メッセージ - 肉を削ぎ落とす事の重要性(出エジプト記4:24-31)
礼拝説教メッセージ音声:肉を削ぎ落とす事の重要性(出エジプト記4:24-31):右クリックで保存
『さてモーセが途中で宿っている時、主は彼に会って彼を殺そうとされた。その時チッポラは火打ち石の小刀を取って、その男の子の前の皮を切り、それをモーセの足につけて言った、「あなたはまことに、わたしにとって血の花婿です」。そこで、主はモーセをゆるされた。この時「血の花婿です」とチッポラが言ったのは割礼のゆえである。』(出エジプト記4:24-26)
主はモーセに、エジプトへ行ってパロからイスラエルの民を救い出す事の役割を任じられたばかりなのに、なんとそのすぐ後、主はモーセを殺そうとされたのだ。
これは一体どういう事だろう。
それは、モーセ自身が子に割礼を施していなかった事にある。
神は義なるお方であり、いかに神の選びの民であろうとも、不従順を続けて改めないなら、その報いをされるお方。それは、いかに特別な役割を任じられたモーセであろうと、王として油注がれたサウル王であろうと、主に愛されたダビデであろうと、である。
人は何かと、愛なる優しい神、憐れみ深い神をイメージして、祝福が欲しい、下さい、とよく求めるが、自分達の側が果たすべき責任や、取り除くべき罪を、忘れてはならない。
神は確かにアブラハムとその子孫に祝福を約束されたが、その契約は、人の側が果たすべき責任も、すなわち、割礼を守る事も、含まれる。
割礼のしるしは神との契約のしるし、すなわち契約書の印鑑のようなもので、それは世々に渡って守るべきであり、家で生まれた者も、買い取った異邦人も、生まれて八日目に受けなければならず、「割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」とさえ言われている。(創世記17:9-14)
ましてや、60万以上の民の先頭に立つモーセ自身、自らこの割礼を守っていないとなると、どうして彼は、神と人との前に示しがつくだろうか。
割礼を施したのは、ミデヤン人の妻・チッポラであった。
彼女が咄嗟の機転で割礼を施したからには、割礼の重要性をモーセから聞いていたはずである。それなのに、生まれてから八日目の割礼を受けさせていなかったのは、どういう事だろう。
もしかしたら、モーセが子に割礼を受けさせようとした時、彼女は「わたしの子は関係ない」「子にそんな事させないで」と言っていたのかもしれないし、あるいは、モーセのほうが不従順だったのかもしれない。
いずれにせよ、息子は割礼を受けておらず、断ち切られる対象だったため、神はモーセを殺そうとされ、そしてチッポラが割礼を施した時、神は彼を放された。
ヨシュア記を読むと、イスラエルの民はモーセと違って、エジプトで割礼を受けさせていたようだ。(ヨシュア記5:2-9)
出エジプトした民がいよいよ約束の地、乳と蜜の流れる地へ入ろうとヨルダンを渡った直後、主は民に割礼を受けるよう命じられた。荒野で生まれた世代は皆、割礼を受けていなかったためである。
『その時、主はヨシュアに言われた、「きょう、わたしはエジプトのはずかしめを、あなたがたからころがし去った」。それでその所の名は、今日までギルガルと呼ばれている。』(ヨシュア記 5:9)
割礼とは、肉(生来の罪に傾く性質を持っている肉体の力や考え方など)を削ぎ取る事である。
『外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。』(ローマ2:28-29)
神の民となるには、肉を削ぎ落とす「割礼」が必要である。
今、皆さんは、肉の生活、すなわち、罪の奴隷生活から脱出しようとしているだろうか。
主が約束して下さった、乳と蜜の流れる地を慕い求め、約束の地に入る心づもりは出来ているだろうか。
そうであるなら、礼拝を軽んじる心や、神様の御言葉を軽んじる心を切り取って、心の割礼を施し、安息と祝福の地に入るに相応しい者となろうではないか。