メッセージ - 202602のエントリ
「退廃の町の小さなうめきを聞かれる主(ヨシュア記2;1-7)」 主日礼拝 2026年2月22日(Sun)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 主日礼拝
- 執筆 :
- pastor 2026-2-22 14:06
主日礼拝
ききんの時代に養われ、神のご用に用いられる人(1列王記 17:8-16)
第一礼拝 Youtube動画
English Service Youtube動画
週報/メッセージ(説教)概要
本日の御言葉 ヨシュア記2:1-7
今日はイエス様の系図に名前が記されている、一人の女性についてお話しします。その名はラハブです。
イエス様が生まれるはるか昔、死海の近くの、岩と砂に囲まれた城塞都市・エリコという町で、彼女は、城壁の中に建て込まれたマンションのような住まいに住んでおりました。 そこに住めた、というだけで、他の人よりは安全な生活が保証されたかもしれませんが、彼女はそこで生活をするために、自分自身を身売りするかのようにしなくてはなりませんでした。自分の時間を差し出し、若さを差し出し生活するしかありません。
現代の私たちも、全く変わりません。安定した所で生活するために、自分自身を売り、時間を売り、能力を売り、若さを売って働いています。それは家族を養うためであったり、周りに置いていかれないためであったり、ともかく自分と、自分の家族を養って生きるために、せざるを得ないのです。
彼女は、小さい頃から聞かされていた神々に、どんなに祈っても、どんなに拝んでも、生活が良い方向に変わるわけではありませんでした。人生が良い健全な方向へと改善するわけでもありません。 何も変わらない時間だけがむなしく過ぎていって、若さと将来だけが削ぎ落とされていくだけでした。
そんな中、彼女はある「噂」を耳にします。 「力ある神」と、その神に導かれている不思議な民族について。 その神は、かつての大国・エジプトを打ち破り、海を真っ二つに分けてその民を救い出し、不思議な方法で荒野で40年も養われた。その素晴らしい教えによって、彼らは守られて、きよく充実した生活ができる。
しかも彼らは最近、近隣の強い王たちを次々と倒しながら、今まさに自分たちの町に向かって来ている…。
ラハブは思いました。この神は、今まで聞いたどの神よりも 本物かもしれない。この神様のもとで生きる民は、なんてしあわせだろうか。この民に加わりたい…。そんな小さなあこがれを持っていましたが、この町の誰にも、自分のあこがれを言うことはできません。また、その民とはコンタクトの取りようもありません。
けれども「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(2歴代誌16:9) 神様は、全ての人の内を、知っておられるのです。
ある日の事です。二人の男性が、彼女の所にやって来ました。 彼らは、今まで知っている男たちとは何か違いました。食事を勧めても、偶像に捧げた肉は食べません。この地方で流行りの悪い遊びにも、加わろうとしません。彼らは落ち着きがあって、秩序があります。 彼女は直感します。「この人たちだ!」
その時、扉を激しく叩く音がしました。エリコの王の兵士たちです。
「その男たちを出せ。彼らはこの地を探るために来たのだ!」
彼女はこの瞬間、究極の選択が迫られました。
エリコの側について彼らを差し出し、幾らかの報酬を得て、もう暫く同じような日々を生きるか?
それとも、見たこともない将来と希望のために、まことの神の民に入れる可能性に賭けるか…。
ラハブは、、、まことの神につく!と決断しました!
彼女は命の危険を承知で、彼らを屋上に連れて行って、干した草の中に彼らを隠しました。この決断と行動によって、彼女と家族のいのちは長らえ、しかも、栄光の家系に入るチケットを手にしたのでした!
今日、私達が学ぶべき事は、全能なる神様が生きておられる、という事と、その神様は「あなた」を見ておられ、心の底で「救われたい」と願う人のところに、使いを派遣される、という事です。 そして、まこと神につく!と決断する人を、神様は、イエス・キリストへと連なる栄光の家系へと入れて下さるのです。
かつてエリコの城壁の町の中、ひそかにまことの神様にあこがれ、その民族にあこがれていたラハブに、神様が目を留めて、使いを送られたのと同じように、今、この時代も、コンクリートの壁の中で、自分の時間や能力、若さを身売りをしながら、むなしさの中で過ごしている人々に、目を配っておられます。
そして神様はその人の元へと、使者を遣わし、救いの道を教えてくださるのです。
この退廃的な世界の終わりが近づいている、というのは、誰もがぼんやりと認知しています。そして、その滅びから救われたい、と願っている人は、多いです。 救い主であるイエス様の名前を呼び求める人は皆、救われるのです。そして、救われた私達も、救いの鍵を握って、救いを求めるラハブのもとへと遣わされ、救いを届ける役割が与えられるのです! 御国の使者となって、救われるべき魂の元へと遣わされ、この時代の多くの人々を救っていくものでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!
サムエルの召命 - 主よ、お語り下さい。しもべは聞きます 早天祈祷会 2026年2月20日(Fri)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2026-2-20 6:31
サムエルの召命 - 主よ、お語り下さい。しもべは聞きます
Youtube
【概要】
主の言葉が稀となった、霊的に衰退した時代。 少年サムエルは、汚職の祭司が聞けなかった主の声を聞いた。 「お話しください。しもべは聞いております。」 母ハンナの涙の祈りによって生まれた子が、やがて神の声を聞く預言者に! この時代も主は働き人を探しておられる。 あなたの耳は、主に捧げられているだろうか?
【聖書箇所】
-
1サムエル3:1-10
-
イザヤ50:4
【励ましの言葉】
-
神様は祈りを聞かれる主であり、私たちが聞くことを望んでおられる
-
霊的に衰退した時代においても、神様は主のために働く働き人を探し求めておられる
-
母の祈りによって神に聞かれた子が、やがて神の声を聞く預言者となる
-
小さな働きであっても、神様は誠実に仕える者の姿をご覧になっている
-
皆さんの祈りは聞かれています
-
皆さんの涙も聞かれています
-
皆さんの心からの願いを主は聞いておられます
-
小さな従順がある人は、やがて大きな従順をいただくようになる
-
朝ごとに主は私たちを呼び覚まし、弟子のように聞くようにしてくださる
【勧めの言葉】
-
耳という最上の捧げ物を主に向かって捧げるべき
-
御霊が諸教会に告げることを聞きなさい(黙示録で7回繰り返される)
-
日々自分自身を清め、悔い改めて歩むべき
-
神様に捧げられた子供のために切に祈り求めるべき
-
主の働き人として、主のお声がかかったらすぐに立ち上がって応答すべき
-
神様の御前で「主よ、お話しください。しもべは聞いております」という態度を持つべき
-
耳を主に捧げ、主の宮と一体化させるべき
-
熱心に神様に声を聞かせる祈りをささげるべき
-
主からお言葉をいただいたのであるならば、それを一言も漏らさずに告げるべき
-
聞く嗜みを日ごと主の御前に捧げましょう
-
聞いた言葉に対して自由意志をもって選びなさい
【AIによる文字起こし】
今朝、恵みをいただく御言葉は第一サムエル記3章1節から10節です。初めに皆さんと一緒に10節を最初に宣言したいと思います。
「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じようにサムエル、サムエルと呼ばれた。サムエルは『お話しください。しもべは聞いております』と申し上げた。」(1サムエル3:10)
皆さんは礼拝に参加しておりますけども、神様の御前において、皆さんの体の器官、いろんな器官がありますね。目とか耳とか口とか、手足、いろんな器官があるんですけども、それを主に捧げること、そのうちで、皆さんのどの器官を最も主に捧げるべきか、皆さんご存知でしょうか。そうですね、皆さんの耳です。耳が、皆さんにとって一番重要な、神様の御前において一番重要な器官です。耳はね、ただついているものではないんですね。聞くためにあるものですね。
「耳のあるものは、御霊が諸教会に告げられることを聞きなさい」と、黙示録では7回も繰り返し繰り返し語られております。耳のあるものは、耳がついてない人、今ここにいますか。みんなね、ついてますね、耳がちゃんと。じゃあ皆さん聞くべきなんです。耳があるものは御霊が諸教会に告げる言葉を聞きなさい。
今日はサムエル記からですが、このサムエルという名前の意味は、「サム」、これはシェマー、「聞く」という意味ですね。そして「エル」、これは「神」という意味です。ですから、「神は聞かれた」、あるいは「神は聞く」、この意味を持っております。この「神様は聞かれた」という意味があり、また「神の名」という意味もサムエルにはあるんですけども、このサムエル、彼はどういう形で主に召し出されたものか。
ここ最近、主からの召命シリーズを見ておりますね。モーセについて、また一人一人の、この神様から召し出された時にどのような成り立ちであったのか。預言者イザヤが召命された時は、唇が炭火で清められました。また、昨日はエレミヤでしたね。エレミヤに対しても「私はあなたを城壁とする。鉄の柱とする。あなたを王たちの上に、民の上に立てる」、そのような形で召命しました。エレミヤは「自分は弱いものです。若いです」と恐れましたけども、神様は「恐れてはならない」と言われましたね。
そして今朝はサムエルの召命の場面なんですけども、いずれの時代も神様の御言葉が廃れ、また悪がはびこる、そういう時代でした。モーセの時代もそうでした。イザヤの時代もエレミヤの時代もそうでした。サムエルの時代もそうなんですね。
3章1節、どういう時代だったか書いてあるんですけども、1節を皆さんと一緒に宣言します。
「少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。その頃、主の言葉はまれにしかなく、幻も示されなかった。」(1サムエル3:1)
そういう時代です。主の言葉がまれ。幻も示されない。こういう時代に、サムエルは召命を受けました。イザヤの時代もそうでしたし、エレミヤの時代もそうでした。モーセの時代、本当に神様の御業が必要な時代でした。
今、この日本ではどうでしょうか。本当に本当に今、主の言葉が稀で、主の幻も稀で、そして本当に悪がはびこって、神様が退けられている、神様の言葉が退けられているかのような、そういう時代、まさに主は召命者を求めておられます。主はこの日本の地をあまねく見渡して、本当に主のために働く働き人はいないか、そういうふうに見ておられます。今まさにこのサムエルの時代、モーセの時代、またエレミヤ、イザヤの時代です。主の召命、これが必要な時代です。霊的に衰退した時代において、神様は探し求めるんです。主のための働き人を。
このサムエル、「神は祈りを聞かれた」。まず神様の御前に向かって、サムエルの母が、切なる祈りで神様に祈りを聞いて、聞かせていきました。言葉にもならない、声にならない、人間の声には聞こえない祈りで、母は、「本当に主よ、どうか私にお子を与えてください。あなたに捧げられたお子をどうか授けてください。お子が生まれたら、あなたにお捧げします」という、その母の祈りを神様が聞いてくださいましたね。神は聞かれた。だからサムエルなんです。
そして母が祈りによって神様に聞かせた。そのようにして与えられた子は、やがて神の声を聞く預言者になっていくんです。母の祈りによって神に祈りを聞かれた子が、やがて聞く者に、神の声を聞く者になっていくんです。そして、霊的に衰退した時代において、神に聞く者を神様は起こされるんです。
だからね、母のみならず、皆さん一人一人が本当に祈り求めるべきなんです。「神様、聞いてください。神様、神様に捧げられた捧げ物なる子供を私は求めます。栄光の次代、神様に聞く次代を私に与えてください」。今、私たちは切にティアのために祈っております。神様、聞かれるんです。また皆さんは本当に望みを持って祈りましょう。また皆さんのお子、子供が本当に神様に聞くという、そういう祈りを母は捧げていくべきなんですね。
このサムエルの時代、本当に廃れた、霊的に廃れた時代でした。主の言葉は稀にしかなく、幻も示されなかった。もうすでに、エリ、その時の当時の大祭司はエリと言うんですけどもね、2節では、「その日、エリは自分のところで寝ていた。彼の目はかすんできて見えなくなっていた。神の灯はまだ消えていず、サムエルは神の箱の安置されている主の宮で寝ていた」(1サムエル3:2-3)と書いてあります。
サムエルは主の御前において寝ていたんですね。神様の御前において、彼はエポデを身につけて、そして神様に仕えておりました。神殿において、まあ、きっとね、雑用的なことしか任されていなかったことでしょうね。
その彼を養っている大祭司エリは、神様のお言葉をもう聞くことが稀にしかなくなってしまいました。なぜならエリはあまり良くない祭司でした。エリの2人の息子は、この神様に捧げ物を持ってくる人々のその捧げ物を途中でくすねるんですね。人々が神様の御前に、あの牛や羊を持ってきて生贄として捧げる時、その捧げられている最中、神様へと捧げられている最中に、こんな大きなフォークを持ってきて、その大きなフォークでその焼肉をブスって刺して、祭司が持っていくんですね。
で、人々が「ちょっと待ってよ。焼き尽くされる前に持っていくのはやめてください。焼き尽くした後であなたがお取りください」と言うんですけど、しかし、そのエリの息子たちは、「いや、祭司は焼いた肉は受け取らない、生のままで持っていくのだ」って言って、そのフォークで持って行ってしまうんですね。もうこれじゃあ礼拝者たちの心が傷つきます。人々がもう「神の恵みもあるものか」と、自暴自棄になってしまいますし、またこのエリの2人の息子、この主の宮において仕える女性たちに、悪いことをして、そういうことをして、その噂が立ち上って、お父さんの耳にも聞こえて。で、お父さんは、エリは、それを戒めるんですけど、しかし、息子は聞きませんでした。
で、お父さんは息子が聞かなかったら、もう祭司職を罷免させるなり、なんなりすればいいんですけど、しかし、そのまま放置していたんですね。で、それでそういうわけで、この神様の御声が稀にしかなく、また主の幻もその時はもう示されなくなってしまった。
本当に皆さん、主の働き人が、この主の御前において、悪いことをずっと続けているとするならば、主の言葉が聞けなくなってしまうんです。幻が示されなくなってしまいます。今、私たちは本当に自分自身を日々清め、悔い改めて、そして日々歩んでいくべきなんですけども、でないと私たちのこの耳が、この霊的な耳が廃れていってしまうからですね。本当に私たちはよく気をつけるべきです。
その時、サムエル、この「主は聞かれる」という名前のサムエルが、彼は神の宮において仕えていたんですけども、彼の働きは、もう本当に小さな小さな働きだったことでしょうね。まだ彼は幼子です。子供です。で、彼はエリに仕えていたって書いてあるんですけどもね。まあ、どのように仕えていたのか。けれども、神様はその少年の仕える様をご覧になっておられたんですね。
で、それでサムエルがこの神の箱の安置されている主の宮で寝ていたその時ですね。その時、「主はサムエルを呼ばれた。彼は『はい、ここにおります』と言ってエリのところに走って行き、『はい、ここにおります。私をお呼びになったので』と言った。エリは『私は呼ばない。帰っておやすみ』と言った。それでサムエルは戻って寝た」(1サムエル3:4-5)。
サムエルが初めて主の声を聞いたんですね。しかもね、サムエルはこのエリのところに走っていきました。サムエルとしては、何か声が聞こえたとしたら、そこにいる人間といえばエリしかいないから、当然エリが呼んだ声だと思ったんですね。で、それでエリのところに走っていきってありますね。走っていた。もう一刻でも早くこの大祭司様のお言葉、こんな夜中寝ていたところでも、それでも起こされた、サムエルは「ちょっと眠いから休ませてよ」じゃなくて、もうすっと立って「はい、ここにおります」と言って走って行って、そしてね、行ったんですね。
本当にこの主人たるお方の御前におけるこのような誠実さ、この少年サムエルは持っていたんです。皆さんも本当にこの主の働き人であるならば、この主人たるもののお声がかかったら、もうすっと夜中だろうと立ち上がって走っていって、この聞く、その態度、これのこの小さな従順を主は喜ばれるんですね。小さな従順がある人は、大きな従順を、やがてそれをいただくようになっていきます。
この1回目のサムエルのこの呼ばれた時はこのまま終わったんですけど、しかし6節、主はもう一度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのところに行き、「はい、ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。エリは「私は呼ばない。我が子よ。帰ってお休み」と言った。まあ、1度目だったらまだ何か、寝ぼけたとか、そういったことで、ええ、まあ説明がついたことでしょうけど、2回ありましたね。2回目で、まあちょっと不思議だなって思ったことでしょう。お互いね、サムエルの方もエリの方も。でもまあまだね、日常生活の範囲内で、こういうことは起こり得ることだと片付けられたかもしれません。
まあ、7節ですね。「サムエルはまだ主を知らず、主の言葉もまだ彼に示されていなかった。」ですからサムエル、ここに仕えるようになってから、もうずっとエリの御前にいるんですけど、しかし、祭司は主の言葉を聞くということ、これをまだ見たことはなかったのかもしれないですね。もう非常にエリに主の言葉が示されることは稀でしたので、サムエルはまだ主を知りませんでした。だから、エリが自分を呼んだというふうに勘違いしたんですね。
それで8節、「主が3度目にサムエルを呼ばれた時、サムエルは起きてエリのところに行き、はい、ここにおります。私をお呼びになったのでと言った。それでエリは主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。」エリは、この3度目にして、ようやく、主が呼んでおられるのだということをようやく気づきました。1回目ではなく、2回目ではなく、3回目ですね。本当に不思議です。なんで主はこんな回りくどいことをされるのか。
主はモーセを召命される時、主はもう真っ先に自分自身を自己紹介しましたね。モーセに対して「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」そういうふうに自己紹介してモーセを召命したんですけど、しかしサムエルの時は、ただ「サムエル」と呼んだだけですね。自己紹介しませんでした。「私はエリではなく主である」と初めに言えば、簡単に事足りたことでしょうけどもね、不思議ですね。なんでこういうふうに回りくどく、しかもなんか忍耐強いですね。主は1回目、サムエル呼んだけど、サムエル主だと気づかずにエリを起こしに行った。2回目もそうだった。3回目もそうだった。
まあ、私たちは結果から推測するしかないんですけども、なんでだかこの時、エリが関わりましたね。エリに対して、少年サムエル主が語ったということがこの時、明確にエリ、わかったんですね。そしてサムエル自身も3回もこのね、エリに対してのその従順、主のお言葉を預かる祭司に対する従順を3回も示しました。もう2回目、おかしいなと思ったんですよ。3回目、ちょっとまた聞こえたけど、でもちょっともし今回も違うと言われたら、いい加減怒られてしまうかなという、そういった恐れを、それをとりあえずね、さておきして、とにかく彼が走っていって。エリのところに行って。
「はい、ここにおります。私をお呼びになったので」と。本当に健気な、従順な。そういう少年サムエルです。主が喜ばれる様です。本当に主は、そのように従順で、そして本当に恐れることなく、この主のお言葉を預かる人のところに行って聞くという、その姿勢を主は喜ばれるんですね。
エリはようやく気づきました。あ、これは主がサムエルを呼んでおられるんだ。なんで私にではなく、こんな少年に、そういったことがあったかもしれませんけれどもね、エリはこの時、正しい指示をするんですね。9節。「それでエリはサムエルに言った。行っておやすみ。今度呼ばれたら主よ、お話しください。しもべは聞いておりますと申し上げなさい。」こうして、サムエルは行って、再び、この自分のところで寝ました。
「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」これが本当に私たちが主の御前において、取るべき正しい態度です。そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。アーメン。この聞くということ、これはとても大事なことだと今日のメッセージで語られます。
召命、主から呼び出されること、これは、まず聞くということ、また主に聞かせるということ、ここから始まるんです。サムエル記、ダビデのことが記されている書物です。イスラエルの王が起こされた書物です。その真っ先にサムエルがまずいるんです。主の声を聞く預言者です。そしてこのサムエルの前に彼の母ハンナの祈りがあります。サムエルは偉大な預言者です。王様を2人も油注ぎました。ダビデにも油を注いだ偉大な預言者です。この偉大な預言者がどうやって生まれたのか。それは一人の母の祈りによって生まれたんですね。母が熱心に祈って神に聞かせた祈り。
「サムエル」、「神は聞く」。神に聞かせる。この母の本当に熱心な祈りによってサムエルが生まれ、そして、神に聞かせた祈りを聞かせた母。その母の祈りに神様が答えて、神様に聞く預言者サムエルを彼女に与えてくださったんです。皆さんも神様に聞かせるべきなんです。祈りを持って神様に聞かせる祈り、母の祈り、父の祈り、あるいはね、皆さん、子供が実際には生まれていないかもしれない。それでも神様に聞かせる。その祈りによって神様は答えてくださった。ハンナは、いつこの神様に聞かせたか。お子がいない時です。皆さんも今まだお子がいないかもしれません。
霊的なお子がまだいないかもしれません。だったら今は神様に聞かせるべき時です。皆さんの声を、皆さんの祈りを。神様は皆さんの声を聞かれるんですね。そしてやがて神様が聞いてくださり、そして今度は神様に聞く預言者を皆さんに与えてくださいます。私たちも今、ティーチ・ザ・トゥルース・インターナショナル・アカデミーを通して、この小学校一年生の子どもたち、放課後学校を通して神様のお言葉を口ずさむ子どもを養うということを今これからしようとしております。その子どもたち、やがて神様のお声を聞くようになっていくでしょう。今はまだ私たちには与えられておりません。今はですから、皆さんは熱心に神様にお声を聞かせるべき時です。皆さんの祈りの声、皆さんの賛美の声を神様に聞かせる。サムエル、聞かせるべき時、そして皆さんも神様の声を聞くべきです。サムエルのように神様の声を聞いて、そして本当にこの今この時代、主の弟子を神様求めておられます。弟子となっていくべきなんです。
