メッセージ - 202604のエントリ
イエス・キリストの復活と真理の光(マタイ28:11-15)
メッセージ音声
【概要】
イエス様の復活という真実を嘘で覆い隠そうとした祭司長たちの姿から、私たちの中にある罪を隠す性質を見つめ直し、光の子として真理に立つことの大切さを学びます。
【聖書箇所】
マタイ28:11-15
ヨハネ1:5
【戒めの言葉】
自分の間違いや都合の悪いことを認めず、嘘で覆い隠そうとする罪の性質に注意しなければなりません。
【励ましの言葉】
どれほど闇が真理を覆い隠そうとしても、光である真理は決して消えることはなく、必ず闇に打ち勝ちます。
【勧めの言葉】
私たちは光の勇士として立ち上がり、暗闇に覆われたこの世界に、イエス・キリストの復活の希望の光を届けていきましょう。
【***詳細***】
マタイによる福音書の28章11節から15節を、新改訳2017年版の聖書で朗読します。皆さんもそれぞれの聖書で確認してください。
「彼女たちが行き着かないうちに、番兵たちが何人か都に戻って、起こったことをすべて祭司長たちに報告した。そこで祭司長たちは長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、こう言った。『「弟子たちが夜やって来て、我々が眠っている間にイエスを盗んで行った」と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。』そこで、彼らは金をもらって、言われたとおりにした。それで、この話は今日までユダヤ人の間に広まっている。(マタイ28:11-15)」
アーメン、ハレルヤ。イエス様、あなたの復活は確かに起こりました。それが真実であることを感謝します。世の中はその事実を塞ごうとしています。今もなおその力が働いており、今日までユダヤ人の間だけでなく、世界中にこの偽りが広まっています。このつくばみらいの地もそうです。どうか、あなたが真理の光を照らしてくださいますように。今から御言葉を取り次ぐ私の唇を清め、聞く人々の耳を清めてください。私たち全員の体調も霊的な状態も整えられ、御言葉の光の前で大いに恵まれ、癒やされ、祝福されますように。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
2026年4月6日の月曜日にメッセージを担当した際、私は聖書ソフトで新改訳2017年版を選んで使いました。以前は第三版がよく使われていたのですが、その月曜日に2017年版を使ったところ、阿部先生から「林先生、2017年版を使ってくださって嬉しいです」と言葉をかけられました。次世代の教育をしているのだから、古い版ではなく新しい版へ移行していくのが神様のみこころなのだと感じ、これからは順次2017年版を使っていこうと思っています。
今日の箇所は、イエス様の復活の場面の一つです。しかし、ここに登場するのはイエス様を信じる弟子たちではありません。イエス様の復活を聞いてもそれを受け入れず、反発する反対勢力の人たちの物語です。
イエス様の復活は紛れもない事実です。実際に地震が起き、重たい墓の石が動かされ、天使が降りてきました。その驚くべき場面に立ち会ったのは、イエス様を信じていた人たちではなく、ローマの兵士2人だったのです。兵士たちはその光景を見て震え上がり、死人のようになってしまいました。
女性たちが天使からイエス様の復活を聞き、弟子たちのところへ走っていく間に、兵士たちは我に返りました。そして、彼らがいち早く向かった先は、真実を語るべき場所ではなく、祭司長たちのところでした。
兵士たちは祭司長たちに、起こったことをありのままに報告しました。見張りをしていたら突然地震が起き、天使が降りてきて墓の石を転がし、墓の中が空っぽになってしまったという事実です。イエス様ご自身がそこに現れたかどうかは書かれていませんが、とにかく墓が空になったという出来事を伝えました。弟子たちにどう伝えるべきか迷うほどの真実を、兵士たちは祭司長たちにそのまま伝えたのです。
この報告を聞いた祭司長たちは、どうしたでしょうか。もし彼らがイエス様の復活など全く信じていなかったのなら、「何を馬鹿なことを言っているんだ。酒でも飲んでいたんだろう。顔を洗って帰れ」と追い返したはずです。しかし、祭司長たちはそうしませんでした。なんと、兵士たちに多額のお金を渡し、口裏合わせをさせたのです。お金を渡して嘘をつかせたということは、祭司長たちは兵士たちの報告を「信じた」ということです。
これはとても不思議な逆転現象です。イエス様に出会った女性たちから復活の知らせを聞いた弟子たちは、最初それを信じませんでした。それなのに、イエス様を十字架につけた祭司長たちは、イエス様の復活を信じてしまったのです。
私たちクリスチャンも、これに似たところがないでしょうか。教会の中では「イエス様は確かに復活されました」と信じると言いながら、教会から一歩外に出ると、まるで信じていないかのように、イエス様の復活の力などないかのように振る舞ってしまうことはないでしょうか。
祭司長たちや宗教指導者たちは、兵士たちの様子を見て「イエス様は本当に復活されたんだ。どうしよう」と慌てて議論したことでしょう。しかし彼らが選んだ道は、「真実をなかったことにする」という選択でした。真理が目の前で起きたのに、それをなかったことにしようとする力は、今の世の中にも働いています。悪魔サタンは、真理を嘘で覆い隠し、なかったことにするということを昔からずっと続けてきました。
実際にあった社会の出来事を例に挙げましょう。三菱自動車のリコール隠しの問題です。1980年代から、車に欠陥があることを会社はずっと隠していました。事故やクレームがあってもリコールをせず、事故を「なかったこと」にする体質が会社の中で当たり前になっていました。
