メッセージ - 斬新な祈り(ネヘミヤ9章)
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【概要】
ネヘミア記9章に記された、イスラエルの民による長い悔い改めの祈りを通して、真の祈りの姿勢について学ぶメッセージ。自分の願い事を並べるのではなく、神の恵みを数え、自らの罪を告白する祈りの重要性が語られる。
【聖書箇所】
ネヘミア9:1-37、詩篇51:14-17、サムエル記上15:22(引用)
【悔い改めの促しの言葉】
私たちは神様に対して、恩を仇で返すようなことを何かとしている。自分がどんなひどいことを神様にしてきたかを告白し、へりくだる心を持つことが必要である。
【励ましの言葉】
神は憐れみ深く、恵み豊かで、怒るのに遅く、赦しに富んでおられる。砕かれた心、悔いた魂を主は軽んじられることはない。
【勧めの言葉】
主に聞き従う生活をしていれば、主はその人の人生を高くしてくださり、祝福の方へと導いてくださる。願い事ばかりではなく、主への感謝と罪の告白の祈りを大切にしよう。
【***詳細***】
私が小学生の頃、隣の男の子が授業中に消しゴムを貸してくれと言うので、私は消しゴムを貸しました。消しゴムが私に必要になったので、消しゴムを返してくれと言ったら、その人は私の目に向かって消しゴムをバーって投げつけて、私の目に当たりました。それで一年後ぐらいに、その人に「去年これこれのことをしたよな」って言ったら、その人は見事忘れておりました。
私たちが神様に対してそういうひどいことをしたこと、それは何かと忘れがちで、それでもなお消しゴム貸してくれ、鉛筆貸してくれ、そういうふうに言うのが大体人間の実情です。私たちは神様にお祈りをします。あれください、これください、消しゴムを貸してくれ、鉛筆を貸してくれと祈るんですが、でも神様の大切なところにバーンと、良くない仕方で返すこと、その消しゴムを借りたこと、恩を仇で返すようなことを、私たちは何かとしているものなんです。
そういうことをしないために、主が与えてくださった恵みを思い起こすための祈りをしたのが、今日のネヘミア記なんですけども、このネヘミア記の9章です。ネヘミア記の9章は非常に長い祈りの章で、3ページぐらいにわたる祈りです。
9章の1節から3節までお読みしましょう。「その月の二十四日に、イスラエル人は断食をし、荒布をつけ、土をかぶって集まった。そしてすべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と先祖の咎を告白した。彼らはそのところに立ったままで、一日の四分の一は彼らの神、主の律法の書を朗読し、次の四分の一は告白をして彼らの神、主を礼拝した。」
先週の8章のところでは、第七の月の仮庵祭の日、まず律法を朗読する祭りと、そしてまた、そのイスラエルの歴史上かつてなかったほどに、ヨシュアの時代以来かつてなかったほどの正しい仮庵祭を行って、民のうちに大きな喜びが沸き起こりました。その月のうちの24日ですから、この喜びの祝いの日からそんなに経っていないうちに、今度はこの断食をして、荒布をつけて土をかぶる集まりをしました。第七の月の24日です。ちなみに第七の月の24日は、特に何の祭りを行えという定めはないので、この民は自らこの断食の集い、荒布の悔い改めの集いをしたくて、そして彼らは集まってきたわけです。
彼らは2節、「すべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と先祖の咎を告白した」と書いてありますね。自分たちの罪と先祖の咎を告白したんです。
そしてこの6節からずっと37節まで非常に長いお祈りになるんですけども、このお祈りの非常に特徴的なところは、主がどういうお方であるかということの告白がまずあり、そして先祖に対して主はどのような恵みを与えてくださったかが書いてあり、しかし先祖たちはいったい何を主に対して返してきたか。さっきの消しゴムを貸したのに、消しゴムを目に思いっきり投げつけるような、そういう返し方をするのと似たようなことを、このイスラエル民族は神様に対してしてきたわけです。でもそれにもかかわらず、主はどう憐れんでくださったか。どのようにして祝福の地へと導いてくださったか。そしてイスラエル民族をどんなに良くしてくださったか、その恵みの数々が告白されて、しかしそうやってその安息の地で安住して肥え太っていくと、このイスラエル民族はまた何を主に対して返したか。そうした度重なる罪々をずっと告白しております。