イザヤ50:4にこう書いてあります。「神である主は私に弟子の舌を与え、疲れた者を言葉で励ますことを教え、朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」アーメン。主は朝ごとに呼び覚まし、そして私たちのこの耳を開かせて、耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。
弟子というものは聞くべきものです。しもべは聞くべきものです。このしもべというものは、耳と非常に深く関わっておりますね。律法の中で、もし、家のしもべがずっと主人の家に仕えたいというのであるならば、そのしもべの耳を、その家の柱に、針で通しなさい。そうすれば、そのしもべはその家の主人の家で生涯仕えることができると書いてあります。皆さんは主のしもべです。皆さんの耳は本当にこの主の宮に、貫き通して主の宮と皆さんの耳を一体化させるべきなんです。するならば皆様は生涯主に仕えることができるようになります。耳としもべ。これは非常に関わりがあることです。皆さんは耳を主に捧げましょう。
このサムエルに対して主が語られました。「サムエル、サムエル。」そしたらサムエルは「主よ、お語りください。しもべは聞いております」と言いました。この時、サムエルに語られた主の言葉ですね、エリの家に対する裁きの厳しい預言でした。到底、この大祭司様に、この主から与えられた言葉を語るのは恐れ多い、多すぎるような、そういうことを、少年サムエルに神様お語りになりました。
そしてサムエルはこの主からの、恐れ多い言葉、もうエリに言ったらどうなるかわからないような、そういう言葉でしたけれども、しかしエリは、18節で見ますと、「サムエルはエリに対して一言も隠さず、すべてを告げた」ことが書いてあるんですね。一つも漏らさず。主からのお言葉を聞いたサムエルは、それをそのままエリに伝えました。
これは預言者としてとてつもなく素晴らしい性質です。皆さんも主からお言葉をいただいたのであるならば、それを一言も漏らさずに告げるべきです。聞いたならば、それをそのまま人々に告げること。これが本当に素晴らしい預言者の嗜みです。サムエルは神に聞かれたものでした。
今日、皆さんもそうですね。皆さんの祈りは聞かれています。皆さんの涙も聞かれております。皆さんの本当に周囲に向かっての、本当に心からの願い、主は聞いておられます。
ハンナの祈りを主は聞かれたように、皆さんも本当にこのハンナのように、もう傍から見れば酔っ払いなんじゃないかって思えるような、それほどの熱心な祈りをするべきです。そしたら主は皆さんにサムエルを与えてくださいます。
時代を変える預言者、主から聞いて、この耳を捧げる、そのような素晴らしい次世代、これを与えてくださるまで、皆さんは祈り続けましょう。
今、皆さんが聞く番です。皆さんもサムエルのように主に語ってください。「しもべは聞いております」。この嗜みを日ごと主の御前に捧げて、皆さんの耳を主に捧げ、聞く嗜みを主に捧げて、主に喜ばれる次世代を、この時代、生み出していく皆さんでありますように。
聞いたからには、これからその御言葉通りに行うこと。また聞いた通りに人に伝えること。これをしっかりと私たちもサムエルのごとくしていくことができますように。
また、今お子が与えられていない今は、ハンナのごとく主に聞かせる祈り、熱心に捧げることができますように。時代が悪い時代だからです。こんな悪い時代に、主は預言者を呼び起こしました。モーセの時代も、イザヤの時代も、エレミヤの時も、またサムエルの時も、本当に主の言葉が廃れている。そのような悪い時代、人々が主に聞かない、自分の欲望のままに生きる。そういう時代にサムエルを遣わされたごとく、主よ、どうかここにいる一人一人を遣わしてください。
【結論】
霊的に衰退した時代において、神様は祈りを聞く主であり、また私たちに聞くことを求めておられる。サムエルの母ハンナの祈りによって与えられた子が、やがて神の声を聞く預言者として召し出されたように、私たちも耳という最上の捧げ物を主に捧げ、「お話しください。しもべは聞いております」という姿勢で主の御前に進み出るべきである。小さな従順を積み重ねることで、やがて大きな従順をいただくようになる。主のために働く働き人を今も探し求めておられる主に応答し、聞いた御言葉を一言も漏らさず告げる預言者として立つことが求められている。母の祈りが次世代を神に聞く者として育て、時代を変える働き人を生み出すことを信じて、熱心に祈り続けるべきである。
能力ゆえに主から選ばれたのではなく生まれる前から主に選ばれていた(エレミヤ1章) 早天祈祷会 2026年2月19日(Thu)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2026-2-19 19:27
能力ゆえに主から選ばれたのではなく生まれる前から主に選ばれていた(エレミヤ1章) 早天祈祷会 2026年2月19日(Thu)
Youtube
【概要】
エレミヤ書1章から、主に召された働き人として遣わされる者への約束と権威について学びます。主は私たちが生まれる前から召しておられ、遣わされた先で必要なすべてのもの―言葉、力、権威、守り―を備えてくださいます。
【聖書箇所】
-
エレミヤ1:5-10
-
エレミヤ1:18-19
-
マタイ28:18-20
【励ましの言葉】
-
主は私たちが母の胎内に形作られる前から召し、知っておられる
-
主は遣わされた先で必要なすべてを備えてくださる
-
主ご自身が先に行かれ、勝利しておられる
-
私たちは城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とされる
【勧めの言葉】
-
自分の足りなさを主に申し上げ、主に委ねる
-
御霊の風を察知し、その導きに従って進む
-
主が「行きなさい」と言われるならば、恐れずに進み出る
-
天においても地においても一切の権威を持つイエス様から遣わされた全権大使として歩む
【AIによる文字起こし】
今朝、恵みをいただく御言葉はエレミヤ書の1章です。
まず、皆さんと共にエレミヤ1章9節と10節を宣言したいと思います。
「その時、主は御手を伸ばして私の口に触れ、主は私に仰せられた。今、私の言葉をあなたの口に授けた。見よ、私は今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいは壊し、あるいは建て、また植えさせる。」(エレミヤ1:9-10)
アーメン。
イエス様が生きて働かれるということを皆さんは実感しているでしょうか。アーメン。生きて働かれていますね。その恵み、その実態を日々、皆さんは体験していますね。特につくばみらいの地において、これから子どもたちに言葉の手順を教えていく、その準備をする上で、一歩一歩必要な道のりを示してもらえるんですね。
私たちが将来のことを考えようとするとき、IBMにいた頃は、WBS(ワークブレイクダウンストラクチャー)というのを作って、やることリストを縦軸にして、横軸に時間を決めて、そして担当者を決めて、何日までにここのマイルストーンをこなして、ここまでは何をして、そのためには誰と誰がここをしなきゃいけなくて、期日何日までにもしできてなかったら上司に相談してとか、そういう形で仕切って作ってやっておりました。
けれども、このつくばみらいの働きにおいて、また本当にこの10年、このイエス様の働きをしていく上で、自分の人間の計画をきちきちやっていくと、途端にサウルの防具みたいに窮屈になって、息苦しくなって、御霊の動きが自由にできない、そういうことを感じました。だから、もう主に全部お委ねしていったところ、主がその都度その都度「これをしなさい」「これが今するべきことだよ」「あなた、今そのことを心配する時じゃないよ」というのが分かるようになってきたんですね。
御霊に導かれる人というのは、本当にこの聖霊の風を受けて、帆船のように、風を受けて進んでいく。それが御霊に導かれる人のコツです。聖霊は風とも訳されますね。ギリシャ語ではプニューマ、ヘブライ語ではルアハ。これは風です。私たちはこの御霊の風をよく察知して、そしてウィンドサーフィンのごとく、この御霊の風が今吹いたならば、今帆を上げる。御霊の風が吹かないならば、そこにとどまればよし。この御霊の導きに従って進んでいくというのが、この御霊に導かれる主の働き人の進むべき条件ですね。自分の計画ではなく、主の御霊の吹く風のままに進んでいくということ、これが本当に私たちの行くべき道です。
今日の箇所、エレミヤですね。主の召命シリーズと言いますか、主に呼び出された働き人のシリーズを昨日からやっております。昨日はイザヤであったり、モーセであったりしました。今朝はエレミヤです。
そして今週、特に学んでいることは、主がわずか5つのパンと2匹の魚で5000人以上を養われたということを、福音書から一つ一つ見ていきました。そこから分かることは、主が必要を満たしてくださるということですね。主が「あなた方が働きなさい」と言われたならば、働く人々の前に行ってパンを裂いて配りなさいと言われれば配る。足りないという心配をしなくてよろしい。主が言われるのであるならばする、ということでした。主は皆さんの必要を満たしてくださり、皆さんが主のために働く必要をすべて満たしてくださるお方です。
今日の箇所において、主の働き人エレミヤが召し出されました。共通していることは「私があなたと共に行く」ということですね。そして特にこのエレミヤに対して共通していること、それは主ご自身がそのエレミヤの口に御手を触れて、そして「私があなたに言葉を授けたよ」ということなんですね。
主はこのエレミヤに対して、いつエレミヤをこの国々の預言者として立てたのか。5節にはこう書いてあります。
「私はあなたを胎内に形作る前からあなたを知り、あなたが腹から出る前からあなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」(エレミヤ1:5)
アーメン。もうお母さんの体内に宿る前からなんですね。もうすでにエレミヤがこの時代、主の言葉を取り次ぐ預言者として主ご自身が任命しておられました。であるからには、皆さんの一人一人も、皆さんのお母さんの胎内に形作られる前から、もう主は皆さんのことを目に留めておられて、主の働きをするように、神の国のために任命しておられたということが分かります。
皆さん、恐れてはなりません。皆さんは、皆さんのお母さんの胎内に形作られる前からも主に覚えられていたんです。だから、皆さんは恐れる必要はないんですね。
けれども、エレミヤは6節で言うんです。
「そこで私は言った。ああ、神、主よ。ご覧の通り、私はまだ若くて、どう語っていいか分かりません。」(エレミヤ1:6)
エレミヤは、主から「私はあなたを遣わす」と言われて、その時即座に感じたこと、それは自分の足りなさでした。自分の不足です。本当に主の働きをする上で感じるのは足りなさです。弟子たちも、パンがこれしかありません、と足りなさを感じましたね。
皆さん、足りないと感じた時、その足りなさを主に持っていけばいいんですね。「主よ、今、私の手元にはこれしかありません。5つのパンと2匹の魚しかありませんが、あなたは5000人を食べさせるというのですか。どうしたらいいんですか。」そしたら主が祝福して裂いてくださって、「これを配りなさい」と。したら、裂いても裂いてもなくならないパンでもって5000人を養うことができました。
このエレミヤもまた「自分は足りません」「私はご覧の通り若くて、どう語っていいのか分かりません」と言うんですね。自分は若い、経験がない、語る力もない、人々に受け入れられないかもしれない。けれども、そういうふうに主に申し上げるということをするのであるならばいいんです。
良くないのは、自分は足りないと言って、そして主から離れてしまって、何もしない。タラントを地面に埋めてしまうようなこと、これが一番良くないことです。けれども、皆さんが少なくとも主に「私は足りません」と主に申し上げる、主とコミュニケーションする、主に報告、連絡、相談する、これが皆さんのするべきことなんですね。するならば主が、皆さんにとって必要なことを授けてくださいます。
7節を見ますと、
「すると主は私に仰せられた。まだ若い、と言うな。私があなたを遣わす、どんなところへでも行き、私があなたに命じるすべてのことを語れ。」(エレミヤ1:7)
アーメン。ですから、主は、ただ単に「あなた行け」というだけじゃないですね。過酷な上司みたいに「営業に行ってこい。行けばもう後はなんとかなるから」というような、ただ単に突き放すだけではなく、主は行った先々において必要なすべてのもの、こと、権威、力、威力、言葉を授けてくださるんです。
主ご自身が、主は皆さんの能力を見て皆さんを召したのではないんです。皆さんに何か力があるとか、トーク力があるとか、そういったことを主が見て「お、こいつはトーク力があるから遣わそう」ということじゃなくて、もう皆さんが生まれる前から召しておられますね。主は能力を見て召されるのでなく、主が一方的に召してくださった。だから私たちはただ遣わされていくのみなんですね。遣わすのは主、遣わした先でことを行うのも主。そして私たちの役割は、ただ主が遣わされたところへと足を運んでいくことだけです。アーメン。
行けと言われるのであるならば、私たちは足を使っていくこと、これが私たちの役割です。その場所、場所において語るべき言葉を備えるのは主であり、また働くべき働きをされるのも主です。私たちはただ、役割としては、主が遣わされたところへ足を用いていくということですね。
しかも、行った先における保証付きなんですね。保証があります。8節と9節にはそう書いてあります。どんな保証があるのか。じゃあちょっとみんなで一緒に8節と9節を宣言します。
「彼らの顔を恐れるな。私はあなたと共にいて、あなたを救い出すからだ。―主の御告げ― その時、主は御手を伸ばして私の口に触れ、主は私に仰せられた。今、私の言葉をあなたの口に授けた。」(エレミヤ1:8-9)
アーメン。主はなんと手を伸ばしてエレミヤの口に触れてくださいました。イザヤと一緒ですね。主は遣わした先において、皆さんに何もしないのではありません。皆さん、自力でなんとかしなさいではなく、主ご自身が、ちゃんと行った先において、皆さんがするべきことを、その対処方法を教えておられ、また何を語るべきか、もう主が口に触れてくださって、そして語るべき言葉を授けてくださったんです。そして皆さんがそれを成し遂げるに値する力を与え、権威を与え、そして守りも与えてくださるということが分かるんですね。
主はどれほどの権威を、力を帯びさせてくださるのか。10節も皆さんと一緒に宣言します。
「見よ、私は今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいは壊し、あるいは建て、また植えさせる。」(エレミヤ1:10)
アーメン。「あなたを諸国の民と王国の上に任命し」と書いてありますね。主から遣わされた者の方が王より上なんです。この世の権威、今、日本国の権力、いろいろありますけれども、主が遣わされるのであるならば、その諸々の権威よりも皆さんの方が上として、主が権威を授けてくださるんです。
しかも、「あるいは引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいは壊し」、この主に逆らう諸々の制度、諸々の威力、力、そうしたもの諸々を引き抜き、引き倒し、壊し、そしてなおかつ建て上げて、また植えさせる。この権威を与えているんですね。
皆さんが行く先々において、いろいろな困難、課題、もろもろあるかもしれません。しかし、主が皆さんを召し出してくださるのであるならば、皆さんはその上に位置するんです。このことを忘ってはならないんです。
この時、エレミヤに遣わされますけれども、しかし語る、行くのはエレミヤですが、その口に授けた言葉は主のものです。皆さん、これから子どもたちにテフィリン、神の言葉を口移しで教えていくんですけども、御言葉は主です。ことを行うのは主。私たちはただそれに乗っかっていくものです。
私たちは「主を、主を、我を導きたまえ」というふうに賛美しつつ祈っておりますね。我を導くのは主。皆さんでというよりも主です。皆さんの子育てスキルだとか、そうした子どもに対しての皆さんの愛情、まあどれほどあるでしょうかね。それではなくて、主が子どもたちを導く。皆さん、それに乗っかる。これが皆さんの役割です。だから「恐れるな」ということが書いてあるんですね。
本当に口に主が言葉を授けてくださる。モーセに対してもそうでした。モーセは、出エジプト記4章において、主がモーセを召し出す時、モーセは「私、口べたです」と言うんですけども、「誰があなたに口を授けたのか。誰が人を喋れるようにしたり、黙らせたりするのか、私ではないか。さあ、行きなさい。あなたの口と共に私があるからだ」と言われます。
イザヤに対してもそうでした。昨日のメッセージで、このイザヤの口に、本当にイザヤは自分が唇が汚れた者だ、もう罪を犯すような者だと。それに対して、この主がセラフィムを遣わして、祭壇の炭火をイザヤの口に当てて、そして「見よ、これがあなたを清めた。あなたはこれによって贖われた」と。そしてイザヤは主からの召命のチャレンジ、「誰を遣わそうか、誰が我々のために行くだろうか」という、この主の切実な働き人への求めに対して、イザヤは答えました。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」このように、主から清められて用いられていくイザヤのような働き人もおり、またエレミヤのように、もう生まれる前から働き人として召命されて、今、この時生きなさいと言われる人もおります。
いずれも主ご自身が働かれて、そして皆さんはその働きに乗っかることができるんですね。
確かに行く先々においては、平坦な楽な道ではありません。行く先々においては、戦わなくてはならないことが確かにあります。けれども、この行く先々において、権威、力、威力を帯びさせてくださるのは主です。
このエレミヤの時代は、もう本当に世の中こぞって不信仰な世代になってしまっておりました。今の日本も、主に反逆するというよりも、主を知らないまま、ずっと何百年も過ぎているのがこの国ですね。主を知らない、この世代の中に皆さんが遣わされていくにあたって、このエレミヤのように、主ご自身が派遣してくださるのであるならば、主はその派遣先で必要な力、権威、威力、知恵、そして語るべき言葉を授けてくださるんです。恐れる必要はないんですね。
さらに、今度は18節、19節を皆さんで宣言します。18節からです。
「見よ、私は今日、あなたを全国に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。だから彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。私があなたと共にいて―主の御告げ―あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ1:18-19)
アーメン。「私があなたと共にいる。」「あなたを城壁のある町とする。」エレミヤに対して、「あなたは城壁の町だよ」「エレミヤに対して、あなたは鉄の柱だよ」「エレミヤに対して、あなたは青銅の城壁だよ」というふうにした。そういうふうにしたと18節に書いてありますね。すごいですね。堅固な城壁になったんです。エレミヤが。
それと同じように、皆さんもそのようにしてくださる、この主の力が今この時代働いていることを信じるでしょうか。アーメン。そうです。不信仰な世代であればあるほど、本当に主は皆さんを、それよりもより堅固な城壁にしてくださり、鉄の柱にしてくださるんです。
「だから彼らがあなたと戦っても、彼らはあなたには勝てない」と。19節で、「主の御告げ」と言って宣言してくださいました。「主の御告げ、あなたを救い出す」。この「救い出す」、イエスはイエス様と同じ語源です。今の時代、イエス様が皆さんを救い出します。
イエス様、今この時代、皆さんに対して、「全世界に出て行って、福音を宣べ伝えなさい。見よ、私は世の終わりまでいつもあなたと共にいる。」マタイの福音書の一番最後で宣言されましたね。このイエス様、どれほどの権威を持っているか。イエス様は言われたのは、
「私は天においても地においても一切の権威が与えられています。」(マタイ28:18)
アーメン。書いてありますよ。マタイ28章18節に。イエス様は、天においても地においても一切の権威が与えられている。「この私があなたを遣わすのだ。あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また私があなた方に命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたと共にいる。」
アーメン。エレミヤの時代もそうでした。今この時代の皆さんも同じです。主がいつも伴われます。そして「行け」と言われます。行った先々で必要なことを行うだけの力、権威、威力、尊厳、勢いを与えているから。必要なお金も、必要な物事も、また必要な人ももうすでに主が与えておられます。
だから私たちは、主が「行きなさい」と言われるのであるならば、進んで進んで、三国の勇士として進んで、そこを勝ち取っていくだけでいいんです。主はもうすでに先に行って、そこを勝利しておられます。アドナイ・パニーム・ハーラクと宣言しておりました。主ご自身が先に行って、そこを占領しているゆえに、私はただ行くだけ。アーメン。
どうか皆さん、この時代において、本当にこのエレミヤのように、すべてが備えられた者として恐れず進みゆき、そしてこの敵を勝ち取り、この時代、栄光の時代を立て上げる。またこの時代、本当にこの主の働き人として多くの魂たちを勝ち取り、またよくない業は、それを本当に良い主の業と塗り替える、その働きをしていく皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
主は私たちを母の胎内に形作られる前から召し、知っておられました。主が遣わされるのであるならば、行く先々で必要な言葉、力、権威、知恵、守り、すべてを備えてくださいます。私たちは自分の足りなさを感じても、それを主に申し上げ、主の導きに従って進むだけです。主ご自身が先に行かれ、すでに勝利しておられます。天においても地においても一切の権威を持つイエス様から遣わされた者として、恐れることなく、主の御国を拡大していく働き人として歩みましょう。
神の働きのための整え - 脱ぐべき靴と清められるべき唇(- 出エジプト3:5) 水曜夜礼拝
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2026-2-18 22:00
神の働きのための整え - 脱ぐべき靴と清められるべき唇(- 出エジプト3:5) 水曜夜礼拝
Youtube動画
【概要】
