メッセージ - 20260218のエントリ
神の働きのための整え - 脱ぐべき靴と清められるべき唇(- 出エジプト3:5) 水曜夜礼拝
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- pastor 2026-2-18 22:00
神の働きのための整え - 脱ぐべき靴と清められるべき唇(- 出エジプト3:5) 水曜夜礼拝
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【概要】
聖なる召命の前に、モーセは靴を脱ぎ、イザヤは唇を清めらた。 私達も、神の国の働きをする前に必ず通る通過儀礼がある。 それは、私達が世を渡り歩いてきた時に付着した、心の汚れ、世的な立場、自らの力、じっとしていない唇、主義主張などなど…。 そうした「くつ」を脱ぎ捨てるなら、ようやく主の御前に有用な働き人になれる。
【聖書箇所】
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出エジプト3:5
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イザヤ6章(祭壇の炭火による清め)
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ヨハネ1章(御言葉なるキリスト)
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エペソ1:14(贖いと罪の赦し)
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伝道者5:1-3
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ヤコブ1:19(聞くに早く、語るに遅く)
【戒めの言葉】
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神の宮に行く時は軽々しく心焦って言葉を出してはならない
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聞く耳を持たずに礼拝に出席するなら、愚かな生贄を捧げることになる
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多すぎる言葉は愚かな者の声となる
【勧めの言葉】
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神の御前に進み出る時、脱ぐべき靴(汚れ、立場、力)を脱ぎなさい
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イエス・キリストの御言葉を口に当て、唇を清めなさい
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聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くありなさい
【悔い改めの促しの言葉】
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十字架の前に自分自身の罪をすべて書き出す必要がある
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高ぶり、偽り、嘘を脱ぎ捨て、焼き尽くされるべきである
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砕かれた魂、砕かれた悔いた心を神に捧げよ
【AIによる文字起こし】
今晩、恵みをいただく御言葉は出エジプト記3章5節です。皆さんで一緒に宣言しましょう。「神は仰せられた。ここに近づいてはいけない。あなたの足の靴を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
お昼の礼拝においては、預言者イザヤが召命を受けた場面を見ました。「主よ、私がここにおります。どうぞ私を遣わしてください」と。祭壇の炭火を持って清められたイザヤの姿です。
今晩は、モーセが神様から呼び出された場面を見てみたいと思います。私たちが本当にこの神様の働きをする上で、いかに整えられるべきか。これから子供たちにこの聖書教育に御言葉を教育する、聖書教育をしていく、それにあたり、今、私たちがまさに整えられなくてはならないからです。今日もその私たち自身の整えのために、この出エジプト記3章5節から見ていきます。
まず神様がモーセに現れて、「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と、神様自身、自分がどの神であるのかをはっきりと宣言されました。モーセはそれを恐れて顔を伏せるのですが、そのモーセに対して言うのです。「ここに近づいてはいけない。あなたの足の靴を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
この神様の御前に進み出ること、これは日常生活の延長ではないのです。しっかりと脱ぎ捨てるべきものがあるのです。なぜなら神様の御前、この礼拝という場は聖なる場所だからです。本当にこの場所、この説教台に立つ時、もう十年以上ずっとずっと、いつも恐れがあります。神様のお言葉を取り次ぐに果たしてふさわしい者であるかどうか。ですから、この礼拝の前にしっかりと祈って、神様の前に立つのにふさわしい者にして、どうか十字架の血潮をもって清めてくださいと、いつも祈っております。
このモーセに対して、モーセをこの主の働きのために招く、その真っ先に主が言われたのが「靴を脱げ」ということだったのです。私たちも神様の御前に進み出る時、あるいは神様の働きに進み出る時、脱ぎ捨てるべきものがあるのです。
イザヤの場合、この主が圧倒的な臨在をもって、まずイザヤにその圧倒的な臨在をもって臨みました。イザヤをこの主の働きに任じる、その直前に、主はまず全くもって、このイザヤ自身のその足りなさ、汚れ、それを徹底的に示されました。神様の圧倒的な聖なる様を前にイザヤは絶望しました。ああ、自分は唇の汚れた者だと。真っ先に示されたのが唇が汚れた者ということでした。
イザヤ自身、それまで預言者として活動してきたのです。神様のお言葉を人々に取り次ぐ、その聖なる務めをしてきたイザヤでしたけれども、しかし自分は罪がある。唇が汚れた者、汚れた者にもかかわらず、神様のお言葉を伝えてきたんだ。徹底的に打ちのめされる。そしてイザヤ自身も自分は唇の汚れた民の間に住んでいる者だということを、それを示されて、ああ、もう自分はダメだ、絶望だ、滅びる以外にはないんだ、とイザヤ自身打ちのめされました。
けれども、イザヤの唇に祭壇の燃え盛る炭がイザヤの口に当てられました。口に当てられて、そしてその燃える炭が与えられた。彼は言われました。「これがあなたの口に当てられたので、あなたの罪は清められ、あなたの咎が覆われた」と、そういうふうに言われました。イザヤはその時、口に火傷を負うのではありませんでした。なぜでしょうね。もう燃え盛る炭火が置かれたら火傷する以外ないのですけど、しかし、イザヤの口は平気でした。
