メッセージ - 20260216のエントリ
五千人を養う奇跡 - 深い憐れみで養われる真の王(マタイ14:13-21) 早天祈祷会 2026年2月16日(Mon)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2026-2-16 6:30
五千人を養う奇跡 - 深い憐れみで養われる真の王(マタイ14:13-21) 早天祈祷会 2026年2月16日(Mon)
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【概要】
ヘロデをはじめ「世の王」は、己の欲望のために聖なる者を殺す。 しかし真の王イエスは、深い憐れみ「スプランキニゾマイ(はらわたがちぎれる思い)」をもって、憐れまれる主。 イエス様が祝福された五つのパンと二匹の魚で、五千人以上の群衆はみな満腹し、 弟子たちの数だけの籠いっぱいの恵みが残された。 果たして現代の私たちは、自分の不足を計算して諦めるのか? それとも真の王に、憐れみの主に全ての問題を持っていって、彼の全能の力を引き出すのか?
【聖書箇所】
マタイ14:13-21
創世記22章(アブラハムとイサクの物語)
【慰めの言葉】
イエス様は今も生きて働かれる主であり、私たちの状況を見て深く深く憐れまれるお方です。はらわたがちぎれるほどの憐れみをもって、私たちを助けたいと願っておられます。
【励ましの言葉】
不足しているから諦めるのは世の中の方法です。不足しているならそれをイエス様のところに持っていく、これが信仰者の方法です。イエス様はわずかなものでも祝福して、多くの人々を富ませることができるお方です。私たちが世の人とイエス様との橋渡し役となり、とりなしの祈りをし、イエス様を伝えるならば、主はその人に働くことができるようになります。
【勧めの言葉】
真の王イエス・キリストを選び、自分を十字架につけてイエス様についていくならば、イエス様がすべての必要を満たし、罪を清め、赦し、永遠の命へと導いてくださいます。自分が持っているものがわずかでも、たくさんあっても、それをイエス様のところに持っていき、「これを用いてください」「この私を用いてください」と主に自分自身を手放すなら、主が祝福して与えてくださいます。
【AIによる文字起こし】
今朝、恵みをいただく御言葉は、マタイによる福音書14章13節から21節です。最初に20節を一緒に宣言しましょう。
「人々は皆、食べて満腹した。そしてパン切れの余りを取り集めると、12の籠にいっぱいあった」(マタイ14:20)
アーメン。ハレルヤ。イエス様はあの時代、この奇跡を行われました。今この時代においても、そのイエス様が確かに私たちの主であり、この奇跡を私たちを通して行いたいと願っておられる主であることを感謝いたします。
素晴らしい主の御名を褒め称え賛美いたします。主は今も生きて働かれるお方です。仏像は物で生きていないのですけれども、皆さんの神様、主は生きて働かれる主であることを感謝いたします。
その主は私たちと深く関わり、私たちを愛しておられ、私たちの日常において、皆さんと交わりたい、共にコミュニケーションをしたいと願っておられる主です。その主は皆さんを助けるお方、救い主と言われる救うお方なんです。私たちには救われなくてはならない諸々があります。パンが不足している、お金がない、病気である。イエス様は福音書の中において、それを全部解決してくださった方です。悪霊を追い出し、また本当にいろいろな病を、患いを癒し、罪を赦される。そして極めつけは、十字架の死によって、私たちの身代わりとなって、私たちの罪を処罰してくださり、そしてイエス様の永遠の命と引き換えに、私たちの命の身代わりとなって、私たちに命を与えてくださり、永遠の命を与えてくださり、そしてイエス様は死んでくださいました。身代わりになって、そして復活してくださいました。このイエス様が皆さんの主、皆さんの神です。
今日の箇所は、五千人にパンを与えてくださった奇跡です。この出来事、マタイの14章に配置されておりまして、この五千人のこの奇跡の直前に何があったかというと、バプテスマのヨハネの処刑がありました。ヘロデ王によるそのヨハネを処刑する場面からなんですけれども、ここには、世の中の王と真の王の対比がもう明らかに示されております。
このヘロデという世の中の王というものは、自分の気に食わないことがあると、自分に何か聖なることを言ってくるものを殺す。世の中の王というものは、自分の好き放題をやるのが世の中の王です。対して真の王イエス様は、この皆さんを救うため、自分を殺すのです。自分の死をもって皆さんを生かす王です。世の中の王は殺しにかかります。自分の保身のため、自分の命を永らえさせるため、自分の気に食う気に食わないによって人を殺す。けれども、イエス様は人を生かす王です。
