メッセージ - 202602のエントリ
心配するのはあなたの仕事ではない、主の仕事だ(詩篇55:22) 早天祈祷会 2026年2月4日(Wed)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
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- pastor 2026-2-4 6:33
心配するのはあなたの仕事ではない、主の仕事だ(詩篇55:22) 早天祈祷会 2026年2月4日(Wed)
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【概要】
ダビデが親しい友に裏切られた痛みの中で学んだ、すべての重荷を主に委ねることの大切さについてのメッセージ。心配することは私たちの仕事ではなく、主の仕事である。主に委ねるとき、主が私たちを支え、心配してくださる。
【聖書箇所】
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詩篇55:22
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詩篇55:16-17, 20-21
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第一ペトロ5:7
【慰めの言葉】
-
主は私たちのことを、私たち自身が心配する以前から心配してくださっている
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主は天から降りてこられて、私たちの友となり、身代わりとなって十字架にかかってくださった
-
主は白髪頭になっても私たちを背負ってくださる
【励ましの言葉】
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すべて疲れた人、重荷を負っている人はイエス様のところに行けば休ませてもらえる
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主に委ねるとき、主が私たちをサポートし、支えてくださる
-
主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない
【勧めの言葉】
-
あなたの重荷を主に委ねなさい
-
思い煩いを自分の中でぐるぐる思い巡らすのではなく、主に向かって祈りとして捧げなさい
-
心配は私たちの仕事ではなく、主の仕事である。私たちの仕事は主に委ねること
【AIによる文字起こし】
詩篇55編の22節を皆さんと共に宣言しました。「あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたのことを心配してくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」
主イエス様は、私たちのことをじっと見ておられ、私たちが思い煩う以前から、もうすでにすべてを御存じです。すでに主が先んじて進んでくださり、私たちのことを私たち自身よりも心配し、すべての準備を整えて、今待っておられることを感謝します。
今年に入ってから、毎朝ここに立つようになって、日々の働きもしています。かなり時間がなかったり、体調がきつかったりしても、それでも守られて、とても充実した日々を送っております。ここに立つたびに、16年目になりますが、毎回本当に御言葉を取り次ぐことに、果たしてこんな者が立っていいんだろうかという恐れがあります。これは何年経っても消えません。ある種の重荷があります。
主の働きをするには、ある種の重荷があるということは確かなところです。けれども、このすべての重荷を主にお委ねする時、本当に軽やかな思いで、御前において奉仕をすることができるようになります。
先ほど賛美した202番は、「罪、重荷を除くは血の力」で始まります。罪の重荷があり、また聖なる重荷もあります。すべてを主にお任せするならば、本当に重荷だなと思っていたものから身が軽くなるんです。
今日の箇所において、詩篇55篇はダビデが書いた詩篇ですが、彼も本当に人生の中で多くの悩みを経験しました。先週はサムエル記からダビデの話を見てきましたが、本当にダビデは信仰の勇士で、ゴリアテに立ち向かう様は勇ましかったです。彼の心の中に一切の不安はありませんでした。むしろ不安、心配しているのは王様であったり、大人たちでしたが、少年の心には一切それがありませんでした。
なぜ彼は聖なる憤りに満たされていたからです。彼の陣営が嘲られているのに、自分より長く生きてきた大人たちが何も対処していない。主がいるのに、なんで主が目の前におられるのに、主が陣営の中に歩まれるのに、なんで彼らはあたかも主を度外視しているかのようにしているんだという、聖なる憤りに満たされて、もう不安とか恐れは一切吹っ飛んでいたんでしょう。
主に満たされる時、主の血潮に満たされる時、すべての罪、重荷は、またあらゆる煩いは全くかき消されて、ただ主の平安、あるいは憤るべき時には主の憤りに満たされて、そして大胆に進みゆき、勝利を勝ち取っていくものになるんです。
今日の箇所においてもダビデが記したんですが、ダビデはなぜこんなにも恐れ、不安になっているか、なぜ心痛んでいるか。それは敵がダビデを憎んでいるからではありません。むしろ本当にダビデと共に歩んだ信仰の同志である者が、こんなあくどいことを、共に主に捧げものを捧げに行った仲間が、そんなあくどいことを自分に企んで、貶めようとしている。それでとても心が突き刺されるんです。
憎たらしい相手が皆さんのことを貶めても、あまり傷つかないかもしれません。しかし、むしろ皆さんの身内の方、親しい友達と思っている人が皆さんを突き刺す時はとてもとても痛みます。ダビデは本当にそのことを嘆いてこの詩篇55篇を記したんですが、その都度ダビデは何をしたか。
詩篇55篇16節では、「私が神に呼ばわると、主は私を救ってくださる」と言っています。いつも彼は神に呼ばわりました。その都度、敵が憎たらしいことをした。それに対してダビデが神様抜きで仕返ししようとすることは、あまりありませんでした。
唯一、聖書に記されているのは、ナバルがダビデに愚かなことをして怒らせた時です。もう怒りに駆られて、武器を取れ、彼らを討ち滅ぼしてやろう、一族郎党と、もう憎しみに駆られてそういうこともありました。けれども、アビガイルという賢い女性がダビデに思い起こさせてくれました。「本当にあなたは王様になる器だから、そんなつまらないことで怒って、手を血に染めて罪を、後々そういう汚点を残すようなことはしないでください」と頼みました。本当に賢い女性です。