聖なる召命の前に、モーセは靴を脱ぎ、イザヤは唇を清めらた。 私達も、神の国の働きをする前に必ず通る通過儀礼がある。 それは、私達が世を渡り歩いてきた時に付着した、心の汚れ、世的な立場、自らの力、じっとしていない唇、主義主張などなど…。 そうした「くつ」を脱ぎ捨てるなら、ようやく主の御前に有用な働き人になれる。
【聖書箇所】
-
出エジプト3:5
-
イザヤ6章(祭壇の炭火による清め)
-
ヨハネ1章(御言葉なるキリスト)
-
エペソ1:14(贖いと罪の赦し)
-
伝道者5:1-3
-
ヤコブ1:19(聞くに早く、語るに遅く)
【戒めの言葉】
-
神の宮に行く時は軽々しく心焦って言葉を出してはならない
-
聞く耳を持たずに礼拝に出席するなら、愚かな生贄を捧げることになる
-
多すぎる言葉は愚かな者の声となる
【勧めの言葉】
-
神の御前に進み出る時、脱ぐべき靴(汚れ、立場、力)を脱ぎなさい
-
イエス・キリストの御言葉を口に当て、唇を清めなさい
-
聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くありなさい
【悔い改めの促しの言葉】
-
十字架の前に自分自身の罪をすべて書き出す必要がある
-
高ぶり、偽り、嘘を脱ぎ捨て、焼き尽くされるべきである
-
砕かれた魂、砕かれた悔いた心を神に捧げよ
【AIによる文字起こし】
今晩、恵みをいただく御言葉は出エジプト記3章5節です。皆さんで一緒に宣言しましょう。「神は仰せられた。ここに近づいてはいけない。あなたの足の靴を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
お昼の礼拝においては、預言者イザヤが召命を受けた場面を見ました。「主よ、私がここにおります。どうぞ私を遣わしてください」と。祭壇の炭火を持って清められたイザヤの姿です。
今晩は、モーセが神様から呼び出された場面を見てみたいと思います。私たちが本当にこの神様の働きをする上で、いかに整えられるべきか。これから子供たちにこの聖書教育に御言葉を教育する、聖書教育をしていく、それにあたり、今、私たちがまさに整えられなくてはならないからです。今日もその私たち自身の整えのために、この出エジプト記3章5節から見ていきます。
まず神様がモーセに現れて、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と、神様自身、自分がどの神であるのかをはっきりと宣言されました。モーセはそれを恐れて顔を伏せるのですが、そのモーセに対して言うのです。「ここに近づいてはいけない。あなたの足の靴を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
この神様の御前に進み出ること、これは日常生活の延長ではないのです。しっかりと脱ぎ捨てるべきものがあるのです。なぜなら神様の御前、この礼拝という場は聖なる場所だからです。本当にこの場所、この説教台に立つ時、もう十年以上ずっとずっと、いつも恐れがあります。神様のお言葉を取り次ぐに果たしてふさわしい者であるかどうか。ですから、この礼拝の前にしっかりと祈って、神様の前に立つのにふさわしい者にして、どうか十字架の血潮をもって清めてくださいと、いつも祈っております。
このモーセに対して、モーセをこの主の働きのために招く、その真っ先に主が言われたのが「靴を脱げ」ということだったのです。私たちも神様の御前に進み出る時、あるいは神様の働きに進み出る時、脱ぎ捨てるべきものがあるのです。
イザヤの場合、この主が圧倒的な臨在をもって、まずイザヤにその圧倒的な臨在をもって臨みました。イザヤをこの主の働きに任じる、その直前に、主はまず全くもって、このイザヤ自身のその足りなさ、汚れ、それを徹底的に示されました。神様の圧倒的な聖なる様を前にイザヤは絶望しました。ああ、自分は唇の汚れた者だと。真っ先に示されたのが唇が汚れた者ということでした。
イザヤ自身、それまで預言者として活動してきたのです。神様のお言葉を人々に取り次ぐ、その聖なる務めをしてきたイザヤでしたけれども、しかし自分は罪がある。唇が汚れた者、汚れた者にもかかわらず、神様のお言葉を伝えてきたんだ。徹底的に打ちのめされる。そしてイザヤ自身も自分は唇の汚れた民の間に住んでいる者だということを、それを示されて、ああ、もう自分はダメだ、絶望だ、滅びる以外にはないんだ、とイザヤ自身打ちのめされました。
けれども、イザヤの唇に祭壇の燃え盛る炭がイザヤの口に当てられました。口に当てられて、そしてその燃える炭が与えられた。彼は言われました。「これがあなたの口に当てられたので、あなたの罪は清められ、あなたの咎が覆われた」と、そういうふうに言われました。イザヤはその時、口に火傷を負うのではありませんでした。なぜでしょうね。もう燃え盛る炭火が置かれたら火傷する以外ないのですけど、しかし、イザヤの口は平気でした。
なぜ?そもそも祭壇の中に一体何が燃やされているのか。それはこのイザヤの身代わりに、そして私たち人類、私たち罪ある人間の身代わりに犠牲になった動物が、その祭壇の中で焼かれております。今の私たちにとっての祭壇の炭で焼かれている犠牲はイエス様です。イエス様が私たちの身代わりになって、炭火で焼かれております。イザヤの身代わりとなって動物が焼かれて、そしてそのイザヤが本来焼かれるべきである、その身代わりの動物が焼かれた。
私たちの身代わりとなって、十字架の上にかかって処罰を受けてくださったお方、イエス様。このイエス様をこの唇に当てて、御言葉なるイエス様、イエス様はお言葉なるお方であるとヨハネ1章に書いてあります。その言葉を私たちのこの唇に当てて、この唇からイエス様のお言葉を出して、イエス様を口ずさんで、イエス様を賛美して、そうしてこそ私たちも清められていくのです。ですから、本当にこの神様の働きをする前に、まず唇が神様の言葉で満ちるべきなのです。
私たちのこの口、色々と汚れがあります。人間の間に住んでいると、また神様抜きで生活していると、この口からはつぶやきが出たり、批判が出たり、高ぶりの言葉が出たり、嘘偽りが時にはペロッと出てしまったり、軽率な発言によって人を傷つけ、また軽率な言葉によってこの神様の宮を汚してしまったり、礼拝の場に軽率な言葉を声高に口走ることによって、礼拝者の他の礼拝者の心を害してしまったりですね。そういう軽率な言葉、これをこそ私たちは慎むべきなのです。この口はイエス様の言葉を当てるべきなのです。
主は言われました。私たちのこの唇からは心で満ちているものが口から出てくるのです、と。本当に私たちの唇は、私たちの内側の状態を映し出す鏡です。だからこそ、イザヤの唇が祭壇の炭火で清められる必要があったのです。この真の言葉であられるイエス様を私たちもしっかりと口から口ずさみ、イエス様の御言葉をもって、折にかなった助けをもって人を養うべき口となるべきです。
この真の言葉はイエス様が私たちの口に当てられることによって私たちは贖われて罪の赦しを受けるのです。エペソ1章14節に書いてあるのは、「この御子にあって私たちは贖い、すなわち罪の赦しを得ています」と書いてあります。イエス様にあって、御子イエス様によって贖い、罪の赦しを得られる。だから私たちはこのイエス様が必要なのです。働きにおいて、またこの唇を清めるにおいて、唇が清められたい方、ぜひイエス様のお言葉、これを口から出しましょう。イエス様の言葉をいつも口に備えましょう。そして、皆さん自身がどんどん清められていくのであるならば、主は皆さんをこの主の働きに任じて、「ここに私がおります。主、私を行かせてください、私を用いてください」という、その主の御用に間に合う者になっていくのです。
さて、モーセのことですけども、モーセは靴を脱ぎなさいというふうに言われましたね。神様の前に立つ備えであり、そしてそこは聖なる場所だから、この汚れた世の塵をいっぱいつけて回った靴、これ脱ぐべきだと示されたのですけども、では私たちにとって脱ぐべき靴というものは一体何でしょうか。礼拝の御前に進み出るにおいて、主の御前に進み出るにおいて、そして主の清らかな聖なる働きに繰り出すにあたって脱ぐべき靴。
まず私たち自身の汚れを脱ぐべきです。脱ぐべき靴の、その一、私たちの汚れです。また自分の立場。その二、私たち自身が世の中で身につけたいろんなステータスだとか立場だとかネーミングだとかありますけど、そうした立場も脱ぐべきです。神様の前に世の中で身につけてきた立場は一切関係がないからです。そして3つ目。私たち自身の力を脱ぐことです。
脱ぐべき、一つ目は私たちの汚れ、2つ目は私たちの立場、3つ目は私たちの力。これを脱いで、そして主の御前に進み出て、また世の中に派遣され、主の働きをしていくべきなのです。これら三つを身につけているとですね、例えば、汚れたままで子供伝道はいけないですね。口、唇が汚れたままだったら、もう意図しない言葉、軽率な言葉で人を傷つけてね。子供は特に敏感ですからね。この唇、汚れはしっかりと脱ぎ捨てるべきであり、またね、私たち、今までこの世の中で培ってきた諸々、これがかえって邪魔をしてしまうこともあります。
主の御前において本当に清らかな、ただ御言葉のみ、この祭壇の炭火、イエス様のみに焦点を当てて、私たちの思い、心は清められた立場でもって、そしてこの主の働きに進み出るべきであり、また私たち自身の勢いだとか力余りだとか、そうしたもろもろでやってしまうと、いろいろと障害が発生してしまいます。ですから、まず脱ぐべき靴。これをしっかりと脱いで、そしてこの主の働きへと進み出るべきです。
主の御前においては、私たちの力も立場も経験も通用しません。ただ、主がなさるから、主が導かれるから、私たちは進み行くことができ、また働きに従事することができるのです。
伝道者の書5章にこういうふうに書いてあります。伝道者5:1にはこう書いてあります。「神の宮へ行く時は、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者が生贄を捧げるのに勝る。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。神の前では軽々しく心焦って言葉を出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから言葉を少なくせよ。」
本当に主の宮、主を礼拝する場面においては、特にこの唇の言葉、心焦った言葉を出すなというふうに、ここに書かれてあります。この礼拝の場において、礼拝者を通して語られる神様の御言葉に耳を傾けること、これが一番の生贄ではあるのですけども、しかし、この御言葉を思い巡らすではなく、自分の口で口走ってしまって、他の礼拝者たちがちょっとってなりますね。礼拝中に誰か一人が声高に何かブツブツブツブツ言っていたら、皆さん耳障りですね。礼拝中、主の宮において心焦って唇に言葉を出すな、2節に書いてあります。だから言葉を少なくせよ。
私たちは礼拝に来る時、本当に準備するべきもの、それはよく聞く耳を準備するべきであって、自分の意見、自分の考え、自分の計画、自分の主張は、そうした靴はしっかりと脱いでからこの礼拝の場面に入るべきであり、また主の働きの前に、その整えとして、こうした自分の軽率な言葉や、また自分の思い、自分の計画、自分の立場、自分の主張、主義、そうしたもろもろを脱ぎ捨てるべきです。
でないと、この神様の言葉が語られた時に、もし主義主張を持って言葉を聞いたならば、「いや、それ違う、私それ嫌だ」ってなってしまいますね。だから、この主の御前に進み出る時においては、そうした靴、自分の主義主張という靴、これはしっかりと脱ぎ捨ててから主の御前に進み出るべきです。聞く準備なしで礼拝に出るとするならば、それは愚かな生贄を捧げるということになってしまいます。
この5章1節のところ、「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよう」。足の靴をしっかりと脱ぐべきであり、「近寄って聞くことは、愚かな者が生贄を捧げるのに勝る」と日本語の聖書が書いてあるのですけども、英語の聖書では、愚かな生贄を捧げないために近寄って聞けというふうにも訳されるのです。愚かな生贄を捧げるようなことがないために、近寄って聞くようにしなさい、自分の足に気をつけなさいですから。聞く耳持たずで礼拝に出席するとするならば、愚かな生贄を捧げることになってしまい、その愚かな生贄が神様の気分を害し、礼拝者の気分を害してしまう。だから、よく聞く耳をしっかりと準備して、また自分の本当に高ぶる意見、主義、主張、これはしっかりとそうした靴は脱ぎ捨てて、礼拝に、また主の働きに進み出るべきなのです。
主は私たちの多くの言葉で、ベラベラベラベラしゃべることを望んでおられません。主はむしろ多くの言葉をしゃべるよりも、へりくだった耳、へりくだって聞く耳を主は求めておられるのです。
さらに、この伝道者の書5:3にはこう書いてあります。「仕事が多いと夢を見る。言葉が多いと愚かな者の声となる。」ここにも、脱ぎ捨てるべき二つの靴が、この伝道者5:3にありました。その一つ目、それは自分の夢、自分発の夢です。夢が多いと、仕事が多いと夢を見るって書いてあるのですけども、あれをしよう、これを成し遂げよう、そうした神様抜きであれしよう、これしようというそうした夢。もちろん主から与えられたビジョンは尊いものではあるのですけど、しかし、夢というものが主からの夢ではなく、自分の野心だとか、自分の心からの欲望から出た、そうした諸々の夢、それを外されたまま進み出るとするならば、それは良くない礼拝になってしまいます。このまず自分由来の夢という靴。これは脱ぎ捨てるべきです。
で、もう一つ。後半では「言葉が多いと愚かな者の声となる」ってありますね。多すぎる言葉。これが二番目の脱ぐべき靴。この伝道者5:3にある示された2つ目の靴です。多すぎる言葉。語ることに熱心で、聞くことには鈍い心で、主の御言葉を宣言する時、なかなか御言葉の宣言がうまくいかないという時は、頭の中に非常に夢がごちゃいっぱい入ってしまっていて、聞く耳が全くもって詰まりに詰まってしまっている状態だと、宣言がなかなかうまくいかないです。語ること、唇で語ることに熱心で、また自分のビジョン、夢で頭の中が煮詰まっているとするならば、本当に神様の言葉がスムーズに入ってこないし、スムーズに出てこないことになってしまいます。
ヤコブ1:19は言います。「聞くには早く、語るに遅く、怒るに遅いようにしなさい」と書いてあります。聞くには早くしなさい。語るには遅くしなさい。怒るのには遅くしなさい。これが本当に私たちも必要です。あれをしよう、これをしよう。そうした夢、そうした諸々は、本当に私たちはそうした靴を脱ぎ捨て、またこの多すぎる言葉という靴も脱ぎ捨てる。そして私たちは主の御前に進み出ていくべきなのです。
ですから、清められた者に対してこそ、主は正当に御前に進めていることができ、そして主の働きを正当に招き入れることができるようになる。そのようになっていくのです。靴を脱ぎ捨て、またこの唇の汚れが清められ、そしてこそ主は招きをするのです。
モーセに対しては、この出エジプト3:10において、「さあ行け。私はあなたをパロのもとに遣わす」。モーセは靴を脱いで御前にへりくだった心で進み出た結果、パロのもとに遣わすという召命が与えられました。世に対して遣わす。イザヤは、この祭壇の炭火で口が清められた時に、「主よ、ここに私がおります。私を遣わしてください」と言いました。それは主の招きの声、いや、主のうめきの声、「誰を遣わそうか、誰が我々のために行ってくれるだろうか」という主の声を聞いたからです。清められたイザヤ、そういうふうに、ここに私がおります、私を遣わしてください、そういうふうに言うことができたのです。
ですから、皆さん、いろいろな使命、皆さんの目の前にあると思います。けれども、皆さん、使命の前に、まず清めです。使命の前に脱ぐべき靴があります。使命の前に清められるべき口があります。清めが先、使命がその後、主は清められた者を用いられるからです。
私たちは、ですから、本当にこの十字架の前に自分自身の罪をすべて書き出す必要があります。十字架という祭壇で、主は犠牲になってくださいました。その犠牲となった主をこの口に当て、イエス・キリストをこの口に食べて、イエス・キリストの御言葉である、イエス・キリストをこの口から宣言して、そしてどんどん清められていくのであるならば、皆さんも主の働きにふさわしい者として大いに用いられる者になっていくのです。
この十字架という祭壇、そこは聖なる地です。そこでは靴を脱ぐべきであり、高ぶりは脱ぎ捨てられ、また偽り、嘘、偽りは焼き尽くされ、またたくさん口からベラベラとしゃべってしまう口は、本当にこの沈黙に変えられて、また高ぶった野心、これはへりくだられて、清められて、そして主の御前において用いられるような者になることができるのです。神への生贄は砕かれた魂、砕かれた悔いた心。神様はそれを蔑まれません。本当に私たちは、主の働きに出る時においては、脱ぐべき靴を脱ぎ、また清められるべき唇を清めていただき、そして本当にこのもはや自分の野心、自分の考え、主義、主張、これは全部降ろして、そうした靴を脱いで、そしてこの十字架の血潮でもって清められ、それでこそ主の働きに勤しむことができるようになります。
今、私たちはこの唇を清めていただきましょう。また本当に今までの自分の野心だとか、自分の夢だとか、そうした諸々の靴は脱ぎ捨てましょう。そして主の御前に進み出る時、主の御声が聞こえるのです。「誰を遣わそうか。誰が我々のために行くだろうか。」皆さんはこの本当に脱ぐべき靴を脱ぎ、また清められるべき唇で清めていただき、そしてこの主の働きに従事するに値する者とされ、そして大いに主の働きをしていく皆さんとなっていきますように。
【結論】
神の働きに従事するために、私たちはまず整えられる必要があります。使命の前に清めがあり、召命の前に献身があります。
脱ぐべき三つの靴:
-
私たちの汚れ
-
私たちの立場(世的なステータス)
-
私たちの力(自分の野心や計画)
清められるべき唇:
-
イエス・キリストという祭壇の炭火を口に当てる
-
御言葉なるキリストを口ずさみ、宣言する
-
聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くする
十字架という聖なる祭壇の前で、砕かれた魂と悔いた心をもって進み出る時、主は「さあ行け」と私たちを遣わしてくださいます。清められた者こそが、主の働きにふさわしい者として大いに用いられるのです。
主の働きをする者が通るべき通過儀礼:くちびるの清め(イザヤ6:1-8) 水曜昼礼拝
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2026-2-18 16:50
主の働きをする者が通るべき通過儀礼:くちびるの清め(イザヤ6:1-8) 水曜昼礼拝
Youtube動画
【概要】
預言者イザヤが神殿で主の聖なる臨在に触れ、自らの唇の汚れを示され、祭壇の炭火によって清められた後、主の召命に応答して「私を遣わしてください」と宣言するまでの過程を通して、主に仕える者に求められる清さと備えについて学びます。
【聖書箇所】
イザヤ6:1-8
【悔い改めの促しの言葉】
私たちの唇は汚れています。預言者イザヤでさえも、聖なる主の御前で「私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる」と絶望しました。私たちは自分の唇の汚れを認め、主の清めを求める必要があります。
【励ましの言葉】
祭壇の炭火、すなわち十字架で私たちの身代わりとなられたイエス様が、私たちの唇に触れてくださるなら、私たちの不義は取り去られ、罪も贖われます。御言葉を宣言する唇となるとき、主は私たちを清め、用いてくださいます。
【勧めの言葉】
御言葉を口ずさみましょう。声に出して宣言しましょう。黙読や思い巡らすだけでは唇は用いられません。口から御言葉を宣言してこそ、私たちは清められ、主の働き人として遣わされるのです。
【AIによる文字起こし】
今日、恵みをいただく御言葉はイザヤ書6章1節から8節です。初めに8節を皆さんで宣言しました。
「私は、誰を遣わそう、誰が我々のために行くだろうと言っておられる主の声を聞いたので言った。ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)
私たちはここにおります。主よ、私を遣わしてくださいと願い求める者ではありますが、しかし本当にこの遣わされるにふさわしい者が世の中において乏しいことを主は見ておられます。主よ、私たちも祭壇の炭火を持ってこの唇を清め、罪咎が清められ、そして主の御前において遣わされるにふさわしい者として整えてくださいますように。
主は本当にこの全世界に目をあまねく見渡しておられて、そして本当に人を救いたい、救いたい、私のために行ってくれる働き人は誰だろうかと見ておられます。
このイザヤ書6章は、預言者イザヤが改めて主からの召しをいただいた、証明をいただいた箇所なんですね。彼は6章になる前、確かに主の預言者として働きはしていました。けれども、改めて神様からこうもはっきりと明確に証明をいただいて、そして彼自身が「主よ、私を遣わしてください」とそのように主に申し上げたのは、ここが最初なんですね。
彼が神様から召し出される、そして彼自身がその証明を受ける、その時に一体何が起きたのか。また神様がこの主の働き人を遣わすにあたって、一体何が条件であるのか。私たちも本当につくばみらいの地に、また次代のために遣わされたいと願うんですが、では一体どのようなものが遣わされるに値する者であるのか、それを今日イザヤ書6章から見ていきたいと思います。
まず、この時代はどういう時代だったのか。1節の方を見ますと「ウジヤ王が死んだ年に」と書いてあります。当時は人々の心が神様から離れていた、そういう時代でした。神様が軽んじられ、また神殿が軽んじられ、主の宮、すなわち礼拝が軽んじられていた時代でした。
神殿というところ、主を礼拝するところが、いかに聖なる場所であるのか、このウジヤ王が体験した出来事から知ることができます。ウジヤ王という者、彼はもともと最初のうちは良い王様だったんですけども、しかし人生の後半、彼は高ぶって悪い王様になっていたということが歴代誌を見ればわかります。
彼は祭司ゼカリヤという祭司に指導を受けていた時がありました。あたかも父親であるかのように、この祭司ゼカリヤはウジヤ王を息子のようにして、神様にしっかりと従うんですよ、そしてこの神殿は軽んじられてはなりませんということを教えていました。その教えに従っていた間、彼の父親代わりの祭司が生きていた間は、本当にウジヤ王はしっかりと主に従っていたんですが、しかしやがてこのゼカリヤが死んで、そしてこの王様、どんどん栄えていきます。そして、そういうふうになっていくと、高ぶりが出てきてしまったんですね。
彼はこの祭司以外は入ってはならないとされているこの主の宮、神殿に入って、そしてこの祭壇の上に、彼自身でお香を焚こうとしたんですね。本来、この主の宮というところ、そこは神様から任命を受けた祭司しか入ってはならないはずのところ、ましてや香を焚くというこう聖なる行為、それは本当に主から特別に使命を受けた者でなくてはならないんですが、しかしウジヤは王として、その中に入って自分が直接神様とのそのやり取りをするんだということで入って香を焚こうとしました。