なぜ?そもそも祭壇の中に一体何が燃やされているのか。それはこのイザヤの身代わりに、そして私たち人類、私たち罪ある人間の身代わりに犠牲になった動物が、その祭壇の中で焼かれております。今の私たちにとっての祭壇の炭で焼かれている犠牲はイエス様です。イエス様が私たちの身代わりになって、炭火で焼かれております。イザヤの身代わりとなって動物が焼かれて、そしてそのイザヤが本来焼かれるべきである、その身代わりの動物が焼かれた。
私たちの身代わりとなって、十字架の上にかかって処罰を受けてくださったお方、イエス様。このイエス様をこの唇に当てて、御言葉なるイエス様、イエス様はお言葉なるお方であるとヨハネ1章に書いてあります。その言葉を私たちのこの唇に当てて、この唇からイエス様のお言葉を出して、イエス様を口ずさんで、イエス様を賛美して、そうしてこそ私たちも清められていくのです。ですから、本当にこの神様の働きをする前に、まず唇が神様の言葉で満ちるべきなのです。
私たちのこの口、色々と汚れがあります。人間の間に住んでいると、また神様抜きで生活していると、この口からはつぶやきが出たり、批判が出たり、高ぶりの言葉が出たり、嘘偽りが時にはペロッと出てしまったり、軽率な発言によって人を傷つけ、また軽率な言葉によってこの神様の宮を汚してしまったり、礼拝の場に軽率な言葉を声高に口走ることによって、礼拝者の他の礼拝者の心を害してしまったりですね。そういう軽率な言葉、これをこそ私たちは慎むべきなのです。この口はイエス様の言葉を当てるべきなのです。
主は言われました。私たちのこの唇からは心で満ちているものが口から出てくるのです、と。本当に私たちの唇は、私たちの内側の状態を映し出す鏡です。だからこそ、イザヤの唇が祭壇の炭火で清められる必要があったのです。この真の言葉であられるイエス様を私たちもしっかりと口から口ずさみ、イエス様の御言葉をもって、折にかなった助けをもって人を養うべき口となるべきです。
この真の言葉はイエス様が私たちの口に当てられることによって私たちは贖われて罪の赦しを受けるのです。エペソ1章14節に書いてあるのは、「この御子にあって私たちは贖い、すなわち罪の赦しを得ています」と書いてあります。イエス様にあって、御子イエス様によって贖い、罪の赦しを得られる。だから私たちはこのイエス様が必要なのです。働きにおいて、またこの唇を清めるにおいて、唇が清められたい方、ぜひイエス様のお言葉、これを口から出しましょう。イエス様の言葉をいつも口に備えましょう。そして、皆さん自身がどんどん清められていくのであるならば、主は皆さんをこの主の働きに任じて、「ここに私がおります。主、私を行かせてください、私を用いてください」という、その主の御用に間に合う者になっていくのです。
さて、モーセのことですけども、モーセは靴を脱ぎなさいというふうに言われましたね。神様の前に立つ備えであり、そしてそこは聖なる場所だから、この汚れた世の塵をいっぱいつけて回った靴、これ脱ぐべきだと示されたのですけども、では私たちにとって脱ぐべき靴というものは一体何でしょうか。礼拝の御前に進み出るにおいて、主の御前に進み出るにおいて、そして主の清らかな聖なる働きに繰り出すにあたって脱ぐべき靴。
まず私たち自身の汚れを脱ぐべきです。脱ぐべき靴の、その一、私たちの汚れです。また自分の立場。その二、私たち自身が世の中で身につけたいろんなステータスだとか立場だとかネーミングだとかありますけど、そうした立場も脱ぐべきです。神様の前に世の中で身につけてきた立場は一切関係がないからです。そして3つ目。私たち自身の力を脱ぐことです。
脱ぐべき、一つ目は私たちの汚れ、2つ目は私たちの立場、3つ目は私たちの力。これを脱いで、そして主の御前に進み出て、また世の中に派遣され、主の働きをしていくべきなのです。これら三つを身につけているとですね、例えば、汚れたままで子供伝道はいけないですね。口、唇が汚れたままだったら、もう意図しない言葉、軽率な言葉で人を傷つけてね。子供は特に敏感ですからね。この唇、汚れはしっかりと脱ぎ捨てるべきであり、またね、私たち、今までこの世の中で培ってきた諸々、これがかえって邪魔をしてしまうこともあります。
主の御前において本当に清らかな、ただ御言葉のみ、この祭壇の炭火、イエス様のみに焦点を当てて、私たちの思い、心は清められた立場でもって、そしてこの主の働きに進み出るべきであり、また私たち自身の勢いだとか力余りだとか、そうしたもろもろでやってしまうと、いろいろと障害が発生してしまいます。ですから、まず脱ぐべき靴。これをしっかりと脱いで、そしてこの主の働きへと進み出るべきです。
主の御前においては、私たちの力も立場も経験も通用しません。ただ、主がなさるから、主が導かれるから、私たちは進み行くことができ、また働きに従事することができるのです。
伝道者の書5章にこういうふうに書いてあります。伝道者5:1にはこう書いてあります。「神の宮へ行く時は、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者が生贄を捧げるのに勝る。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。神の前では軽々しく心焦って言葉を出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから言葉を少なくせよ。」
本当に主の宮、主を礼拝する場面においては、特にこの唇の言葉、心焦った言葉を出すなというふうに、ここに書かれてあります。この礼拝の場において、礼拝者を通して語られる神様の御言葉に耳を傾けること、これが一番の生贄ではあるのですけども、しかし、この御言葉を思い巡らすではなく、自分の口で口走ってしまって、他の礼拝者たちがちょっとってなりますね。礼拝中に誰か一人が声高に何かブツブツブツブツ言っていたら、皆さん耳障りですね。礼拝中、主の宮において心焦って唇に言葉を出すな、2節に書いてあります。だから言葉を少なくせよ。
私たちは礼拝に来る時、本当に準備するべきもの、それはよく聞く耳を準備するべきであって、自分の意見、自分の考え、自分の計画、自分の主張は、そうした靴はしっかりと脱いでからこの礼拝の場面に入るべきであり、また主の働きの前に、その整えとして、こうした自分の軽率な言葉や、また自分の思い、自分の計画、自分の立場、自分の主張、主義、そうしたもろもろを脱ぎ捨てるべきです。
でないと、この神様の言葉が語られた時に、もし主義主張を持って言葉を聞いたならば、「いや、それ違う、私それ嫌だ」ってなってしまいますね。だから、この主の御前に進み出る時においては、そうした靴、自分の主義主張という靴、これはしっかりと脱ぎ捨ててから主の御前に進み出るべきです。聞く準備なしで礼拝に出るとするならば、それは愚かな生贄を捧げるということになってしまいます。
