち礼拝が軽んじられていた時代でした。

神殿というところ、主を礼拝するところが、いかに聖なる場所であるのか、このウジヤ王が体験した出来事から知ることができます。ウジヤ王という者、彼はもともと最初のうちは良い王様だったんですけども、しかし人生の後半、彼は高ぶって悪い王様になっていたということが歴代誌を見ればわかります。

彼は祭司ゼカリヤという祭司に指導を受けていた時がありました。あたかも父親であるかのように、この祭司ゼカリヤはウジヤ王を息子のようにして、神様にしっかりと従うんですよ、そしてこの神殿は軽んじられてはなりませんということを教えていました。その教えに従っていた間、彼の父親代わりの祭司が生きていた間は、本当にウジヤ王はしっかりと主に従っていたんですが、しかしやがてこのゼカリヤが死んで、そしてこの王様、どんどん栄えていきます。そして、そういうふうになっていくと、高ぶりが出てきてしまったんですね。

彼はこの祭司以外は入ってはならないとされているこの主の宮、神殿に入って、そしてこの祭壇の上に、彼自身でお香を焚こうとしたんですね。本来、この主の宮というところ、そこは神様から任命を受けた祭司しか入ってはならないはずのところ、ましてや香を焚くというこう聖なる行為、それは本当に主から特別に使命を受けた者でなくてはならないんですが、しかしウジヤは王として、その中に入って自分が直接神様とのそのやり取りをするんだということで入って香を焚こうとしました。

それを見た祭司たちが、このウジヤ王を止めるために彼の後に入っていって、そしてウジヤ王に注意をします。「王様、あなたはここに入ってはなりません。香を焚くのは祭司の務めであって、あなたはその任命を受けていないから、どうかお控えください」というふうに言うんですね。

その時、ウジヤ王はまだ打たれておりませんでした。ピンピンしていたんですけれども、しかしこの祭司の注意の言葉を聞いた途端、彼はこの心を強情にして怒って、そして無理やりに強引にお香を神様の前に焚こうとしたんですね。怒りの心を持って、無理やりに強引に。そしてその瞬間、その瞬間、ウジヤ王のこの額にツァラアトが、ライ病が現れたんです。

額、本当に自分の思い、これを成し遂げたいという思い、それがもう本当にここに出て、そしてまた頑なな思いがここに現れる。この額というところは、本当に聖書においては、そういう人のその思い、それが現れるところなんですけども、彼の強情な怒りが額に出た途端に、そこがツァラアトに侵されてしまいました。

神の御前において香を焚くという行為、また礼拝という行為、これはいかに聖なるものであるか、それが示されたところであり、そして人間のその熱心だとか、あるいは神様に自分が捧げるんだという、任命も受けていないにもかかわらず、この聖なる務めに立とうとする行為がいかに恐れ多い行動であるのか。

ふさわしくない者が主の御前にお香を焚いて、あの大祭司アロンの2人の息子でさえも、主の御前に間違った火を焚いた時に焼き殺されてしまいました。もう本当にふさわしくない心で主の御前に捧げるということが、いかに恐ろしいことか。

本来だったら、このウジヤ王、もう主の宮に入った途端に打たれてもおかしくなかったんですけれども、まだ打たれませんでした。最初から注意を受けた。その時もまだマシだったんですけども、しかし注意を受けて、その言葉がウジヤ王の耳に入った時に、彼は怒って自分の思いを無理やり遂げようとしたら、このツァラアトがその額に現れてしまいました。本当に主の憐れみがまた注がれていたんですね。注意を受けるんですね。そして注意を受けてもなお強引にこのしてはならないことをする。それでも命が打たれないでこのツァラアトが現れた。これは私たちに対する警告でもあります。

本当に主の御前にふさわしくない心で、この宮において、この主に礼拝を捧げるという一見なんか正しく見える行為、しかし主は心を見られるお方であり、またその人が果たしてそれにふさわしいかどうかを見られるお方です。私たちはですから、本当にこの主の働きをするにおいて、しっかりと自分自身を整えてね。ましてや人を怒り心でもって、この礼拝的な行為をするということ、これは本当にもってのほかなんですね。

私たちはウジヤ王のように怒り狂ったような、ふさわしくない、そういう心でもって主に仕えるということをしていないでしょうか。私たちはよくよく気をつけるべきです。

このウジヤ王が死んだ年に1節に書いてあるんですけども、その年に、主がいかにこの主の宮において、また主の臨在において、いかに聖なるお方であるのかを、主は幻を持ってイザヤに示してくださいました。