それを見た祭司たちが、このウジヤ王を止めるために彼の後に入っていって、そしてウジヤ王に注意をします。「王様、あなたはここに入ってはなりません。香を焚くのは祭司の務めであって、あなたはその任命を受けていないから、どうかお控えください」というふうに言うんですね。
その時、ウジヤ王はまだ打たれておりませんでした。ピンピンしていたんですけれども、しかしこの祭司の注意の言葉を聞いた途端、彼はこの心を強情にして怒って、そして無理やりに強引にお香を神様の前に焚こうとしたんですね。怒りの心を持って、無理やりに強引に。そしてその瞬間、その瞬間、ウジヤ王のこの額にツァラアトが、ライ病が現れたんです。
額、本当に自分の思い、これを成し遂げたいという思い、それがもう本当にここに出て、そしてまた頑なな思いがここに現れる。この額というところは、本当に聖書においては、そういう人のその思い、それが現れるところなんですけども、彼の強情な怒りが額に出た途端に、そこがツァラアトに侵されてしまいました。
神の御前において香を焚くという行為、また礼拝という行為、これはいかに聖なるものであるか、それが示されたところであり、そして人間のその熱心だとか、あるいは神様に自分が捧げるんだという、任命も受けていないにもかかわらず、この聖なる務めに立とうとする行為がいかに恐れ多い行動であるのか。
ふさわしくない者が主の御前にお香を焚いて、あの大祭司アロンの2人の息子でさえも、主の御前に間違った火を焚いた時に焼き殺されてしまいました。もう本当にふさわしくない心で主の御前に捧げるということが、いかに恐ろしいことか。
本来だったら、このウジヤ王、もう主の宮に入った途端に打たれてもおかしくなかったんですけれども、まだ打たれませんでした。最初から注意を受けた。その時もまだマシだったんですけども、しかし注意を受けて、その言葉がウジヤ王の耳に入った時に、彼は怒って自分の思いを無理やり遂げようとしたら、このツァラアトがその額に現れてしまいました。本当に主の憐れみがまた注がれていたんですね。注意を受けるんですね。そして注意を受けてもなお強引にこのしてはならないことをする。それでも命が打たれないでこのツァラアトが現れた。これは私たちに対する警告でもあります。
本当に主の御前にふさわしくない心で、この宮において、この主に礼拝を捧げるという一見なんか正しく見える行為、しかし主は心を見られるお方であり、またその人が果たしてそれにふさわしいかどうかを見られるお方です。私たちはですから、本当にこの主の働きをするにおいて、しっかりと自分自身を整えてね。ましてや人を怒り心でもって、この礼拝的な行為をするということ、これは本当にもってのほかなんですね。
私たちはウジヤ王のように怒り狂ったような、ふさわしくない、そういう心でもって主に仕えるということをしていないでしょうか。私たちはよくよく気をつけるべきです。
このウジヤ王が死んだ年に1節に書いてあるんですけども、その年に、主がいかにこの主の宮において、また主の臨在において、いかに聖なるお方であるのかを、主は幻を持ってイザヤに示してくださいました。
イザヤは高く上げられた王座に座しておられる主を見ました。「その裾は神殿に満ちていた」(イザヤ6:1)と1節に書いてあります。神殿というところ、主が住まわれるところだと思われるんですけども、しかし逆なんですね。この神殿さえも主の裾を収めることができないほどに、主は偉大な、偉大な、偉大なお方なんです。
「セラフィムがその上に立っていた。六つの翼があって、二つで顔を覆い、二つで両足を覆い、二つで飛んでおりました。そして互いに呼び交わしています。聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」(イザヤ6:2-3)
この叫ぶ者の声の上に、この神殿の土台は揺れ動いて、この宮は主の栄光の臨在の煙で満たされました。主の宮、また礼拝するべきところ、これがいかに聖なるところであるのか。
ヘブライ思考において、繰り返しは本当に強調を表すんですが、しかし3回も、これ最高位の強調、主は聖なるお方だと強調されました。本当に私たちは、この聖なるお方の御前に、いかに態度を整え、身なりを整え、清められてでなくてはならないのか。
これに対して、イザヤは絶望します。「ああ、私はもうダメだ」って絶望するんですね。このイザヤが、この神様の聖なる有様に圧倒されて絶望した。その絶望の内容はどんな絶望内容だったかというと、彼、「私は唇が汚れた者で、そしてこの唇の汚れた民の間に住んでいる。しかもそんな私が万軍の神、主をこの目で見てしまった」(イザヤ6:5)これが絶望の内容でした。
この唇、これが本当に汚れているということが真っ先の絶望の内容でした。聖なる万軍の主。イザヤは預言者だったんですよ。神の言葉を預かって、そして人々に届けるという、唇がもう清いと思っていた預言者なんですけど、しかしそれ、そんなイザヤでさえも絶望するほどに、「あ、自分は本当にこの唇が汚れた者だったんだ」という、このことに打ちのめされました。
私たちも本当にこの唇がいかに汚れているか、主の働きをするにおいて、本当にこの唇、これに最も気をつけなくてはならないことが、ここにおいて示されております。
ヤコブ書において唇があって、この舌、本当に小さな器官です。本当にこんなちっこい唇の器官ではあるんですけども、しかし、この小さい器官が大事を言って、この人生という車輪を焼き尽くしてしまうということが書いてあります。本当に唇は火である。そして、その小さな火があの大きな森を燃やすというふうに書いてあります。
私たちはこの唇、本当に気をつけるべきです。軽率な言葉、また本当に軽々しく神の御前に立つこと。軽々しく、この唇から何か思いつきで言葉を発するようなことはあってはならないんですね。そしてこの唇、本当に自分の人生の車輪を焼き、また相手の人生を焼き尽くすようなことにもなりかねません。
これから本当に特に子供たちと関わっていく仕事になっていくんですけども、本当に子供、小さな言葉で傷つきやすい。そういうこともですね、私たちは。ですから、しっかりと今のうちにこの唇を見張って、そして唇が清められた状態で、この働きに出るべきであるんです。
この私たちの唇はどうやったら清められるのか。イザヤは清められます。
「すると私のもとにセラフィムの一人が飛んできたが、その手には祭壇の上から火ばさみで取った燃え盛る炭があった。彼は私の口に触れて言った。見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(イザヤ6:6-7)
この口と火は非常に関連が深いんですね。ラザロと金持ちのお話、皆さんご存知ですね。ラザロ、このお金持ちの前でこの物乞いをしていたんですけど、しかし金持ちは一切彼に何の施しもしませんでした。やがて金持ちはハデスに落とされるんですね。そこはとても暑い暑いところです。そして、特に口が熱いんですね。彼の願いが、この口が、舌が冷やされるということ。もうせめて、もうほんの少しの水でもいいから、自分を、口を冷やしてほしいというほどに、そのハデスというところ、地獄は、口が特に苦しみを受けるところのようです。唇で罪を犯してきた。
本当にこの私たちは、そのことにおいても、ああ、本当に私たちのこの唇で災いを振りまくということはないようにということを私たちは知るべきですけれども、このイザヤは唇にこの祭壇の燃え盛る炭が当てられるんですね。この祭壇の炭火、イザヤの口に、この燃え盛る炭が当てられました。
普通、こんなもう真っ赤に燃えてる炭が皆さんの口に当てられたら、火傷どころの騒ぎじゃないですね。けれども、どうやらイザヤは、あの口が火傷をしないで、その後もしゃべることができたようです。一体これはどういうことでしょうか。
祭壇というところに注目するべきです。祭壇というところは、私たち人間の罪の身代わりに動物がほふられて焼かれる場所なんですね。私たちの身代わりとなった動物が焼かれているのがこの祭壇です。この祭壇ですから、イザヤの代わりに焼かれた動物です。今、この祭壇の中で焼かれている動物は、一体皆さんにとってどなたなのか。イエス様です。
イエス様が皆さんの身代わりになって、屠られて、祭壇で焼き尽くされて、そしてその祭壇で焼かれているイエス様が皆さんに触れるのであるならば、皆さんの口を通して、このイエス・キリストという御言葉が触れられるのであるならば、皆さんの咎は清められるんです。
7節を見ますと、じゃあ7節、皆さんで一緒に読みましょうか。
「彼は私の口に触れて言った。見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(イザヤ6:7)
イエス様は皆さんの代わりに祭壇、十字架という祭壇において屠られ、焼き尽くされる思いで、イエス様は十字架の上で「私は渇く」と、本当に焼かれて焼かれて渇いて渇いて、その思いを皆さんの代わりにされました。
この十字架のイエス様に皆さんが触れるのであるならば、皆さんの不義が取り去られるんです。皆さんの唇は、いつもこの祭壇の炭で焼かれたイエス様を証しする唇であり、御言葉であるイエス様を宣言する唇であるべきなんです。するならば、皆さんがいかに唇が汚れた者であろうとも、いかに今までの人生、罪を重ねてきた者であろうとも、この皆さんの唇を通して御言葉を語り、御言葉を宣言し、またイエス様を褒め称え、賛美する唇であるのであるならば、皆さんの不義は取り去られ、皆さんの罪も贖われるんです。
ですから、私たち、本当にこの唇が清められる必要があるんです。そしてその後です。
イザヤ、主が語っておられる声を聞くんですね。8節なんですけども、8節、じゃあ8節、皆さんと一緒に宣言したいと思います。
「私は、誰を遣わそう、誰が我々のために行くだろうと言っておられる主の声を聞いたので言った。ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)
イザヤはこの不義が取り除かれた、そして本当にこのもう恐れるな、あなたの罪は取り去られたということを聞いたので、この「私を遣わしてください」と言うことができるようになりました。
今日、皆さんに言いたいこと、皆さんは主からの証明があるでしょう。神様からこの仕事をしなさいという証明があるでしょう。その皆さんが一番気をつけるべきことは、唇の言葉です。そして本当にこの唇が汚れた民の間に住んでいるということをイザヤは絶望したんですけども、私たちもこの唇の汚れた人々の間から出て行くべきであり、そして本当に御言葉を語る唇の交わりの中に居続けるべきです。
そして、この唇を真に清められるお方が、祭壇の上に、十字架の上に捧げられたイエス様です。このイエス様ご自身、御言葉であるイエス様ご自身を皆さんの唇から語り出し、いつも暗唱によって唇から御言葉を宣言し、そして皆さんの思い、心が本当にこの御言葉によって清められた、清められてこそ、皆さんは世に出て行くことができ、主のために働くことができるんですね。
テフィリンインターナショナルアカデミーつくばみらいは、御言葉を宣言する者です。これから私たちは子供たちの口を通して、この十字架に捧げられたイエス様なる御言葉を子供たちの口を通して宣言させていく働きをしていきます。
まずは皆さん自身が御言葉を口ずさみましょう。唇を思い描くだけでは唇が用いられませんね。黙読するだけでも、あるいは御言葉を思い巡らすだけでも唇が通りません。皆さんの口から御言葉を宣言して、声に出して宣言してこそ、皆さんは清められ、また整えられるんです。
皆さんはまさにこの御言葉によって清められ、そして主の働き人として大いに大いに有用な者として、そして主から御声がかかった時、皆さんの唇からは「ここに私がおります。主よ、私を遣わしてください」その宣言をして、そして主から遣わされていく皆さんでありますように。
【結論】
主に仕える者として遣わされるために、私たちはまず自分の唇の汚れを認め、十字架で焼き尽くされたイエス様、すなわち御言葉によって清められる必要があります。祭壇の炭火は、私たちの身代わりとなって十字架で屠られたイエス・キリストを表しています。この御言葉であるイエス様を私たちの唇から宣言し、声に出して語り出すとき、私たちの不義は取り去られ、罪も贖われます。唇が清められた者だけが、主の「誰を遣わそう」という御声に「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応答することができるのです。御言葉を暗唱し、宣言し続けることによって、私たちは主の働き人としてふさわしく整えられ、次世代のために、また世界のために遣わされていくのです。
五つのパンと二匹の魚:人の国では1人分。神の国では5千人分!(ルカ9:10-17) 早天祈祷会 2026年2月18日(Wed)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2026-2-18 6:46
五つのパンと二匹の魚:人の国では1人分。神の国では5千人分!(ルカ9:10-17) 早天祈祷会 2026年2月18日(Wed)
Youtube動画
【概要】
目の前には行き倒れになる危険がある5千人の群衆。手元にはわずか五つのパンと二匹の魚…!
しかし、持っている僅かなもの全てを主に差し出す時、人の限界をはるかに超える神の王国が到来する!
あなたは人の王国の限界内で生きるか、それとも神の国の無限の担い手となるか?
【聖書箇所】
ルカ9:10-17
【励ましの言葉】
神の国は不足から始まるのではなく、私たちがまず差し出すところから始まります。イエス様の手から渡された恵みを流し出せば、必ず人々は満足します。
【勧めの言葉】
神の国に積極的に参加しましょう。観客席ではなく、フィールドに出て神の働きに参与する者となりましょう。自分のタラントを地面に埋めず、活用していくことが求められています。
【AIによる文字起こし】
今朝、恵みをいただく御言葉は、ルカによる福音書の9章10節から17節です。では、初めに10節と11節を一緒に読みましょう。
「さて、使徒たちは帰ってきて、自分たちのしてきたことを報告した。それから、イエスは彼らを連れてベツサイダという町へ密かに退かれた。ところが、多くの群衆がこれを知ってついてきた。それでイエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、癒しの必要な人たちをお癒しになった。」
今日で4回目になりますが、主日からずっと5000人への給食の場面を、四つの福音書の並行箇所から学んでいます。主日はヨハネ、月曜日はマタイ、昨日はマルコ、そして今朝はルカによる福音書からです。イエス様がわずか五つのパンと二匹の魚を持って5000人以上を養ったその場面を、四つの方向から見ることになります。
ルカの福音書はお医者さんであるルカが書いたもので、理系的な思考の持ち主です。本当に他の福音書にはない観点を持って、具体的なところを詳しく記しています。
ルカの福音書独特なところで、まず10節では「使徒たちは帰ってきて、自分たちのしてきたことを報告した」と書いてあります。他の箇所にはこの部分がありません。弟子たちは行った先々でイエス様の言われた通りになったこと、すべての必要が満たされたこと、イエス様の御名を用いれば悪霊が追い出され、病が癒されたことを、喜びの報告として次々と伝えたことでしょう。
そして弟子たちは働いてきましたから、疲れてもいました。ですから、イエス様は彼らを連れてベツサイダという町へ密かに退かれました。ベツサイダという町、具体的な町の名前が出てきます。これは「漁師の家」あるいは「食物の家」という意味です。ですから、この漁師たち、人間を取る漁師たちが養いを受けるところ、食物が満ち溢れたところです。そこに密かに退かれました。これは彼らだけで行って休むためでした。
けれども11節、「ところが多くの群衆がこれを知ってついてきた」とあります。それに対してイエス様は、昨日のマルコの箇所では、羊飼いのいない羊のような有様を見て深く哀れんだと書いてありました。そして今日のルカの箇所においては「喜んで彼らを迎え」とあります。
本当になぜ喜んで彼らを迎えたのでしょうか。イエス様も喜ばれるのです。本当に私たちは、時には羊飼いのいない羊のようにさまよい、何をしたらいいのかわからない。周りに獣が牙をむいてきそうな、自分の力ではどうしようもないような、そういう時にイエス様を頼っていく。そういう羊たちがイエス様のところに来る様、しかも5000人以上です。この様を見て、イエス様は喜ばれるのです。
私たちは時に働きに疲れて、ああ休みたいな、ようやくここで休めると思ったら、電話がかかってきて、また仕事に行かなければいけない。ああ、またかと思うかもしれません。しかしイエス様は、本当にこの疲れて行き場を失っている羊が自分のところに頼ってくる、そういう場面においては、いついかなる時も喜んで迎えてくださるのです。また私たち主の働き人も、本当にそのようにイエス様の性質を身に帯びるべきなのです。
イエス様はここで「喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し」と書いてあります。これはルカ独特です。神の国のことを話した、と書いてあります。まず神の国を語られること、これがイエス様のなさることです。奇跡よりもまず前に、その前に、またパン、体の必要よりももっと前に、まず神の国のことをイエス様はなさるのです。「神の国とその義をまず第一に求めなさい」と書いてありますね。
私たちも同じです。イエス様に対して用事があるのは、パンが満たされることだけ。パンの必要が来たら、やっとイエス様のもとに行って、パンの必要が満たされて満腹したら「ああ、ありがとう」と言って、イエス様のもとを去っている。また自分の好き勝手をする。ここには神の国はないですね、皆さん。
神の国、今日の重要なキーワードです。神の国、ギリシャ語原典から見ますと、これは神様の支配領域ということです。あの国、この国、いろんな国がありますけれども、しかしこの神の国という時には、そこがどの国、あの国であったとしても、そこが神の支配領域であるとするならば、そこが神の国です。神の国、それは神様が支配するところで、ここも神の御国になれば、もう本当にそこかしこ、そこが神様の支配の領域になる。皆さんが神様に支配されているとするならば、皆さんが行く先々が神の国になります。
あるお家では、あの旦那さんが支配する国になっているかもしれません。あるところではそうじゃなく、奥さんが支配する国になっているかもしれませんが、けれども、その人その人が神様の支配下にあるならば、そこが神の国になるのです。
ですから、まずパンの必要とか、あるいは何か奇跡的なことが起こることを期待するといったよりも、まず神の国、神の支配が及ぶことをまず求めなくてはならないです。なぜなら、人が支配する国では、五つのパンと二匹の魚は、これは一人以上養えない、満ち足りないです。人の支配する国では、五つのパンと二匹の魚しか手元にない。目の前5000人いるとすれば、もうどうぞ群衆たちお帰りください、それぞれで食べ物を調達してください。これが人の国ですけども、神の国とは五つのパンと二匹の魚でもって5000人以上が満ち足りて、なおかつ働き人の分の籠もいっぱいに満ち溢れる。それが神の国なんです。だから人の支配を捨てて、神の支配、神の国をまず第一に求めなさいということが、ここにおいてルカの福音書においては語られているのです。
イエス様がこの人々の御前に立って、群衆たちに神の国のことを教えられた。そして、その瞬間、そこがもうすでに神の国となっていきました。「癒しの必要な人たちをお癒しになった」とも書いてあります。ですから、癒しの業が起こるのです。癒されなくてはならない人がイエス様のもとに癒しを求めて走っていたからです。
病気の子供を抱えたお母さんがそこにいたことでしょう。その子供を癒してください。イエス様は癒してくださったことでしょう。また病気を持った人、もう本当にこの寂しいベツサイダにわざわざ歩いていくことは大変だったことでしょう。そんな彼が、イエス様のことを見つめたら、イエス様の方がこちらを見つめているのです。イエス様は癒しが必要な人をご存知です。イエス様の眼差しを彼は感じて、イエス様のもとに引き寄せられていったことでしょう。そしてイエス様が癒してくださったことでしょう。
イエス様は皆さんのことも見つめておられます。皆さんをあのこと、このことから解放したい。癒してあげたい。罪を清めてあげたい。それがイエス様のまなざしです。皆さんはイエス様の御前において、本当に自分自身を差し出す。そして神の国が、その支配権が及ぶことをまず大事に皆さんが求めて、そして癒しをいただき、必要の満たしをいただく。そのことがここにおいて成立するのです。
このイエス様が夕暮れまでずっとこの神の国のことを語り、また人々を癒し、その業を行っていきました。でも弟子たちは、このイエス様の神の国のことに目を留めていたのですが、空を見てみると、もう夕暮れが迫っています。日が傾いています。夕日の影が伸びてきています。すると弟子たち、不安になってきたんです。不安の心が広がり、また空腹のお腹がググっとなってくるんです。
で、それで12節見ますと、「12人が御もとに来て、『この群衆を解散させてください。そして、周りの村や部落に行って宿を取らせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちはこんな人里離れたところにいるのですから』」。まあ、もっともなところです。けれども、このこんな寂しいところ、この群衆たちを解散させて、もう5000人、男子だけでも5000人、女性も合わせれば1万人ぐらい。そんな群衆を、まあ各自がそれぞれの村や部落に行って宿を取らせてください。何か食べることができればいい。
弟子たち、なんとなく、ちょっとそれ無理なんじゃないか、こんな辺鄙なところで、それでこんな人数、宿ね、一気にこんな1万人も収容する宿なんて、果たしてあるんだろうか。まあないだろうな、というところがあったかもしれません。とにかく人間の力ね。神の国ではなく、人の国ではそんなもんなんです。神の国が支配する国に対して、人間の支配する国というものは、どうしても不足をきたらせ、不足を数え、そして人間的な思考で、この五つのパンと二匹の魚しかないとするならば、それを1万で割れば、一人頭ね、ほんの小さなパンくずぐらいしか、何ミクロンしか一人頭ないみたいな、なんかそんな風になってしまうんですけど、そこは人の考え、神の国の考えは違います。
神の国の考えは計算ではなく、イエス様に持っていくところから始まるんです。イエス様に持って行けば、そしてイエス様にお与えすれば、イエス様の支配、神の国がそこに広がっていくんです。神の国はですからね、足りるから始まるということではなく、まず差し出すことから始まるんです。
もう一度言いますと、神の国は皆さんの側が差し出すところから始まります。なんか受け取って満ち足りたから始める。これ、人間の国です。人間の国は自分の手元にあるもので何か始めようとしますし、手元にないんだったら、神様に求めるんではなく、人に求め、人に追求し、人から奪い、かき集めて、そこから始める。これが人間の国。けれども、神の国はまず皆さん自身から差し出すところから始まるのです。