この5章1節のところ、「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよう」。足の靴をしっかりと脱ぐべきであり、「近寄って聞くことは、愚かな者が生贄を捧げるのに勝る」と日本語の聖書が書いてあるのですけども、英語の聖書では、愚かな生贄を捧げないために近寄って聞けというふうにも訳されるのです。愚かな生贄を捧げるようなことがないために、近寄って聞くようにしなさい、自分の足に気をつけなさいですから。聞く耳持たずで礼拝に出席するとするならば、愚かな生贄を捧げることになってしまい、その愚かな生贄が神様の気分を害し、礼拝者の気分を害してしまう。だから、よく聞く耳をしっかりと準備して、また自分の本当に高ぶる意見、主義、主張、これはしっかりとそうした靴は脱ぎ捨てて、礼拝に、また主の働きに進み出るべきなのです。
主は私たちの多くの言葉で、ベラベラベラベラしゃべることを望んでおられません。主はむしろ多くの言葉をしゃべるよりも、へりくだった耳、へりくだって聞く耳を主は求めておられるのです。
さらに、この伝道者の書5:3にはこう書いてあります。「仕事が多いと夢を見る。言葉が多いと愚かな者の声となる。」ここにも、脱ぎ捨てるべき二つの靴が、この伝道者5:3にありました。その一つ目、それは自分の夢、自分発の夢です。夢が多いと、仕事が多いと夢を見るって書いてあるのですけども、あれをしよう、これを成し遂げよう、そうした神様抜きであれしよう、これしようというそうした夢。もちろん主から与えられたビジョンは尊いものではあるのですけど、しかし、夢というものが主からの夢ではなく、自分の野心だとか、自分の心からの欲望から出た、そうした諸々の夢、それを外されたまま進み出るとするならば、それは良くない礼拝になってしまいます。このまず自分由来の夢という靴。これは脱ぎ捨てるべきです。
で、もう一つ。後半では「言葉が多いと愚かな者の声となる」ってありますね。多すぎる言葉。これが二番目の脱ぐべき靴。この伝道者5:3にある示された2つ目の靴です。多すぎる言葉。語ることに熱心で、聞くことには鈍い心で、主の御言葉を宣言する時、なかなか御言葉の宣言がうまくいかないという時は、頭の中に非常に夢がごちゃいっぱい入ってしまっていて、聞く耳が全くもって詰まりに詰まってしまっている状態だと、宣言がなかなかうまくいかないです。語ること、唇で語ることに熱心で、また自分のビジョン、夢で頭の中が煮詰まっているとするならば、本当に神様の言葉がスムーズに入ってこないし、スムーズに出てこないことになってしまいます。
ヤコブ1:19は言います。「聞くには早く、語るに遅く、怒るに遅いようにしなさい」と書いてあります。聞くには早くしなさい。語るには遅くしなさい。怒るのには遅くしなさい。これが本当に私たちも必要です。あれをしよう、これをしよう。そうした夢、そうした諸々は、本当に私たちはそうした靴を脱ぎ捨て、またこの多すぎる言葉という靴も脱ぎ捨てる。そして私たちは主の御前に進み出ていくべきなのです。
ですから、清められた者に対してこそ、主は正当に御前に進めていることができ、そして主の働きを正当に招き入れることができるようになる。そのようになっていくのです。靴を脱ぎ捨て、またこの唇の汚れが清められ、そしてこそ主は招きをするのです。
モーセに対しては、この出エジプト3:10において、「さあ行け。私はあなたをパロのもとに遣わす」。モーセは靴を脱いで御前にへりくだった心で進み出た結果、パロのもとに遣わすという召命が与えられました。世に対して遣わす。イザヤは、この祭壇の炭火で口が清められた時に、「主よ、ここに私がおります。私を遣わしてください」と言いました。それは主の招きの声、いや、主のうめきの声、「誰を遣わそうか、誰が我々のために行ってくれるだろうか」という主の声を聞いたからです。清められたイザヤ、そういうふうに、ここに私がおります、私を遣わしてください、そういうふうに言うことができたのです。
ですから、皆さん、いろいろな使命、皆さんの目の前にあると思います。けれども、皆さん、使命の前に、まず清めです。使命の前に脱ぐべき靴があります。使命の前に清められるべき口があります。清めが先、使命がその後、主は清められた者を用いられるからです。
私たちは、ですから、本当にこの十字架の前に自分自身の罪をすべて書き出す必要があります。十字架という祭壇で、主は犠牲になってくださいました。その犠牲となった主をこの口に当て、イエス・キリストをこの口に食べて、イエス・キリストの御言葉である、イエス・キリストをこの口から宣言して、そしてどんどん清められていくのであるならば、皆さんも主の働きにふさわしい者として大いに用いられる者になっていくのです。
この十字架という祭壇、そこは聖なる地です。そこでは靴を脱ぐべきであり、高ぶりは脱ぎ捨てられ、また偽り、嘘、偽りは焼き尽くされ、またたくさん口からベラベラとしゃべってしまう口は、本当にこの沈黙に変えられて、また高ぶった野心、これはへりくだられて、清められて、そして主の御前において用いられるような者になることができるのです。神への生贄は砕かれた魂、砕かれた悔いた心。神様はそれを蔑まれません。本当に私たちは、主の働きに出る時においては、脱ぐべき靴を脱ぎ、また清められるべき唇を清めていただき、そして本当にこのもはや自分の野心、自分の考え、主義、主張、これは全部降ろして、そうした靴を脱いで、そしてこの十字架の血潮でもって清められ、それでこそ主の働きに勤しむことができるようになります。
今、私たちはこの唇を清めていただきましょう。また本当に今までの自分の野心だとか、自分の夢だとか、そうした諸々の靴は脱ぎ捨てましょう。そして主の御前に進み出る時、主の御声が聞こえるのです。「誰を遣わそうか。誰が我々のために行くだろうか。」皆さんはこの本当に脱ぐべき靴を脱ぎ、また清められるべき唇で清めていただき、そしてこの主の働きに従事するに値する者とされ、そして大いに主の働きをしていく皆さんとなっていきますように。
【結論】
神の働きに従事するために、私たちはまず整えられる必要があります。使命の前に清めがあり、召命の前に献身があります。
脱ぐべき三つの靴:
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私たちの汚れ
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私たちの立場(世的なステータス)
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私たちの力(自分の野心や計画)
清められるべき唇:
-
イエス・キリストという祭壇の炭火を口に当てる
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御言葉なるキリストを口ずさみ、宣言する
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聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くする
十字架という聖なる祭壇の前で、砕かれた魂と悔いた心をもって進み出る時、主は「さあ行け」と私たちを遣わしてくださいます。清められた者こそが、主の働きにふさわしい者として大いに用いられるのです。
主の働きをする者が通るべき通過儀礼:くちびるの清め(イザヤ6:1-8) 水曜昼礼拝
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- 執筆 :
- pastor 2026-2-18 16:50