ダビデは本当にこのアビガイルと、ほんのわずかなその会合で、もうこのアビガイルを妻にしたら、どれほど自分は助かるだろうと思ったんでしょう。ナバルが死んだ後、早速アビガイルを妻として迎えました。
本当にこのように人が罪に陥ろうとする時、もう怒りに身を任せて一族郎党討ち滅ぼせという人を止めて、それをなだめて慰める人。これは本当に皆さんにとってかけがえのない人となり、また皆さんがそういう働きをする時、その相手にとって皆さんがかけがえのない人になるんです。
ダビデはこの時、そんな親しい仲間から、一緒に礼拝に捧げた仲間がそういうことをして、むしろ本当にダビデが一番助けを必要としている時に、敵側の勢力になって、自分を嘲り、自分を刺し貫く。そういうことをしたから、ダビデは本当にもう剣で心をえぐられるかのような痛みを覚えて、そして主に呼ばわったんです。
詩篇55篇17節は、「夕、朝、真昼、私は嘆きうめく」と言っております。痛んだんです。彼は1日に3回祈ったということよりも、1日中祈らずにはおれなかったんです。夕方、朝、真昼、夕方から始まり、朝も真昼もずっとずっと主に向かって嘆きうめいているんです。夕暮れの疲れの中で、また夜、朝、昼、そうした現実の重さの中で、彼はそのたびに主に向かって嘆いたんです。すると主は私の声を聞いてくださると続きます。
これは何度でも何度でも主に向かってうめきを、心の思いの丈を主に向かって流し出す、流し出す。思いの丈を自分の中でぐるぐる思い巡らす。これはどんどん病んでいってしまう人の特徴です。その思い煩いをずっと頭の中でぐるぐる思い巡らしていくとどうなるか。悪霊がそれをとても好み好むんです。
本当に焼肉を焼いていると芳しい香りで、美味しそうだなって、寄っていきたい思いに駆られます。皆さんが本当にこの憎しみとか恨みだとか、悲しみをぐるぐる思い巡らしていると、「ああ、これがいい匂いだな」って言って寄ってくるんです。
サウルがまさにそうでした。このダビデに対する妬み、また憎しみ、そして本当に自分が受け入れられたいという、そういう思い。それをぐるぐる神様にではなく、自分の思いでぐるぐる巡らしていたら、彼は悪霊につかれてしまって、ダビデが竪琴を弾いている時に槍をダビデに投げて殺そうとしました。二度も。しかも自分の跡取り息子、ヨナタンに向かっても槍を投げました。これ、ずっと憎しみ、恨み、妬みを思い巡らしていると、そういう風になってしまうんです。
本当に思いの丈、これは自分の頭でぐるぐるではなく、天に向かって主を、夕ごと、朝ごと、昼ごと、主に向かってうめく。すると主は聞いてくださると続けます。私たちもこのダビデのように、いつでもいつでも主に委ねるんです。
ダビデの苦しみは本当に深刻なものでした。詩篇55篇20節で、彼が自分の親しい者にまで手を伸ばし、本当に味方だと思っていた人からの攻撃。これ、とても辛いものです。21節では「彼の口はバターよりも滑らかだが、その心には戦いがある」と。本当に唇では油のように滑らか。もう本当によくするっと滑っていくような、そういう滑らかな唇。もうスルスルと口から流し出すような優しい言葉、柔らかい声で。けれども、その裏には、その舌の裏には刃が、カッターナイフがあるんです。もう麗しい言葉で「ああ、いいね」って言っておきながら、ブサッと、もう心許したところで切りつけるような、そういう感じです。
これ、本当にダビデだけの話ではありません。皆さんもそうです。イエス様も自分とパンを一緒に食べている弟子に裏切られた。「私に向かってかかとを上げた」と。イエス様でさえ、そういう経験をしたんです。本当に神の人であるからには、こういう裏切りが、世の中と関わる都度、いつもこういった傷、痛み、これを経験するものです。
でも、神様はそんな痛みを分からないとは言っていないんです。今日の中心的な言葉、それは「あなたの重荷を主に委ねなさい。主があなたのことを心配してくださる」です。主があなたのことを心配してくださる。
皆さん、心配するのは皆さんの仕事ではないんです。心配するのは主の仕事。皆さんの仕事は主に委ねること。するならば、主が皆さんの心配を請け負ってくださり、そして皆さんを心配のネタの解決へと動いてくださるんです。
けれども、心配ネタをいつもぐるぐる思い巡らしているとね、寄ってたかってくるのが悪霊、サタンです。そして皆さんをもっと良くない思いに引きずり込んでいってしまうんです。だから、あなたの重荷を主に委ねよう。
重荷、ここにのしかかっているあのこと、このこと、その重荷、それを主に委ねなさい。もう自分自身で我慢し続けてきた気持ちも、また言えなかったあのこと、このことも全部、主に、聞き取れる神様にお委ねするんです。全部ダビデのようにぶちまけるんです。
もう本当にダビデの詩篇を見ているとですね、ここまでえぐいことを言うのか。でもこれですね、敵に向かって言ったらえぐい罵詈雑言ですけども、しかし、主に向かって思いの丈をぶちまけるならば、それは祈りになるんです。皆さんは罵詈雑言を人に向けてではなく、主に向けて祈りを捧げるべきです。したら、主があなたのことを心配してくださる。
この「主があなたのことを心配してくださる」、これ、原文では主が支えてくださる、主がサポートしてくださるという意味です。ただ単に主は天から眺めて見ているわけではありません。ある人は思うかもしれません。神はもう天高く座していて、そしてただ下の方、人間を眺めているだけだって。いや、そんなことではないんです。
主は天から降りてこられて、皆さんの友となり、皆さんの身代わりになって十字架にかかってくださった。それがイエス様です。主は皆さんのことを心配し、心にかけておられ、天から降りてきて、そしてずっと主がサポートし、支えてくださりたいと、主はそのように思っておられます。
けれど、皆さんが主に委ねないのであるならば、主はサポートしようがないんです。皆さんのパソコンが壊れた時、サポートに電話しない限りはずっと壊れたままです。皆さんのメーカーである神様に、サポートセンターに、天のサポートセンターに、なんでサポートを求めないのか。
主がサポートしてくださるから、主が心配してくださるから、だから主に全部思いの丈をぶちまけて、するならば、皆さんの思いは自分の肩からイエス様へと移るんです。イエス様は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。私があなたを休ませてあげるから」と言われました。