では、隠したことで欠陥という真実は消えたのでしょうか。いいえ、欠陥は確かにそこにありました。ただ、覆い隠されていただけで、根本的な解決は何もされていなかったのです。
そして2002年、横浜で母と子が犠牲になる痛ましい死傷事故が起きました。大型トラックのハブが壊れたことが原因でした。この事故によって人命が失われ、20年近くも会社ぐるみで欠陥を隠し続けていたという真実がついに発覚しました。結果として会社の社会的な信用は失墜し、より大規模なリコールが必要になり、経営危機に陥ってしまいました。
もし最初の段階で間違いを認め、悔い改めて対処していればよかったのです。しかし、嘘で覆い隠し、対処しないまま放置し続けた結果、問題はどんどん蓄積され、最後には裁きの火の燃える炭火が自分たちの頭の上に重くのしかかってきたのです。
今日の聖書箇所で起きていることも同じです。イエス様の復活は真実であり、兵士たちはその真実を伝えました。しかし、それに対する反対勢力も確かに働くということを私たちは知っておくべきです。
自分にとって都合の悪い真実を覆い隠そうとする人間の性質は、人類の最初、アダムとエバの時代から始まっています。彼らは神様の言いつけを破り、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。その結果、自分たちが裸であることに気づき、真っ先にした行動は、いちじくの葉を綴り合わせて自分たちの体を覆い隠すことでした。自分の恥ずかしい部分、失敗した部分を「なかったこと」にしようとする性質は、最初の人類からずっと続いているのです。
私たちの中にも、この肉体を持っている限り、失敗を言葉や行動で巧みに覆い隠そうとする性質が残っています。しかし、それはしてはいけないことです。なぜなら、隠したものはやがて必ず、より大きな形で明るみに出るからです。たとえこの地上で誰にも見つからなかったとしても、神様はすべてをご存知です。
復活は確かに起こりました。それは真理です。兵士たちはそれを伝えましたが、祭司長たちは、多額のお金を渡してそれを覆い隠そうとしました。兵士たちはお金を受け取り、祭司長たちに言われた通りの嘘を人々に広めました。その結果、ユダヤ人の間で、そして全世界で「イエス様の復活はなかった」という嘘が広まってしまったのです。
なぜ祭司長たちは真実を隠したのでしょうか。もしイエス様の復活が本当だと認めてしまえば、自分たちが間違っていたことを認めなければならないからです。それはプライドが許さない、恥ずかしい、自分の正しさを貫きたいという心理が働いたのです。人間は、自分の罪や間違いを認めるよりも、真理のほうを歪めてしまう道を選びやすいという弱さを持っています。
私たちも、神様に従うべきだということ、イエス様の復活が真理だということは分かっています。それでも、都合が悪くなるとそれを覆い隠してしまおうとする弱さがあるかもしれません。
しかし、私たちは知るべきです。真理を消すことは絶対にできません。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)」と聖書にある通りです。
私たちは、イエス様が復活されたという真理の土台に、しっかりと立ち続けるべきです。イエス様は「全世界に出て行き、福音を伝えなさい」と言われました。弟子たちはその言葉通りに福音を伝えていきましたが、彼らが行く先々には、必ず「イエス様は復活しなかった。弟子たちが夜中に遺体を盗んだのだ」という嘘も入り込んできました。
しかし、少し考えればそれが嘘であることは分かります。2026年4月8日の水曜日に先生がおっしゃった通り、あんなに重たい墓の石を夜中にゴロゴロと動かしたら、見張りをしていた兵士たちが絶対に気づくはずです。また、狭い墓の中から何人かで担架か何かに乗せて遺体を運び出そうとすれば、絶対にバレてしまいます。色々と無理があるのです。
それでも、嘘を信じたい人は嘘のほうを信じてしまいます。自分より偉い王様が存在しては困ると考えたヘロデ王も、イエス様を亡き者にしようとしましたが失敗し、その後すぐに亡くなりました。
イエス様が復活して生きておられると困る人、「神様がいては困る」「裁きがあっては困る」「自分の罪を認めて悔い改めなさいと言われるのは嫌だ」と思う人は、祭司長たちの側につき、嘘を広める側に立ってしまいます。
現代でも、共産圏の国々などでは、真実を隠すために多額のお金が使われることが多々行われています。イエス様の存在をなかったことにしようとする動きは、今の日本のマスメディアの中にもあります。インタビューでイエス様のことを証ししても、必ずカットされてしまうような力が働いています。
けれども皆さん、真理を消すことは絶対にできません。光と闇の戦いにおいて、光であるからには必ず光の側が勝つのです。一時的に闇が覆い尽くしたように見えても、後になってその闇は必ず、大規模で恥ずかしい形で崩壊し、光が必ず輝きを放ちます。
私たちは、光の側に立ちましょう。皆さんは、光の勇士たちです。光の勇士として行動し、このつくばみらいの地に、イエス・キリストの復活という希望の光を力強く伝えていってください。暗闇に覆われたこの土地に、まだ福音がない場所に、福音の光をもたらす皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します。アーメン。
愛するイエス様。あなたは真の光であり、光は必ず闇に勝利することを感謝します。この世界は初め、暗闇に包まれていましたが、神様が「光、あれ」と言われると光ができました。神様は光を良しとされました。神様は闇よりも光を望んでおられます。