主の働きをする者が通るべき通過儀礼:くちびるの清め(イザヤ6:1-8) 水曜昼礼拝
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【概要】
預言者イザヤが神殿で主の聖なる臨在に触れ、自らの唇の汚れを示され、祭壇の炭火によって清められた後、主の召命に応答して「私を遣わしてください」と宣言するまでの過程を通して、主に仕える者に求められる清さと備えについて学びます。
【聖書箇所】
イザヤ6:1-8
【悔い改めの促しの言葉】
私たちの唇は汚れています。預言者イザヤでさえも、聖なる主の御前で「私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる」と絶望しました。私たちは自分の唇の汚れを認め、主の清めを求める必要があります。
【励ましの言葉】
祭壇の炭火、すなわち十字架で私たちの身代わりとなられたイエス様が、私たちの唇に触れてくださるなら、私たちの不義は取り去られ、罪も贖われます。御言葉を宣言する唇となるとき、主は私たちを清め、用いてくださいます。
【勧めの言葉】
御言葉を口ずさみましょう。声に出して宣言しましょう。黙読や思い巡らすだけでは唇は用いられません。口から御言葉を宣言してこそ、私たちは清められ、主の働き人として遣わされるのです。
【AIによる文字起こし】
今日、恵みをいただく御言葉はイザヤ書6章1節から8節です。初めに8節を皆さんで宣言しました。
「私は、誰を遣わそう、誰が我々のために行くだろうと言っておられる主の声を聞いたので言った。ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)
私たちはここにおります。主よ、私を遣わしてくださいと願い求める者ではありますが、しかし本当にこの遣わされるにふさわしい者が世の中において乏しいことを主は見ておられます。主よ、私たちも祭壇の炭火を持ってこの唇を清め、罪咎が清められ、そして主の御前において遣わされるにふさわしい者として整えてくださいますように。
主は本当にこの全世界に目をあまねく見渡しておられて、そして本当に人を救いたい、救いたい、私のために行ってくれる働き人は誰だろうかと見ておられます。
このイザヤ書6章は、預言者イザヤが改めて主からの召しをいただいた、証明をいただいた箇所なんですね。彼は6章になる前、確かに主の預言者として働きはしていました。けれども、改めて神様からこうもはっきりと明確に証明をいただいて、そして彼自身が「主よ、私を遣わしてください」とそのように主に申し上げたのは、ここが最初なんですね。
彼が神様から召し出される、そして彼自身がその証明を受ける、その時に一体何が起きたのか。また神様がこの主の働き人を遣わすにあたって、一体何が条件であるのか。私たちも本当につくばみらいの地に、また次代のために遣わされたいと願うんですが、では一体どのようなものが遣わされるに値する者であるのか、それを今日イザヤ書6章から見ていきたいと思います。
まず、この時代はどういう時代だったのか。1節の方を見ますと「ウジヤ王が死んだ年に」と書いてあります。当時は人々の心が神様から離れていた、そういう時代でした。神様が軽んじられ、また神殿が軽んじられ、主の宮、すなわち礼拝が軽んじられていた時代でした。
神殿というところ、主を礼拝するところが、いかに聖なる場所であるのか、このウジヤ王が体験した出来事から知ることができます。ウジヤ王という者、彼はもともと最初のうちは良い王様だったんですけども、しかし人生の後半、彼は高ぶって悪い王様になっていたということが歴代誌を見ればわかります。
彼は祭司ゼカリヤという祭司に指導を受けていた時がありました。あたかも父親であるかのように、この祭司ゼカリヤはウジヤ王を息子のようにして、神様にしっかりと従うんですよ、そしてこの神殿は軽んじられてはなりませんということを教えていました。その教えに従っていた間、彼の父親代わりの祭司が生きていた間は、本当にウジヤ王はしっかりと主に従っていたんですが、しかしやがてこのゼカリヤが死んで、そしてこの王様、どんどん栄えていきます。そして、そういうふうになっていくと、高ぶりが出てきてしまったんですね。
彼はこの祭司以外は入ってはならないとされているこの主の宮、神殿に入って、そしてこの祭壇の上に、彼自身でお香を焚こうとしたんですね。本来、この主の宮というところ、そこは神様から任命を受けた祭司しか入ってはならないはずのところ、ましてや香を焚くというこう聖なる行為、それは本当に主から特別に使命を受けた者でなくてはならないんですが、しかしウジヤは王として、その中に入って自分が直接神様とのそのやり取りをするんだということで入って香を焚こうとしました。
それを見た祭司たちが、このウジヤ王を止めるために彼の後に入っていって、そしてウジヤ王に注意をします。「王様、あなたはここに入ってはなりません。香を焚くのは祭司の務めであって、あなたはその任命を受けていないから、どうかお控えください」というふうに言うんですね。
その時、ウジヤ王はまだ打たれておりませんでした。ピンピンしていたんですけれども、しかしこの祭司の注意の言葉を聞いた途端、彼はこの心を強情にして怒って、そして無理やりに強引にお香を神様の前に焚こうとしたんですね。怒りの心を持って、無理やりに強引に。そしてその瞬間、その瞬間、ウジヤ王のこの額にツァラアトが、ライ病が現れたんです。
額、本当に自分の思い、これを成し遂げたいという思い、それがもう本当にここに出て、そしてまた頑なな思いがここに現れる。この額というところは、本当に聖書においては、そういう人のその思い、それが現れるところなんですけども、彼の強情な怒りが額に出た途端に、そこがツァラアトに侵されてしまいました。
神の御前において香を焚くという行為、また礼拝という行為、これはいかに聖なるものであるか、それが示されたところであり、そして人間のその熱心だとか、あるいは神様に自分が捧げるんだという、任命も受けていないにもかかわらず、この聖なる務めに立とうとする行為がいかに恐れ多い行動であるのか。
ふさわしくない者が主の御前にお香を焚いて、あの大祭司アロンの2人の息子でさえも、主の御前に間違った火を焚いた時に焼き殺されてしまいました。もう本当にふさわしくない心で主の御前に捧げるということが、いかに恐ろしいことか。
本来だったら、このウジヤ王、もう主の宮に入った途端に打たれてもおかしくなかったんですけれども、まだ打たれませんでした。最初から注意を受けた。その時もまだマシだったんですけども、しかし注意を受けて、その言葉がウジヤ王の耳に入った時に、彼は怒って自分の思いを無理やり遂げようとしたら、このツァラアトがその額に現れてしまいました。本当に主の憐れみがまた注がれていたんですね。注意を受けるんですね。そして注意を受けてもなお強引にこのしてはならないことをする。それでも命が打たれないでこのツァラアトが現れた。これは私たちに対する警告でもあります。
本当に主の御前にふさわしくない心で、この宮において、この主に礼拝を捧げるという一見なんか正しく見える行為、しかし主は心を見られるお方であり、またその人が果たしてそれにふさわしいかどうかを見られるお方です。私たちはですから、本当にこの主の働きをするにおいて、しっかりと自分自身を整えてね。ましてや人を怒り心でもって、この礼拝的な行為をするということ、これは本当にもってのほかなんですね。