「あなた方が与えなさい」。イエス様がおっしゃいます。13節で「イエスは彼らに言われた。『あなた方で何か食べるものをあげなさい』」。イエス様は、この弟子たちが解散させてくださいというのに対して、イエス様は「あなた方で」、無茶ぶりのように聞こえますけども、「あなた方で何か食べるものをあげなさい」。これね、チャレンジです。
神の国は皆さん、弟子がまずそこに参与する世界です。参政党っていう党がありますね。参加する政治の党。皆さんも神の国の政治に参加する。そこから神の国が始まるんです。神の国は、あの傍観者の国ではありません。神の国は観客席の側のものではなく、この観客席ではなく、グラウンドに出て、そのフィールドに立って、神の政治に積極的に参加するところから始まるのが神の国です。まず皆さん側が差し出すところから始まります。そしたら皆さん一人一人のその差し出したところから神の支配が始まっていくんです。
神の国は、自分がもう装備が十分整ったから、さあ、いざ出陣ではなく、主が今行けと言われたら、装備はともかく、そして足を一歩踏み出すところから始まります。イエス様は「あなた方が行って与えなさい」とこの場面でおっしゃいました。これがまずイエス様の側の挑戦です。それに対して私たちは答えて参加するものです。
信仰者は観客席で育つものではなく、競技場に、フィールドに出て育つものです。積極的に働きに参加するものこそ、多くを実らせるんです。五タラントを預けられたら、その五タラントを活用しに行く。二タラントだったら二タラントを活用しに出ていく。一番良くないのは、タラントを地面の中に埋めて活用しない、参加しない。これが神の国において悪い怠惰なしもべだということになってしまうんです。
だから私たちは積極的にそれを活用して活用していけば、神の国がどんどんどんどん広がっていくんです。タラントのたとえでイエス様が話された時、タラントで活用して損失を出しましたなんてこと、一つもなかったです。必ず五タラント活用したら、五タラントもう余分に儲けました。損しましたはない。これが神の国です。皆さんが神の国のために行くならば、必ずそれが広がっていくんです。
で、そしたら、この人々を座らせなさいっていうふうにイエス様は言われました。14節では「それは男だけでおよそ5000人もいたからである。しかし、イエスは弟子たちに言われた。『人々を50人ぐらい組にして座らせなさい』」というふうに言いました。弟子たちはそのようにして全部を座らせたと書いてあります。座らせる、食事の体制を取らせることです。
で、ここで、組にしてということが語られました。他の福音書でも、この座らせる時に50人ぐらい、あるいは100人ぐらい、そういう組にして、まあ、いろんなグループに、まあ何人いる、各グループごとに人数は違いますけれども、それで組にして座らせる。これは何を意味するか。これはこの神の国というものは、共同体の中で、それが行われるということです。
共同体から離れて、離れて離れ離れになっては、このイエス様から割いていただく恵みを流し出していくこともできませんし、受け取ることもできないんです。必ずこのイエスキリストの集いの中で、これは行われるんです。まずはイエス様の手から、手にあるパンがイエス様の手で割かれました。で、そのパンが割かれたものは弟子の手に渡りました。弟子は受け取りました、イエス様から。で、イエス様から受け取ったパンを、さらに弟子たちはこの共同体の中に出て行って、そのイエス様からいただいた恵みを割いて、また配る。また配る。これは決して尽きないんです。
イエス様からいただいた恵みを共同体ごとに配り、そして共同体の中では人の手から人の手にまた渡っていって、そして人から人へと、手から手へと、この神の国は広がっていくものなんです。神の国の性質、それは人から人へと流れ出していくものです。いや、流し出していくものです。自然に流れていくものではない。人の側がこの参与をするんです。参政党、神の国の参政権を皆さん持っており、そしてそれに積極的に参加するべきなんです。
まあ、世の中の参政党は、あの人の政治が行われる党なんですけども、しかし、神の国は神の国の政治が行われるところであり、それは皆さんが積極的に参加してこそ初めて働きが行われるものです。参加しないならば何も起これません。参加してこそ起こっていくものです。そしてそれは弟子の手から人の手と、人の手からさらに人の手と、イエス様の恵み、イエス様のパン、これが流し出されていくものです。
16節見ますと、「するとイエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた」と書いてあります。人の手から人の手へと渡りました。イエス様が祝福してくださったもの、それがまず我ら主の働き人の手に渡り、それが世に渡っていく時、人々の間で奇跡が起こるんです。
17節、「人々は皆、食べて満腹した。そして余ったパン切れを取り集めると、12カゴあった。」アーメン。イエス様から手渡された恵みを主の働き人が割いて、それを手から手へと渡していく時、流し出していく時、人々は満腹するんです。
今、つくばみらいの地において働きを皆さんしていますね。準備をしていますけれども、そこの人々は満腹するんです。満足するんです。イエス様の手から渡されたものを皆さんが流し出せば、それを受け取った人々は満腹するんです。だから皆さん、不信仰に陥ってはなりません。果たしてこれ、人々が満足するんだろうか。いやいや、イエス様の手から渡されたものを人に渡せば、必ず人は満足するものなんです。
イエス様の手から渡された、これを果たしてこんなパンが裂かれた、こんな小さなもの、人の手に渡って、人からなんだ、こんな、なんか怒られたらどうしようかって、そんな不安があることは一切なし。神の国のものは人々に流れ出して満足させるものです。もし相手が満足しない、怒るってキーとなるとするならば、それは神の国の人ではなく、ああ、じゃああなたには神の国の恵みふさわしくなかったですね。じゃあ、他の人に渡します、になればいいんです。
私たちは本当にこのイエスキリストの恵み、これを人に流し出していくべきものです。神の国においては、誰かが持て余して、誰かが飢えるということないんです。共産圏の人々、誰かが持て余して、誰かが飢えるということが非常に顕著な、そういう国、国です。共産圏の国や一部の人が持て余して、他の人々大多数が飢えている。これが人の国です。神の国では、そういったことはありません。誰かがいっぱい持っていて、ある人々が飢えている、それではありません。神の国は不足で始まったものは、満ち足りて余りあっていっぱいになることで終結するものです。
人の国が、初めはいっぱいあったものが、どんどん人がそれを奪って奪ってパイを、それを得て、ある人は賄賂を持って、で、そして有効に進めて、で、賄賂を集める側がどんどん肥え太って、で、賄賂を差し出さなくてはならない側がどんどん痩せ細っていく。これが人の国。けれども、神の国はわずかな、五つのパンと二匹の魚しか、わずかしかなかったものが、増え広がって、増え広がって、満ち足りて終わる。これが神の国です。
今日、ルカの福音書の方からのこの箇所においては、皆さんにチャレンジが与えられています。皆さんは果たして参加型でしょうか、それとも見物型になるでしょうか。イエス様は「あなた方は与えなさい。あなた方が働きなさい」というふうに言っておられます。皆さんの今持っているパンは小さいかもしれないです。けれども主は言われます。あなたのそのパンをまず差し出しなさい。あなたの力は小さいかもしれないけれども、信仰を持って、この参加する時、皆さんのタラントは倍に倍に広がっていくものです。一番良くないのは、タラントを地面の中に埋めたままであるということでした。
神の国は誰かがやってくれる国ではありません。皆さんが、自分が参加するものです。皆さんが今日その一歩を踏み出して、参加して、どんどんと多くを稼いでいく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
神の国は、私たちがイエス様から受け取った恵みを積極的に人々に流し出していくところから始まります。観客席ではなく、フィールドに立って神の働きに参加する時、わずかなものでも神の祝福によって多くの人を満足させることができます。神の国とその義をまず第一に求め、自分のタラントを活用して、神の支配が及ぶ領域を広げていく者となりましょう。
霊・肉ともに満腹させてくださる真の羊飼いイエス様(マルコ6:30-44) 早天祈祷会 2026年2月17日(Tue)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2026-2-17 6:23
霊・肉ともに満腹させてくださる真の羊飼いイエス様(マルコ6:30-44) 早天祈祷会 2026年2月17日(Tue)
Youtube動画
【概要】
しばしの休息のために寂しい所に来たイエス様と弟子たちを待ち受けていたのは、羊飼いのいない羊のような大群衆! 疲れ果て、飢えと病に苦しむ彼らを前に、イエス様は深い憐れみを抱く。 そして、弟子たちの常識を覆す驚愕の指示が下される! 「あなた方で彼らに何か食べるものをあげなさい」。 手元にあるのは、たった五つのパンと二匹の魚のみ。 この状況でイエス様はいかにして5000人以上もの人々を満腹させたのか? その奇跡の根源は、まことの羊飼いイエス様の、はらわたがちぎれるほどの深い憐れみにあった。
【聖書箇所】
マルコ6:30-44(特に34節を宣言)
【慰めの言葉】
イエス様は真の羊飼いとして、今日も一人一人を深く憐れみ、羊飼いのいない羊を探し求め、見つけ、抱き上げ、御前へと連れて行ってくださる主です。
【励ましの言葉】
ないもの尽くしの時こそ主を望むべき時です。自分に人がいない時、ものがない時、ことができない時、あらゆるない尽くしの時に、イエス様を呼び求めることができます。イエス様は私たちのないものを満たしてくださる方です。
【勧めの言葉】
とるもとりあえず、イエス様のもとに行くべきです。自分たちにできる限りのことを行い、問題をイエス様に持って行くとき、イエス様が働かれます。小さな信仰のかけらをイエス様にお捧げするとき、イエス様は皆が見て、聞いて、触れることのできる主となられます。
【AIによる文字起こし】
今日恵みをいただく御言葉は、マルコによる福音書の6章30節から44節です。はじめに皆さんと一緒に34節を宣言したいと思います。
「イエスは船から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(マルコ6:34)
羊飼いであられるイエス様、あなたは今日も、その一人一人を、羊飼いのいない羊を憐れむ心を持って、羊を探し求め、羊を見つけ、羊を抱き上げ、羊飼いの檻へとあなたの御前へと連れて行ってくださる主であられることを感謝いたします。
素晴らしい主イエス・キリスト、御名を褒め称え賛美いたします。イエス様は昨日も今日もいつも同じです。最近、主日ではヨハネの福音書から、そして月曜日はマタイの福音書から、男性だけでも5000人、女性も合わせると1万人以上を、わずか五つのパンと二匹の魚で豊かに満腹させて養ってくださったところを見てきました。今日はマルコによる福音書から、マルコさんの視点でこの同じ場面を見ていきたいと思います。
このマルコの福音書を見ますと、そもそもの事の発端は、イエス様が図らずもこのことをしたということがわかります。もともとお弟子さんたちが、この使徒たちが、イエス様のもとに来て、自分たちの宣教報告をするんですね。それで31節では、イエス様は「さあ、もうあなた方だけで寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」と言われたんです。この弟子たちが疲れて帰ってきて、それでしばらく休むという意図を持って、イエス様はこの働き人にしばしの安息をもたらすようにと、寂しいところに行かれたんですね。
31節に書いてあります。「人の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。」
本当に働き人は、ゆっくりする時間がなかなか取れないということで、イエス様はこの弟子たちをしばし休ませようとしたんですが、それで船で行って、寂しいところへと行こうとするんですね。
ところが33節で見ますと、「多くの人々が彼らの出て行くのを見、それと気づいて方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先についてしまった。」と書いてありますね。
多くのイエス様を求める人々がいたんです。方々の町々から。このイエス様のもとに行けば、あらゆる煩いが癒され、また問題が解決され、そして心がカラカラだった心が潤され、満たされるということで、多くの人々が、このイエス様とそのご一行が寂しいところに行かれるにもかかわらず、5000人以上の人々が寂しいところに集団で行くんですね。
その中には病気の子供を抱えた母親がいます。彼女も、イエス様があ、向こう岸に行かれたと聞いて、徒歩でこの病気の子供を抱えていくんですね。本当に母親というものは、子供が良くなるために熱心なものです。杖をついたおじいちゃんもいたことでしょうね。そのおじいちゃんも、本当にもう体が言うことが聞かない。にもかかわらず、イエス様があの向こう岸の方に行ったということであるならば、もう杖をついて、一生懸命、一生懸命イエス様のもとに駆けつけていきます。
その中には、病を抱えた人、体がもう言うことを聞かない、もう体の痛みを抱えている、あるいは悪霊につかれて、もうどうにもならなくなっている、そういう人たちも、みんなこぞって、イエス様が寂しいところに行かれたっていう、その一点を目指して、みんなでなんとかして、もう大変なところでも、またこのお方に望みを持っている人も、みんな、このイエス様が、またそのご一行が船で行った先、そこをめがけていくんですね。
弟子たち、向こう岸が見えてきました。ああ、ようやくこれで休めるのかなって思いきや、その向こう岸の方を見てみると、大勢の群衆が走ってくるのが見えるんですね。自分たちが船をつけようとする、その船をつけるその場のところに、もうすでに群衆たちが出来上がっておりました。弟子たちは「あれ、寂しいところで休むんじゃなかったのかな」って。でも群衆たちがたくさんいる。「ああ、これまたまだ、自分たちのミッションが続くんだな」と思ったことでしょう。あるいは「ああ、ちょっともう勘弁してよ」って、もしかしたら思った働き人もいるかもしれないんですけど。
イエス様はここで、皆さんと一緒に宣言した34節を見ますと、「イエスは船から上がられると多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深く憐れみ、色々と教え始められた。」
本当にスプランクニゾマイの心を持って。スプランクニゾマイ、はらわたがちぎれるような心だと昨日見ましたね。この羊飼いのいない羊のような、そういう有様であるこの群衆。そうです。彼らからすれば本当にそうなんです。
当時、確かに宗教はありましたね。形式がありました。律法もありました。神殿に行くと、律法学者やパリサイ人たちが、この御言葉を教えてくれるんですけれども、しかし、そこには何か、憐れみ、愛、赦し、その恵みは欠けていたんですね。あたかも羊飼いのいない、本来羊飼いとなるべきこの宗教指導者たちがその役割を果たさないで、ただ大上段に、「あれせい、これせい、罪を犯したのか。それではダメだ」と、そういうふうに、ばっさり切り捨てるかのような。本当は慰め癒しをいただきたくて神殿に来たはずの彼らが、そこには癒しも憐れみもない。そういう状況、まさに彼ら、羊飼いのいない羊たちのような有様だったんですね。
本当に教会というところは羊たちが本当に養われてしかるべきところですね。教会にいる皆さんは、本当に教会に来る人々にとって、良き羊飼いのような立場になっているでしょうか。彼らを本当に御言葉でもって養い、また疲れているところを癒し、励まし、そして本当にイエス様によって元気づいて世に送り出す、そのような役割と働きを、皆さんはなっているでしょうか。良き羊飼いでしょうか。私たちは本当にイエス様という真の良き羊飼いに習うべきです。
この大勢の群衆の中には、本当に病気の赤ちゃんを抱えた母親が走ってきたことでしょう。杖をついたおじいちゃんも来たことでしょう。病気でもう足が痛い、腰が痛い。そういう彼らでもこんな寂しいところに来て、そしてイエス様からなんとか癒しをいただきたい。また御言葉をいただきたい。そんなにして来た、そういう大勢の人々がいたことでしょう。
冒頭で宣言したのはエゼキエル書34章だったんですけれども、そこにおいても、羊飼いを失った羊たちの本当に疲れた有様、そしてそんな彼らを憐れまれる神様の姿があり、そしてこの本来、羊を養うべき羊飼いの立場である、その指導者たちに対しての、そのお叱りの言葉もある。それがエゼキエル書の34章なんですけれども、とにかく神様は憐れむんです。羊飼いのいない羊たちを憐れみ、そしてその憐れみは腹の奥底から湧き上がるようなスプランクニゾマイという、はらわたがちぎれるような思いでもって、「ああ、この羊なんとかしなければ、ああ、ここを汚している羊だ。ああ、心に傷を、病を抱えている羊だ」と、そういう深い憐れみの心を持っておられるのが皆さんの主イエス様です。
イエス様は真の神の御子、キリスト、そしてまことに皆さんを救う主、救い主と言われております。救うお方なんです。一人一人を、現代の皆さんを救う主、それはイエス様です。イエス様はまず憐れまれたと書いてありますね。深い深い憐れみの感情を持って憐れまれる。その次に、色々と教え始められたと書いてあります。御言葉を持って養われるイエス様です。御言葉でもって教えられる。
この箇所は、5000人にパンを食べさせてあげるというところがメインに見えるかもしれないですけど、まずパンの必要の満たしの前に、イエス様の深い憐れみが真っ先にあるんです。その次に御言葉を持って教えられることがあるんです。そうして、パンの必要を満たすんです。
パンだけ当てにして集まってくる、まあ、そういう人もいるかもしれません。けれども、覚えていてください。まず、パンの必要な満たしの前に、憐れまれる主イエス様の存在があるということ。そしてまた御言葉をもって養い、御言葉でもって何をするべきであるのか、何をしてはならないのか。どういうところへ行くべきであり、どういう人と連合するべきであり、どういう人と離れるべきであり、どういう罪から離れるべきか、色々と教え始められたイエス様のその御言葉をまず皆さんがいただいて、そしてようやく必要な満たしがあるんですね。
そのうち遅くなってきますね。辺鄙なところです。この店もない。また近くの町まで歩いても何時間かかる。そういう辺鄙なところに大勢の群衆が集まって、そろそろみんなも疲れて、お腹も空き出して、そして病を抱えている人もいるし、もう病気の子供を抱えたお母さんもいる。もう帰るのも一苦労大変な、あるいはもうすでに帰る力も残っていないような、そういう人もいる。そういう状況において弟子たちは危機感を覚えるんですね。
「ここはもう辺鄙なところです。イエス様、もう時間も遅くなりましたし、みんなを解散させてください。近くの町や村に行って、めいめいが食べるものを買うように各々にさせてください」って言うんですね。もうこのところ、この場所において、1万人ほどの群衆がおります。辺鄙なところですね。現代でも、もう辺鄙なところにおいて、突然大規模なイベントが起こって、そこで開催されて、もうその周辺のコンビニだとか、また自動販売機も、もう空っぽになるような、そういう状況、現代でも起こりますね。当時はもっと大変な状況でした。
弟子たちは「どうかもう、なんとかして、彼らもう解散させて、食べるもの、彼ら自身で調達させるようにしてください」っていうんですね。人間としては、まあ、そういうふうに思うことでしょうけれども、イエス様、ここで無茶ぶりをするんですね。
37節では、「すると彼らに答えて言われた。あなた方で、あなた方で、彼らに、あの人たちに何か食べるものをあげなさい。」と言うんですね。
12弟子、せいぜい12人分の食事が、まあ、もしかしたらあったかもしれませんし、まあ、もうなかったと思われるんですけども、でもわずかな食料しかない。12弟子に、イエス様が「あなたたちで働き人たち、あなたたちがこの群衆を養いなさい」と言うんですけども。
弟子たちの中で計算が始まります。「弟子たちは言った。私たちが出かけて行って、200デナリものパンを買って、あの人たちに食べさせるようにということでしょうか。」まあ、ここは私たち人間の限界ですね。本当にそういうふうに考える以外にないんですね。
200デナリ。彼ら持っていたか持ってなかったかわかりません。持っていたとしても、もう近くの町々村々に1万人分の食事を買って、12人で買って持って帰る。ちょっとこれはとてつもないことですね。弟子たちとしてはもうどうすればいいのかわからないんですけれども、この弟子たちの良いところは、イエス様にその問題を持って行ったところですね。
「私たちがこれからすることでしょうか。イエス様。イエス様、どうするんですかね。私たち200デナリしかありません。いや、200デナリももう実は持ってないですね。そしてもう目の前に1万人以上の群衆を私たち12人でなんとかする。ちょっとこう、イエス様、これどうなんでしょうかね。」
イエス様に持って行ったところ、イエス様が、何をすればよいのか、一体どうしたらあなた方12人でこの1万人ほどの群衆を養うことができるのかを、イエス様が教えてくださるんですね。
38節で、「するとイエスは彼らに言われた。パンはどのくらいありますか。行って見てきなさい。彼らは確かめて言った。五つです。それと魚が二匹です。」
彼ら持っているものを、とるもとりあえず、彼らできること、群衆のところに行って、そしてパンはどのくらいあるか見てきたんですね。で、見てきたところ、あの少年が五つのパンと二匹の魚を持っていたっていうことを、ヨハネの福音書において書いてあるのを主日見たんですけども。
イエス様、皆さんが、とるもとりあえず、皆さんでできるベストを行って、そしてイエス様の御旨の通りにしようと頑張った皆さんに対して、あとは主が働かれるんです。皆さんの限界まで達した皆さんのその持ち物、足りない。あとはイエス様に対して報告をしたら、あとはイエス様が働かれる番です。
39節を見ますと、「イエスは皆をそれぞれ組にして青草の上に座らせるよう、弟子たちにお命じになった。そこで人々は百人、50人と固まって席についた。」
イエス様は青草の上にこのお腹を空かせた群衆を座らせました。詩篇23編を思い出します。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます。主は私の魂を生き返らせ、御名のために、私を義の道へと導かれます。」
主の御名のゆえに。主の御名、これは本当に汚れがない御名、主の御名のプライドにかけて、この羊たちを養うんです。イエス様は真の羊飼い、真の牧者。羊飼いのいない羊たちを見て深く憐れまれる真の牧者、それが私たちの主です。皆さんの主です。
