メッセージ - 20260401のエントリ
ペテロの回復 - イエス様のとりなしと悔い改め(ルカ22:31-34)
メッセージ音声
【概要】
イエス様は私たちが弱く失敗することをご存知でありながら、信仰がなくならないように今も天でとりなして祈ってくださっています。私たちは自分の弱さを認めて悔い改め、主の祈りに支えられて立ち直り、互いを力づける者へと変えられていくというメッセージです。
【聖書箇所】
ルカ22:31-34
ルカ22:54-62
ヘブル7:25
ルカ23:34
【慰めの言葉】
イエス様は私たちの思いも心も肉体も弱いことをご存知であり、失敗して倒れるような時であっても、天において四六時中私たちのためにとりなして祈ってくださっています。
【励ましの言葉】
たとえ自分の弱さゆえに失敗したとしても、イエス様の祈りによって立ち直ることができます。立ち直ったならば、今度は自分が兄弟たちを力づける存在へと変えられていきます。
【戒めの言葉】
自分の力や覚悟を過信してはいけません。私たちの内に潜む自己中心的な思いやプライドは、ふるいにかけられて取り除かれなければならず、自分の肉の力に頼ることをやめる必要があります。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちが神様が喜ばれることを知りつつも、自分の好むことを優先して罪を犯してしまうたびに、涙とともに心を悔い改め、イエス様に立ち返りましょう。
【***詳細***】
本日は、ルカによる福音書22章31節から34節までの御言葉を見ていきます。新改訳聖書第3版で共に確認しましょう。
「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
これに対し、シモンはイエス様に言いました。「主よ。ご一緒になら、牢であろうと死であろうと覚悟はできております。」
しかし、イエス様は言われました。「ペテロ、あなたに言いますが、今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
まことに私たち人間は弱いものです。心の中でどんなに強い覚悟を決めたとしても、私たちの思いも心も肉体も弱いのです。しかし、イエス様がずっと私たちのためにとりなして祈っていてくださることを感謝します。イエス様は今もなお、私たちのためにとりなして祈っておられます。その祈りによって、弱い私たちは強められ、立ち直り、つくばみらいの地に福音を届け、弟子たちを起こす働きができるようになります。
イエス様は、本当に良き友であり、私たちの主人です。最後の晩餐という重要な場面において、イエス様がこれから十字架につけられるということが宣言されたにもかかわらず、弟子たちは「自分たちの中で誰が一番偉いか」という議論をしていました。イエス様の苦しみや御言葉を誰も心に留めず、ただ自己中心的な思いがはびこっていたのです。
そのような場面において、イエス様はシモンに対して語りかけました。この時、イエス様は「ペテロ」という名前ではなく、生まれながらの名前である「シモン」と二度呼びかけました。シモンという名前には、ヘブル語で「聞く」という意味があります。「よく聞きなさい」という思いが込められているのです。耳を傾け、よく聞く人は、立ち直り、他の弟子たちを力づけることができるようになっていきます。
イエス様は、「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」と言われました。サタンは神様から独立した同等の権威を持っているわけではなく、神様の許可がなければ何もできません。しかし、ここでは聞き届けられました。それは、本物と偽物を振るい分け、また霊と肉とを振るい分けるためです。この時の弟子たちは、シモンも含めて全員がまだ自分の「肉」の力に頼っていました。十字架の出来事の前、彼らは自分の力でイエス様に仕えようとしていたのです。ふるいにかけられることで、自分たちが人間の力に頼るしかない弱い存在であり、本当に十字架の死と復活が必要であることを示すためでした。私たちも、自分のプライドや願いといった「肉」の部分がふるいにかけられ取り除かれて初めて、復活したイエス様の命にあって働くことができるのです。
結局、この時弟子たちは全員イエス様を見捨てて逃げてしまいます。シモンに関しては、イエス様のことを知らないとはっきりと否定してしまいます。けれども、ルカ22:32でイエス様は「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。「立ち直ったら」という言葉は、ギリシャ語では上方向に方向転換することを意味します。下を向いていた状態から、上を向いて立ち直ったならば、兄弟たちを力づけなさいということです。
