メッセージ - 202602のエントリ

主日礼拝

ききんの時代に養われ、神のご用に用いられる人(1列王記 17:8-16)

第一礼拝 Youtube動画

English Service Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 本日の御言葉 1列王記 17:8-16

 むかし、シドンのツァレファテという町に、一人のやもめが住んでいました。彼女は夫を失い、収入を失い、しかもその時代は、とても大変な時代でした。まことの神様を恐れ敬う人があまりにもおらず、天は閉ざされ、手に入るものはどんどん減って行ったのです。 人々はそれぞれ、自分がおがむ偶像の神々に頼みますが、なんの効果もありません。そんな中、彼女だけは、イスラエルの神、主を信じ、祈っておりました。
 「神様どうか助けてください。もう一回分の食べ物しか残っておりません。せめてこの子だけでも生かして下さい。」 彼女はそう祈って、最後の食事を調理するための薪を集めに、町の門のところに行きました。

 そこに、一人の男性が近づいて来ます。彼は毛の衣を着て革の帯を締めておりました。彼女は、彼の風貌や雰囲気を見ると、この人は神の人だ、と感じました。事実彼は、旧約で最も偉大な預言者エリヤでした。
 彼は、彼女に言いました。「ほんの少しの水を持って来てください。」 水はこのご時世、とても貴重です。
けれども彼女は、彼のために、水を取りに行こうとしました。ここに、彼女の高貴な品性が垣間見られます。
どんなに貧しく苦しくても、神の人を大切にする。たとえ持っている財産がわずかでも、それを神の人のために用いる。 このような品性を持つ信仰者を、神様は天からしっかり見ておられ、覚えておられるのです。
 しかも彼は、さらに追い打ちをかけるような言葉を言います。 「一口のパンも持って来てください。」
彼女は、正直に答えます。 「あなたの神、【主】は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。 ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
 この言葉から、彼女が信仰者であった事、そして、この男性が神の人であると認めていた事がわかります。
彼女は正直に全部、神の人に打ち明けました。すると、彼は言います。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のために小さなパン菓子を作り、持って来なさい。」
 これは、とても理不尽に聞こえたかもしれません。しかし、彼がそう言ったのには、理由がありました。
実は、預言者エリヤがわざわざイスラエルを離れて、この異邦の町へ来た目的は、他の誰でもなく、「彼女に」会うためでした。神様は天からあまねく見ておられ、彼女の誠実な信仰をご存知であり、しかも神様は、彼女を通して、この偉大な預言者を長らく養うために、わざわざエリヤを彼女のところへと遣わしたのでした。
 一体どうして、今にも死にそうな程の貧しいやもめが、神の預言者を長く養う事ができるのでしょうか?
それは、他でもありません。「神様の、おことばを信じて、そのとおりにする事」によってです。これが何よりも素晴らしい性質であり、たとえどんなに貧しく弱くても、神様のために素晴らしい働きができるのです。

 エリヤは、さらに言葉をつづけます。『イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』』 彼女はこの言葉を、神であられる主が、他でもなく「自分に」向けて仰せられたお言葉として受け、希望を持つことができました。
 それで彼女は、薪を持ち帰り、いつものように料理台の前に立ちます。かめから最後の粉を出し、壺の油をその上に注ぎ尽くしました。 お腹を空かせた息子は、見ています。今、最後の料理をしている事が、息子にもわかります。母はそんな息子に気づき、彼に向かって言います。  「あの方が先です・・・!」
彼女は、神様のお言葉を信じ、従いました! 御言葉に従った事実が、後の明暗をくっきり分けるのです。
 こうして1つのパン菓子が焼き上がりました。彼女はそれを、預言者のところに持っていきました。預言者は彼女に言います。「ほら、台所に行って見てみなさい。神様がお言葉通りにしてくださったかどうか。」
 二人が台所に行って、見てみると、本当に、神様が言った通りでした! 空っぽになったはずのかめは尽きておらず、つぼの油もなくなっておりませんでした。こうして彼らの命は一日、つなぎました。この奇跡は、一日限りではなく、その翌日も、そのまた翌日も続き、こうして彼らは長い間、養われたのです。

 今日、皆さんに伝えたいことは、1つです。それは、「神様のお言葉に従う性質こそ、何よりも大事」だと言うことです。その性質を持ってる人をこそ、神様は困難な時代にも助けられるばかりでなく、神様の重要な働きをお手伝いするようになるのです。大きな力や持ち物がなくても、いいのです。神様はそのような人に、助ける人や物、事を遣わし、しかも、神様の偉大な働きへと用いられるのです。 あなたの神、主は、生きておられます!主は私達の日々の小さな従順をを見ておられ、全ての必要も見ておられ、それを満たしてくださるばかりでなくこの「霊的ききん」の時代を大きく動かすために、働きの一旦を担わせて下さるのです。

主との年月を積み重ねて行くほどに深みを帯びていくキリストの証(使徒26:9-21) 早天祈祷会 2026年2月6日(Fri)

Youtube動画

【概要】

かつてキリスト者を激しく迫害したサウロ。 彼の人き方は、ダマスコ途上での“太陽よりもまばゆい光”によって、一変する。 それから年月が流れ、今や使徒パウロとなった彼は、王アグリッパの前に裁判の被告人として立つ。 彼が弁明した内容は、無罪の主張でも弁解でもなく、なんと、イエス・キリストの証しだった。 迫害者の熱心は、なぜ、キリストを伝える熱心となったのか。 そして「とげのついた棒を蹴る痛み」が意味するものとは――。

【聖書箇所】

使徒26:9-21(特に26:12-14を宣言)

【励ましの言葉】

イエス様は私たち一人ひとりに、最もわかる言葉で語りかけてくださいます。イエス様と共に歩む年月を重ねるほど、あの時の御言葉の深い意味が分かってきます。信仰の深みはどんどん増していくのです。

【戒めの言葉】

自分のための熱心は、実はイエス様を迫害することになります。人から認められたい、人気を得たいという思いで神に仕える時、それはキリストを突き刺すことになるのです。私たちの中心が自分にあるのか、イエス様にあるのか、日々吟味する必要があります。

【勧めの言葉】

あらゆる機会を用いてキリストを証ししましょう。パウロは裁判の席でさえ、自分の無罪を主張するのではなく、イエス・キリストを証しする場としました。限られた時間の中で、効果的にキリストを伝えることに心を注ぎましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

キリスト者を迫害すること、兄弟姉妹に暴言を吐くこと、それはイエス様ご自身を迫害していることです。「棘のついた棒を蹴る」ように、私たちは痛みを覚えます。イエス様の御旨に反する都度、私たちは痛みを感じるのです。


【***詳細***】

今日は使徒行伝の26章9節から21節を見ていきます。まず皆さんと共に12節から14節を宣言したいと思います。

「このようにして私は祭司長たちから権限と委任を受けてダマスコへ出かけていきました。その途中、正午頃、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの周りを照らしたのです。私たちは皆、地に倒れましたが、その時、声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか。棘のついた棒を蹴るのは、あなたにとって痛いことだ』」(使徒26:12-14)

昨日見た箇所の並行箇所と言えます。昨日は、迫害者であったサウロ、パリサイ人のガマリエルのもとで学んだエリート中のエリート、サウロがイエス様と出会った場面を見ました。

今日の箇所は、内容的には似ていると思った方もいるかもしれません。しかし、これはずっと後、何年も何年も経った後のことです。使徒パウロとして捕らえられて、イエス・キリストをあまりにも宣べ伝えるということで、ユダヤ人たちの恨みを買って逮捕され、ローマへと護送されていく途上での出来事です。

パウロは前回の箇所からさらに後、色んなところでイエス・キリストを証しし続けていました。何度もこのイエス様との劇的な出会いを、ずっと語り続けていたのです。

今日の箇所において、パウロはアグリパという王様の前に連れ出されました。「パウロ、一体何で捕らえられているのか、どんな罪を犯したのか。情状酌量の余地を与えるから、何をしたのか言いなさい」と、王の前で、いわば裁判の席につかされたのです。

通常、裁判の席につかされたら、「私はこういうことをして、ですから私は罪はありません」といった弁明をするはずです。しかし、なんとパウロはイエス・キリストと出会った証を、弁明の中に組み込んで、この王様の前でイエス・キリストを証しするという場に変えてしまったのです。

皆さんもそのようにできるでしょうか。逮捕されて、裁判の席に行って、そこでイエス・キリストを証しする。むしろ、「いや、私は悪くない。私は無罪だ」ということを主張したがるかもしれません。しかし、パウロは「私が捕らえられている理由、それはこれです。それは私の信仰のゆえです」ということで弁明を始めるのです。

9節から見ますと、「以前、私自身もナザレ人イエスの名に強固に敵対すべきだと考えていました」と、この「以前」、キリストと出会うビフォーアフターのうちのビフォーから語り出すのです。

自分もこのイエス・キリストには敵対するものだったと。それをエルサレムで実行して、「祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺される時にはそれに賛成の票を投じました」(使徒26:10)

サウロだった頃の彼は、何人のキリスト者たちを牢に入れ、また殺される時には賛成票を投じたのか。彼はもしかしたら、このキリスト者が石打ちにされる場面に共に石を投げたかもしれません。あるいは、どういう殺され方をしたのか、その場面場面において、彼も同席して、何度も同席した、そういう経験をしてきました。

「またすべての会堂でしばしば彼らを罰しては強いて冒涜の言葉を言わせようとし」(使徒26:11)こんなこともしたんですね。キリスト者を罰して、なんか拷問じみたことをして、そして、もう無理やりに「お前、イエス・キリストを冒涜する言葉を吐け。そしたら許してやるぞ」、そういうことを彼もしていたのです。

「彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡していきました」(使徒26:11)徹底していますね。もうエルサレムの中のキリスト者だけではなかったのです。本当に国外に逃げていったキリスト者たちをも執拗に追いかけていって、そしてこのキリスト者を迫害しようと、その怒りに燃えてと書いてあります。怒りの感情に燃えていたわけです。

このようなことをしていた彼です。そうして彼が出かけて行った時のことが、昨日の箇所とちょっと表現が違うところがあります。前回の箇所は、実際にサウロだった頃の彼がイエス様と出会った場面を説明しているのですが、今日の箇所では、彼はこう証しています。

「祭司長たちから権限と委任を受けてダマスコへ出かけていきました。その途中、正午頃」、この「正午頃」という言葉があります。「王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて」、太陽よりも明るかったのです。「また私と同行者たちの周りをその光が照らしたので、私たちは皆、地に倒れました」(使徒26:12-14)

全員が地に倒れたようですね。その時、「その時声があって、ヘブル語で」、これもまた前回の箇所ではなかった表現ですね。ヘブライ語で。そうです。イエス様は本人自身に現れる時、本人自身にわかる言葉で語られるのです。

横浜架橋教会の長老とお話をしていた時、その長老さんもイエス様の御声を中国語で聞いたと言っていました。それぞれの言葉、それぞれ自身のわかる言語で語られるのです。イエス様はお言葉なるお方ですから、もう何語、何語を超越しておられるけれども、特に私たち自身で最もわかる言葉で語られます。

そして皆さん自身も異言ということ、皆さんが日本人であってもアメリカ人にもわかるように、中国人にもわかるように、その言葉、それぞれの国の言葉でわかるような言葉で、神の国の偉大なることを語ることができることが、使徒行伝の2章に書いてありますね。

使徒2章、ペンテコステの日に、本当にいろんな何カ国語もの人々が集まっていた。それぞれの言葉でこの弟子たちが話し出した。どういう内容で語ったか。それぞれの国の人々が証しします。「神の国の大いなることを」。こんなにも多くの言語で語るのを聞こうとは、と驚いたのです。

キリストはお言葉なるお方です。ですから、皆さんがキリストを証しする時、皆さん自身の口が回らないとか、私は口下手、そういったことは気にしなくて大丈夫なのです。お言葉なるお方が語り出すからです。

この口下手な人がより多く語れるということではなく、むしろキリストが語らせてくださるその感性を持った人が、より多くのこのキリストの証をすることができるようになるのです。

ヘブル語でイエス様がサウロに対して語るのを聞こえたと、彼は告白しています。「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」(使徒26:14)

ここまでは昨日の箇所と同じですね。でもその後のところ、昨日の箇所にはなかったのです。イエス様、さらにこういうふうに言ったと言います。「棘のついた棒を蹴るのは、あなたにとって痛いことだ」(使徒26:14)

このことも、この時自分に語られたということを、アグリパ王に、また、その裁判の席において弁明しています。イエス様と出会ってから何年も経って、イエス様と共にずっと歩んでいくうちに、本当にあの時、ああ、イエス様はこのようにも語っておられたんだなということがわかることがあります。

あるいは、この裁判の席において、この短い時間の中において、いかにキリストへと人々を引き込むかということで、いろいろと話をはしょったり、あるいはこの時、主が語られたと感じたこと、それもこの証の中に混ぜ込んで、そして本当に真実にイエス・キリストが、「あの時こんなに私のことを語ってくださったんだ、こんな私の思いを汲み取っておられたんだ、分かっておられたんだ」ということを、本当に信仰が成熟すればするほど分かってきます。

あの時、イエス様はこういう意図を持って語っておられたのだと分かってくるのですね。この時、どういう意図を持ってイエス様は迫害者サウロに語ったのか。

「なぜ私を迫害するのか。サウロ、サウロ」。サウロ、人から望まれるという名前の意味です。人から望まれることを望んでいるあなた、人から望まれることを望んでいるあなた、なぜ私を迫害するのか。

本当に皆さん自身の功名心、人々から良く見られたり、そういう思いでキリスト、神に仕えようとすると、イエス様を迫害するものになってしまうのです。イエス様に人気が集まるよりも、私に人気が集まってほしい。これ、キリストを突き刺すようなことですね。キリストの栄光の座から引きずり降ろすようなことですね。

サウロだった時、神に仕えると思っていた彼。けれども、その熱心は、実はイエス様を突き刺す、イエス様を迫害する熱心、間違った熱心でした。

私たちが熱心になる時、本当に気をつけなくてはなりません。果たして自分はイエス様に熱心なのか、イエス様を愛するゆえなのか、あるいは自分ゆえの熱心なのか。自分ゆえの熱心だと、逆にキリストを迫害する側にいつの間にかなってしまい、そしてよくわからないままに神様の御旨とは真逆の行動をしてしまうことになってしまいます。

本当に私たちのその中心が一体どこにあるのか。私たちの誇りは一体どこにあるのか。私たちの誇りが自分にあるのではないか、あるいは本当にイエス様にあるのだろうか。本当に日々吟味する必要があります。

イエス様はこの時、「棘のついた棒を蹴るのはあなたにとって痛いことだ」と言いました。本当にこの言葉、パウロにとってずっと痛かった思い、ずっと心の中に響いていた痛みだったんでしょうね。