この罪の重荷も、また世の中の重荷、あるいは主からいただいた聖なる務めの重荷。これはすべてイエス様にお委ねしなさい。イエス様のところに行く。すべて疲れた人、重荷を負っている人は、イエス様のところに行って、イエス様のもとで安息を得るべきです。
冒頭で宣言したところは、第一ペトロ5章7節なんですが、ここでも新約でも同じことがペトロを通して語られております。第一ペトロの手紙では、これペトロが、もうすでに迫害が始まったその教会に対して、イスラエル12部族に対してというよりも、本当にこの神の民に対してですから、これ、今、現在の皆さんにも語っています。重荷を負って、迫害や、あるいは色々な困難の中にある聖徒のためにペトロが書いたのが第一ペトロの手紙ですが、ペトロは5章7節でこう言っております。
「あなた方の思い煩いを一切神に委ねなさい。神があなた方のことを心配してくださる。アーメン。」
旧約でも新約でも書いてありました。神があなた方のことを心配してくださる。あなた方の仕事は心配することではない。神に委ねること。心配はあなたの仕事ではないよ。神の仕事だよ。だから、あなたの思い煩いは、心配は全部神様にお委ねしなさい。そしたら神様があなたのことをすべてのよしとしてくださるんです。
これから教会の営業活動って、昔ピンポン営業ってありました。私もそのバイトをしたことがあるんですが、あれ、なかなか勇気がいります。もうドアを開けて出てきた人が怖そうなお兄さんで、怒鳴られたらどうしようか。若かりし時、そういったバイト、もうビクビクしながらしたこともありましたけども、けれども、重荷を主にお委ねする、これ主の仕事だと思いながらしていけば、今はピンポン営業でなくて、通りに出ていって、3分ブリッジ、知らぬ人に声をかけてするんですけども、あれも、この主抜きでは、ちょっともうできないです。
この人に声をかけようとしたら、ああ、ちょっと若い女性だな。ナンパだと思われたらどうしようか。やっぱここ通り過ぎようかって。あ、この人ちょっと強面だな。ヤクザだったらどうしようかとか。
いや、主が、この人に声をかけなさいっていう、その御声、あるいは救うべき魂ですから、この主に、魂を救うのは私の仕事ではなく、主の仕事だと。主に委ねるならば、もう結構簡単に、「こんにちは」って、「ちょっと3分だけよろしいでしょうか」、意外と声かけられるものです。
私たちは仕事、いろんな重荷があります。教会の運営もそうですし、また世の中における仕事もそうです。ビジネス、そうです。子育て、重荷に感じる時あります。親との関わりや、また友人との付き合いも、もう本当に重荷、重荷なことあります。これ全部主に委ねなさい。主はあなたのことを心配してくださるから、と書いてあります。
この教会開拓の時も、河合先生が本当に主からの聖なる重荷を委ねられました。新しい教会を開拓しなさいって。設立資金もない時に与えられて、ああ、重荷だなって。でも設立資金が与えられました、これ。喜ぶどころか、ああ、重荷に感じたんです。
そして教会いざ立てて、そして運営においても、本当に思い煩いのような。もうなんで、神様、あなたは設立資金までくださったのに、いざ立ててみたらなんで早速もう教会が今にも倒れそうな、こんなことになるんですかって。
その時、主の声を聞いたんです。「教会はあなたが運営しているんですか、私が運営しているんですか」って。「いや、あなたが運営しているんです」って。「だったら、あなたの仕事は私に、今これこれの必要があるからと、私に求めることじゃないのか。なんであなたが1から10まで全部この問題を解決しようとするのだ」と。
そういう経験も河合先生もしてきました。本当に今、目の前でやろうとしていること、果たしてこれがうまくいくんだろうか。なんで今、神様が始められた仕事を、もう今すぐにでも風前の灯火のように消え去りそうなんですか。
主に委ねましょう。主に告白しましょう。重荷を主に委ねましょう。アーメン。主が皆さんのことを、もう皆さんが心配する前から、主が心配しておられて、そして主の恵みにあずかることができるんです。
主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらないと、今日の箇所に書いてあります。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。アーメン。
けれども、皆さんが重荷を自分で背負いっぱなしならば、揺るぎっぱなしです。けれども書いてあります。主は、主が心配してくださるから、重荷を主に委ねるなら、主は決して揺るがされるようにはなさらない。アーメン。
主に向かって手放しましょう。主に委ねましょう。主が皆さんを心配してくださり、主が皆さんを背負ってくださり、白髪頭になっても主が背負ってくださり、そして主が平安、安息、主にある成功、勝利、そこへと導かれていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
あなたの重荷を主に委ねなさい。主があなたのことを心配してくださる。心配することは私たちの仕事ではなく、主の仕事である。思い煩いを自分の中でぐるぐる思い巡らすのではなく、ダビデのように、朝も昼も夜も主に向かって祈りとして捧げるとき、主は私たちの声を聞いてくださる。主は天から降りてこられて、私たちの友となり、身代わりとなって十字架にかかってくださった。主に委ねるとき、主が私たちをサポートし、支えてくださり、主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。すべてを主に委ね、主にある平安、安息、勝利へと導かれていこう。
主のいましめを守っていること、これこそ私の永遠の財産(詩篇119:55-56) 早天祈祷会 2026年2月3日(Tue)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2026-2-3 6:50
主のいましめを守っていること、これこそ私の永遠の財産(詩篇119:55-56) 早天祈祷会 2026年2月3日(Tue)
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【概要】
天に宝を積むことの大切さを教えるメッセージ。地上の富ではなく、主との交わりと御言葉を守ることこそが真の財産であることを詩篇119篇から学ぶ。
【聖書箇所】
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詩篇119:55-56
-
マタイ6:19-21
【励ましの言葉】
