メッセージ - 祭司ピネハスの性質(民数記25:6-13)
礼拝説教メッセージ音声:祭司ピネハスの性質(民数記25:6-13):右クリックで保存
今回、イスラエルが異邦の女達とみだらなことし、偶像崇拝に走ったために、2万4千人が神罰(疫病とも訳せる)によって倒れた。
イスラエル全男子の、およそ25人に一人が倒れた事になる。
なぜこの恐ろしい出来事が聖書に記されているか。
それは、現代を生きる私達への警告のためである。
『また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。・・・これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。』(1コリント10:8-11)
神様は寛大なお方だから、時代の流れに習って、性にみだらになったり、一緒に偶像を拝んだりしても許される、と思っているクリスチャンもいるが、そうだとしたら、この民数記の出来事や第一コリントの記述は、一体何のために記されているのだろう。
この事は当然、現代の私達にも関係があり、そのような事をしたら主に忌み嫌われ、災いに遭うからこそ、警告のために私達に向けて記されているのではないか。
『モーセとイスラエルの人々の全会衆とが会見の幕屋の入口で泣いていた時、彼らの目の前で、ひとりのイスラエルびとが、その兄弟たちの中に、ひとりのミデアンの女を連れてきた。』(民数記25:6)
言ってみれば、悔い改めの祈りの集会で、皆が真剣に罪を告白し祈り、主に立ち返ろうとしている最中、突然スマートフォンを出し、堂々と淫らな動画を再生しだした者が現れたようなものだろうか。
聖なる集会中に、そのような不遜な者が現れたなら、「クリスチャンならニコニコ黙って耐えている」場合ではない。
ピネハスが、祭司として手本となる行動を取っている。
『祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスはこれを見て、会衆のうちから立ち上がり、やりを手に執り、そのイスラエルの人の後を追って、奥の間に入り、そのイスラエルの人を突き、またその女の腹を突き通して、ふたりを殺した。こうして疫病がイスラエルの人々に及ぶのがやんだ。』(民数記25:7-8)
礼拝中に敢えて不快な言動をして、皆の心を御言葉から逸らすような者や、兄弟姉妹の聖なる集いに、敢えて汚れを持ち込むような者たちによって、礼拝されるべきお方が侮られ、聖徒達の礼拝への意欲が汚され、そうして、主の怒りが燃え上がるのだ。
そのような時、私達もピネハスのように毅然と立ち上がり、「御言葉の剣」によってその者を刺し貫き、聖なる場から排除し、主の怒りをなだめるべきである。
祭司というと、どちらかと言うと、力を使わず、祈り、なだめる、平和な系統の人を思い浮かべるかもしれないが、時には、御言葉の剣を取り、神の怒りを引き起こす根源を抹殺するべき時もあるのだ。
レビ人が祭司の一族となった最初の成り立ちを思い出して欲しい。
あの金の子牛事件の時、血肉に逆らってでも、主に従い通したからだった。(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1361 )
この出来事の故に、主は、ピネハスに永遠の祭司職の契約をされた。
『「祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスは自分のことのように、わたしの憤激をイスラエルの人々のうちに表わし、わたしの怒りをそのうちから取り去ったので、わたしは憤激して、イスラエルの人々を滅ぼすことをしなかった。このゆえにあなたは言いなさい、『わたしは平和の契約を彼に授ける。これは彼とその後の子孫に永遠の祭司職の契約となるであろう。彼はその神のために熱心であって、イスラエルの人々のために罪のあがないをしたからである』と」。』(民数記25:11-13)
ピネハスの子孫には、バビロン捕囚の後にイスラエルを霊的に立て直した祭司・エズラがいる。
彼も、イスラエルの中で異邦人と結婚した者達が現れた時には、ピネハスのように、毅然とした態度でつまづきとなる者を除き去った。
ピネハスやエズラ、レビ人のした事を見ると、ちょっとやり過ぎなのでは、と思うかもしれない。
しかし、御言葉を私達の常識に服従させるべきでなく、私達の思いを御言葉に服従させるべきであり、キリスト者である私達の内に入り込んでこようとする誘惑の芽には、それだけ、毅然とした態度で望まなくてはならない、という事なのだ。
『だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を”殺して”しまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。』(コロサイ3:5-6)
