メッセージ - 不従順を焼きつくす火(レビ記10:1-11)
礼拝説教メッセージ音声:不従順を焼きつくす火(レビ記10:1-11):右クリックで保存
『さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。』(レビ記10:1-2)
前回は、「主がモーセに命じられたとおり」に祭司が行った結果、主が捧げものを受け入れる火が降り、全ての民はそれを見て力づけられたが、今回は、主が命じられなかった事を祭司が行ってしまった結果、その祭司を焼きつくす火が降り、全ての民はそれを見て、主の峻厳なる「聖」を恐れた。
なぜこのような事が起こってしまったのだろうか。
この出来事が起こった直後の9節に、「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。」と、唐突に「酒」についての命令が出てくるため、もしかすると、彼等は酒を飲み、酔った状態で主に近づいてしまったのかもしれない。
また、16章の1-2節によると、このふたりは、主の栄光が現れる贖罪蓋のある所、すなわち、年に一度大祭司が血を携えてしか入れない至聖所に、むやみに入ったようであり、そこで主の命じられていない異なる火を、身勝手にも捧げてしまったのかもしれない。
酒の故の事件や事故はよくニュースで聞くが、酒を飲むと、あらゆる事において気がゆるくなり、失敗をしてしまいがちである。
こないだの火柱すごかったな、たしか、捧げものには香がなんとかと言ってたぞ、俺たちもやってみよう、皆きっとびっくりするぞ、それで俺たちの格も上がるだろう、などと、酒を飲むと、してはならない領分を犯してしまうものだ。
『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。』(ガラテヤ6:7-8)
彼らは、自分の考えで、身勝手な流儀で、主が命じられていない事を行い、自分の「肉」にまいて滅びを刈り取ってしまったのだ。
しかし、主をおそれ、主に命じられた事を正しく行う人には、前章でのように、主は栄光の形で現れて下さる。
『その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。』(レビ記10:3)
主は、人がどのように行なったとしても、栄光をお受けになられるお方である。
人が主を軽んじ、御言葉を侮るなら、その者がどのような災いに遭うかによって、人々は主の栄光を見る事になる。
また、主を敬い、主を信頼する人には、その人が主から助けを得、祝福を受ける事で、主はそれによっても栄光をお受けになる。
『モーセはアロンの叔父ウジエルの子ミシヤエルとエルザパンとを呼び寄せて彼らに言った、「近寄って、あなたがたの兄弟たちを聖所の前から、宿営の外に運び出しなさい」。彼らは近寄って、彼らをその服のまま宿営の外に運び出し、モーセの言ったようにした。』(レビ記10:4-5)
2つの遺体は、服のまま運びだされた。
という事は、主の火によって焼かれたのは、彼らの体だけで、油注がれ聖別された祭司服は、焼けていなかったようである。
主はそこまで、ピンポイントに、災いにあうべき者と、そうでないものとを区別される。
『モーセはまたアロンおよびその子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。あなたがたが死ぬことのないため、また主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないためである。ただし、あなたがたの兄弟イスラエルの全家は、主が火をもって焼き滅ぼしたもうたことを嘆いてもよい。また、あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入口から外へ出てはならない。あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」。彼らはモーセの言葉のとおりにした。』(レビ記10:6-7)
髪の毛を乱したり、衣服を裂くのは、イスラエルにおける悲しみの表現だが、なんと、アロンにとっての子供達が、また、エレアザルやイタマルにとってはお兄さんが、あれだけ悲惨な死に方をしたというのに、悲しみの表現をしてはならないというのだ。
その理由は、「死なないため」「主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないため」である。祭司がその任職中に、私情に走って、主の御前に誤った事をしてしまうと、その会衆全体に累が及んでしまうのだ。
主の祭司は、そこまで、私情をはさんではならないのだ。
イエス様も、ある弟子が「まず父を葬りに行かせて下さい」と言われた時、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」と、厳しい事を言われた。
それ程、人々の上に立ち、神の国のつとめをする人は、人間的な感情や私情は、降ろさねばならないのである。
牧者や教師、賛美リーダーなど、人の上に立って導く立場は、感情や私情で簡単に動いてしまうような人がやってはいけないのだ。
『「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。』(レビ記10:9-11)
清められた良心を麻痺させ、霊的な感度を鈍らせる様々な「霊的アルコール」がある。
神の国の働きをする人は、世の価値観や、世のもろもろの楽しみに耽り過ぎる事は禁物である。
それらに浸り続けると、聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの判断を、誤らせてしまうからだ。
アルコールを摂取した状態で車を運転する人への罰則は、かなり厳しくなっているが、霊的なつとめをする人は、車の運転よりもはるかに「重要ないのち」をあずかっている故、なおさら、そうしたアルコール類に気をつけるべきである。
王たるものに、酒は相応しくない。(箴言31:4)
むしろ、御霊に満たされて、詩と賛美と霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心から賛美の歌を歌うべきである。(エペソ5:18-19)