主の御言葉を守り、夜ごと主の御名を呼び求めて祈ることは、どんな地上の富よりも価値ある宝です。主との交わりを持ち続けるなら、天に決して廃れることのない財産が積み上げられています。
【勧めの言葉】
地上に宝を蓄えるよりも、天に宝を蓄えることを選び取りましょう。日々主と交わり、祈り、御言葉を守る生活こそが、永遠に残る真の財産となります。
【***AIによる文字起こし***】
今日、恵みをいただく御言葉は、詩篇119篇55節と56節です。皆さんで共に宣言したいと思います。
「主よ、私は夜にはあなたの御名を思い出し、またあなたの御教えを守っています。これこそ私のものです。私があなたの戒めを守っているからです。」(詩篇119:55-56)
アーメン、ハレルヤ。愛するイエス様、あなたこそ我が相続財産、あなたこそ私たちの報酬です。イエス様、あなたが共にいますということを私たちは宣言し、そしてあなたが共にいますというからには、すべてのものが私たちにも与えられますことを感謝いたします。
今朝も素晴らしい主の御名を褒め称え、賛美いたします。イエス様は、皆さんにとっての相続財産であるということ、これを始まった瞬間からいただきましたね。皆様、イエス様が伴われているということ、日々皆さんと伴われるイエス様にあって作り変えられているでしょうか。今年に入ってから変わったという人いますでしょうか。
変わりましたね。私の目から見て、確かに皆さん変わりました。主こそ、イエス様こそ皆さんの相続財産ですね。そして、皆さんの相続財産としたからには、イエス様が皆さんと伴われて、日々の歩みを、皆さんを作り変えて、御霊に満たされ、またある人はもう日々御前で祈ることがチャレンジで示されて、それを努力して、本当に日々作り変えられていっております。
今日の御言葉なんですけども、この56節「これこそ私のものです。私があなたの戒めを守っているからです」。これ、原文のニュアンスとしては、私があなたの戒めを守っていること、これこそが私の財産です。私の全財産ですね。それはお財布の中にある小銭全部ということではなく、私の財産、全財産は主の戒めを守っていること、これが私の全財産です。そういうニュアンスがあるんです。
韓国にこの間まで結構長く行ってたんですけども、イ・ヨンチョル先生と会ってきました。3分ブリッジの先生ですね。イ・ヨンチョル先生が言われますには、彼ら教会のある聖徒を目に留まったそうです。
その聖徒はですね、もう本当に今にも破産しそうな、もう本当に貧しい、貧しい、そういう境遇にあったんですね。けれども、彼は本当になけなしの心で主に仕えて、なんとかして主に喜ばれようと、そういう努力をしている方です。で、ある日、その聖徒さんから家庭におもてなしのために呼ばれたということですね。それでその聖徒さんのところに行きました。あらかじめこの御言葉を取り次ごうとメッセージを準備してから、その聖徒さんのところにお家に行ったんですけども、行ってみました。で、まあ、質素な家具があって、そして本当に質素なおもてなし。けれども、本当に心のこもったおもてなしをお食事を用意してくださって、ヨンチョル先生を待っていたんですね。
それでまあ、お食事の前にですね、その用意したメッセージをいざ語ろうとしたんですけども、けれども、彼はその準備しておいたメッセージを語ることを聖霊様からストップされました。で、語れないんですね。「主よ、今、何も準備していない状況になってしまいました。あらかじめ準備していたものが語るなと、あなたの仰せです。私はどうしたらいいんでしょうか」。で、ある御言葉が示された。それが今日のこの詩篇の御言葉ですけども、それでしばらくイ先生が御言葉を語る唇を黙っておりました。その聖徒はちょっと心配げな顔を覗き込んだんですけども、御言葉が示されたイ先生が言われたんですね。
「あなたはすごく富まれた方ですよ。とても富んでいるんですよ、あなたは。」
その聖徒さんはびっくりして、「いえ、私は特に富んでいるというものではないですけれども、なんでですか」と答えたんですね。そしたらイ先生はこの詩篇の119篇55節と56節、これを宣言したんですね。
じゃあ、もう一度皆さんで宣言しましょうか。詩篇の119の55節からです。
「主よ、私は夜にはあなたの御名を思い出し、またあなたの御教えを守っています。これこそ私のものです。私があなたの戒めを守っているからです。」
アーメン。
この聖徒さんは本当に涙、涙を流しました。夜ごと主の御名を思い出し、本当に「主よ、主よ、今の状況をなんとかしてください。主よ、助けてください」。夜ごと主の御名を思い出し、そして主の御教えを必死で守っております。時にはその掴んでる手がもう力が抜けてずり落ちそうになるけど、それでもなお主の御教えを守ろうと掴んでいます。これがあなたの財産だ。誰よりも富んでいる。あなたの財産だ。「これこそ私のものです。私があなたの戒めを守っているからです」。主の戒めを守ること、これこそが何よりの、あなたにとっての持っている素晴らしい宝だっていうんですね。この聖徒さんは本当に涙、涙しました。
私たちは世の中において自慢と思えるもの、あるかもしれません。世の中の人にとっては、私にはこの能力がある、私にはこのスキル、この経験がある、この仕事についている、これでこの財産、この銀行口座の残高、これこそ私の財産だと思うかもしれないんですけども、けれども、皆さん、真理の観点からすればですね、皆さんの財産というものは天に積まれている財産、これが真の財産なんです。
地上の宝、世の中にはお金持ちと言われる人はあまたおりますけれども、しかし、本当に主の御教えを必死で守っている人、本当になんとかして主の御言葉を守りたい、主に喜ばれたい、今助かりたい。それでもう本当に群衆をかき分け、かき分けして、イエス様の御衣にすがって、そういう志を持っている。その主に対する志、これが真の財産だということを今日の御言葉が示しているんです。
冒頭で宣言した箇所は、マタイによる福音書の6章20節と21節なんですけども、19節のところにはイエス様はおっしゃってます。
「自分の宝を地上に蓄えるのはやめなさい。そこは虫とサビで傷物になり、また盗人が穴を開けて盗みます。」(マタイ6:19)
この地上の財産、これはですね、虫が食います。錆びつきますね。そればかりじゃなく、盗人が来て穴を開けて盗んでしまう。どんなにどんなに蓄えて蓄えたとしても、しかし他の人が取っていってしまうということですね。
ソロモンは誰よりもたくさんの宝を蓄えました。金、銀、宝石を至るところから集めたけれども、結局主を求めないで、そうした地上の名声、富、そうした諸々を追求した結果、彼の人生の最後は虚しい虚しいものになってしまいました。地上において宝がある。その宝はやがて傷物になり、虫と錆でダメになってしまい、また盗人がその盗んで生きいってしまいます。