そして非常に面白いことに、「主よ、私たちはこれこれの状況です」という告白があるのですが、この状況からお救いくださいといったお願い事が一切この長い祈りの中にはないのです。ただ先祖たちは何々をしました。しかし主、あなたはこれこれの憐れみをしてくださいました。
祈りにはいろいろな祈りがあります。賛美の祈り、感謝の祈り、罪の告白の祈り、悔い改めの祈り、お願いの祈り。今5つ、5種類挙げましたけど、皆さんお祈りという総数の時間の中で何がどれほどの割合か。大体の人はその5つの中でお願いに関する祈りがだいたい90%を占めて、あと残りの5%が感謝賛美、残りの1%ぐらいが悔い改めとか、そういう、ちょっとそれは極端な例ですけども、だいたいお願いが多いわけですね。そして悔い改めが少ない。罪の告白も少ないものです。何々してください、何々してください、それが結構多いんですけど、しかしこのネヘミヤ記の9章の祈りはほぼもう全域が、自分が何をどんなことをしたか。この災いが自分たちに降りかかるのは当然ですという、それがとうとうと記されており、また主が荒野において、またカナンの地においてどれほどの恵みを与えてくださったかがとうとうと書いてあり、そして今私たちはこれこれの状況ですという現状告白はあるんですが、しかし、そこからお救いくださいというのが0%なんですね。お願いが0%の祈りです。こんなに長いのに。
私たちはこの祈りを読むとき、本当に新鮮な気持ちになります。私たちがいかにお願い事が多くて、そして自分たちが何をしてきたか、どんな迷惑を神様に対してなしてきたか、どんなひどいことを神様になして、どんな痛い思いを主にさせてきたかが、とうとうと綴られているわけです。
詳しく見ていきますと、9章の6節から8節まで、特に9章6節が主がどのようなお方であるかということの告白から始まります。ヨシャパテの祈りもそうでした。主はまずどのようなお方からの告白で始まりました。「ただ、あなただけが主です。あなたは天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。」
この7節と8節は先祖アブラハムを選ばれて、そしてこのアブラハムに対して契約を結んでくださって、そしてアブラハムとの約束を主は果たされたということをここで告白しております。
9節以降、9節から15節までは、エジプトに対してどのような災いを下されたか。イスラエルの民、9節を見ますと、「あなたはエジプトで私たちの先祖が受けた悩みを見、また、葦の海のほとりでの彼らの叫びを聞かれました。あなたはパロとそのすべての家臣、その国のすべての民に対して、しるしと不思議を行われました。これは彼らが私たちの先祖に対して高ぶった振る舞いをしていたのをあなたが知られたからです。こうして今日ある通り、あなたは名を挙げられました。」
まずイスラエル民族に対して、この彼らの先祖に対してエジプトの国がいかにひどいことをしてきたか。しかしそこからいかに主は救い出してくださったか。イスラエルにどのような恵みを注いでくださったか。主はイスラエル民族を海の中を通らせて救わせて、しかしエジプトは海の中に投げ込まれました。そして荒野においても、昼間は雲の柱、夜は火の柱によって彼らを導いてくださり、荒野においても迷うことがないように、また砂漠の日差しの中を歩くその苦しみを解くために雲の柱を用意されて、また夜は迷わないように火の柱を用意されて、この荒野を導かれたこと。そして律法をこのイスラエル民族に授けてくださり、また彼らに天からパンを与えて岩から水を与えて、そして約束の地を所有するようにと向かって行ったのですが、しかし先祖たちは罪を犯しました。
16節。「しかし彼らは、すなわち私たちの先祖は、高ぶって勝手に振る舞い、うなじをこわくし、あなたの命令に聞き従いませんでした。彼らは聞き従うことを拒み、あなたが彼らの間で行われた奇しいみわざを記憶もせず、かえってうなじをこわくし、ひとりの頭を立ててエジプトでの奴隷の身に戻ろうとしました。それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、憐れみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。」