このキリスト者を迫害する度、キリスト者が死刑になるという宣告に対して賛成の票を投じる度、そのキリスト者たちが、あまりにも清く尊い様でもって、ほふり場に引かれている子羊のように、何の抵抗もせずに、しかし清らかな有様で、「これからイエス様ともうついに天国で出会えるんだ、もうすぐなんだ」という、その輝いた表情のキリスト者たちに対して向かって石を投げる都度、あるいはそのような輝いたキリスト者に、あえて拷問じみたことをして、「お前、イエス・キリストに対して暴言を吐け。そしたら許してやる」と迫る都度、痛みを覚えていたんです。棘のついた棒を蹴るかのような。

この棘のついた棒、当時は道具として使われていたそうです。くびきってありますね。牛を二頭を1組つなぐ、そういう道具なんですけども、そのくびきに若い牛、まだくびきに慣れていない牛を初めてくびきを負わせる時、その若い牛は、くびきが嫌なので、窮屈なので、そのくびきのところを蹴るんですね、足で蹴るんですけれども。

けれども、その若い牛にくびきを負わせる時は、その牛が蹴るようなところに棘をつけるんですね。棘のついた棒をそこに当てはめて、そして若い牛がそのくびきを蹴るたびに、その棘のついた棒を蹴るので痛いんです。だから徐々に徐々にこの若い牛はそのくびきを蹴ることをやめて、そしてそのうちそのくびきが若い牛にしっくりとくるようになって、そしてやがてはそのくびきに負わされることにおいて、何の抵抗もなく、また平安のうちに、共に主人の意のままに働くようになっていくんですね。

私たちも同じです。初め、キリストのくびきを負わされる時、もう嫌で窮屈で蹴るけれども、痛みを覚えるんですね。イエス様の御旨に反する都度、皆さんも経験あるでしょう。イエス様の御旨に反する都度、痛みを覚える。棘のついた棒を蹴るのは痛いことだ。

キリスト者を、イエス・キリストにある兄弟姉妹を蹴るような言葉で暴言を浴びせるような、それは棘のついた棒を蹴るような痛みを覚えることだ。

今日の箇所に出てくる、パウロに、まだ迫害者だったサウロに、「棘のついた棒を蹴るのは、あなたにとって痛いことだ」とイエス様おっしゃいましたけども、これは私たちにも言ってるんですね。

キリスト者を迫害する都度、あるいは、キリストにある兄弟姉妹に暴言を吐いたり、怒ったり、打ち叩いたり、そういう都度、実はそれはキリストを迫害していることだ。イエス様は、「なぜ私を迫害するのか」と言いました。「なぜ私の愛する弟子のあの人、この人を迫害するのか」と言わず、「私、なぜ私を迫害するのか」と、この時、イエス様はおっしゃいました。

ですから、キリスト者を迫害する、キリスト者に暴言を吐く、キリスト者を打つ、言葉の鞭で打ち、あるいは実際の、まあ暴力、まあ、なかなかそういう人はいないと思うんですけども、そうやって打つ都度、棘のついた棒を打つことだ。そしてそれはイエス様ご自身を打っていることなんだということです。

パウロは長年イエス様と連れ添って歩んでいき、その経験を積んで、時間をイエス様と共に過ごしていく中で、このことが分かっていったんです。棘のついた棒を蹴ることは本当に痛いことだ。そして先々でこの証をしたことでしょう。そして多くの人々がこのパウロの言葉を聞いて信仰に入っていったことでしょう。

皆さんもそうなっていくんです、なれるんです。イエス様と共に歩み、イエス様があの時なんて言われたのか、それを思い巡らし、「そうか、そうだ、あの時は実はイエス様、こういうこともおっしゃりたかったんだ。実はこういうことも言葉で表現していなかったけど、実はそういうことも言っていたんだ」、意味が徐々にどんどん分かっていくんです。

イエス様の愛の広さ、高さ、深さ、これ計り知れないです。もう何年かかっても、ようやく「ああ、もっと深みが知れた」。さらにイエス様と共に経験積めば、「もっと実は深かったんだ」ということがどんどんわかっていくんです。

15節から見ますと、「私が『主よ、あなたはどなたですか』と言いますと、主がこう言われました。『私はあなたが迫害しているイエスである。起き上がって自分の足で立ちなさい。私があなたに現れたのは、あなたが見たこと、またこれから後、私があなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである』」(使徒26:15-16)

アーメン。これ、昨日の箇所においてはイエス様は言っておりませんでした。イエス様が言ったのはただ、「ダマスコの街の中に入っていきなさい。そうすれば今後あなたがすべきことが告げられる」んですけども。

けど、パウロはおそらくここ、アグリパ王の前で、わずかな言葉で、このアグリパ王をなんとかしてキリスト者にしたい、そういろいろ端折ったのかもしれません。あるいは後になって「ああ、イエス様、あの時このことを言われたのか」と分かったのかもしれませんし、あるいは本当にイエス様があの時こう言われたけれども、前回の箇所が端折ったのかもしれません。

とにかくイエス様が言われたこと、それが本当にこの御霊が促されるままに、この王たちの前で、また人々の前で証しする時、このように言葉が与えられていくんです。

ノンクリスチャンたちは、「パウロが言ってること、前回とこの場面で違うじゃないか」、そういうふうに、なんか食い違いを指さして、「だから聖書は信頼にならない」と言うんですけども、しかし、本当にキリスト者として経験すればしていくほど、「あの時イエス様が言われたこと、あの時イエス様が現れて、このようなことをしてくださったこと、これにはこういう意味があったんだ」、こんな風にしてイエス様との深みがどんどんと深まっていくんですね。

この時、イエス様、「私があなたに現れたその理由、それはこれからまた後、私があなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためだったのだ」ということが、パウロは後々分かってきたんですね。パウロは当時は分からなかったかもしれません。まさかイエス様の証し人、また働き人、奉仕者になるなど分かっていなかった。まだくびきに慣れていなかったけれども、そのくびきを負っていくうちに、徐々に徐々に分かっていったんです。「そうか、あの時、主の御心は私が証人になり、奉仕者になることだったんだ」。

そしてさらにパウロのミッションが17節、18節で語られます。「私はこの民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、私を信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって、御国を受け継がせるためである」(使徒26:17-18)

アーメン、もうここまで徹底的に、具体的に、このパウロの役割が啓示されていったことが証しされました。実際にそうでした。パウロのその後の歩みで、もう本当に異邦人へと遣わされ、そして多くの人々に、目の見えない人の目を開き、具体的に目の癒しをしたのみならず、霊的な目が本当に閉ざされていた人の霊的な目を開き、そして闇の中に囚われている人々に光を照らし、サタンの支配の中に、悪霊の支配の中にいた人々を、悪霊を追い出して、そして神の支配の中に導き入れた働きを具体的にしてきましたね。

だから本当にこのイエス様がサウロに与えられたミッション、当時はわからなかったけれども、徐々に徐々にわかっていったんですね。そして罪の赦しによって聖なるものとされた人々を起こし、その彼らに御国を受け継がせるために「あなたを召し出し、こうしてあなたに現れたのだ」と、パウロはこの証の中で告白しました。

19節から見ますと、「こういうわけでアグリッパ王よ。私はこの天からの啓示に背かず、ダマスコにいる人々をはじめ、エルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと述べ伝えてきたのです。そのためにユダヤ人たちは私を宮の中で捕らえ、殺そうとしたのです」(使徒26:19-21)

本当に裁判の席において、大いなる証が語られました。そしてパウロはさらに多くの人々にこの福音を宣べ伝えていったんですね。証をしていたんですね。

24節では、パウロがこういうふうに弁明していると、フェストという人が口を出すんですね。「気が狂っているぞパウロ。博学があなたの気を狂わせている」、もうパウロ、あなたがそんな奇跡じみた言葉を言ったりして、まあ、あなたはお勉強しすぎて気が狂ったんだ、そういうふうに言うんですけど、しかし、「フェスト閣下、気は狂っておりません。私は真実な真の言葉を話しています」。

本当にこの言葉を、アグリパ王に対しては、「あなた預言者を信じておられますか。もちろん、信じておられると思います」と言うと、28節でアグリパ王、パウロに「あなたはわずかな言葉で私をキリスト者にしようとしている」と言うんですね。

本当、パウロのこの裁判の席、アグリパ王に対して、このもし一国の王がキリスト者になったら、どれほど素晴らしいことか。パウロは本当にこの機会の中においてもキリストを証しするものになりましたね。わずかな言葉、わずかな時間で、限られた時間の中で、いかに効率的に証をするか。パウロは本当に心を痛めていたんですね。

裁判の席で、いかに自分が無罪になって自由に解放されるかということではなく、いかに短い時間でこの聴衆、人々にキリストを伝えるか、効果的に伝えるか、このことに心を尽くしていました。

私たちも本当にあらゆる機会を用いて、このキリストを宣べ伝えるべきです。このパウロは、キリストと共に人生を歩んでいくうちに、どんどん証しに深みが加わってきました。また「あの時、キリストは、イエス様はこう言いたかったんだ」ということをどんどん理解していきました。

皆さんもイエス様と共に歩んでいくうちに、信仰がどんどん深みを増していくべきですね。教会に十年通っても、全然全くもって世の中の人と同じ、これであってはいけません。イエス様と交わり続けてください。イエス様が皆さんの相続財産です。イエス様が皆さんにとって本当に良き友であり、また、いつでも皆さんに交わりを持ちたい、持ちたいと願っておられる主です。インマヌエルなる主です。共にいます神です。

どうか、この共にいますイエス様といつも交わり、そして都度皆さん自身が必要な助けをいただき、癒しをいただき、必要な働きへと出ていき、そしてますますイエス様との関係が深くなって、イエス様の救いを多くの人々にもたらし、そして、ついには王の前においても証しをしていく皆さんでありますように。

【結論】

パウロは迫害者サウロから使徒パウロへと変えられ、イエス様との出会いの意味を年月を経るごとに深く理解していきました。「棘のついた棒を蹴る」痛みを経験し、自分の熱心が実はキリストを迫害していたことに気づかされました。私たちも日々、自分の中心がどこにあるのかを吟味し、イエス様との交わりを深めていく必要があります。パウロが裁判の席でさえキリストを証ししたように、私たちもあらゆる機会を用いて、効果的にキリストを伝える者とされていきましょう。イエス様は共にいます神であり、私たちの相続財産です。この方との交わりを深め続けることで、信仰の深みはますます増し加えられていくのです。

 

異端者を裁く「正義の」使徒サウロの痛み(使徒9:1-9) 早天祈祷会 2026年2月5日(Thu)

Youtube動画

【概要】

使徒パウロ(サウロ)がダマスコへの途上でイエス・キリストと劇的に出会い、キリスト教最大の迫害者から最も偉大な伝道者へと変えられた場面。イエス様と出会った経験こそが私たちの最大の宝であり、それを生涯証しし続けることの大切さを学ぶメッセージ。

【聖書箇所】

使徒9:1-9

第一コリント15:8-10

【励ましの言葉】

イエス様と出会った経験は、あなたの宝です。それは神の一方的な恵みによるものであり、あなたの力ではありません。神の恵みによって、あなたは今のあなたに変えられたのです。

【慰めの言葉】

あなたがイエス様を信じているゆえに迫害されるとき、それはあなたを迫害しているのではなく、イエス様を迫害しているのです。イエス様はあなたと一つであり、あなたの苦しみを共に担ってくださいます。

【勧めの言葉】

キリストと出会った経験を後生大事に握りしめ、機会があるごとに証ししましょう。宣教や伝道を諦めてはいけません。今は理解できない人も、後に感性が開かれて救われるかもしれないからです。

【***詳細***】

今日、恵みをいただく御言葉は使徒行伝9章1節から9節です。皆さんで共に1節と2節を宣言しましょう。

使徒9:1-2「さて、サウロはなおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂宛の手紙を書いてくれるよう頼んだ。それはこの道の者であれば、男でも女でも見つけ次第、縛り上げてエルサレムに引いてくるためであった。」

今朝のこの御言葉は、パウロがイエス様と出会った場面です。パウロはこの経験を生涯、本当にとても大切に大切に握りしめました。実際、使徒行伝において、このサウロからパウロに変わった場面、イエス様と出会って人生が変えられた場面を、このパウロは使徒行伝の中において、今回の箇所を含めて3回も書いているんです。

その後、行く先々において、「なぜお前はこのイエス・キリストを信じたのか、なぜキリストを宣べ伝えているのか」と裁判の場面で問いただされた場面において、いつもパウロは、このイエス様との強烈な出会いの場面を証ししました。

もし皆さんが「なぜあなたはイエス様を信じているんですか」と問われた時、皆さんもイエス様と出会ったその証しをするんです。イエス様と出会う前、自分は本当にイエス様を傷つけ、迫害する者だった。けれども、イエス様と出会った。そしてイエス様と出会った次第はこれこれこうでした。この経験ゆえに私は変えられて、そしてキリストを伝える者になったのです。私たちも本当にこのパウロのように、イエス様と出会った場面を絶えず証しする者でありたいですね。

このパウロは、そのパウロと名乗る以前はサウロでした。パウロの名前の意味は「小さき者」。しかし、その前のサウロは「人から望まれる者」、あるいは「大いなる者」という意味だそうです。この9章においては、まだパウロはサウロでした。

サウロはこの主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、そして大祭司のところに行って、大祭司の許可を得るために行きました。どんな許可か。それはこの道の者、すなわちキリスト者であるとするならば、それは男でも女でも見つけ次第、縛り上げてエルサレムに引いてくる、その権限を得るためでした。男でも女でもです。子供でもだったでしょうね。

キリストを信じる者であるとするならば、この者を逮捕して縛り上げて、エルサレムに引っ張ってきて、牢屋にぶち込んで、あるいは死刑宣告が裁判で取り沙汰とされるならば、もう賛成票に投じる。それほどまでにキリストに対する迫害、この道の者に対する迫害する意欲に満ちておりました。なぜか。それは、それが正しいと信じて疑わなかったからです。

このサウロ、彼はパリサイ派の者でした。もうキリストに対して熱心に迫害するぐらい、もうユダヤ教に対して熱心な者でした。キリスト教が信仰の異端集団だと思い込んでいたんですね。それゆえに、このキリストを信じる者は異端だと。異端の者は死刑に値する。そういう義憤と言いますか、自分は正しいと信じて疑わない、それによる憤り、それに燃えて、このキリストにある者を牢屋にぶち込んでいきたい、そういう意図に燃えてはいたんですけども。

けれども彼は後に告白しております。キリスト者を牢屋にぶち込むたびに、男も女も子供も、その牢屋にぶち込んでいくたびに、彼は痛みを覚えていたんですね。あたかも棘のついた棒を蹴るような、そういう痛みを。このキリストを迫害する都度、迫害する都度、彼自身、痛みに思っていたんですね。

彼が異端だと聞かされて、そして迫害して牢屋にぶち込むたびに、あるいは死刑宣告をするたびに、その賛成票を投じるたびに痛みを覚えておりました。棘のついた棒を蹴る時、そう想像すると痛いですね。けれども、本当にそのような痛みをパウロはこの時覚えていたということを後に彼は証ししております。