この皆さんがもし足りないということであるならば、とるもとりあえず、イエス様のもとに行くべきです。この大勢の群衆たち、とるもとりあえずイエス様の元に行きました。本当に疲れた体を鞭打ってでも行きました。また、その中には本当に病気の子供を抱えた母親もいたことでしょう。老人もいたことでしょう。とるもとりあえずイエス様の元に行きました。そして先々のことを全然彼ら考えていなかったような。それを人は「知恵がなかった。自己責任だ。飢えても自己責任だ」と、そういうふうに突き放すような冷たい社会。その中でもこのイエス様を求めていった群衆に、イエス様は必要の満たしを与えてくださる。病の癒しを与えてくださる。そして、必要な御言葉を持って養ってくださるんです。
「主は私たちの魂を生き返らせ、御名のために私たちを義の道へと導かれる。たとえ死の影の谷を歩むことがあっても、災いを恐れることはない。」それは私と伴う主です。主は、たとえ皆さんが死の影の谷を歩むことがあっても、一緒に伴って歩いてくださる。そのゆえに私は恐れることがない。
イエス様は緑の牧場に彼を伏させました。そして彼を憩ませ、この今手元にある五つのパンと二匹の魚、これを天に向かって感謝を捧げて、祝福して、そしてパンを裂いて、弟子たちにその裂いたパンを渡されました。そして二匹の魚も同じようにされました。
奇跡が起こったんですね。魚二匹しかなかったはずなのに12弟子に行き渡り、12弟子はそれをさらに大勢の群衆に行き巡らせ、そして大勢のこの5000人の1万人ほどの群衆が食べて、満腹したと書いてありますね。
42節になると、「人々は皆食べて満腹した」んです。イエス様、このようなことがおできになるお方なんです。しかも、しかも43節。「パン切れを12の籠にいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。パンを食べたのは男が5000人であった。」と書いてありますね。
大勢の群衆はなんと、わずかな少年のお弁当の捧げ物、これでもって大いに満腹させました。このこと、現代も起こるんです。なぜ。イエス様は現代にも生きているからです。このイエス様により頼むのであるならば、この羊飼いなる主に、イエス様により頼むのであるならば、イエス様が必ず皆さんの必要を満たしてくださいます。
イエス様が必要を満たします。このイエス様が皆さん一人一人に伴われる主であり、そして皆さんがたとえ敵の前であっても、荒野の中においても、宴会を設け、「敵の前で宴を設け」と詩編23編に書いてあります。病という敵、悪魔サタンという敵。日ごと、仕事において、家庭において、人間関係において迫りくる敵。この敵の前で宴会を設けてくださる主イエス様。イエス様、今日も緑の牧場へと皆さんを導きたい真の羊飼い主です。愛、憐れみ、赦し、その恵み、満ちた主です。
当時、羊飼いがいない羊たちのような有様の群衆を見て、深く深く憐れみ、はらわたがちぎれる思いを持って憐れんで、彼らを癒し、御言葉を持って養われた主イエス様、今日も皆さんの主です。このイエス様により頼み、イエス様にすべての問題をイエス様へと打ち明け、そしてこのイエス様から解決をいただき、今日もイエス様にあって豊かに満腹していく皆さんでありますように。
今も生きて働かれるあなたが私たちの主であるということは、なんと幸いなことでしょうか。このような神はどこにもおりません。世の中の宗教は、私たちにあれしろ、これしろと要求し、またお金やまた奉仕を要求し、しかし本当にその中において傷つき倒れた羊たち、そんな羊たちを深く憐れみ、羊飼いのいない羊のようだとおっしゃられる主を褒め称え、感謝いたします。
そして、あなたのところにおいては、豊かな御言葉の養いがあり、また具体的に私たちの体に必要なパンの養いがあり、そして本当にあなたにあって、私たちは深く安息する羊として御前において休める。その幸いを感謝いたします。一人一人がこの真の羊飼い主に気づきますように。真の羊飼い主にあって、あなたの必要な満たしを得ますように。病が癒されますように。また悪霊が追い出されますように。そして本当に羊飼いであるイエス様のもとで、とこしえに永遠の天国に至るまで、あなたに養われて導かれていく一人一人でありますように。
ないもの尽くしの時こそ主よ、あなたを望むべき時です。主よ、私たちが足りている時にあなたを望むことはありません。ない時に私たちはあなたを信仰をもって臨み、そのイエス様を大勢の人の前で、イエス様が神であることを明かすことができます。主よ、この時間、私たちは学んだ通り、自分に人がいない時、自分にものがない時、自分にことができない時、あらゆるない尽くしの時に、あなたを呼び求めることができますように。
イエス様、人にはイエス様は見えません。人はイエス様を触ることもできません。人はイエス様を聞くこともできません。でも、この見ることも、聞くことも、触ることもできないイエス様を、いつ私たちは証しできますでしょうか。イエス様が私たちのないものを満たしてくださる時、その満たされた状況を通して、私たちの信じるイエス様が主であり、神であることを証しすることができる唯一の時です。
今も人にはイエス様は見えません。イエス様を聞こえません。イエス様を触れることもできません。でも、信じる私たちを通して、私たちがイエス様をこの状況の中に招き入れ、そしてイエス様にこの状況を委ね、そして私たちの小さな信仰のかけらをイエス様にお捧げした時、イエス様はみんなが見て、聞いて、触れるイエス様になります。
イエス様、今日の御言葉を通して、あなたはこのような信仰をもって、私を主とし、私が民の神であることを証ししなさいと養ってくださったことを感謝します。私たちのこの信仰が、人々にイエス様を見せる信仰、聞かせる信仰、触れる信仰へと導く、その道しるべとなることができますように。私たちをあなたが用いてください。
【結論】
イエス様は真の羊飼いとして、羊飼いのいない羊のような群衆を深く憐れみ、御言葉で養い、そして五つのパンと二匹の魚で1万人以上を満腹させられた。この奇跡は、私たちがないもの尽くしの時に、とるもとりあえずイエス様のもとに行き、自分たちのできる限りのことを行い、問題をイエス様に委ねる時、イエス様が働かれることを示している。イエス様は昨日も今日もいつも同じ方であり、現代も生きて働かれ、私たちの必要を満たしてくださる。私たちの小さな信仰のかけらをイエス様にお捧げする時、イエス様は人々が見て、聞いて、触れることのできる主となられる。
五千人を養う奇跡 - 深い憐れみで養われる真の王(マタイ14:13-21) 早天祈祷会 2026年2月16日(Mon)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2026-2-16 6:30
五千人を養う奇跡 - 深い憐れみで養われる真の王(マタイ14:13-21) 早天祈祷会 2026年2月16日(Mon)
Youtube動画
【概要】
ヘロデをはじめ「世の王」は、己の欲望のために聖なる者を殺す。 しかし真の王イエスは、深い憐れみ「スプランキニゾマイ(はらわたがちぎれる思い)」をもって、憐れまれる主。 イエス様が祝福された五つのパンと二匹の魚で、五千人以上の群衆はみな満腹し、 弟子たちの数だけの籠いっぱいの恵みが残された。 果たして現代の私たちは、自分の不足を計算して諦めるのか? それとも真の王に、憐れみの主に全ての問題を持っていって、彼の全能の力を引き出すのか?
【聖書箇所】
マタイ14:13-21
創世記22章(アブラハムとイサクの物語)
【慰めの言葉】
イエス様は今も生きて働かれる主であり、私たちの状況を見て深く深く憐れまれるお方です。はらわたがちぎれるほどの憐れみをもって、私たちを助けたいと願っておられます。
【励ましの言葉】
不足しているから諦めるのは世の中の方法です。不足しているならそれをイエス様のところに持っていく、これが信仰者の方法です。イエス様はわずかなものでも祝福して、多くの人々を富ませることができるお方です。私たちが世の人とイエス様との橋渡し役となり、とりなしの祈りをし、イエス様を伝えるならば、主はその人に働くことができるようになります。
【勧めの言葉】
真の王イエス・キリストを選び、自分を十字架につけてイエス様についていくならば、イエス様がすべての必要を満たし、罪を清め、赦し、永遠の命へと導いてくださいます。自分が持っているものがわずかでも、たくさんあっても、それをイエス様のところに持っていき、「これを用いてください」「この私を用いてください」と主に自分自身を手放すなら、主が祝福して与えてくださいます。
【AIによる文字起こし】
今朝、恵みをいただく御言葉は、マタイによる福音書14章13節から21節です。最初に20節を一緒に宣言しましょう。
「人々は皆、食べて満腹した。そしてパン切れの余りを取り集めると、12の籠にいっぱいあった」(マタイ14:20)
アーメン。ハレルヤ。イエス様はあの時代、この奇跡を行われました。今この時代においても、そのイエス様が確かに私たちの主であり、この奇跡を私たちを通して行いたいと願っておられる主であることを感謝いたします。
素晴らしい主の御名を褒め称え賛美いたします。主は今も生きて働かれるお方です。仏像は物で生きていないのですけれども、皆さんの神様、主は生きて働かれる主であることを感謝いたします。
その主は私たちと深く関わり、私たちを愛しておられ、私たちの日常において、皆さんと交わりたい、共にコミュニケーションをしたいと願っておられる主です。その主は皆さんを助けるお方、救い主と言われる救うお方なんです。私たちには救われなくてはならない諸々があります。パンが不足している、お金がない、病気である。イエス様は福音書の中において、それを全部解決してくださった方です。悪霊を追い出し、また本当にいろいろな病を、患いを癒し、罪を赦される。そして極めつけは、十字架の死によって、私たちの身代わりとなって、私たちの罪を処罰してくださり、そしてイエス様の永遠の命と引き換えに、私たちの命の身代わりとなって、私たちに命を与えてくださり、永遠の命を与えてくださり、そしてイエス様は死んでくださいました。身代わりになって、そして復活してくださいました。このイエス様が皆さんの主、皆さんの神です。
今日の箇所は、五千人にパンを与えてくださった奇跡です。この出来事、マタイの14章に配置されておりまして、この五千人のこの奇跡の直前に何があったかというと、バプテスマのヨハネの処刑がありました。ヘロデ王によるそのヨハネを処刑する場面からなんですけれども、ここには、世の中の王と真の王の対比がもう明らかに示されております。
このヘロデという世の中の王というものは、自分の気に食わないことがあると、自分に何か聖なることを言ってくるものを殺す。世の中の王というものは、自分の好き放題をやるのが世の中の王です。対して真の王イエス様は、この皆さんを救うため、自分を殺すのです。自分の死をもって皆さんを生かす王です。世の中の王は殺しにかかります。自分の保身のため、自分の命を永らえさせるため、自分の気に食う気に食わないによって人を殺す。けれども、イエス様は人を生かす王です。
このヘロデの祝宴の中において、一人の娘がダンスをして、それでそれをヘロデは気に入ったので、お前の好きなものをあげようと、国の半分でもやれるのだからと言いました。そこでその娘は母親と相談して、じゃあバプテスマのヨハネの首をくださいと言いました。それで結局、宴会の余興となって、バプテスマのヨハネの首ははねられてしまったんです。イエス様が、女から生まれた者の中で最も偉大だと言われていたバプテスマのヨハネが、真理を語ったがゆえに、このようにして宴会の余興になって殺されてしまいました。
本当に世の中の王というものは、このように自分の好むことであるならば、もう聖なるものを殺すということをするんですけれども、しかし、真の聖なる王は、私たちに命を与えてくださり、また憐れんでくださり、そして私たちにすべて必要なものをイエス様は惜しみなく与えてくださるお方なんです。
真の王とするのは、どちらにするか。世の中の王にするか、それとも真のイエス・キリストというお方を王とするか、これが皆さんに問われております。私たち自身が王になりたいとするならば、結局、聖なるものを殺す羽目になってしまうんです。私たちは自分を十字架につけて、そしてイエス様についていく。するならば、イエス様が真の王として皆さんのすべての必要を満たしてくださり、皆さんの罪を清め、赦し、永遠の命へと導いてくださるんです。これが真の王なんです。だから人々は、イエス様についていくことができるんです。
このマタイの箇所においては、イエス様、寂しいところに行かれるんです。13節にこうあります。
「イエスはこれを聞くと、船でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた」(マタイ14:13前半)
イエス様は寂しいところに行かれました。そうすると人々がついてくるんです。イエス様こそ真の王だとしている人々が、群衆が、
「それと聞いて、町々から歩いてイエスの後を追った」(マタイ14:13後半)
と書いてあります。群衆が、このイエス様が船で向こう岸の方に渡っていかれたということを聞くと、このイエス様を本当に真の王としたい、もうヘロデという王は嫌だ、真の王イエス様だと、荒野であろうが徒歩でガリラヤ湖をぐるっと徒歩で回って、町々から歩いてイエス様の後を追って追いかけていくんです。真の王、憐れみの王イエス様だから、人々はついていくんです。しかも病気の人たちもその中にいるんです。
14節にこうあります。
「イエスは船から上がられると、多くの群衆を見、彼らを深く憐れんで、彼らの病人をいやされた」(マタイ14:14)
深く憐れむ、憐れまれるお方です。イエス様は憐れみの王です。この憐れみ、ギリシャ語でスプランキニゾマイと、はらわたがちぎれるほどの憐れみです。深い深いうめきを伴った憐れみ。この人を見ると、もう腹がキューッとなって、ああ、なんとかしてあげたい、助けてあげたい、そのような深い憐れみがこのスプランキニゾマイであり、イエス様、この多くの群衆を見たところ、本当に彼らは羊飼いのいない羊のようだと、はらわたがちぎれる思いで、深く深く憐れんで、それで彼らの病気を癒されたというふうに書いてあります。
イエス様はスプランキニゾマイの主として、今現代も生きて働かれるお方です。イエス様は皆さんの状況を見て、深く深く憐れまれるお方です。皆さんが、あの人を救われてほしいな、あの人、病気が癒されてほしいな、そういうふうに思って、皆さんが主に祈ると、主は皆さんよりも深い憐れみ、皆さんがはらわたがちぎれるほどの思いで祈ることがあったでしょうか、あるでしょうね。けれどもイエス様は、常々人を見るたびに深く憐れんで、はらわたがちぎれるほどの思いで、その人のために何とかしてあげたいと願われる主です。
皆さん、ぜひその世の人とイエス様との橋渡し役に皆さんがなってください。皆さんがとりなし祈り、またその人にイエス様を伝えるのであるならば、皆さんが橋渡し役となって、イエス様はその人に働くことができるようになるからです。この主は今も生きて働かれるお方、スプランキニゾマイの志を持って人を憐れまれる主です。
そのようにしてイエス様がこの群衆に向かっていろいろと教えておられましたところ、だんだん時間が経っていくんです。15節では、
「夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。ここは寂しいところですし、時刻ももう回っています。ですから、群衆を解散させてください。そして村に行って、めいめいで食物を買うようにさせてください」(マタイ14:15)
弟子たちは計算します。もうそろそろ解散させた方がいいと。もうここは寂しいところ、荒野です。寂しいところですし、時刻ももう回っています。彼らは、この状況、これはまずい状況になってきたと思うんです。荒野ですし、大勢の群衆がおります。そして彼らは徐々にお腹が空き始めてしまいます。このままだと行き倒れが出てしまいかねません。この荒野、人があまりいないところ、寂しいところに大勢の群衆がいきなり来るとどういうふうになるのか。
たとえば鈴鹿サーキット、年に一度、イベントで世界中から人々が集まって、そのイベントの日はもう何万もの群衆がそこに集うんです。そうすると鈴鹿のその地方、コンビニとかお店とかが普段あまりないんです。普段は人口が少ない、そういう田舎というか、そういうところなんです。そこに一度に大勢の群衆が集まると、その日だけ物が不足するんです。レストランもまた、コンビニももう本当に品切れ状態になってしまうんです。
本当にそういう状況、荒野というような辺鄙なところに一気に人が集まったら危険な状態になるんです。弟子たちはそれを計算しました。もうここは寂しいところですし、もう時刻も回っていますから、群衆を解散させてください。それで彼らはお腹が空いてます。めいめいが村に行って、めいめいで食物を買うようにさせてくださいと言うんです。
人間の計算、それは不足を計算します。どのくらいになったら不足をきたすのか。これはまあ、会社や、また私たちの日常、計算するので、買い物にあらかじめ行ったり、またあらかじめ準備をしたりするものです。そして計算をしてみて、不足しているというふうに弾き出したら、諦めたり、あるいはそちらの方面はしないとか、そういったことをするんですけども。
しかし、主の計算は人間の計算と全く違うんです。主のイエス様はこの人間の不足を超越するんです。イエス様はおっしゃいます。あなたが不足している、じゃあ、その不足を私のところに持ってきなさいというふうにイエス様はおっしゃるんです。
イエス様は、この後16節から言いますと、
「しかしイエスは言われた。彼らが出かけていく必要はありません。あなた方であの人たちに何か食べるものをあげなさい」(マタイ14:16)
って言うんです。イエス様の無茶ぶりがここに出ました。
皆さん、目の前に五千人の子供たちがおります。子供たちだんだんお腹を空かせます。皆さんが「どうかこの子供たちをめいめい親のところに返してください」って、彼らはお腹が空き始めましたから、そこでイエス様が、あなた方働き人たち、あなた方が出て行って、あの子供たちに何か食べ物をあげなさい。無茶ぶりされたら、どうするでしょうね。無茶です。イエス様、ちょっとないんですよね。こんな五千人もの子供たちに私が料理するんですかって。まあ、現実的なところではそういうふうに言うかもしれないですけど、皆さん、イエス様が無茶ぶりをする時は、イエス様なりの理由があるんです。
イエスはもうあらかじめ備えが、ご自身で何をしようか、もうイエス様の心の中であるから、だから、そういった無茶ぶりをする。イエス様はどこからというふうに聞いたんです。いくらとは聞けませんでした。どこからこの備えが来るのか。皆さん、必要な備えはどこから来るでしょうか。イエス様です。アーメン。イエス様から来るんです。イエス様は、彼らが出かけていく必要はありません。あなた方であの人たちに何か食べるものをあげなさいと言われました。
じゃあ、この弟子たち、どのくらい持ってるんでしょうかね。17節見ますと、
「しかし、弟子たちはイエスに言った。ここにはパンが五つと魚が二匹より他はありません」(マタイ14:17前半)
と、弟子たちは言います。
「するとイエスは言われた。それをここに持ってきなさい」(マタイ14:17後半)
アーメン。
この弟子たちが持っているもの、それはパンが五つと魚が二匹です。あなたたちで彼らに食べさせてあげなさいというからには、この弟子たちが持っているこのわずかなものをもって、この彼らを食べさせてあげることはできるんだっていうんです。
弟子たちとしては、一体どうしてこんなわずかな食料で、こんな五千人以上って思うかもしれないですが、しかしイエス様はその持ってるわずかなものを持って、この五千人を養うことができるんだっていうんです。
皆さんのお財布の中、いくらあるでしょうかね。まあ、わずかしかなかったとしても、イエス様はそのわずかを用いて、大勢の子供たちを養うことができるようにしてくださるお方です。イエス様にはそれができます。アーメン。だから私たちは、今不足してますとか心配したり思い悩んだり、あるいはイエス様抜きで何か無茶ぶりして心配そうな顔して、懸念顔してする必要はなく、ただ不足をイエス様に持っていけばいいんです。
皆さん、不足しているから諦める。これ、世の中の方法です。しかし、主の計算は不足であるならば、その不足を私のところに持ってきなさいって言うんです。あなたの財布で五千円を食べさせなさい。皆さんが無茶ですよって言うんじゃなくて、じゃあイエス様、あなたにおできになるんですねって言って、財布をイエス様に渡す。それが皆さんのするべきところ。不足しているなら諦める。これは人間の方法。不足しているならそれをイエス様に持っていく。これが皆さん信仰者の方法です。
イエス様のところに、この五つのパンと二匹の魚が持っていかれました。するならば、イエス様はどうするか。19節を宣言します。
「そしてイエスは群衆に命じて草の上に座らせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げてそれらを祝福し、パンを裂いて、それを弟子たちに与えたので、弟子たちは群衆に配った」(マタイ14:19)
アーメン。
イエス様はまずそれを受け取りました。天を見上げました。それを祝福されました。そしてそのパンを裂いて裂いて、弟子たちに与え始められました。本当に、これ、イエス様の方法です。イエス様はパンを裂かれます。最後の晩餐においても、イエス様はパンを裂かれて、弟子たちに渡されました。これは私の体です。私を覚えてこれを行いなさいと言われました。私たちの本当にイエス様の裂かれた体、これをいただいて、その裂かれたものをまた裂いて、また隣に渡して、人に手渡して、こうしてイエス様の御体を、イエス様の救いを、その必要の満たしを、それぞれに届けていくんです。
イエス様は祝福してくださいました。イエス様が祝福されたもの、これは、ほんのわずかなものであっても、多くの人々を富ませることができるんです。貧しい者が持っているものはわずかでも、その人が主を恐れるものであるのであるならば、そのわずかなものは、大金持ちのたくさんのもの、持ってるものに勝ると書いてあります。
皆さんの仕事、それはたとい皆さんの持ってるものがわずかでも、あるいはたんまりあったとしても、どっちでもいいんです。それをイエス様のところに持っていって、イエス様、これを用いてください、あるいはイエス様、この私を用いてください、ここに私がおりますと、主に皆さん自身を手放すのであるならば、主が皆さんを用い、祝福して、与えてくださるんです。主は本当に私たちにとって必要なものをすべて満たしてくださるお方です。
では、20節と21節を宣言します。
「人々は皆食べて満腹した。そしてパン切れの余りを取り集めると、12の籠にいっぱいあった。食べたものは女と子供を除いて男5000人ほどであった」(マタイ14:20-21)
アーメン。