私たちはウジヤ王のように怒り狂ったような、ふさわしくない、そういう心でもって主に仕えるということをしていないでしょうか。私たちはよくよく気をつけるべきです。
このウジヤ王が死んだ年に1節に書いてあるんですけども、その年に、主がいかにこの主の宮において、また主の臨在において、いかに聖なるお方であるのかを、主は幻を持ってイザヤに示してくださいました。
イザヤは高く上げられた王座に座しておられる主を見ました。「その裾は神殿に満ちていた」(イザヤ6:1)と1節に書いてあります。神殿というところ、主が住まわれるところだと思われるんですけども、しかし逆なんですね。この神殿さえも主の裾を収めることができないほどに、主は偉大な、偉大な、偉大なお方なんです。
「セラフィムがその上に立っていた。六つの翼があって、二つで顔を覆い、二つで両足を覆い、二つで飛んでおりました。そして互いに呼び交わしています。聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ」(イザヤ6:2-3)
この叫ぶ者の声の上に、この神殿の土台は揺れ動いて、この宮は主の栄光の臨在の煙で満たされました。主の宮、また礼拝するべきところ、これがいかに聖なるところであるのか。
ヘブライ思考において、繰り返しは本当に強調を表すんですが、しかし3回も、これ最高位の強調、主は聖なるお方だと強調されました。本当に私たちは、この聖なるお方の御前に、いかに態度を整え、身なりを整え、清められてでなくてはならないのか。
これに対して、イザヤは絶望します。「ああ、私はもうダメだ」って絶望するんですね。このイザヤが、この神様の聖なる有様に圧倒されて絶望した。その絶望の内容はどんな絶望内容だったかというと、彼、「私は唇が汚れた者で、そしてこの唇の汚れた民の間に住んでいる。しかもそんな私が万軍の神、主をこの目で見てしまった」(イザヤ6:5)これが絶望の内容でした。
この唇、これが本当に汚れているということが真っ先の絶望の内容でした。聖なる万軍の主。イザヤは預言者だったんですよ。神の言葉を預かって、そして人々に届けるという、唇がもう清いと思っていた預言者なんですけど、しかしそれ、そんなイザヤでさえも絶望するほどに、「あ、自分は本当にこの唇が汚れた者だったんだ」という、このことに打ちのめされました。
私たちも本当にこの唇がいかに汚れているか、主の働きをするにおいて、本当にこの唇、これに最も気をつけなくてはならないことが、ここにおいて示されております。
ヤコブ書において唇があって、この舌、本当に小さな器官です。本当にこんなちっこい唇の器官ではあるんですけども、しかし、この小さい器官が大事を言って、この人生という車輪を焼き尽くしてしまうということが書いてあります。本当に唇は火である。そして、その小さな火があの大きな森を燃やすというふうに書いてあります。
私たちはこの唇、本当に気をつけるべきです。軽率な言葉、また本当に軽々しく神の御前に立つこと。軽々しく、この唇から何か思いつきで言葉を発するようなことはあってはならないんですね。そしてこの唇、本当に自分の人生の車輪を焼き、また相手の人生を焼き尽くすようなことにもなりかねません。
これから本当に特に子供たちと関わっていく仕事になっていくんですけども、本当に子供、小さな言葉で傷つきやすい。そういうこともですね、私たちは。ですから、しっかりと今のうちにこの唇を見張って、そして唇が清められた状態で、この働きに出るべきであるんです。
この私たちの唇はどうやったら清められるのか。イザヤは清められます。
「すると私のもとにセラフィムの一人が飛んできたが、その手には祭壇の上から火ばさみで取った燃え盛る炭があった。彼は私の口に触れて言った。見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(イザヤ6:6-7)
この口と火は非常に関連が深いんですね。ラザロと金持ちのお話、皆さんご存知ですね。ラザロ、このお金持ちの前でこの物乞いをしていたんですけど、しかし金持ちは一切彼に何の施しもしませんでした。やがて金持ちはハデスに落とされるんですね。そこはとても暑い暑いところです。そして、特に口が熱いんですね。彼の願いが、この口が、舌が冷やされるということ。もうせめて、もうほんの少しの水でもいいから、自分を、口を冷やしてほしいというほどに、そのハデスというところ、地獄は、口が特に苦しみを受けるところのようです。唇で罪を犯してきた。
本当にこの私たちは、そのことにおいても、ああ、本当に私たちのこの唇で災いを振りまくということはないようにということを私たちは知るべきですけれども、このイザヤは唇にこの祭壇の燃え盛る炭が当てられるんですね。この祭壇の炭火、イザヤの口に、この燃え盛る炭が当てられました。
普通、こんなもう真っ赤に燃えてる炭が皆さんの口に当てられたら、火傷どころの騒ぎじゃないですね。けれども、どうやらイザヤは、あの口が火傷をしないで、その後もしゃべることができたようです。一体これはどういうことでしょうか。
祭壇というところに注目するべきです。祭壇というところは、私たち人間の罪の身代わりに動物がほふられて焼かれる場所なんですね。私たちの身代わりとなった動物が焼かれているのがこの祭壇です。この祭壇ですから、イザヤの代わりに焼かれた動物です。今、この祭壇の中で焼かれている動物は、一体皆さんにとってどなたなのか。イエス様です。
イエス様が皆さんの身代わりになって、屠られて、祭壇で焼き尽くされて、そしてその祭壇で焼かれているイエス様が皆さんに触れるのであるならば、皆さんの口を通して、このイエス・キリストという御言葉が触れられるのであるならば、皆さんの咎は清められるんです。
7節を見ますと、じゃあ7節、皆さんで一緒に読みましょうか。
「彼は私の口に触れて言った。見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(イザヤ6:7)
イエス様は皆さんの代わりに祭壇、十字架という祭壇において屠られ、焼き尽くされる思いで、イエス様は十字架の上で「私は渇く」と、本当に焼かれて焼かれて渇いて渇いて、その思いを皆さんの代わりにされました。
この十字架のイエス様に皆さんが触れるのであるならば、皆さんの不義が取り去られるんです。皆さんの唇は、いつもこの祭壇の炭で焼かれたイエス様を証しする唇であり、御言葉であるイエス様を宣言する唇であるべきなんです。するならば、皆さんがいかに唇が汚れた者であろうとも、いかに今までの人生、罪を重ねてきた者であろうとも、この皆さんの唇を通して御言葉を語り、御言葉を宣言し、またイエス様を褒め称え、賛美する唇であるのであるならば、皆さんの不義は取り去られ、皆さんの罪も贖われるんです。
ですから、私たち、本当にこの唇が清められる必要があるんです。そしてその後です。
イザヤ、主が語っておられる声を聞くんですね。8節なんですけども、8節、じゃあ8節、皆さんと一緒に宣言したいと思います。
「私は、誰を遣わそう、誰が我々のために行くだろうと言っておられる主の声を聞いたので言った。ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)
