メッセージ - 二組の夫婦(ルカ1:26-38、マタイ1:18-25)礼拝メッセージ音声
クリスマスが近づくと世間は華やいで来るが、クリスマスの主人公についてはあまり知られておらず、救い主の誕生の次第も、主が目を留められるのも、クリスマスイメージのようなキラキラと輝いたものではない。
主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ、、、読めば簡単に流してしまうこの一文には、マリヤとヨセフの言語を絶する記憶と日々が含まれているのだ。
この夫婦を見る前に、彼らと対照的な夫婦であるアダムとエバを見てみたい。
エバは御言葉よりも感覚を優先し、目に良く、肉に良く、賢くしそうな禁断の実を取って食べたばかりでなく、夫にも与えて堕落させた。アダムは御言葉よりも妻の言葉を優先し、堕落へ引きずり込まれ、後には「エバのせいで」と、妻を攻め、突き放つ発言をした。
人類最初の夫婦はこのようにして人類に罪と死を導入してしまったが、救い主を生み出し永遠のいのちを人類に導入した夫婦はどうであったか。
ある日突然マリヤに御使いが現れ、身篭って永遠の王を生むという事を告げ知らされる。(ルカ1:26-38)
彼女は貧しいながらでもささやかな幸せが約束されている身であったはずであったが、結婚前の乙女が身篭る事には当然周りの追及があるだろうし、何より夫ヨセフがどう反応するか、大いに懸念された。
しかし彼女は、御使いとやりとりする僅かな時間の間に、大胆な決心をし、「おことばのとおりになるように」と言って神のことばを受け入れ、世間の目も生活も明らかに苦しくなるであろう道を、あえて選んだ。
「ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。(マタイ1:19)」
知らぬ間に身篭った婚約者である。公に離縁すれば、周囲は当然同意するであろうし、既に払った花嫁代は返済してもらい、別の女性と結婚をやり直す事もできたろうが、彼が選んだのは、ひそかな離縁だった。
律法に従えば、結婚前に姦淫を犯した女は石打、それを免れたとしても、マリヤは姦淫による子持ちの女として、再婚も叶わない苦しい人生を送っていかなくてはならない。
ヨセフは彼女を愛したが故に苦しんだが、真実であろうとしたが故に、ひそかな離縁を選択したのだ。
そんな思い悩んでいる所へ、御使いが夢に現れ、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:20,21)と告げられる。
ヨセフは主が仰せられたが故に、言葉どおりに彼女を迎え入れ、ユダヤ社会から「結婚前に身篭った夫婦」と後ろ指をさされる冷ややかな一生をあえて選び、主の約束された救い主を育てる栄誉を勝ち取った。
彼は真実に基づく愛をフル稼働し、忍耐し、情け深く、妬まず、自分の利益を求めず主の約束を望み、耐えたため、主イエスの養父という、古今東西唯一の栄誉を任せられたのである。(1コリント13:4-7)
アダムとエバが守り通せなかった御言葉を守り通し、判断を目・肉・暮らし向きの欲求には置かず、御言葉に委ね、そうしてマリヤは従順によって救い主を宿し、ヨセフは愛と真実によってマリヤと救い主を守った。
マリヤもヨセフも立派であったが、神はなぜよりによって、貧しく目立たないこの二人を選んだのか。
「私達の聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」(イザヤ53:1)
救い主のおとずれを、王宮や神殿にではなく、異国の占星術師や夜番をしている羊飼いに示し、主が旅先の馬小屋で産まれた、その事が、神は何を選び、大事にされるのか、という価値基準を示している。
人が目に留めないもの、人に尊重されないもの、見過ごしてしまうようなつまらないものにさえ、主は目を留め、養って下さる。
マリヤが喜び歌ったように(ルカ1:46-55)、救い主を宿し、育み、どの時代の人々もしあわせだと思うような皆さんでありますように、主イエスの名によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2010