メッセージ - 主から与えられた「分」に応じて(民数記16:5-11)
礼拝説教メッセージ音声:主から与えられた「分」に応じて(民数記16:5-11):右クリックで保存
『やがて彼はコラと、そのすべての仲間とに言った、「あす、主は、主につくものはだれ、聖なる者はだれであるかを示して、その人をみもとに近づけられるであろう。すなわち、その選んだ人を、みもとに近づけられるであろう。それで、次のようにしなさい。コラとそのすべての仲間とは、火ざらを取り、その中に火を入れ、それに薫香を盛って、あす、主の前に出なさい。その時、主が選ばれる人は聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたこそ、分を越えている」。』(民数記16:5-7)
モーセは別に、人の上に立ちたくて、イスラエルの民を導いているわけではない。
神の山ホレブで主が現れ、一方的に選ばれ、「いやだ」と言っているのに、アロンに助けを得て行け、と言われたから、それに従っているだけなのだ。
コラは、人々から人望を集めて、政治的に上にのし上がろうとしたのに対し、モーセは、人を上に立てるのは主であり、人間ではない事を示した。
パウロも言っている。
『自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。』(2コリント10:18)
神の国の奉仕者は、主が選び任命して下さるものであり、人望を集める事に奔走して、奉仕者になってはならない。
私達も、神の御言葉を守るよりも、人間受けする事を追求する罠に陥りやすく、教会も、人を集めたいがために、御言葉とは関係の無いイベントを連発して、とんちんかんな方向へ行ってしまうケースも多々あるが、主と主の言葉から離れた所に、主の助けは無い。
大切なのは、自分で努力して何かをする事ではなく、神に選ばれキリストにあって清められた事を自覚し、与えられた神の子たる身分にしっかり留まり、神に愛された者として、与えられた奉仕を忠実に為す事である。
『ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、”キリストにあってわたしたちを選び”、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。』(エペソ1:3-5)
『モーセはまたコラに言った、「レビの子たちよ、聞きなさい。』(民数記16:8)
欽定訳を見ると、モーセは「Hear, I pray you,」と呼びかけている。
自分と同族であるケハテ族のコラに対し、父親が子を諭すように諭しているのだ。
モーセは、あなた達には素晴らしい務めが任されている、せっかく主がそのような栄誉に預からせてくださったのに、それを不足だと思うとしたら、あなた達は「分」を超えているよ、と。
その尊い立場を「不足」とし、祭司の立場をさらに求めるのか、と。(民数記16:9-11)
実際、彼らは、祭司としての責任と立場を、わきまえていない。
もしわきまえていたとしたら、神の怒りを引き起こすような、こんな恐ろしい反逆など思い浮かばないはずだ。
コラ達は、イスラエルの会衆全体が聖なる者であると言ったが、祭司に要求される「聖なる者」としての基準は、一般のイスラエルの民より、はるかに高度である。(レビ記21章 http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1497 )
大祭司アロンの一族は、至聖所のつとめを少しでも誤ったら、火で焼かれてしまうし、いかに自分の肉親が死んだとしても、神のつとめのほうを優先させなくてはならないのである。(レビ記10章 http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1440 )
祭司という名誉ある職に就くからには、それなりの重大な責任も要求されるのだ。
『わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。』(ヤコブ3:1)
私達は傲慢にならず、与えられた「分」を超えず、神が与えて下さったタラントに応じ、与えられている環境で、忠実に歩むべきである。