人々は食べて満腹したんです。ほんのわずかなお菓子を細々とみんなに分けたのではないんです。みんな満腹するまで食べ尽くして、それまでずっとこのパンが裂いても裂いても決してなくならないという奇跡がずっと行われ続けていったんです。そしてこのみんなが満腹してパンが余りました。もう食べきれないよっていう群衆が残したパン切れ、それを集めてみると、12の籠にいっぱいあったって書いてあります。
さあ、12は何の数字ですか。弟子たちの数字です。働き人たちの数字です。この教会によって、働き人、何人かおりますけれども、その数分だけ籠いっぱいにパンが余るという状況なんです。
ここ最近、教会では、もう不思議なことに買ってもいないのに牛乳が余り、ネギが余り、またお米もなんか今、まだまだ余っていて、当分なくなりそうにないです。本当に不思議です。主はこうしてすべて必要を満たしてくださるんです。皆さん体験して、皆さんその奇跡を今、現実に食べてます。ネギにしろ牛乳にしろ、お米にしても、そうです、主は必要を満たしてくださるんです。
今日、皆さんにお話ししたいことは、イエス様が私たちの必要を満たしてくださるお方だということです。そして、働き人の分も満たしてくださるのです。今日、皆さんに覚えておいてほしいこと、それは皆さん、不足があるならイエス様のもとに持っていきましょうということです。
人間は計算して不足しているならば諦めます。あるいは、もうあらかじめ不足しているとケースを弾き出したら、そもそもそちら方面には行かない、しない。これが人間の方法です。
けれども、イエス様の方法は、まずイエス様の命令ありきです。「あなたはあちらに行きなさい」と言われて、弟子たちが「いや、あちらの方に行くには到底資金が足りません」ということであるならば、「じゃあその不足を私のところに持ってきなさい」ということなのです。
そして、イエス様のもとに持って行ったら、もう不足していたはずが満ち足りる。むしろ、それが余りあるほどの満ち足りた様になっていくんです。
冒頭で宣言したところ、アブラハムの場面です。アブラハムはもうこの時、本当に信仰が成熟しておりました。イサクを連れて、それでモリヤの山地へ、主が命じられました。「あちらに行って、あなたの独り子、イサクを捧げなさい」と言うんですけども。
アブラハムはそれに対して躊躇なく、翌朝すぐにイサクを連れて、モリヤの山に向かっていくんですけども、その途中でイサクが、「お父さん、この火と薪はあるんですけども、けれども、生贄となるための羊がありません。一体どこにあるんですか」と尋ねました。
アブラハムは「お前が生贄だよ」なんて言わないんです。アブラハムは信じているんです。「神ご自身が全焼の生贄の羊を備えてくださるのだ」と信じているんです。
もっとも、アブラハムはイサクを捧げるつもりで連れてきたんです。けれども、信仰を持って、このイサクが死んだとしても、しかし全能なる神様は生かしてくださるお方であり、そしてイサクの代わりになる羊を、全焼の生贄の羊を備えてくださるのだと、はっきりとあらかじめ宣言しております。「神様が備えてくださるのだ」と。
皆さん、イエス様がこの皆さんの身代わりの羊となって神に捧げられました。主は備えてくださる方です。主は皆さんの身代わりを備え、また皆さんの必要を備え、そして皆さんの不足を充当して余り余らせてくださるお方、働き人である皆さんを満たしてくださるお方です。
主は皆さんに向かって言われます。「不足がある。だったら私のところに持ってきなさい。あなたの持ち物を」と。五つのパンと二匹の魚、それで十分だと。皆さんのお財布に1570円。それで十分だと。
主は、皆さんから受け取ったものを天を見上げて、祝福して用いてくださるんです。多くの人々を養うために、主はそのようなお方です。
この主に信頼しましょう。主に期待しましょう。主が皆さんの必要を満たしてくださり、また皆さん自身が本当にこの主を通して大いに主の働きを見て、多くの人々を皆さんを通して養う、そのことに用いられる皆さんでありますように。
今日も私たちに、わずかしかないからできないと思ってはいけないと教えてくださったことを覚えて感謝いたします。わずかばかりであっても、持っているものをあなたに差し出す時、委ねる時、あなたが事をなしてくださるということを今日も私たちに繰り返し教えてくださいました。
私に不足があったとしても、あなたには不足がないということを覚えて、イエス様にすべてを委ねる私たちでありますように。そして、イエス様の全能の力を引き出すことができる私たちでありますように。
今日も私たちに祭司としての務めが与えられていることを感謝します。これから神と人との間においてとりなす者として、まず私たち自身が整えられるように祈っていきます。神と人との御前に立って、祭司として、力ある聖めの働きができますように。今日、私たちを用いてください。私たちがとりなしを祈ることによって、すべての疫病や災いが退いていきますように。祈りの力を与えてくださることをありがとうございます。
【結論】
イエス様は世の王とは全く異なる真の王です。世の王は自分の保身のために人を殺しますが、イエス様は私たちを生かすために自らを捨ててくださいました。イエス様は深い憐れみ(スプランキンズマイ)をもって、私たち一人ひとりを見ておられ、はらわたがちぎれるほどの思いで助けたいと願っておられます。
人間は不足を計算して諦めますが、イエス様の方法は違います。わずかなものであっても、それを主のもとに持っていくとき、主は天を見上げて祝福し、多くの人々を養うために用いてくださいます。アブラハムが「神ご自身が備えてくださる」と信じたように、私たちも主に信頼し、期待しましょう。
私たちは自分を王とするのではなく、イエス様を真の王として受け入れ、自分を十字架につけてイエス様に従っていく必要があります。そして、世の人々とイエス様との橋渡し役となり、持っているものを主に委ねるとき、主の全能の力が現れ、私たちを通して多くの人々が養われるのです。私たちに不足があっても、主には不足がありません。主は必要を満たし、余りあるほどに豊かにしてくださる方です。
主が先んじて険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕く法則とは(申命記1:29-30) 早天祈祷会 2026年2月10日(Tue)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2026-2-10 6:50
主が先んじて険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕く法則とは(申命記1:29-30) 早天祈祷会 2026年2月10日(Tue)
Youtube動画
【概要】
神が先に進んで勝利する驚異の法則「アニ・パニーム・ハラク」とは? 目の前の強大な敵、堅固な要塞に絶望する時、私たちはどうすれば? 主は「私があなたの前に進み、険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕く」と宣言! この原則に従い、富と力を神の栄光と次世代のために用いたロスチャイルド家の秘密とは?
【聖書箇所】
-
申命記1:29-30
-
イザヤ45:2
-
イザヤ45:6
【励ましの言葉】
主があなたがたに先立って行かれ、エジプトにおいてあなたがたの目の前でしてくださったその通りに、あなたがたのために戦われる。主は険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折ってくださる。
【勧めの言葉】
油注がれた者として、与えられた富や力、賜物を主の栄光のため、礼拝の回復のため、次世代の教育のために用いなさい。自分の満足や快適さのためだけに使ってはならない。
【***詳細***】
それでは、申命記1章29節から30節を皆さんで一緒に宣言しました。
「それで私はあなたがたに言った。おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったその通りに、あなたがたのために戦われるのだ。」
主が先に立って進んでくださり、私たちのために、もう先にあなたが勝利してくださるその幸い、その恵みを感謝します。アニ・パニーム・ハーラフ。この箇所に書かれているように、私たちも本当にこのイスラエルの民に続き、あなたが先んじて行かれるところ、あなたがもうすでに勝利をしてくださったところに、ただ行って、具体的に勝利を収め、そこを勝ち取り、そしてあなたの御国のものとしていく者たちでありますように。
ここ最近、アニ・パニーム・ハーラフについて、公園大学でキム・ヒョンジョン博士から習いました。「アニ」は「私」という意味、「パニーム」それは「顔」、御顔です。主の顔が先立って「ハーラフ」、歩む。これは「行く」という意味もあり、また「歩む」という意味にもなります。主ご自身の顔がそこにもう先に行って、そこを主が占領して、そこに勝利して、そして「私が先に進んでいくから、そこにあなたも来て、そこを占領しなさい」。これがアニ・パニーム・ハーラフです。
今日の申命記の1章30節にこのアニ・パニーム・ハーラフが出てきます。キム先生はヘブライ語のわかりやすい表現として、アニ・パニーム・ハーラフという単語で説明してくださっています。
今日の箇所、この御言葉は申命記にあります。申命記といえば、いよいよイスラエルの旅が40年の旅路を終えて、これからこの約束の地に占領しに、具体的にヨルダンを超えて進みゆく、まさにその場面に立っているところにモーセを通して語られた言葉です。
彼らの目の前に映っているのは横たわるヨルダン川。雪解け水でもう水が満々と湛えております。そして強い敵。40年前、彼らの父親の世代は、その敵があまりにも強そうなのを見て、もう尻込みをして、「これから、もうこの約束の地は占領できない」というふうに言って、尻込みをしたゆえに、もう荒野の40年を経ることになってしまいました。
中途半端に神様の約束を信じて中途半端でやめてしまうと、こういうことになってしまうんです。ある讃美歌にあるように、「わずか漕ぎで遠く乗り出さず、返す波に飲まれてしまった船もろともに」という歌詞の通りになってしまうんですね。
だから私たちはもう信仰によって一歩踏み出したら、もうあとはもう全部、神様の約束が成就することを委ねて、一歩一歩一歩一歩進んでいけばいいんです。
彼らがいよいよ約束の地に入ろうとする時、待ち構えていたのは、その父親世代が尻込みした強い敵であり、また堅固な要塞城壁であったり、そしてなおかつ自分たちの戦いの経験のなさ、武器もない。40年間ずっと荒野をさまよっていた。特に訓練も受けていない。その前は奴隷だった。
そういう弱い自分を見つめ、また強い敵の堅固な城塞を見てヨルダン川を見てという現実だけを見るとするならば、もう目で見るとするならば絶望しかないんですね。
信仰者というものは、目で見えるところによらずなんです。ただ、主のお言葉を握りしめて進んでいくのであるならば、そこはことごとく安全なんですね。
主は今日の箇所において、この真実の順序を教えてくださっております。順序ですね。どういう順番か。「あなたがたの前を進まれる主があなたがたのために戦われる」と書いてありますから、ここにはっきりとした順番があります。
まず戦うのはあなたがたではない。あなたがたが準備するのでもない。主が先に行って、順番は、主がまず先に行って、そして主が戦われる。主が戦って、もう勝利をした。その後にあなたが続きなさいということです。
主は本当に「この私が先に行って、敵をあなたの手に渡す」。これがイスラエルにおける勝利の戦いの法則です。主がまず先に進んでいく。そして主が進まれる音を聞いたのであるならば、あなたは進みに行きなさい。
ダビデに対しても、「まずあなたはこの森の中で伏せていなさい。そしてバルサム樹の林の上で行進の音が聞こえたならば、あなたは進んでいきなさい。もう主が先んじて神の軍団の兵隊がバルサム樹の林の上からもう進み行って、そして敵を打ち取っている。真上ではもう主が打ち取っている。だからあなたがたはそのバルサム樹の上の行軍の音が聞こえたら、あなたも進み行きなさい。したら勝利するから」。
これがこの神の国の戦い。神の国の戦いは血肉によらず、剣や盾によらず、主ご自身が先に行って勝利をしてくださって、その後に皆さんが続く。それならばこの具体的な勝利、現実の勝利が皆さんのものになる。これがこの神の国の戦いです。これがアニ・パニーム・ハーラフ法則です。「私があなたの前に進みゆく」アニ・パニーム・ハーラフです。
これが今、つくばみらいの地においてなされていることを覚え、感謝いたします。去年、一昨年、ちょうど一昨年、このつくばみらいの物件、オークション物件で、もういろんな不動産の競合たちがそこを狙っていたんですね。昨日、ある不動産屋さん、つくばみらいの方に行ったところで、その不動産屋さんも「実は私もあそこの物件を狙っていたんですけどね、本当にいいところを勝ち得ましたね」っていう、そういう言葉をいただきました。
主ご自身がまず先に進んで、アニ・パニーム・ハーラフして先に行って進んでくださり、そしてそこを勝ち取る。それが神の民の戦いの法則であり、神の民がこの地上の国を占領して、そこを神の国に塗り替えていく、その法則です。
この法則が最も劇的に現れたのがイザヤの45章、皆さんが毎日宣言していますね。イザヤ45章、冒頭でも宣言しました。そこにおいて登場するのは神の民ではないクロス王という異邦の王様です。
「主は油注がれた者、クロスにこう仰せられた」というふうに始まるんですけども、「主が油注がれた者」、これは何も油注がれる者っていうのは、祝福を受けるに値する者ではなく、主の役割を託された者、主の使命を託された者です。
旧約において、油注ぎは王様に特に注がれますし、また祭司に対しても注がれます。預言者に対しても注がれます。神様からの特別な役割をあなたに任じたということで、油を注ぐんですね。
油注がれたから何か祝福を受けるんだとか、なんか力を受けて活躍するんだとか、そういった意味ではなく、主の役割をあなたに託したから、その力を持って、その油注ぎの聖霊の油を持って、あなたは進みゆき、神の国を勝ち取りなさいっていうことなんですね。
「私は油注がれた者だから、私の預言、私の癒し、私の不思議なパワー、これを見なさい」、そういう自慢させるためにではないんです。もしそんな主の油注ぎを、そんな自分勝手な自分の名誉のために使うとするならば、サウル王みたいに取り上げられてしまうんですね。かえって悪い霊が遣わされてしまいます。気をつけるべきです。
イザヤ45:2を皆さんと一緒に宣言したいと思います。せーの。
「私はあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。」
アーメン。「私があなたの前に進んで」、パニーム・ハーラフですね。主ご自身が先に進んで、あらかじめ険しいところを平らに平定してくださって、そして皆さんが歩きやすいように、つまずくことないように平定してくださる。
皆さんの行く先々、つくばみらいの先々、主ご自身が先に進んで平定しておられ、そしてあらゆるこの障害を取り除けてくださるんですね。「青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る」とありました。アーメン。
一昨年は、このつくばみらいにおけるこの競売物件という鉄の扉、鉄製の扉を打ち砕いてくださいましたね。もういろんな強豪たちがそこを狙っている、そうしたものも鉄のかんぬきへし折って、そこ私たちのためにその門を開いてくださいました。意味があるからです。そこにおいて神様の栄光を表すために、皆さんを用いるために、主が皆さんに対してこの扉を開いてくださったんですね。
これ、申命記の1章30節と全く同じ構図ですね。まず主が先に進む。そして主ご自身が戦って、そしてその主があらゆる障害を取り除いて、私たち神の民がそこに進んでいけるようにというふうにしてくださる。
どうして主はそこまでして整えてくださるのか。なんで主はこんなにも特別扱いを私たちにしてくださるのか。その理由、それがこのイザヤ45の6節にあるんですけども、6節じゃあ皆さん一緒に宣言します。せーの。
「それは日の昇る方からも西からも、私のほかには誰もいないことを人々が知るためだ。私が主である。ほかにはいない。」
アーメン。その理由、それは主が栄光を受け取るためです。もう東からも西からも主ご自身、「私、主以外には誰もいないということを人々が知るためだ。私が主である。ほかにはいない」。アーメン。目的はただ一つ、主の栄光という目的です。
クロス王は、この彼に与えられた特別扱い、また与えられた権力、また莫大な富。彼は本当に奇跡的にバビロンに勝利し、そしてペルシャ王国を打ち立てたんですけども、なんでそういうふうに彼に特別扱いがなされ、彼に莫大な権力と富が与えられたか。
クロスは、これを自分の快適さだとか、自分の名声だとかのために用いませんでした。彼はそれを何に用いたか。彼はそれを神の民イスラエルをイスラエルに帰還させて、このバビロン捕囚を解いて、世界中散り散りになっている神の民イスラエルをイスラエルに集めさせて、神殿再建を命じました。神殿の復興、礼拝の復興のために、このクロス王は用いられたんですね。礼拝を回復するためにです。
今この時代、皆さんも同様です。礼拝を回復するべきです。日本において、およそ400年前、初めて日本に福音が伝えられてきた当時、もうリバイバルが起きたんです、実は。戦国の世の中において、福音が伝えられて、そして福音を素直に受け入れた人々が多く起こされたんですけど、しかし、当時の支配者たちが、このキリスト教を脅威だとみなして弾圧したんですね。徹底的に迫害しました。
そして日本の福音の炎はあたかも消えたかのように見えたんですけども、しかし、細々と親の世代から子供の世代へ、子供の世代から孫の世代へ、福音を密かに伝えていった。本当に日本の中において、この次世代への教育において大成功した先人たちがいたんです。
今この時代においても、本当にこの礼拝の回復、昔、この勝手に神殿が、日本における礼拝が荒らされて破壊されてしまった。それを復興させたいという願いを持つ皆さんに対して、主は油注ぎ、あらかじめアニ・パニーム・ハーラフして、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折り、隠された財宝を皆さんのものとして、そしてこのあらゆる礼拝の復興のために必要なものを皆さんのために備えてくださるんです。
本当に今、栄光の富が必要な状態です。今このままこの教会を運営したら、来年30名、子どもたちが30名から60名になるとしたら、場所が足りないんですね。本当に栄光の富が必要です。皆さん、祈り求めましょう。主は隠されたところの宝、秘められている宝を皆さんに与えると、この御言葉を握りしめて進み行きましょう。
礼拝を回復しましょう。子どもたちがこぞって礼拝をするように。またその親たちも、本当にこの子供たちが、福音によって、御言葉によって変えられた様をびっくりして、我も我もと、本当にイエス様を信じるようになり、そのことに用いられる皆さんでありますように。
この私たちも、この栄光の富を得たとするならば、それをこそ、その時こそ気をつけて、主が私たちを顧みてくださったことを忘れないようにして、そして本当にそれを主のために用いるべきです。
使命が託されるということ。これは神様の栄光のためです。なんでユダヤ人がこの国を失っていたにもかかわらず、彼らが財をなして世界を陰で操るかのような、そこまで力を持ったのか。それは彼らが神のために用いようとしていたからですね。
ユダヤ人、特にロスチャイルド家、ありますね。ロスチャイルド家の家訓としては、この財を得たら、富を得たならば、それを次の事業とか慈善活動とか教育福祉に回しなさいっていうことなんですね。
もうお金を、財を得たら、ただ自分のために囲い込みをして、自分の楽しみのためにだけ使う。これ、真実のお金持ちではありませんね。成り金です。ただの二世代、三世代後にもう潰してしまいます。
なんでロスチャイルド家があんなにも代々お金をどんどんどんどん富を増し加えていったかというと、その得た財、事業によって得た財を次々に教育に回し、福祉に回し、慈善活動に用い、そのようにしていったから。だから神様、さらに財を与えていくんです。今日の法則ですね。
もし油注がれるのであるならば、もし富が与えられるのであるならば、それは神様の栄光のためであり、礼拝の回復のためであり、次世代の教育のためにそれを用いるわけですね。ロスチャイルド家も次世代のために用いていったから、だからどんどんどんどん祝福されて、神様から、「この家には財をどんどん持ち越えて与える。私の喜ぶことをする」っていうことで、そのロスチャイルド家はどんどん富を増していったんですね。
富は得たら、それを主のために回す。次世代のために回す。そして主の栄光をどんどんどんどん回復させる。これが本当に大事なことです。
けれども、もし私たちが得た財を、また得た富、力、権力、また油注ぎを、これをただ自分の満足や自分の良かれのために、自分の快適さのためだけに使うとするならば、それはもうそれを取って、誰か別の人にあげてしまうことになります。
皆さんはそのようなことで人生終わってはなりませんね。皆さんは本当に主の栄光のために、また神の御国のため、次世代のために、この与えられたタラント、賜物、財を、どんどんと用いて、そしてこの日本という国に礼拝を立て上げる。
クロス王が用いられたごとく、今この時代の皆さんもそのように油注がれて用いられていきますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
主は私たちの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅の扉を打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折ってくださる。主は秘められている財宝と密かなところの隠された宝を私たちに与えてくださる。それは主が神であり、私たちの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることを私たちが知るためである。ただ主こそ神であるということを私たちがまず知り、人々が知り、そうして神の国がこの日本に、今この時代にどんどんと広がっていくために、私たちは呼び覚まされている。御言葉をしっかりと握りしめ、そして主の御旨に従って進み行き、どんどんと勝利し、勝ち取って、そこを神の国化していくことができますように。
主の恵みの限りない広さ、高さ、深さ(詩篇103:8-12) 早天祈祷会 2026年2月9日(Mon)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2026-2-9 6:40
主の恵みの限りない広さ、高さ、深さ(詩篇103:8-12) 早天祈祷会 2026年2月9日(Mon)
Youtube動画
【概要】
今、自分の人生が、あたかも狭い枠の中に囚われ、息苦しさを感じていませんか? 自分を縛る常識や罪の性質から解放されたいと願うでしょうか。 神の恵みは、空よりも高く、広く、深いと真理の言葉は言います。 主はあなたの罪を、東と西が永遠に交わらないように、遠く引き離される! この圧倒的な愛と自由の世界を、知りたいでしょうか?