ソロモンの財産を受け継いだのは彼の息子、レハブアムというものでしたけども、アモン人の息子でした。主を知らなかったんです。彼はですね、ソロモンが蓄えた財産をたった5年で散財してしまいました。彼が王様になってから5年後にエジプトが攻めてきて、その宝を全部奪っていってしまったんです。一体、親が蓄えた宝、どこに行ったか。道楽息子に渡った、神様を知らない息子、そしてその道楽息子が散財してしまった。地上で宝を蓄える、神様よりも地上の富、宝を追求するような人は結局虚しいんです。
だからイエス様は「地上に宝を蓄えるよりも、むしろ自分の宝は天に蓄えなさい。そこでは虫もサビもつかず、盗人が穴を開けて盗むこともありません」(マタイ6:20)。
アーメン。
かの聖徒さん、本当に主の御言葉を必死で守ろう、必死で主に夜ごと御名を呼び求めて「主よ助けてください、主よ助けてください」と主と交わりを持って、主にのみ頼みとする。それが彼の決して廃れない宝だったんですけれども、皆さんはどれほど天上に宝を蓄えているでしょう。日ごと祈っているでしょうか。日ごと主と交わっているでしょうか。皆さんの日ごとの主との交わり、日々の主に対する祈り、それが皆さんの宝です。どれほどその宝のバロメーターが上がってるでしょう。
昔通ってた子供の時の教会学校はですね、教会に行くとそのシールをもらえて、で、それでこの表が貼ってあって、来た日をシールを積み立てていくんですね。で、それでこれがあなたがどれほど神様と交わりを持ったか、そのそれが一目でわかる表だよっていうふうに先生に言われて。で、それで本当にシールをもらうのを楽しみにして貼る都度、また自分がそのグラフの山が高いほど、まあ誇りに思ったものですけども、皆さん、祈れば祈るほどに、主と交われば交わるほどに、神様からそのご褒美のシールをいただいて、そしてその宝は決して奪われることも、虫が、サビがつくこともない、皆さんにとっての廃れない宝です。
イエス様が言われたのは、「あなたの宝のあるところにあなたの心もあるからです」(マタイ6:21)というふうに言いました。皆さんの宝は一体どこにあるでしょうか。皆さんの心は一体どこに置かれているでしょうか。銀行口座でしょうか。あの株券でしょうか。皆さんの宝はイエス様においてください。イエス様が皆さんの相続財産です。イエス様こそ、皆さんの受けるべき報酬、報い、イエス様こそ、皆さんにとってのお給料としてください。するならば、その日々が本当に天上においてあのシールのように本当に積み上げられていて、天国に入った時に、本当に神様から喜ばれ、ご褒美を受けて、そしてその地上で蓄えた宝に従って、皆さんがボーナスの報いを受けるんですね。
地上においてイエス様を信じること、これは天国に入るための切符ですけれども、信じれば救われたんだから、それでいいやだと、天国で財産が積み上がってないんですね。行いです、行いが。皆さんの信仰による行い、皆さんのイエス様との交わり、これが宝となって天上に積み上がっていく。そしてそれは決して永遠に廃れることはないものです。
皆さんの永遠の住まいを、本当にあらゆる素晴らしい飾りで飾りつけたいでしょうか。天上において質素な家、また本当に地上で多くの行いを積み上げてきた宝でいっぱい満ちた家、皆さん、どちらに住まいたいでしょう。永遠に。どうせだったら宝、多くの宝を天国に蓄えていきましょう。皆さんは本当にこの地上において、イエス様とよく交わり親しみ、そして本当にこの真の宝を天に積み上げる。そして本当に主から「誰よりもあなたが富んでる」そんなに言われる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福いたします。
【結論】
真の財産とは、地上の富や名声ではなく、主との日々の交わりと御言葉を守ることです。夜ごと主の御名を呼び求め、御教えを必死で守る生活こそが、天に積まれる決して廃れることのない宝となります。イエス様を私たちの相続財産とし、日々祈り、主と交わることで、天に永遠の財産を積み上げていく歩みをしていきましょう。地上の宝は虫とサビで傷物になり、盗人に奪われますが、天の宝は永遠に残ります。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです。
平安であれ!それが主があなたに望んでおられる事(ヨハネ16:33) 早天祈祷会 2026年2月2日(Mon)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信
- 執筆 :
- pastor 2026-2-2 7:00
平安であれ!それが主があなたに望んでおられる事(ヨハネ16:33) 早天祈祷会 2026年2月2日(Mon)
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【概要】
イエス様が弟子たちに与えた平安(シャローム)について、ヨハネの福音書を通して学びます。世には艱難があるが、イエス様がすでに世に勝利されたので、私たちは勇敢でいることができ、その平安のうちに世へ遣わされていくのです。
【聖書箇所】
-
ヨハネ16:33
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ヨハネ14:27
-
ヨハネ20:19-23
【励ましの言葉】
イエス様を信じた時、すでにイエス様が私たちのうちにいます。イエス様にとどまり続ける限り、決してこの平安は奪われることはありません。世のどんなものも、この平安を揺るがすことはできないのです。
【勧めの言葉】
聖霊を受けた上で世に遣わされていくべきです。イエス様の平安シャロームのうちに世に出て行く時、私たちは魂を獲得することができます。イエス様を住まわせ、主の働きをしていきましょう。
【***AIによる文字起こし***】
今朝、恵みをいただく御言葉は、ヨハネによる福音書16章33節です。皆さんで一斉に宣言したいと思います。
ヨハネ16:33
「私がこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたが私にあって平安を持つためです。あなた方は世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです。」
シャローム、シャローム。これがイエス様が皆さんに与えたいものなんですね。皆さんが平安シャロームであることを主は求めておられるんです。シャローム、それは完全な状態であるということですね。ユダヤ人の挨拶言葉になっております。