イザヤはこの不義が取り除かれた、そして本当にこのもう恐れるな、あなたの罪は取り去られたということを聞いたので、この「私を遣わしてください」と言うことができるようになりました。
今日、皆さんに言いたいこと、皆さんは主からの証明があるでしょう。神様からこの仕事をしなさいという証明があるでしょう。その皆さんが一番気をつけるべきことは、唇の言葉です。そして本当にこの唇が汚れた民の間に住んでいるということをイザヤは絶望したんですけども、私たちもこの唇の汚れた人々の間から出て行くべきであり、そして本当に御言葉を語る唇の交わりの中に居続けるべきです。
そして、この唇を真に清められるお方が、祭壇の上に、十字架の上に捧げられたイエス様です。このイエス様ご自身、御言葉であるイエス様ご自身を皆さんの唇から語り出し、いつも暗唱によって唇から御言葉を宣言し、そして皆さんの思い、心が本当にこの御言葉によって清められた、清められてこそ、皆さんは世に出て行くことができ、主のために働くことができるんですね。
テフィリンインターナショナルアカデミーつくばみらいは、御言葉を宣言する者です。これから私たちは子供たちの口を通して、この十字架に捧げられたイエス様なる御言葉を子供たちの口を通して宣言させていく働きをしていきます。
まずは皆さん自身が御言葉を口ずさみましょう。唇を思い描くだけでは唇が用いられませんね。黙読するだけでも、あるいは御言葉を思い巡らすだけでも唇が通りません。皆さんの口から御言葉を宣言して、声に出して宣言してこそ、皆さんは清められ、また整えられるんです。
皆さんはまさにこの御言葉によって清められ、そして主の働き人として大いに大いに有用な者として、そして主から御声がかかった時、皆さんの唇からは「ここに私がおります。主よ、私を遣わしてください」その宣言をして、そして主から遣わされていく皆さんでありますように。
【結論】
主に仕える者として遣わされるために、私たちはまず自分の唇の汚れを認め、十字架で焼き尽くされたイエス様、すなわち御言葉によって清められる必要があります。祭壇の炭火は、私たちの身代わりとなって十字架で屠られたイエス・キリストを表しています。この御言葉であるイエス様を私たちの唇から宣言し、声に出して語り出すとき、私たちの不義は取り去られ、罪も贖われます。唇が清められた者だけが、主の「誰を遣わそう」という御声に「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応答することができるのです。御言葉を暗唱し、宣言し続けることによって、私たちは主の働き人としてふさわしく整えられ、次世代のために、また世界のために遣わされていくのです。
五つのパンと二匹の魚:人の国では1人分。神の国では5千人分!(ルカ9:10-17) 早天祈祷会 2026年2月18日(Wed)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2026-2-18 6:46
五つのパンと二匹の魚:人の国では1人分。神の国では5千人分!(ルカ9:10-17) 早天祈祷会 2026年2月18日(Wed)
Youtube動画
【概要】
目の前には行き倒れになる危険がある5千人の群衆。手元にはわずか五つのパンと二匹の魚…!
しかし、持っている僅かなもの全てを主に差し出す時、人の限界をはるかに超える神の王国が到来する!
あなたは人の王国の限界内で生きるか、それとも神の国の無限の担い手となるか?
【聖書箇所】
ルカ9:10-17
【励ましの言葉】
神の国は不足から始まるのではなく、私たちがまず差し出すところから始まります。イエス様の手から渡された恵みを流し出せば、必ず人々は満足します。
【勧めの言葉】
神の国に積極的に参加しましょう。観客席ではなく、フィールドに出て神の働きに参与する者となりましょう。自分のタラントを地面に埋めず、活用していくことが求められています。
【AIによる文字起こし】
今朝、恵みをいただく御言葉は、ルカによる福音書の9章10節から17節です。では、初めに10節と11節を一緒に読みましょう。
「さて、使徒たちは帰ってきて、自分たちのしてきたことを報告した。それから、イエスは彼らを連れてベツサイダという町へ密かに退かれた。ところが、多くの群衆がこれを知ってついてきた。それでイエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、癒しの必要な人たちをお癒しになった。」
今日で4回目になりますが、主日からずっと5000人への給食の場面を、四つの福音書の並行箇所から学んでいます。主日はヨハネ、月曜日はマタイ、昨日はマルコ、そして今朝はルカによる福音書からです。イエス様がわずか五つのパンと二匹の魚を持って5000人以上を養ったその場面を、四つの方向から見ることになります。
ルカの福音書はお医者さんであるルカが書いたもので、理系的な思考の持ち主です。本当に他の福音書にはない観点を持って、具体的なところを詳しく記しています。
ルカの福音書独特なところで、まず10節では「使徒たちは帰ってきて、自分たちのしてきたことを報告した」と書いてあります。他の箇所にはこの部分がありません。弟子たちは行った先々でイエス様の言われた通りになったこと、すべての必要が満たされたこと、イエス様の御名を用いれば悪霊が追い出され、病が癒されたことを、喜びの報告として次々と伝えたことでしょう。
そして弟子たちは働いてきましたから、疲れてもいました。ですから、イエス様は彼らを連れてベツサイダという町へ密かに退かれました。ベツサイダという町、具体的な町の名前が出てきます。これは「漁師の家」あるいは「食物の家」という意味です。ですから、この漁師たち、人間を取る漁師たちが養いを受けるところ、食物が満ち溢れたところです。そこに密かに退かれました。これは彼らだけで行って休むためでした。
けれども11節、「ところが多くの群衆がこれを知ってついてきた」とあります。それに対してイエス様は、昨日のマルコの箇所では、羊飼いのいない羊のような有様を見て深く哀れんだと書いてありました。そして今日のルカの箇所においては「喜んで彼らを迎え」とあります。
本当になぜ喜んで彼らを迎えたのでしょうか。イエス様も喜ばれるのです。本当に私たちは、時には羊飼いのいない羊のようにさまよい、何をしたらいいのかわからない。周りに獣が牙をむいてきそうな、自分の力ではどうしようもないような、そういう時にイエス様を頼っていく。そういう羊たちがイエス様のところに来る様、しかも5000人以上です。この様を見て、イエス様は喜ばれるのです。
私たちは時に働きに疲れて、ああ休みたいな、ようやくここで休めると思ったら、電話がかかってきて、また仕事に行かなければいけない。ああ、またかと思うかもしれません。しかしイエス様は、本当にこの疲れて行き場を失っている羊が自分のところに頼ってくる、そういう場面においては、いついかなる時も喜んで迎えてくださるのです。また私たち主の働き人も、本当にそのようにイエス様の性質を身に帯びるべきなのです。