私たちも今、このつくばみらいの地や、子どもたち、次世代に向けて光をもたらす働きをしています。どうか、あなたが私たちの間を明るく照らし、進むべき道と方向を示してください。今日もまた、あなたの光の勇士として歩むことができますように。今日という一日、そして私たちが始めている働きを感謝し、愛する主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
【結論】
イエス・キリストの復活という真理は、いかなる権力や嘘によっても覆い隠すことはできません。私たちは、自分の罪や弱さを隠そうとする性質を退け、真理の光の上に堅く立ち、暗闇の世に希望の光を届ける「光の勇士」として歩んでいくことが求められています。
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復活のイエス・キリストと福音を伝える使命(マタイ28:1-10)
メッセージ音声
【概要】
死を打ち破り復活されたイエス・キリストが、「恐れるな」「喜べ」と私たちに語りかけ、共にいてくださる恵みと、次世代へ福音を伝える使命について語られたメッセージです。
【聖書箇所】
マタイ28:1-10
【慰めの言葉】
悲しみや死の力に打ちひしがれている時でも、世の中の誰よりも早く主を慕い求める者には、イエス様が真っ先に出会ってくださいます。
【励ましの言葉】
死のカテゴリーを打ち破り永遠に生きておられるイエス様が、「恐れることはありません」「今、喜べ」と私たちに力強く語りかけておられます。
【勧めの言葉】
私たちはイエス・キリストにあって命に属する神の家族とされました。主が常に共にいてくださることを信じ、全世界に出て行き、次世代の子どもたちへ福音を伝えていきましょう。
【***詳細***】
さて、今朝のメッセージで恵みをいただく御言葉は、マタイによる福音書28章1節から10節です。まずは1節と2節にこのように書かれています。
「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の使いが天から下って来て、石をわきへ転がして、その上に座ったからである。」(マタイ28:1-2)
イエス様は十字架にかかって死なれましたが、安息日が明けた日曜日、つまり週の初めの日に復活されました。イエス様が復活して一番最初に出会ってくださったのは、この女性たちでした。イエス様が十字架を背負ってゴルゴタの丘へと向かう時、ヨハネ以外の弟子たちは皆、恐れて逃げてしまいました。しかし女性たちは、自分たちには何もできなくても、ただ泣きながらイエス様の後をついて行きました。そして日曜日の明け方、まだ太陽が昇りきらない暗いうちから起き出し、イエス様の遺体に防腐のための油を塗るために墓へと向かったのです。彼女たちはイエス様が復活したとは信じておらず、死んだままだと思い込んでいました。それでも、イエス様を心から慕って早朝から行動しました。現代の私たちも同じです。世の中の多くの人たちがまだ眠っている早朝から、イエス様を慕って御前に進み出ています。そのように慕い求める私たち一人ひとりに、イエス様は必ず出会ってくださいます。
彼女たちが墓に着くと、大きな地震が起こりました。主の使いが天から降りてきて、墓の石を脇に転がしたからです。イエス様はすでに復活しておられたので、たとえ御使いが石を転がさなくても、墓の外に出ることはできました。鍵のかかった部屋にさえ自由に入ってこられる方だからです。それにもかかわらず、御使いがわざわざ石を転がしたのは、私たち人間や弟子たち、そして世の中の人々に対して「確かにイエス様は墓の中にはいない」ということをはっきりと見せて証明するためでした。
御使いの姿は稲妻のようで、衣は雪のように白く、それは天国にいる者の姿そのものでした。墓を番していた兵士たちは、その姿を見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになってしまいました。しかし、イエス様を慕って来た女性たちはそうはなりませんでした。御使いは彼女たちにこう語りかけます。
「恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。」(マタイ28:5-6)
今日の箇所では「恐れることはありません」という言葉が何度も繰り返されます。御使いが石を動かして墓の中を見せたのは、死人が葬られる「死」のカテゴリーの中に、もはやイエス様はおられないことを示すためです。ブッダやムハンマドといった歴史上の人物たちは、皆「死」のカテゴリーの中に留まっています。しかし、私たちの主イエス様は死の力を打ち破り、永遠に生きておられる「命」のカテゴリーにおられます。そして、イエス様を信じる私たちもまた、同じ「命」のカテゴリーに属しているのです。
イエス様は十字架にかかる前から、「三日目によみがえる」と何度も弟子たちに伝えていました。しかし、弟子たちの誰一人としてそれを信じていませんでした。これは、現代を生きる私たちにとっても同じことが言えます。聖書には、世の終わりに何が起こるか、そしてイエス様が再び来られる(再臨される)ことが前から書かれています。イエス様は十人の乙女の例え話を通して、盗人が夜にいつ来るか分からないように主の日も来るのだから、目を覚まして備えているようにと教えられました。私たちはこの御言葉を信じ、イエス様が来られるその良い日のために、自分自身をしっかりと整え、準備をしておくべきです。
御使いはさらに女性たちに告げます。
「さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って、弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか。私は確かにあなたがたに伝えました。」(マタイ28:6-7)
不思議なことに、神様は震え上がって隠れている弟子たちに直接御使いを送るのではなく、女性たちを通してキリストの復活を伝えるという方法をとられました。パウロが「宣教の愚かさ」と表現したように、神様はあえて人間を通して御言葉を伝えることを選ばれたのです。女性たちは、「イエス様が死人の中からよみがえられたこと」、そして「弟子たちより先にガリラヤへ行き、そこで会えること」を伝える大切な役割を託されました。
私たちにも同じように伝える役割が与えられています。私たちは聖書を通して直接神様から言葉を受け取っています。ですから、私たちの生きる場所や、全世界に出て行って福音を宣べ伝える使命があるのです。そして、すべての権威を与えられたイエス様が、いつも共にいて働いてくださるという約束をいただいています。
続いて、8節と9節にはこう書かれています。
「彼女たちは、恐ろしくはあったが、大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。すると、見よ、イエスが『おはよう』と言って彼女たちの前に現れられた。彼女たちは近寄って、その足を抱き、イエスを礼拝した。」(マタイ28:8-9)
弟子たちはガリラヤに行かなければイエス様に会えませんでしたが、この女性たちは墓から走って行く途中、すぐにイエス様ご自身と直接出会うことができました。これは早朝から主を慕い求めたことの大きな幸いです。イエス様は「おはよう」と声をかけられましたが、これは当時の挨拶で「喜べ」という意味を持つ言葉です。しかも、現在形であり、能動態の命令形が使われています。つまり、「今、現在、喜びなさい」という復活の主からの力強い命令なのです。「恐れるな」、そして「喜べ」。これがイエス様からの大切なメッセージです。
10節でイエス様はさらにこう言われます。
「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」(マタイ28:10)
ここでも「恐れることはありません」と繰り返されています。イエス様は今、このつくばみらいキリスト教会に集う私たちにも「恐れることはありません」と語りかけておられます。私たちが祈りながら歩み、探し求めた結果、阿部先生ご夫婦を通して神様の導きがあり、この教会堂の場所が与えられました。世の中の不動産会社の競争を乗り越えて、とても良い条件でこの建物を手に入れ、内装や外装の工事も驚くほど順調に進んできました。しかし、ここで終わりではありません。イエス様はこの場所でこれからさらに素晴らしい計画を進めてくださいます。私たちは復活の主の力がここで豊かに働くことを心から期待しています。
イエス様は弟子たちのことを「わたしの弟子たち」ではなく「わたしの兄弟たち」と呼びました。十字架と復活を経て、弟子たちは単なる従者から、イエス様を長男とする「神の家族の兄弟姉妹」へと格上げされたのです。やがてイエス様が再び来られる時、私たちはキリストの花嫁となります。私たちはイエス様によってすべての必要が備えられ、主を慕い求めるなら必ず出会ってくださいます。
そして、イエス様は私たちに命じられます。「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、わたしが命じておいたすべてのことを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」
今、私たちはイエス様と共にいます。そして、福音を伝える役割が託されています。だからこそ、私たちは次世代の子どもたちに御言葉を伝え、育てる働きを一生懸命に進めているのです。どうかイエス様の力と導きがこの働きの上に豊かにあり、私たちがこの時代において、イエス様を伝える大切な役割を果たしていくことができますように。
(祈り)
愛するイエス様。今、私たちの内に働き、共にいてくださる恵みを感謝します。復活の主はよみがえられました。もはや死の中にはおられず、永遠に生きておられます。私たちもその永遠の命に組み込まれていることを感謝します。すべての権威が与えられ、アルファでありオメガであるイエス様が、この場所を備え、私たちの働きを導いておられます。どうか、私たちが歩むべき道を示し、そこを進ませてください。
主よ、本来なら塵(ちり)に帰るしかない私たちに、新しく命の息を吹き込んでくださることを感謝します。罪を犯し、神様から離れるしかなかった私たちを取り戻すため、イエス様は天の御座を捨てて来てくださいました。ご自身の命を裂き、必ず死ななければならない私たちを贖って(あがなって)くださったことを感謝します。イエス様は私たちを買い戻してくださった権利者です。
このつくばみらいの地にこの教会が買い戻され、私たち一人一人が買い戻されました。さらに多くの魂を買い戻すために、神様が私たちをここに置いてくださっていることを心から感謝します。私たちはもはや死のカテゴリーにいる者ではなく、イエス・キリストの命に連なる者となりました。私たちの心に、死に打ち勝ったイエス様と共に生きる信仰を与えてください。イエス様が十字架で全うしてくださったことによって、あらゆる呪いと死は私たちから離れ去りました。私たちの死は、イエス様の命に飲み込まれました。
私たちが遣わされているこの土地にはびこっているあらゆる暗闇や死の力を、イエス・キリストの御名による命で飲み込み、打ち破ることができますように。この土地に住む人々、そして次世代の子どもたちが、死から命へと移されますように。今日も私たちを、よみがえりの命の中に入れてくださったことを心から感謝し、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