なぜなら、キリスト者、異端だと思っていたキリスト者、それを引っ捕らえるたびに、そのキリスト者がとてもなんか凶悪な犯罪人の趣をしていないんです。とっても清らかな善良な趣をしているんです。

パウロはこの少し前、ステパノというキリスト者が議会で捉えられて、そして尋問されて、証しする場面に立ち会い、そして、その後、このステパノを石打ちの刑として、そしてこの石打ちの証人として、その石打ちをする人々の着物を預かる役目を負いました。このステパノの殉教の場面に立ち会ったんですね。

ステパノはこの信仰の異端の先鋒として、多くの人々を惑わしているということで、しかも神の御名を汚したという理由で、石打ちの刑に会うんですけども、この時、サウロはその場面に立ち会っておりました。

ステパノは石を投げつけられます。普通であるならば、その死刑宣告を受けて、もう人生最後です。異端として石打ちの刑に処せられて、石がこのステパノに当たっていくけれども、ステパノは全然、なんかもう罪深い死刑人の最後にのような成り立ちじゃなくて、とてもとても清らかな成り立ちでした。あたかも御使いのように顔が輝いておりました。

そして、その命を引き取る最後、叫ぶんですね。「主よ、どうかこの罪をこの人たちに負わせないでください」って、そう叫んで息を引き取るんですね。なんと石を投げている人を執り成しながら、神様に執り成しながら、御使いのような輝いた表情で息を引き取る。これ、一体どういうことだ。

異端の新興宗教集団、排除するべきなのに、けれども自分が捕らえた者は息を引き取った。それまでサウロは本当に葛藤を覚えておりました。彼は本当にガマリエルという偉い人の下で、このパリサイ派の教育を受けました。もう今で言うところの東大です。エリート中のエリート、これ以上のいい大学はないというほどのエリートとして、パウロは以前、サウロですね、サウロだった時はそういう道を歩んでおりました。

そして自分はもう律法においては、もう他の人々には引けを取らないほどの、もう自分はその道に通じた者であるという誇りを持っておりました。律法によっては欠点が一切ない者だと、自分も他人も自他共に認めておりました。

そんな彼自身、葛藤を覚えていたのは、それは彼は、良いことは何であり、悪いことは何であるか、それを知り尽くしておりながら、自分の中に罪が潜んでいるということ。自分は善をしたいのに、しかし、かえってしたくない悪を行っているという葛藤を彼はずっと覚えていたんですね。

律法を持っているにもかかわらず、また自分はそれのようなエリートであったという自負がある。自分だけでなく、他人も認めていたにもかかわらず、自分の中に罪があるというその葛藤を覚えておりました。

それなのに、このステパノという異端の新興宗教の者は、とてつもなく清らかな有り様で、自分が到達できなかった、あの聖なる領域に到達しているかのような、そういう有様。それを見て、彼は歯ぎしりしたんですね。自分が到達していないのに、なんでこの者はこんなに清らかな成り立ちなんだ。

ますますこれは危険な宗教だということで、この脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行って、この道の者であるならば、男でも女でも逮捕して、そしてエルサレムに牢屋に引きずって、死刑宣告を、ますますしなくてはならないという殺害の意に燃えたんです。

けれども、彼がキリスト者を引っ捕らえれば引っ捕らえるほど、棘のついた棒を蹴るような痛みを覚えていたんですね。そんな葛藤を覚えつつも、ダマスコの方に行きました。ダマスコのキリスト者たちを捉えるために行ったんですね。

けれども、3節と4節、皆さん一緒に宣言しましょう。

使徒9:3-4「ところが、道を進んでいってダマスコの近くまで来た時、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』という声を聞いた。」

これが彼の人生が変えられた経験でした。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きました。

ダマスコの近く、ダマスコのキリスト者たちを迫害するために、もうキリスト者を見つけたならば、すぐに引っ捕らえるためにダマスコの近くまで来た。その時、彼は天からのまばゆい光、それに照らされました。もう太陽よりもはるかに輝く光ですね。これ真昼です。昼、太陽の下にありました。けれども、その太陽よりももっと強い光、もう地に打ち倒れるぐらいに打ちのめされるぐらいに強い光です。

こんな光は悪魔サタンが放つはずがありません。神、光を創造された神以外の者が、こんな光を放つはずがありません。その光の中で声がするんです。「サウロ、サウロ」と2回名前を呼ばれました。名前を知っておりました。その光の主人はもう主である他にはありません。

その主が「なぜわたしを迫害するのか」と言うんです。彼としては熱心に神に仕えて、そしてその熱心さは正しいと自負しておりました。自分は正しいんだ、神に正しく仕えているのだと思い込んでおりましたが、しかしなんとこの光の主人が、「なぜわたしを迫害するのか」と、そういうふうに言うんですね。

じゃあ5節、みんなで一緒に宣言しましょう。

使徒9:5「彼が『主よ、あなたはどなたですか』というと、お答えがあった。『わたしはあなたが迫害しているイエスである。』」

サウロとしては、もう本当にわけがわからなかったんです。自分が神に正しく仕えていると思い込んで、そしてイエスを迫害しておりました。それで、その迫害するためにダマスコまで来たけれども、こんな強い光、もう神以外にはこんな光は放つことができない、そのような光。それに照らされて、打ちのめされて、しかも「なぜわたしを迫害するのか」と、この光の主人は言うんですね。

この光の主人はイエス様です。そのイエス様は、「なぜわたしの弟子たちを迫害するのか、なぜわたしを信じる者を迫害するのか」とは言わず、「なぜわたしを迫害するのか」と言いました。

皆さんがイエス様を信じている。そして皆さんがイエス様を信じているゆえに家族から、あるいは子供から迫害をされるとき、それはその家族は、子供は皆さんを迫害しているのではなくて、イエス様を迫害しているんです。イエス様の弟子を迫害することイコール、イエス様を迫害しているんです。イエス様はそのように宣言しました。

皆さんを迫害する人、皆さんがイエス様を信じているということゆえに、皆さんのことをよくなく言う人がいるかもしれません。それは皆さんを迫害しているんではなくて、イエス様を迫害しているんです。

サウロは言います。「主よ」、「主よ」と言います。先に言って、その次に「あなたはどなたですか」と言うんですね。もうサウロとしては、この光の主人は、自分が主と呼んでいる主以外にはありえないけれども、「あなたはどなたですか」と、もう主だと言っときながら、「あなたはどなたですか」と矛盾するかのようなことを叫ばずにはおれなかったんですね。

「わたしはイエス、あなたは迫害していたんですか。あなたに仕えていたつもりだったのに、じゃあ一体あなたは一体どなたなんですか」。そういうふうに言うと、お答えがありました。「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」

このサウロはイエスが異端の教祖人だと思っておりました。異端の教祖だと思っていました。ところが、この光の主人は、なんと「わたしはイエスである。あなたが迫害しているイエスである」とそういうふうに言いました。

さらにイエス様は言われます。「立ち上がって町に入りなさい。そうすればあなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

イエス様はこの時サウロに、「あなたがしなければならないことはこれこれだ」というふうに言わないで、「町に入りなさい。町に入れば、そうすれば、あとしなければならないことが告げられるはず」、ある人を通して、「あなたがしなければならないことが告げられるはずです」ということを、イエス様はここで、イエス様、直接あなたのしなければならないことを言うのではなく、人を通して、弟子を通して、「あなたのしなければならないことが告げられるはずですよ」というんですね。

皆さんも、イエス様と出会った経験があるかと思います。ある人はこのサウロのように、ある人、突然イエス様の声を聞いて。私は直接イエス様の声を聞いてということではありませんでした。御言葉を通してだったんですね。ある人は夢を通してかもしれません。私もイエス様に関わった夢を見たことはあります。

ある人は、まあ大勢のケース、イエス様と出会う場面において、まあ、イエス様から直接声を聞くのは、まあ少数かもしれませんけれども、多くのケースは人づてだったことでしょう。道で伝道しているキリスト者、伝道者を通して、ある人はトラクトを通して、ある人はこのキリスト教放送番組を通してかもしれません。人づてであることが、多くのケースですね。

このサウロも直接イエス様と出会ったことは出会いました。けれども、しなければならないことを伝えられたのは、人づてを通してでしたね。その後で会うアナニアという人、キリスト者を通してしなければならないことが告げられました。

宣教というものは人間に託されているんです。私たちに託されております。私たちのこの宣教の愚かさを通して、神様はこの福音が伝えられ、全世界に伝えられていることを定められたと書いてあります。

彼はそういうわけで立ち上がって、これからどうするべきか町に入って、そしてしなければならないことを告げられることを待つ身となります。

7節を見ますと、「同行していた人たちは、このサウロに同行していた人たちですね。同行していた人たちは、声は聞こえても誰も見えないので物も言えずに立っていた。サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。彼は3日の間、目も見えず、また飲み食いもしなかった。」

同行していた人々がおりました。その人々は、この声を聞いていたんですね。けれども、誰も見えない。このサウロは光、とてつもなく強い光に打ちのめされて、目が見えなくなりました。けれども、この同行していた人は目が見えました。光に打ちのめされることもありませんでした。

なぜでしょうか。サウロだけが打ちのめされ、強い光を見て、この声の内容をしっかりと聞き取って、打ちのめされました。「主よ、あなたはどなたですか」「わたしはあなたが迫害しているイエスだ」。それをはっきりと理解して打ちのめされました。けれども、この同行していた人々は、なんと声は聞こえても誰も見えない。

この声、確かフォーネというギリシャ語だったと思います。これは、あの声、音というふうに訳され、あるいはノイズというふうにも訳することができる、確かそういう単語だったと記憶しているんですけども。ですから、このイエス様の声は、ある人にとってはもう衝撃的に人生を塗り替えるほどのその声として聞くんですけど、しかし、ある人にとってはノイズとしか聞こえない。

ある人にとっては本当に賛美がノイズにしか聞こえないという人がおり、ある人にとっては、賛美がもう本当に心が震えて涙が流れるほどの、そういう声に聞こえる、音に聞こえる。本当に不思議です。

なんである人にとっては、このイエス様の声がノイズ類にしか聞こえない。ああ、つまらないな、早く終わらないかなって。ああ、このキリストの宣言。もうつまらないな、早く終わらないかなと言って、ペラペラペラペラって、もう宣言を、主の祈りも、「天にまします我らの父よ」みたいな。ある人にとってはこのノイズにしか聞こえないけれども、ある人にとってはもう本当に尊い尊い主の祈りを、ああ、「天にまします我らの父よ」、本当に感動を持って祈る。これ、感性でしょうね。

この同行していた人たちには声がノイズにしか聞こえませんでした。けれども、じゃあこの人はもう生涯救われない人なのかというと、そうとはわかりません。その後、もう本当に感性が開かれて、ああ、あの時パウロが出会ったあの人の声はこんなにあんな声だったんだっていうふうに変えられたかもしれないですね。それはわかりませんけれども、確定していること、それがあります。

それはね、その人にとって、この時は救われていなかったかもしれないけれども、そのうちに救われるかもしれない。だから皆さん、宣教すること、伝道すること、これ諦めてはならないんです。今はそういう状況であっても、後で感性を与えられて救われるかもしれない。

とにかく皆さん、わかるべきことは、この、ある類の人にとって、キリストの声はノイズにしか聞こえないこともある。間違えてもある人にとっては、もう本当に心を触れて人生変えられるほどの声になるかもしれません。そういうものなんですね。

サウロにとっては、本当にこの人生変えられるほどの衝撃を受けたキリストの声でした。イエス様は本当に私たちの人生を変えるお方です。今日のこの箇所において、本当にもう「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」というこの声は、サウロにとって人生が変わった、名前も変わった経験でした。

イエス様と出会った経験、これこそが皆さんの宝です。サウロは後にパウロと名乗り、自分は小さき者だ。なぜ、自分は神の教会を迫害したからだ。

第一コリント15:8-10で、パウロはそこにおいて、本当に最も大切なこととして、あなたに伝えた福音。それは、イエス・キリストがこの世に来られて、十字架にかかられて、全人類の罪を背負って死なれたこと、そして復活されたこと、そして大勢の人々に現れて、そして最後には月足らずで生まれたような、こんな私にも現れてくださった。「最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいました」と、第一コリント15章8節でパウロは告白しております。

「私は使徒の中で最も小さい者。パウロ、小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」

今日の使徒行伝の箇所においては、もう本当に迫害の意に燃えていた者でした。それが正しいと思っていたんです。この者を打ち叩き、この者を迫害すること、これが神の意に沿ったものだと迫害の意に燃えていたけれども、後になって本当にとてつもなくひどいことをした。自分は主を打ち叩いていた。自分はイエス様を打ち叩いていた、迫害していた。まことに自分は小さな者だ。使徒と呼ばれる価値のない者だ。

「ところが神の恵みによって私は今の私になりました」と告白しております。「そして私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私は他のすべての人たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」

神の恵み、一方的な恵みによって、こんな最も小さき私がキリストのために働く働き人になれた。これは神の恵みだって。

今、皆さんが神様のために働いている、皆さんは神様の恵みですね。皆さんの力ではなく、本当に皆さんがイエス様と出会ったのは神の恵みです。だから誇ることはできませんね。唯一誇るとしたら、キリストにあって神の者とされたこと、ただこれだけです。

パウロは本当にこの時、キリストにあって作り変えられました。そして、このキリストと出会った経験を後生大事に捉えられて、裁判の席に引きずり出された時も、この自分の無実を弁明するのではなく、キリストと出会ったことを証ししました。

それで、そういうわけで、以前の者から今の私に変えられて、だから今、私はキリストを伝えているのですと。もう王様と出会うたびに、また捉えられて、裁判の席に引きずり出されるたびに、彼はこれを告白しました。

皆さんも告白するんです。キリストと出会った経験、これこそが皆さんの宝です。

今日、皆さんにお伝えしたいこと、それは皆さんにとっての宝、それはキリストと出会ったことです。それを後生を大事に握りしめて、機会があるごとに証ししましょう。私がキリストにあって変えられた次第はこれこれですと。キリストはこういうお方です。

皆さんもキリストの証し人として用いられていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。

【結論】

イエス・キリストと出会った経験こそが、私たちの最大の宝である。パウロは最大のキリスト教迫害者から、最も偉大な伝道者へと変えられた。それは彼自身の力ではなく、神の一方的な恵みによるものであった。私たちも、イエス様と出会った経験を後生大事に握りしめ、機会があるごとに証しする者となろう。キリストの証し人として用いられていくことが、神の恵みによって救われた者の歩みである。宣教や伝道を諦めず、今は理解できない人々も後に感性が開かれて救われることを信じて、キリストを伝え続けていこう。

 

縛りを解き放ち、恵み深みへ漕ぎ出そう!(ルカ5:4-6) 水曜夜礼拝

Youtube動画

【概要】

神様の恵みは限りない海のようであり、私たちは恐れず深みへと漕ぎ出していくべきです。主の御言葉に従い、自分のコントロールを手放して神様の導きに身を任せる時、そこには豊かな恵みと祝福が待っています。