【聖書箇所】
詩篇103:8-12、イザヤ55章(言及)
【慰めの言葉】
主は憐れみ深く、情け深いお方であり、はらわたがちぎれるほどの慈しみをもって私たちを見ておられます。主はいつまでも怒ってはおられず、私たちの罪に従って扱うことをせず、咎に従って報いることもありません。
【励ましの言葉】
主の恵みは天が地よりもはるかに高いように、私たちの上に大きく注がれています。私たちは狭い枠の中に自分を閉じ込めるのではなく、主が用意してくださった限りなく広い自由の世界に進み行くべきです。
【勧めの言葉】
罪を犯したら、自分で自分を牢獄に閉じ込めるのではなく、すぐにイエス様のもとに走って行き、「主よ、私は罪を犯しました。イエス様の血潮で清めてください」と祈るべきです。主の血潮を携えて、大胆に恵みの御座に進み出ましょう。
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉は詩篇103篇8節から12節です。はじめに11節と12節を皆さんで一緒に宣言します。
「天が地上はるかに高いように、御恵みは主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちの背きの罪を私たちから遠く離れさせる」アーメン、ハレルヤ。
今朝、素晴らしい主イエス・キリストの御名を褒め称え、賛美いたします。主は私たちを恵もうとして待っておられるお方ですね。父なる神様は私たちに恵みたいと待っておられるお方ですけれども、けれども私たちは本当に時に何かとても狭い領域の中で窮屈に暮らしているかのような感覚に陥ることがあるかもしれません。
もしかしたら、今までの人生ずっとなんか窮屈な針のむしろの中にいるかのようにして、もう右に行けば何々だから、左に行けば人に迷惑がかかるから、前に進めばなんか制度があれこれだから、ちょっと私はもう前にも後ろにも行けない、なんか狭い、とても窮屈なところで生きているかのような、もう狭く窮屈でものがいっぱいあると、もうこんな風にして寝なきゃいけない、なんかとてもいびつな感じですね。人生そのようないびつな形で住んでいないでしょうか。とても窮屈な思いがして、あっち行ったらこう、こっちに行ったらこう、そういうなんかぎこちない世界で住んでいる方も、もしかしたら今そういう窮屈さを感じている方も、もしかしたらおられるかもしれないですけども。
でも主が私たちを導こうとしておられるところは、限りなく広い自由な世界なんですね。なぜなら、真理はあなた方を自由にすると書いてあります。アーメン。自由というものは、ただ単に私たちが好き放題して良いということではありません。この主の秩序の中における自由です。その自由、罪を犯す、犯さない、罪を犯してもいいんだという、そういう自由ではなくて、主がしっかりと祝福の道を歩んで、自由意志を持って、あ、この道が本当に素晴らしいのだ、この道は災いがもたらされるから、この道は行かないんだ、そういう選択の自由があるんですね。
そして本当にこの選択の自由をいただくためには、正しい知識が必要です。よく親御さんが自分の子供を自由な育て方をしたいということで、クリスチャンの親でさえも、子供が何を信じるのも自由だ、子供が生物学的には男子として生まれたのに、女子として生きることも自由だ、そういった自由は全くもって不自由、むしろ本当に永遠の滅び、全くの不自由さをもたらす、そういう道になってしまいます。その罠に陥ってはなりません。
真の自由というものは、イエス・キリストにある自由。イエス様がおっしゃった真理はあなたを自由にする。これはこの神様の秩序の中における自由ということですね。私たちは本当にこの神様の用意してくださった、広い、おおらかな、また気前の良い、そういう神様の用意してくださった、限りなく広い自由の世界に進み行くということを神様は望んでおられるんです。
主は本当に気前が良いお方ですね。ケチケチしているお方ではないですね。ケチケチ、これ、狭い世界の話です。お金がこれしかないからだから、広々とした家ではなくて、狭い家を買おうということになってしまうんですね。本当に私たちは主から、気前が良い主から大いなる、もう素晴らしい未来を約束されている。ですから私たちは本当にこの主が用意してくださった、限りなく豊かな恵みの世界の中で生きるということを、この道をこそ模索すべきであり、また主はそのように素晴らしい大きなお方であるということを信じて進み行くべきです。
本当に、特に私たちを窮屈にしているものは、やはり罪ですね。自分はこれこれのような罪があるから、自分は、私はふさわしくないから、私はどうせこういう人間だから、私はどうせ罪深いから、そんなところに立たない、そういった言葉、まるで自分で自分のことを牢屋の中に自分で閉じ込めてしまっているかのようにして、それであれもできない、これもできないっていうことに陥ってしまうんですけど、しかし詩篇は全く違った風景を皆さんに見せてくださいます。
今日の詩篇の103編において、ダビデは歌うんですけども、8節の方、じゃあちょっと皆さんと一緒に宣言します。8節。
「主は憐れみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである」アーメン。
ここで使われている憐れみ深いという言葉、原語においてはお母さんが子供を抱いている時のような心境、もう内臓が震えるほどの慈しみですね。新約聖書にスプランクニゾマイ、皆さんよく使うと思うんですけど、スプランクニゾマイは、はらわたがちぎれるほどの憐れみ、慈しみですけども、主は本当に皆さんのことを、はらわたがちぎれるほどになんとかしてあげたいという、そういう感情を伴った深い慈しみ心、憐れみの心を持って皆さんを見ておられるんです。
神様、遠く遠く離れた世界から冷たく引き離すような、そういうあるいは冷たくさばくような、そういう神様ではなく、むしろ罪の中でまみれている皆さんを本当に何とかしてあげたい、はらわたがちぎれる思いで皆さんのことを見ておられる、そういう愛の神様です。
さらに主はこういうふうに続くんです。9節見ますと、9節。
「主は絶えず争ってはおられない。いつまでも怒ってはおられない」アーメン。
本当に神様はいつまでも怒ってはおられないと書いてあります。私たちは違いますね。なんか怒りを、もう後生大事に握りしめているかのような、あの人の憎たらしい、この人、あのことが許せない、っていうのは、もう本当に握りしめて、怒りを長く保っているから、そういう価値観だから、神様もきっとそうじゃないかと思うだろうかって。でも聖書は書いてあります。主は絶えず争ってはおられない。いつまでも怒ってはおられない。アーメン、アーメン。
主は出エジプト記においても繰り返して語られているのは、主は憐れみ深く情け深い神、怒るのに遅く、恵みと誠に富む、アーメン。主は本当に怒るのに遅いお方です。もし人間が罪を犯したのであるとしたら、たちまち天から降りてきて、もうぶん殴るような、そんな神様だったら、もう何発殴られたかわからないですね。もう罪を犯しがちなけども、私たち、本当に河合先生がよく金曜の礼拝で21項目、私たちの死に値する罪、それを本当に罪を犯しているにもかかわらず、けども、主は怒るのに遅い。そして人が立ち返るのを待っておられます。
なんとかして、裁かれる前に、この主の恵みのただ中に来ることを主は望んでおられるんです。もし主が怒るのに速い神だったら、もう人間はたちまち滅ぼされてしまっておりました。創世記で、もうアダムとエバが早速罪を犯して、カインの時代からもう早速罪が全地にはびこって、そこからもう千年以上も経ってから洪水がようやく起こっているですね。
洪水が起きたのも、もう本当に人の中に罪がはびこって、その当時の世界が、例えば十億人の人口だったら、十億人総出で殺人鬼十億人、みんなそれぞれ不品行の、そういうものたち、そういう世界でもう義人と言いますか、そうじゃない人が世界で8人しか残らなくなって、もうその8人を今にも飲み込まれそうになってしまったように起きた洪水でしたね。
主はまことに憐れみ深く、怒るのに遅いお方、本当に救われたいと願っておられるゆえに、どんなあくどい人であっても、すぐに裁くことをしないで、むしろ立ち返ることを待っておられるのが、これが主です。そんな主ですから、私たちがどうして自分で自分のことを私、罪深いから、私、神様の前にふさわしくないからといって、あれこれ制限する必要があるでしょうか。
もしそう感じるのであるならば、主の恵みの御座に進み出て、折にかなった助けをいただくために、大胆に進み出ようではありませんか。書いてありますね。私たちは、どうしてそれができるのか。功(いさお)なけれど、主の血潮により御前に出ることができると賛美しておりますね。功なんて言うんですか、あの、そういう、それに値するということ、値することではない、私だけど、確かそういう意味ですね。
功はなけれど、けれども、主の御前に進み出ることができるのは、イエス様が十字架で血を流してくださって、そして私たちの身代わりに罰せられてくださったから。だから私たち、功はなけれど、主の血潮によって主の恵みの御座に進み出ることができるんです。
もし皆さんの罪悪感、あるいは自分はふさわしくない、そういった思いに駆られているとするのであるならば、主の血潮を携えて御前に進み出ればいいんです。そしてイエス様、私、このような者です。主よ、あなたの血潮でもって清めてくださり、私をふさわしい者として、あなたが見ておられることを感謝します。あなたの恵み、憐れみがこんなにも海よりも深く、空よりも広いことを感謝します。その深さ、広さでもって、この者をあなたのその知識を持って清め、またその深い深い憐れみの中に私を浸し込んでください。そういうふうに祈ればいいんです。
主はいつも争っておられない、怒ってはおられないお方、誠に情け深い恵みと誠に富んだお方、恵みと誠に、リッチなお方であると書いてあります。
さらに詩篇の103編の10節の方で書いてあるんですけども、じゃあ10節、皆さんと一緒に宣言します。
「主は私たちの罪に従って私たちを扱うことをせず、私たちの咎に従って私たちに報いることもない」
これ、とてつもなくすごい慰められることはですね、主は私たちの罪に従って扱うことをしない。私たちが日々犯す罪、また本当に自分はふさわしくない、そういう感覚。この罪に従って扱うことはしない。私たちの咎に従って私たちに報いることもないと書いてありますね。私たちの常識はここで崩れ去ります。
私たちの常識としたら、悪いことしたらその分だけ罰を受ける、っていうものですけども、しかし主はそういった計算をなさらないんです。イエス・キリストにあって。イエス・キリストにある者は、そのような計算ではないんですね。イエス・キリストになければ、もうあの21項目で死罪に当たる罪、たちまち日ごと、もうすぐにでも犯してしまいます。けれども、イエス・キリストの血潮によりて、私たちは、この主は計算外だ、あなた方がもう今まで犯してきた罪はもう計算の外にするということにしてくださるんです。
この私たちの咎、本当にこれは私たちはあるんですけども、しかし主はそれに従って報いることをしない恵みの時間があります。恵みの時間のうちに、この主の血潮の陰に隠れる人は、その計算がさらになしにされるんですね。けれども、その恵みの時間に、あ、自分は何しても罰されないんだって調子に乗っていると、その恵みの時が過ぎてしまいます。
やがてそういう時が来てしまう前に、私たちはイエス・キリストの血潮によって、イエス様、許してください。イエス様、助けてください。その主により頼む者は、本当に主はそのような罪を許してくださるお方ですから、私たちは本当に何か罪を犯したらすぐに主のもとに行くべきです。
何か罪を犯してしまったら、ああ、やっちゃった、やっちゃった、自分はダメだ、自分はダメだって言って、その牢獄に閉じ込まったままで主のもとに行かないとするならば、それは悪魔サタンが喜ぶことです。皆さんは悪魔サタンが喜ぶことをしてはなりません。主が喜ぶことをしましょう。
主が喜ぶこととは、罪を犯したらすぐに主のもとに走って行って、主よ、私は罪を犯しました。イエス様の血潮で清めてください。そういうふうに言うことですね。
皆さんの子供が、歩いていて、転んでしまって、たまたま運悪く泥んこの水たまりのところにべちゃってなって、もう服が汚れてしまった。その子供はああ、服を汚しちゃった。もうパパとママには嫌われるんだ、会えないんだって言って、それで子供が狭い牢獄の中で閉じこもって、一人で閉じこもっていったら、そんな子供ね、ちょっとあれですね。むしろ子供は汚れたんだったら、親のもとに行って、パパ、ママ服汚しちゃったって、走っていくものですね。
皆さんは神の子供であるなら、罪で汚れたなら、むしろイエス様のもとに走っていくべきなんですね。それをイエス様は望んでおられるんです。
さらに11節も皆さんと一緒に宣言します。11節。
「天が地上はるかに高いように、御恵みは主を恐れる者の上に大きい」アーメン。
天はもう本当に計り知れない高さです。どこまで行っても行っても届かない。それが天です。主の恵みは、皆さんがする後悔よりもはるかに高い。主の恵みは、皆さんが自己評価する自己評価よりもはるかに高い。主は皆さんの、主の恵みは皆さんの上に注がれて注がれて、それは天よりも高い、なるほどの高い高い恵みを、主は皆さんに注いでおられるんです。どうして小さい領域で縮こまって自分ダメだ、あっち行ってもダメだ、こっち行ってもダメだにとどまっているでしょうか。主の恵みは空よりも天よりもはるかに高い、アーメン、その主の恵みに皆さんは飛び込んでいくべきなんです。
そしてさらに12節でこういうふうに締めくくられているんですけども、12節。
「東が西から遠く離れているように、私たちの背きの罪を私たちから遠く離れさせる」アーメン。
この東と西、決して交わらないものです。東と西がくっつくということはありえないですね。どれだけ歩いても歩いても、近づいていくことはできません。主は皆さんの背きの罪を、遠く、もう東と西が遠いように、もうお互いがタッチできないように、私たちの背きの罪を私たちから遠く離れさせてくださる、引き離してくださったんです。十字架によって。
ですから、私たちは、この十字架によって、罪は東と西がもう決して交わらないかのようにして引き離してくださったんです。それなのに、私たちどうでしょう。もう神様が遠くに投げ捨てた罪も、なんかもう一度持ってきて、拾い集めて、これ私の罪ですって言って、罪を後生大事に持ち歩くかのような。そうやって、それは真実ではありませんね。
この背きの罪で、これ、ただ単に、あの、知らないで犯した罪ではなく、知って犯した罪で、そしてあえてわざと、これが罪だと知って犯した罪、そのような背きの罪、これを私たちから遠く離れさせると書いてあるんです。
私たちは罪に戻ることがあるかもしれません。けれども、あ、戻ったと感じたのであるならば、あ、清くなりたい、思ったのであるならば、すぐにイエス様の懐に飛び込んで、イエス様、助けてください。イエス様、罪を犯しました。すぐにイエス様のもとに飛び込んでいってください。
主の恵みは天よりもはるかに高く、また罪を皆さん東西が分離しているごとく分離させてくださるのが私たちの主です。アーメン。これほどの素晴らしい主は、神様が他にいるでしょうか。本当に私たち自身の罪、火のように赤くても雪のように白くしてくださる。書いてありますね。アーメン。まことに主は高い広いお方、また本当に気前が良い、そういうお方です。
冒頭で宣言したところは、イザヤ書の55章なんですけども、そこも全く同じようなことが書いてあるんですね。私の思いはあなた方の思いとは異なり、私の道はあなた方の道と異なる。天が地よりも高いように、私の道はあなた方の道よりも高く、私の思いはあなた方の思いよりも高い。アーメン。
私たちは本当に狭い世界で、これが世界だと縮こまった考え方をするんですけど、しかし、主の思いはあなた方の思いよりはるかに高いんです。天が地よりもはるかに高いごとく。皆さん、飛行機に乗ったことありますね。もうどんどん離陸していくと、地上が小さく小さく、地上の人が、また車がどんどんどんどん、もう塵の塵としてなくなってくるほどになりますね。
神様の視点から見れば、皆さんのその罪、それは本当に塵の塵として見てくださるお方です。皆さんがイエス様に行くのであるならばです。けれども、皆さんがイエス様にないとするならば、もうすぐに皆さん、21項目の罪のどれかで犯して、もう死罪に当たる死に値する罪になってしまいます。だからイエス様にいつも皆さんにより頼むべきなんです。イエス様、助けてください。イエス様、自分を本当にこの罪から汚れから清くしてください。いつでもイエス様に、イエス様のもとに、すべての罪を投げて、またあるいはイエス様のもとに走り寄って、イエス様から直接この罪の清めをいただく。また主の空よりも高い恵みをいただくべきです。
私たちは何かと自分を小さい枠にはめ込んでしまいます。皆さんは世の光なんですね。世の光を、枡の中に閉じ込める者はいないって、イエス様はおっしゃいましたね。この燭台をベッドの下に置く者はいないって言いましたね。なんでそんなことをする人がいるのかって普通、人間、常識的に考えて、なんで灯火を枡の下に置こうとするのか。そんな人間、常識的にいないよって思うんですね。
でも、私たちの霊的な有り様がそうなんです。もう枡、自分という枡の中に押し込んで、主の恵みはこんな枡、こんなぐらいだって。いやいや、主の恵みは天よりもはるかに高いと書いてあります。自分の能力はこの枡のこのぐらいしかないんだって、なんでそんなこと思うんですか。主は皆さんを、こういう者だって、そういう思い込みから解放してくださる主です。主には解放ができます。天よりも高い主の恵みが皆さんを解放してくださいます。この主の恵みに浸し込まれましょう。
【結論】
神様の憐れみや恵みは、私たちが自分で決めつけたものよりはるかに高い、広く高く、深いものです。だから私たちは神様のもとに行くべきです。するならば、イエス・キリストの血潮によって、私たちの罪は東と西が引き離されたごとく引き離され、もう私は罪を握りしめる必要はないんです。主の赦し、主の気前良さ、これは天よりも高い。アーメン。今日から私たちは、本当にこの空よりも高い主の恵みの下で生きて、そして本当に自分自身の枡の中にとどまることはなく、本当にこの主の高い高い空の下で自由に息をして、自由に主の恵みのただ中で歩んでいく私たち共々でありますように。