【結論】
イエス・キリストは死の力を打ち破り、永遠に生きておられる復活の主です。墓を訪れた女性たちに真っ先に出会い「恐れるな」「喜べ」と語りかけられたように、主を慕い求める者に今日も豊かに出会ってくださいます。私たちはキリストによって死から命へと移された「神の家族」として、主が世の終わりまで共にいてくださるという約束を固く握り、次世代の子どもたちや全世界の人々に、この喜びの福音を伝えていく尊い使命を与えられています。
ゲツセマネの祈りと十字架の恵み(マルコ14:32-42)
メッセージ音声
【概要】
イエス・キリストがゲツセマネの園で捧げられた苦難の祈りと、誘惑に負けて眠ってしまった弟子たちの姿を通して、十字架の贖いの恵みを深く覚え、目を覚まして主と共に祈り歩むことの大切さを説いたメッセージです。
【聖書箇所】
マルコ14:32-42
【慰めの言葉】
罪を知らないイエス様が、私たちの身代わりとなってすべての罪を背負い、父なる神様からの断絶という想像を絶する深い悲しみと苦しみを味わってくださったからこそ、私たちは罪赦され、神の子供とされる恵みをいただきました。
【励ましの言葉】
私たちの肉体は弱く、すぐに誘惑に負けてしまう存在ですが、イエス様はそんな私たちをも受け入れ、十字架の上で「完了した」と宣言して救いを全うしてくださいました。イエス様が共にいてくださるので、私たちは自分に与えられた十字架を負って最後まで歩み抜くことができます。
【戒めの言葉】
祈るべき大切な時に祈らず、居眠りをしてしまう弟子たちの姿は、現代を生きる私たちの姿でもあります。大切な時が過ぎ去ってから後悔することのないよう、霊的に目を覚ましている必要があります。
【勧めの言葉】
心は燃えていても肉体は弱い私たちだからこそ、誘惑に陥らないように目を覚まして祈り続けましょう。私たちの願いではなく、神様の御心がなることを第一に求めていくのです。
【悔い改めの促しの言葉】
主がこれほどの苦しみの中で祈っておられた時、私たちは無関心でいなかったでしょうか。主にのみ十字架を負わせたまま、知らない顔をして生きてはいないでしょうか。自らの弱さと罪を認め、イエス様の尊い血潮による清めを求めて祈りましょう。
【***詳細***】
私たちは初めに、マルコによる福音書14章の32節を宣言したいと思います。
「ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。『わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。』」(マルコ14:32)
愛する私たちの主イエス様は、このゲツセマネの園において、深く悲しみながら祈られました。しかし、それに引き換え、弟子たちは居眠りをしてしまい、誰一人としてイエス様の祈りに最後まで参加することはできませんでした。そのことを思うとき、本当に心が痛みます。しかし、十字架の御業が成し遂げられた後、イエス様はいつも祈り、私たちを力づけてくださっています。この受難週において、私たちがしっかりとイエス様にとどまり続け、死に至るまでも忠実であり、親密な交わりのうちに歩み通すことができるよう、神様が一人ひとりの心を整え、これから取り次ぐ御言葉を通して助けてくださることを祈ります。
イエス様が祈られた「ゲツセマネ」という場所の名前には、「油搾り」という意味があります。オリーブの木から採れた実を機械で圧搾し、そこからオリーブ油が滴り落ちていく、そういう場所です。このゲツセマネにおいて、イエス様ご自身がまるでオリーブの実のように極限まで圧縮され、押しつぶされ、油が滴るような、あるいは血の汗が滴るような、壮絶な祈りを捧げられました。
イエス様は弟子たちにこう言われました。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」(マルコ14:34)
イエス様も、深く悲しまれました。イエス様は神の御子です。この世界が始まる前から、父なる神様の懐深くで、いつも親密な交わりを持っておられました。皆さんも、心から信頼できる親しい人と断絶してしまったら、どれほど悲しいか想像できるでしょうか。イエス様にとって、父なる神様との永遠に親密な交わりが断絶され、神様から完全に拒絶されるということは、宇宙で一番深く、苦しく、悲しいことでした。イエス様は、その恐るべき体験をいよいよ迎えようとしていたのです。
本来、神様から断絶され、罪の処罰を受けて永遠の苦しみを味わうべきなのは、罪を犯した私たち人間のほうです。しかし、罪を全く知らない清らかなイエス様が、私たちの身代わりとなって全人類の罪を背負い、ご自身が「罪そのもの」とされて、父なる神様からの断絶を受けられました。これは、私たちには到底計り知れないほどの深い悲しみと苦しみです。私たちが受けるべき処罰を、イエス様が身代わりに受けてくださるために、イエス様は「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とおっしゃるほどに苦しまれたのです。
イエス様は、神様であると同時に、私たちと同じ「人」としてこの世に来られました。人として来られたからこそ、鞭で打たれれば当然痛いですし、手足に釘を打たれればとてつもない激痛を感じます。そして、最も親しい父なる神様から引き離されることは、死ぬほど悲しいことでした。私たちは時々、「イエス様は神の御子だから、私たち人間ほどには痛みや悲しみを感じなかったのではないか」と勘違いしてしまうことがあるかもしれません。しかし、決してそうではありません。イエス様は、私たち人間の罪を救い、私たちの身代わりとなるために、私たちと全く同じように痛みを感じ、悲しむことのできる「人」として天から降りてきてくださったのです。人間として罪の処罰を引き受け、神様と断絶されるために来られたからこそ、これほどまでに深く悩み悲しまれたのです。