【聖書箇所】

ルカ5:4-6

【励ましの言葉】

  • 主が招かれる先は、危険が渦巻いているところではなく、恵みが渦巻いているところです

  • 一歩一歩進むたびに、そこには恵みの備えがあり、恵みの体験があり、喜びがあります

  • ある程度まで進むと、あとは楽に主の恵みの流れのままに乗っていくことができるようになります

【勧めの言葉】

  • 友綱を解いて、固定概念や社会的な常識から解放され、沖へ漕ぎ出しましょう

  • お言葉通りに従うこと、これが沖へ出る信仰です

  • 信仰によって深みに漕ぎ出していき、途中で手放さないことが大切です

【***詳細***】

今晩恵みをいただく御言葉は、ルカによる福音書の五章四節から六節です。みんなで一緒に宣言しましょう。

「話が終わると、シモンに『深みに漕ぎ出して、網を下ろして、魚を取りなさい』と言われた。するとシモンが答えて言った。『先生、私たちは夜通し働きましたが、何一つ取れませんでした。でも、お言葉通り、網を下ろしてみましょう。』そして、その通りにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。」(ルカ5:4-6)

愛するイエス様。あなたは今日も今も生きて働かれ、私たちにお言葉をくださり、そして沖に出て網を降ろしなさいと語られることを覚えます。主よ、私たちにとっての沖とはどこでしょうか。私たちは何をすべきでしょうか。どこに網を降ろすべきでしょうか。

今日、この讃美歌408番「父なる神の恵みは」を朝礼拝で賛美し、昼礼拝で賛美し、そして賛美しているうちに、どんどんどんどん嬉しくなってきました。そうだ、神様の恵みは深い深い、広い広い、もう限りがない恵みは、神様の恵みは海のようだと。皆さんの神様は、そのような広く高く深い恵みを用意しておられる神様です。

この讃美歌408番の一番はこうです。「父なる神の恵みは限りなき海ぞ。友綱を解きて沖へ漕ぎ入れてみようや。」

この神様の恵みは深い、もう先が見えない、底もわからないような海です。そして人はそれが理解できない、わからないですね。そして人は自分の何かコントロールできる、そういう場所にとどまりたがるものです。また足が地についた地面に立って、そして何か物事をやりくりしたいところが、普通の人かもしれません。

けれども神様は、この友綱を解きて沖へ出でてみようやというふうに言うんですね。岸を離れる、そして沖へ入れてみなさい。確かに海というところ、これは怖いところに見えるかもしれません。けれども、神様の恵みの海は、もう限りなき恵みがたくさんあるんですね。そしてその恵みは世の人は見ることができません。そして自分のコントロールではない、その恵みの流れに背を任せて進むということに恐怖を感じるかもしれません。けれども、主が招いておられること、それはあなたは深みに漕ぎ出していきなさいということ、これを言われます。

ペテロは、この自分の漁業で昨晩、もう一晩中働いてきました。もう自分は漁師歴何年、ペテロはプロですから、もう何年もあったでしょう。そんなそのプロ集団が、何人がかりで、この網を一晩中しても取れなかったということを言ったんですけれども、しかし、でもイエス様、あなたのお言葉通りにいたしましょう、お言葉通りにしたかったんですね。

イエス様のお言葉が、たとえどんなに自分の理解を超えていようとも、お言葉通りに従うこと、これがとても大切です。このお言葉通りに従うこと、これが沖へ出る信仰です。このイエス様のお言葉が沖へ出なさいならば、お言葉通りに実行すること。これがイエス様の恵みを体験する、その恵みの広さ、高さ、深さなど、それを体験できるそのコツなんですね。

サビの部分は、「沖へ出でよ、岸を離れ。主の恵みのただ中へ、いざ漕ぎ入れよう。」もう自分でコントロールできるところを、また足が地につくところを、そこを離れて、そして主の恵みの真っ只中、沖の方には主の恵みが渦巻いている。そちらの方に信仰によって、漕いで漕いで進んでいきなさいということを、このサビの部分で繰り返しているんですね。

この漕ぐということ、これ、私たちの側の責任です。友綱を解くということ、これ、私たちの責任です。今まで縛られていた固定概念や、また社会的な常識、そしてこうすれば成功する、こうすれば失敗するといった、そうした諸々、これを友綱を解いて、その縄目を縛られている縄目を解いて、沖へ漕ぎ出してみようよ。それが今日の賛美であり、今日の御言葉です。

二番のところでは、「世の人は岸に立ちて沖をば見るのみ、主の恵みの深さなどあえて知らんとせず」。世の人は安全で無難なところにとどまるものです。世の中の人は、キリスト教、なんとなく知ってるよね。神様が何か恵みがあるらしいね。あそこには何かすごいのがあるかもしれないね、キリスト教では。でも私はこの沖には出ないよ。この安全なところにとどまり続けたいよ。そういう人々、そういう人々はただ岸に立ちて、その遠くを見ているだけなんですね。遠くの方に恵みの潮が渦巻いている。でも自分は参加しない。後で思うんです。ああ、参加しておけばよかったなと。

本当に主が、何々しなさいと言われた時、あそこに行きなさい、これこれに加入しなさいと言われた時、そこに行って、あるいは加入して、その主の導きの通りにして、そして時間が経った後で、その結果はわかるんです。主が真実だった、主が本当だった、本当に自分がそこに参加していればよかったっていう側に立つか、それともああ、あの時、信仰を奮い立たせて、深みに漕ぎ出して、網を下ろしてよかったという側に立つか。これは皆さんが行動するかどうかにかかっているんです。

主は、恵みの潮が渦巻く沖へと招いておられます。そこは未知の世界かもしれません。けれども、主が招かれるのでしたら、その未知の世界に飛び込んでいくべきです。主が行きなさいと言われる先は、そこはもうまだわからない、よくわからない未知の危険が渦巻いているところだと人は思いがちかもしれないんですけど、しかし、主が言われるのであるならば、そこは危険が渦巻いているところではないんです。恵みが渦巻いているところなんです。ですから、主が言われている通り、恵みの深みへと漕ぎ出していくべきです。

まず、この私たちの信仰のスタンス、これは一歩踏み出すということ、友綱を解いて、自分の縛りを解いて、そして主の言われる方向へ一歩踏み出すこと。これがこの信仰の歩みです。

本当に今年に入ってから、私たち、今まで歩んだことのない道を進んでいきます。本当にこれから子どもたちがどんどんと、このティアに集ってくるということ。まだ私たちは目に見えていないかもしれません。けれども、準備していくうちに、一歩一歩、オールを漕いで、友綱を解いて、そして本当に今までの未知の領域へと入っていくたびに、そこはことごとく恵みが渦巻いているところだということが分かります。

ケアの物件、阿部先生が祈って与えられて、本当に奇跡的な形で与えられましたね。そこが与えられてからというもの、本当にそこを整える毎日、その日々が本当に恵みの毎日でした。自分ではやったこともない、その内装工事だとか、その諸々の作業、その一つ一つのうちに、主が今日はこれだよね。明日のことは私たちはわからないけれども、今日これをやったら、また明日するべきことが見えて、またそれをするための知恵も与えられ、またそのスキルも与えられ、また本当にその道は安全でした。

危ない、なんか素人が工事するって危ないって思えるかもしれません。確かに危ないと見れるようなことはあったかもしれませんけども、でも、ことごとく安全でした。ですから、オールを深みへと漕いでいくたび、漕いでいくたび、そこには恵みの備えがあり、また恵みの体験があり、喜びがあり、本当に毎日、もう喜び楽しみの連続でしたね。そして今、準備を進めている今も、もうその準備に行く都度喜びに溢れております。その行く道はまだ私たちにはわからないかもしれない。未知の歩みかもしれないけれども、その一つ一つの行く先々に主の備えが必ずあります。

三番のところでは、「あるものはわずか漕ぎて、遠く乗り出さず、返る波に飲まれたり、船もろともに」。これは、わずかしか漕がない。信仰で始まったけれども、いざ漕ぎ始めると、だんだんその未知の領域、怖くなっていって、信仰で漕ぐことをやめて、そして中途半端な、遠くでもなく、近くでもない中途半端で不安定なところにとどまってしまって、で、そこで取り残されてしまうということがあるんですね。

信仰で始まった歩み、それを最後まで続けないところで、荒野というところでとどまっていて、そして信仰をそれ以上奮い立たせない、怖くなってエジプトに帰ろうと言い出した彼ら、もう波に飲まれて、荒野という波に飲まれてしまいましたね。信仰によって深みに漕ぎ出していかない、そういう不安定なところにおいては、本当にむしろ危険なんです。

ヤコブ一章において、疑う人は、疑う人は風に吹かれて揺れ動く海の波のようです。もう疑いこそが海の波になるんです。返す波、疑いという海の波に飲まれて、もう船もろとも、もう海に投げ出されてしまうということになっては皆さんなりません。ひとたび、主が乗っておられる船に乗ったんでしたら、もうせっかくですから、オールを漕いで、主が言われる通りに、もうその沖を目指して、主がここが恵みだ、ここに網を下ろしなさい、ここでいっぱい魚が取れるよ、ここでいっぱい命が取れるよ、そういうところに至るまで、ずっと漕ぎ出して行くべきなんです。

だから私たちは初めからこの主の御言葉に委ね尽くして進んでいくべきなんです。

四番が、この総まとめで重要なところです。「乗り出せ沖をさして、恵みの潮の背に流されて、すべてを主に任すまでは」。この賛美の最後で、主の恵みの潮、これ潮流です。潮は潮流、潮の流れと書きます。この主の潮の流れを背中に受けて、すべてを主に任してというところに至るまで、この乗り出すべきだっていうことが書いてあります。

もう主が、乗り出せと言われるポイントまで進めば、今度はオールを漕がなくても、あとはその波が、潮流が来て、皆さんの背中を押し流していて、そしてあとはその潮流に任せて進んでいくべきなんです。潮流を、一度サーフィンのように乗っかったら、もうあとは自分のコントロールでオールを漕ぐのではなく、ただ主のその波、主の潮流にただ背中を預けて、そして主がここに行かせたいというポイントまで、あとは乗っかっていくんです。楽なんですね。

ですから、ある程度まで進むと、あとは楽に主の恵みの流れのままに乗っていくことができるようになっていくんです。波に乗る。これは自分のコントロールはもう完全に手放して、全面的に神様のイエス様のコントロールにお任せして、そして神様の導きに乗っかっていく。これは信仰がない人にとっては恐ろしく感じるものかもしれません。けれども、主のコントロールと皆さんのコントロールどっちが正確で強いかというと、もうはるかに主の方に任すことが本当に私たちにとって幸いであり、また正確なんです。

今日の結論ですけども、本当にこの、まずは友綱を解いて、今までの固定概念、縛られている考え、これを解いて、そして恵みの沖に、まず、皆さん自身の手でオールを漕いで、主が行きなさいと言われ、導かれる行くべきところ、そこを目指して進んでいくべきなんです。主がこのビジネスをしなさいと言うんでしたら、そのビジネスをして、そして本当にこの最後まで、たとえ途中で何か怖くなっても手放すべきではないんです。もし途中で手放してしまうのであるならば、返す波に飲まれたりということになってしまいがちです。

だから私たちは、最後まで主がこの道を示されたのであるならば、それをしっかりと手放さないで、主の恵みの潮が来る、そのポイントに至るまで、ずっとそこを目指して漕ぎ続けていくことするならば、あとは主が背中を押して流れに身を任せて、そして本当に多くの命を獲得できるポイント、そこへと導いてくださるんです。

私たちは恵みの潮に乗っかっていることを感謝いたします。主よ、途中で投げ出すということがありませんように。ただ、あなたの御旨に従い、あなたの御心に沿ったところ、そのポイントへと、私たち自身の手で、オールで漕いで漕いで、そしていよいよあなたのその恵みの潮が背に流されるままで、主よ、そこに至るまで、しっかりと信仰を活用して、そこへと至ることができますように、どうか助け導いてください。主よ、今年、また多くの命を、主よ大量で大量で取らせてくださいますように獲得させてください。

そして本当にあなたに向かって、ペテロとヨハネたちが本当にあなたにすべてを投げ出してついていったごとく、私たちも人間を取る漁師として、また導き進ませてください。今、ティアにおける活動をしております。主よ本当にその一つ一つの活動において、あなたがこれが道だ、これに歩めと、今、一歩一歩進ませておられることを感謝いたします。

どうか私たち自身が本当に途中で立ち止まることなく、恐れて退くものではなく、また中途半端なところでとどまるでもなく、本当にあなたの恵みの潮が渦巻いてる、その恵みの深みへと漕ぎ出していくものでありますように導いてください。

【結論】

まず友綱を解いて、今までの固定概念や縛られている考えを解放し、恵みの沖へと自分自身の手でオールを漕いで進んでいきましょう。主が示された道を、たとえ途中で恐れが来ても手放さず、主の恵みの潮が来るそのポイントに至るまで漕ぎ続けるならば、あとは主が背中を押して流れに身を任せ、多くの命を獲得できるポイントへと導いてくださいます。お言葉通りに従うこと、これが沖へ出る信仰であり、イエス様の恵みの広さ、高さ、深さを体験できる鍵です。

 

終末の時代を備えるにあたっての、良い例と悪い例(マタイ25:1-13) 2026/02/04水曜昼礼拝

Youtube動画

【概要】

イエス様は十人の娘のたとえを通して、花婿である主を迎える準備について語られました。賢い五人は油を用意していましたが、愚かな五人は用意していませんでした。主との日々の交わりこそが、主を迎える真の準備です。

【聖書箇所】

マタイ25:1-13

【励ましの言葉】

私たちは今、花婿なるイエス様を迎える花嫁のような立場にあります。イエス様はやがて、稲妻が東から西にひらめくように、誰の目にも明らかな形で来られます。

【勧めの言葉】

日ごとの主との交わりを大切にし、時間やエネルギーを主のために用いることが必要です。一夜漬けの信仰ではなく、日々の積み重ねが大切です。

【戒めの言葉】

その場しのぎの信仰、一夜漬けの信仰では、主を迎える準備は整いません。主との人格的な交わりを持たなければ、主から「知らない」と言われてしまいます。

【***AIによる文字起こし***】

今日、恵みをいただく御言葉は、マタイによる福音書25章1節から13節です。まず1節から4節を一緒に読みましょう。

「ここで天の御国は、たとえて言えば、それぞれが灯火を持って花婿を出迎える10人の娘のようです。そのうち5人は愚かで、5人は賢かった。愚かな娘たちは、灯火は持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分の灯火と一緒に、入れ物に油を入れて持っていた」(マタイ25:1-4)

今、私たちは、例えて言えば花嫁のようなものです。結婚を控えた花嫁で、もうあとすぐで花婿が迎えに来るという、そういう状況です。まことの花婿はどなたでしょうか。イエス様です。