このヘロデの祝宴の中において、一人の娘がダンスをして、それでそれをヘロデは気に入ったので、お前の好きなものをあげようと、国の半分でもやれるのだからと言いました。そこでその娘は母親と相談して、じゃあバプテスマのヨハネの首をくださいと言いました。それで結局、宴会の余興となって、バプテスマのヨハネの首ははねられてしまったんです。イエス様が、女から生まれた者の中で最も偉大だと言われていたバプテスマのヨハネが、真理を語ったがゆえに、このようにして宴会の余興になって殺されてしまいました。
本当に世の中の王というものは、このように自分の好むことであるならば、もう聖なるものを殺すということをするんですけれども、しかし、真の聖なる王は、私たちに命を与えてくださり、また憐れんでくださり、そして私たちにすべて必要なものをイエス様は惜しみなく与えてくださるお方なんです。
真の王とするのは、どちらにするか。世の中の王にするか、それとも真のイエス・キリストというお方を王とするか、これが皆さんに問われております。私たち自身が王になりたいとするならば、結局、聖なるものを殺す羽目になってしまうんです。私たちは自分を十字架につけて、そしてイエス様についていく。するならば、イエス様が真の王として皆さんのすべての必要を満たしてくださり、皆さんの罪を清め、赦し、永遠の命へと導いてくださるんです。これが真の王なんです。だから人々は、イエス様についていくことができるんです。
このマタイの箇所においては、イエス様、寂しいところに行かれるんです。13節にこうあります。
「イエスはこれを聞くと、船でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた」(マタイ14:13前半)
イエス様は寂しいところに行かれました。そうすると人々がついてくるんです。イエス様こそ真の王だとしている人々が、群衆が、
「それと聞いて、町々から歩いてイエスの後を追った」(マタイ14:13後半)
と書いてあります。群衆が、このイエス様が船で向こう岸の方に渡っていかれたということを聞くと、このイエス様を本当に真の王としたい、もうヘロデという王は嫌だ、真の王イエス様だと、荒野であろうが徒歩でガリラヤ湖をぐるっと徒歩で回って、町々から歩いてイエス様の後を追って追いかけていくんです。真の王、憐れみの王イエス様だから、人々はついていくんです。しかも病気の人たちもその中にいるんです。
14節にこうあります。
「イエスは船から上がられると、多くの群衆を見、彼らを深く憐れんで、彼らの病人をいやされた」(マタイ14:14)
深く憐れむ、憐れまれるお方です。イエス様は憐れみの王です。この憐れみ、ギリシャ語でスプランキニゾマイと、はらわたがちぎれるほどの憐れみです。深い深いうめきを伴った憐れみ。この人を見ると、もう腹がキューッとなって、ああ、なんとかしてあげたい、助けてあげたい、そのような深い憐れみがこのスプランキニゾマイであり、イエス様、この多くの群衆を見たところ、本当に彼らは羊飼いのいない羊のようだと、はらわたがちぎれる思いで、深く深く憐れんで、それで彼らの病気を癒されたというふうに書いてあります。
イエス様はスプランキニゾマイの主として、今現代も生きて働かれるお方です。イエス様は皆さんの状況を見て、深く深く憐れまれるお方です。皆さんが、あの人を救われてほしいな、あの人、病気が癒されてほしいな、そういうふうに思って、皆さんが主に祈ると、主は皆さんよりも深い憐れみ、皆さんがはらわたがちぎれるほどの思いで祈ることがあったでしょうか、あるでしょうね。けれどもイエス様は、常々人を見るたびに深く憐れんで、はらわたがちぎれるほどの思いで、その人のために何とかしてあげたいと願われる主です。
皆さん、ぜひその世の人とイエス様との橋渡し役に皆さんがなってください。皆さんがとりなし祈り、またその人にイエス様を伝えるのであるならば、皆さんが橋渡し役となって、イエス様はその人に働くことができるようになるからです。この主は今も生きて働かれるお方、スプランキニゾマイの志を持って人を憐れまれる主です。
そのようにしてイエス様がこの群衆に向かっていろいろと教えておられましたところ、だんだん時間が経っていくんです。15節では、
「夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。ここは寂しいところですし、時刻ももう回っています。ですから、群衆を解散させてください。そして村に行って、めいめいで食物を買うようにさせてください」(マタイ14:15)
弟子たちは計算します。もうそろそろ解散させた方がいいと。もうここは寂しいところ、荒野です。寂しいところですし、時刻ももう回っています。彼らは、この状況、これはまずい状況になってきたと思うんです。荒野ですし、大勢の群衆がおります。そして彼らは徐々にお腹が空き始めてしまいます。このままだと行き倒れが出てしまいかねません。この荒野、人があまりいないところ、寂しいところに大勢の群衆がいきなり来るとどういうふうになるのか。
たとえば鈴鹿サーキット、年に一度、イベントで世界中から人々が集まって、そのイベントの日はもう何万もの群衆がそこに集うんです。そうすると鈴鹿のその地方、コンビニとかお店とかが普段あまりないんです。普段は人口が少ない、そういう田舎というか、そういうところなんです。そこに一度に大勢の群衆が集まると、その日だけ物が不足するんです。レストランもまた、コンビニももう本当に品切れ状態になってしまうんです。
本当にそういう状況、荒野というような辺鄙なところに一気に人が集まったら危険な状態になるんです。弟子たちはそれを計算しました。もうここは寂しいところですし、もう時刻も回っていますから、群衆を解散させてください。それで彼らはお腹が空いてます。めいめいが村に行って、めいめいで食物を買うようにさせてくださいと言うんです。
人間の計算、それは不足を計算します。どのくらいになったら不足をきたすのか。これはまあ、会社や、また私たちの日常、計算するので、買い物にあらかじめ行ったり、またあらかじめ準備をしたりするものです。そして計算をしてみて、不足しているというふうに弾き出したら、諦めたり、あるいはそちらの方面はしないとか、そういったことをするんですけども。
しかし、主の計算は人間の計算と全く違うんです。主のイエス様はこの人間の不足を超越するんです。イエス様はおっしゃいます。あなたが不足している、じゃあ、その不足を私のところに持ってきなさいというふうにイエス様はおっしゃるんです。
イエス様は、この後16節から言いますと、
「しかしイエスは言われた。彼らが出かけていく必要はありません。あなた方であの人たちに何か食べるものをあげなさい」(マタイ14:16)
って言うんです。イエス様の無茶ぶりがここに出ました。
皆さん、目の前に五千人の子供たちがおります。子供たちだんだんお腹を空かせます。皆さんが「どうかこの子供たちをめいめい親のところに返してください」って、彼らはお腹が空き始めましたから、そこでイエス様が、あなた方働き人たち、あなた方が出て行って、あの子供たちに何か食べ物をあげなさい。無茶ぶりされたら、どうするでしょうね。無茶です。イエス様、ちょっとないんですよね。こんな五千人もの子供たちに私が料理するんですかって。まあ、現実的なところではそういうふうに言うかもしれないですけど、皆さん、イエス様が無茶ぶりをする時は、イエス様なりの理由があるんです。
イエスはもうあらかじめ備えが、ご自身で何をしようか、もうイエス様の心の中であるから、だから、そういった無茶ぶりをする。イエス様はどこからというふうに聞いたんです。いくらとは聞けませんでした。どこからこの備えが来るのか。皆さん、必要な備えはどこから来るでしょうか。イエス様です。アーメン。イエス様から来るんです。イエス様は、彼らが出かけていく必要はありません。あなた方であの人たちに何か食べるものをあげなさいと言われました。
じゃあ、この弟子たち、どのくらい持ってるんでしょうかね。17節見ますと、
「しかし、弟子たちはイエスに言った。ここにはパンが五つと魚が二匹より他はありません」(マタイ14:17前半)
と、弟子たちは言います。
「するとイエスは言われた。それをここに持ってきなさい」(マタイ14:17後半)
アーメン。
この弟子たちが持っているもの、それはパンが五つと魚が二匹です。あなたたちで彼らに食べさせてあげなさいというからには、この弟子たちが持っているこのわずかなものをもって、この彼らを食べさせてあげることはできるんだっていうんです。
弟子たちとしては、一体どうしてこんなわずかな食料で、こんな五千人以上って思うかもしれないですが、しかしイエス様はその持ってるわずかなものを持って、この五千人を養うことができるんだっていうんです。
皆さんのお財布の中、いくらあるでしょうかね。まあ、わずかしかなかったとしても、イエス様はそのわずかを用いて、大勢の子供たちを養うことができるようにしてくださるお方です。イエス様にはそれができます。アーメン。だから私たちは、今不足してますとか心配したり思い悩んだり、あるいはイエス様抜きで何か無茶ぶりして心配そうな顔して、懸念顔してする必要はなく、ただ不足をイエス様に持っていけばいいんです。
皆さん、不足しているから諦める。これ、世の中の方法です。しかし、主の計算は不足であるならば、その不足を私のところに持ってきなさいって言うんです。あなたの財布で五千円を食べさせなさい。皆さんが無茶ですよって言うんじゃなくて、じゃあイエス様、あなたにおできになるんですねって言って、財布をイエス様に渡す。それが皆さんのするべきところ。不足しているなら諦める。これは人間の方法。不足しているならそれをイエス様に持っていく。これが皆さん信仰者の方法です。
イエス様のところに、この五つのパンと二匹の魚が持っていかれました。するならば、イエス様はどうするか。19節を宣言します。
「そしてイエスは群衆に命じて草の上に座らせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げてそれらを祝福し、パンを裂いて、それを弟子たちに与えたので、弟子たちは群衆に配った」(マタイ14:19)
アーメン。
イエス様はまずそれを受け取りました。天を見上げました。それを祝福されました。そしてそのパンを裂いて裂いて、弟子たちに与え始められました。本当に、これ、イエス様の方法です。イエス様はパンを裂かれます。最後の晩餐においても、イエス様はパンを裂かれて、弟子たちに渡されました。これは私の体です。私を覚えてこれを行いなさいと言われました。私たちの本当にイエス様の裂かれた体、これをいただいて、その裂かれたものをまた裂いて、また隣に渡して、人に手渡して、こうしてイエス様の御体を、イエス様の救いを、その必要の満たしを、それぞれに届けていくんです。
イエス様は祝福してくださいました。イエス様が祝福されたもの、これは、ほんのわずかなものであっても、多くの人々を富ませることができるんです。貧しい者が持っているものはわずかでも、その人が主を恐れるものであるのであるならば、そのわずかなものは、大金持ちのたくさんのもの、持ってるものに勝ると書いてあります。
皆さんの仕事、それはたとい皆さんの持ってるものがわずかでも、あるいはたんまりあったとしても、どっちでもいいんです。それをイエス様のところに持っていって、イエス様、これを用いてください、あるいはイエス様、この私を用いてください、ここに私がおりますと、主に皆さん自身を手放すのであるならば、主が皆さんを用い、祝福して、与えてくださるんです。主は本当に私たちにとって必要なものをすべて満たしてくださるお方です。
では、20節と21節を宣言します。
「人々は皆食べて満腹した。そしてパン切れの余りを取り集めると、12の籠にいっぱいあった。食べたものは女と子供を除いて男5000人ほどであった」(マタイ14:20-21)
アーメン。
人々は食べて満腹したんです。ほんのわずかなお菓子を細々とみんなに分けたのではないんです。みんな満腹するまで食べ尽くして、それまでずっとこのパンが裂いても裂いても決してなくならないという奇跡がずっと行われ続けていったんです。そしてこのみんなが満腹してパンが余りました。もう食べきれないよっていう群衆が残したパン切れ、それを集めてみると、12の籠にいっぱいあったって書いてあります。
さあ、12は何の数字ですか。弟子たちの数字です。働き人たちの数字です。この教会によって、働き人、何人かおりますけれども、その数分だけ籠いっぱいにパンが余るという状況なんです。
ここ最近、教会では、もう不思議なことに買ってもいないのに牛乳が余り、ネギが余り、またお米もなんか今、まだまだ余っていて、当分なくなりそうにないです。本当に不思議です。主はこうしてすべて必要を満たしてくださるんです。皆さん体験して、皆さんその奇跡を今、現実に食べてます。ネギにしろ牛乳にしろ、お米にしても、そうです、主は必要を満たしてくださるんです。
今日、皆さんにお話ししたいことは、イエス様が私たちの必要を満たしてくださるお方だということです。そして、働き人の分も満たしてくださるのです。今日、皆さんに覚えておいてほしいこと、それは皆さん、不足があるならイエス様のもとに持っていきましょうということです。
人間は計算して不足しているならば諦めます。あるいは、もうあらかじめ不足しているとケースを弾き出したら、そもそもそちら方面には行かない、しない。これが人間の方法です。
