メッセージ - 奴隷に関するおきて(出エジプト記21:1-11)
礼拝説教メッセージ音声:奴隷に関するおきて(出エジプト記21:1-11):右クリックで保存
今回の箇所は、ヘブル人の奴隷を買う場合のおきてである。
人の世には罪があり、他人の罪に巻き込まれてしまったり、親が事業で失敗してしまうなど、どうしようもない理由によって、奴隷として売られてしまう、というような事は、起きうる事である。
奴隷というと、人を金で売り買いし、買った奴隷は人扱いせず生涯こき使うような、黒い、憎むべき制度としてのイメージがあるが、聖書は、奴隷になってしまった人への救済措置や人権保証をしっかり与えており、奴隷歴史の黒いイメージは、むしろ、聖書から離れた人間の罪と欲望の渦によって生まれたものなのだ。
『あなたがヘブルびとである奴隷を買う時は、六年のあいだ仕えさせ、七年目には無償で自由の身として去らせなければならない。』(出エジプト記21:2)
まず、奴隷は7年という期限付きであり、7年が満ちた時は失業して路頭に迷うような事がないようにと、主はわざわざ以下のように命じている。
『もしあなたの兄弟であるヘブルの男、またはヘブルの女が、あなたのところに売られてきて、六年仕えたならば、第七年には彼に自由を与えて去らせなければならない。彼に自由を与えて去らせる時は、から手で去らせてはならない。群れと、打ち場と、酒ぶねのうちから取って、惜しみなく彼に与えなければならない。すなわちあなたの神、主があなたを恵まれたように、彼に与えなければならない。』(申命記15:12-14)
奴隷から独立したら、家族ともども路頭に迷う事なく、しっかり身を立てて行けるように、奴隷の主人は配慮せよ、というのが主の御心である。
それならば、現代日本の雇用状況は、聖書の「奴隷」より非道い状態である事が分かる。
現代日本では、非正規雇用の人達は手に職を持てず、一ヶ月やっと暮らせる程の給料のまま30,40代になってもマイホームも子供も持てないような状況に陥りやすいが、それは主の御心を大いに反している。
『彼に自由を与えて去らせる時には、快く去らせなければならない。彼が六年間、賃銀を取る雇人の二倍あなたに仕えて働いたからである。あなたがそうするならば、あなたの神、主はあなたが行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。』(申命記15:18)
聖書には確かに奴隷制度が出てくるが、それはむしろ雇用関係のようなものだ。
奴隷が女性である場合、女性の社会的立場は男性よりも弱いため、男性よりも厚遇の度合いが大きい。
『もし人がその娘を女奴隷として売るならば、その娘は男奴隷が去るように去ってはならない。彼女がもし彼女を自分のものと定めた主人の気にいらない時は、その主人は彼女が、あがなわれることを、これに許さなければならない。彼はこれを欺いたのであるから、これを他国の民に売る権利はない。』(出エジプト記21:7)
「彼女が、あがなわれることを、これに許さなければならない。」とは、例えば解雇しても路頭に迷わぬようにしっかり保証してやれ、という事である。
女性の奴隷であっても、しっかり人格的な扱いするよう主は命じておられる。
『彼がもし彼女を自分の子のものと定めるならば、これを娘のように扱わなければならない。彼が、たとい、ほかに女をめとることがあっても、前の女に食物と衣服を与えることと、その夫婦の道とを絶えさせてはならない。彼がもしこの三つを行わないならば、彼女は金を償わずに去ることができる。』(出エジプト記21:9)
ここを見ると、女奴隷の扱いは、あたかも「妻」や「娘」と同じ扱いである。
人間の奴隷制度には血も涙も無いイメージだが、主が奴隷について定められた事は、男奴隷は主人と雇用関係のよう、女奴隷は、妻や娘と同じようである。
どんな人間も、神の御前に平等で、貧富の差や能力の差は、主の御前では関係ない。
富も成功も主から来るもの、富んでいる人はたまたまその時、主から多くを預けられているに過ぎず、持っていない人も、たまたまその時、主に低くされているに過ぎない。(1サムエル2章)
たとえ自分の息子や娘さえ、自分の所有物ではなく、全てのいのちは主のものである。
主は、どんな状況にある人に対しても、憐れみ深い。
それ故私達も、この時主から多くを与えられているなら、少なく与えられている人に憐れみをほどこすべきである。
そうして主の体全体が憐れみに満ちあふれ、全体がますます富むものとなって行くのである。
『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。・・・
今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった。」と書いてあるとおりです。』(2コリント8:9-15)