今、イエス様は見える形では来ていないのですけど、やがて、もう誰の目にも明らかに、稲妻が東から西にひらめくように、そのようにして来るとイエス様はおっしゃいました。ですから今、私たちは、そのお迎えをする準備をする段階なんです。

今この準備をする段階をどのようにして過ごすべきであるのか、またどのように過ごしてはならないのか、それが今日のイエス様の例え話の中にあります。

イエス様がおっしゃったのは、天の御国は、例えて言えば、それぞれが花嫁たちが灯火を持って花婿を出迎えるような、その十人の娘のようです。そのうちの5人は賢く、5人は愚かだったんですね。そして、彼女たちはもうすぐ来るということで、灯火を持って待っていました。

けれども、思った以上に、花婿が来るのは遅くなります。まだまだ来ない、来ない。もう最初は立って待っていた彼女たちですけども、だんだんくたびれて、足がしびれて、夜、もう髪の毛も夜露に濡れてきます。そして、ランプの火が小さく揺れるのを、ぼんやり眺めながら、私の主人花婿はまだかな、まだかなって眺めるようになって。そして、だんだんだんだん、まぶたがとろんと重くなって、そして、誰からともなく一人座り込み、また一人座り込みで、そしてみんなが頭をなだれて、とうとう眠りに落ちていきました。

夜も半ばが過ぎた頃でしょうか。その時、真夜中の静けさをつんざく声が向こうから聞こえてくるんです。「そら、花婿だ。迎えに出よ」。みんなが一気に目が覚めるんですね。それでもう振動が高くなります。いよいよこの時が来たか。それで、その10人の娘たちは一斉に目が開いて立ち上がって、そして花婿を迎えるために必要な灯を整えるんですけども、そのうちの賢い5人は、その灯の他に油を用意していました。愚かの5人の方は油を用意しておりませんでした。

いざ花婿が来たということで、火を、ランプを整えるんですけども、しかし、その愚かな方の娘にはですね、その灯火がもうボンボンジュっていって消えてしまったんですね。あ、これは大変。せっかく花婿をお迎えするという、こんな大事な時に、灯火の火が消えてしまった。油がもう残っていない。

それで、その5人の娘たちは、油の用意をしていた5人に頼み込むんですね。「お願いです。油を少し分けてください」。もう私たちの灯火、こんな消えそうな暗闇の中で、必死に差し出されるランプで。

しかし、賢い乙女たちは、断らざるを得ないんですね。「いいえ、ダメです。分けてしまったら、もう私の分まで足りなくなってしまいます。それよりもお店に行って、自分の分を買ってきなさい」というふうに言うんですね。

彼女たちはもう迷いながら、もう確かにもう油がないからどうしようもない。どうも分けてくれそうもない。だからそこで彼女たちは、夜、お店、空いてるお店に行って、そして走っていくんですね。花婿がもうすぐ来るというその場を、彼女たちは離れざるを得ませんでした。

そして、その彼女たちが買いに行っている間、扉が開いて花婿が入ってきます。そして、そこにいた5人の花嫁たち、油をしっかりと用意していた彼女たちの灯火は、煌々と光が灯っていて、その花婿を迎えて、そして花婿はそんな乙女たちの本当に灯火が、こんな夜の半ばでもはっきりと灯して光を放っている彼女たちに満足して、そして彼女たちを迎えて、そしてこの花婿の家へと歩いて行き、そしてその婚礼の扉が閉められて、そしていよいよ宴が始まりました。この5人の乙女たちは、「ああ、いよいよ待ちに待った私の花婿と結婚するんだ」と喜び勇んだことでしょう。

さて、その残りの5人はどうしていたか。ようやく油を手に入れたようです。そして、元のところに走っていくと、もう誰もいなくなっていた。「あ、じゃあもう花婿が来て、そして婚礼の席に行ったんだ」ということで、彼女たちはその花婿の家の方に、走っていくんです。そして、灯火に火を灯して、煌々と光を灯して、そして行ってみると、なんと婚礼の扉が閉まっているんですね。

彼女たちは、息を切らしてね、「ご主人様、ご主人様、開けてください」って言うんですけども、しかし、扉の向こうから声がするんですね。「確かなところ、私はあなた方を知りません」。

彼女たちのことを、この花婿は「確かなところ、あなた方を知りません」と言うんですね。とてもなんか恐ろしい感じがしますね。

この話、イエス様は言われます。はっきりとイエス様はこの話について、たとえ話について結ばれる言葉は「だから目を覚ましていなさい。あなた方はその日その時を知らないのです」。イエス様は「だからしっかりと目を覚ましていなさい」というふうに言われました。

この、目を覚ましているということ。彼女たち、最初眠りましたね。夜遅い。それで花婿が来るのがいつなんかわからないということで。確かに彼女たちは眠ったんですけども。これですね、イエス様が最後に語られ、「だから目を覚ましていなさい」。これどういうことか。きっとですね、これ24時間目を覚まし続けていなさいということではないんですね。眠るなということではありません。

十乙女5人5人、10人合計全員が、あの花婿が来るのが遅くなって眠ってしまったんです。体力は持ちません。人は眠らなければ体力が持たないんですね。ただですね、大事なことは、いざ目が覚めた時に準備が整えられて、いつでも迎えられる側の5人と、目が覚めた時に迎えられない側の5人に分かれました。準備があったか準備がなかったか。

ですから、いざ花婿が来た時、本当にもう夜半の頃、人々が眠り出すような、そういう時間になるかもしれない。いや、むしろそういう時間になるのだから。だからしっかりと整えていなさい。しっかりとこの灯火を消すというようなことがないように、整えているべきなんですね。

じゃあ、どのように整えていくべきか。ここの9節のところで、賢い娘たちは、「あなた方に分けてあげるには、この愚かな5人に私の油を分けてあげるには到底足りません。それよりも店に行って自分のをお買いなさい」というふうに言うんですね。

夜中の、もう人々が眠るような頃にお店がやってるのか。そういうところあるんです。まあ、カンボジアに行った時ですね、夜中道路を走っていて、何か果物欲しいねって言って、え、こんな真夜中に果物売ってるところあるのかなって思ったんですけど、なんと道端に、もう結構あるんですね。あの、果物売っていて、そしてハンモックで寝ていて、いつお客さんが来てもいいように、露店でそういうお店がありました。

まあ、とにかくこの夜、油を買いに行くという行為、これ明確に、商取引の行為を前提としております。要するに、何かのお金だとか、あるいは物々交換だとか、対価を支払って、そして油を買ってきなさいっていうことを彼女たちは言ってるんですね。つまり彼女たち、この愚かな娘には、その油は持っていなくても、その油と物々交換できるような、あるいはお金は彼女持っていたんですね。

花嫁、もうお金とかその物々交換するためのものなんて持たなくてもいい。こんなネックレスとか、そうしたこれと物々交換してくださいとか、そういったことよりも、賢い乙女は最もこの婚礼において備えるべき重要な油をあらかじめ交換していたんです。けれども、この愚かな5人の方は、もういつでもこの花婿が迎える、たとえ遅くなっても大丈夫なようにという、その備えの油を物々交換していないで、お金は持っている花嫁、けれども油は持っていない花嫁だったんです。

皆さん、今この時、この時代、皆さんは交換するべき、主がいつ来ても大丈夫なように、皆さんの時間、また皆さん自身のそのエネルギー、それを物々交換して、主がいつでも来られてもいいように備えをしていくということ、これ、日ごとのこの生活が大事なんですね。

彼女たちは、いつか必要になるねということはわかっておりました。夜、夜半過ぎ頃、油がつきるかもしれないね。それ、いつ用意してもいいということは分かっておりましたけども、しかし、今ということをしなかったですね。それをその場しのぎ、その場しのぎ信仰と言います。まあ、今こうして灯火が燃えてるからいいや、今このようにしていられるから、なんか、もう花嫁然としているでしょうねっていう感じで、え、なんか自分で自撮りしたりとか、灯火を持った花嫁姿みたいな。そんなことにうつつを抜かして、準備をしていないとするならば、その場しのぎ信仰、一夜漬け信仰になってしまうんですね。

皆さん、信仰と受験は一夜漬けではできないものです。日ごとの積み上げ、日ごとの準備、これをし続けていく信仰こそが大事なんですね。

この油、聖霊の油というふうに、まあよく言われるんですけども、けれども、聖霊の油は、聖霊は物々交換で売買ができません。あのシモンという異端の人が、このペテロから、この聖霊の賜物をお金で買おう、買おうとして、「どうかその賜物を私にください」って、お金を差し出しましたけども、そんなことが退けられましたね。聖霊は物々交換できない。

じゃあ、彼女たちが今ここで、市場に行って物々交換しに行ったのは一体何だったのか。それ、まさに皆さんの時間であったり、今この時を主に対して、この時間を神様の国と物々交換するか、皆さんの持ち物を神様の国と物々交換するか。それをしっかりと皆さんは日ごと積み上げていくべきなんです。それは、いざあ、もう主が間近に来られるということですね。それ、いざという時にさっと物々交換はできないものなんです。

ある生徒さんがこういう質問をしました。「私、確かにイエス様の教えは、いいんだけれども、でもちょっとまだね、やりたいことをたくさんやりたい。だから主が来られるという、いざという時に、あ、イエス様、ごめんなさい、イエス様、あなたを信じますって言ったら、天国に行きますよね」。けれども、ここを見るとどうも、そんなにうまくはいきそうにないですね。

普段からの物々交換、普段からの主に、いかに皆さんがイエス様と時間を共にし、いかに皆さんが日々イエス様に向かって祈り、また御言葉を蓄え、また本当に主のために労し、また主のゆえに忍耐し、主のゆえに本当に心を注いでいるか。本当に主とのその日々の交わり、これは、まさに日々の物々交換です。

それだけはそればかりは、このいかに、愚かな乙女が、もう灯火が消えそうです。「あなたの油を分けてください」って言っても分けられないですね。これは本当に本人自身がいかに日々主の御前に積み立ててきたか、これによりけりなんです。

この愚かな方の花嫁、「ご主人様、ご主人様、開けてください」と、扉を叩きましたけども、けども、このご主人様は、「確かなところ、私はあなたを知りません」と言っております。この花婿、本当は知ってるはずですね。けれども知らないという。本当に主との交わりを日々していないとするならば、であるならば、この、いざ、主人の方からは知らない宣告をされてしまうんですね。

ここの知らないということ。オイダーというギリシャ語ですね。ギリシャ語で知るということにおいては2種類あります。オイダーとギノスコー。このギノスコーというのは、もう関係の中で本当に相手のことを経験的に知るということ。そして、この場面で使われたオイダーの方は、あなたのことをもう知覚的には知ってるというだけのもの。

この花嫁に対して主は、あなたこと、あなたのことを経験的も知覚的にも知らないし、また本当にあなたのことを知らないよ。これすなわち、あなたは、あなたは確かに灯火は整えていたかもしれない。けれども、あなたはその待っている間、何をしていたのか、私との交わりをしていなかったじゃないか。神の民として、その主との本来の本質的な交わり、祈り、賛美、そして本当に主との人格的な交わりをしていなかった。だから、あなたのことをそういった面において、あなたは知らない。あなたは神の国の民としてカウントされていないものだ。そういうことになってしまうんです。

皆さん、神様との関係は関係です。コミュニケーションしたり、共に喜んだり、共に悲しんだり、共に嬉しがったり、そうした関係、この積み重ね、それこそかけがえのないものであり、私たちが今この地上で生きてる間に物々交換をしていくべきものです。支払って、イエス様のために時間を支払い、イエス様のために力を支払い、イエス様のために本当に思い、心、感情を注ぎ、主に支払い、その積み立てがこの油なんですね。これは物々交換できるものではありません。

どうか皆さん、今、本当に主がいつ来られようとしているかわかりません。あなたは毎日イエスのそばを歩んでいるか、花婿なるキリストを迎えに出られるか。皆さんはしっかりと今、もう一夜漬け信仰はダメです。しっかりと日々イエス様と交わりましょう。イエス様との関係を築き、そしていざ主が来られたぞという時にすっくりと目覚めて起き上がって、灯火に火をつけて、煌々と照らして、主をお迎えする、その準備がいつでも整っている皆さんでありますように。

【結論】

主を迎える準備は、一夜漬けではできません。日々の主との交わり、祈り、御言葉、主のために労すること、忍耐すること、そうした積み重ねこそが油です。この油は誰かから分けてもらうことはできず、私たち一人一人が日々主との関係の中で積み立てていくものです。いつ主が来られても、煌々と灯火を灯して主をお迎えできるよう、今日から主との親密な交わりを大切にしていきましょう。

心配するのはあなたの仕事ではない、主の仕事だ(詩篇55:22) 早天祈祷会 2026年2月4日(Wed)

Youtube動画

【概要】

ダビデが親しい友に裏切られた痛みの中で学んだ、すべての重荷を主に委ねることの大切さについてのメッセージ。心配することは私たちの仕事ではなく、主の仕事である。主に委ねるとき、主が私たちを支え、心配してくださる。

【聖書箇所】

  • 詩篇55:22

  • 詩篇55:16-17, 20-21

  • 第一ペトロ5:7

【慰めの言葉】

  • 主は私たちのことを、私たち自身が心配する以前から心配してくださっている

  • 主は天から降りてこられて、私たちの友となり、身代わりとなって十字架にかかってくださった

  • 主は白髪頭になっても私たちを背負ってくださる

【励ましの言葉】

  • すべて疲れた人、重荷を負っている人はイエス様のところに行けば休ませてもらえる

  • 主に委ねるとき、主が私たちをサポートし、支えてくださる

  • 主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない

【勧めの言葉】

  • あなたの重荷を主に委ねなさい

  • 思い煩いを自分の中でぐるぐる思い巡らすのではなく、主に向かって祈りとして捧げなさい

  • 心配は私たちの仕事ではなく、主の仕事である。私たちの仕事は主に委ねること

AIによる文字起こし

詩篇55編の22節を皆さんと共に宣言しました。「あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたのことを心配してくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」

主イエス様は、私たちのことをじっと見ておられ、私たちが思い煩う以前から、もうすでにすべてを御存じです。すでに主が先んじて進んでくださり、私たちのことを私たち自身よりも心配し、すべての準備を整えて、今待っておられることを感謝します。

今年に入ってから、毎朝ここに立つようになって、日々の働きもしています。かなり時間がなかったり、体調がきつかったりしても、それでも守られて、とても充実した日々を送っております。ここに立つたびに、16年目になりますが、毎回本当に御言葉を取り次ぐことに、果たしてこんな者が立っていいんだろうかという恐れがあります。これは何年経っても消えません。ある種の重荷があります。

主の働きをするには、ある種の重荷があるということは確かなところです。けれども、このすべての重荷を主にお委ねする時、本当に軽やかな思いで、御前において奉仕をすることができるようになります。

先ほど賛美した202番は、「罪、重荷を除くは血の力」で始まります。罪の重荷があり、また聖なる重荷もあります。すべてを主にお任せするならば、本当に重荷だなと思っていたものから身が軽くなるんです。

