メッセージ - 部族ごとの数(民数記1:20-46)
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『そしてイスラエルの人々のうち、その父祖の家にしたがって数えられた者は、すべてイスラエルのうち、戦争に出ることのできる二十歳以上の者であって、その数えられた者は合わせて六十万三千五百五十人であった。』(民数記1:45-46)
今回の箇所は、荒野の生活の第二年目に行われた、第一回目の人口調査の結果であり、イスラエル12部族それぞれの中から、軍務につく事のできる二十歳以上の男子の数が記されている。
尚、ヤコブが産んだ子たちの内、レビとヨセフは除外され、代わりに、ヨセフの二人の子・エフライムとマナセが12部族として名を連ねている。
それは、レビ人は、全ての十分の一が与えられている代わりにゆずりの地は無く、主ご自身が、彼らのゆずりだからである。(民数記18:20-21)
また、ヨセフの二人の子は、ルベンやシメオンのようにヤコブの直属の子とされたからである。(創世記48:5-6)
講解説教を創世記から順番に、一昨年からから続けているが、当初、イスラエル民族は、年をとって死んだも同然のアブラハムたった一人だった。
そのアブラハムが100歳の時、イサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれ、そして、ヤコブから12部族の父祖たちが生まれ、創世記の終わりにごろには、七十名にまで増えた。
それから四百三十年経った時は、男子だけで六十万を超えるまでになった。
主がアブラハムに与えられた約束、あなたの子孫を空の星のように、海辺の砂のように増し加える、という約束を、主はまさしく成就して下さった。
主は、約束の確かさを知らしめるために、数えなさい、と言われたのだろう。
主が、与えられた恵みを数えなさい、と言われた時には、数え、主がどんなに祝福して下さったかを喜び、感謝すべきであり、誇るべきではない。
そこまで祝福して下さったのは主であって、自分の何かによるものではないからだ。
ダビデはイスラエルの軍団の数を数えたが、主はこのことを悪と見なされ、イスラエルを撃たれた。(1歴代誌21章)
それは、この「数えたい」という願いは主からのものではなく、サタンからのもので(第1歴代誌21:1)、その動機が、主が祝福して下さった恵みを数えて主を褒め讃えるためではなく、自分に属するもののステータスを知りたいと、自分の栄光を誇るためであったからだ。
主は確かに祝福して下さる。しかし、その祝福が主からのものであり、主が祝福して下さった子孫や金銀、権威などが主のものである事を忘れ、身勝手に自分のものとして数えるのは、罪である。
最初の調査からおよそ40年後、イスラエルの民がいよいよカナンに入ろうとしている時、主は、二度目の人口調査を命じられたが(民数記26章)、その時の数も、最初の時と同じ、六十万台であった。
数としてはあまり増減していないが、その中身は、がらりと入れ替わっている。
民数記1章の時点で、二十歳以上だった人は六十万以上いたが、40年経った後にはなんと、わずか二人しか残っていなかった。
神に属する軍団に登録されたからといって、その全員が、約束の地に自動的に入れるわけではない。この事は、現代を生きる私達への警告である事は、以前学んだ通りである。
民の数を見てみると、最初の時点で既に民族の数には差が出ているし、二回目の人口調査の数値と比べると、増加した部族があれば減少してしまった部族もある事が分かる。
ユダ族は一回目も二回目もトップを誇り、マナセ族は最初の調査時点で最も数が少ないが、荒野の四十年におけるマナセ族の増加率は最も高く、プラス64%である。
また、シメオン族は、最初は59300人と結構多かったのに、後には37100人、マイナス63%の減少である。
シメオン族は、二回目の人口調査の直前の、ペオルの事件(民数記25章)で、長の一人であるジムリが率先して罪を持ち込んだが、部族の多くの者が主に打たれる要素を密かに育てていた故に殺されてしまったのかもしれない。
第二回目の人口調査の時の数によって、割り当て地の査定がなされた。
査定の直前まで、いかに数が多くとも、最後のほうに罪を犯すのであれば、あっという間に査定が減らされてしまう事も、ありうる。
今、私達が生きているこの世界は、永遠に受け継ぐべきものを、どれほど任せられるかという査定を受けている期間である。
だから、どんな小さな事でも忠実になり、全ての事を主に対してするかのように、心からするよう、日々、心がけたい。