自分たちがどんなひどいことを神様にしてきたかをここで告白したのです。そしてそれにもかかわらず、自分たちがどんなひどいことを神様にしてきたかにもかかわらず、神様は恵み深く、情け深く、憐れみ深く、怒るに遅くと告白をしました。
ある教会から離れている方とお話をしている時、「あなたの好きな聖句はどこですか」と聞きましたところ、「これはこれです」と。普通の人から聞けば、なんでそんな災いにあっているようなところが好きなの、という感じがするんですけど、主が今私をこのように災いに取り扱っておられるからですと、その方は答えてですね。でも主はそんなにいつまでも災いのうちに身を投じておられるような神ではありませんよ。神は災いの神じゃありませんよ。憐れみ深く恵みに満ちておられる。いつまでもそのようなことをされておられない神様ですから、ですからどうかこちらの聖句の方をお勧めしますよということでお勧めしたことがありましたけれども、神様をどのようなお方かということを告白するのは大事です。
神様はただ災いを起こされるお方として告白していたら、そこから抜け出すことはできません。それは皆さんの唇からの信仰告白によって、皆さんその唇の実を皆さん刈り取るからです。このイスラエル民族は、確かに神様は私たちを災いに合わせられた。でもそれでも主はなお赦しの神であり、情け深い、慈しみ深いお方であると告白した。主がどのようなお方か。主は素晴らしいお方です。憐れみ深い方です。赦しに富み給う方です。確かに私たちが神様の目にかなわぬことをしたら、それは災いになります。しかし、そこから立ち返るのであれば、その自分のかたくなさを捨てて、主の命令に聞き従うことを選ぶのであれば、主は再び恵みを施してくださいます。
事実、この荒野の民は大きな憐れみによって導かれて、火の柱、雲の柱によって導かれて、またマナが絶えさせられることがなく、また水も尽きるということがありませんでした。荒野の地にあって、主は恵み深いお方。40年の間、主は荒野でイスラエルの民を養われたので、彼らは何の不足もなく、着物も擦り切れず、足も腫れずに導かれていくことができました。
このネヘミヤにおける祈りで、そのように告白して、そしていよいよカナンの地へと彼らが占領したことを告白しております。この先祖たちは、この子孫たち、イスラエルの子孫たちを星の数のように増やして、そして所有せよと言われた地に導き入れられました。こうしてあの地の住民、カナン人たち、カナンの地は弱肉強食の世界であり、また強力な体が大きいアナク人とかおりましたし、またエリコという城壁のある町々、エリコの他にもそういう強力な攻め落とすのが困難な町々があったにもかかわらず、このイスラエル民族に、ただ荒野を旅してきた民が攻め落とすことができて、そしてこの良い町、肥えた土地を彼らに与え、良いものに満ちた家々、また、ぶどう畑、オリーブ畑、および果樹がたくさん実るその乳と蜜がまさしく流れるような地へと導き上られ、そして彼らはそこで安住して、食べて満腹し、肥え太って、大いなる恵みを楽しむことができるようになりました。
しかし、しかし、彼らは反抗してしまいました。26節「しかし、彼らは反抗的で、あなたに反逆し、あなたの律法を後ろに投げ捨て、あなたに立ち返らせようとして、彼らを戒めたあなたの預言者たちを殺し、ひどい侮辱を加えました。そこで、あなたは彼らを敵の手に渡され、敵が彼らを苦しめました。彼らがその苦難の時にあなたに叫び求めると、あなたは天からこれを聞き入れ、あなたの大いなる憐れみによって彼らに救う者たちを与え、彼らを敵の手から救ってくださいました。」
士師の時代に突入したんですね。しかし「しかし」ですよ。「しかし」がまた続くんですよ。28節。「しかし、一息つくと、彼らはまたあなたの御前に悪事を行いました」云々とずっと悪事を行っては悔い改め、罰せられ、悪事を行っては罰せられて悔い改める。その繰り返しがずっと起こっていたわけです。その告白が29節に至るまでそれです。
30節。「それでもあなたは何年も彼らを忍び、あなたの預言者たちを通して、あなたの霊によって彼らを戒められましたが、彼らは耳を傾けませんでした。それで、あなたは彼らを国々の民の手に渡されました。」