なぜユダヤ人はこれが挨拶言葉になっていたか。これはユダヤ人はずっとずっと迫害の歴史をしてきたからですね。本当に多くの人々から迫害されてきました。その中において、本当にいつ命が取られるかわからないような、そういう状況の中において、今日もまたあなたは無事ですかね。あなたは特に健康や、また体が損なわれていないですかね。それがこの挨拶言葉になったんですね。
イエス様が皆さんに求めておられること、これがこの平安シャロームだということを、今日の箇所を見ることができるんです。イエス様は「私がこれらのことをあなた方に話したのは」とおっしゃいます。これは最後の晩餐の場面です。もう弟子たちとイエス様、三年半ずっと一緒に暮らしてきました。寝食共にし、そして養いをイエス様から直接受けてきました。時にはイエス様から叱責もいただきましたね。なんて信仰が弱いものよ、小さいものだと。
そしていよいよイエス様のその十字架の前の晩、ヨハネの福音書において結構長いメッセージを、イエス様はその前の晩、弟子たちに対してしておられます。そしてイエス様がその最後の晩餐の中において繰り返し語られた言葉が、そのキーワードがシャローム、平安なんですね。
私がこれらのことをあなた方に話したのは、イエス様は御言葉を皆さんに語っておられます。皆さんも今までの人生、多くのイエス様からの言葉をいただいてきたことでしょう。それでもこの時、弟子たちは不安があったんですね。イエス様と三年半もずっと一緒、ずっとイエス様のお言葉を耳に聞いてきたけれども、それでも不安になるということがあります。
皆さんもクリスチャン生活何年してきたか。教会に何年帰ってきたか、皆さんそれぞれですね。けれども、なお日ごと不安がのしかかる、そういった材料が世の中にたくさんあるんです。でもイエス様はおっしゃいます。私がこれらのことをあなた方に話したのは、聖書の言葉、皆さんがずっとずっと読み続け、また多くの養いを受け続けてきたのは、それはあなた方が私にあって、イエス様にあって平安を持つためですね。
皆さんに平安になってほしいから、御言葉が皆さんに示されました。聖書というものが世の中に存在するのは、皆さんが平安を持つためであり、そして皆さんがイエス様を知り、イエス様へと帰り、そしてやがては天国において完全なものになる。それを主が皆さんに願っておられるから。だから神の御言葉、聖書は皆さんに平安シャロームを与えるものです。
イエス様が続けるのは、あなた方は世にあっては艱難があります。ですから、皆さんの世の中において艱難がもう一切なくなるための福音ではないんですね。世の中には相変わらず艱難があります。皆さん、世に出ていかなくてはなりません。働かなくてはなりませんし、そして世に出て行ってイエス様を知らない人々に、このイエス様の平安を伝えていかなくてはなりません。
だから、まず皆さん自身がイエス様にあって平安を保ちなさいということがここで示されております。あなた方は世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。
勇敢であるためには根拠が必要ですね。皆さんが何か力強く武装しているのであるならば、剣を持っているのであるならば勇敢になれるかというと、クリスチャンとしてはそうではないですね。皆さんにとっての、その勇敢である根拠。それはイエス様がここに書いておっしゃっています。最後のところで、私はすでに世に勝ったのです。
皆さんのうちにいますお方が、もうすでに世に勝った。皆さんのうちにもうすでに世に勝ったお方がいるのだから、だから勇敢でありなさいということです。
昨日、メッセージにおいて、迫害の下にあるクリスチャンたちのお話をしましたね。彼ら、コロシアムの中に引きずり出されていた彼ら、不安があったことでしょう。けれども、イエスキリストがうちにいますということに目覚めたクリスチャンたちは心が安らかであり、そして目の前にライオンがいたとしても、もうこれからこのライオンによって殺されるとしても、しかし彼らは賛美をしておりました。歴史書に書いてあるんですね。
『クオ・ヴァディス・ドミニ』という映画があるんですけども、最初に作られたものと、それをカバーした、より長い長編の映画があるんです。おすすめするのは初めに作られた方の方ですね。そちらの方がよりこのイエス様が身近に感じられる、そういう映画です。
私たちの平安の元は、なんか偉大なアクションで、力ずくで平安を勝ち取るものではなく、皆さんのうちにいます、イエス様、すでに世に勝利したイエス様。死も命も御使いも、今あるものも、後に来るものも、この世のどんなものも、高さも深さも、この世のどんな被造物も、これ決して及ぶことがないイエス様。イエス様が皆さんのうちにいます。イエス様を信じた時、もうすでにイエス様が皆さんのうちにいまして、そして決して皆さんを揺るがすことがないんです。
この『クオ・ヴァディス』という映画の中において、聖徒たちがそのコロシアムの中に引きずり出されます。群衆たち、その周りの観客席で見ている安全な立場に高みの見物して、それで人がライオンに食い殺されるというのをエンターテインメントとして見ている。そういう群衆の歓声の中で、クリスチャンがグラウンドに投げ出されております。みんな震えております。怖がっております。
でもそこに使徒ペテロが来るんですね。使徒ペテロが、周りのクリスチャンたちから、もうどうぞローマから離れてください。あなたは一番狙われていますからということで、ペテロはローマから離れていっていく。その道すがら、ペテロはイエス様に出会うんですね。ペテロはローマから離れる方向の道を進んでいきます。でも、その向こうの方から人が近づいてきて、ローマの方に行くんです。その人をよく見ると、ペテロがよく見ると、それはなんとイエス様でした。
イエス様、あなたは主よ、あなたはどこに行かれるのですか。主よ、あなたはどこに行かれるのですか。これのラテン語が「クオ・ヴァディス・ドミニ」ですね。主よ、あなたはどこに行かれるんですか。イエス様が答えます。ローマにおいて私の聖徒たちが苦しんでいる。だから私が行くのだ。そしてもう一度十字架にかかって苦しみを受ける。そういうことを幻の中でイエス様が語られたということで、それでペテロがハッとして。ああ、私は逃げている場合ではない。ローマに行かなくてはと。
