メッセージ - 栄光の家系の女達 – ウリヤの妻3 あなたがその人です。(2サムエル記12:1-14)
栄光の家系の女達 – ウリヤの妻3 あなたがその人です。(2サムエル記12:1-14)
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『主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった・・・。』(2サムエル12:1)
この話中の、富んだ人はダビデを、貧しい人は、ダビデによって謀殺されたヘテ人ウリヤを、よく表している。
ウリヤは元々、滅ぼされるべきカナンのヘテ人であったのに、まことの神・主を慕い求め、イスラエルの民に加えられ、その純粋な信仰と誠実な人柄の故に、そして、戦士としての有能さの故に、ダビデの三十勇士の一人に数えられ、同じ三十勇士の一人エリアムの娘、バテ・シェバという美しい妻も与えられた。
以前は暗闇の民であったのに、今は神の民とされ、与えられた恵みの日々に喜びつつ、与えられた妻と共に食べ、共に寝ていた。そうして、主と、主が立てられた権威とに忠実に仕える幸いな日々を送っていた。
しかし、その幸いな日々は、ある日突然、ダビデ王によって奪われてしまった。
ダビデはその事を隠れて行ったが、覆われているもので、露わにされないものは無い。(ルカ12:2-3)
ダビデはナタンの話を聞いて、話中の貧しい者の一頭の雌羊を取った金持ちに激しく怒り、そのような憐れみの無い者は死ぬべきだ、なおかつ、四倍にして償いをしなくてはならない、と宣告した。
確かに律法には、羊一頭を盗んだ場合は四倍にして償うべき事が記されているが、死刑とは書いていない(出エジプト記22:1)。ダビデは、この喩えが自分に向けて語られた事に気付いていなかったが、それ程に人は、自分がした事、神と人とに犯してきた罪を覚えておらず、それでいて、他人の犯した罪をよく覚えていて、その裁きを厳しくし、そうして自分自身を罪に定めてしまうのだ。(ローマ2:1)
『ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。」』(2サムエル12:7)
自分が犯した罪を明確に指摘されたダビデは、王権を乱用して闇に葬り去ろうとする事なく素直に認めた。
「私は主に罪をおかしました。」 ダビデはこの素直でシンプルな罪の告白によって、死を免れたが、この言葉にさらに色々な付け足しをして、逆に罪を増し加えた人も、多い。言葉数の多い所には罪がある。
サウルの場合は、私は主に罪をおかしました、だから私を赦して、一緒に来て礼拝を捧げささせて下さい、と、サムエルに頼んだ。それは、彼の体面を保つためだった。(1サムエル15章)
エジプトのパロも、自分は主に罪を犯した、と言ったが、すぐ後に、だからこの苦しみを取ってくれ、自分のために祝福を祈ってくれ、と続けた。でも彼は、苦しみが取り除けられたら、すぐまた心頑なにしてしまった。
私達が「自分は罪を犯した」と言う場合、どれ程の当事者意識があるだろうか。インスタントに苦しみから脱却したいから口先で言っているだけではなかろうか。もう、その罪を犯さない覚悟は、あるだろうか。
「あなたがその人です。」という言葉を聞いた時、どれ程純粋に、そのまま受け取れるだろうか。
ダビデは、ナタンに罪を指摘された時、詩篇51篇を記したが、そこで彼は、自分の罪は母の胎にいる時から本質的に存在しており、ただ、主に清めていただく事が必要だと告白し祈っている。(詩篇51:5-9)
「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても、あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(16-17節)
サウル王は、自分は罪を犯した、だから礼拝だ、いけにえだ、と言って聞かなかったが、ダビデの場合、たとえ主に捧げても、今の自分の罪ある状態では、決して受け取られない事を、わきまえていた。
自分の罪を悲しみ、悔い、もうそこには戻らないという決心を含んだ、砕かれた心を、主は受け取られる。
そうして主が赦して下さる時、私達ははじめて真に礼拝を捧げられ、主はそれを受け取って下さるのだ。
確かにダビデの罪は、主の御前に赦された。しかし、行動の結果は、必ず刈り取らなければならない。
ナタンを通して主が語られた通り、この姦淫の結果生まれた子供は死に、後には、ダビデのそばめ10人は彼の子アブシャロムによって白昼堂々と寝取られ、ダビデの家から剣が離れないと言われた通りに、ヘブロンで生まれた3人の子は剣で殺された。そしてダビデは、それらに逆らわず、甘んじて受けた。
自分の罪の故に、主からの懲らしめを受ける時、それは確かに辛い経験ではあるが、罪を隠している時よりは、心は安らかである。彼は罪を隠している時の、骨身にしみる渇きと疲れを、そして、罪を告白して主に赦していただいた時の幸いと喜びを、詩篇32篇に記している。
罪があればすぐに主に告白し、いつも御前に心安らかでいる皆さんでありますように!