ついに、このネヘミヤの時代、バビロン捕囚からやっと帰ってきたばかりです。要するに、まだ彼らは苦難の中にあったのです。異邦人の手に渡されて、異邦人の支配のもとに、このイスラエルの人たちはありました。独立国家としてではなく、それでも自治はある程度の自由はあったのですが、自治権はあったのですが、それでも異国の王たちに税金を納めなくてはならない状況でした。
31節「しかし、あなたは大いなる憐れみをかけて、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らを捨てられませんでした。あなたは情け深く、憐れみ深い神であられますから。」アーメン。
神様、災いに会っている時の神様へのイメージは、神様はひどいお方だと思いがちです。でも、このネヘミヤの時代において、彼らは神様ひどいお方だと言うことはせず、あなたは情け深く憐れみ深かったのです。私たちがこのような罪を犯しました。あの時このような罪を犯し、この時このような罪を犯しましたと告白しました。
私が子供の頃受けたあの消しゴム目にたたきつけ事件の時も、一年後にその友達に悔い改めているかなという、そういう希望もあって、「お前あの時こんなことしたね」それを見事に忘れられていたと聞いたのは、とてもがっかりしました。神様はがっかりされるんですよ。皆さんがそれまで頑なに、あの時、預言者を遣わして改めさせようとしたのに、でも、預言者を突っぱねて、逆に嘲ったり、そういうことをする時、神様に対して唾を吐いているようなものです。この時、神様が災いを立ち返らせるために起こしたのに、神様はひどいと言ってますます頑なになる。それも神様にひどいことをすることです。
私たちが悔い改め、また自分たちの罪の告白をし、私はあの時かたくなでした。主は今このような業になっていますということを告白すること。主はそのような祈りを喜ばれます。主が喜ばれるいけにえは、砕かれた魂、悔いた心と詩篇の51編に書いてあります。あのダビデはナタンが遣わされた時の祈りです。
こうしてこの31節まではずっとこのネヘミヤの時代に至るまでの歴史をとうとうと告白して、そして主は恵み深いお方であることを告白し、また自分たちの先祖が、一息つくたびに度重なる悪を主に対して行ってきたということをここで告白しております。
そこで32節以降、彼らの現状を告白する祈りに入ります。32節「私たちの神、契約と恵みを守られる大いなる、力強い、恐るべき神よ。アッシリアの王たちの時代から今日まで、私たちと私たちの王たち、私たちの司、祭司、預言者たち、また私たちの先祖とあなたの民全部に降りかかったすべての困難を、どうか今、小さいこととみなさないでください。私たちに降りかかってきたすべてのことにおいて、あなたは正しかったのです。あなたは誠実をもって行われたのに、私たちは悪を行ったのです。」
ここで民は、自分たちが行ってきたことによる災い、それは当然の報いであることを告白しており、そして主の方が正しかった。自分たちが今まで苦しい目に遭ってきた。それは主よ、あなたが正しかったのです、という告白ですね。
皆さんの人生を思い返した時、私の人生、苦労でできなかったと。神様はこんな私の人生を苦労に満たして酷いという人は多いかもしれませんが、でも私の人生はあの時この時、神様に逆らうような自分の好き勝手を選択して神様の戒めを無視してきたなという悔い改めの祈りがもしなされていたならば、主はもっと早い時期にこんな苦労を負わなくて済んだというような人生と変えられていたことでしょう。
この自分たちの民全部に降りかかったすべての困難にどうか小さいこととみなさないでくださいと。むしろ私たちが小さいこととみなしてしまうんですよ。逆にこのイスラエルの民はそれを小さいこととみなさないでください。自分たちに降りかかってきたすべての罰の報いを、小さいこととみなさないでくださいと主に告白しました。
36節「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。あなたが私たちの先祖に与えて、その実りとその良いものを食べるようにされたこの地で、ご覧ください。私たちは奴隷です。私たちが罪を犯したので、あなたは私たちの上に王たちを立てられましたが、その王たちのために、この地は多くの収穫を与えています。彼らは私たちの体と私たちの家畜を思い通りに支配しております。それで私たちは非常な苦しみの中におります。」