イエス様はここで「喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し」と書いてあります。これはルカ独特です。神の国のことを話した、と書いてあります。まず神の国を語られること、これがイエス様のなさることです。奇跡よりもまず前に、その前に、またパン、体の必要よりももっと前に、まず神の国のことをイエス様はなさるのです。「神の国とその義をまず第一に求めなさい」と書いてありますね。
私たちも同じです。イエス様に対して用事があるのは、パンが満たされることだけ。パンの必要が来たら、やっとイエス様のもとに行って、パンの必要が満たされて満腹したら「ああ、ありがとう」と言って、イエス様のもとを去っている。また自分の好き勝手をする。ここには神の国はないですね、皆さん。
神の国、今日の重要なキーワードです。神の国、ギリシャ語原典から見ますと、これは神様の支配領域ということです。あの国、この国、いろんな国がありますけれども、しかしこの神の国という時には、そこがどの国、あの国であったとしても、そこが神の支配領域であるとするならば、そこが神の国です。神の国、それは神様が支配するところで、ここも神の御国になれば、もう本当にそこかしこ、そこが神様の支配の領域になる。皆さんが神様に支配されているとするならば、皆さんが行く先々が神の国になります。
あるお家では、あの旦那さんが支配する国になっているかもしれません。あるところではそうじゃなく、奥さんが支配する国になっているかもしれませんが、けれども、その人その人が神様の支配下にあるならば、そこが神の国になるのです。
ですから、まずパンの必要とか、あるいは何か奇跡的なことが起こることを期待するといったよりも、まず神の国、神の支配が及ぶことをまず求めなくてはならないです。なぜなら、人が支配する国では、五つのパンと二匹の魚は、これは一人以上養えない、満ち足りないです。人の支配する国では、五つのパンと二匹の魚しか手元にない。目の前5000人いるとすれば、もうどうぞ群衆たちお帰りください、それぞれで食べ物を調達してください。これが人の国ですけども、神の国とは五つのパンと二匹の魚でもって5000人以上が満ち足りて、なおかつ働き人の分の籠もいっぱいに満ち溢れる。それが神の国なんです。だから人の支配を捨てて、神の支配、神の国をまず第一に求めなさいということが、ここにおいてルカの福音書においては語られているのです。
イエス様がこの人々の御前に立って、群衆たちに神の国のことを教えられた。そして、その瞬間、そこがもうすでに神の国となっていきました。「癒しの必要な人たちをお癒しになった」とも書いてあります。ですから、癒しの業が起こるのです。癒されなくてはならない人がイエス様のもとに癒しを求めて走っていたからです。
病気の子供を抱えたお母さんがそこにいたことでしょう。その子供を癒してください。イエス様は癒してくださったことでしょう。また病気を持った人、もう本当にこの寂しいベツサイダにわざわざ歩いていくことは大変だったことでしょう。そんな彼が、イエス様のことを見つめたら、イエス様の方がこちらを見つめているのです。イエス様は癒しが必要な人をご存知です。イエス様の眼差しを彼は感じて、イエス様のもとに引き寄せられていったことでしょう。そしてイエス様が癒してくださったことでしょう。
イエス様は皆さんのことも見つめておられます。皆さんをあのこと、このことから解放したい。癒してあげたい。罪を清めてあげたい。それがイエス様のまなざしです。皆さんはイエス様の御前において、本当に自分自身を差し出す。そして神の国が、その支配権が及ぶことをまず大事に皆さんが求めて、そして癒しをいただき、必要の満たしをいただく。そのことがここにおいて成立するのです。
このイエス様が夕暮れまでずっとこの神の国のことを語り、また人々を癒し、その業を行っていきました。でも弟子たちは、このイエス様の神の国のことに目を留めていたのですが、空を見てみると、もう夕暮れが迫っています。日が傾いています。夕日の影が伸びてきています。すると弟子たち、不安になってきたんです。不安の心が広がり、また空腹のお腹がググっとなってくるんです。
で、それで12節見ますと、「12人が御もとに来て、『この群衆を解散させてください。そして、周りの村や部落に行って宿を取らせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちはこんな人里離れたところにいるのですから』」。まあ、もっともなところです。けれども、このこんな寂しいところ、この群衆たちを解散させて、もう5000人、男子だけでも5000人、女性も合わせれば1万人ぐらい。そんな群衆を、まあ各自がそれぞれの村や部落に行って宿を取らせてください。何か食べることができればいい。
弟子たち、なんとなく、ちょっとそれ無理なんじゃないか、こんな辺鄙なところで、それでこんな人数、宿ね、一気にこんな1万人も収容する宿なんて、果たしてあるんだろうか。まあないだろうな、というところがあったかもしれません。とにかく人間の力ね。神の国ではなく、人の国ではそんなもんなんです。神の国が支配する国に対して、人間の支配する国というものは、どうしても不足をきたらせ、不足を数え、そして人間的な思考で、この五つのパンと二匹の魚しかないとするならば、それを1万で割れば、一人頭ね、ほんの小さなパンくずぐらいしか、何ミクロンしか一人頭ないみたいな、なんかそんな風になってしまうんですけど、そこは人の考え、神の国の考えは違います。
神の国の考えは計算ではなく、イエス様に持っていくところから始まるんです。イエス様に持って行けば、そしてイエス様にお与えすれば、イエス様の支配、神の国がそこに広がっていくんです。神の国はですからね、足りるから始まるということではなく、まず差し出すことから始まるんです。
もう一度言いますと、神の国は皆さんの側が差し出すところから始まります。なんか受け取って満ち足りたから始める。これ、人間の国です。人間の国は自分の手元にあるもので何か始めようとしますし、手元にないんだったら、神様に求めるんではなく、人に求め、人に追求し、人から奪い、かき集めて、そこから始める。これが人間の国。けれども、神の国はまず皆さん自身から差し出すところから始まるのです。
「あなた方が与えなさい」。イエス様がおっしゃいます。13節で「イエスは彼らに言われた。『あなた方で何か食べるものをあげなさい』」。イエス様は、この弟子たちが解散させてくださいというのに対して、イエス様は「あなた方で」、無茶ぶりのように聞こえますけども、「あなた方で何か食べるものをあげなさい」。これね、チャレンジです。
神の国は皆さん、弟子がまずそこに参与する世界です。参政党っていう党がありますね。参加する政治の党。皆さんも神の国の政治に参加する。そこから神の国が始まるんです。神の国は、あの傍観者の国ではありません。神の国は観客席の側のものではなく、この観客席ではなく、グラウンドに出て、そのフィールドに立って、神の政治に積極的に参加するところから始まるのが神の国です。まず皆さん側が差し出すところから始まります。そしたら皆さん一人一人のその差し出したところから神の支配が始まっていくんです。
