メッセージ - 律法の意義(出エジプト記20:12-17)
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前回までは十戒の各戒めについて一つ一つ見てきたが、今回は、律法の意義について学びたい。
神は十の戒めを与えたが、人間はそれを守り通す事は出来ず、エデンにおいてはたった一つの戒めさえ守る事が出来なかった。
人は、律法という神の基準に到達する事が出来ない。
ある金持ちの青年は、イエス様から「もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」と言われた時、十戒を示されたが、彼は「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」と答えた。
しかし、イエス様が彼に提示した神の基準は、はるかに厳しいものだった。(マタイ19:16-26)
『イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。』(マタイ19:21-22)
イエス様は、他にも神の基準を示したが、それらはとても人には到達できない内容であった。(マタイ5:21-48)
果たして、救われる人はいるのだろうか。
『弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。』(マタイ19:25-26)
イエス様の答えは、救いは、人には達成し得ない。しかし、神にはなんでもできる、という事だった。
イエス様は、金持ちの青年に最初に言っていた。
「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。」
私達の救いは、「よい方」にかかっている。
では、律法とはいったい何か。
律法とは、キリストが来られる時まで、違犯を明らかにするために付け加えられたもの、と書いてある。(ガラテヤ3:19)
『律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。』(ローマ7:7-8)
パウロが律法を知らなかった間は、彼の内に罪という意識は無かったが、「むさぼってはならない」という律法を聞いた時、彼の内の「むさぼり」という欲求がサーチライトのように照らし出され、彼の内に「罪」という違反がある事が、明らかにされたのである。
まず律法の性質のその一は、人の内に、罪という違反がある、という事を明らかにするものである。
『それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。』(ガラテヤ3:21-22)
ここで、「万一」と仮定法が使われているからには、律法は、人を生かす事はできない。律法は逆に、人々を罪の支配下に閉じ込めた。
律法の性質その二は、律法は、人にいのちを与える事はできない、という事である。
そこで人には第三者からの救い、律法を成就して下さる「よい方」への渇望が生まれるのである。
『こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。』(ガラテヤ3:24-26)
律法の性質その三は、律法は、キリストへと導く養育係である。
キリストという本体が現れ、私達がキリストを信じる信仰によって救われた以上、もはや私達は律法という養育係の元にいるものではない。
だからといって律法は、好き好んで破ったりしてよいものではない。
『すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法は確立するのである。』(ローマ3:31)
イエス様も言われた。
『わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。』(マタイ5:17-19)
それ故、旧約律法のうち、最も小さいものさえ破る事を人には勧めないほうが良い。
『あなたは隣人について、偽証してはならない。』と書いてある以上、「嘘も方便」と言って、兄弟姉妹に嘘をつく事を勧めるキリスト者は、天国で「小さき者」と呼ばれてしまうのである。
だから、例えば人を救うために嘘をつかなければならなかった、というような場合でも、後でちゃんと主に悔い改めるべきである。
主の戒めを守る人は、主の愛の内にとどまり、主の愛の内に守られるのである。(ヨハネ15:7-10)
「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」(1ヨハネ5:3)
愛する男性から「毎朝わたしのために味噌汁を作ってほしい」と言われたなら、「味噌汁を作る」という、いわゆる”戒め”は、難しいものではなく、むしろ喜びであるように、私達も主を愛するなら、その愛する主から来た”戒め”は、むしろ喜びとなるはずである。
そして主の戒めを守る人は主から守られ、主から愛されるのである。
救いにおいて大切なのは、「よい事」ではなく「よいお方」、律法を成就してくださったお方を信じ、このお方と一つとなる事が大事である。