メッセージ - 礼拝の際は人間的なものは排除せよ(出エジプト記20:18-26)
礼拝の際は人間的なものは排除せよ(出エジプト記20:18-26)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2013-1-15 23:52
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『民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。彼らはモーセに言った、「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」。』(出エジプト記20:18-19)
民は、主の圧倒的なあらわれを見て恐れ、主が直接語られないようにと願った。
モーセは「恐れてはいけません」と語ったのに、それでも民は遠く離れて立ち、主の御前に行こうとはしなかった。
信仰の偉人たちも、主の圧倒的な臨在に触れた時は恐れ、死を覚悟したが、この民とは違い、主の「恐れてはならない」という御声によって力づけられ、御前に出て行った。
モーセも主の臨在の深みへと入って行ったが、民は結局、主が直接語られる事を拒み、主の御前に行かなかった。
真実を嫌う人、偽りを好む人は、主の御前に立つ事や、主が直接御言葉を語られる事を、極度に恐れる。
そして、牧師やモーセのような、目に見える人間を神の代理人とし、取り次いでもらおうとする。
この民は後に、モーセに不平不満をぶちまけ、石で打とうとし、代わりに自分達をエジプトへ戻してくれる新しい指導者を立てようとさえした。
神が立てて下さった権威に逆らう者は皆、たとい主のあらわれを体験したとしてもすぐに忘れてしまい、目の前の自分の欲求を満たすことにのみ、思いが一杯なのである。
主の圧倒的なあらわれを見た彼らが、主を裏切るような事をするのは信じられない、と思うかもしれない。
しかし、驚くべき事に、彼らは裏切ったのだ。主も、驚かれた。(イザヤ59:16)
そして、私達も幾度、主の良くして下さったわざを、裏切をもって報いてきたことだろう。
私達の罪深さは驚くべきものであり、それを越えて、主の憐れみはなお驚くべきものである。
『あなたがたはわたしと並べて、何をも造ってはならない。銀の神々も、金の神々も、あなたがたのために、造ってはならない。あなたはわたしのために土の祭壇を築き、その上にあなたの燔祭、酬恩祭、羊、牛をささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨んで、あなたを祝福するであろう。あなたがもしわたしに石の祭壇を造るならば、切り石で築いてはならない。あなたがもし、のみをそれに当てるならば、それをけがすからである。』(出エジプト記20:23)
私達は主に対し、人間的な何かを当てはめてはならない。
主を礼拝する際は、徹底的に、人間的なわざを排除する事を、主は要求される。
人間の手で作った偶像はもっての他であり、そして、礼拝を捧げる祭壇も、シンプルに、土や天然石だけで築く事を要求されている。
異国の神々の祭壇は、職人によって精巧な造作を施され、豪華絢爛なものだが、それに対し主の祭壇は、シンプルに過ぎる。
それは、人が祭壇に特別な思いを抱くべきではなく、あるいは人の作った造作や職人技に思いを馳せるべきでもなく、真実に主に集中して礼拝を捧げる事を要求されるからである。
主は、繰り返し言葉だけの心ない祈りや、悔い改めの無い断食、外見だけ着飾って内面を改めない礼拝を、忌み嫌われるお方だ。
私達が福音を伝える時も、岩なるキリストを、身勝手な細工を施してはならない。
キリストはキリストのまま、御言葉は御言葉のままに伝えるのが、本来である。