メッセージ - つぶやきと災い、そして再び、つぶやき。(民数記11:1-9)

つぶやきと災い、そして再び、つぶやき。(民数記11:1-9)

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礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 民数記
執筆 : 
pastor 2013-9-2 15:55

礼拝説教メッセージ音声:つぶやきと災い、そして再び、つぶやき。(民数記11:1-9):右クリックで保存

前章までの民数記は、壮大で驚くべき内容が多かった。
しかしこの章以降、読んでいてがっかりするような、怒りや悲しみが湧いてくるような、そして、恐ろしい内容が、多くなる。

前章までは、主が命じられた事を、民は反発もなく実行していた。
主に命じられた通りに守り行った結果は、必ず、良きものであり、美しく、壮麗壮大なものである。
しかし、人が主の命じられた通りに行わず、人の好き勝手に行った結果は、必ず、悪しきものであり、それは醜く、人を気落ちさせ、怒りや悲しみをあおるものである。
そして、そのような事を改めずに押し通そうとする者の最後は、恐ろしいものである。

『さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた。そこで民はモーセにむかって叫んだ。モーセが主に祈ったので、その火はしずまった。主の火が彼らのうちに燃えあがったことによって、その所の名はタベラと呼ばれた。』(民数記11:1-3)

荒野の行進がいよいよ始まり、その様は壮麗なものだったが、それも、人々の「つぶやき」によって、台なしになってしまった。
主は人々のつぶやきを聞いて怒り、宿営の端を焼いた。
主が焼いたのは、宿営の中央ではなく、端、である。
そして、この災いで、誰かが殺されたという記録が無い事から、最小限の被害で、つぶやきを止めるようにという警告を、主は与えられたのだろう。

民はこの時、驚きあわてて、主にではなく、人間指導者モーセに願い、モーセの祈りによって、火は鎮まった。
このように、直接主に向かおうとせず、モーセや牧師のような人間霊的指導者におんぶにだっこ状態の人は、心から悔い改めるという事が難しい。
事実、この災いがあったというのに、なんとその直後、次の節で早速つぶやきを再開する。

『また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。』(民数記11:4)
エジプトを出てきたこの集団は、皆が皆、イスラエル人ではない。「多くの寄り集まりびと」が雑多に混じっていた。
彼らが真っ先に「ああ肉が食べたい」と叫び出し、それを見聞きしたイスラエル人も、情欲が掻き立てられ、連鎖反応的に、宿営の中に叫びが広がっていったのだ。

『われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。』(民数記11:5)
彼らは「ただで」と言っているが、果たしてそうだっただろうか。
彼らは奴隷として、息もつかせぬ重労働の内にエジプトに搾取され、将来も希望も一切無い状態だった所を、主が救い出して下さったというのに、その事がすっぽり抜けてしまっている。
また、彼らは具体的な野菜名を上げているが、それらはいずれも刺激があり、食欲をそそるものである。
「梅干し」と聞くと唾液が分泌するように、イスラエルの民は、この野菜名を聞いて、肉欲が刺激されたのだろう。

このような手段で聖徒をそそのかす人は、現代にも、いる。
私達はかつて、サタンの奴隷状態で、罪の結果の重労働と悪しき者の搾取の中、将来に何の望みも見いだせない所を、主によって救い出され、祝福の将来と永遠の希望が与えられた。それなのに、主が良くしてくださったそれら良き事を、すっぽり除外して、以前の肉欲の刺激そそる退廃的な生活を口に出して、なつかしむような人が。
私達はそのような者には要注意であり、彼らに耳を貸したり同意したりしてはならない。

『しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。』(民数記11:6)

しまいに彼らは、主が毎日欠かさず与えて下さっている恵みに、ケチをつけている。
サタンがエバを誘惑する時も、初めは、御言葉に疑いを持たせるような毒を小出しに混ぜ、次に肉欲をそそり、あたかも主は良いものを出し惜しみしているかのような疑いを起こさせ、そしてしまいには御言葉を全面否定し、そうしてエバを堕落へと引きずり込んだ。
サタンが人を堕落させるパターンは、そのようなものである。
私達はこのサタンの誘惑のパターンを知り、注意して回避すべきである。

『マナは、こえんどろの実のようで、色はブドラクの色のようであった。民は歩きまわって、これを集め、ひきうすでひき、または、うすでつき、かまで煮て、これをもちとした。その味は油菓子の味のようであった。』(民数記11:7)夜、宿営の露がおりるとき、マナはそれと共に降った。』(民数記11:7-9)

マナその性質は、主が日々与えて下さる恵みの性質であり、御言葉の性質であり、私達が日々必要とするものである。
それは朝の一定の時間に集めなければならなかったように、主の恵みにも拾うことの出来る時期があり、その時期が過ぎてしまうと、もう拾えなくなってしまう。
それは1週間ごとでも1ヶ月ごとでもなく、1日ごとに集めなければならない。
御言葉は朝ごとに新しく、1週間前に御言葉を得たから暫くは摂らなくて良いというものではないし、また、人の必要は日々変わるように、その人に必要な御言葉もまた、日毎に変わる。

マナには色々な料理方法があったように、御言葉も、人はそれぞれの生活、仕事、状況に応じて「料理」し、世界中の人が、それぞれの場面で、必要な霊的ないのちの養いを受けている。
きっと荒野では、あそこのお母さんが焼いたマナせんべいはとてもおいしい、という会話が、取り交わされたであろう。
同じように私達も、霊的に成長していない人には、御言葉を食べやすいように料理して養う働きも、ある程度は必要であるが、最も望ましいのは、個人個人が直接、主から御言葉をいただき、養いを得る事である。

私達はこの御言葉による養いを絶やしてはならない。
世の刺激にではなく御言葉の良さに目を留め、信仰の創始者であり完成者であるイエスキリストから目を離さぬ歩みをしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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