そしてローマに戻って、そしてそのローマのそのコロシアムの中において、本当にこれから処刑されようとしている、本当に観衆のその嘲笑いの中で怖がっている聖徒たち、彼らに対して観客席の方に立って、ペテロの声が響くんです。そしたら観客席のみんなは、ペテロを見て、ペテロのその話を聞いて、心安らかになって、みんな賛美を始めるんですね。そういう場面がありました。ペテロ、その時、捕まえられて、そして結局、逆さ十字架の刑に処されてしまうんですけども、このように、心の中にイエス様が思い浮かばされた時、たとえどんな嘲笑いの群衆の中にあったとしても、たとえ目の前にライオンがいたとしても、どんな艱難の中にあったとしても、心安らかで、そしてイエス様がいらっしゃる天国、安息の地に行くんですね。
その当時のローマ皇帝はネロという皇帝でしたけども、その皇帝ネロが、このクリスチャンたちの有様を見て、またクリスチャンたちがライオンに殺された死体、その一人一人の顔を見て、クリスチャンたちが笑いながら、笑顔で死んでいるその様をネロが見て、むしろもう震えおののいている。ネロは確かに権力が、権威がありますけれども、しかし、どんな権威を持ったとしても、どんなお金持ちになったとしても、決して得られない平安というものがあります。真の平安は、このイエスキリスト、このお方から来るんです。
冒頭で宣言したのはヨハネの14章27節なんです。同じヨハネの福音書ですので、皆さん開きたいと思います。ヨハネ14章27節では、みんなで一緒に宣言します。
ヨハネ14:27
「私はあなた方に平安を残します。私はあなた方に私の平安を与えます。私があなた方に与えるのは、世が与えるのとは違います。あなた方は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」
人生のどんな時においても、決して変わらない平安。この節でイエス様が2回も繰り返しますね。あなた方に平安を残します、あなた方に私の平安を与えますと。
イエス様が与えてくださる平安、それは世が与える平安とは違います。人がどんなにお金を得ても、またどんなに権力を得ても、皇帝ネロのような立ち位置になったとしても得られない平安をクリスチャンたちは持っているんです。だから世は恐れるんです。そして世の権力は、このイエス様の平安にチャレンジするんですね。挑戦して、なんとかしてクリスチャンから平安を取り除いてやろうと言って。それでもう、あらゆる妨害をしてくるんですけど、しかし、イエス様にとどまり続ける限りでは、決してこの平安は奪うことができないんです。
あの殉教の聖徒たちのように、また今この時代の皆さんにおいてもそうです。皆さんがイエス様に向くのであるならば、決してその平安は奪われることはないんです。悪魔サタンは皆さんを脅してきます。世は皆さんを脅してきます。皆さんからなんとかして、その平安を覗き去ってやりたいと妬んで歯ぎしりして、世がいろんな妨害、あるいは悪霊、悪魔サタンが皆さんの心の中に囁きかけて、なんとかしてかき乱そう、イエス様から引き離そうとしてくる時、皆さんは、それに対して皆さんの力技では対抗できません。
イエス様にとどまり続けること。何かを、皆さんが力を持って征服するものではない。皆さんの内にいます、もうすでに世に勝ったお方、イエス様にとどまり続けること。これが平安がかき乱されないというコツです。
もう一箇所、ヨハネの福音書20章を今度は開いてください。ヨハネの20章の19節、20章の19節を皆さんと一緒に宣言したいと思います。では、ヨハネの20章の19節。
ヨハネ20:19
「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸が閉めてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。平安があなた方にあるように。」
イエス様は十字架の後も真っ先に弟子たちに言った言葉が、平安があなた方にあるようにでしたね。イエス様は十字架の前も、十字架の後も平安があなた方にあるようにということを繰り返し強調されておられます。
平安の根拠は20節に書いてあるんです。20節も皆さんで一緒に宣言しましょう。
ヨハネ20:20
「こう言って、イエスはその手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」
平安の根拠、それはイエス様の十字架の釘跡です。イエス様が十字架で皆さんの身代わりになって、罪を処罰してくださった。皆さんの身代わりになって、罰を受けてくださった。そして復活してくださったその十字架の釘跡。これが皆さんにとっての平安の根拠です。弟子たちは主を見て喜んだと書いてあります。確かにイエス様は十字架にかかったんだ。あの3日前の出来事は夢幻ではなかった。
多くの無神論者たちは、イエス様という人物がいたかもしれないけれども、十字架で死んだんだとか、あるいは実は十字架、誰か別のものが身代わりになって、そしてイエス様が復活したかのように見せてるんだとか、そういった人間のなんか小賢しい理解、落とし込めるようなね、そういう聖書とは違うことが実はあったんだって言ってくるんですけども、こういった小賢しい、そういった議論に皆さんはかき乱されてはなりません。
聖書の御言葉が真実であり、イエス様が真実であり、そしてイエス様が皆さんの内にいます時に、世のものならぬ平安で満たされる。だから歴史を見ますに、本当にクリスチャン、日本でも殉教者、たくさん出てきましたけれども、本当に日本の迫害厳しかったです。本当にねちっこかったですね。簀巻きにして海に投げたりとか、また、もう逆さ釣りにして、ずっと水の滴りを受けさせるとか。九州の、あの熱い熱い温泉、あの、まあ地獄谷というところ、行ったことあるんですけども、本当にもう硫黄の匂いがして、煙が吹き上げて、その地獄のような熱湯をクリスチャンにかけてかけて。そしてね、さあ、もうキリストを呪え、キリストを捨てろ。そしたらこういうこともしなくなって済むぞって、それでも決してキリストを捨てなかった、そういう人たち、なんででしょうね。
イエス様は生きておられるんです。皆さんの内にイエス様がいますならば、世のものならぬ平安に満たされて、たとえ艱難があるとしても、それでもこの平安の源であられるイエス様を捨てるなんて、もうとんでもない。そんなことできないというふうになってしまうんですね。皆さん、イエス様を住まわせてください。艱難が皆さんに襲いかかる時、イエス様を招き入れてください。そうするならば、世の何物にもまさる平安が皆さんにとどまるでしょう。そして皆さんのうちに平安がとどまるのであるならば、皆さん、働きに出て行くべきです。
21節から23節までをみんなで一緒に宣言します。
ヨハネ20:21-23