だからこそ、イエス様は弟子たちに「ここを離れないで、目をさましていなさい。私のために祈っていてください」とお願いされました。その後、イエス様は少し進んで地面にひれ伏し、祈り始められました。
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ14:36)
イエス様はここで、「この杯を取りのけてください」と祈りました。この「杯」とは、全人類の罪を背負って十字架につけられ、父なる神様から完全に断絶されるという恐ろしい苦しみのことです。イエス様は「父よ、あなたにおできにならないことはありません」と祈りました。父なる神様には不可能なことはありませんから、イエス様を十字架にかけずに人類の罪を取り除く方法も、おできにならないはずはないと考えられたほどの苦悩でした。
しかし、イエス様はご自身の願いを押し通すことはしませんでした。祈りの最後に「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と付け加えられたのです。私たちも、神様にどんなことでも正直に願い求めることができます。しかし、私たちが常に忘れてはならないのは、最後に「私の願いではなく、神様の御心がなりますように」と祈ることです。神様の御心こそが、私たちにとって常にベストであり、最善だからです。
この時、イエス様がご自身の願いを捨てて父なる神様の御心に従い、十字架にかかってくださったからこそ、黙示録に記されているように、全被造物から「屠られた小羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です」と褒めたたえられるのです。イエス様が屠られてくださったおかげで、私たちの罪はイエス様と共に十字架に釘付けにされ、私たちはイエス様の尊い血潮によって買い取られ、神の子供とされるという素晴らしい身分を与えられました。私たちはこのゲツセマネでの祈りと、イエス様の苦しみを決して忘れてはなりません。
イエス様が祈りを終えて戻って来られると、なんと弟子たちは眠ってしまっていました。そこでイエス様はペテロにこう言われました。
「シモン、眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マルコ14:37-38)
弟子たちは、たった一時間も祈り続けることができませんでした。それが10分だったのか、20分だったのか、40分だったのかはわかりません。しかし、イエス様が血の汗を滴らせるほどの最大の苦しみの中で祈っているその瞬間に、彼らは目を覚まして共に祈ることができなかったのです。
ここでイエス様が注意されたのは、「誘惑に陥らないように目を覚まして祈りなさい」ということでした。私たちは、祈るべき時に祈りに集中できず、眠気という誘惑や、テレビ番組、買い物のことなど、別の楽しいことに心を奪われてしまう誘惑にとても弱いです。心の中では「神様のために祈りたい」と燃えていても、私たちの肉体は本当に弱いものです。困難に耐えることよりも、自分を気持ちよくさせる誘惑の方に流されやすいのです。だからこそ、イエス様は「誘惑に陥らないように、霊的に目を覚まして祈り続けなさい」と警告されました。
その後、イエス様は再び同じ言葉で熱心に祈られました。そして戻って来ると、弟子たちはまたしても眠っていました。彼らはひどく眠気がさしていて、イエス様にどう言い訳してよいのかもわからない状態でした。イエス様がたったお一人で苦しみもだえて祈っているのに、弟子たちは肉体の誘惑に負けてしまったのです。
イエス様は三度目に祈りに行き、また戻って来られました。しかし、弟子たちはまだ眠っていました。最も一緒に祈ってほしかった大切な場面で、彼らは三回も眠ってしまったのです。そこでイエス様は言われました。
「もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。」(マルコ14:41)
私たちにも、誘惑に負けて居眠りをしてしまい、祈るべき時に祈れず、そのまま「時が来てしまう」ことがあります。祈り会に最初から最後まで居眠りをしてしまい、終わりの時間が来てしまう。その時、皆さんは「ああ、祈り会に参加できてよかった」と思えるでしょうか。それとも「ああ、また居眠りしてしまった。イエス様と共に過ごすことができなかった。イエス様の苦しみを少しでも共に背負うことができなかった」と深く後悔するでしょうか。
「時が来ました」とイエス様が言われた直後、裏切る者と、イエス様を捕らえに来た者たちによって、イエス様は連行されていきます。この時、イエス様は天から御使いの十二軍団を呼び寄せて、捕らえに来た者たちをいとも簡単に追い払うこともできました。しかし、イエス様はあえてそうはされませんでした。なぜなら、それは父なる神様の御心ではなかったからです。イエス様が全人類の罪の身代わりとなって十字架にかかり、命を落とし、父なる神様から断絶されること。それこそが、父なる神様の御心だったからです。だから、イエス様は完全に服従して、あえて捕らえられていかれたのです。
今日、私たちはイエス様の十字架と復活の後の時代を生きています。だからこそ、私たちは目を覚まして祈り続けるべきです。この十字架の激しい苦しみを覚え、復活の命をいただき、私たちのために屠られた小羊であるキリストに、栄光と賛美を捧げるべきなのです。私たちの肉体は確かに弱いです。しかし、この地上において、イエス様と共に歩む人生を全うできるように祈りましょう。
