メッセージ - 最初の会合 - パロに飲まれてしまったモーセ(出エジプト記5:1-14)
最初の会合 - パロに飲まれてしまったモーセ(出エジプト記5:1-14)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2012-11-13 23:33
礼拝説教メッセージ音声:最初の会合 - パロに飲まれてしまったモーセ(出エジプト記5:1-14):右クリックで保存
いよいよモーセとパロ、最初の対面である。
『その後、モーセとアロンは行ってパロに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『わたしの民を去らせ、荒野で、わたしのために祭をさせなさい』と」。』(出エジプト5:1)
この時の彼は、心の中に恐れがあったにせよ、正しく主の言葉を伝えた。
外見的・社会的にはパロのほうが上に見えるかもしれないが、モーセ達の側、そして私達の側には、万軍の主がついておられ、私達にもキリスト・イエスにあって同じ主がついておられる。
私達もその御心を正しく伝えなくてはならない。
それに対しパロは答える。
「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」。(5:2)
これが世の者の典型的な答えで、言う前から容易に想像できる返答である。
私達も、その返答をされるであろう事が見えすぎる故に、多くのキリスト者は、神をあかしする事を躊躇してしまう。
しかし、この最初の第一声、「神である主はこう言われる」という「神のあかし」が無ければ、どうして神の国を広める働きが起きるだろうか。
自分がキリスト者であることを友人に伝える事なしに、あるいは、日曜は主を礼拝するべき事を職場の人に伝える事なしに、どうして神の国の物事が始まるだろうか。
神の言葉は、折が良くても悪くても伝えるべきである。
パロに限らず、世の悪しき者は「主を知らない」と言い、そして、自分がどれだけ傲慢なのかも知らない。
エジプトが大国になれたのはヨセフのお陰だったし、パロが高い座に座って楽をしていられるのもイスラエル民族が働いてくれたお陰だったし、すべての恩恵は、イスラエルの神、主から来たものである。
それなのに、自分が恩恵を受ける根源である神の民に、彼ら世の者たちは常に恩を仇で返し、彼らの王であるサタンは、偽りによって神の民を恐怖させ、威張り散らして奴隷にさせようとする。
このパロの返答に、モーセは弱気が出てしまった。
「ヘブルびとの神がわたしたちに現れました。どうか、わたしたちを三日の道のりほど荒野に行かせ、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしなければ主は疫病か、つるぎをもって、わたしたちを悩まされるからです。」(出エジプト記5:3)
モーセは「どうか(we pray thee)」という言葉を使ってお願い口調になってしまい、しかも、「そうしなければ主は疫病か、つるぎをもって、”わたしたちを”悩まされる」と、主が言った事と逆のことを口走ってしまった。
主は、もしパロが拒むなら「わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す」(4:23)と言われたのに、その反対、自分達に災いを招くような事を告白してしまった。
このように、真実を逸して自分を低く見積り告白する事は「謙遜」ではなく「卑屈」であり、その卑屈さがサタンを付け上がらせ、敵に勢いを与え、さらに、その人を踏みにじらせるための足場を与えてしまう事になるのだ。
『エジプトの王は彼らに言った、「モーセとアロンよ、あなたがたは、なぜ民に働きをやめさせようとするのか。自分の労役につくがよい」。』(出エジプト記5:4)
悪しき者が勢いづいた時とは、偉大な指導者モーセも偉大な大祭司の父アロンも、労働すべき一労働者として罵倒してしまうものなのだ。
私達の立ち位置は、主イエスにあって選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民である(1ペテロ2:9)が、私達も悪しき者の虚勢に飲まれてしまうと、彼らの奴隷に成り下がってしまう。よくよく気をつけなくてはならない。
パロはさらに言った。
「この人々の労役を重くして、働かせ、偽りの言葉に心を寄せさせぬようにしなさい」。(出エジプト記5:9)
敵は、主の言葉を「偽り」に思わせ、パロの力が絶対であるかのように思わせる。労役を重くし、思考停止させる事によって。
実際にその後暫くの間、イスラエルの民は、調子に乗ったパロによって、以前よりも悪い状態にされてしまったが、主を主としているのであれば、それも永続するものではない。
この日本に働く霊も、労役を重くし、思考停止させる事によって多くの人達を支配しているが、私達は主にとりなし、叫ぶ事を止めてはならない。
モーセはパロの前に出た時、相手の勢いに飲まれてしまい、最初の対面は惨めな結果に終ってしまった。しかしそれは、取り返しのつかない失敗ではない。
私達も、あまりに奴隷生活や労働生活が長かったりすると、この世の権威ある者の前に立たされた時、動揺して主から預かった言葉を見失ったり、命じられた事をうまく伝えられなかったりするが、主は、そのような私達の弱さも成り立ちもご存知である。
モーセは動揺していて、杖を蛇に変える奇跡さえ行い忘れていたが、神は後にパロの口で「不思議をおこなって証拠を示せ」と言わせ(7:9)、当初の主のご命令どおりに、モーセをして不思議を行わせた。
主は憐れみ深く、私達の成り立ちや弱さをご存知であり、必ず助けの道を与えて下さるお方である。
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(1コリント10:13)