イザヤは高く上げられた王座に座しておられる主を見ました。「その裾は神殿に満ちていた」(イザヤ6:1)と1節に書いてあります。神殿というところ、主が住まわれるところだと思われるんですけども、しかし逆なんですね。この神殿さえも主の裾を収めることができないほどに、主は偉大な、偉大な、偉大なお方なんです。

「セラフィムがその上に立っていた。六つの翼があって、二つで顔を覆い、二つで両足を覆い、二つで飛んでおりました。そして互いに呼び交わしています。聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」(イザヤ6:2-3)

この叫ぶ者の声の上に、この神殿の土台は揺れ動いて、この宮は主の栄光の臨在の煙で満たされました。主の宮、また礼拝するべきところ、これがいかに聖なるところであるのか。

ヘブライ思考において、繰り返しは本当に強調を表すんですが、しかし3回も、これ最高位の強調、主は聖なるお方だと強調されました。本当に私たちは、この聖なるお方の御前に、いかに態度を整え、身なりを整え、清められてでなくてはならないのか。

これに対して、イザヤは絶望します。「ああ、私はもうダメだ」って絶望するんですね。このイザヤが、この神様の聖なる有様に圧倒されて絶望した。その絶望の内容はどんな絶望内容だったかというと、彼、「私は唇が汚れた者で、そしてこの唇の汚れた民の間に住んでいる。しかもそんな私が万軍の神、主をこの目で見てしまった」(イザヤ6:5)これが絶望の内容でした。

この唇、これが本当に汚れているということが真っ先の絶望の内容でした。聖なる万軍の主。イザヤは預言者だったんですよ。神の言葉を預かって、そして人々に届けるという、唇がもう清いと思っていた預言者なんですけど、しかしそれ、そんなイザヤでさえも絶望するほどに、「あ、自分は本当にこの唇が汚れた者だったんだ」という、このことに打ちのめされました。

私たちも本当にこの唇がいかに汚れているか、主の働きをするにおいて、本当にこの唇、これに最も気をつけなくてはならないことが、ここにおいて示されております。

ヤコブ書において唇があって、この舌、本当に小さな器官です。本当にこんなちっこい唇の器官ではあるんですけども、しかし、この小さい器官が大事を言って、この人生という車輪を焼き尽くしてしまうということが書いてあります。本当に唇は火である。そして、その小さな火があの大きな森を燃やすというふうに書いてあります。

私たちはこの唇、本当に気をつけるべきです。軽率な言葉、また本当に軽々しく神の御前に立つこと。軽々しく、この唇から何か思いつきで言葉を発するようなことはあってはならないんですね。そしてこの唇、本当に自分の人生の車輪を焼き、また相手の人生を焼き尽くすようなことにもなりかねません。

これから本当に特に子供たちと関わっていく仕事になっていくんですけども、本当に子供、小さな言葉で傷つきやすい。そういうこともですね、私たちは。ですから、しっかりと今のうちにこの唇を見張って、そして唇が清められた状態で、この働きに出るべきであるんです。

この私たちの唇はどうやったら清められるのか。イザヤは清められます。

「すると私のもとにセラフィムの一人が飛んできたが、その手には祭壇の上から火ばさみで取った燃え盛る炭があった。彼は私の口に触れて言った。見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(イザヤ6:6-7)

この口と火は非常に関連が深いんですね。ラザロと金持ちのお話、皆さんご存知ですね。ラザロ、このお金持ちの前でこの物乞いをしていたんですけど、しかし金持ちは一切彼に何の施しもしませんでした。やがて金持ちはハデスに落とされるんですね。そこはとても暑い暑いところです。そして、特に口が熱いんですね。彼の願いが、この口が、舌が冷やされるということ。もうせめて、もうほんの少しの水でもいいから、自分を、口を冷やしてほしいというほどに、そのハデスというところ、地獄は、口が特に苦しみを受けるところのようです。唇で罪を犯してきた。

本当にこの私たちは、そのことにおいても、ああ、本当に私たちのこの唇で災いを振りまくということはないようにということを私たちは知るべきですけれども、このイザヤは唇にこの祭壇の燃え盛る炭が当てられるんですね。この祭壇の炭火、イザヤの口に、この燃え盛る炭が当てられました。

普通、こんなもう真っ赤に燃えてる炭が皆さんの口に当てられたら、火傷どころの騒ぎじゃないですね。けれども、どうやらイザヤは、あの口が火傷をしないで、その後もしゃべることができたようです。一体これはどういうことでしょうか。