「主にのみ十字架を負わせまつり、我知らない顔にどうしてあるべきだろうか」という賛美歌があります。私たちは、イエス様にだけ十字架を負わせて、自分は関係ないというような「知らない顔」をして生きていてはいけません。イエス様が全人類の罪を負う十字架を背負ってくださったのですから、私たちは、自分自身の生き様を神様に捧げるという、自分に与えられた十字架を背負いながら、この人生を歩んでいくべきなのです。
イエス様は、あの十字架の上で「テテレスタイ」、すなわち「完了した」と宣言してくださいました。私たちが負うべきすべての処罰を身代わりに受け、ご自身の命を差し出して、私たちが必ず死ななければならないその死を全うしてくださったのです。さらにイエス様は、十字架の上でご自身を十字架につける者たちのために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです」と、とりなしの祈りを捧げてくださいました。自分がどれほどわからずやであるかさえも気づいていない私たちのために、イエス様はとりなしてくださったのです。
今日、私たちは、十字架のイエス・キリストを記念し、仰ぎ見ます。イエス様の尊い血潮によって清められ、罪赦されて、新しく贖われた者として、私たちはここにいます。この受難週において、イエス様が全人類の罪の赦しのためになされたこの偉大な御業を思い出し、深く心に刻みましょう。そして、許しの十字架の御許にいる者として、目を覚まして祈り、人々にこの福音を証ししていくことができるよう、神様の助けを求めて祈り歩んでいきましょう。
【結論】
イエス・キリストは、ご自身の願いを捨てて父なる神様の御心に従い、私たちが受けるべき罪の処罰と神からの断絶という想像を絶する苦しみを、十字架の上で引き受けてくださいました。私たちは肉体の弱さゆえに、弟子たちのように祈るべき時に誘惑に負けてしまう者ですが、主の尊い血潮によって完全に赦され、贖われています。だからこそ、ただ主にのみ十字架を負わせて傍観するのではなく、霊的に目を覚まして祈り続け、自らに与えられた十字架を背負って、主と共に歩む人生を最後まで全うしていきましょう。
ペテロの回復 - イエス様のとりなしと悔い改め(ルカ22:31-34)
メッセージ音声
【概要】
イエス様は私たちが弱く失敗することをご存知でありながら、信仰がなくならないように今も天でとりなして祈ってくださっています。私たちは自分の弱さを認めて悔い改め、主の祈りに支えられて立ち直り、互いを力づける者へと変えられていくというメッセージです。
【聖書箇所】
ルカ22:31-34
ルカ22:54-62
ヘブル7:25
ルカ23:34
【慰めの言葉】
イエス様は私たちの思いも心も肉体も弱いことをご存知であり、失敗して倒れるような時であっても、天において四六時中私たちのためにとりなして祈ってくださっています。
【励ましの言葉】
たとえ自分の弱さゆえに失敗したとしても、イエス様の祈りによって立ち直ることができます。立ち直ったならば、今度は自分が兄弟たちを力づける存在へと変えられていきます。
【戒めの言葉】
自分の力や覚悟を過信してはいけません。私たちの内に潜む自己中心的な思いやプライドは、ふるいにかけられて取り除かれなければならず、自分の肉の力に頼ることをやめる必要があります。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちが神様が喜ばれることを知りつつも、自分の好むことを優先して罪を犯してしまうたびに、涙とともに心を悔い改め、イエス様に立ち返りましょう。
【***詳細***】
本日は、ルカによる福音書22章31節から34節までの御言葉を見ていきます。新改訳聖書第3版で共に確認しましょう。
「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
これに対し、シモンはイエス様に言いました。「主よ。ご一緒になら、牢であろうと死であろうと覚悟はできております。」
しかし、イエス様は言われました。「ペテロ、あなたに言いますが、今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
まことに私たち人間は弱いものです。心の中でどんなに強い覚悟を決めたとしても、私たちの思いも心も肉体も弱いのです。しかし、イエス様がずっと私たちのためにとりなして祈っていてくださることを感謝します。イエス様は今もなお、私たちのためにとりなして祈っておられます。その祈りによって、弱い私たちは強められ、立ち直り、つくばみらいの地に福音を届け、弟子たちを起こす働きができるようになります。
イエス様は、本当に良き友であり、私たちの主人です。最後の晩餐という重要な場面において、イエス様がこれから十字架につけられるということが宣言されたにもかかわらず、弟子たちは「自分たちの中で誰が一番偉いか」という議論をしていました。イエス様の苦しみや御言葉を誰も心に留めず、ただ自己中心的な思いがはびこっていたのです。
そのような場面において、イエス様はシモンに対して語りかけました。この時、イエス様は「ペテロ」という名前ではなく、生まれながらの名前である「シモン」と二度呼びかけました。シモンという名前には、ヘブル語で「聞く」という意味があります。「よく聞きなさい」という思いが込められているのです。耳を傾け、よく聞く人は、立ち直り、他の弟子たちを力づけることができるようになっていきます。