ここで終わりなんですよ、この祈りは。あれって思いますね。どうか今からこの状況からお救いくださいという祈りがないんですよ。ここで終わってるんですよ。ただ自分たちは今奴隷です。あなたが与えてくださったこの地においてご覧ください。私たちは奴隷です。ただ主に対してご覧くださいという祈りをしているわけですね。助けてくださいという祈りではないんです。自分たちが今このような状況に陥っているのは当然です。助けてくださいと言うなんておこがましい。そこまで彼らはへりくだっているわけです。そのような祈りをこの回衆はしていたわけです。
荒布をつけ、断食をし、土をかぶった集まり、一日の四分の一は律法の書を朗読し、次の四分の一は主に告白をして、この告白です。自分たちが何をしてきたか。1日の4分の1といえば6時間ですね。6時間を律法の書の朗読、つまり御言葉の時間にあて、次の6時間を、自分たちの罪を、自分たちの行いをとうとうと主の御前に告白してくるという、そういう12時間に及ぶ集会の日がこの7月24日だったわけです。本当に今までにない集会ですね。
主はこのイスラエルをその後顧みてくださいます。主の御前に出るときは悔い改めた心、悔いた魂、それを主は軽んじられることはありません。詩篇の51篇14節から17節。
「神よ、私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば私の舌はあなたの義を高らかに歌うでしょう。主よ、私のくちびるを開いてください。そうすれば私の口はあなたの誉れを告げるでしょう。たとい私がささげても、まことにあなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。神へのいけにえは、砕かれた魂、砕かれた悔いた心。神よ、あなたはそれをさげすまれません。」
サムエルもサウルに言いました。「主は主のみことばに聞き従うことほどに、いけにえを望まれるだろうか。見よ。聞き従うことは、雄羊のいけにえにまさり、聞き従わないことは占いの罪、背くことは、偶像崇拝の罪だ」と。いかに私たちが、かたくなになること、聞き従わないこと、それを主が嫌われるか。いかに私たちが悔い改めてへりくだる心を主は喜ばれるか、はっきりしております。
皆さんの祈りは主に聞かれたいでしょうか。それであるならば、まず砕かれた心、悔いた魂に戻ることです。自分の主義主張を捨てること。なんだか今日、ここに講壇に立つのは1日で3回目なんですけど、また同じことを言ってるなって思うかもしれません。同じことを言っておりますので、主は悔い改める者のそばに侍かれます。砕かれた心を主は軽んじられません。
どうか皆さんは、聞き従う心、また自らの行いをよく点検して、主がひどいことをしたことを数えるよりも、私たちが主にひどいことをしたことを数えて、それら一つ一つを主の御前に告白して、祈るのであれば、主はその祈りを喜んでくださいます。
ちなみに私に消しゴムを投げたその人はとても苦しい状況に、今どういう状況になっていますか、なってるのかわからないんですけども、その人と電話したのがもう10年くらい前だったかな。かなり仕事の面で苦しくて転職をしたんですけど、その転職先でも苦しい目にあっているようです。ある女性と同棲を始めて家に来て、それで私は聖書にこう書いてありますよということを伝えたんですけども、その後、彼がどうなっているかわかりません。願うことなら、主に立ち返っていればいいなと思っております。
しかし、私たちは主の民は主に聞き従う生活をしていれば、主はその人の人生を高くしてくださり、そして祝福の方へと導いてくださいます。どうか皆さんは主に聞き従い、主に対してもしひどいことをしてきたことが、とか思い出して、それを告白して、そして主に柔軟になって、主に信頼して、そして祝福のうちを歩んでいく。そのような皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
ネヘミア記9章の祈りは、お願いが一切ない画期的な祈りであり、主がどのようなお方であるか、主がどれほどの恵みを与えてくださったか、それに対して私たちがどれほどひどいことを返してきたかを告白する祈りである。私たちは願い事ばかりを並べるのではなく、自分の罪を告白し、へりくだった心で主の御前に出る必要がある。主は砕かれた心、悔いた魂を軽んじられることはない。主に聞き従う生活をする者を、主は祝福の道へと導いてくださる。