今日の箇所において、詩篇55篇はダビデが書いた詩篇ですが、彼も本当に人生の中で多くの悩みを経験しました。先週はサムエル記からダビデの話を見てきましたが、本当にダビデは信仰の勇士で、ゴリアテに立ち向かう様は勇ましかったです。彼の心の中に一切の不安はありませんでした。むしろ不安、心配しているのは王様であったり、大人たちでしたが、少年の心には一切それがありませんでした。

なぜ彼は聖なる憤りに満たされていたからです。彼の陣営が嘲られているのに、自分より長く生きてきた大人たちが何も対処していない。主がいるのに、なんで主が目の前におられるのに、主が陣営の中に歩まれるのに、なんで彼らはあたかも主を度外視しているかのようにしているんだという、聖なる憤りに満たされて、もう不安とか恐れは一切吹っ飛んでいたんでしょう。

主に満たされる時、主の血潮に満たされる時、すべての罪、重荷は、またあらゆる煩いは全くかき消されて、ただ主の平安、あるいは憤るべき時には主の憤りに満たされて、そして大胆に進みゆき、勝利を勝ち取っていくものになるんです。

今日の箇所においてもダビデが記したんですが、ダビデはなぜこんなにも恐れ、不安になっているか、なぜ心痛んでいるか。それは敵がダビデを憎んでいるからではありません。むしろ本当にダビデと共に歩んだ信仰の同志である者が、こんなあくどいことを、共に主に捧げものを捧げに行った仲間が、そんなあくどいことを自分に企んで、貶めようとしている。それでとても心が突き刺されるんです。

憎たらしい相手が皆さんのことを貶めても、あまり傷つかないかもしれません。しかし、むしろ皆さんの身内の方、親しい友達と思っている人が皆さんを突き刺す時はとてもとても痛みます。ダビデは本当にそのことを嘆いてこの詩篇55篇を記したんですが、その都度ダビデは何をしたか。

詩篇55篇16節では、「私が神に呼ばわると、主は私を救ってくださる」と言っています。いつも彼は神に呼ばわりました。その都度、敵が憎たらしいことをした。それに対してダビデが神様抜きで仕返ししようとすることは、あまりありませんでした。

唯一、聖書に記されているのは、ナバルがダビデに愚かなことをして怒らせた時です。もう怒りに駆られて、武器を取れ、彼らを討ち滅ぼしてやろう、一族郎党と、もう憎しみに駆られてそういうこともありました。けれども、アビガイルという賢い女性がダビデに思い起こさせてくれました。「本当にあなたは王様になる器だから、そんなつまらないことで怒って、手を血に染めて罪を、後々そういう汚点を残すようなことはしないでください」と頼みました。本当に賢い女性です。

ダビデは本当にこのアビガイルと、ほんのわずかなその会合で、もうこのアビガイルを妻にしたら、どれほど自分は助かるだろうと思ったんでしょう。ナバルが死んだ後、早速アビガイルを妻として迎えました。

本当にこのように人が罪に陥ろうとする時、もう怒りに身を任せて一族郎党討ち滅ぼせという人を止めて、それをなだめて慰める人。これは本当に皆さんにとってかけがえのない人となり、また皆さんがそういう働きをする時、その相手にとって皆さんがかけがえのない人になるんです。

ダビデはこの時、そんな親しい仲間から、一緒に礼拝に捧げた仲間がそういうことをして、むしろ本当にダビデが一番助けを必要としている時に、敵側の勢力になって、自分を嘲り、自分を刺し貫く。そういうことをしたから、ダビデは本当にもう剣で心をえぐられるかのような痛みを覚えて、そして主に呼ばわったんです。

詩篇55篇17節は、「夕、朝、真昼、私は嘆きうめく」と言っております。痛んだんです。彼は1日に3回祈ったということよりも、1日中祈らずにはおれなかったんです。夕方、朝、真昼、夕方から始まり、朝も真昼もずっとずっと主に向かって嘆きうめいているんです。夕暮れの疲れの中で、また夜、朝、昼、そうした現実の重さの中で、彼はそのたびに主に向かって嘆いたんです。すると主は私の声を聞いてくださると続きます。

これは何度でも何度でも主に向かってうめきを、心の思いの丈を主に向かって流し出す、流し出す。思いの丈を自分の中でぐるぐる思い巡らす。これはどんどん病んでいってしまう人の特徴です。その思い煩いをずっと頭の中でぐるぐる思い巡らしていくとどうなるか。悪霊がそれをとても好み好むんです。

本当に焼肉を焼いていると芳しい香りで、美味しそうだなって、寄っていきたい思いに駆られます。皆さんが本当にこの憎しみとか恨みだとか、悲しみをぐるぐる思い巡らしていると、「ああ、これがいい匂いだな」って言って寄ってくるんです。

サウルがまさにそうでした。このダビデに対する妬み、また憎しみ、そして本当に自分が受け入れられたいという、そういう思い。それをぐるぐる神様にではなく、自分の思いでぐるぐる巡らしていたら、彼は悪霊につかれてしまって、ダビデが竪琴を弾いている時に槍をダビデに投げて殺そうとしました。二度も。しかも自分の跡取り息子、ヨナタンに向かっても槍を投げました。これ、ずっと憎しみ、恨み、妬みを思い巡らしていると、そういう風になってしまうんです。

本当に思いの丈、これは自分の頭でぐるぐるではなく、天に向かって主を、夕ごと、朝ごと、昼ごと、主に向かってうめく。すると主は聞いてくださると続けます。私たちもこのダビデのように、いつでもいつでも主に委ねるんです。

ダビデの苦しみは本当に深刻なものでした。詩篇55篇20節で、彼が自分の親しい者にまで手を伸ばし、本当に味方だと思っていた人からの攻撃。これ、とても辛いものです。21節では「彼の口はバターよりも滑らかだが、その心には戦いがある」と。本当に唇では油のように滑らか。もう本当によくするっと滑っていくような、そういう滑らかな唇。もうスルスルと口から流し出すような優しい言葉、柔らかい声で。けれども、その裏には、その舌の裏には刃が、カッターナイフがあるんです。もう麗しい言葉で「ああ、いいね」って言っておきながら、ブサッと、もう心許したところで切りつけるような、そういう感じです。

これ、本当にダビデだけの話ではありません。皆さんもそうです。イエス様も自分とパンを一緒に食べている弟子に裏切られた。「私に向かってかかとを上げた」と。イエス様でさえ、そういう経験をしたんです。本当に神の人であるからには、こういう裏切りが、世の中と関わる都度、いつもこういった傷、痛み、これを経験するものです。

でも、神様はそんな痛みを分からないとは言っていないんです。今日の中心的な言葉、それは「あなたの重荷を主に委ねなさい。主があなたのことを心配してくださる」です。主があなたのことを心配してくださる。

皆さん、心配するのは皆さんの仕事ではないんです。心配するのは主の仕事。皆さんの仕事は主に委ねること。するならば、主が皆さんの心配を請け負ってくださり、そして皆さんを心配のネタの解決へと動いてくださるんです。

けれども、心配ネタをいつもぐるぐる思い巡らしているとね、寄ってたかってくるのが悪霊、サタンです。そして皆さんをもっと良くない思いに引きずり込んでいってしまうんです。だから、あなたの重荷を主に委ねよう。

重荷、ここにのしかかっているあのこと、このこと、その重荷、それを主に委ねなさい。もう自分自身で我慢し続けてきた気持ちも、また言えなかったあのこと、このことも全部、主に、聞き取れる神様にお委ねするんです。全部ダビデのようにぶちまけるんです。

もう本当にダビデの詩篇を見ているとですね、ここまでえぐいことを言うのか。でもこれですね、敵に向かって言ったらえぐい罵詈雑言ですけども、しかし、主に向かって思いの丈をぶちまけるならば、それは祈りになるんです。皆さんは罵詈雑言を人に向けてではなく、主に向けて祈りを捧げるべきです。したら、主があなたのことを心配してくださる。

この「主があなたのことを心配してくださる」、これ、原文では主が支えてくださる、主がサポートしてくださるという意味です。ただ単に主は天から眺めて見ているわけではありません。ある人は思うかもしれません。神はもう天高く座していて、そしてただ下の方、人間を眺めているだけだって。いや、そんなことではないんです。

主は天から降りてこられて、皆さんの友となり、皆さんの身代わりになって十字架にかかってくださった。それがイエス様です。主は皆さんのことを心配し、心にかけておられ、天から降りてきて、そしてずっと主がサポートし、支えてくださりたいと、主はそのように思っておられます。

けれど、皆さんが主に委ねないのであるならば、主はサポートしようがないんです。皆さんのパソコンが壊れた時、サポートに電話しない限りはずっと壊れたままです。皆さんのメーカーである神様に、サポートセンターに、天のサポートセンターに、なんでサポートを求めないのか。

主がサポートしてくださるから、主が心配してくださるから、だから主に全部思いの丈をぶちまけて、するならば、皆さんの思いは自分の肩からイエス様へと移るんです。イエス様は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。私があなたを休ませてあげるから」と言われました。

この罪の重荷も、また世の中の重荷、あるいは主からいただいた聖なる務めの重荷。これはすべてイエス様にお委ねしなさい。イエス様のところに行く。すべて疲れた人、重荷を負っている人は、イエス様のところに行って、イエス様のもとで安息を得るべきです。

冒頭で宣言したところは、第一ペトロ5章7節なんですが、ここでも新約でも同じことがペトロを通して語られております。第一ペトロの手紙では、これペトロが、もうすでに迫害が始まったその教会に対して、イスラエル12部族に対してというよりも、本当にこの神の民に対してですから、これ、今、現在の皆さんにも語っています。重荷を負って、迫害や、あるいは色々な困難の中にある聖徒のためにペトロが書いたのが第一ペトロの手紙ですが、ペトロは5章7節でこう言っております。

「あなた方の思い煩いを一切神に委ねなさい。神があなた方のことを心配してくださる。アーメン。」

旧約でも新約でも書いてありました。神があなた方のことを心配してくださる。あなた方の仕事は心配することではない。神に委ねること。心配はあなたの仕事ではないよ。神の仕事だよ。だから、あなたの思い煩いは、心配は全部神様にお委ねしなさい。そしたら神様があなたのことをすべてのよしとしてくださるんです。

これから教会の営業活動って、昔ピンポン営業ってありました。私もそのバイトをしたことがあるんですが、あれ、なかなか勇気がいります。もうドアを開けて出てきた人が怖そうなお兄さんで、怒鳴られたらどうしようか。若かりし時、そういったバイト、もうビクビクしながらしたこともありましたけども、けれども、重荷を主にお委ねする、これ主の仕事だと思いながらしていけば、今はピンポン営業でなくて、通りに出ていって、3分ブリッジ、知らぬ人に声をかけてするんですけども、あれも、この主抜きでは、ちょっともうできないです。

この人に声をかけようとしたら、ああ、ちょっと若い女性だな。ナンパだと思われたらどうしようか。やっぱここ通り過ぎようかって。あ、この人ちょっと強面だな。ヤクザだったらどうしようかとか。

いや、主が、この人に声をかけなさいっていう、その御声、あるいは救うべき魂ですから、この主に、魂を救うのは私の仕事ではなく、主の仕事だと。主に委ねるならば、もう結構簡単に、「こんにちは」って、「ちょっと3分だけよろしいでしょうか」、意外と声かけられるものです。

私たちは仕事、いろんな重荷があります。教会の運営もそうですし、また世の中における仕事もそうです。ビジネス、そうです。子育て、重荷に感じる時あります。親との関わりや、また友人との付き合いも、もう本当に重荷、重荷なことあります。これ全部主に委ねなさい。主はあなたのことを心配してくださるから、と書いてあります。

この教会開拓の時も、河合先生が本当に主からの聖なる重荷を委ねられました。新しい教会を開拓しなさいって。設立資金もない時に与えられて、ああ、重荷だなって。でも設立資金が与えられました、これ。喜ぶどころか、ああ、重荷に感じたんです。

そして教会いざ立てて、そして運営においても、本当に思い煩いのような。もうなんで、神様、あなたは設立資金までくださったのに、いざ立ててみたらなんで早速もう教会が今にも倒れそうな、こんなことになるんですかって。

その時、主の声を聞いたんです。「教会はあなたが運営しているんですか、私が運営しているんですか」って。「いや、あなたが運営しているんです」って。「だったら、あなたの仕事は私に、今これこれの必要があるからと、私に求めることじゃないのか。なんであなたが1から10まで全部この問題を解決しようとするのだ」と。

そういう経験も河合先生もしてきました。本当に今、目の前でやろうとしていること、果たしてこれがうまくいくんだろうか。なんで今、神様が始められた仕事を、もう今すぐにでも風前の灯火のように消え去りそうなんですか。

主に委ねましょう。主に告白しましょう。重荷を主に委ねましょう。アーメン。主が皆さんのことを、もう皆さんが心配する前から、主が心配しておられて、そして主の恵みにあずかることができるんです。

主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらないと、今日の箇所に書いてあります。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。アーメン。

けれども、皆さんが重荷を自分で背負いっぱなしならば、揺るぎっぱなしです。けれども書いてあります。主は、主が心配してくださるから、重荷を主に委ねるなら、主は決して揺るがされるようにはなさらない。アーメン。

主に向かって手放しましょう。主に委ねましょう。主が皆さんを心配してくださり、主が皆さんを背負ってくださり、白髪頭になっても主が背負ってくださり、そして主が平安、安息、主にある成功、勝利、そこへと導かれていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。

【結論】

あなたの重荷を主に委ねなさい。主があなたのことを心配してくださる。心配することは私たちの仕事ではなく、主の仕事である。思い煩いを自分の中でぐるぐる思い巡らすのではなく、ダビデのように、朝も昼も夜も主に向かって祈りとして捧げるとき、主は私たちの声を聞いてくださる。主は天から降りてこられて、私たちの友となり、身代わりとなって十字架にかかってくださった。主に委ねるとき、主が私たちをサポートし、支えてくださり、主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。すべてを主に委ね、主にある平安、安息、勝利へと導かれていこう。

 

主のいましめを守っていること、これこそ私の永遠の財産(詩篇119:55-56) 早天祈祷会 2026年2月3日(Tue)

Youtube動画

【概要】

天に宝を積むことの大切さを教えるメッセージ。地上の富ではなく、主との交わりと御言葉を守ることこそが真の財産であることを詩篇119篇から学ぶ。

【聖書箇所】

  • 詩篇119:55-56

  • マタイ6:19-21

【励ましの言葉】

主の御言葉を守り、夜ごと主の御名を呼び求めて祈ることは、どんな地上の富よりも価値ある宝です。主との交わりを持ち続けるなら、天に決して廃れることのない財産が積み上げられています。