イエス様は、「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」と言われました。サタンは神様から独立した同等の権威を持っているわけではなく、神様の許可がなければ何もできません。しかし、ここでは聞き届けられました。それは、本物と偽物を振るい分け、また霊と肉とを振るい分けるためです。この時の弟子たちは、シモンも含めて全員がまだ自分の「肉」の力に頼っていました。十字架の出来事の前、彼らは自分の力でイエス様に仕えようとしていたのです。ふるいにかけられることで、自分たちが人間の力に頼るしかない弱い存在であり、本当に十字架の死と復活が必要であることを示すためでした。私たちも、自分のプライドや願いといった「肉」の部分がふるいにかけられ取り除かれて初めて、復活したイエス様の命にあって働くことができるのです。
結局、この時弟子たちは全員イエス様を見捨てて逃げてしまいます。シモンに関しては、イエス様のことを知らないとはっきりと否定してしまいます。けれども、ルカ22:32でイエス様は「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。「立ち直ったら」という言葉は、ギリシャ語では上方向に方向転換することを意味します。下を向いていた状態から、上を向いて立ち直ったならば、兄弟たちを力づけなさいということです。
シモンは「牢であろうと死であろうと覚悟はできております」と言いましたが、イエス様は「ペテロ、あなたに言いますが、今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と予言されました。そして実際に、夜が明ける前、ペテロは三度イエス様を知らないと言ってしまいます。
その時の様子は、ルカによる福音書22章54節から次のように記されています。
人々はイエス様を捕らえ、大祭司の家に連れて行きました。ペテロは遠く離れてついて行きました。人々が中庭の真ん中で火を焚いて座り込んだので、ペテロもその中に混じって腰を下ろしました。すると、女中が火明かりの中にペテロが座っているのを見つけ、「この人もイエスと一緒にいました」と言いました。ところがペテロはそれを打ち消して、「いいえ、わたしはあの人を知りません」と言いました。しばらくして、別の男が「あなたも彼らの仲間だ」と言いましたが、ペテロは「いや、違います」と否定しました。それから一時間ほど経つと、また別の男が「確かにこの人も彼と一緒だった。この人もガリラヤ人だから」と言い張りました。しかしペテロは、「あなたの言うことはわたしには分かりません」と言いました。
ペテロがまだ言い終えないうちに、鶏が鳴きました。主が振り向いてペテロを見つめられました。ペテロは、「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言う」と言われた主の御言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。
私たちも、日々の生活の中で何度同じような過ちをしてきたことでしょうか。だからこそ、この場面は私たちの心に深く刺さります。けれども、イエス様はずっと祈っておられました。十字架の上の激しい痛みと苦しみの最中でさえ、ずっと私たちのためにとりなして祈っておられたのです。鶏が鳴いた瞬間、イエス様はペテロを振り向かれましたが、その時もペテロのためにとりなしておられました。
ヘブル7:25には、「キリストはいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」とあります。イエス様は天において永遠の大祭司として生きておられ、朝も昼も夜も、四六時中私たちのためにとりなして祈ってくださっています。十字架の上でも、「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです」と、ルカ23:34にあるように、とりなして祈り続けておられました。
そして「立ち直ったならば、兄弟たちを力づけてやりなさい」とイエス様が言われた通り、実際にペテロが立ち直る時が来ます。「使徒行伝」に記されているように、ペテロは他の弟子たちを力づけ、教会の柱と呼ばれるような存在になりました。これはペテロ自身の力ではなく、イエス様がとりなして祈っておられたからです。伝承によれば、ペテロは最終的に逆さ十字架にかけられて殉教します。彼は十字架刑が求刑された時、「自分がイエス様と同じ死に方をするのはもったいない、申し訳ない」と自ら願い出て、逆さ十字架につけられたと言われています。生涯をかけてイエス様の祈りに応え、信仰を貫いたのです。
現在、ペテロは天国におりますが、私たちはこの地上で生きています。イエス様は、地上で生きる私たちのために、今もなおとりなして祈ってくださっています。私たちは、イエス様の十字架の死と復活、そして天に昇られて今も祈り続けておられることを覚え、感謝をもって歩んでいくべきです。
何度も裏切り、イエス様を知らないと言い、神様が喜ばれることを知りつつも自分の好むことを行い、罪を犯してきた私たちです。しかし、その都度涙とともに心を悔い改め、いつも主に立ち返ることができますように。イエス様の祈りに支えられ、信仰の翼を広げて凛々しく羽ばたき、主の働きを進めていくことができるよう歩んでいきましょう。
【結論】
イエス様は私たちの弱さをすべてご存知の上で、私たちの信仰がなくならないように天において常に祈り続けてくださっています。私たちは自分の弱さに絶望するのではなく、その都度悔い改めて主に立ち返り、イエス様のとりなしの祈りに支えられながら立ち直り、周囲の人々を力づけながら凛々しく信仰の歩みを進めていきましょう。