神の国は、自分がもう装備が十分整ったから、さあ、いざ出陣ではなく、主が今行けと言われたら、装備はともかく、そして足を一歩踏み出すところから始まります。イエス様は「あなた方が行って与えなさい」とこの場面でおっしゃいました。これがまずイエス様の側の挑戦です。それに対して私たちは答えて参加するものです。
信仰者は観客席で育つものではなく、競技場に、フィールドに出て育つものです。積極的に働きに参加するものこそ、多くを実らせるんです。五タラントを預けられたら、その五タラントを活用しに行く。二タラントだったら二タラントを活用しに出ていく。一番良くないのは、タラントを地面の中に埋めて活用しない、参加しない。これが神の国において悪い怠惰なしもべだということになってしまうんです。
だから私たちは積極的にそれを活用して活用していけば、神の国がどんどんどんどん広がっていくんです。タラントのたとえでイエス様が話された時、タラントで活用して損失を出しましたなんてこと、一つもなかったです。必ず五タラント活用したら、五タラントもう余分に儲けました。損しましたはない。これが神の国です。皆さんが神の国のために行くならば、必ずそれが広がっていくんです。
で、そしたら、この人々を座らせなさいっていうふうにイエス様は言われました。14節では「それは男だけでおよそ5000人もいたからである。しかし、イエスは弟子たちに言われた。『人々を50人ぐらい組にして座らせなさい』」というふうに言いました。弟子たちはそのようにして全部を座らせたと書いてあります。座らせる、食事の体制を取らせることです。
で、ここで、組にしてということが語られました。他の福音書でも、この座らせる時に50人ぐらい、あるいは100人ぐらい、そういう組にして、まあ、いろんなグループに、まあ何人いる、各グループごとに人数は違いますけれども、それで組にして座らせる。これは何を意味するか。これはこの神の国というものは、共同体の中で、それが行われるということです。
共同体から離れて、離れて離れ離れになっては、このイエス様から割いていただく恵みを流し出していくこともできませんし、受け取ることもできないんです。必ずこのイエスキリストの集いの中で、これは行われるんです。まずはイエス様の手から、手にあるパンがイエス様の手で割かれました。で、そのパンが割かれたものは弟子の手に渡りました。弟子は受け取りました、イエス様から。で、イエス様から受け取ったパンを、さらに弟子たちはこの共同体の中に出て行って、そのイエス様からいただいた恵みを割いて、また配る。また配る。これは決して尽きないんです。
イエス様からいただいた恵みを共同体ごとに配り、そして共同体の中では人の手から人の手にまた渡っていって、そして人から人へと、手から手へと、この神の国は広がっていくものなんです。神の国の性質、それは人から人へと流れ出していくものです。いや、流し出していくものです。自然に流れていくものではない。人の側がこの参与をするんです。参政党、神の国の参政権を皆さん持っており、そしてそれに積極的に参加するべきなんです。
まあ、世の中の参政党は、あの人の政治が行われる党なんですけども、しかし、神の国は神の国の政治が行われるところであり、それは皆さんが積極的に参加してこそ初めて働きが行われるものです。参加しないならば何も起これません。参加してこそ起こっていくものです。そしてそれは弟子の手から人の手と、人の手からさらに人の手と、イエス様の恵み、イエス様のパン、これが流し出されていくものです。
16節見ますと、「するとイエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた」と書いてあります。人の手から人の手へと渡りました。イエス様が祝福してくださったもの、それがまず我ら主の働き人の手に渡り、それが世に渡っていく時、人々の間で奇跡が起こるんです。
17節、「人々は皆、食べて満腹した。そして余ったパン切れを取り集めると、12カゴあった。」アーメン。イエス様から手渡された恵みを主の働き人が割いて、それを手から手へと渡していく時、流し出していく時、人々は満腹するんです。
今、つくばみらいの地において働きを皆さんしていますね。準備をしていますけれども、そこの人々は満腹するんです。満足するんです。イエス様の手から渡されたものを皆さんが流し出せば、それを受け取った人々は満腹するんです。だから皆さん、不信仰に陥ってはなりません。果たしてこれ、人々が満足するんだろうか。いやいや、イエス様の手から渡されたものを人に渡せば、必ず人は満足するものなんです。
イエス様の手から渡された、これを果たしてこんなパンが裂かれた、こんな小さなもの、人の手に渡って、人からなんだ、こんな、なんか怒られたらどうしようかって、そんな不安があることは一切なし。神の国のものは人々に流れ出して満足させるものです。もし相手が満足しない、怒るってキーとなるとするならば、それは神の国の人ではなく、ああ、じゃああなたには神の国の恵みふさわしくなかったですね。じゃあ、他の人に渡します、になればいいんです。
私たちは本当にこのイエスキリストの恵み、これを人に流し出していくべきものです。神の国においては、誰かが持て余して、誰かが飢えるということないんです。共産圏の人々、誰かが持て余して、誰かが飢えるということが非常に顕著な、そういう国、国です。共産圏の国や一部の人が持て余して、他の人々大多数が飢えている。これが人の国です。神の国では、そういったことはありません。誰かがいっぱい持っていて、ある人々が飢えている、それではありません。神の国は不足で始まったものは、満ち足りて余りあっていっぱいになることで終結するものです。
人の国が、初めはいっぱいあったものが、どんどん人がそれを奪って奪ってパイを、それを得て、ある人は賄賂を持って、で、そして有効に進めて、で、賄賂を集める側がどんどん肥え太って、で、賄賂を差し出さなくてはならない側がどんどん痩せ細っていく。これが人の国。けれども、神の国はわずかな、五つのパンと二匹の魚しか、わずかしかなかったものが、増え広がって、増え広がって、満ち足りて終わる。これが神の国です。
今日、ルカの福音書の方からのこの箇所においては、皆さんにチャレンジが与えられています。皆さんは果たして参加型でしょうか、それとも見物型になるでしょうか。イエス様は「あなた方は与えなさい。あなた方が働きなさい」というふうに言っておられます。皆さんの今持っているパンは小さいかもしれないです。けれども主は言われます。あなたのそのパンをまず差し出しなさい。あなたの力は小さいかもしれないけれども、信仰を持って、この参加する時、皆さんのタラントは倍に倍に広がっていくものです。一番良くないのは、タラントを地面の中に埋めたままであるということでした。
神の国は誰かがやってくれる国ではありません。皆さんが、自分が参加するものです。皆さんが今日その一歩を踏み出して、参加して、どんどんと多くを稼いでいく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
神の国は、私たちがイエス様から受け取った恵みを積極的に人々に流し出していくところから始まります。観客席ではなく、フィールドに立って神の働きに参加する時、わずかなものでも神の祝福によって多くの人を満足させることができます。神の国とその義をまず第一に求め、自分のタラントを活用して、神の支配が及ぶ領域を広げていく者となりましょう。
