メッセージ - 栄光の家系の女達 - タマル2(創世記38:12-23)
栄光の家系の女達 - タマル2(創世記38:12-23)
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イエスキリストの系図の中で、ユダは、アブラハム、イサク、ヤコブにつぐ重要人物である。
ユダとタマル、すなわち義理の父と義理の娘との間に生まれた子から、キリストへと続く王族が生まれ出た。
一族成り立ちの初めから、人の愚かさ、罪深さで満ちているが、主の憐れみと導きは、それを遥かに超えている。主は、そんなユダの家系を、王族の家系へと整えるために、まず、家の清めから始める。
すなわち、家の中から、主に逆う者、家全体を災いへと導く事を止めない者を、まず取り除かれる。
『日がたってシュアの娘ユダの妻は死んだ。その後、ユダは喪を終って・・・』(創世記38:12)
この「喪を終って」と訳された語「nacham」は、「慰める、あわれむ」という意味がある。
また、シュアという名には「叫び」という意味があり、ユダの名には、「褒め称える、賛美する」の意味がある。
つまり、この節は、字義通りに訳すなら「”叫び”の娘は死に、その後、”賛美”は慰められた」となる。
主を褒め称えるべき人(ユダ)が、神の家族から離れ、叫びの娘(シュアの娘)をめとってしまうと、その家の中は、どんどん人間的な「叫び」が大きくなり、主を褒め称える口は、かき消されてしまう。
どんな人であれ、家族の死は、痛く悲しいものがある。しかし、家の中から「叫びの娘」が除かれ、主に逆らう人達が取り除かれるなら、後々、主をほめたたえる家の将来は、慰めを受けるのだ。
ユダはその後、ティムナに上り、自分の羊の毛を切る者のところへ行った。タマルはそれを聞くと、やもめの服を脱ぎ捨て、遊女の格好をし、ユダが通りそうな道の傍らに座った。それは、シェラが成人したのに、ユダは約束どおりに行わず、自分がその妻にされないのを知ったからである。(創世記38:13-14)
タマルのこの行動は、理解し難い。ユダと出会えるか分からないし、出会っても遊女として買ってくれるか分からないし、買ってくれても身篭るかも分からないし、いずれにしても、悪い結果以外が想像できない。
一体どうして彼女はそのような行動に出たのか。
タマルは、自分の夫達が主の怒りを買い、主に打たれて死んだのを、二度も、生々しく見ている。
ユダと共におられる主に逆らう事が、いかに恐ろしいか。人間の好き嫌いや、良し悪し判断を優先させ、アブラハムの子孫を生まない事が、いかに災いを招くか。それを、身をもって、二度も体験している。
今、ユダは自分に子を産ませないようにしているが、それはオナンと同じ罪、「生んで増える」という主のいのちの祝福に逆らう罪であり、このままでは、どんな恐ろしい災いが主から降されるか、分からない。
それで彼女は、一見愚かで、確立のとても低い、そして、命がけの、大胆な行動に出たのかもしれない。
ユダは、遊女の格好をしたタマルを見ると、まんまと引っ掛かり、「遊女を買うため」の交渉を始める。
タマルは報酬の抵当として、ユダに「印と紐と、つえ」を要求したが、なんと、ユダはそれらを彼女に預け、そして彼女の所にはいった。(創世記38:17-18) ユダが遊女の報酬の抵当として預けた3つの品々は、いずれも、持ち主本人を特定できるもので、むやみに他人に手渡してはならぬ貴重品の類である。
まず「印」は、指輪のように指にはめられる「印鑑」で、その人そのものを表明するしるしである。
「紐」は聖書の他の箇所を見ると、飾りや服、エポデなどを固定させるためのもので、持ち主の特徴が出る。
そして「つえ(matteh)」は、杖や棒の意味のほか、旗ざお、権標、部族という意味まである。
つまり、これらは、一族の支配と権威の象徴である。そんなに大切なものを、ユダはなんと、遊女と寝るための抵当として、預けてしまったのだ。中身はタマルではあっても、ユダにとっては「異邦の遊女」である。
主を褒め讃えるはずのユダは、異邦人の価値観に染まり切り、神の民としてのアイデンティティが地に堕ちてしまったのが伺える。しかし主は、そんなユダを、懲らしめのむちによって、地の底から救い出して下さる。
ユダがやった事も、タマルがやった事も、カナン人の女も、息子たちも、いや、人類は皆、する事は、主の御前に最低である。しかし、いのちの主は、全ての人間の罪と死を、いのちの中へと飲み込んで下さる。
人は罪深く、どうしようもない事しか出来ない。しかし、そのどうしようもない「人」の子孫から、神の子キリストは人として宿り、罪こそ犯されなかったものの、人と共に生き、人としての貧しさ悲惨さを全て味わい、人の身代わりとなって死んで下さり、人としてよみがえって下さったのである。
人間の罪に汚れた有様の中に、主の憐れみ、主の良きご性質だけが、ただひときわ際立つ。