【勧めの言葉】

地上に宝を蓄えるよりも、天に宝を蓄えることを選び取りましょう。日々主と交わり、祈り、御言葉を守る生活こそが、永遠に残る真の財産となります。

【***AIによる文字起こし***】

今日、恵みをいただく御言葉は、詩篇119篇55節と56節です。皆さんで共に宣言したいと思います。

「主よ、私は夜にはあなたの御名を思い出し、またあなたの御教えを守っています。これこそ私のものです。私があなたの戒めを守っているからです。」(詩篇119:55-56)

アーメン、ハレルヤ。愛するイエス様、あなたこそ我が相続財産、あなたこそ私たちの報酬です。イエス様、あなたが共にいますということを私たちは宣言し、そしてあなたが共にいますというからには、すべてのものが私たちにも与えられますことを感謝いたします。

今朝も素晴らしい主の御名を褒め称え、賛美いたします。イエス様は、皆さんにとっての相続財産であるということ、これを始まった瞬間からいただきましたね。皆様、イエス様が伴われているということ、日々皆さんと伴われるイエス様にあって作り変えられているでしょうか。今年に入ってから変わったという人いますでしょうか。

変わりましたね。私の目から見て、確かに皆さん変わりました。主こそ、イエス様こそ皆さんの相続財産ですね。そして、皆さんの相続財産としたからには、イエス様が皆さんと伴われて、日々の歩みを、皆さんを作り変えて、御霊に満たされ、またある人はもう日々御前で祈ることがチャレンジで示されて、それを努力して、本当に日々作り変えられていっております。

今日の御言葉なんですけども、この56節「これこそ私のものです。私があなたの戒めを守っているからです」。これ、原文のニュアンスとしては、私があなたの戒めを守っていること、これこそが私の財産です。私の全財産ですね。それはお財布の中にある小銭全部ということではなく、私の財産、全財産は主の戒めを守っていること、これが私の全財産です。そういうニュアンスがあるんです。

韓国にこの間まで結構長く行ってたんですけども、イ・ヨンチョル先生と会ってきました。3分ブリッジの先生ですね。イ・ヨンチョル先生が言われますには、彼ら教会のある聖徒を目に留まったそうです。

その聖徒はですね、もう本当に今にも破産しそうな、もう本当に貧しい、貧しい、そういう境遇にあったんですね。けれども、彼は本当になけなしの心で主に仕えて、なんとかして主に喜ばれようと、そういう努力をしている方です。で、ある日、その聖徒さんから家庭におもてなしのために呼ばれたということですね。それでその聖徒さんのところに行きました。あらかじめこの御言葉を取り次ごうとメッセージを準備してから、その聖徒さんのところにお家に行ったんですけども、行ってみました。で、まあ、質素な家具があって、そして本当に質素なおもてなし。けれども、本当に心のこもったおもてなしをお食事を用意してくださって、ヨンチョル先生を待っていたんですね。

それでまあ、お食事の前にですね、その用意したメッセージをいざ語ろうとしたんですけども、けれども、彼はその準備しておいたメッセージを語ることを聖霊様からストップされました。で、語れないんですね。「主よ、今、何も準備していない状況になってしまいました。あらかじめ準備していたものが語るなと、あなたの仰せです。私はどうしたらいいんでしょうか」。で、ある御言葉が示された。それが今日のこの詩篇の御言葉ですけども、それでしばらくイ先生が御言葉を語る唇を黙っておりました。その聖徒はちょっと心配げな顔を覗き込んだんですけども、御言葉が示されたイ先生が言われたんですね。

「あなたはすごく富まれた方ですよ。とても富んでいるんですよ、あなたは。」

その聖徒さんはびっくりして、「いえ、私は特に富んでいるというものではないですけれども、なんでですか」と答えたんですね。そしたらイ先生はこの詩篇の119篇55節と56節、これを宣言したんですね。

じゃあ、もう一度皆さんで宣言しましょうか。詩篇の119の55節からです。

「主よ、私は夜にはあなたの御名を思い出し、またあなたの御教えを守っています。これこそ私のものです。私があなたの戒めを守っているからです。」

アーメン。

この聖徒さんは本当に涙、涙を流しました。夜ごと主の御名を思い出し、本当に「主よ、主よ、今の状況をなんとかしてください。主よ、助けてください」。夜ごと主の御名を思い出し、そして主の御教えを必死で守っております。時にはその掴んでる手がもう力が抜けてずり落ちそうになるけど、それでもなお主の御教えを守ろうと掴んでいます。これがあなたの財産だ。誰よりも富んでいる。あなたの財産だ。「これこそ私のものです。私があなたの戒めを守っているからです」。主の戒めを守ること、これこそが何よりの、あなたにとっての持っている素晴らしい宝だっていうんですね。この聖徒さんは本当に涙、涙しました。

私たちは世の中において自慢と思えるもの、あるかもしれません。世の中の人にとっては、私にはこの能力がある、私にはこのスキル、この経験がある、この仕事についている、これでこの財産、この銀行口座の残高、これこそ私の財産だと思うかもしれないんですけども、けれども、皆さん、真理の観点からすればですね、皆さんの財産というものは天に積まれている財産、これが真の財産なんです。

地上の宝、世の中にはお金持ちと言われる人はあまたおりますけれども、しかし、本当に主の御教えを必死で守っている人、本当になんとかして主の御言葉を守りたい、主に喜ばれたい、今助かりたい。それでもう本当に群衆をかき分け、かき分けして、イエス様の御衣にすがって、そういう志を持っている。その主に対する志、これが真の財産だということを今日の御言葉が示しているんです。

冒頭で宣言した箇所は、マタイによる福音書の6章20節と21節なんですけども、19節のところにはイエス様はおっしゃってます。

「自分の宝を地上に蓄えるのはやめなさい。そこは虫とサビで傷物になり、また盗人が穴を開けて盗みます。」(マタイ6:19)

この地上の財産、これはですね、虫が食います。錆びつきますね。そればかりじゃなく、盗人が来て穴を開けて盗んでしまう。どんなにどんなに蓄えて蓄えたとしても、しかし他の人が取っていってしまうということですね。

ソロモンは誰よりもたくさんの宝を蓄えました。金、銀、宝石を至るところから集めたけれども、結局主を求めないで、そうした地上の名声、富、そうした諸々を追求した結果、彼の人生の最後は虚しい虚しいものになってしまいました。地上において宝がある。その宝はやがて傷物になり、虫と錆でダメになってしまい、また盗人がその盗んで生きいってしまいます。

ソロモンの財産を受け継いだのは彼の息子、レハブアムというものでしたけども、アモン人の息子でした。主を知らなかったんです。彼はですね、ソロモンが蓄えた財産をたった5年で散財してしまいました。彼が王様になってから5年後にエジプトが攻めてきて、その宝を全部奪っていってしまったんです。一体、親が蓄えた宝、どこに行ったか。道楽息子に渡った、神様を知らない息子、そしてその道楽息子が散財してしまった。地上で宝を蓄える、神様よりも地上の富、宝を追求するような人は結局虚しいんです。

だからイエス様は「地上に宝を蓄えるよりも、むしろ自分の宝は天に蓄えなさい。そこでは虫もサビもつかず、盗人が穴を開けて盗むこともありません」(マタイ6:20)。

アーメン。

かの聖徒さん、本当に主の御言葉を必死で守ろう、必死で主に夜ごと御名を呼び求めて「主よ助けてください、主よ助けてください」と主と交わりを持って、主にのみ頼みとする。それが彼の決して廃れない宝だったんですけれども、皆さんはどれほど天上に宝を蓄えているでしょう。日ごと祈っているでしょうか。日ごと主と交わっているでしょうか。皆さんの日ごとの主との交わり、日々の主に対する祈り、それが皆さんの宝です。どれほどその宝のバロメーターが上がってるでしょう。

昔通ってた子供の時の教会学校はですね、教会に行くとそのシールをもらえて、で、それでこの表が貼ってあって、来た日をシールを積み立てていくんですね。で、それでこれがあなたがどれほど神様と交わりを持ったか、そのそれが一目でわかる表だよっていうふうに先生に言われて。で、それで本当にシールをもらうのを楽しみにして貼る都度、また自分がそのグラフの山が高いほど、まあ誇りに思ったものですけども、皆さん、祈れば祈るほどに、主と交われば交わるほどに、神様からそのご褒美のシールをいただいて、そしてその宝は決して奪われることも、虫が、サビがつくこともない、皆さんにとっての廃れない宝です。

イエス様が言われたのは、「あなたの宝のあるところにあなたの心もあるからです」(マタイ6:21)というふうに言いました。皆さんの宝は一体どこにあるでしょうか。皆さんの心は一体どこに置かれているでしょうか。銀行口座でしょうか。あの株券でしょうか。皆さんの宝はイエス様においてください。イエス様が皆さんの相続財産です。イエス様こそ、皆さんの受けるべき報酬、報い、イエス様こそ、皆さんにとってのお給料としてください。するならば、その日々が本当に天上においてあのシールのように本当に積み上げられていて、天国に入った時に、本当に神様から喜ばれ、ご褒美を受けて、そしてその地上で蓄えた宝に従って、皆さんがボーナスの報いを受けるんですね。

地上においてイエス様を信じること、これは天国に入るための切符ですけれども、信じれば救われたんだから、それでいいやだと、天国で財産が積み上がってないんですね。行いです、行いが。皆さんの信仰による行い、皆さんのイエス様との交わり、これが宝となって天上に積み上がっていく。そしてそれは決して永遠に廃れることはないものです。

皆さんの永遠の住まいを、本当にあらゆる素晴らしい飾りで飾りつけたいでしょうか。天上において質素な家、また本当に地上で多くの行いを積み上げてきた宝でいっぱい満ちた家、皆さん、どちらに住まいたいでしょう。永遠に。どうせだったら宝、多くの宝を天国に蓄えていきましょう。皆さんは本当にこの地上において、イエス様とよく交わり親しみ、そして本当にこの真の宝を天に積み上げる。そして本当に主から「誰よりもあなたが富んでる」そんなに言われる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福いたします。

【結論】

真の財産とは、地上の富や名声ではなく、主との日々の交わりと御言葉を守ることです。夜ごと主の御名を呼び求め、御教えを必死で守る生活こそが、天に積まれる決して廃れることのない宝となります。イエス様を私たちの相続財産とし、日々祈り、主と交わることで、天に永遠の財産を積み上げていく歩みをしていきましょう。地上の宝は虫とサビで傷物になり、盗人に奪われますが、天の宝は永遠に残ります。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです。

 

平安であれ!それが主があなたに望んでおられる事(ヨハネ16:33) 早天祈祷会 2026年2月2日(Mon)

Youtube動画

【概要】

イエス様が弟子たちに与えた平安(シャローム)について、ヨハネの福音書を通して学びます。世には艱難があるが、イエス様がすでに世に勝利されたので、私たちは勇敢でいることができ、その平安のうちに世へ遣わされていくのです。

【聖書箇所】

  • ヨハネ16:33

  • ヨハネ14:27

  • ヨハネ20:19-23

【励ましの言葉】

イエス様を信じた時、すでにイエス様が私たちのうちにいます。イエス様にとどまり続ける限り、決してこの平安は奪われることはありません。世のどんなものも、この平安を揺るがすことはできないのです。

【勧めの言葉】

聖霊を受けた上で世に遣わされていくべきです。イエス様の平安シャロームのうちに世に出て行く時、私たちは魂を獲得することができます。イエス様を住まわせ、主の働きをしていきましょう。

【***AIによる文字起こし***】

今朝、恵みをいただく御言葉は、ヨハネによる福音書16章33節です。皆さんで一斉に宣言したいと思います。

ヨハネ16:33

「私がこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたが私にあって平安を持つためです。あなた方は世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです。」

シャローム、シャローム。これがイエス様が皆さんに与えたいものなんですね。皆さんが平安シャロームであることを主は求めておられるんです。シャローム、それは完全な状態であるということですね。ユダヤ人の挨拶言葉になっております。

なぜユダヤ人はこれが挨拶言葉になっていたか。これはユダヤ人はずっとずっと迫害の歴史をしてきたからですね。本当に多くの人々から迫害されてきました。その中において、本当にいつ命が取られるかわからないような、そういう状況の中において、今日もまたあなたは無事ですかね。あなたは特に健康や、また体が損なわれていないですかね。それがこの挨拶言葉になったんですね。

イエス様が皆さんに求めておられること、これがこの平安シャロームだということを、今日の箇所を見ることができるんです。イエス様は「私がこれらのことをあなた方に話したのは」とおっしゃいます。これは最後の晩餐の場面です。もう弟子たちとイエス様、三年半ずっと一緒に暮らしてきました。寝食共にし、そして養いをイエス様から直接受けてきました。時にはイエス様から叱責もいただきましたね。なんて信仰が弱いものよ、小さいものだと。

そしていよいよイエス様のその十字架の前の晩、ヨハネの福音書において結構長いメッセージを、イエス様はその前の晩、弟子たちに対してしておられます。そしてイエス様がその最後の晩餐の中において繰り返し語られた言葉が、そのキーワードがシャローム、平安なんですね。

私がこれらのことをあなた方に話したのは、イエス様は御言葉を皆さんに語っておられます。皆さんも今までの人生、多くのイエス様からの言葉をいただいてきたことでしょう。それでもこの時、弟子たちは不安があったんですね。イエス様と三年半もずっと一緒、ずっとイエス様のお言葉を耳に聞いてきたけれども、それでも不安になるということがあります。

皆さんもクリスチャン生活何年してきたか。教会に何年帰ってきたか、皆さんそれぞれですね。けれども、なお日ごと不安がのしかかる、そういった材料が世の中にたくさんあるんです。でもイエス様はおっしゃいます。私がこれらのことをあなた方に話したのは、聖書の言葉、皆さんがずっとずっと読み続け、また多くの養いを受け続けてきたのは、それはあなた方が私にあって、イエス様にあって平安を持つためですね。

皆さんに平安になってほしいから、御言葉が皆さんに示されました。聖書というものが世の中に存在するのは、皆さんが平安を持つためであり、そして皆さんがイエス様を知り、イエス様へと帰り、そしてやがては天国において完全なものになる。それを主が皆さんに願っておられるから。だから神の御言葉、聖書は皆さんに平安シャロームを与えるものです。

イエス様が続けるのは、あなた方は世にあっては艱難があります。ですから、皆さんの世の中において艱難がもう一切なくなるための福音ではないんですね。世の中には相変わらず艱難があります。皆さん、世に出ていかなくてはなりません。働かなくてはなりませんし、そして世に出て行ってイエス様を知らない人々に、このイエス様の平安を伝えていかなくてはなりません。

だから、まず皆さん自身がイエス様にあって平安を保ちなさいということがここで示されております。あなた方は世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。

勇敢であるためには根拠が必要ですね。皆さんが何か力強く武装しているのであるならば、剣を持っているのであるならば勇敢になれるかというと、クリスチャンとしてはそうではないですね。皆さんにとっての、その勇敢である根拠。それはイエス様がここに書いておっしゃっています。最後のところで、私はすでに世に勝ったのです。

