メッセージ - 義人の血(マタイ23:29-36)국어예배 礼拝説教メッセージ音声
礼拝説教メッセージ音声:義人の血(マタイ23:29-36)국어예배 (右クリックで保存)
血は叫ぶ。(創世記4:10、黙示録6:10)
血を流した下手人達に対しては災いと滅びの叫びであり、義人達に対しては弁護し義とする叫びである。
アベルからゼカリヤに至るまで流されてきた多くの義人達の血は、その時代イエスを殺した者達の上に降りかかり(マタイ23:36)、イエスの名のゆえに流された血は、終わりの時代にその血を流した者達に飲まされる。
定められた枡に達するまで、悪人は血を流し続け、義人はその義の行いを満たし続けるのである。
ファリサイ人たちは「蛇」「蝮の末」と呼ばれたが、実はイエス様が公になる以前、バプテスマのヨハネにも言われている。(マタイ3:7-10)
彼らは立派で敬虔な身なりであるが、蝮の末だと見抜かれてしまったのは「回心にふさわしい実」(3:8)を結んでいないからである。
ここの「実」は単数形であり、その単数形の実とはイエスキリストの事である。
ガラテヤ5:22において霊の実が9つの現れとして出てくるが、5:22における実も単数形であり、キリストという単数形の実が9つの表れとして出てくる。
(ちなみに黙示録22:2における12種の実を生らせるいのちの木も、定冠詞つきで複数形ではない。)
キリストに在れば良き実を結び、キリストに無ければ実を結ぶことは出来ない。
まむしの末は、礼拝や聖会などの公な時間よりも、むしろその後の時間に馬脚を現す。
教会や礼拝の場においていくら敬虔ぶっていても、礼拝後の交わりなどにおいて党派心、分裂分派、妬みなどを吹き込むような者は、キリストに在る兄弟姉妹とは言えない。
キリストの血は、キリストに無い者達にとっては災いと恐怖のしるしであるが、キリストに在る者達には守りと弁護のしるしである。
我々を訴え不利に陥れようとする者に対して、またそのような状況に対して、イエスの血を振り掛けるべきである。