メッセージ - 主の御前で(出エジプト記24:9-18)
礼拝説教メッセージ音声:主の御前で(出エジプト記24:9-18):右クリックで保存
血のそそぎを受けたアロンと長老七十人も、ともに主の御前に出る事ができるようになった。
『そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。』(出エジプト記24:10-11)
イスラエルの神が現れる様は、恐ろしいもので、サファイアの輝きのような主の栄光は、エゼキエル1章や黙示録でも同じ記述がされている。
主の現れを見たイザヤやエゼキエルは恐れ、ダニエルやヨハネは、そのあまりに「聖なる」様に、倒れて死人のようになっている。
しかし、主の御前出た長老七十人は、大丈夫だった。しかも、神を見て飲み食いしたというのだ。
なぜか?
それは、「血の注ぎかけ」を受けていたからである。
私達も、イエスの血によって、大胆に恵みの御座に近づく事が出来たのだ。
それにしても、なぜ御前で「飲み食い」なのか?
血の注ぎを受け、罪赦された人に待っているのは、さばきや恐ろしさではなく、ほふられた動物を共に食す宴会が用意されているのだ。放蕩から帰って来た息子のように。
私達がいただけるごちそうとは、キリストの裂かれたからだである。
『わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。』(1コリント10:16-18)
私達はなにかと、サファイアの輝きのような主の栄光を見たがるものだが、しるしや不思議を見れば良いというものではないし、主の奇跡と祝福が毎日あれば良いというものでもない。
山のふもとで待っていた民は、四十日四十夜、山の上で燃える火のように見える主の臨在をそばで見ていながら、別の神々を作ってしまった。
なぜそんな、有り得ないことをするのか、と思うだろうか。しかし人間の「慣れ」は、怖いものである。
主の祝福が続き、物持ちとなり、安全が続いたダビデも、罪を犯してしまった。
私達は祝福が続いた時こそ、心して、私達の内に潜む怠慢に気をつけるべきである。
『ときに主はモーセに言われた、「山に登り、わたしの所にきて、そこにいなさい。彼らを教えるために、わたしが律法と戒めとを書きしるした石の板をあなたに授けるであろう」。そこでモーセは従者ヨシュアと共に立ちあがり、モーセは神の山に登った。彼は長老たちに言った、「わたしたちがあなたがたの所に帰って来るまで、ここで待っていなさい。見よ、アロンとホルとが、あなたがたと共にいるから、事ある者は、だれでも彼らの所へ行きなさい」。』(出エジプト記24:12-14)
ここで主は、律法と戒めを書き記した石の板を授けるために、モーセひとりを山へ呼び出される。
ヨシュアはモーセの従者(「シャーラス」英語でミニスターやアテンドと訳されている)として、いつもモーセのそばで仕えており、彼だけがモーセが山を降りるまで忠実に待っていた。
そして長老たちには、モーセが山で主と会っている不在の間、重要な案件はアロンとフルに持っていくよう託し、こうしてモーセは山に登っていった。
この時、モーセは「いつまで」山に留まるとは言わなかった。それは、主が言わなかったからであり、モーセも知らなかったからだ。
後でわかるが、モーセがあまりに山で手間取るので民は待ちきれなくなり、アロンとフルも、そんな正しく民を導く事はできなかった。
モーセがいつ山を降りてくるかを知っていたなら、おそらく民もアロンも持ちこたえただろう。しかし、人の内に隠れた信仰が明らかとされるために、神は敢えて「いつまで」を言わないものである。
主は必ず、再び来られる。しかし、その日その時はいつになるか、分からない。
不忠実だったイスラエルの民のように、主人の帰りは遅いと思ってどんちゃん騒ぎしたり、酔ったり、おなじ仲間を打ち叩いたりしてはならない。
主がいつ来ても大丈夫なように、忠実なしもべとして霊的に目を覚ましているべきであり、いつでも迎え出られるよう、聖霊の油を常に用意しておくべきなのだ。
『こうしてモーセは山に登ったが、雲は山をおおっていた。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日のあいだ、山をおおっていたが、七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光は山の頂で、燃える火のようにイスラエルの人々の目に見えたが、モーセは雲の中にはいって、山に登った。そしてモーセは四十日四十夜、山にいた。』(出エジプト記24:15-18)
主が現れるまで、モーセは六日感待たされ、民は四十日待たされたわけである。
私達は何かと、今日明日にでもインスタントに導きを欲しがるが、忍耐して待ち望む事が必要なのだ。
それは、私達の内に秘められた信仰がためされ、真実が露わにされるためである。
出エジプトの民はその日その時を待てず身勝手に神々を作り、サウル王も人々からのプレッシャーにその日を待てず、自分勝手な礼拝を捧げてしまった
それに対し、忠実にその時を待ったヨシュアは、約束の地を継ぐ事ができた。
私達に必要な姿勢は、ヨシュアのように、ミニスターとして、アテンドとして仕える姿勢であり、主人の帰りが遅くなっても、いつ来ても大丈夫なように準備して霊的に目をさましている事なのだ。