メッセージ - 「所有せよ」という命令(民数記33:50-56)
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『エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの平野で、主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときは、その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、すべての石像をこぼち、すべての鋳像をこぼち、すべての高き所を破壊しなければならない。またあなたがたはその地の民を追い払って、そこに住まなければならない。わたしがその地をあなたがたの所有として与えたからである。』(民数記33:50-53)
主が直接モーセへ命じられた事は、これから入って行こうとしているカナンの先住民の徹底追放と、偶像の徹底破壊、そして、土地を所有しなければならない、という命令であった。
主が「所有せよ」と言われたからには、「少しだけで結構です」などという”謙虚”は許されない。文字通り、「所有」しなければならないのだ。
この主の命令は、ある人には野蛮に聞こえるかもしれない。
なぜ野蛮に聞こえるか。それは、罪ある人間が汚れた欲望に突き動かされ、ほしいままに殺したり奪ったりという歴史を、私達はうんざりする程聞かされてきたからだ。
しかし、主が命じられるこの戦いは、人間の汚れた破壊欲や略奪欲、支配欲などとは全く別次元のものだ。
カナンの先住民は、道徳的にも人道的にも退廃し、その悪行の数々は、主の憐れみと忍耐の目盛りを超えたため、主がイスラエルの民を用いてその悪い民を滅ぼすためである。(申命記9:3-5、創世記15:16)
主は元々、世を正しく支配し、管理する仕事を堕落する前の人間に与えられた。(創世記1:26-28、2:15)
だから人は本来、世界を正しく支配するのが、本業である。
しかし今、人が世界を正しく支配せず逆に破壊しているのは、汚れた欲望や罪の性質があるからだ。
だから主は、主に贖い出された人々であるアブラハムの子孫を起こし、彼らに正しく世を治めさせるために、カナンで罪深い習慣に染まった先住民は徹底的に排除し、不品行の汚れた行いの元となった偶像も、徹底破壊し、その土地を所有し、正しく支配しなくてはならない、と命じられたのだ。
私達の内からも、断ち切るべき以前の悪習は、徹底的に排除しなければならない。
そうして後にはじめて、神の栄光をあらわすための正しい働きが出来るのだ。
『あなたがたは、おのおの氏族ごとにくじを引き、その地を分けて嗣業としなければならない。大きい部族には多くの嗣業を与え、小さい部族には少しの嗣業を与えなければならない。そのくじの当った所がその所有となるであろう。あなたがたは父祖の部族にしたがって、それを継がなければならない。』(民数記33:54)
次に主が与えられた命令は、氏族ごとに相続地を分与する事であった。
ここでは、大きい部族には相続地は多く、少ない部族には少なく与えられ、そしてこの時に定められた境界線は、後代もずっと変わる事は無い。(申命記19:14、27:17、箴言22:28、23:10)
この永遠の分け前は、会社のボーナス査定と同じで、査定日までの実績によって左右されるものであり、査定日直前で不祥事を起こして一気に査定が下がってしまう、という事もある。
(詳細: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=1677 )
だから私達も、いつになるとも知れない、主の御元に行くその日まで、霊的に目を覚ましつつ、用心して日々を歩むべきである。
そしてまた、滅ぼすべきものは、徹底的に滅ぼすべきである。
『しかし、その地の住民をあなたがたの前から追い払わないならば、その残して置いた者はあなたがたの目にとげとなり、あなたがたの脇にいばらとなり、あなたがたの住む国において、あなたがたを悩ますであろう。また、わたしは彼らにしようと思ったとおりに、あなたがたにするであろう」。』(民数記33:55-56)
イスラエルの民は、残念ながら追い出すべき先住民を追い出さず、結局主からの災いを受ける事になってしまった。(士師記1-2章)
私達は「これを滅ぼすのはもったいない」「今じゃなくても良いのではないか」と、惜しむ性質があるが、しかし、主が「滅ぼせ」と言われたものは、今すぐにでも滅ぼすべきである。
それは、ある人にとっては、パソコンのあのデータかもしれない。
携帯のブックマークかもしれない。あるいは、汚れた欲を湧き起こす本やゲームの類かもしれない。
御前に滅ぼすべきものはすぐにでも滅ぼし、そうして、祝福をさらに受け継ぐにふさわしく整えられたならば、主はさらに「これも所有しなさい」と言って、押入れ揺すり入れして与えて下さるのである。