皆さんのうちにいますお方が、もうすでに世に勝った。皆さんのうちにもうすでに世に勝ったお方がいるのだから、だから勇敢でありなさいということです。

昨日、メッセージにおいて、迫害の下にあるクリスチャンたちのお話をしましたね。彼ら、コロシアムの中に引きずり出されていた彼ら、不安があったことでしょう。けれども、イエスキリストがうちにいますということに目覚めたクリスチャンたちは心が安らかであり、そして目の前にライオンがいたとしても、もうこれからこのライオンによって殺されるとしても、しかし彼らは賛美をしておりました。歴史書に書いてあるんですね。

『クオ・ヴァディス・ドミニ』という映画があるんですけども、最初に作られたものと、それをカバーした、より長い長編の映画があるんです。おすすめするのは初めに作られた方の方ですね。そちらの方がよりこのイエス様が身近に感じられる、そういう映画です。

私たちの平安の元は、なんか偉大なアクションで、力ずくで平安を勝ち取るものではなく、皆さんのうちにいます、イエス様、すでに世に勝利したイエス様。死も命も御使いも、今あるものも、後に来るものも、この世のどんなものも、高さも深さも、この世のどんな被造物も、これ決して及ぶことがないイエス様。イエス様が皆さんのうちにいます。イエス様を信じた時、もうすでにイエス様が皆さんのうちにいまして、そして決して皆さんを揺るがすことがないんです。

この『クオ・ヴァディス』という映画の中において、聖徒たちがそのコロシアムの中に引きずり出されます。群衆たち、その周りの観客席で見ている安全な立場に高みの見物して、それで人がライオンに食い殺されるというのをエンターテインメントとして見ている。そういう群衆の歓声の中で、クリスチャンがグラウンドに投げ出されております。みんな震えております。怖がっております。

でもそこに使徒ペテロが来るんですね。使徒ペテロが、周りのクリスチャンたちから、もうどうぞローマから離れてください。あなたは一番狙われていますからということで、ペテロはローマから離れていっていく。その道すがら、ペテロはイエス様に出会うんですね。ペテロはローマから離れる方向の道を進んでいきます。でも、その向こうの方から人が近づいてきて、ローマの方に行くんです。その人をよく見ると、ペテロがよく見ると、それはなんとイエス様でした。

イエス様、あなたは主よ、あなたはどこに行かれるのですか。主よ、あなたはどこに行かれるのですか。これのラテン語が「クオ・ヴァディス・ドミニ」ですね。主よ、あなたはどこに行かれるんですか。イエス様が答えます。ローマにおいて私の聖徒たちが苦しんでいる。だから私が行くのだ。そしてもう一度十字架にかかって苦しみを受ける。そういうことを幻の中でイエス様が語られたということで、それでペテロがハッとして。ああ、私は逃げている場合ではない。ローマに行かなくてはと。

そしてローマに戻って、そしてそのローマのそのコロシアムの中において、本当にこれから処刑されようとしている、本当に観衆のその嘲笑いの中で怖がっている聖徒たち、彼らに対して観客席の方に立って、ペテロの声が響くんです。そしたら観客席のみんなは、ペテロを見て、ペテロのその話を聞いて、心安らかになって、みんな賛美を始めるんですね。そういう場面がありました。ペテロ、その時、捕まえられて、そして結局、逆さ十字架の刑に処されてしまうんですけども、このように、心の中にイエス様が思い浮かばされた時、たとえどんな嘲笑いの群衆の中にあったとしても、たとえ目の前にライオンがいたとしても、どんな艱難の中にあったとしても、心安らかで、そしてイエス様がいらっしゃる天国、安息の地に行くんですね。

その当時のローマ皇帝はネロという皇帝でしたけども、その皇帝ネロが、このクリスチャンたちの有様を見て、またクリスチャンたちがライオンに殺された死体、その一人一人の顔を見て、クリスチャンたちが笑いながら、笑顔で死んでいるその様をネロが見て、むしろもう震えおののいている。ネロは確かに権力が、権威がありますけれども、しかし、どんな権威を持ったとしても、どんなお金持ちになったとしても、決して得られない平安というものがあります。真の平安は、このイエスキリスト、このお方から来るんです。

冒頭で宣言したのはヨハネの14章27節なんです。同じヨハネの福音書ですので、皆さん開きたいと思います。ヨハネ14章27節では、みんなで一緒に宣言します。

ヨハネ14:27

「私はあなた方に平安を残します。私はあなた方に私の平安を与えます。私があなた方に与えるのは、世が与えるのとは違います。あなた方は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

人生のどんな時においても、決して変わらない平安。この節でイエス様が2回も繰り返しますね。あなた方に平安を残します、あなた方に私の平安を与えますと。

イエス様が与えてくださる平安、それは世が与える平安とは違います。人がどんなにお金を得ても、またどんなに権力を得ても、皇帝ネロのような立ち位置になったとしても得られない平安をクリスチャンたちは持っているんです。だから世は恐れるんです。そして世の権力は、このイエス様の平安にチャレンジするんですね。挑戦して、なんとかしてクリスチャンから平安を取り除いてやろうと言って。それでもう、あらゆる妨害をしてくるんですけど、しかし、イエス様にとどまり続ける限りでは、決してこの平安は奪うことができないんです。

あの殉教の聖徒たちのように、また今この時代の皆さんにおいてもそうです。皆さんがイエス様に向くのであるならば、決してその平安は奪われることはないんです。悪魔サタンは皆さんを脅してきます。世は皆さんを脅してきます。皆さんからなんとかして、その平安を覗き去ってやりたいと妬んで歯ぎしりして、世がいろんな妨害、あるいは悪霊、悪魔サタンが皆さんの心の中に囁きかけて、なんとかしてかき乱そう、イエス様から引き離そうとしてくる時、皆さんは、それに対して皆さんの力技では対抗できません。

イエス様にとどまり続けること。何かを、皆さんが力を持って征服するものではない。皆さんの内にいます、もうすでに世に勝ったお方、イエス様にとどまり続けること。これが平安がかき乱されないというコツです。

もう一箇所、ヨハネの福音書20章を今度は開いてください。ヨハネの20章の19節、20章の19節を皆さんと一緒に宣言したいと思います。では、ヨハネの20章の19節。

ヨハネ20:19

「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸が閉めてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。平安があなた方にあるように。」

イエス様は十字架の後も真っ先に弟子たちに言った言葉が、平安があなた方にあるようにでしたね。イエス様は十字架の前も、十字架の後も平安があなた方にあるようにということを繰り返し強調されておられます。

平安の根拠は20節に書いてあるんです。20節も皆さんで一緒に宣言しましょう。

ヨハネ20:20

「こう言って、イエスはその手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」

平安の根拠、それはイエス様の十字架の釘跡です。イエス様が十字架で皆さんの身代わりになって、罪を処罰してくださった。皆さんの身代わりになって、罰を受けてくださった。そして復活してくださったその十字架の釘跡。これが皆さんにとっての平安の根拠です。弟子たちは主を見て喜んだと書いてあります。確かにイエス様は十字架にかかったんだ。あの3日前の出来事は夢幻ではなかった。

多くの無神論者たちは、イエス様という人物がいたかもしれないけれども、十字架で死んだんだとか、あるいは実は十字架、誰か別のものが身代わりになって、そしてイエス様が復活したかのように見せてるんだとか、そういった人間のなんか小賢しい理解、落とし込めるようなね、そういう聖書とは違うことが実はあったんだって言ってくるんですけども、こういった小賢しい、そういった議論に皆さんはかき乱されてはなりません。

聖書の御言葉が真実であり、イエス様が真実であり、そしてイエス様が皆さんの内にいます時に、世のものならぬ平安で満たされる。だから歴史を見ますに、本当にクリスチャン、日本でも殉教者、たくさん出てきましたけれども、本当に日本の迫害厳しかったです。本当にねちっこかったですね。簀巻きにして海に投げたりとか、また、もう逆さ釣りにして、ずっと水の滴りを受けさせるとか。九州の、あの熱い熱い温泉、あの、まあ地獄谷というところ、行ったことあるんですけども、本当にもう硫黄の匂いがして、煙が吹き上げて、その地獄のような熱湯をクリスチャンにかけてかけて。そしてね、さあ、もうキリストを呪え、キリストを捨てろ。そしたらこういうこともしなくなって済むぞって、それでも決してキリストを捨てなかった、そういう人たち、なんででしょうね。

イエス様は生きておられるんです。皆さんの内にイエス様がいますならば、世のものならぬ平安に満たされて、たとえ艱難があるとしても、それでもこの平安の源であられるイエス様を捨てるなんて、もうとんでもない。そんなことできないというふうになってしまうんですね。皆さん、イエス様を住まわせてください。艱難が皆さんに襲いかかる時、イエス様を招き入れてください。そうするならば、世の何物にもまさる平安が皆さんにとどまるでしょう。そして皆さんのうちに平安がとどまるのであるならば、皆さん、働きに出て行くべきです。

21節から23節までをみんなで一緒に宣言します。

ヨハネ20:21-23

「イエスはもう一度彼らに言われた。平安があなた方にあるように。父が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わします。そしてこう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい。あなた方が誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。あなた方が誰かの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

イエス様は繰り返し言われました。もう一度言われました。平安があなた方にあるように。そしてイエス様が託したのは働きです。世に遣わすということです。父が私を遣わしたように、私もあなたがたを遣わします。ただ単に遣わすんじゃないんです。イエス様は息を吹きかけた上で遣わすんです。聖霊を受けなさいと言って、イエス様の息、聖霊の息吹き。これを受けて遣わされていく。

だからペテロはあのローマの聖徒たちを励ましに、彼らに平安を持っていくために、ペテロはローマに行くことができました。皆さんも聖霊を受けた上で世に遣わされていくべきです。聖霊抜きで伝道に行っても虚しい目に遭うだけです。イエス様の聖霊を身に帯びて、イエス様の平安シャロームのうちに世に出て行く時、皆さんは獲得することができるんです。魂を、命を。

今、私たちもこの世の中に遣わされていく時間がやってきます。その中において皆さん、イエス様を住まわせてください。イエス様の平安に満たされ、聖霊の息吹を受けて、そして主の働きをしていきましょう。それならば、世の何者にも勝る平安のうちに、イエス様と共に働き、イエス様と共に勝利し、イエス様と共に勝ち得て余りある祝福を得ていくことができます。イエス様にあって歩んでいく時に、この幸いにあずかることができます。

【結論】

イエス様が私たちに与えてくださる平安シャロームは、世が与えるものとは全く違います。それは、イエス様がすでに世に勝利されたという事実に基づく、決して揺るがされることのない完全な平安です。十字架の釘跡がその根拠であり、イエス様が私たちの内にいてくださることが、どんな艱難の中にあっても勇敢でいられる理由です。この平安を受けた私たちは、聖霊の息吹を受けて世に遣わされ、イエス様と共に働き、勝利する者とされるのです。

 

主日礼拝

必ず勝利して輝くキリスト - まことの光(ヨハネ1:5)

第一礼拝 Youtube動画

English Service Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 今月の御言葉 ヨハネ1:5


 イエス様が十字架にかかり、復活し、天に昇られた後、弟子たちは世界に出て行って福音を伝えました。

しかし、すぐに迫害の時代が始まります。実は初代のキリスト者たちのシンボルは、十字架ではありませんでした。 何だったでしょうか?それが、丸の中に、交差する二つの文字、「Χ(キー)」と「Ρ(ロー)」です。

それはギリシャ語で「キリスト」と書くときの最初の二文字で、この印は「キー・ロー」と呼ばれております。

なぜ十字架ではなく、この印だったのでしょうか? それは、この印が、命がけの信仰告白だったからです。


 今から1700年以上前、ローマ帝国の時代。イエス・キリストを信じるということは、捕まり、

 殺されることを意味していました。信仰が知られれば、コロシアムに連れて行かれ、

 大勢の人の前で見世物にされ、ライオンに食い殺されたり、火で焼かれたり、十字架につけられたりしました。 ですから彼らは、太陽の下で、公に礼拝することができませんでした。

 彼らが集まったのは、カタコンベと呼ばれる地下の墓所です。暗く湿っていて、死者が葬られている場所。

なぜ、そこが礼拝の場所だったと分かるのでしょうか。それは、カタコンベの遺跡から、たくさんのこの印が発掘されているからです。 2世紀の私達の信仰の先祖たちは、この印によって、密かに「私はキリストのものです」と、互いに告白しました。 そしてその印の下で、小さな声で祈り、小さな声で賛美しました。

そこでは、いつも悲しい知らせがあります。 「仲間が捕まった」「家族が連れて行かれた」

そのたびに彼らは祈ります。「どうか、助けてください」「もし助からなくても、どうか、平安を与えてください」


すると、不思議なことが起こりました。コロシアムで殺されていく人々は、恐怖ではなく、平安に満ちていたのです。まるでこれから天国に行くかのように。まるで、目の前にイエス様がおられるかのように。。。

 

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

 

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

 

あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27

歴史は語っています。その様子を見たローマ皇帝たちは、ますます恐れ、迫害をさらに激しくしました。

しかし同時に、それを見て、かえってイエス・キリストを信じる人々も起こされていったのです。

 

闇は、光を、消そうとしました。でも、決してキリストという光を、消せませんでした!

 一世代、また一世代。長い長い年月が過ぎて行き、祈りは、地の底から、天へと積み上げられていきます。

そして、ついに、神様が動かれる時が来ました。


 西暦312年。ローマ北方、ミルウィウス橋の戦いです。将軍コンスタンティヌスは、圧倒的に不利な状況でした。自軍は約4万、敵は約10万です。 そんな戦いの直前、彼は、空に輝く光を見ました。その光はなんと、この、キー・ローの印でした。そして、こう示されたのです。「この印によって勝て!」 それで彼は兵士たちに命じます。「兵士たちよ、自分の盾に、この印を刻め!

 

 それまで、地下の暗闇の中、ずっと信仰者たちが隠れて信仰を表明続けていたあの印が、なんと、太陽の下、無数の兵士たちの盾に刻まれ、掲げられたのです

 

 戦いの結果は、歴史が伝えています。数で勝っていた敵は混乱し、皇帝は川に落ちて命を落としました。この勝利の翌年、313年。 コンスタンティヌスは、「ミラノ勅令」を出します。すなわち、キリスト教を禁じていた法律は取り消され、信仰は公に認められたのでした!

地下のカタコンベの暗闇から、地上の光の中へ。聖書のことばが、歴史の中で現実となったのです。

 

「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった!」  こうして、地上に出た信仰の先祖たちは、ようやく、誰にもはばかることなく、喜び勇んで大声で賛美し、大声で祈ることができるようになったのでした。


 私たちの人生にも、暗闇のような時があります。迫害の時もあります。でも、忘れないでください。

 

光であられるイエス様は今も生きておられ、闇は決して長くは続かず、必ず光が勝利する、という事を

この主に信頼し続け、必ず与えられる勝利を、すぐにでも実際に体験する皆さまでありますように。

イエス様のお名前によって祝福します!

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

tensei.christ at gmail.com (atを@に変更して下さい)
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest