メッセージ - 20260217のエントリ
霊・肉ともに満腹させてくださる真の羊飼いイエス様(マルコ6:30-44) 早天祈祷会 2026年2月17日(Tue)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2026-2-17 6:23
霊・肉ともに満腹させてくださる真の羊飼いイエス様(マルコ6:30-44) 早天祈祷会 2026年2月17日(Tue)
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【概要】
しばしの休息のために寂しい所に来たイエス様と弟子たちを待ち受けていたのは、羊飼いのいない羊のような大群衆! 疲れ果て、飢えと病に苦しむ彼らを前に、イエス様は深い憐れみを抱く。 そして、弟子たちの常識を覆す驚愕の指示が下される! 「あなた方で彼らに何か食べるものをあげなさい」。 手元にあるのは、たった五つのパンと二匹の魚のみ。 この状況でイエス様はいかにして5000人以上もの人々を満腹させたのか? その奇跡の根源は、まことの羊飼いイエス様の、はらわたがちぎれるほどの深い憐れみにあった。
【聖書箇所】
マルコ6:30-44(特に34節を宣言)
【慰めの言葉】
イエス様は真の羊飼いとして、今日も一人一人を深く憐れみ、羊飼いのいない羊を探し求め、見つけ、抱き上げ、御前へと連れて行ってくださる主です。
【励ましの言葉】
ないもの尽くしの時こそ主を望むべき時です。自分に人がいない時、ものがない時、ことができない時、あらゆるない尽くしの時に、イエス様を呼び求めることができます。イエス様は私たちのないものを満たしてくださる方です。
【勧めの言葉】
とるもとりあえず、イエス様のもとに行くべきです。自分たちにできる限りのことを行い、問題をイエス様に持って行くとき、イエス様が働かれます。小さな信仰のかけらをイエス様にお捧げするとき、イエス様は皆が見て、聞いて、触れることのできる主となられます。
【AIによる文字起こし】
今日恵みをいただく御言葉は、マルコによる福音書の6章30節から44節です。はじめに皆さんと一緒に34節を宣言したいと思います。
「イエスは船から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(マルコ6:34)
羊飼いであられるイエス様、あなたは今日も、その一人一人を、羊飼いのいない羊を憐れむ心を持って、羊を探し求め、羊を見つけ、羊を抱き上げ、羊飼いの檻へとあなたの御前へと連れて行ってくださる主であられることを感謝いたします。
素晴らしい主イエス・キリスト、御名を褒め称え賛美いたします。イエス様は昨日も今日もいつも同じです。最近、主日ではヨハネの福音書から、そして月曜日はマタイの福音書から、男性だけでも5000人、女性も合わせると1万人以上を、わずか五つのパンと二匹の魚で豊かに満腹させて養ってくださったところを見てきました。今日はマルコによる福音書から、マルコさんの視点でこの同じ場面を見ていきたいと思います。
このマルコの福音書を見ますと、そもそもの事の発端は、イエス様が図らずもこのことをしたということがわかります。もともとお弟子さんたちが、この使徒たちが、イエス様のもとに来て、自分たちの宣教報告をするんですね。それで31節では、イエス様は「さあ、もうあなた方だけで寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」と言われたんです。この弟子たちが疲れて帰ってきて、それでしばらく休むという意図を持って、イエス様はこの働き人にしばしの安息をもたらすようにと、寂しいところに行かれたんですね。
31節に書いてあります。「人の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。」
本当に働き人は、ゆっくりする時間がなかなか取れないということで、イエス様はこの弟子たちをしばし休ませようとしたんですが、それで船で行って、寂しいところへと行こうとするんですね。
ところが33節で見ますと、「多くの人々が彼らの出て行くのを見、それと気づいて方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先についてしまった。」と書いてありますね。
多くのイエス様を求める人々がいたんです。方々の町々から。このイエス様のもとに行けば、あらゆる煩いが癒され、また問題が解決され、そして心がカラカラだった心が潤され、満たされるということで、多くの人々が、このイエス様とそのご一行が寂しいところに行かれるにもかかわらず、5000人以上の人々が寂しいところに集団で行くんですね。
その中には病気の子供を抱えた母親がいます。彼女も、イエス様があ、向こう岸に行かれたと聞いて、徒歩でこの病気の子供を抱えていくんですね。本当に母親というものは、子供が良くなるために熱心なものです。杖をついたおじいちゃんもいたことでしょうね。そのおじいちゃんも、本当にもう体が言うことが聞かない。にもかかわらず、イエス様があの向こう岸の方に行ったということであるならば、もう杖をついて、一生懸命、一生懸命イエス様のもとに駆けつけていきます。
その中には、病を抱えた人、体がもう言うことを聞かない、もう体の痛みを抱えている、あるいは悪霊につかれて、もうどうにもならなくなっている、そういう人たちも、みんなこぞって、イエス様が寂しいところに行かれたっていう、その一点を目指して、みんなでなんとかして、もう大変なところでも、またこのお方に望みを持っている人も、みんな、このイエス様が、またそのご一行が船で行った先、そこをめがけていくんですね。
弟子たち、向こう岸が見えてきました。ああ、ようやくこれで休めるのかなって思いきや、その向こう岸の方を見てみると、大勢の群衆が走ってくるのが見えるんですね。自分たちが船をつけようとする、その船をつけるその場のところに、もうすでに群衆たちが出来上がっておりました。弟子たちは「あれ、寂しいところで休むんじゃなかったのかな」って。でも群衆たちがたくさんいる。「ああ、これまたまだ、自分たちのミッションが続くんだな」と思ったことでしょう。あるいは「ああ、ちょっともう勘弁してよ」って、もしかしたら思った働き人もいるかもしれないんですけど。
イエス様はここで、皆さんと一緒に宣言した34節を見ますと、「イエスは船から上がられると多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深く憐れみ、色々と教え始められた。」
本当にスプランクニゾマイの心を持って。スプランクニゾマイ、はらわたがちぎれるような心だと昨日見ましたね。この羊飼いのいない羊のような、そういう有様であるこの群衆。そうです。彼らからすれば本当にそうなんです。
当時、確かに宗教はありましたね。形式がありました。律法もありました。神殿に行くと、律法学者やパリサイ人たちが、この御言葉を教えてくれるんですけれども、しかし、そこには何か、憐れみ、愛、赦し、その恵みは欠けていたんですね。あたかも羊飼いのいない、本来羊飼いとなるべきこの宗教指導者たちがその役割を果たさないで、ただ大上段に、「あれせい、これせい、罪を犯したのか。それではダメだ」と、そういうふうに、ばっさり切り捨てるかのような。本当は慰め癒しをいただきたくて神殿に来たはずの彼らが、そこには癒しも憐れみもない。そういう状況、まさに彼ら、羊飼いのいない羊たちのような有様だったんですね。
本当に教会というところは羊たちが本当に養われてしかるべきところですね。教会にいる皆さんは、本当に教会に来る人々にとって、良き羊飼いのような立場になっているでしょうか。彼らを本当に御言葉でもって養い、また疲れているところを癒し、励まし、そして本当にイエス様によって元気づいて世に送り出す、そのような役割と働きを、皆さんはなっているでしょうか。良き羊飼いでしょうか。私たちは本当にイエス様という真の良き羊飼いに習うべきです。
この大勢の群衆の中には、本当に病気の赤ちゃんを抱えた母親が走ってきたことでしょう。杖をついたおじいちゃんも来たことでしょう。病気でもう足が痛い、腰が痛い。そういう彼らでもこんな寂しいところに来て、そしてイエス様からなんとか癒しをいただきたい。また御言葉をいただきたい。そんなにして来た、そういう大勢の人々がいたことでしょう。
冒頭で宣言したのはエゼキエル書34章だったんですけれども、そこにおいても、羊飼いを失った羊たちの本当に疲れた有様、そしてそんな彼らを憐れまれる神様の姿があり、そしてこの本来、羊を養うべき羊飼いの立場である、その指導者たちに対しての、そのお叱りの言葉もある。それがエゼキエル書の34章なんですけれども、とにかく神様は憐れむんです。羊飼いのいない羊たちを憐れみ、そしてその憐れみは腹の奥底から湧き上がるようなスプランクニゾマイという、はらわたがちぎれるような思いでもって、「ああ、この羊なんとかしなければ、ああ、ここを汚している羊だ。ああ、心に傷を、病を抱えている羊だ」と、そういう深い憐れみの心を持っておられるのが皆さんの主イエス様です。
イエス様は真の神の御子、キリスト、そしてまことに皆さんを救う主、救い主と言われております。救うお方なんです。一人一人を、現代の皆さんを救う主、それはイエス様です。イエス様はまず憐れまれたと書いてありますね。深い深い憐れみの感情を持って憐れまれる。その次に、色々と教え始められたと書いてあります。御言葉を持って養われるイエス様です。御言葉でもって教えられる。
この箇所は、5000人にパンを食べさせてあげるというところがメインに見えるかもしれないですけど、まずパンの必要の満たしの前に、イエス様の深い憐れみが真っ先にあるんです。その次に御言葉を持って教えられることがあるんです。そうして、パンの必要を満たすんです。
パンだけ当てにして集まってくる、まあ、そういう人もいるかもしれません。けれども、覚えていてください。まず、パンの必要な満たしの前に、憐れまれる主イエス様の存在があるということ。そしてまた御言葉をもって養い、御言葉でもって何をするべきであるのか、何をしてはならないのか。どういうところへ行くべきであり、どういう人と連合するべきであり、どういう人と離れるべきであり、どういう罪から離れるべきか、色々と教え始められたイエス様のその御言葉をまず皆さんがいただいて、そしてようやく必要な満たしがあるんですね。
そのうち遅くなってきますね。辺鄙なところです。この店もない。また近くの町まで歩いても何時間かかる。そういう辺鄙なところに大勢の群衆が集まって、そろそろみんなも疲れて、お腹も空き出して、そして病を抱えている人もいるし、もう病気の子供を抱えたお母さんもいる。もう帰るのも一苦労大変な、あるいはもうすでに帰る力も残っていないような、そういう人もいる。そういう状況において弟子たちは危機感を覚えるんですね。
「ここはもう辺鄙なところです。イエス様、もう時間も遅くなりましたし、みんなを解散させてください。近くの町や村に行って、めいめいが食べるものを買うように各々にさせてください」って言うんですね。もうこのところ、この場所において、1万人ほどの群衆がおります。辺鄙なところですね。現代でも、もう辺鄙なところにおいて、突然大規模なイベントが起こって、そこで開催されて、もうその周辺のコンビニだとか、また自動販売機も、もう空っぽになるような、そういう状況、現代でも起こりますね。当時はもっと大変な状況でした。
弟子たちは「どうかもう、なんとかして、彼らもう解散させて、食べるもの、彼ら自身で調達させるようにしてください」っていうんですね。人間としては、まあ、そういうふうに思うことでしょうけれども、イエス様、ここで無茶ぶりをするんですね。
37節では、「すると彼らに答えて言われた。あなた方で、あなた方で、彼らに、あの人たちに何か食べるものをあげなさい。」と言うんですね。
12弟子、せいぜい12人分の食事が、まあ、もしかしたらあったかもしれませんし、まあ、もうなかったと思われるんですけども、でもわずかな食料しかない。12弟子に、イエス様が「あなたたちで働き人たち、あなたたちがこの群衆を養いなさい」と言うんですけども。
弟子たちの中で計算が始まります。「弟子たちは言った。私たちが出かけて行って、200デナリものパンを買って、あの人たちに食べさせるようにということでしょうか。」まあ、ここは私たち人間の限界ですね。本当にそういうふうに考える以外にないんですね。
200デナリ。彼ら持っていたか持ってなかったかわかりません。持っていたとしても、もう近くの町々村々に1万人分の食事を買って、12人で買って持って帰る。ちょっとこれはとてつもないことですね。弟子たちとしてはもうどうすればいいのかわからないんですけれども、この弟子たちの良いところは、イエス様にその問題を持って行ったところですね。
「私たちがこれからすることでしょうか。イエス様。イエス様、どうするんですかね。私たち200デナリしかありません。いや、200デナリももう実は持ってないですね。そしてもう目の前に1万人以上の群衆を私たち12人でなんとかする。ちょっとこう、イエス様、これどうなんでしょうかね。」
イエス様に持って行ったところ、イエス様が、何をすればよいのか、一体どうしたらあなた方12人でこの1万人ほどの群衆を養うことができるのかを、イエス様が教えてくださるんですね。
38節で、「するとイエスは彼らに言われた。パンはどのくらいありますか。行って見てきなさい。彼らは確かめて言った。五つです。それと魚が二匹です。」
彼ら持っているものを、とるもとりあえず、彼らできること、群衆のところに行って、そしてパンはどのくらいあるか見てきたんですね。で、見てきたところ、あの少年が五つのパンと二匹の魚を持っていたっていうことを、ヨハネの福音書において書いてあるのを主日見たんですけども。
イエス様、皆さんが、とるもとりあえず、皆さんでできるベストを行って、そしてイエス様の御旨の通りにしようと頑張った皆さんに対して、あとは主が働かれるんです。皆さんの限界まで達した皆さんのその持ち物、足りない。あとはイエス様に対して報告をしたら、あとはイエス様が働かれる番です。
39節を見ますと、「イエスは皆をそれぞれ組にして青草の上に座らせるよう、弟子たちにお命じになった。そこで人々は百人、50人と固まって席についた。」
イエス様は青草の上にこのお腹を空かせた群衆を座らせました。詩篇23編を思い出します。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます。主は私の魂を生き返らせ、御名のために、私を義の道へと導かれます。」
主の御名のゆえに。主の御名、これは本当に汚れがない御名、主の御名のプライドにかけて、この羊たちを養うんです。イエス様は真の羊飼い、真の牧者。羊飼いのいない羊たちを見て深く憐れまれる真の牧者、それが私たちの主です。皆さんの主です。
この皆さんがもし足りないということであるならば、とるもとりあえず、イエス様のもとに行くべきです。この大勢の群衆たち、とるもとりあえずイエス様の元に行きました。本当に疲れた体を鞭打ってでも行きました。また、その中には本当に病気の子供を抱えた母親もいたことでしょう。老人もいたことでしょう。とるもとりあえずイエス様の元に行きました。そして先々のことを全然彼ら考えていなかったような。それを人は「知恵がなかった。自己責任だ。飢えても自己責任だ」と、そういうふうに突き放すような冷たい社会。その中でもこのイエス様を求めていった群衆に、イエス様は必要の満たしを与えてくださる。病の癒しを与えてくださる。そして、必要な御言葉を持って養ってくださるんです。
「主は私たちの魂を生き返らせ、御名のために私たちを義の道へと導かれる。たとえ死の影の谷を歩むことがあっても、災いを恐れることはない。」それは私と伴う主です。主は、たとえ皆さんが死の影の谷を歩むことがあっても、一緒に伴って歩いてくださる。そのゆえに私は恐れることがない。
イエス様は緑の牧場に彼を伏させました。そして彼を憩ませ、この今手元にある五つのパンと二匹の魚、これを天に向かって感謝を捧げて、祝福して、そしてパンを裂いて、弟子たちにその裂いたパンを渡されました。そして二匹の魚も同じようにされました。
奇跡が起こったんですね。魚二匹しかなかったはずなのに12弟子に行き渡り、12弟子はそれをさらに大勢の群衆に行き巡らせ、そして大勢のこの5000人の1万人ほどの群衆が食べて、満腹したと書いてありますね。
42節になると、「人々は皆食べて満腹した」んです。イエス様、このようなことがおできになるお方なんです。しかも、しかも43節。「パン切れを12の籠にいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。パンを食べたのは男が5000人であった。」と書いてありますね。
大勢の群衆はなんと、わずかな少年のお弁当の捧げ物、これでもって大いに満腹させました。このこと、現代も起こるんです。なぜ。イエス様は現代にも生きているからです。このイエス様により頼むのであるならば、この羊飼いなる主に、イエス様により頼むのであるならば、イエス様が必ず皆さんの必要を満たしてくださいます。
イエス様が必要を満たします。このイエス様が皆さん一人一人に伴われる主であり、そして皆さんがたとえ敵の前であっても、荒野の中においても、宴会を設け、「敵の前で宴を設け」と詩編23編に書いてあります。病という敵、悪魔サタンという敵。日ごと、仕事において、家庭において、人間関係において迫りくる敵。この敵の前で宴会を設けてくださる主イエス様。イエス様、今日も緑の牧場へと皆さんを導きたい真の羊飼い主です。愛、憐れみ、赦し、その恵み、満ちた主です。
当時、羊飼いがいない羊たちのような有様の群衆を見て、深く深く憐れみ、はらわたがちぎれる思いを持って憐れんで、彼らを癒し、御言葉を持って養われた主イエス様、今日も皆さんの主です。このイエス様により頼み、イエス様にすべての問題をイエス様へと打ち明け、そしてこのイエス様から解決をいただき、今日もイエス様にあって豊かに満腹していく皆さんでありますように。
今も生きて働かれるあなたが私たちの主であるということは、なんと幸いなことでしょうか。このような神はどこにもおりません。世の中の宗教は、私たちにあれしろ、これしろと要求し、またお金やまた奉仕を要求し、しかし本当にその中において傷つき倒れた羊たち、そんな羊たちを深く憐れみ、羊飼いのいない羊のようだとおっしゃられる主を褒め称え、感謝いたします。
そして、あなたのところにおいては、豊かな御言葉の養いがあり、また具体的に私たちの体に必要なパンの養いがあり、そして本当にあなたにあって、私たちは深く安息する羊として御前において休める。その幸いを感謝いたします。一人一人がこの真の羊飼い主に気づきますように。真の羊飼い主にあって、あなたの必要な満たしを得ますように。病が癒されますように。また悪霊が追い出されますように。そして本当に羊飼いであるイエス様のもとで、とこしえに永遠の天国に至るまで、あなたに養われて導かれていく一人一人でありますように。
ないもの尽くしの時こそ主よ、あなたを望むべき時です。主よ、私たちが足りている時にあなたを望むことはありません。ない時に私たちはあなたを信仰をもって臨み、そのイエス様を大勢の人の前で、イエス様が神であることを明かすことができます。主よ、この時間、私たちは学んだ通り、自分に人がいない時、自分にものがない時、自分にことができない時、あらゆるない尽くしの時に、あなたを呼び求めることができますように。
イエス様、人にはイエス様は見えません。人はイエス様を触ることもできません。人はイエス様を聞くこともできません。でも、この見ることも、聞くことも、触ることもできないイエス様を、いつ私たちは証しできますでしょうか。イエス様が私たちのないものを満たしてくださる時、その満たされた状況を通して、私たちの信じるイエス様が主であり、神であることを証しすることができる唯一の時です。
今も人にはイエス様は見えません。イエス様を聞こえません。イエス様を触れることもできません。でも、信じる私たちを通して、私たちがイエス様をこの状況の中に招き入れ、そしてイエス様にこの状況を委ね、そして私たちの小さな信仰のかけらをイエス様にお捧げした時、イエス様はみんなが見て、聞いて、触れるイエス様になります。
イエス様、今日の御言葉を通して、あなたはこのような信仰をもって、私を主とし、私が民の神であることを証ししなさいと養ってくださったことを感謝します。私たちのこの信仰が、人々にイエス様を見せる信仰、聞かせる信仰、触れる信仰へと導く、その道しるべとなることができますように。私たちをあなたが用いてください。
【結論】
イエス様は真の羊飼いとして、羊飼いのいない羊のような群衆を深く憐れみ、御言葉で養い、そして五つのパンと二匹の魚で1万人以上を満腹させられた。この奇跡は、私たちがないもの尽くしの時に、とるもとりあえずイエス様のもとに行き、自分たちのできる限りのことを行い、問題をイエス様に委ねる時、イエス様が働かれることを示している。イエス様は昨日も今日もいつも同じ方であり、現代も生きて働かれ、私たちの必要を満たしてくださる。私たちの小さな信仰のかけらをイエス様にお捧げする時、イエス様は人々が見て、聞いて、触れることのできる主となられる。