「イエスはもう一度彼らに言われた。平安があなた方にあるように。父が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わします。そしてこう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい。あなた方が誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。あなた方が誰かの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
イエス様は繰り返し言われました。もう一度言われました。平安があなた方にあるように。そしてイエス様が託したのは働きです。世に遣わすということです。父が私を遣わしたように、私もあなたがたを遣わします。ただ単に遣わすんじゃないんです。イエス様は息を吹きかけた上で遣わすんです。聖霊を受けなさいと言って、イエス様の息、聖霊の息吹き。これを受けて遣わされていく。
だからペテロはあのローマの聖徒たちを励ましに、彼らに平安を持っていくために、ペテロはローマに行くことができました。皆さんも聖霊を受けた上で世に遣わされていくべきです。聖霊抜きで伝道に行っても虚しい目に遭うだけです。イエス様の聖霊を身に帯びて、イエス様の平安シャロームのうちに世に出て行く時、皆さんは獲得することができるんです。魂を、命を。
今、私たちもこの世の中に遣わされていく時間がやってきます。その中において皆さん、イエス様を住まわせてください。イエス様の平安に満たされ、聖霊の息吹を受けて、そして主の働きをしていきましょう。それならば、世の何者にも勝る平安のうちに、イエス様と共に働き、イエス様と共に勝利し、イエス様と共に勝ち得て余りある祝福を得ていくことができます。イエス様にあって歩んでいく時に、この幸いにあずかることができます。
【結論】
イエス様が私たちに与えてくださる平安シャロームは、世が与えるものとは全く違います。それは、イエス様がすでに世に勝利されたという事実に基づく、決して揺るがされることのない完全な平安です。十字架の釘跡がその根拠であり、イエス様が私たちの内にいてくださることが、どんな艱難の中にあっても勇敢でいられる理由です。この平安を受けた私たちは、聖霊の息吹を受けて世に遣わされ、イエス様と共に働き、勝利する者とされるのです。
イエス様が十字架にかかり、復活し、天に昇られた後、弟子たちは世界に出て行って福音を伝えました。
しかし、すぐに迫害の時代が始まります。実は初代のキリスト者たちのシンボルは、十字架ではありませんでした。 何だったでしょうか?それが、丸の中に、交差する二つの文字、「Χ(キー)」と「Ρ(ロー)」です。
それはギリシャ語で「キリスト」と書くときの最初の二文字で、この印は「キー・ロー」と呼ばれております。
なぜ十字架ではなく、この印だったのでしょうか? それは、この印が、命がけの信仰告白だったからです。
今から1700年以上前、ローマ帝国の時代。イエス・キリストを信じるということは、捕まり、
殺されることを意味していました。信仰が知られれば、コロシアムに連れて行かれ、
大勢の人の前で見世物にされ、ライオンに食い殺されたり、火で焼かれたり、十字架につけられたりしました。 ですから彼らは、太陽の下で、公に礼拝することができませんでした。
彼らが集まったのは、カタコンベと呼ばれる地下の墓所です。暗く湿っていて、死者が葬られている場所。
なぜ、そこが礼拝の場所だったと分かるのでしょうか。それは、カタコンベの遺跡から、たくさんのこの印が発掘されているからです。 2世紀の私達の信仰の先祖たちは、この印によって、密かに「私はキリストのものです」と、互いに告白しました。 そしてその印の下で、小さな声で祈り、小さな声で賛美しました。
そこでは、いつも悲しい知らせがあります。 「仲間が捕まった」「家族が連れて行かれた」
そのたびに彼らは祈ります。「どうか、助けてください」「もし助からなくても、どうか、平安を与えてください」
すると、不思議なことが起こりました。コロシアムで殺されていく人々は、恐怖ではなく、平安に満ちていたのです。まるでこれから天国に行くかのように。まるで、目の前にイエス様がおられるかのように。。。
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。
わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)
歴史は語っています。その様子を見たローマ皇帝たちは、ますます恐れ、迫害をさらに激しくしました。
しかし同時に、それを見て、かえってイエス・キリストを信じる人々も起こされていったのです。
闇は、光を、消そうとしました。でも、決してキリストという光を、消せませんでした!
一世代、また一世代。長い長い年月が過ぎて行き、祈りは、地の底から、天へと積み上げられていきます。
そして、ついに、神様が動かれる時が来ました。
西暦312年。ローマ北方、ミルウィウス橋の戦いです。将軍コンスタンティヌスは、圧倒的に不利な状況でした。自軍は約4万、敵は約10万です。 そんな戦いの直前、彼は、空に輝く光を見ました。その光はなんと、この、キー・ローの印でした。そして、こう示されたのです。「この印によって勝て!」 それで彼は兵士たちに命じます。「兵士たちよ、自分の盾に、この印を刻め!」
それまで、地下の暗闇の中、ずっと信仰者たちが隠れて信仰を表明続けていたあの印が、なんと、太陽の下、無数の兵士たちの盾に刻まれ、掲げられたのです!
戦いの結果は、歴史が伝えています。数で勝っていた敵は混乱し、皇帝は川に落ちて命を落としました。この勝利の翌年、313年。 コンスタンティヌスは、「ミラノ勅令」を出します。すなわち、キリスト教を禁じていた法律は取り消され、信仰は公に認められたのでした!
地下のカタコンベの暗闇から、地上の光の中へ。聖書のことばが、歴史の中で現実となったのです。
「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった!」 こうして、地上に出た信仰の先祖たちは、ようやく、誰にもはばかることなく、喜び勇んで大声で賛美し、大声で祈ることができるようになったのでした。
私たちの人生にも、暗闇のような時があります。迫害の時もあります。でも、忘れないでください。
光であられるイエス様は今も生きておられ、闇は決して長くは続かず、必ず光が勝利する、という事を
この主に信頼し続け、必ず与えられる勝利を、すぐにでも実際に体験する皆さまでありますように。
イエス様のお名前によって祝福します!
