メッセージ - 人間の存在する理由と目的(創世記1:26-31)
人間の存在する理由と目的(創世記1:26-31)
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昨年は、イエスキリストの系図に登場する女性たちに的を絞り、どのような性質の持ち主が栄光の家系に入ったのか学んだが、今回から、男性・女性に関わらず、また、栄光の家系に入った・入れなかったに関わらず、聖書の登場人物を観察し、どういう性質の持ち主が、神の民となれるのか、なれないのか、あるいは、神の民であっても、どういう性質であるなら追い出されてしまうのかを、学んで行きたい。
この学びを始める前に、そもそも、神は何のために人間を創られたのか、人間を本来、どのような存在として創られたのか、人が歩むべき本質とは何かをまず知る必要がある。
そうするなら、聖書のあの人物はどういう性質なのか、というのを容易に理解出来るようになり、また、私達が今、人生において、正しい歩みをしているかどうかも、分かるようになるからだ。
まず、人は何のために創造されたのか。それを一言で言うなら、御子キリストのためである。
『万物は、天にあるものも地にあるものも見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。』(コロサイ1:16-17)
そして私達は、万物の創造される前から、既に、キリストにあって選ばれており、父なる神は、天にあるすべての霊的祝福をもって私達を祝福され、御前で聖く、傷のない者にしようとされ、イエス・キリストによって私たちをご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのだ。(エペソ1:3-5)
だから人間は、神抜きに、キリスト抜きに歩むなら、本質を外した、あさっての、とんちんかんな歩みである。
聖書が言う「罪」の元々の意味は、「的外れ」であり、この、本質という「的」を射た歩みをするか、的を外した歩みをするかによって、その人の人生は祝福か呪いか、生か死かの、真逆の実を刈り取る事になる。
神は人を、どのような存在として創られたのか。
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。』(創世記1:26-27)
神は元々、人を聖なる神のかたちに、似姿として創られた。だから人は聖なる歩みをすべきであり、神もまた、人に聖である事を求めておられる。(レビ記19:2)
そして、神が創造した全被造物を管理し、全生物を支配するようにと、人は創られている。
果たして人間ごときが全てを支配して良いものだろうか?という疑問が沸くかもしれない。それは、人に罪がある故であるが、神が人類を創造された当初、人は罪を知らなかった。
逆に言えば、人は罪の問題を取り扱わなければ、何事も正しく支配する事は出来ない。
神はまた、人を男と女とに創造された。男と女との関係、それはキリストと教会との関係のひな形である。
男性は、妻や子のために必要なものをもたらして養い、女性は、いのちを生み、夫が与えてくれたものを用いて、家や子供たちの面倒をみて来た。最近はどうあれ、古来より男女はそのような役割分担をして来た。
キリストと人との関係も、同じである。キリストは、私達に必要な良きものをもたらして来る主人であり、そして私達はキリストの妻として、全被造物という家全体を管理し、キリストのいのちを産んで増やし、そのいのち達や、全ての生き物を、妻が家全体のめんどうを見るように、正しく治めるのである。
そういうわけで、私達には「主人」とすべきキリストがおり、父なる神様は私達を、キリストの「妻」としての目的をもって創造された。故に私達には、キリストのいのち産んで増やし地に満ちていく役割と、また、 キリストと共に住むスイートホームであるこの世において、全被造物を、全生物を正しく治め、いのちを養い、管理する責任がある。人は、キリストを差し置いて好き勝手する存在ではないのだ。
全生物が、まだ罪なき人間によって治められ、人が完全にその目的に従って歩んでいた頃、神がそれを見られると、「はなはだ良かった」と評価された。(創世記1:31)
人が創られた目的に従って歩むなら、それは「はなはだ良い」状態であり、充実し、幸い多き人生を送れるが、神から離れ、自分の身勝手な善悪判断によって生きるなら、それは本質を外した歩みである。