けれども、イエス様の方法は、まずイエス様の命令ありきです。「あなたはあちらに行きなさい」と言われて、弟子たちが「いや、あちらの方に行くには到底資金が足りません」ということであるならば、「じゃあその不足を私のところに持ってきなさい」ということなのです。
そして、イエス様のもとに持って行ったら、もう不足していたはずが満ち足りる。むしろ、それが余りあるほどの満ち足りた様になっていくんです。
冒頭で宣言したところ、アブラハムの場面です。アブラハムはもうこの時、本当に信仰が成熟しておりました。イサクを連れて、それでモリヤの山地へ、主が命じられました。「あちらに行って、あなたの独り子、イサクを捧げなさい」と言うんですけども。
アブラハムはそれに対して躊躇なく、翌朝すぐにイサクを連れて、モリヤの山に向かっていくんですけども、その途中でイサクが、「お父さん、この火と薪はあるんですけども、けれども、生贄となるための羊がありません。一体どこにあるんですか」と尋ねました。
アブラハムは「お前が生贄だよ」なんて言わないんです。アブラハムは信じているんです。「神ご自身が全焼の生贄の羊を備えてくださるのだ」と信じているんです。
もっとも、アブラハムはイサクを捧げるつもりで連れてきたんです。けれども、信仰を持って、このイサクが死んだとしても、しかし全能なる神様は生かしてくださるお方であり、そしてイサクの代わりになる羊を、全焼の生贄の羊を備えてくださるのだと、はっきりとあらかじめ宣言しております。「神様が備えてくださるのだ」と。
皆さん、イエス様がこの皆さんの身代わりの羊となって神に捧げられました。主は備えてくださる方です。主は皆さんの身代わりを備え、また皆さんの必要を備え、そして皆さんの不足を充当して余り余らせてくださるお方、働き人である皆さんを満たしてくださるお方です。
主は皆さんに向かって言われます。「不足がある。だったら私のところに持ってきなさい。あなたの持ち物を」と。五つのパンと二匹の魚、それで十分だと。皆さんのお財布に1570円。それで十分だと。
主は、皆さんから受け取ったものを天を見上げて、祝福して用いてくださるんです。多くの人々を養うために、主はそのようなお方です。
この主に信頼しましょう。主に期待しましょう。主が皆さんの必要を満たしてくださり、また皆さん自身が本当にこの主を通して大いに主の働きを見て、多くの人々を皆さんを通して養う、そのことに用いられる皆さんでありますように。
今日も私たちに、わずかしかないからできないと思ってはいけないと教えてくださったことを覚えて感謝いたします。わずかばかりであっても、持っているものをあなたに差し出す時、委ねる時、あなたが事をなしてくださるということを今日も私たちに繰り返し教えてくださいました。
私に不足があったとしても、あなたには不足がないということを覚えて、イエス様にすべてを委ねる私たちでありますように。そして、イエス様の全能の力を引き出すことができる私たちでありますように。
今日も私たちに祭司としての務めが与えられていることを感謝します。これから神と人との間においてとりなす者として、まず私たち自身が整えられるように祈っていきます。神と人との御前に立って、祭司として、力ある聖めの働きができますように。今日、私たちを用いてください。私たちがとりなしを祈ることによって、すべての疫病や災いが退いていきますように。祈りの力を与えてくださることをありがとうございます。
【結論】
イエス様は世の王とは全く異なる真の王です。世の王は自分の保身のために人を殺しますが、イエス様は私たちを生かすために自らを捨ててくださいました。イエス様は深い憐れみ(スプランキンズマイ)をもって、私たち一人ひとりを見ておられ、はらわたがちぎれるほどの思いで助けたいと願っておられます。
人間は不足を計算して諦めますが、イエス様の方法は違います。わずかなものであっても、それを主のもとに持っていくとき、主は天を見上げて祝福し、多くの人々を養うために用いてくださいます。アブラハムが「神ご自身が備えてくださる」と信じたように、私たちも主に信頼し、期待しましょう。
私たちは自分を王とするのではなく、イエス様を真の王として受け入れ、自分を十字架につけてイエス様に従っていく必要があります。そして、世の人々とイエス様との橋渡し役となり、持っているものを主に委ねるとき、主の全能の力が現れ、私たちを通して多くの人々が養われるのです。私たちに不足があっても、主には不足がありません。主は必要を満たし、余りあるほどに豊かにしてくださる方です。