祭壇というところに注目するべきです。祭壇というところは、私たち人間の罪の身代わりに動物がほふられて焼かれる場所なんですね。私たちの身代わりとなった動物が焼かれているのがこの祭壇です。この祭壇ですから、イザヤの代わりに焼かれた動物です。今、この祭壇の中で焼かれている動物は、一体皆さんにとってどなたなのか。イエス様です。

イエス様が皆さんの身代わりになって、屠られて、祭壇で焼き尽くされて、そしてその祭壇で焼かれているイエス様が皆さんに触れるのであるならば、皆さんの口を通して、このイエス・キリストという御言葉が触れられるのであるならば、皆さんの咎は清められるんです。

7節を見ますと、じゃあ7節、皆さんで一緒に読みましょうか。

「彼は私の口に触れて言った。見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(イザヤ6:7)

イエス様は皆さんの代わりに祭壇、十字架という祭壇において屠られ、焼き尽くされる思いで、イエス様は十字架の上で「私は渇く」と、本当に焼かれて焼かれて渇いて渇いて、その思いを皆さんの代わりにされました。

この十字架のイエス様に皆さんが触れるのであるならば、皆さんの不義が取り去られるんです。皆さんの唇は、いつもこの祭壇の炭で焼かれたイエス様を証しする唇であり、御言葉であるイエス様を宣言する唇であるべきなんです。するならば、皆さんがいかに唇が汚れた者であろうとも、いかに今までの人生、罪を重ねてきた者であろうとも、この皆さんの唇を通して御言葉を語り、御言葉を宣言し、またイエス様を褒め称え、賛美する唇であるのであるならば、皆さんの不義は取り去られ、皆さんの罪も贖われるんです。

ですから、私たち、本当にこの唇が清められる必要があるんです。そしてその後です。

イザヤ、主が語っておられる声を聞くんですね。8節なんですけども、8節、じゃあ8節、皆さんと一緒に宣言したいと思います。

「私は、誰を遣わそう、誰が我々のために行くだろうと言っておられる主の声を聞いたので言った。ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)

イザヤはこの不義が取り除かれた、そして本当にこのもう恐れるな、あなたの罪は取り去られたということを聞いたので、この「私を遣わしてください」と言うことができるようになりました。

今日、皆さんに言いたいこと、皆さんは主からの証明があるでしょう。神様からこの仕事をしなさいという証明があるでしょう。その皆さんが一番気をつけるべきことは、唇の言葉です。そして本当にこの唇が汚れた民の間に住んでいるということをイザヤは絶望したんですけども、私たちもこの唇の汚れた人々の間から出て行くべきであり、そして本当に御言葉を語る唇の交わりの中に居続けるべきです。

そして、この唇を真に清められるお方が、祭壇の上に、十字架の上に捧げられたイエス様です。このイエス様ご自身、御言葉であるイエス様ご自身を皆さんの唇から語り出し、いつも暗唱によって唇から御言葉を宣言し、そして皆さんの思い、心が本当にこの御言葉によって清められた、清められてこそ、皆さんは世に出て行くことができ、主のために働くことができるんですね。

テフィリンインターナショナルアカデミーつくばみらいは、御言葉を宣言する者です。これから私たちは子供たちの口を通して、この十字架に捧げられたイエス様なる御言葉を子供たちの口を通して宣言させていく働きをしていきます。

まずは皆さん自身が御言葉を口ずさみましょう。唇を思い描くだけでは唇が用いられませんね。黙読するだけでも、あるいは御言葉を思い巡らすだけでも唇が通りません。皆さんの口から御言葉を宣言して、声に出して宣言してこそ、皆さんは清められ、また整えられるんです。

皆さんはまさにこの御言葉によって清められ、そして主の働き人として大いに大いに有用な者として、そして主から御声がかかった時、皆さんの唇からは「ここに私がおります。主よ、私を遣わしてください」その宣言をして、そして主から遣わされていく皆さんでありますように。

【結論】

主に仕える者として遣わされるために、私たちはまず自分の唇の汚れを認め、十字架で焼き尽くされたイエス様、すなわち御言葉によって清められる必要があります。祭壇の炭火は、私たちの身代わりとなって十字架で屠られたイエス・キリストを表しています。この御言葉であるイエス様を私たちの唇から宣言し、声に出して語り出すとき、私たちの不義は取り去られ、罪も贖われます。唇が清められた者だけが、主の「誰を遣わそう」という御声に「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応答することができるのです。御言葉を暗唱し、宣言し続けることによって、私たちは主の働き人としてふさわしく整えられ、次世代のために、また世界のために遣わされていくのです。

 

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