シモンは「牢であろうと死であろうと覚悟はできております」と言いましたが、イエス様は「ペテロ、あなたに言いますが、今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と予言されました。そして実際に、夜が明ける前、ペテロは三度イエス様を知らないと言ってしまいます。
その時の様子は、ルカによる福音書22章54節から次のように記されています。
人々はイエス様を捕らえ、大祭司の家に連れて行きました。ペテロは遠く離れてついて行きました。人々が中庭の真ん中で火を焚いて座り込んだので、ペテロもその中に混じって腰を下ろしました。すると、女中が火明かりの中にペテロが座っているのを見つけ、「この人もイエスと一緒にいました」と言いました。ところがペテロはそれを打ち消して、「いいえ、わたしはあの人を知りません」と言いました。しばらくして、別の男が「あなたも彼らの仲間だ」と言いましたが、ペテロは「いや、違います」と否定しました。それから一時間ほど経つと、また別の男が「確かにこの人も彼と一緒だった。この人もガリラヤ人だから」と言い張りました。しかしペテロは、「あなたの言うことはわたしには分かりません」と言いました。
ペテロがまだ言い終えないうちに、鶏が鳴きました。主が振り向いてペテロを見つめられました。ペテロは、「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言う」と言われた主の御言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。
私たちも、日々の生活の中で何度同じような過ちをしてきたことでしょうか。だからこそ、この場面は私たちの心に深く刺さります。けれども、イエス様はずっと祈っておられました。十字架の上の激しい痛みと苦しみの最中でさえ、ずっと私たちのためにとりなして祈っておられたのです。鶏が鳴いた瞬間、イエス様はペテロを振り向かれましたが、その時もペテロのためにとりなしておられました。
ヘブル7:25には、「キリストはいつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるからです」とあります。イエス様は天において永遠の大祭司として生きておられ、朝も昼も夜も、四六時中私たちのためにとりなして祈ってくださっています。十字架の上でも、「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです」と、ルカ23:34にあるように、とりなして祈り続けておられました。
そして「立ち直ったならば、兄弟たちを力づけてやりなさい」とイエス様が言われた通り、実際にペテロが立ち直る時が来ます。「使徒行伝」に記されているように、ペテロは他の弟子たちを力づけ、教会の柱と呼ばれるような存在になりました。これはペテロ自身の力ではなく、イエス様がとりなして祈っておられたからです。伝承によれば、ペテロは最終的に逆さ十字架にかけられて殉教します。彼は十字架刑が求刑された時、「自分がイエス様と同じ死に方をするのはもったいない、申し訳ない」と自ら願い出て、逆さ十字架につけられたと言われています。生涯をかけてイエス様の祈りに応え、信仰を貫いたのです。
現在、ペテロは天国におりますが、私たちはこの地上で生きています。イエス様は、地上で生きる私たちのために、今もなおとりなして祈ってくださっています。私たちは、イエス様の十字架の死と復活、そして天に昇られて今も祈り続けておられることを覚え、感謝をもって歩んでいくべきです。
何度も裏切り、イエス様を知らないと言い、神様が喜ばれることを知りつつも自分の好むことを行い、罪を犯してきた私たちです。しかし、その都度涙とともに心を悔い改め、いつも主に立ち返ることができますように。イエス様の祈りに支えられ、信仰の翼を広げて凛々しく羽ばたき、主の働きを進めていくことができるよう歩んでいきましょう。
【結論】
イエス様は私たちの弱さをすべてご存知の上で、私たちの信仰がなくならないように天において常に祈り続けてくださっています。私たちは自分の弱さに絶望するのではなく、その都度悔い改めて主に立ち返り、イエス様のとりなしの祈りに支えられながら立ち直り、周囲の人々を力づけながら凛々しく信仰の歩みを進めていきましょう。
